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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】あの時とおなじ美しい海

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十二弾です。TOM-Fさんは、『天文部シリーズ』とうちの「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのコラボ作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『この星空の向こうに Sign05.ライラ・ハープスター』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界でただならぬ何か(?)が起こるお話。スタートしたばかりですが、既に目の離せない展開で続きが待ち遠しいです。

今回コラボで書いていただいたのは、その『エヴェレットの世界』の主役の一人でもある綾乃が案内役となって『天文部シリーズ』のもう一人のヒロインである詩織とある絵のオリジンを探してニューヨークのロングアイランドを訪れるという美しくて哀しいお話。で、最後に絵を置いていってくださったのが、うちの「郷愁の丘」でヒロインジョルジアが入り浸っている《Sunrise Diner》という大衆食堂です。

さて、お返しですが、その絵と絵を描いたケン・リィアン氏をお借りしました。TOM-Fさんに設定を教えていただいたのですが、この方は日本人でTOM-Fさんの作品に既にでてきている辛い過去を持つ男性です。従って、絵に描かれている女性は、そのお話に出てくる亡くなった女性ではないかと思いつつ、この話を書かせていただきました。

こちらで登場するのは「郷愁の丘」の前作「ファインダーの向こうに」で初登場した、ヒロイン・ジョルジアの身内です。彼女の家族は、あの強烈な兄ちゃんだけではないのですよ(笑)


【参考】
「ファインダーの向こうに」を読む「ファインダーの向こうに」を読む
あらすじと登場人物

郷愁の丘「郷愁の丘」を読む
あらすじと登場人物

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2018」について
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あの時とおなじ美しい海 - Featuring「この星空の向こうに」
——Special thanks to TOM-F-san


 キャデラックの運転手バートンがドアを開けてくれた。彼女は礼を言って降りてから、迎えにきてほしい時間を告げた。晴れ渡った空の明るい日差しが心地いい午後だった。大きな濃いサングラスを外して、彼女は《Sunrise Diner》という看板のかかったダイナーを仰いだ。

「まあ、ここだったんだわ」

 ロングビーチに来たのは本当に久しぶりだった。彼女自身がニューヨークに住んでいたのはもう十年以上前のことだったし、姉のジョルジアと会うのはいつもマンハッタンの洒落た店にしていた。

 姉の借りているアパートメントを訪れたのは、おそらく彼女がここに引っ越してからの数カ月だけだ。アレッサンドラは今とは別の意味で多忙を極めていたけれど、それでも足繁く様子を見に行かなくてはならないほど、姉のことが心配だった。当時ジョルジアは精神的に参っていて、世界からも背を向けようとしていた。それでも再び生きて行くために必死でもがいていて、アレッサンドラはそんな姉を助けたかった。

 その姉も十年以上の時を経て、ようやくトラウマとその後遺症であった世捨て人のような生活から抜け出しかけているらしい。兄からの報告ではボーイフレンドと言ってもいい人と出会ったようだ。アレッサンドラは、氣掛かりが少ないだけで、同じこのロングビーチの光景もここまで明るく見えるのかと驚いた。

 彼女は、一般にはアレッサンドラ・ダンジェロの名前で知られている。一年ほど前までは、「世界でもっとも稼ぐスーパーモデル五人のうちの一人」であったが、今年からはその称号は返上するだろう。彼女の人氣に陰りがでたからというわけではない。昨年末に三度目の結婚をした相手がドイツの名のある貴族であるためモデルとしての仕事の多くをセーブすることになったのだ。

 今の彼女は、ロサンゼルスの自宅と、ドイツにある夫の城、それにスイスのサンモリッツにある別荘の三箇所を往復する生活をしていた。その合間に慌ただしくマンハッタンに来る時はいつも兄マッテオのペントハウスに滞在する。可能な限り両親や姉のジョルジアと会う時間も作る。いつも遠く離れている彼女が、大切な家族との絆を保つために絶対に惜しまない手間だ。

 そして、愛する家族のためにはどんな小さな事でも迅速に行動に移す。それは尊敬してやまない兄から学んだことで、彼女の信念にもなっていた。そのために彼女は、見ず知らずの大衆食堂の存続の危機を回避するべくこうして出向いたのだ。

 ロングアイランドは、時々ひどいハリケーンに襲われる。そのため、州の条例でこの場所にある建物は建て替え時に、同時に地盤を高くする工事をしなくてはならない。そうすることにより最終的に、この地域全体を高台にあるような状況にするためだ。もちろん州からの助成金は出る。が、その支払いまでには長くて官僚的なやりとりと、役所との強力なコネクションが絶対的に必要だった。ハリケーンの被害者でも、復興プロジェクトでの申請のやりとりに嫌氣がさして、この地に住むのを諦めてしまった人がたくさんいた。

《Sunrise Diner》は、前回のハリケーン被害を受けたわけではなかったので、復興プロジェクトの方には申請できない。つまり緊急性の低い助成金申請だ。だが、オーナーが比較的リーズナブルな値段で購入したこのダイナーは、既にかなり老朽化が進み、手を入れないわけにはいかなくなっていた。

 地盤の工事まで含めると、彼が許容できる費用を32万ドルほど上回っているため、オーナーはむしろ店を閉めることを選びたいといいだしていた。その話を聞いて、従業員や常連たちは途方に暮れた。特に、ジョルジアが一番仲良くしているウェイトレスのキャシーは義父母の協力を得て子育てをしつつ勤めているので、マンハッタンの別の店に通うのは難しい。常連たちも仲のいいキャシーや溜まり場を失うのは嫌だった。

 アレッサンドラは、貧しい漁師の娘として生まれたので、多くの人にとって32万ドルという金額が意味するものが何かはよくわかっていた。今の彼女にとって、32万ドルは大した金額ではなかった。ずっと1000万ドルもの年収を稼ぎ続けてきたし、税金やその他の理由で簡単に出て行ってしまう金もあまりにも多かった。しかも、手許に残ったものもほとんど使い切れないほどなので、何か必要なことが身近にあれば喜んで使いたかった。

 彼女には去年まで三人の別の会社に所属する会計士が付いていた。そうしないと会計士自身による横領を防ぐことができないのだ。今回の結婚でまた一人会計士が増えることになった。ヨーロッパの財産の管理をしてもらう必要ができたからだ。彼女自身は、自分がどれだけの財産を持っているのか、一体何に投資しているのか、正確に把握することをすでに諦めていた。先日サインした新しい仕事の契約だけで、彼女と娘が贅沢しても十年くらいはなんともないくらいの金額が入ってくる。彼女の目下の悩みは、どんなに金があってもそれを使う時間がないことなのだ。

 人付き合いが苦手な姉が心地いいと感じられる数少ない場所の存続は、アレッサンドラにとっても重大な関心ごとで、解決に是非とも協力したかった。だから、さっそくオーナーに連絡を取り、面会の約束を取り付けたのだ。

 さて、そういうわけで住所を頼りにやってきた《Sunrise Diner》であるが、実際にたどり着いて彼女は驚いた。その店を知っていたからだ。正確にいうと、別の外装と他の名前だった頃このダイナーに入ったことがあった。寂れて大して魅力も特徴もない店だったが、テラス席の前に広がる光景が素晴らしくそれは今と同じだった。

 彼女の想いは十一年前に向かった。

* * *


 《Sunrise impression》って、ダイナーの名前っぽくないわね。そう思いながら、アレッサンドラは疲れて落ち込んでいることを悟られないように、ことさら背筋をのばし優雅な動作でその店の中に入った。

 海を臨む外のテラスには何組かのカップルが座っていたが、店の中には一人のアジア人の男がいるだけだった。何か食べようかと思ったけれど、この店はハズレだったのかしら。

 アレッサンドラは、この店から五分くらいのところに住む姉のジョルジアを訪ねた帰りだった。ジョルジアがロングビーチに引っ越すと聞いて、アレッサンドラはなぜそれを許したのかと兄マッテオに詰め寄った。人間不信と精神的なトラウマを引きずっている姉を一人暮らしさせるのは早すぎると思ったのだ。

 彼女は身体的特徴を原因に好きな男に拒否されてから、ショックで精神的安定を失った。対人不安と人間不信、そして、過呼吸の発作が何度か起きたため、兄マッテオが彼のペントハウスに連れて行き療養をさせていた。

「ジョルジアが自分でまた一人で暮らしたいと言ったんだ。尊重してやらないと」
「でも、また発作が起きたらどうするの」

「過呼吸の発作は、もう三ヶ月起きていないし、あのアパートメントの大家は僕の知り合いだから、何かあったらすぐに連絡してくれることになっている。彼女が心配でそばで見守りたいのは僕だって同じだけれど、例のベンジャミン・ハドソンの言うことにも一理あると思うぜ」

「ハドソンって、彼女の会社の編集者だったかしら」
「ああ、そうだ」

「あの人がなんて言ったの?」
「ジョルジアは、社会との繋がりを断つべきではないって。少しずつでもいいから、日常に戻って、世界がそれほどひどいところではないと、肌で感じない限り本当の意味では立ち直れないって」

 それはそうかもしれない。実際に、彼女は少しずつ日常に戻り、生活はできるようになっている。アレッサンドラが訪ねて行くと、得意のイタリア料理でもてなしてくれるし、ごく普通の話題にものってくる。《アルファ・フォト・プレス》に通って、素材辞典に使う静物の写真を撮っている。

 でも、彼女が元のようになることは、そんなに簡単ではないようだ。彼女は、マンハッタンの知り合いとの連絡を一切絶っていた。表情には精氣がなく、人生の楽しみや希望なども一切捨て去ってしまったようだった。泣いたり不平を言ったりしてくれれば、対処のし方もあるのだが、それすらもなかった。姉は、もう二度と傷つかなくて済むように、分厚い鎧を何重にも着込んで、世界からの刺激を遮断しているようだった。

 ジョルジアを訪ねた帰りは、とても疲弊した。彼女を救うことのできない自分が情けなかった。姉をここまで傷つけた男を憎いと思ったけれど、その男に報復をしても、たぶん何も変わらないのだ。

 それだけではない。姉を傷つけた原因は、アレッサンドラ自身にもあることを、自分で分かっていた。アレッサンドラにとってジョルジアは大好きな姉で大切な存在なのに、周りの人びとは常に二人を比較して、ジョルジアのことを「あのアレッサンドラ・ダンジェロに似ているけれど、同じではない存在」と扱った。あの男もそうだった。

 それでも、アレッサンドラもまた他の存在にはなれないのだ。彼女は、疲れていても悲しくても背筋をのばし、完璧な女神「アレッサンドラ・ダンジェロ」として前を向いて行くしかない。そう、たとえハズレのダイナーの片隅に座ることになっても。

「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」
生活に疲れたような抑揚のない声でウェイトレスが言った。
「そうね。せっかくロングアイランドに来たんだし……ロングアイランド・アイスティーをいただけるかしら」

 手持ち無沙汰になった彼女は店を見回して、アジア人の男と目が合った。どちらかというと小柄なタイプで、 白のバンドカラーシャツとデニムを着崩していた。非常に痩せて肌色もあまり良くないが、元々そういう体質なのか、それとも健康を崩しているのかはよくわからなかった。柔和な顔つきではあるが、どこかジョルジアに似た雰囲氣を纏っていた。人生を、もしくは世界を諦めてしまったような目をしている。

 男の手許に目がいった。それは小さめのスケッチブックで、彼女が入ってくるまでそこに何かを描いていたようだった。

「絵を描くのね。見ても構わないかしら?」
アレッサンドラが訊くと、男は「どうぞ」と言った。だが、立ち上がって彼女に見せに来ようとはしなかった。それで彼女は立ち上がった。極彩色のフレアスカートが広がりハイヒールの立てる音が少し大きく響く。この寂れたダイナーでは、彼女の全てが場違いに思えた。

「ああ、ここの海を描いているのね」
アレッサンドラは、その絵に感嘆した。光り輝く海面、対岸を表した優しい緑の色使い。それになんともいえない懐かしい想い。彼は頷いた。

「とても素敵だけれど、このテーブルと椅子には誰も座っていないのね。あそこにはカップルが座っているのに」
彼女は、思ったままを口にしてからしまったと思った。男は、先程よりもずっと暗い顔をして俯いていた。ジョルジアが見せる表情と同じだ。彼女もまた人物を撮ることができないままだ。それはつまり、人と向き合うことがつらいということなのだろう。

「ごめんなさい。余計なことを言ったわ」
そういうと、そのアジア人は不思議そうに彼女を見た。それから表情を和らげて首を振った。
「いや、君は正しいし、とても鋭いね。俺は……人物を描く事ができないんだ」

 アレッサンドラはウェイトレスに目で合図をして、席をアジア人の男のななめ前に移ることを報せた。そのウェイトレスは、紅茶に見えるけれど本当はラムやジンやテキーラなどでできた非常に強いカクテルを彼女の前に置いた。

 男は驚いたように彼女を見た。
「強いんだね」

 アレッサンドラは笑った。
「そうよ。私はお酒に強いの。それだけでなく『図太いボールド』の。あなたは、姉と一緒ね。芸術家はみな『繊細フラジール』だわ」
「『勇敢なボールド』の対義語は『意氣地なしのミーク』だろう。そして、その形容は俺にはぴったりだ」

「私はそうは思わないわ。本当に『おとなしいミーク』な人は、そのことを氣に病んだりしないものよ。自嘲は、何かを変えたいと思う自分の中の抵抗だわ。私もよくするからわかるの」
「君が? どういう人か知らないけれど、自信に満ちていてなんでも持っているように見えるよ」

 アレッサンドラは面食らった。彼女はまだ二十一歳だったが、既に超有名人だった。自分のことを知らない若い男に会ったのは久しぶりだった。それにしても男の評価は確かだった。彼女は自信に満ちているし、結婚と子供を除けば、必要だと思うもののほぼ全てを手にしていた。

「そうね。でも、自嘲するだけでなく、実際に何かを変える努力をして来たのよ。これからもそうするつもりだわ」

 男はふっと笑った。
「そう言い切れる君がうらやましいな。だが、どんなに努力しても、決して変えることのできない事もあるんだ」

 アレッサンドラは、じっと男を見つめた。ジョルジアのことを考えた。彼女も努力を惜しんだわけではない。彼女にはどうする事もできない理由で、心に傷を受ける事になったのだ。

「わかるわ。でも、だからこそ、誰もが自分にできることで前に進んで行くしかないんじゃないかしら。そして、周りの人間は、本人がそうやって進んで行くのを見守るしかないんだわ」
 
* * *


 アレッサンドラは、十一年前と同じように背筋をのばし、ドアをあけて《Sunrise Diner》へと入って行った。

「いらっしゃいませ……。あ! あなたは、ミズ・ダンジェロ! はじめまして。ジョルジアとお待ち合わせですか」
「あなたがキャシー・ウィリアムズさんね。はじめまして、アレッサンドラと呼んでね。ジョルジアじゃなくて、この店のオーナーに連絡したの。少し早くついたみたいね。せっかくだからロングアイランド・アイスティーを再びいただこうかしら」

 キャシーは不思議そうに首を傾げた。
「私のいない時に、もうここにいらっしゃいました?」
「ええ。でも、ずっと昔のことよ。前のお店の時ね」

 キャシーは笑った。彼女がカクテルを用意している間に、アレッサンドラは店を見回した。ただ援助をすると言っても、オーナーも簡単に32万ドルは受け取れないだろう。だとしたら、ここにある何かを買い取る形にしたほうがいい。でも、大衆食堂って、そんなに価値のありそうなもの、何もないのよね。

 ふと、カウンターの奥にピンで一枚の絵が刺さっているのが目に留まった。
「あの絵……」

 キャシーは不思議そうに見た。
「この絵のこと?」

 それは、あの時にあのアジア人が描いていた絵に見えた。
「ええ。まあ、あの人完成させたのね。いいえ、違うわ、きっと描き直したのね。女の人が描いてあるから」
「この絵を描いた人、知っているんですか?!」
キャシーは、絵を外してカウンターに持ってきた。

「ええ。間違いないと思うわ。あの時に見た鮮烈な印象そのまま……いいえ、でも、全てのタッチが少し優しくなっているわね。この人のこと、とても大切に想いながら描いたのね」

「これ、あなたを描いたわけじゃないんですか?」
キャシーが訊くと、アレッサンドラは笑った。

「まさか。でも、このロングアイランド・アイスティーだけは、あの時私が飲んでいたもののことを思い出しながら描いたんじゃないかしら。この女の人は、きっとあの時に言っていた描くことのできなかった人よ。彼もまた、ジョルジアと同じように、ゆっくりと前に歩いたのね」

 アレッサンドラは、微笑みながら心に決めた。この絵を買うことにしよう。そして、こんなピンなんかじゃなくて、ちゃんとした額縁に収めて、このダイナーのもっと目立つところに飾ってもらおう。

 彼女は、自分の思いつきに満足して、オーナーの到着を待ちながらロングアイランド・アイスティーを飲んだ。


(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】恋のゆくえは大混戦

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十一弾です。ダメ子さんは、昨年の「scriviamo!」で展開させていただい「後輩ちゃん」の話の続き作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

ダメ子さんのマンガ 『バレンタイン翌日』

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

昨年、キャラの一人チャラくんに片想いを続けているのに相変わらず想いの伝わらない「後輩ちゃん」の話を、名前をつけたりして勝手に膨らませていただいたところ、その話を掘り下げてくださいました。そして、今年はその翌日の話でを描いてくださいました。

今年はついに「後輩ちゃん」(アーちゃん)の顔が明らかになり、可愛いことも判明しました。なのにチャラくんは誤解したまま別の女の子(つーちゃん)にちょっかい出したりしています。

というわけでさらにその続き。今年メインでお借りしたのは、チャラくんではありません。見かけによらず(失礼!)情報通だしリア充なあの方ですよ。


【参考】
昨年私が書いた「今年こそは〜バレンタイン大作戦」
昨年ダメ子さんの描いてくださった「チョコレート」

「scriviamo! 2018」について
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恋のゆくえは大混戦 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 まったく、どういうこと?! あんなにけなげなアーちゃんの前で、よりにもよって付き添いの私に迫るなんて。だからチャラチャラした男の人って!

 何年も思いつめてようやくチョコを手渡せたバレンタインデーの翌日、アーちゃんは恥ずかしいからと部活に行くのを嫌がった。仕方ないので再び付き添って体育館の近くまで一緒に行ったところ、チャラ先輩がやってきた。ちゃんとお礼を言ってくれたから「めでたしめでたし」かと思いきや、モテ先輩にもっと積極的に迫れなどと言い出した。それだけでなく、この私に「モテのやつに興味が無いなら、俺なんてどうよ」なんて囁いたのだ。

「はあ。モテ先輩との仲を取り持とうとするなんて、遠回しの断わりだよね。彼女にしてもらえるなんて、そんな大それた事は思っていなかったけれど、ショックだなあ。つーちゃん、私、帰るね」
アーちゃんは、ポイントのずれたことを言いながら帰ってしまった。

 ってことは、モテ先輩の話が出た時点で泣きながら自分の世界に入ってしまって、あの問題発言は耳にしなかったってことかな。だったら、よかった。だって、こんな事で友情にヒビが入ったら嫌だもの。

 どうもチャラ先輩とアーちゃんは、お互いに話が噛み合っていないような氣がする。もちろん私の知った事じゃないけれど、またアーちゃんの前でチャラ先輩が変なことを言い出さないように、ここでちゃんと釘を刺しておくべきかもしれない。

 私は、一度離れた体育館の方へまた戻ることにした。バスケ部の練習時間にはまだ早いのか、練習している人影はない。あれ、どこに行っちゃったんだろう。

「あれ。君は、昨日の」
その声に振り向くと、別の先輩が立っていた。モテ先輩やチャラ先輩と同じクラスで、わりと仲のいい人だ。昨日も、アーちゃんがチョコをチャラ先輩に渡した時に一緒にいた。

「あ。こんにちは。さっき、チャラ先輩がここにいたんですけれど、えーと……」
「チャラのやつは、今すれ違ったけれど、今日の練習はなくなったからって帰っちゃったよ。急用なら連絡しようか」

 いや、そこまでしてもらうほどの用じゃないし、呼び出したりしたらさらに変な誤解されそう。困ったな。
「そういうわけじゃないんですけれど……。あの、昨日のアーちゃんのチョコレートの件、チャラ先輩、なんか誤解していませんでした?」

 先輩は、無言で少し考えてから言った。
「モテにあげるつもりのチョコだと思っていたようだね。あいつ、あの子がしょっちゅう見ていたのに氣がついていないみたいだし」

 知ってんなら、ちゃんと指摘してよ! 私は心の中で叫んだが、まあ、仕方ないだろう。アーちゃんのグダグダした告白方法がまずいんだし。

「あの子、カードにチャラ先輩へって書かなかったんですね」
「書いていなかったね。やっぱりチャラへのチョコだったんだ」

「先輩は、アーちゃんがチャラ先輩に憧れている事をご存知だったんですね」
「俺? まあね、なんとなく。確証はなかったけど」
「まったく、中学も同じだというのにチャラ先輩ったらどうして氣づいてあげないのかしら」
「あー、なんでかね」

 暖簾に腕押しな人だな。この人づてに、チャラ先輩に余計なちょっかいを出して私たちの友情に水をささないで的なお願いしたらと思ったけど……う~ん、なんかもっとやっかいなことになるかも?

「君は、バスケ部じゃないよね。あの子のためにまた来たの?」
先輩は訊いた。いや、一人で来たわけじゃないんですけれど!
「さっき、アーちゃんと来たんですけれど、チャラ先輩が思い切り誤解した発言をして、彼女泣いて帰っちゃいました」

 先輩は、「へえ」と言ってから、じゃあ何の用でお前はここにいるんだと訊きたそうな目をした。
「俺ももう帰るんだけど、よかったらその辺まで一緒に行く?」

 私は、このまま黙って帰ると更に誤解の連鎖が広がるような嫌な感じがしたので、もうこの先輩にちゃんと話をしちゃえと思った。
「じゃあ、そこまで」

 それから、私はその先輩としばらく歩きながら、お互いに名乗った。その人はムツリ先輩ということがわかった。

 駅までの道は商店街になっていて、ワゴンではチョコレートが半額になって売られていた。あ、あれは美味しいんだよなー。
「すみません、ちょっと待っていただけますか。あれ、ちょっと見過ごせないです」
「あ、あれはうまいよね。半額かあ。俺も買おっかな」

 ムツリ先輩もあのチョコが好きだったらしい。チョコなら昨日たくさんもらったんじゃないですかって訊くべきなのかもしれないけれど、地雷だったらまずいからその話題はやめておこう。

「バレンタインデーは、私には関係ないんですけれど、この祭りが終わった後の特典は見逃せないんですよね。でも、こういうのって傍から見たらイタいのかしら」

 そういいながらレジに向かおうとすると、まったく同じものを買おうとしていたムツリ先輩が言った。
「だったら、俺がこれを君にプレゼントするから、君がそっちを俺にくれるってのはどう?」

 私は、思わず笑った。確かに虚しくはないけれど、自分で買っているのと同じじゃない。
「じゃあ、これをどうぞ。一日遅れでしかも半額セールですけれど」
「で、これが一ヶ月早いホワイトデー? おなじもので、しかも半額だけど」

 バレンタインデーも、この程度のノリなら楽なのに。私は、アーちゃんの毎年の大騒ぎのことを思ってため息が出た。あ、チャラ先輩の話もしておかなくちゃ。

 私がチャラ先輩にはまったく興味が無いだけでなく、アーちゃんとの友情が大事なので変な方向に話が行くと困るということもそれとなく話した。ムツリ先輩は「あはは」と笑った。あはは、じゃなくて!

「まあ、じゃ、チャラにはあのチョコの事は、それとなく言っておく。その、君の事も……適当に彼氏がいるとか言っておけばいい?」
ムツリ先輩は、ちらっとこちらを見ながら訊いた。

 私は必死に手を振った。
「やめてください。私に彼氏だなんて! 私は逸般人いっぱんじんですから」
「え? 一般人?」

「あー、わかりませんよね。腐女子って言えばわかりますか? それも、生もの、つまり実在する人物を題材にした作品を愛好しているんです」
「ええっ。じゃ、モテとか?」

「やめてください。そういう身近なところでは萌えません。M・ウォルシュとかA・ベッカーとか知っていますか。ドイツやロシアのモデルなんですけれど。実在するのが信じられないほど美しい人たちなんですよ」
ムツリ先輩は思いっきり首を振った。やっぱり。まあ、知らなくて当然よね。

「というわけで、チャラ先輩にはうまくいっておいてくださいいね。あ、チョコ買ってくださってありがとうございました」

 私はそう言って、角を曲がるときにおじぎをしてムツリ先輩を振り返った。

 先輩は手を振って去って行った。ちょっと、恥を忍んでカミングアウトしたのに、なんで無反応なの?! ムツリ先輩って、あっさりしすぎていない? っていうか、私、今までそんなこと氣にした事なかったのにな。

 私は、ムツリ先輩と交換した半額セールのチョコを、大切に鞄にしまって家路を急いだ。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

野性動物のいる生活

今日は田舎暮らしの話です。写真は、Wikimedia Commonsのものを。

RedDeerStag
By derivative work: Massimo Catarinella (talk) Red_deer_stag.jpg: Mehmet Karatay (Red_deer_stag.jpg) [CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0) or CC BY-SA 3.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons

私は東京育ちなので、身近に野性動物はそれほどいなかったのですよ。まあ、鳥はいましたけれど、いわゆる動物は野良猫と、たまにドブネズミを見かけるくらいでしたっけ。

で、こちらに来てからは、さすがに田舎ですから、野性動物がものすごく身近にいるのですよ。狐、リス、ノスリ、鷹、ハリネズミ、イタチ、フクロウ、キツツキ、ヤマネ。この辺りは、東京でいう野良猫レベルでその辺に出没します。

謎の足跡

この足跡は先日見かけた謎の動物のもの。雪の朝の楽しみは、こうした動物の足跡を自宅で見かけたりすること。こんなところにいるのですね。

ここまで近くには寄ってこないのですけれど、冬によく見かけるのがカモシカと鹿です。

先日、会社の飲み会の後で、私は素面だったので割と近くに住む社長を自宅まで届けたのです。その村は鹿の通り道で有名らしく「ここは氣をつけて」といわれたのですが、帰りに本当に遭遇しました。目の前をいきなり横切ったんです。

いやー、鹿って、本当に大きいんですよ。立派な角もあるせいで、普段見慣れている馬が可愛く見えるほどの巨大さ。こちらの安全もありますけれど、鹿を殺したりするのは寝覚めが悪そうでいやですし、それに轢いたらそのまま立ち去ることはできないのでいつ帰れるかわかりません。夜中にそれは嫌です。二メートルも離れていないところに飛び出されましたが、警戒していたのでスピードが出ておらず、ちゃんと停まれました。いやはや肝を冷やしました。

と、こんなこともありますが、通勤途中にカモシカの群れと目があったりするのはなかなか嬉しいものです。それに、我が家はとても静かな一角で、夜中はフクロウの鳴き声しかしないなんてこともあるのですよ。そういうわけで田舎暮らしがかなり好きな私です。

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Posted by 八少女 夕

【小説】赤い糸

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第十弾です。夢月亭清修さんは、手紙をモチーフにした作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

夢月亭清修さんの掌編小説 『次の私へ』

清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。現在連載中の「移動城塞都市と涙の運河」も、とても面白い冒険譚ですよ!

今回書いてくださった小説は、「郷愁の丘」で多用している書簡形式にインスパイアされて手紙になっています。この手紙を料理しろと仰せなんですけれど、あのですね……。いったいどうしろと。

「こんなの簡単じゃん」と思われる方は、ぜひトライしていただきたいと思います。色々とわからないだけではなく、制約も多いし、どうやって続けていいのか、のたうちまわりましたよ。

お返しは、悩んだ末、まじめに「中二病テイスト」で書くことにしました。いや、ふざけて返そうと思ったんですけれど、そこはかとなく清修さんから「ちゃんとそれっぽく書け」というオーラが発せられているように思ったんです。ですから、こうなりました。ちょっと拾えていない部分もあるかもしれませんが、これが限界でした。これでも三度書き直したんですから。しくしく。


注意・まず先に清修さんのところでお題となっている作品を読んでください。読まないと、下の作品は意味不明です。

行けなかった方はこちら(クリックで開閉)

『次の私へ――』

 この手紙を発見した君は、きっとすごく驚いていることでしょう。それと同時に、この文面に対する激しい既視感と、ある予感を感じているはずです。
 私もそうでした。過去からの手紙こそが心の奥底に眠る記憶と、そして力の、最後の鍵。
 この手紙を読み終える頃には、君も私のように、固い覚悟が決まるはずです。

 世界と、君と、そして誰よりも、愛する彼の為に。

 これまでの人生には苦労が多かったことでしょう。様々な戦いの夢にうなされる夜が過ぎる度に、君は誰にも言えない苦しみを抱えることになりましたね。
 鮮明で、まるで痛みすら現実へ持ち帰るような夢は、君に眠ることへの恐怖さえ植え付けたかもしれません。
 時には漏れ出した力が周囲を傷つけてしまい、友達が離れていってしまったことだってあると思います。
 でも、夢は夢ではなく記憶、力は大切なものを守る為のギフトです。どうか、私達のすべてを、今を生きる君の為に役立てて下さい。

 鍵をお渡しする前に少しだけ、私のことをお話しましょう。
 今、嫌な予感でいっぱいになっているだろう君の、慰めになるなら幸いです。
 君と同じように、私も、彼を愛しています。苦しい人生の中で、彼だけが灯のように光り輝いて、私を暖かく、導いてくれましたから。
 彼と共にある将来、彼と共に育む未来を夢に見て、幸せを感じたこともまた、悪夢以上に数えきれませんでした。
 結局、心の扉を開け、運命を受け入れた私にその夢は叶えられませんでしたが、でも、だからこそ、君を信じてこの手紙を書いています。

 彼もまた、私達と同じ存在なのです。
 だからきっと、いつか、いつかの私と、いつかの彼に託したい。
 そう、強く願っています。

 お願いします。彼を止めて下さい。

 願わくば、最愛の人を殺めなくてはならない悪夢に、どうか終止符を。

 武運長久をお祈りし、最後に鍵を記します。

             ――前世の君より

『月下老人 赤い糸 韋固の血に染まれり』


上の作品の著作権は夢月亭清修さんにあります。夢月亭清修さんの許可のない利用は固くお断りします。


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赤い糸
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san


 西の空には、霞んだ月が浮かんでいる。満月でもなければ半月ですらない。惨めに力を失っていく下弦の月は、骨まで染みる冷たい霧の向こうに寂しく沈んでいく。

 彼は、無事に逃げだせたのだろうか。リンは時計に目をやった。大変なことをしたのだと、胃が痛くなりそうだった。彼をそのままにしておけば、むしろ幸せなまま人生を終わらせてやれたかもしれない。逃げ出したことがわかれば、《モラレス》だけでなく連邦政府も必死で彼を追い、見つけ次第抹殺しようとするだろう。それは精子採取の終わった他の《優性種個体》たちに対する手続きとは違い、大きな苦痛を伴うはずだ。

 《優性種個体》の青年たちは二十回の採取が終わると別の施設に移される。勤めはじめの数カ月は、それが安楽死のための手続きだとは知らなかった。それを知ってからも、かわいそうだとは思っても、何かをしようとは思わなかった。連邦政府に戻るために良心など悪魔にでもくれてやるつもりだった。それなのに、なぜ彼のために私は人生を棒に振ったのだろう。彼女は訝った。

 C9861が、彼女を見る時、他の少年や青年たちとはまったく違う表情をしていた。彼らの外見は互いにとてもよく似ていた。当然だ。そうなるように純粋培養された品種なのだから。採取された精子は厳重に管理され人工受精に使われる。リンたち《中位人種ミッテルメンシュ》には絶対に手の届かない特権階級がこうやって生まれることを《モラレス》で彼女は知った。

 《モラレス》は民間企業だが、連邦政府の後ろ盾によって純血種の再生産を請け負っている。優生保護法に基づくあらゆる農産物の種の管理を委託されているのは一般にも知られているが、《優性人種ウーベルメンシュ》、つまりIDカードの認識番号の最初の文字がAからEのどれかである人々が、ここから提供される精子と卵子の人工受精によって独占的に生み出されていることはトップシークレットだ。

 この人間ブロイラーの存在を知る事になったのは、皮肉にもリンが優性ではないにもかかわらず優秀なだったからだ。

 彼女は、連邦政府で働くためにあらゆる努力をしてきた。高校まではクラスでもずば抜けて優秀で、大学での特別コースに入るための選抜試験でも、全問正解を書いた自信があった。にもかかわらず、彼女が進むことができたのは特進コースではなかった。その後も連邦政府の国法府に進むはずが、数カ月で民間企業である《モラレス》へと送られた。

 リンの認識番号はGではじまっていた。両親の結婚によって生まれた彼女は他の《中位人種》と同じように雑種なのだ。だが、少なくとも雑種にはそれなりの自由があった。もちろん特権階級にはなれないが、それでも卵子と精子を採取するためだけに存在し、品質劣化と流出を防ぐために早々に処分される存在よりはずっといい。

 彼女が配属されたセクションには、金髪碧眼のCタイプと赤毛で緑の瞳をしたDタイプの少年と青年たちがいた。C9861はその一人にすぎなかった。なのに、彼だけにリンはいつも注意を引かれた。彼も、リンが通る時にいつも振り向いた。目があって、一秒か二秒、時間が止まった。

 あの謎の手紙がどこからきたのかリンにはわからなかった。彼女のブースのデスクの中にあったのだ。どこからきたのかもわからず、具体的な事も書いていなかった。そのまま捨ててしまえばよかったのだ。それとも上司に見せて忠誠心を見せる選択もあったはずだ。

 リンがそうしなかったのは、彼の安楽死の期限が迫っていたからだ。C9861は十八回目の採取を終えていた。再来月には彼は「移される」はずだった。リン自身の手で、その手続きをしなくてはならなくなる。他の成長した《優性種個体》と同じように。

「彼もまた、私達と同じ存在なのです」
リンは、手紙のこの一文を何度も読み返した。

 手紙を彼女のブースに隠すことができたのは行方不明になったという前任者であるとしか考えられなかった。彼女の残した私物を上司の命で届ける手続きをした時、その家族の住所を控えてあった。実際に行ってみて、その地域には反政府組織のアジトがあることがわかった。そして、それから二週間がたった今、リンは落ち着かない心地でこの怪しげな部屋の中に座る事になった。

「心配のようだね」
地獄からの使者という表現がぴったりくる、皺くちゃで禍々しい顔をした老婆がヒッヒと笑った。忌々しい。この女の口車に乗せられて、私もC9861も《モラレス》と連邦政府から追われる立場になったのだ。

「本当に彼を無事に逃してくれるんでしょうね」
リンは老婆に詰め寄った。

「さあね。あんた次第だよ」
「私? 私が何かできると思っているんですか? メインシステムに侵入して彼のセクションの管理プログラムに手を加えたことは、すぐにわかってしまいます。私はもうあそこには戻れません。家族に迷惑がかかるから、実家に助けを求めることもできません。私自身が追われる立場なのに、どうやって一人で彼を助けられるというの」

 老婆はカラカラと笑った。
「一人でなんてことは言っていないさ。もちろん我々がバックアップする。だが、あのC型を本当の意味で解放することができるのは、組織の助けじゃないのさ。お前さん、あの手紙に書いてあった『鍵』の意味はわかったのかい」

 リンは首を振った。それどころか、手紙の最初から最後まで、意味がさっぱりわからなかったのだ。

「やれやれ。あそこに書いてあったのは、お前さんのご先祖が属していた民族の伝承の話じゃないか」
「なんですって?」
リンは身を乗り出した。

 老婆はやれやれと首を振った。
「その昔、いつか結ばれる男と女の足首は普通のものには見えぬ赤い糸で結ばれていて、その運命を変えることができないのだという伝説だよ。韋固というのは、そのことを信じまいとして運命の許嫁を殺そうとした男だ。最終的にはその娘と結婚することになったらしいがね」

 リンはため息をついた。
「そんな昔話がなんの役に立つのですか。まさかあなたも赤い糸の運命を信じているなんて言いだすんじゃないでしょうね」

 老婆はその狡猾そうな皺を更に深くして笑った。
「やれやれ。どうしてそうでないと言えるね。では、お前さんがわかるような言い方をしてやろう。私たちは誰でもヒト白血球抗原(HLA)複合体をもって生まれてくる。自分の細胞と不要なウィルスやバクテリアとを識別するのに必要なシステムだが、本来人間は自分とはまったく異なるHLA複合体を持つ相手を求めることがわかっているのさ」

「全く違う相手?」
「そうさ。免疫システムの多様性が増すと環境の変化に強い子孫を残すことができるんだ。連邦政府の純血種政策はその自然の摂理に楯突いているのさ」

「ということは、政府が独占しているC型の遺伝子を手に入れることがあなたたちの目的?」
「ある意味ではそうだね。だが、我らはただ『月下老人』の役割を勤めようとしているだけさ。『赤い糸』はもう勝手に動き出しているらしいからね」

「意味がまったくわからないわ」
リンは挑むように老婆を見つめた。

 老婆はカラカラと笑った。
「お前さんの細胞全てにHLA複合体が組み込まれている。お前の赤い血がもっとも遠いパターンのHLA複合体を感知するんだよ。同じような見かけをしている者の中で一人だけどういう訳か目が行く。他の人間にはわからないようないい香りがする。その相手に対して性的関心が高まる」

 リンは、ひどい居心地の悪さを感じた。そんなつもりではないのに。
「あなたは、まさか、私と彼をくっつけようとしているの?」
「くっつけようとしているのは私じゃないよ。わかっているはずだ。頭を冷やして考えてごらん。お前さんのこれまでの行動の意味を」

* * *


 C9861は、走った。外の世界は暗くて寒く、救いがあるようには全く思えなかった。それでも、もはや元の世界に戻る事はできなかった。彼に残された時間は少なく、暖かく心地良い繭の中で幸せな夢にまどろんでいる時間はなかった。

 あの女を信用していいという証拠はなかった。彼にわかっているのは、次は彼の番だということだけだった。

 彼のいた場所には、彼と似た境遇の少年たちが集まっていた。少しずつ年齢の違う少年たちは、だが、決して老いることはなかった。青年となり、周りの「大人たち」と変わらなくなると、順番にいなくなるのだ。彼よりも歳上の最後の男は一年前に去った。そのC9823は、いなくなる一ヶ月ほど前に「大人たち」の目のない時を選んで彼に話をした。その前の少年たちがやはり口頭で伝えてきたであろう情報だった。

「用が済んだら、僕たちは始末されるらしい。それが嫌ならば、ここを逃げ出すしかないが、外の世界はここほど楽ではないそうだ。それに、どうすればここから出られ、どこへ行けば助かるのかも僕は知らない。どうすればいいのかも。でも、C9798が僕に伝えたことだけは、君に言っておかなくてはならない。君も必ずそうするんだ。次の少年たちのためにね」

 C9823が去ってから、彼はずっと落ち着かなかった。前いた少年たちがどこへ行ったのか、本当に「始末」されたのかも知らなかった。だが、彼は、義務として年下の少年に彼自身も受け取った情報を伝えた。彼が、こうして逃げ出したことを知らない彼は、おそらく「C9861は始末されたのだ」と思うだろう。もしかしたらそれは事実となるかもしれない。逃走したことがわかれば、「大人たち」は彼を間違いなく「始末」するだろう。

 彼の「用が済む」という意味はなんとなくわかる。彼の体格が変わり、それまで見ることのなかった生々しい夢を見るようになってから、彼は定期的にラボトラリーへ連れて行かれ、体液を採取された。それは非常に快感を伴う作業で、決して嫌いな体験ではなかった。

 彼は、いつもあの女のことを頭に描いた。彼と見かけの違う背の低い女。漆黒の艶やかな髪と切れ長の瞳。初めて見たときから、眼が離せなかった。他の女とは違う見かけだから。そう思ったが、それだけでは説明がつかなかった。あの女の前任者も彼とはまったく違う見かけだったように思う。彼は、そちらの女には、あまり注目したことがなかった。

 あの女だけはどういうわけかすぐに顔を憶えてしまった。ラボトラリーへ彼を誘導するときに、前を歩く後ろ姿が妙に氣になった。いい香りがするように思った。だがそのことを他の少年たちに話すと、みな首を傾げた。「あの黒髪の女? 特に他と違う匂いなんかしないぞ」

 あの女が、メッセージをこっそり渡した時、彼は別の期待をした。だが、それは彼と甘い秘密を持とうという誘いではなかった。もっと切羽詰まった内容だった。処分される前に彼を逃すと。

 他の人間からのメッセージだったら、信用しなかっただろう。「大人たち」にそれを告げて、話を終わりにしたに違いない。だが、それをしたらあの女が「処分」されると思った。だから、彼は「逃げる」方を選択した。

 少なくともこれまではあの女の言った通りにことが運んだ。彼は、生まれてから一度も離れたことのない建物を抜け出し、明け方の誰も彼もが眠った街を一人走っていた。

 どこへ行くのかはわからない。だが、新しい扉が開かれて、その戸口にあの女が立っているように思った。

(初出:2018年2月 書き下ろし)

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「大道芸人たち Artistas callejeros」の読者へのおまけ

「なんだ、この話は」
ヴィルは眉を顰めた。稔は笑って謝った。
「悪い悪い、テデスコ。あんたとトカゲ女にちょいと外見を貸してもらった」

「なんだか、どこがどうというのかわかりませんけれど、ぞわぞわする話ですね」
首を傾げるレネの後ろからディスプレイを覗き込んで、蝶子は笑った。
「中二病風って言うのよ」

「なんだそれは」
ヴィルとレネにはどうも通じないらしい。

「ところで、この手紙ですけれど……」
レネは、課題の手紙をじっと眺めた。稔は訊いた。
「なんだ? 他にいい上が浮かんだ?」

「ええ。ほら。私も愛している『彼』って言ったら……」
「あ。あれか!」

「何よ」
蝶子が皿を持って入ってきた。もちろんおやつとして自分が食べるために。

「それだよ!」
稔は蝶子が異様に大きく切り取った、バウムクーヘン(Kuchenは男性名詞)を指差した。

「止まらないのよね。やめないと太っちゃうのに」
蝶子がそういうとなくなると思ったのか、レネも急いでキッチンに行き、やはり大きなひと切れを切り出してきた。稔は焦った。
「ちょっ。なくなる前に俺も!」

 キッチンに走って行くその背中を見送りながら、ヴィルは嫌な顔をした。
「本場のミュンヘンにいるのになぜわざわざ日本のバウムクーヘンを空輸して食うんだ」

「だって、こっちの方がおいしいから。止まらないんですよね」
レネが幸せそうに頬張った。蝶子も唸いた。
「まさに、『お願いです。彼を止めてください』よね。ま、いっか。また真耶に頼んで送ってもらおうっと」

 ヴィルは大きなため息をついた。

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Posted by 八少女 夕

いろいろと……

「scriviamo! 2018」も、期間の3/4過ぎて、ちょっとほっとしています。プランB(私が先に書いて、参加者の方がお返事作品などを書く参加方法)の募集は締め切りましたが、3名の方がすでにお返しを発表してくださっています。このブログ、小説が多くて、元々の記事が埋もれていますので、ここで改めて紹介させていただきますね。

私の書いた「夜のサーカスと漆黒の地底宮殿」
山西左紀さんからのお返し作品 「物書きエスの気まぐれプロット クリステラと暗黒の石2」


私の書いた「僕の少し贅沢な悩み」
たらこさんからのお返し作品「マジのプロポーズ」「マジのありえない」


私の書いた「それは、たぶん……」
ポール・ブリッツさんからのお返し「パイプ椅子とビデオモニターと」



それぞれ、私の無茶振りに素晴らしい作品で応えてくださっています。ほんとうにありがとうございます。

そして、いただきものの自慢もここでしちゃいますね。

ジョルジア by ダメ子さん
このイラストの著作権はダメ子さんにあります。無断使用は固くお断りします。

ダメ子さんが「郷愁の丘」のジョルジアを描いてくださいました。初ジョルジアなんですよ。うれしいなあ~。髪型や表情もそうなんですけれど、服装も彼女のチョイスとぴったりなんです。よく読んで下さっているなあと感心してしまいました。ありがとうございます!

姫子、マリッレ、里穂 by たらこさん
このイラストの著作権はたらこさんにあります。無断使用は固くお断りします。

そして、たらこさんは去年と今年の二人のヒロイン、そしてネコのマリッレも一緒に描いてくださいました。たしかにこの人達、男運ないです(笑) 素敵なイラスト、ありがとうございます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】君と過ごす素敵な朝

今日は「十二ヶ月の情景」二月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月以降は、みなさまからのリクエストに基づき作品を書いていきます。まだリクエスト枠が三つ残っていますので、まだの方でご希望があればこちらからぞうぞ。


月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 連載小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、ユズキさんの30000Hit記念キリ番リクエストに応募して描いていただいたイラストに合わせて書いてみました。

レネ&ヤスミン by ユズキさん
このイラストの著作権はユズキさんにあります。無断転用は固くお断りします。

お願いしたのは「大道芸人たち Artistas callejeros」の主人公の一人レネとその恋人のヤスミンです。せっかくなので、この幸せな情景は幸せな日に合わせて発表したくなりました。

短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の情景」をまとめて読む



【大道芸人たちを知らない方のために】
「大道芸人たち Artistas callejeros」は当ブログで連載している長編小説です。第一部は完結済みで、第二部のチャプター1を公開しています。興味のある方は下のリンクからどうぞ


「大道芸人たち 第一部」をはじめから読む「大道芸人たち 第一部」をはじめから読む
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
君と過ごす素敵な朝


 柔らかい光が窓から差し込むようになった。外を歩くにはまだ分厚いコートが必要だけれど、昼の長さは日に日に増えてきて、春が近づいていることを知らせてくれる。

 昨夜の狂騒が嘘のように静かな朝、いつもよりもゆったりとした時間を過ごすことができてヤスミンは嬉しかった。

 昨夜は、『肥えた火曜日マルディ・グラ』だった。ヤスミンはフランス語にはあまり造詣が深くないけれど、この言葉だけはフランス語でいうほうがしっくりくる。ましてや、彼女と一緒にその騒がしい宵を共に過ごしたレネはフランス人だ。

 今日は『灰の水曜日』。ヤスミンが子供の頃に行った教会の礼拝では、灰を信者の額につけて「人は灰から生まれて灰に帰る」と聖職者に言われた。この儀式はカトリックはどこでも、プロテスタントでもルター派などではやるらしいが、ティーンになってからは教会に全然通わなくなったヤスミンは、あまり儀式に興味はなかった。わかっていることは、キリスト教では本来、この日から復活祭前の四十日間の潔斎が始まることだ。「本来」というのは、今どき四十日間、肉をまったく口にしないドイツ人には滅多に会えないからだ。

 でも、「それだけ長い間、節制をしいられるならその前に飲んで食べて騒ごう」という趣旨で生まれた祝祭『謝肉祭ファスナハト』は、未だにしっかりと根付いていて、その最終日である昨夜は、街のあちこちでとんでもないどんちゃん騒ぎが繰り広げられたのだ。
 
 『謝肉祭ファスナハト』は、十一月に始まる。つまり、クリスマス前からだ。仮装をして社会風刺のコントや歌やバンド演奏の繰り広げられる舞台を観に行く人達がいる。ここ数週間は、あちこちで仮装したパレードがあった。沿道にはビールやグリューワインやカリーヴルストの屋台が立った。

 石畳を音を立てて歩き回り、飲んで食べて騒ぐ宵。冬の憂鬱を吹き飛ばすいつもの楽しみだけれど、今年は格別楽しかった。レネが来ていたから。

 レネは、以前よりはミュンヘンにいることが多くなったとはいえ、この時期にドイツにいることは少なかった。なんといってもドイツの冬は大道芸には厳しすぎるのだ。彼は、南フランスのブドウ農家の息子で、家業を手伝う時期以外は、仲間とヨーロッパ中を旅する生活をしている。

 レネと出会ったのは、一年ほど前だ。彼女は美容師として働く傍ら、劇団『カーター・マレーシュ』のボランティアをしていて、元団員のヴィルを父親の元から逃す協力を依頼してきた彼らと意氣投合したのだ。

 そのヴィルは結局亡くなった父親の跡を継いだので、大道芸人の仲間たち《Artistas callejeros》はミュンヘンの館に滞在することが多くなった。そういう時には、レネは必ずヤスミンの住むアウグスブルグに寄って一緒に時間を過ごしてくれる。二人が会える機会はたくさんないけれど、その分、密度の濃い実りある時間を過ごしていた。
 
 ヤスミンが目を覚ましたのは、よく通る犬の鳴き声が響いたからだ。夢の中で、彼女はそれをレネの歌声に似ていると思った。彼は大道芸やステージの時以外は、恥ずかしがって滅多に歌わないのだが、子供の時から教会の聖歌隊に加わっていたとかで、とても明るい素敵なテノールなのだ。

 起き上がって、ぼんやりと「ああ、あれはハチだ」と思った。この一週間、旅行に出かけた友人から預かっている飼い犬だ。それから、不意に思い出した。今朝はハチだけでなく、レネも一緒にいることを。あら、彼はどこ?

「しっ。静かに。ヤスミンが起きてしまうよ」
レネは、覚えたてのドイツ語で犬に語りかけていた。キッチンに入っていこうとしていたヤスミンは、彼の優しさと尻尾をふって応えるハチの愛らしさに嬉しくなって微笑んだ。
「おはよう、レネ。おはよう、ハチ」

 ハチは思い切り尻尾を振って見せたが、レネの顔もそれに劣らず喜びに満ちていた。残念ながらフランス人には振る尻尾がなかったのだが。
「おはよう。ヤスミン。すぐに朝ごはんができるよ」

「いい匂いね。朝食を作ってもらうなんてなん年ぶりかしら」
煎りたてのコーヒーと卵料理の湯氣、それに焼きたてのパンの香ばしさ。

「君の口に合うといいな。あ、コーヒーは熱いから、氣をつけて。君はブラックだったよね」
レネは二つのマグカップを持ってきた。自分の分は砂糖とミルクがたっぷり入っている。ヤスミンが不思議に思う事の一つに、レネは甘いものに目がないのだが、全く太らないのだ。どうなっているんだろう。

「あ、フォークが出てないね。ごめん、ちょっと待ってて」
そう言うレネに彼女は言った。
「フォークなんてなくて大丈夫よ。パンに挟んじゃうもの。それより冷めないうちに食べましょう」

 レネは「うん」と言ってちらっとあと一つしかない椅子を眺めた。その視線を追ってヤスミンは思わず吹き出した。いつの間にかハチが椅子に座っているのだ。

「ダメよ、ハチ。レネがいない時は、特別にそこに座ってもいけれど、今は遠慮して。そこはレネの特等席なんだから」
ヤスミンに言われて、ハチは大人しく降りた。レネは嬉しくなった。ヤスミンのホームの特等席に座れているのだ。

「ハチって、変わった名前だね」
彼は、犬を見つめた。賢しこそうな中型犬だ。

「日本の名前みたいよ。どういう意味なのかわからないけれど。飼い主は、しばらく日本で暮らしていて、去年こちらに帰ってきたの。それで、向こうで飼っていた犬と別れたくなかったから連れてきたんですって。とっても飼い主に忠実な賢い種類らしいわ」
「へえ。そうなんだ。パピヨンに意味を訊いておくよ。僕、犬は大好きなんだ。アビニヨンの両親の家でもずっと犬を飼っていたからね」

「自分で飼いたいと思う?」
ヤスミンは訊いた。
「飼えるものならね。今の生活だと難しいけれど」
彼は肩をすくめた。

「私も犬は好きよ。でも、こんな街中のアパートメントじゃダメよね。広い庭があって、犬が走り回れるような環境のところに住んでみたいなあ」

 レネの頭の中では、実家の葡萄園の広い敷地をヤスミンとハチが駆け回っている。完全なる希望的観測による光景だ。

 その妄想のために彼がしばらく黙っていたので、彼女はその間に窓際に目を移した。置かれた花瓶にピンクのチューリップの花束が活けられている。あれ? 昨日まではなかったのに、どこから来たの?
「これ、どうしたの?」

 レネは、我に返った。そして、彼女が花のことを言っているのがわかると、嬉しそうに笑った。
「さっきパンと一緒に買ってきたんだ。今日はどうしても君に贈りたかったから」

「今日?」
彼女は首をかしげた。昨夜が『肥えた火曜日マルディ・グラ』だから今日は四旬節の始まり。『灰の水曜日』に花? あっ!
「やだ。今日は二月十四日だったわ」

 ローマの時代にまでその起源を遡る恋人たちの誓いの日なのだ。ヤスミンはすっかり忘れていたけれど。
「その通り! 『聖ヴァレンタイン・デー』、おめでとう」
「ありがとう。レネ。この日にあなたといられるのって、本当にラッキーよね」

彼は、恥ずかしそうに言った。
「君に会える時は、いつも聖ヴァレンタイン・デーみたいな氣がするけれどね」

「そういう風に言ってくれるレネ、大好きよ!」
ヤスミンは、彼の頬にキスをした。

 真っ赤になっている彼をみて、ハチは「ワン!」と日本風に吠えて、尻尾を振った。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

運動音痴

冬の光景

子供の頃から、スポーツが全て苦手だった私は、今でもほとんどスポーツをしません。で、家から十五分のところにスキー場がある環境にいるのですけれど、スイスに来てから一度もスキーをしたことがありません。

こちらは学校の冬休みと春休みの間に「スポーツ休み」というのがあるくらい、ウィンタースポーツが盛んなお国柄。子供は小学校に入るぐらいからみなスイスイ。少し大きくなると大抵スノーボード。大人の初心者など滅多に見ません。加えてリフトの一日パスが高いんですよ。滑れないのに行きたいと思うような金額ではありません。

地元の人達はどうしているのかというと、好きな人はみなシーズンパスを買っているようです。家族皆でひと冬、州内のどのスキー場もフリーバスというタイプのものみたいですが、○十万らしいです。ひえ〜。

健康のためにスキーをやりたい人達は、クロスカントリーをやっているみたいです。こちらはリフトには乗らないのでタダのようです。体力的にはキツそうですけれど……。

こういう人達は、夏は自転車ででかけるのですけれど、そこら辺の丘を走り回っているわけではないですよ。アルプス山脈を登っているです。ちょっとした坂でヒーヒー言っている私には、「一緒に行こう」という氣がまったく起こらないです。

というわけで、私は「運動音痴のままでいいや」と冬も夏もインドア派です。
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Category : 思うこと

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -13- ミモザ

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日は「十二ヶ月の情景」七月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。

月刊・Stella ステルラ 8、9月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


今日の小説は、limeさんのリクエストにお応えして書きました。

舞台は、バッカス。あの面々が出演。
そして、話のどこかに「水色ネコ」を混ぜてください^^
私のあのキャラじゃなくても構いません。単に、毛色が水色の猫だったらOK。
絵だったりアニメだったり、夢だったり幻だったりw


というご要望だったのですが、水色ネコと言ったら、私の中ではあのlimeさんの「水色ネコ」なんですよ。やはりコラボしたいじゃないですか。とはいえ、お酒飲んじゃだめな年齢! っていうか、それ以前の問題もあって、コラボは超難しい!

というわけで、実際にコラボしていただいたのは、その水色ネコくんと同居しているあのお方にしました。それでも、「耳」の問題があったんですけれど、それはなんとか無理矢理ごまかさせていただきました。大手町に、猫耳の男性来たら、ちょっと騒ぎになると思ったので(笑)

limeさんの「水色ネコ」は、あちらの常連の皆様はすぐにわかると思いますが、初めての方は、待ち受け画面の脳内イメージは、これですよー。こちらへ。私が作中で「待ち受け画面」にイメージしていたイラストです。


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「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -13- ミモザ

 その客は、少し不思議な雰囲氣を醸し出していた。深緑の麻シャツをすっきりと着こなし、背筋を伸ばし綺麗な歩き方をする。折り目正しい立ち居振る舞いなので、育ちのいい人なのだと思われるが、ワッチキャップを目深に被っていて、それを取ろうとしなかった。柔らかそうな黒い前髪と後ろから見えている髪はサラサラしているし、そもそもこの時季にキャップをつけているのは暑いだろう。ワッチキャップはやはり麻混の涼しそうなものだから、季節を考慮して用意したものだろう。きっと何か理由があるのだ、たとえば手術後の医療用途といった……。

 夏木は、カウンターの奥、彼が一番馴染んだ席で、新しい客を観察していた。店主の田中は、いつものようにごく自然に「いらっしゃいませ」と言った。

 今晩は、カウンターにあまり空きがなく、夏木は言われる前に隣に置いた鞄を除けた。田中は、申し訳なさそうに眼で合図してから、その客に席を勧めた。

「ありがとうございます」
若々しい青年だった。

 その向こう側には、幾人かの常連が座っていて、手元の冊子をみながら俳句の季語について話をしていた。
「ビールや、ラムネってところまでは、言われれば、そりゃ夏の季語だなってわかるよ。でも、ほら、ここにある『ねむの花』なんていわれても、ピンとこなくてさ」
「ねむって植物か?」
「たぶんな。花って言うからには」

 タンブラーを磨いて棚に戻しながら田中は微笑んだ。
「ピンクのインクを含ませた白い刷毛のような花を咲かせるんですよ」

「へえ。田中さん、物知りだね」
「じゃあさ、この、芭蕉布ってのはなんだい?」

「さあ、それは……」
田中が首を傾げるとワッチキャップを被った青年が穏やかに答えた。
「バナナの仲間である芭蕉の繊維で作る布で、沖縄や奄美大島の名産品です」

 一同が青年に尊敬の眼差しを向けた。彼は少しはにかんで付け加えた。
「僕は、時々、和装をするので知っていただけです。涼しくて夏向けの生地なんです」

「へえ。和装ですか。風流ですね」
夏木が言うと、彼は黙って肩をすくめた。

「どうぞ」
田中が、おしぼりとメニューを手渡し、フランスパンを軽くトーストしてトマトやバジルを載せたブルスケッタを置いた。

 青年は、メニューを開けてしばらく眺めたが、困ったように夏木の方を見て訊いた。
「僕は、あまりこういうお店に来たことがなくて。どんなカクテルが美味しいんでしょうか」

 夏木は苦笑いして、『ノン・アルコール』と書かれたページを示して答えた。
「僕は、ここ専門なんで、普通のカクテルに関してはそちらの田中さんに相談した方がいいかもしれません」

 彼は、頷いた。
「僕も、飲める方とは言えませんね。あまり強くなくてバーの初心者でもある客へのおすすめはありますか」

 田中は、にっこりと笑った。
「そうですね。苦手な味、例えば甘いものは好まないとか、苦みが強いのは嫌いだとか、おっしゃっていただけますか」

「そうですね。甘いものは嫌いではないのですが、ベタベタするほど甘いものよりは、爽やかな方がいいかな。何か、先ほど話に出ていた夏の季語にちなんだドリンクはありますか?」
緑のシャツを着た青年はいたずらっ子のように微笑んだ。

 田中は頷いた。
「ミモザというカクテルがあります。そういえばミモザも七月の季語ですね。カクテルとしてはオレンジジュースとシャンパンを半々で割った飲み物です。正式には『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』というのですが、ミモザの花に色合いが似ているので、こちらの名前の方が有名です」

「おお、それは美味しそうですね。お願いします」

 ポンっという音をさせて開けた緑色の瓶から、黄金のシャンパンがフルート型のグラスに注がれる。幾千もの小さな泡が忙しく駆け回り、カウンターの光を反射して輝いた。田中は、絞りたてのカリフォルニア・オレンジのジュースをゆっくりと注ぎ、優しくステアしてオレンジスライスを飾って差し出した。

「へえ、綺麗なカクテルがあるんだねぇ」
俳句について話していた常連の一人が首を伸ばしてのぞき込んだ。

「面白いことに、本来ミモザというのはさきほど話題に出たねむの木のようなオジギソウ科の花を指す言葉だったのが、いつの間にか全く違う黄色い花を指すようになったようなんですよ。その話を聞くと、このカクテル自体もいつの間にか名前が変わったことを想起してしまいます」

「へえ、面白いね。俺も次はそれをもらおうかな」
もう一人も言った。田中は、彼にもミモザを作り、それから羨ましそうにしていた夏木にも、ノン・アルコールのスパークリングワインを使って作った。

 待っている間に、緑のシャツの青年が「失礼」と言って腰からスマートフォンを取り出した。どうやら誰かからメッセージが入ったようだ。礼儀正しく画面から眼をそらそうとした時に、待ち受け画面が眼に入ってしまった。

 水色のつなぎを着た、とても可愛い少年が身丈の半分ほどある雄鶏を抱えていた。瞳がくりくりとしていて、とても嬉しそうにこちらをのぞき込んでいる。つなぎは頭までフードですっぽりと覆うタイプなのだが、ぴょこんと耳の部分が立っていてまるで子猫のようだ。夏木は思わず微笑んだ。

 青年と目が合ってしまい、夏木は素直に謝った。
「すみません。見まいとしたんですけれど、あまりに可愛かったので、つい」

 そういうと青年はとても嬉しそうに笑った。
「いや、構いませんよ。可愛いでしょう。いたずらっ子なんですけれど、つい何でも許してしまうんです。最近メッセージを送る方法を覚えまして、時々こうして出先に連絡してくるんです」

 そういうと、また「失礼」といってから、メッセージに急いで返信した。
「一人で留守番させているんですけれど、寂しいのかな。急いで帰らないと、またいたずらするかな」

「オジギソウとミモザみたいに、混同されている植物って、まだありそうだよな」
青年の向こう側で俳句の話をしていた二人は、田中とその話題を続けていた。

「この本には月見草と待宵草も、同じマツヨイグサ属だけど、似ているので混同されるって書いてあるぞ。どちらも七月の季語だ」

「どんな花だっけ」
「ほら、ここに写真がある。なんでもない草だなあ」
「一重の花なんだな。まさに野の花だ。白いのが月見草で、待宵草は黄色いんだな。そういえば、昔そういう歌がなかったっけ」

「待~てど、暮らせ~ど、来~ぬ人を……」
「ああ、それそれ。あれ? 宵待草じゃないか」

 田中が、笑って続けた。
「竹久夢二の詩ですね。語感がいいので、あえて宵待草にしたそうですが、植物の名前としては待宵草が正しいのだそうですよ」

 その歌は、夏木も知っていた。
「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草の やるせなさ 今宵は月も 出ぬそうな」

 日暮れを待ちかねたように咲き始め、一晩ではかなく散る待宵草を、ひと夏のはかない恋をした自分に重ね合わせて作った詩だとか。

 夏木は、隣の青年がそわそわしだしたのを感じた。彼は、スマートフォンの待ち受け画面の少年を見ていた。にっこりと笑っているのに、瞳が悲しげにきらめいているように感じた。

 青年は、残りのミモザ、待宵草の色をしたカクテルを一氣に煽った。それから、田中に会計を頼むと、急いで荷物をまとめて出て行った。帰ってきた青年を、あの少年は大喜びで迎えるに違いない。

 待っている人が家にいるのっていいなあと、夏木は思いながら、もう一杯ノン・アルコールのミモザを注文した。

ミモザ(Mimosa)
標準的なレシピ
シャンパン : 1
オレンジジュース:1

作成方法: フルート型のシャンパン・グラスにシャンパンを注ぎ、オレンジ・ジュースで満たして、軽くステアする。



(初出:2018年7月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -6 - 

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第九弾です。今年もあさこさんが俳句で参加してくださいました。夏の二句です。ありがとうございます!

あさこさんの書いてくださった俳句

ストローは人待つ道具遠花火  あさこ
 
短夜の夢点々と置いて来し  あさこ


この二句の著作権はあさこさん(ココうささん)にあります。無断転載ならびに転用は固くお断りします。


あさこさんは、ココうささんというハンドルネームで、以前素晴らしい詩や俳句、揮毫を発表なさっていらっしゃいましたが、現在はブログをお持ちではありません。六年の間に交流のなくなってしまった方も多いネット上のお付き合いですが、この「scriviamo!」を通してこうしてあさこさんとおつきあいが続いていることは本当に嬉しいです。

今年寄せていただいた俳句は、夏の情景がぱあっと目の前に浮かぶ素敵な二句。私は夏生まれなので、夏にたいするノスタルジーがとても強いのです。こんなに言葉を尽くしてもうまく書き表せない私ですが、ああ、俳句って偉大だなあ……。

というわけで、一年間放置した例の二人をココうささんの俳句で動かさせていただきました。島根県松江市で和菓子職人になったイタリア人ルドヴィコと店でバイトをしている大学生怜子のストーリーです。去年の話で、婚約して怜子の卒業後も引き続き「石倉六角堂」で働くことまで決まりましたが、今回は舞台がいつもと全く違っています。


【参考】この話をご存じない方のために同シリーズへのリンクをつけておきます。
その色鮮やかなひと口を

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その色鮮やかなひと口を -6 - 
Inspired from 2 Haikus by Asako-San
——Special thanks to Kokousa san


 随分陽が高いなあと、怜子は見上げた。もう九時なのにまだ明るい。日本ではまだ梅雨が明けていないのに、一足早く夏を楽しんでいる。

 初めての海外旅行が、まさか婚約者の両親への挨拶になるとは思わなかった。イタリア語を完璧にしてから行こうと思っていたけれど、そんな事を言っていたら、永久に行けないということに氣がついた。

 こちらについてからも、ルドヴィコがネイティヴらしくなんでもやってくれるので、怜子は「ボンジョルノ(こんにちは)」と「グラツィエ(ありがとう)」くらいしか口にしていなかった。まだちゃんと答えられないけれど、でも、どんな話をしているかぐらいはなんとなくわかるようになったのだ。私ってすごい……じゃなくて、ルドヴィコの特訓がよかったってことかな。

 ここは北イタリア、トリノに近い小さな町だ。教会と、その前の広場を中心に、なんて事のないお店がいくつかあるだけ。今日は、六月二十四日、トリノ市の守護聖人サン・ジョバンニのお祭りで、日中にルドヴィコと一緒に屋台巡りなどをしたのだけれど、あまりの人手に二人とも疲れてしまったので、早々に退散して宿をとったこの町に戻ってきたのだ。

 見るもの全てが珍しかった。教会があって、石畳と石づくりの家があって、道行く人がみな外国人で、看板もメニューもみなアルファベット。お茶も、ご飯も、お蕎麦もない世界に自分がいるのが不思議だった。もっと不思議なのは、ルドヴィコがもともとこの世界に属していたということだった。

 明日は、いよいよルドヴィコの両親の住む村へ行く。氣に入ってもらえるかなあ。まともに会話もできない嫁ってありなのかな。飛行機の中でまだくよくよしている怜子にルドヴィコは言った。
「心配ありませんよ。僕は三人兄弟の末っ子ですが、二人の兄もイタリア語を話せない外国人と結婚していますから、彼らは慣れています」

 ええっ。一つの家族に三組も国際結婚があるの? 怜子は仰天した。そういえば、お兄さんたちの話はあまり訊いたことなかったな。
「お兄さん達にも会える?」
「残念ながら、今回は無理ですね。一人はシチリア、もう一人はカナダに住んでいますから」

「へえ。お母さん達、寂しがっているんじゃない? 息子が三人とも遠くで」
「そうですね。でも、もう諦めたんじゃないでしょうか。全然帰ってこないのに慣れていたので、婚約者を連れて会いに行くと言ったら驚いてとても喜んでいましたよ」

 よし、頑張ってイタリア語で話しかけるぞ! その時はそう思ったけれど、実際に着いて周りのイタリア人達の流れるようなイタリア語を聞いていたら、ちゃんと会話できる自信はまったくなくなった。まあ、いいか、努力だけ認めてもらえれば。

 それでも、馴染みの深い言葉もあった。エスプレッソ、ピッツァ、パスタ、ジェラート。あ、食べ物ばっかり。手許にある黒い缶に黄色と白い字で「レモンソーダ」と書いてある。わかりやすくて、なんだか安心する。これなら注文するときにも間違えっこないし。

 ルドヴィコが、レンタカーを受け取りに行く間、怜子は宿に備え付けのバルのテラスに座って待っていた。

 宿の太ったおばさんが「大丈夫?」という感じでこちらを氣にしてくれるので、大丈夫とジェスチャーで答えた。初めての海外だって、三十分くらい、一人でいられるよ。大ぶりのグラスに、自分で缶からレモンソーダを注ぐと、シャワシャワと音がする。缶はキンキンに冷えて汗をかいている。缶とお揃いなのか黒いストロー。日本のものより短くて太いんだね。

 怜子は、ストローをグラスの上の淵まで持ってきて、ソーダを伝わせる。透明で綺麗だな。ルドヴィコの見せてくれた光景は、彼女の想像していたイタリアとは少し違っていた。確かに人々は陽氣だけれど、別に常にハイテンションでいるわけではない。街並も赤や黄色や緑の壁がないわけではないけれど、どちらかというと落ち着いた肌色や煉瓦色で占められている。

 街の中心に教会と広場があって、人々が普通に生活している。ここはエンターテーメントの舞台ではなくて、人々が普通に生活する場なんだなと思った。

 ちょっといいなと思うのは、小脇に花を抱えて歩く帽子を被った男性や、女性と買い物をしながら当然のように重いものを持ったりドアをさっと開けてあげる男性の姿。どれもまったく嫌味なく、ごく普通の行為のようだった。

 ルドヴィコも前からそうだった。怜子に対してだけでなく、勤め先である「石倉六角堂」で石倉夫人をはじめとして女性従業員に対してとても自然にレディーファーストの振る舞いをする。見るからに外国人なので、皆そういうものだと思っているけれど、日本人男性だったら「キザな人だなあ」と感じるかもしれないと怜子は思っていた。こういうことを女の私でも思うから、日本では男性が女性に全部の荷物をもたせたまま手ぶらで歩いたりもするのかもしれないなと思った。別に男性に全部もたせたいとは思わないけれど、半分くらい持ってもらいたいこともあるものね。

 日本との違いは他にもある。例えば、日本でルドヴィコと二人で歩いていると、初めて会う人は皆少し慌てて英語で話さなくてはいけないのかとドキドキしたり、「どうして日本に来たんですか」と訊いたりする。でも、こちらでは明らかに外国人の怜子の存在に驚いたり、慌てたりする人はいない。まず発する言葉はイタリア語。つい先ほども、座っていると道を訊いてきた人がいた。どうやっても地元民には見えないはずなのに。

 見ていると、色の黒い人や、アジア人もたくさん歩いている。ここはトリノと違って観光客はそんなに来ない何もない町だから、歩いている人達はきっとここに住んでいるか仕事をしているのだろう。

 ルドヴィコとの旅は、怜子が考えていた海外旅行のあり方とも違っていた。昨日着いたばかりだけれど、ミラノにいたのに凱旋門もドゥオモも見ていないし、ショッピングもしなかった。名所の説明を聴きながらカメラのシャッターを切るような行動は何もしていなかった。

 そうではなくて、人と会って、話して、笑って、別れる。そんな旅なのだ。

 ミラノの空港には、ルドヴィコの親友ロメオとその恋人の珠理が迎えにきてくれた。この二人は、去年の梅の時期に松江にルドヴィコを訪ねてきて、その時に怜子も知り合ったのだ。

「いつか二人でミラノに遊びにきてね」
そう言われた時に、そんなことが実現するとは想像もしていなかった。それなのに、十六ヶ月経った今、怜子はルドヴィコの婚約者として再会したのだ。

 昨夜は、ロメオと珠理の住んでいるアパートメントに泊めてもらったのだが、昔ながらの建物を利用した天井の高い素敵な部屋だった。怜子が日本で馴染んでいるものよりも少し高いテーブル。どっしりとした木枠の大きな窓、年代もののオーブンや暖炉があることにも驚いた。照明デザイナーである珠理にふさわしく間接照明で構成された柔らかい明かりの部屋。まるでインテリア雑誌で見るような光景だなと思った。

 そういえば、蛍光灯は一つもなかった。ボタンひとつで水の出るトイレ、ワイヤレスの自動掃除機、電子レンジといった文明の利器もまったく見当たらなかった。トイレと簡単なシャワーのある洗面所にはボタン一つでお風呂が沸くシステムなんてない。そもそもバスタブがなかった。

 むしろ、そういうボタン一つで何かが整うシステムは無粋で必要としていないようだった。

 二人は、昼間のように明るい室内よりも、ろうそくの光で楽しむ夕べを大切にしていた。キッチンを箒で掃き一緒に掃除をしていた。三分で食事をしたいときはトマトやモツァレラとパンだけで食事をし、そうでないときはオーブンに入れた料理がじっくりと調理されるのを待つ間に色々な話をするのだと言った。

 それは、いま見ているこの町の佇まいに似ていた。特別なエンターテーメントは何もなく、観光客が押し寄せるような名所もなく、ただ、人々がゆったりと心地よく暮らしているように見える。知り合い同士が立ち寄っては、グラスワインと小さなおつまみだけを前に、おしゃべりと笑いで夏の長い一日の残りを楽しんでいる。特別なものが何もないことが、いや、敢えて持たないことが、このなんでもない町を詩的にしているようだ。

 ルドヴィコが、松江の古い民家を借りて住んでいることも、それと同じなのかもしれない。プラスチック製のものを使いたがらないこと、家では和服に着替えて墨書きをしたためたりすること、美しい日本語にこだわって話したがること、四季の移り変わりや日本の伝統を大切にして、不便さよりも筋の通った美しい暮らしを優先させること。それらが、この数日で怜子が印象づけられた物事と繋がっているように感じた。

 遠くで花火の音が聞こえ出した。トリノのお祭りで打ち上げているのだろう。まだ空が明るくて、花火大会を楽しむ感じではない。

 花火もトリノの街の観光も、怜子にとってもいつのまにか重要ではなくなっていた。だれでも知っている光景を、観光案内書と同じアングルで撮ることに時間を費やしても、ずっと拙い写真を持ち帰ることしかできない。昨日からルドヴィコと一緒にしたことは、観光案内の後追いではできない特別な経験だった。一つ一つをその場でじっくり楽しみたい。ミラノで、この町で、彼の両親の住む村で。

「怜子さん、お待たせしました」
声のした右側を見ると、ルドヴィコが歩いて来た。

「あれ。いつ来たの? 見ていたのに、全然わからなかった」
「裏側からパーキングに入りましたから」

 彼は、すっと彼女の横の席に座った。怜子が楽しそうに眺めている視界を遮らないように。とても心遣いの行き届いた人なのだと、彼女はいつも感心する。

「おや。花火がはじまりましたね」
彼が、顔をトリノの方向に向けて行った。
「うん。まだ明るいのにね。でも、ようやく暮れてきたね」
「サン・ジョバンニのお祭りは夏至祭のようなものですから。そろそろ九時半ですよ」

 もっとも日が長い季節であることに加えて、ヨーロッパではサマータイムを採用していて本来の時間から一時間ずれているので、日没がこんなに遅くなるのだ。日が暮れると急に寒くなるから、風邪を引かないようにしなくちゃ。怜子はカーディガンを着た。

「怜子さん、花火を見たかったんじゃありませんか? 車がありますから、今から行ってもいいのですよ」
ルドヴィコは、訊いた。人混みが苦手な彼のために、怜子が遠慮したのかと心配しているのだ。

「ううん。いいの。あのね。観光やお祭りみたいな特別なものじゃなくて、こうやって、なんでもない宵をのんびりと過ごすのがいいなあって、いま思っていたところだったの」

 怜子がそういうと、彼はにっこりと笑った。彼女は、この笑顔を生涯見続けるのだと嬉しくなった。これから向かう両親の住む村で、その次に見せてもらう北イタリアのどこかで、そして、日本に戻って二人の暮らす街で、一つ一つの思い出を作っていくのだと思った。

(初出:2012年2月 書き下ろし)
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

鶏を丸ごと

またしても食いしん坊な話題ですみません。

チキンのモロッコ風

みなさんは、鶏肉を買う時ホールで買うことは多いでしょうか。

私の場合、日本では、あまり意識したことがなかったし、ホールを買っても一日では食べきれなかったので、挽肉になったものを買ったり、もも肉を買ったり、胸肉を買ったり、もしくはささみを買うなど普通に部位で買っていました。

現在、私はホールで買うことが多いです。要するに丸焼き用を購入して調理するのですね。二人ですし、ごちそうとしての丸焼きを食べているわけではないのです。調理してから解体していろいろな料理に使うのです。

何故そういうことをするのかというと、理由があります。一つはそうしたほうが全体として家計に優しいから。そして、部位で売られているものをそのまま使うと、どういう訳かあまり美味しくないのですが、ホールを解体すると日本の鶏肉ほどではないですが、そこそこの味になるからです。私がホールを調理する時は、一昼夜、塩麹または塩をまぶしておき、焼色をつけてから圧力鍋で蒸すようにするのです。そうやって調理すると味がしみて、さらに柔らかくなるのですね。ついでに美味しいチキンスープもできます。

チキン解体

それを解体します。胸肉、脚、それ以外の肉に分けます。今回は脚でモロッコ風オレンジ風味の煮込みのクスクス添え、胸肉でレモンクリームソースかけ、そして、残りの肉はサンドイッチに使いました。

親子サンドイッチ

なぜ可能な限り丸ごと使うのか、もう一つ理由があります。昔は、この地域の人達は、自分で飼っている鶏の首を締めて、羽を抜いて調理していたそうですが、このご時世、骨を外すのすら面倒くさくなっていて部位だけを買いたがる人が多いようです。そして、胸肉ともも肉以外の部分が大量に余るのだそうです。

その余った部分は、発展途上国、例えばアフリカにとても安い値段で売り払われ、そのためにアフリカの養鶏農家は、ヨーロッパから入ってくる安すぎる肉のために生活を脅かされているのだそうです。

私は、自分の怠惰のために誰かの生活苦を引き起こしたくありません。だから、多少面倒でも丸ごと調理して使い切る方を選択しているのです。ただし、この解体作業、かなり美しくないです(笑)できることなら、この作業中は誰にも見られたくないですね。骨の部分を捨てる前に勿体無いのでしゃぶったりもしていますから。
関連記事 (Category: 美味しい話)
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Category : 美味しい話

Posted by 八少女 夕

【小説】とりあえず末代

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった(scriviamo!2018参加イラスト)『リュックにゃんこ』
『リュックにゃんこ』 by limeさん『リュックにゃんこ』 by limeさん
『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、このブログを定期的に訪問してくださっている方にはおなじみだと思いますが、繊細で哀しくも美しい描写の作品を発表なさっていて、各種大賞での常連受賞者でもある方です。そして、イラストもとても上手で本当に羨ましい限り。

毎年、「scriviamo!」には、イラストでご参加くださり、それも毎回、難しいんだ(笑)困っては、毎回、反則すれすれの作品でお返ししています。今年も、例に漏れず、ぱっと見には簡単そうに見えますけれど、いざ書くとなると結構難しいです。

今年は、背景を二パターンをご用意くださって、どちらも素敵で捨てがたかったので、両方使うことにしました。ちなみに、脇役は既出の人達を使っております。もちろん、知らなくてもまったく問題ありません。


【参考】
『ウィーンの森』シリーズ

「scriviamo! 2018」について
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とりあえず末代
——Special thanks to lime-san


 着替えとしてTシャツに下着、さらに洗面用具にフェイスタオルを詰めた。中学受験の季節で、僕ら在校生は金曜日が休みになったので、はじめての一人の遠出をする事にしたんだ。せっかくお小遣いも貯めたし、静岡に嫁いだ従姉妹に泊めてもらう約束もしたし、いざ二泊三日の冒険だ。問題は……。

「で。妾はどこに収めるつもりかい」
やっぱりついてくる氣、満々だったか。そうだよなあ。僕は、じっと見上げる緑の瞳を見つめた。

 一見、普通の白猫に見えるけれど、《雪のお方》は正真正銘の猫又だ。もちろん、簡単に信じてくれないのはわかる。でも、こいつは僕が生まれるどころか、とっくに死んじゃったひいじいさんが生まれる前からずっと我が家にいるし、そもそも、人間にわかる言葉でペラペラ喋る飼い猫なんていないことは、同意してくれるだろう?

 なぜこいつが我が家にいて、さらにいうと、僕にひっ付いてくるのか。証明しようがないけれど、これはどうも僕のご先祖様のせいらしい。

 幼稚園の頃、僕は同級生の家にいる普通の猫は喋れないということを知らなくて、「うちの《雪のお方》は喋れるよ」と自慢したために、しばらくありがたくない嘘つきの称号をもらった。友達の前ではただの猫のフリをしたのだ。そもそもなんで猫又が我が家にいるのか、僕は何度か質問をして、大体のことがわかるようになった。

「妾は、元禄のはじめに、この地にあった伊勢屋の伊藤源兵衛の飼い猫であったのじゃ。そして、もらわれて来たのとほぼ同じ頃に生まれた跡取りの長吉と共に育ったのじゃ。長吉は童の頃は妾をたいそう氣に入っておってな、大人になったら妾を嫁にすると申しておったのじゃ。そうこうするうちに二十年経ち、妾の尾は裂けて無事に猫又となったので、許嫁の長吉と祝言をあげるつもりでいたら、約束を反故にして松坂の商家から嫁をとるというではないか。それで妾は怒りに任せて、末代まで取り憑いてやると誓ってしまったのじゃ」
「で?」
「伊藤家はちっとも断絶しないので、妾もまだここにいるしかないのじゃ。お前の父親にも、くれぐれも嫁を取ってくれるなとあれほど頼んだのに……」

 父さんは、母さんと出会って思ったらしい。これだけ我慢したんだから、あと一代か二代くらい、我慢してもらってもいいかって。というわけで、今のところ僕は伊藤家の末代なので、《雪のお方》に取り憑かれているというわけ。

「修学旅行の時は、家で留守番していたじゃないか。どうして今回はついてくるんだよ」
「修学旅行にペットを連れて行くのは禁止であろう。わざわざ規則に違反をさせてまでついて行くほど面白そうな旅程ではなかったしな。今回はお前の初めての一人旅で面白そうではないか。お前とて困ったことがあった時に相談する相手がいる方が良いであろう」

 僕はため息をついた。まあ、いいや、話相手には事欠かないしさ。《雪のお方》は、猫ではなくて猫又なのでキャトフード等は食べない。肉や魚も本当は必要じゃない。猫又としての矜恃があるという理由で、一日に一回は油を舐める。パッキン付きで漏れないタッパーの中にプチプチで巻いた藍の染付の小皿を入れた。これは《雪のお方》の愛用品で、なんでもない醤油皿に見えるけれど一応元禄から伝わる我が家の家宝。割ったら父さんに怒られる。っていうか、《雪のお方》に祟られるんじゃないか。

 それに、小瓶にイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルを詰める。もし万が一、いい油がみつからなかったらうるさくいうに決まっているし。なぜこんな洋ものを舐めるのかって思うだろう? ヴァージンってのが氣に入ったんだって。ま、行灯の油と言われても困るけどさ。

 リュックサックの後ろのポケットを大きく開いて、《雪のお方》はそこに入ってもらうことにした。父さんと母さんは、少し心配そうに僕たちを見送った。
「本当に一人で大丈夫なの? 途中までお父さんに送ってもらう?」
「《雪のお方》、悠斗をよろしくお願いします」
「任せておけ。妾がしかと監視する故」

 猫又に監視されての一人旅かあ。まあ、いいや。僕は、初めての冒険に心踊った。
「駅まで歩くからね。なんか言いたいことがあったら、一応、猫っぽく呼んでよね」
「わかっておるわ。案じるな」

 って、日本語で言うんだもんなあ。郊外っていうのか、どちらかというとド田舎っていうべきなのか、とにかく我が家から駅までの半分以上は、道路沿いに空き地が広がっている。バスも来るけれど、一、二時間に一本だから歩いてしまった方が早い。二十分くらいだし。誰かとすれ違うこともあまりない。猫と会話している変な奴と思われる心配は少ないはず。もっとも、いつ誰が聴いているかわからないから氣をつけないと。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「さてと。そろそろ駅だ。ここからは、黙っててくれよ。それから落っこちないように、もう少しジッパー閉めるよ」
「挟んだら、化けて出るぞ」
「わかってるよ。しーっ!」

 僕は、電車を乗り継いで横浜まで行った。そこからは東海道線。リュックから覗いている子猫(本当は猫又だけど)は珍しいのか、隣に座ったおばさんがニコニコ笑って構おうとする。
「まあ、可愛い猫ちゃんねぇ。これだけ小さいということはまだ一歳になっていないかしらねぇ」

 いや、およそ三百四十歳だけど。そう答える訳にはいかないから、僕は、にっこりと笑ってごまかした。《雪のお方》は見事に子猫っぽく化けている。いつものドスの効いた物言いが信じられないくらいか弱い声で、みゃーみゃー言っている。

「本当に可愛いわね。ちょっと待って、いいものを持っているの。息子の家にもネコがいてね、行く時にはいつも玩具やおやつを持って行くのよ」
そう言いながら、ハンドバックを探って何かを取り出した。カリカリだったら激怒するんじゃないかと心配だったけれど、なんと本物タイプのおやつだった。おお、焼カツオ! すげぇ。これって猫のおやつなんだ。僕でも食べられそう。《雪のお方》は神妙な顔をしてハムハムと食べた。

「本当に可愛い猫ちゃんね。お名前は?」
「あ、えっと雪です」
《雪のお方》とは言えない。っていうか、きっと元禄時代にはただの雪だったんだと思うし。

「そう。坊やは、雪ちゃんとどこへ行くの」
「あ。静岡です。従姉妹のところに泊めてもらうことになっているんです」
「そう。この歳で一人旅ができるなんて偉いわね。氣をつけて行きなさいよ」

 おばさんは、熱海で降りて行った。僕は乗り換えて静岡へ。各駅で静岡へ行こうというひとは少ないのか、ホームはガランとしていた。《雪のお方》は小さな声で言った。
「あの鰹はなかなかであった。お前は何も食べなくていいのか。駅弁やお茶なぞも売っているではないか」
「あ、そうだね。おにぎりとお茶でも買っておこうかな」

 しゃけ入りおにぎりを一つと、お茶を買った。電車の中で食べていると、《雪のお方》が前足で催促したので、しゃけを少しだけ食べさせてあげた。

 そうこうしているうちに、僕たちは目的の小さな駅に着いた。駅からあまり離れていないところにカフェがあって、従姉妹は結婚相手とそのカフェを経営しているのだ。
「えっと。『ウィーンの森』。あれかな。こんな辺鄙な駅だとは思わなかったな」
「お前の住んでいるところと、大して変わらぬではないか」
《雪のお方》がぼそっと突っ込んだ。まあ、そうだけどさ。

 従姉妹は、僕と違って都心からここに引っ越したので、馴染めているんだとびっくりした。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「うん、間違いない。ここだ。入るからね、頼むよ」
《雪のお方》にまた猫のフリを頼んで、僕はカフェの入り口のドアを押した。

「いらっしゃいませ」
こげ茶のぱりっとしたエプロンをしている男性がいた。あ、この人が従姉妹の旦那さんかな。

「こんにちは。僕、伊藤悠斗です」
「ああ、君が悠斗くんか。よく来たね。はじめまして、僕が吉崎護だ。真美はご馳走を作るって張り切っているよ、ちょっと待ってて」

 感じのいい人でよかった。それに、かっこいい人だ、マミ姉、やったじゃん。僕は、護さんが二階にいる従姉妹を呼びに行く間にリックサックを下ろして、《雪のお方》を抱き上げた。

「いらっしゃい、悠ちゃん、迷ったりしなかった? あ、おユキ様も連れてきたのね」
マミ姉が、降りてきてまっすぐに《雪のお方》を抱き上げた。

 実は、マミ姉は《雪のお方》が猫じゃないことを知っている。そりゃそうだ。全然歳とらないいまま二十年以上この姿のままなのを、ウチに来る度に見ていたし、僕は子供の頃わかっていなかったから本当のことをペラペラ喋ってしまったんだもん。僕よりもずっと歳上で、これは喋ったらヤバいということをわかったマミ姉は、外には漏らさなかったけれど。

「おユキ様?」
護さんは、少し驚いた顔をした。まあ、子猫の名前っぽくはないよね。《雪のお方》はマミ姉の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らして見せた。さすが、元猫。たいした演技力だ。

「可愛いでしょう? まあ、静岡で会えるなんて思わなかったわ。悠ちゃんもゆっくりしていってね。今晩は、シチューにしたの。でも、その前におやつ食べたくない? 護さんご自慢のクーゲルホフとホットチョコレートのセット、食べない? 私がご馳走するわよ」

「真美、代金はいいよ。悠斗くん、荷物を上に置いておいで。おユキ様……には、ミルクでいいのかな?」
護さんは、猫としては変わっている呼び名にまだ慣れていないようだった。《雪のお方》は、子猫っぽく愛らしい仕草でミルクを飲んだ。あとでオリーブオイルをあげなくちゃ。

 再び降りてきた僕に、護さんは訊いた。
「今日はこれからまたどこかへ行くのかい? それとも冒険は明日からにして今日はこのままゆっくりする?」

 僕は、少し考えた。ここに来るだけで冒険は十分したし、この街はほとんど何もなさそうだから、ここで護さんのお店を見学するほうが面白そうだ。《雪のお方》も、ここが氣に入ったみたいだし。
「もし邪魔でなかったら、ここにいてもいいですか。皿洗いくらいします」
「それは嬉しいね。でも、先におやつをどうぞ」

 他のお客さんが入ってきて、護さんは忙しくなった。僕は、お手伝いをするために急いでおやつを食べ出した。うわ。美味しいよ、このケーキ。こんな洒落たカフェがなんでこんな田舎にあるんだろう。

 マミ姉が、バターやジャムを入れる小さいガラスのシャーレに、黒い油を入れて持ってきた。そして小さい声で言った。
「オーストリアの最高級パンプキンシードオイルよ。アンチエイジングにいいっていうから、私も取り入れているんだけれど、おユキ様の口に合うかしら」

 《雪のお方》は嬉しそうに舐めていた。ミルクの時と目の色が違う。やっぱり猫又なんだな。こうして見ていると、パンプキンシードオイルって、ちょっと行灯の油っぽくない?
 
 僕はその日の閉店まで、護さんのお店でウェイターのまねごとをして過ごした。ホイップクリームのたっぷり載ったコーヒーのように、運ぶのが大変なものもあったけれど、大きな失敗はしないで、ついでに女性のお客さんたちに「きゃー、かわいい」などと言われて悦に入っていた。

 もっとも、一番「かわいいー」と言ってもらっていたのは、文字通り猫をかぶっていた《雪のお方》だけれど。

 店じまいまでちゃんと手伝って、マミ姉の美味しいシチューで晩御飯にして、それから僕の寝室にしてくれた小部屋で布団にくるまった。小さなカゴにマミ姉がタオルを敷いてくれた簡易ベッドで《雪のお方》が寛いでいる。

「一人旅、ここまでバッチリ上手く行ったよね」
「さよう。ちゃんと手伝いもしていたし、見直したぞ。カツオをくれたご婦人への礼はもっとちゃんと言って欲しかったが、それ以外は概ね合格点をやってもいいだろう」
「あ。そうだね。言い忘れちゃった。あ、マミ姉の出してくれた油はどうだった?」
「あれは、なかなか美味であったぞ。香ばしいのじゃ。明日もまた出してくれるといいのだが」
「あ、ちゃんと頼んでおく」

 それから僕はほうっと息をついた。
「でも、マミ姉、いい人と結婚したね。ものすごく幸せそうだったね。ずっと仕事一筋だったから、まさか結婚して静岡に行くなんて思いもしなかったけれど、護さんみたいな人とずっと一緒にいられるなら思い切ってもいいよね。僕も、いつかさ……」

 それを聞いて、《雪のお方》はヒゲをピクリと震わせた。
「お前、もう結婚を夢見ているのか。まったく、伊藤家の奴等ときたら、どうして揃いも揃って……。妾は、跡取りが生まれるたびに、今度こそ末代と思っているのだが……」

 そう言いながら、《雪のお方》はあまり迷惑そうな顔はしていなかった。あまりにも長く伊藤家に取り憑きすぎて、もう半分うちの守護神みたいになってしまっているのかもしれない。

 僕は、明日も《雪のお方》をリュックに背負って、一緒にあちこちを見るのが楽しみだ。猫又に取り憑かれていない人生なんて、ちょっと考えられない。伊勢屋長吉、よくやってくれた! そんなことを考えながら、眠りについた。

(初出:2018年2月 書き下ろし)


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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】とりあえず末代

scriviamo!


「scriviamo! 2018」の第八弾です。limeさんは、今年も素敵なイラストで参加してくださいました。

limeさんの描いてくださった(scriviamo!2018参加イラスト)『リュックにゃんこ』
『リュックにゃんこ』 by limeさん『リュックにゃんこ』 by limeさん
『リュックにゃんこ』 by limeさん
このイラストの著作権はlimeさんにあります。無断使用は固くお断りいたします。

limeさんは、このブログを定期的に訪問してくださっている方にはおなじみだと思いますが、繊細で哀しくも美しい描写の作品を発表なさっていて、各種大賞での常連受賞者でもある方です。そして、イラストもとても上手で本当に羨ましい限り。

毎年、「scriviamo!」には、イラストでご参加くださり、それも毎回、難しいんだ(笑)困っては、毎回、反則すれすれの作品でお返ししています。今年も、例に漏れず、ぱっと見には簡単そうに見えますけれど、いざ書くとなると結構難しいです。

今年は、背景を二パターンをご用意くださって、どちらも素敵で捨てがたかったので、両方使うことにしました。ちなみに、脇役は既出の人達を使っております。もちろん、知らなくてもまったく問題ありません。


【参考】
『ウィーンの森』シリーズ

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とりあえず末代
——Special thanks to lime-san


 着替えとしてTシャツに下着、さらに洗面用具にフェイスタオルを詰めた。中学受験の季節で、僕ら在校生は金曜日が休みになったので、はじめての一人の遠出をする事にしたんだ。せっかくお小遣いも貯めたし、静岡に嫁いだ従姉妹に泊めてもらう約束もしたし、いざ二泊三日の冒険だ。問題は……。

「で。妾はどこに収めるつもりかい」
やっぱりついてくる氣、満々だったか。そうだよなあ。僕は、じっと見上げる緑の瞳を見つめた。

 一見、普通の白猫に見えるけれど、《雪のお方》は正真正銘の猫又だ。もちろん、簡単に信じてくれないのはわかる。でも、こいつは僕が生まれるどころか、とっくに死んじゃったひいじいさんが生まれる前からずっと我が家にいるし、そもそも、人間にわかる言葉でペラペラ喋る飼い猫なんていないことは、同意してくれるだろう?

 なぜこいつが我が家にいて、さらにいうと、僕にひっ付いてくるのか。証明しようがないけれど、これはどうも僕のご先祖様のせいらしい。

 幼稚園の頃、僕は同級生の家にいる普通の猫は喋れないということを知らなくて、「うちの《雪のお方》は喋れるよ」と自慢したために、しばらくありがたくない嘘つきの称号をもらった。友達の前ではただの猫のフリをしたのだ。そもそもなんで猫又が我が家にいるのか、僕は何度か質問をして、大体のことがわかるようになった。

「妾は、元禄のはじめに、この地にあった伊勢屋の伊藤源兵衛の飼い猫であったのじゃ。そして、もらわれて来たのとほぼ同じ頃に生まれた跡取りの長吉と共に育ったのじゃ。長吉は童の頃は妾をたいそう氣に入っておってな、大人になったら妾を嫁にすると申しておったのじゃ。そうこうするうちに二十年経ち、妾の尾は裂けて無事に猫又となったので、許嫁の長吉と祝言をあげるつもりでいたら、約束を反故にして松坂の商家から嫁をとるというではないか。それで妾は怒りに任せて、末代まで取り憑いてやると誓ってしまったのじゃ」
「で?」
「伊藤家はちっとも断絶しないので、妾もまだここにいるしかないのじゃ。お前の父親にも、くれぐれも嫁を取ってくれるなとあれほど頼んだのに……」

 父さんは、母さんと出会って思ったらしい。これだけ我慢したんだから、あと一代か二代くらい、我慢してもらってもいいかって。というわけで、今のところ僕は伊藤家の末代なので、《雪のお方》に取り憑かれているというわけ。

「修学旅行の時は、家で留守番していたじゃないか。どうして今回はついてくるんだよ」
「修学旅行にペットを連れて行くのは禁止であろう。わざわざ規則に違反をさせてまでついて行くほど面白そうな旅程ではなかったしな。今回はお前の初めての一人旅で面白そうではないか。お前とて困ったことがあった時に相談する相手がいる方が良いであろう」

 僕はため息をついた。まあ、いいや、話相手には事欠かないしさ。《雪のお方》は、猫ではなくて猫又なのでキャトフード等は食べない。肉や魚も本当は必要じゃない。猫又としての矜恃があるという理由で、一日に一回は油を舐める。パッキン付きで漏れないタッパーの中にプチプチで巻いた藍の染付の小皿を入れた。これは《雪のお方》の愛用品で、なんでもない醤油皿に見えるけれど一応元禄から伝わる我が家の家宝。割ったら父さんに怒られる。っていうか、《雪のお方》に祟られるんじゃないか。

 それに、小瓶にイタリア産の最高級エクストラ・ヴァージン・オリーブオイルを詰める。もし万が一、いい油がみつからなかったらうるさくいうに決まっているし。なぜこんな洋ものを舐めるのかって思うだろう? ヴァージンってのが氣に入ったんだって。ま、行灯の油と言われても困るけどさ。

 リュックサックの後ろのポケットを大きく開いて、《雪のお方》はそこに入ってもらうことにした。父さんと母さんは、少し心配そうに僕たちを見送った。
「本当に一人で大丈夫なの? 途中までお父さんに送ってもらう?」
「《雪のお方》、悠斗をよろしくお願いします」
「任せておけ。妾がしかと監視する故」

 猫又に監視されての一人旅かあ。まあ、いいや。僕は、初めての冒険に心踊った。
「駅まで歩くからね。なんか言いたいことがあったら、一応、猫っぽく呼んでよね」
「わかっておるわ。案じるな」

 って、日本語で言うんだもんなあ。郊外っていうのか、どちらかというとド田舎っていうべきなのか、とにかく我が家から駅までの半分以上は、道路沿いに空き地が広がっている。バスも来るけれど、一、二時間に一本だから歩いてしまった方が早い。二十分くらいだし。誰かとすれ違うこともあまりない。猫と会話している変な奴と思われる心配は少ないはず。もっとも、いつ誰が聴いているかわからないから氣をつけないと。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「さてと。そろそろ駅だ。ここからは、黙っててくれよ。それから落っこちないように、もう少しジッパー閉めるよ」
「挟んだら、化けて出るぞ」
「わかってるよ。しーっ!」

 僕は、電車を乗り継いで横浜まで行った。そこからは東海道線。リュックから覗いている子猫(本当は猫又だけど)は珍しいのか、隣に座ったおばさんがニコニコ笑って構おうとする。
「まあ、可愛い猫ちゃんねぇ。これだけ小さいということはまだ一歳になっていないかしらねぇ」

 いや、およそ三百四十歳だけど。そう答える訳にはいかないから、僕は、にっこりと笑ってごまかした。《雪のお方》は見事に子猫っぽく化けている。いつものドスの効いた物言いが信じられないくらいか弱い声で、みゃーみゃー言っている。

「本当に可愛いわね。ちょっと待って、いいものを持っているの。息子の家にもネコがいてね、行く時にはいつも玩具やおやつを持って行くのよ」
そう言いながら、ハンドバックを探って何かを取り出した。カリカリだったら激怒するんじゃないかと心配だったけれど、なんと本物タイプのおやつだった。おお、焼カツオ! すげぇ。これって猫のおやつなんだ。僕でも食べられそう。《雪のお方》は神妙な顔をしてハムハムと食べた。

「本当に可愛い猫ちゃんね。お名前は?」
「あ、えっと雪です」
《雪のお方》とは言えない。っていうか、きっと元禄時代にはただの雪だったんだと思うし。

「そう。坊やは、雪ちゃんとどこへ行くの」
「あ。静岡です。従姉妹のところに泊めてもらうことになっているんです」
「そう。この歳で一人旅ができるなんて偉いわね。氣をつけて行きなさいよ」

 おばさんは、熱海で降りて行った。僕は乗り換えて静岡へ。各駅で静岡へ行こうというひとは少ないのか、ホームはガランとしていた。《雪のお方》は小さな声で言った。
「あの鰹はなかなかであった。お前は何も食べなくていいのか。駅弁やお茶なぞも売っているではないか」
「あ、そうだね。おにぎりとお茶でも買っておこうかな」

 しゃけ入りおにぎりを一つと、お茶を買った。電車の中で食べていると、《雪のお方》が前足で催促したので、しゃけを少しだけ食べさせてあげた。

 そうこうしているうちに、僕たちは目的の小さな駅に着いた。駅からあまり離れていないところにカフェがあって、従姉妹は結婚相手とそのカフェを経営しているのだ。
「えっと。『ウィーンの森』。あれかな。こんな辺鄙な駅だとは思わなかったな」
「お前の住んでいるところと、大して変わらぬではないか」
《雪のお方》がぼそっと突っ込んだ。まあ、そうだけどさ。

 従姉妹は、僕と違って都心からここに引っ越したので、馴染めているんだとびっくりした。

『リュックにゃんこ』 by limeさん

「うん、間違いない。ここだ。入るからね、頼むよ」
《雪のお方》にまた猫のフリを頼んで、僕はカフェの入り口のドアを押した。

「いらっしゃいませ」
こげ茶のぱりっとしたエプロンをしている男性がいた。あ、この人が従姉妹の旦那さんかな。

「こんにちは。僕、伊藤悠斗です」
「ああ、君が悠斗くんか。よく来たね。はじめまして、僕が吉崎護だ。真美はご馳走を作るって張り切っているよ、ちょっと待ってて」

 感じのいい人でよかった。それに、かっこいい人だ、マミ姉、やったじゃん。僕は、護さんが二階にいる従姉妹を呼びに行く間にリックサックを下ろして、《雪のお方》を抱き上げた。

「いらっしゃい、悠ちゃん、迷ったりしなかった? あ、おユキ様も連れてきたのね」
マミ姉が、降りてきてまっすぐに《雪のお方》を抱き上げた。

 実は、マミ姉は《雪のお方》が猫じゃないことを知っている。そりゃそうだ。全然歳とらないいまま二十年以上この姿のままなのを、ウチに来る度に見ていたし、僕は子供の頃わかっていなかったから本当のことをペラペラ喋ってしまったんだもん。僕よりもずっと歳上で、これは喋ったらヤバいということをわかったマミ姉は、外には漏らさなかったけれど。

「おユキ様?」
護さんは、少し驚いた顔をした。まあ、子猫の名前っぽくはないよね。《雪のお方》はマミ姉の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らして見せた。さすが、元猫。たいした演技力だ。

「可愛いでしょう? まあ、静岡で会えるなんて思わなかったわ。悠ちゃんもゆっくりしていってね。今晩は、シチューにしたの。でも、その前におやつ食べたくない? 護さんご自慢のクーゲルホフとホットチョコレートのセット、食べない? 私がご馳走するわよ」

「真美、代金はいいよ。悠斗くん、荷物を上に置いておいで。おユキ様……には、ミルクでいいのかな?」
護さんは、猫としては変わっている呼び名にまだ慣れていないようだった。《雪のお方》は、子猫っぽく愛らしい仕草でミルクを飲んだ。あとでオリーブオイルをあげなくちゃ。

 再び降りてきた僕に、護さんは訊いた。
「今日はこれからまたどこかへ行くのかい? それとも冒険は明日からにして今日はこのままゆっくりする?」

 僕は、少し考えた。ここに来るだけで冒険は十分したし、この街はほとんど何もなさそうだから、ここで護さんのお店を見学するほうが面白そうだ。《雪のお方》も、ここが氣に入ったみたいだし。
「もし邪魔でなかったら、ここにいてもいいですか。皿洗いくらいします」
「それは嬉しいね。でも、先におやつをどうぞ」

 他のお客さんが入ってきて、護さんは忙しくなった。僕は、お手伝いをするために急いでおやつを食べ出した。うわ。美味しいよ、このケーキ。こんな洒落たカフェがなんでこんな田舎にあるんだろう。

 マミ姉が、バターやジャムを入れる小さいガラスのシャーレに、黒い油を入れて持ってきた。そして小さい声で言った。
「オーストリアの最高級パンプキンシードオイルよ。アンチエイジングにいいっていうから、私も取り入れているんだけれど、おユキ様の口に合うかしら」

 《雪のお方》は嬉しそうに舐めていた。ミルクの時と目の色が違う。やっぱり猫又なんだな。こうして見ていると、パンプキンシードオイルって、ちょっと行灯の油っぽくない?
 
 僕はその日の閉店まで、護さんのお店でウェイターのまねごとをして過ごした。ホイップクリームのたっぷり載ったコーヒーのように、運ぶのが大変なものもあったけれど、大きな失敗はしないで、ついでに女性のお客さんたちに「きゃー、かわいい」などと言われて悦に入っていた。

 もっとも、一番「かわいいー」と言ってもらっていたのは、文字通り猫をかぶっていた《雪のお方》だけれど。

 店じまいまでちゃんと手伝って、マミ姉の美味しいシチューで晩御飯にして、それから僕の寝室にしてくれた小部屋で布団にくるまった。小さなカゴにマミ姉がタオルを敷いてくれた簡易ベッドで《雪のお方》が寛いでいる。

「一人旅、ここまでバッチリ上手く行ったよね」
「さよう。ちゃんと手伝いもしていたし、見直したぞ。カツオをくれたご婦人への礼はもっとちゃんと言って欲しかったが、それ以外は概ね合格点をやってもいいだろう」
「あ。そうだね。言い忘れちゃった。あ、マミ姉の出してくれた油はどうだった?」
「あれは、なかなか美味であったぞ。香ばしいのじゃ。明日もまた出してくれるといいのだが」
「あ、ちゃんと頼んでおく」

 それから僕はほうっと息をついた。
「でも、マミ姉、いい人と結婚したね。ものすごく幸せそうだったね。ずっと仕事一筋だったから、まさか結婚して静岡に行くなんて思いもしなかったけれど、護さんみたいな人とずっと一緒にいられるなら思い切ってもいいよね。僕も、いつかさ……」

 それを聞いて、《雪のお方》はヒゲをピクリと震わせた。
「お前、もう結婚を夢見ているのか。まったく、伊藤家の奴等ときたら、どうして揃いも揃って……。妾は、跡取りが生まれるたびに、今度こそ末代と思っているのだが……」

 そう言いながら、《雪のお方》はあまり迷惑そうな顔はしていなかった。あまりにも長く伊藤家に取り憑きすぎて、もう半分うちの守護神みたいになってしまっているのかもしれない。

 僕は、明日も《雪のお方》をリュックに背負って、一緒にあちこちを見るのが楽しみだ。猫又に取り憑かれていない人生なんて、ちょっと考えられない。伊勢屋長吉、よくやってくれた! そんなことを考えながら、眠りについた。

(初出:2018年2月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

好きな犬の種類は?

つい先日、犬に関する小説を発表したところで、トラックバックテーマに犬の話があったので、これで記事を書いてみる事にしました。

スイスの犬たち


ブログをやっていると圧倒的にネコ派の皆さんが多いように感じるんですけれど(もしくは私の眼に触れるのが猫ブログばっかりなのかな?)、猫派か犬派かは永遠のテーマのような氣がします。私自身は、ペットを飼わないので外で会う犬や猫と無責任に触れ合っているだけの範囲ですけれど、どちらも好きで、でもどっちか一つと言われたら犬かな、という感じです。

ただし、猫の方は種類による好き嫌いはあまりなくて、どの猫も大抵好きなんですけれど、犬の方は大好きな種類と、そうでもない犬とにきっかりと分かれるのです。基本的に愛玩犬と言われるタイプの犬よりも中型犬や大型犬の方が好きなのです。具体的に言うとチワワやトイプードルなどよりも、ゴルデンレトリバーや秋田犬などの方が好きなんですね。

もちろん、飼っていらっしゃる方にとったら、「うちの子」が一番だろうと思いますし、それに、犬種での好き嫌いは大雑把すぎる意見だとは思っています。

ということを承知でいうと、ようするにしょっちゅう「キャンキャン」言っている犬よりも、どっしりと構えているタイプの方が好きなんですよ。

日本の飼い犬とヨーロッパの飼い犬の大きな違いとして、しつけがあります。あ、私の「日本の飼い犬」というのは二十年前はそうだったということで、現在はわかりませんが、とにかくスイスで普通に見かける犬は、非常によく躾けられていて、放し飼いにしても問題がないほどなのです。日本だと盲導犬などの特別な犬は別として、公共の場に犬は連れていけないじゃないですか。例えば電車に犬を乗せて好きなところまで行くということはまずできませんよね。スイスではそれは普通のことなのです。レストランも普通に犬をつれて入っていくことができます。そして、その犬たちは、氣づかないほど静かに座っているのです。

通勤途中にも時々散歩中の犬とすれ違います。一応、飼い主がリードで繋いでいないといけないはずだと思うんですが、田舎のせいか外してしまっている人が多く、すれ違いざまに犬が興味をもって近づいてくることもあります。手を差し出して匂いを嗅がせて挨拶しますが、皆感じのいい犬ばかりです。

で、こういう国でも愛玩犬の多くは、繋いでおかないと何をするかわからないようです。他の飼い犬や通りがかりの人にキャンキャン吠えたり、来いと飼い主が行っても反対方向に行ってしまったり、ちょっと目を離せないんですね。

狩猟犬は体は小さくてもちょっと行動が違うようです。そりゃそうですよね。獲物を前にしてキャンキャン吠えたら、獲物は逃げてしまいますから。日本だと狩猟犬も愛玩犬もあまり変らないでしょうが、この辺りでは牧羊犬や狩猟犬は元来の目的に近い形で使われているのです。

さて、スイスの犬と言ったら皆さん思い浮かべるのはセント・バーナードではないでしょうか。この犬は、今でもフランス語圏スイスとイタリアの国境にある大サン・ベルナール峠の修道院で繁殖されています。でも、この辺で見かけることは少ないですね。

他にスイスらしい犬というと、Appenzeller Sennenhund(アッペンツェラー・キャトル・ドッグ)やBerner Sennenhund(バーニーズ・マウンテン・ドッグ)でどちらも牧牛犬・牧山羊犬として活躍した働く犬たちです。この二種は、この辺りでも大変良く見かけます。

ちなみに、小説で使っているローデシアン・リッジバックはアフリカ産の犬。番犬としてとても有能な上、ライオンにも立ち向かうと言われるほど勇猛な犬です。

こんにちは!FC2ブログトラックバックテーマ担当の一之瀬です今日のテーマは「2018年は戌(いぬ)年!あなたの好きな犬の種類は?」です。現在の最新国際畜犬連盟(FCI)により公認された犬種は、現在344種類あるそうです!こんなにたくさんの種類の犬がいるなんて驚きですね個人的にはあのふわふわした毛と、真ん丸な顔に小さな三角耳の持ち主柴犬がたまらなく可愛いなと思いますみなさんは何犬が好きですかたくさん...
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