【小説】郷愁の丘(16)父と子 -2-
レイチェルは、三十年来ジェームスと事実上の夫婦関係にありましたが、それを公にしたがらない彼の態度にある種の引け目を感じていました。遺言は、そのレイチェルとマディを明確に大切な家族と認めたもので、ここで彼女のわだかまりもようやく解消したことになります。同時に、この数日を通じて距離のあったヘンリー(グレッグ)との関係もようやく家族へと昇華したようです。
ちなみに、グレッグが遺産としてもらったのは、ジョルジアを招待したけれど結局滞在しなかったあのマリンディの別荘です。もらったはいいものの、きっとまたしてもマディたちが使うことになりそうです。
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郷愁の丘(16)父と子 -2-
ヘンリーはオックスフォードで学位を取って大学院に進んだ後、祖父のグレゴリー・スコットの遺産相続手続きでケニアにやってきた。そして、十五年ぶりに逢った父親に研究をケニアで続けたいと相談した。ジェームスは反対はしなかったが、とくに大きな助力をしたわけでもなく、より親しい関係を築いたわけでもなかった。
息子は、かつて祖父が住んでいた場所にほど近い《郷愁の丘》と呼ばれる土地の家を買い、そこでシマウマの調査をしつつ博士号をとった。マサイ族の居住地に隣接するサバンナは人里離れており、雨季にはレイチェルの住むマニャニから車で三時間以上かかる。とはいえ、親子が年に一度か二度しか逢わないというのはやはり異常だ。それがプライヴェートなものではなく、学会などでしかないということは、レイチェルには大きな問題に思えた。
ジェームスは厳しい人間ではあるが、愛情ぶかい人間でもあるとレイチェルは思っていた。長年、恋人関係にある彼女に対してだけでなく、二人の娘であるマディに対して示す言葉や態度がそれを表している。それが、ヘンリーに対しては、全く表れてこなかった。それが、前妻レベッカに対する憎悪と不信に端を発するものなのか、それとも打ち解けることのないヘンリーの硬い態度が居心地が悪いかなのかはわからない。
レイチェルにはそれがとてももどかしく、途中からあえて二人の間に入り込んで橋渡しをするようになった。クリスマスやイースターに一緒に食事をしたり、誕生日などの家族の行事にヘンリーを招んだし、彼の研究についても可能な限り彼女の方から協力を申し出るようにした。
ヘンリーがそれを迷惑がらず、むしろ感謝して、腹違いの妹であるマディともうまくやっていることにレイチェルはほっとしていたが、肝腎な父子関係は、けっしてノーマルな状態にはならなかった。
可能な治療は全て試して効果がないことがわかると、ジェームスは自宅で最期を迎えることを希望した。退院して自宅に戻ると、彼は入院中に申し入れたように息子を呼んだ。レイチェルは、ヘンリーに父親はおそらく数日しか持たないだろうから、泊まり込むように伝え、彼はその忠告通り泊まり込み用の荷物と愛犬を連れてやってきた。
彼が到着すると、レイチェルは今は割合具合がよくて話ができるから寝室に行くように奨め、親子の対話を邪魔しないように自分は階下の台所に残った。
しばらくすると、ヘンリーが階段を降りてきた。見るとまた荷物を持っていて、玄関に向かっている。
「どうしたの。二階の客間は用意してあるわよ」
彼女がが訊くと、彼は顔を上げて見た。彼の瞳が潤んでいるようだった。彼は「帰ります」と言った。
「なぜ? 何か急な用ができたの?」
そう訊くと、彼は眉を歪めた。
「そうじゃありません。もう彼の用は終わったんです。いつまでもここに残って、彼の『家族との大切な時間』を邪魔したりはしません」
彼女は彼がそのまま去り、愛犬ルーシーがそれを追って車の中に消えて行くのを、当惑して見送った。
それからジェームスの寝室に戻るとノックをした。
「ヘンリーは帰ってしまったわ」
窓の方を見ている彼に、彼女は言った。
「そうか……」
彼は、短く答えた。それから数分間、彼は何も言わなかったが、レイチェルも何も言わずにその傍らに座って、彼が話すのを待った。
「金庫の中に遺言状がある」
彼はぽつりと言った。彼とヘンリーとの親子関係のことを考えていたレイチェルはあまりにもかけ離れた話題に驚いた。彼は続けた。
「この家を含めて遺産の多くはお前とマディに残すと書いてある。そうしなければ、全てヘンリーに行くことになるから」
「マディはともかく、私には……」
そう言いかけたレイチェルを彼は遮った。
「お前は、私の人生の伴侶だ。結婚はしなかったが、それ以上のものを共に築いてきた。ずっと住んでいたここから追い出されるのも、ナイロビの家を使えなくなるのも、理不尽だろう。だからきちんとしておきたかった」
「ジェームス……」
彼女は皺がよりやせ衰えた痛々しい手の甲に、彼女の手のひらをそっと重ねた。ジェームスは、彼女を覗き込んで言った。
「お前とマディが不憫で、その権利を守ってやらなくてはと思った。だからヘンリーにその事を言ったんだ。不服を申し立てたり、裁判を起こしたりしないで欲しいと」
「そんな……。彼が裁判なんてするわけ……」
彼は、項垂れた。
「あいつにもそう言われたよ。欲しかったのは遺産なんかじゃなかったって。私は……あいつをひどく傷つけてしまったようだ。あんな目をしたあいつをこれまで見たことはなかった。まったく思いつきもしなかったんだ……あいつが、私に父親としての愛情を期待していたなんて」
「今から、呼び戻しましょう。そして、少しでも話をしたら、あなたも彼のことを心にかけていることが……」
「いや、いい……。わからなければ、それでいいんだ。疲れた。眠るよ。マディが来たら、教えてくれ……」
それから、ジェームスの意識はずっと朦朧としていて、話ができる状態にはならなかった。マディと二人の孫たちが到着したときには、わずかに目を覚まして嬉しそうな顔はしたが、痛みで呻いているか、眠っているかの時間がほとんどだった。
息子との最期の会話にこだわって苦しんでいるのか、時々うわごとを言った。
「祖父さんの日誌は……お前が欲しいなら……でも、あれは、レイチェルに必要だから……許してくれ……どうしてもっと話にこなかった……待ちなさい……お前を傷つけるつもりは……」
三日目の朝に、レイチェルはどうしても我慢ができなくなり、ヘンリーに電話をかけた。かなり悪いことと、彼がうわごとで彼に謝っていること、もう一度逢いにきて彼の心の重しをとってほしいと懇願した。
電話でのヘンリーは、いつもの躊躇や後ろ向きな姿勢が感じられなかった。前回のひどく傷ついて殻に籠ったような表情が目に焼き付いているだけに、レイチェルは意外に感じたが、彼が到着してその変化の理由がわかった。ヘンリーの傍らに彼の愛するアメリカ人女性ジョルジアが立っていたのだ。
その前日にヘンリーのもとに飛んで来たというジョルジアは、レイチェルとジェームスの二人の子供が、最期の時間を過ごす間、幼いマディの子供たちの面倒を看、食事の用意などもしてくれた。
ジェームスの意識が戻ることはなかった。彼はそれから二日後の朝に息を引き取った。
葬儀が終わると、ヘンリーは自分から金庫の中の遺言に従って遺産相続の手続きを進めるようにレイチェルに言った。ジェームスから聞いていたように、遺産の多くがレイチェルとマディに分配されており、本来全てを相続すべきヘンリーに遺されていたのはマリンディの別荘とわずかな現金のみだった。
ヘンリーは、その内容を耳にしても傷ついた様相は見せなかったし、何かを望む様子もみせなかった。それは、彼の横に寄り添う、ほっそりとしたブルネットの女性がもたらした変化だった。彼が必要とし続けた愛情、実の両親にすら向けてもらえなかった関心と理解を与えてくれる存在を、彼はようやく手にしたのだ。父親の死を悲しみ悼みつつも、ヘンリーの心が以前のように愛に餓え悶え苦しんではいないことを感じてレイチェルは嬉しく思った。
彼がジョルジアとともに《郷愁の丘》ヘ戻る午後、レイチェルは彼を書斎に呼んだ。入ってきた彼が目にしたのは、レイチェルがジェームス愛用の机の上に積んだ、ジェームスの祖父トマス・スコット博士の研究日誌六十七冊だった。
「これも、今日からあなたのものよ」
「レイチェル? 父さんは、これはあなたに遺すと……」
ヘンリーは困惑して言った。
彼女は首を振った。
「ジェームスは、あなたにそう言ったことを後悔していたわ。たとえそうでなくても、これはあなたの曾お祖父さんの書いたもの、私がもらうのは正義に反するわ。研究に必要なのは私もあなたも同じ。だから、私が必要な時に、あなたに貸してもらいたいとお願いするのが筋だと思うの」
彼は、潤んだ瞳で彼女を見た。
「本当に、いいんですか?」
レイチェルは「もちろん」と答えた。口にはしなかったが、彼に対する多くの負い目のうち、わずかでも返すうちに入ればいいと思っていた。遺産のことだけではなかった。ジェームスの家族としての時間、愛情もずっとレイチェルとマディにばかり向けられていた。彼はいつでも独りでその不条理に耐えてきた。
「ありがとう」
彼ははにかんだように笑うと、怯えるように父親の机に向かい、そっと古い日誌に手を伸ばした。それから、顔を上げると訊いた。
「現在取り急ぎ必要があるのはどれですか。それはしばらくここに置いて行きますから」
レイチェルは微笑んで、再来週発表の資料に必要な数年分の日誌を手にとった。彼もまた微笑んだ。穏やかな彼らしい笑顔だった。
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ジョルジア & グレッグ on シマウマ

白馬ならぬシマウマに乗った王子様と楽しくドライブするジョルジア。しっかりと写真を撮りまくっていますね(笑)
服装は、作品中の描写に合わせてくださったのですが、ジョルジアのアクセサリーは、まだ早いけれど結婚プレゼントとしていただきました! シマウマイヤリングなんですよ。
前作では、暗くまだ後ろ向きのまま終わったヒロインですが、彼女もようやく幸せをつかんだところです。そして、この作品の真の主人公であるグレッグも、「幸せだなあ」と呟けるようになりました。
あれやこれや、多くの読者を嘆息させた不甲斐ないグレッグですが、canariaさんの優しさのにじみ出たこのイラストでは、内氣な個性そのままに、ヒーロー然として登場しています。こうした小市民キャラクターに思い入れの強い作者としては、本当にありがたくて嬉しいです。
それに。アフリカで一番好きになった動物がシマウマだったので、その趣味全開でこの作品を書いたのですけれど、こうしてシマウマのイラストまでいただけるなんて、「書いてよかった!」と泣けてきます。

背景なしバージョンもいただきました。わーい。大事にしますね。
canariaさん、本当にありがとうございました。
【参考】
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![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
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【小説】郷愁の丘(16)父と子 -1-
ジョルジアが再び《郷愁の丘》にたどり着いた日から、八日ほど経っています。この間に何があったか、そして、過去のことなども別の女性の視点でお送りします。
今回も少し長いので二回に分けます。
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郷愁の丘(16)父と子 -1-
その朝、レイチェル・ムーアは久しぶりに慣れたサファリ・シャツに袖を通した。ジェームスが亡くなってから五日間、黒い服を着ていたが、これからずっとそれを着続けるようなことはしたくなかった。
彼女と結婚しようとしないジェームス・スコットのことを悪し様に言って、離れるように忠告する人たちに、彼女は常々言った。
「これは彼だけの決定じゃないの。私たち、二人で決めたことなの」
ともに過ごした三十年間、彼がプロポーズしないことに一度も傷つかなかったと言えば嘘になる。だからこそ、その話題には敏感だったし、指摘された時には必要以上に虚勢を張った。だが、今の彼女は本心から「そのことはどうでもいい」と断言することができた。紙切れによる契約はしなかったが、それでも最期に彼から必要としていた言葉をもらったのだ。
表向きは、彼の未亡人ではないレイチェルは、社会的に喪服を着る必要はなかったし、それを着ることで愛する男の死を悼んでいることをアピールすることも嫌だった。
喪失感は、彼女の中にある。その痛みと苦しみは、思っていたような激しいものではなく、痺れるような、もしくは包帯を通して血が滲み出るようなものだった。食事をする、窓辺に立ちカーテンを開ける、ベッドメーキングをする。そうした日常の動作の度に、視線の先に居るべき人がいない。空虚が彼女を襲い、動きが止まる。
それでも、彼女の周りには、家族が居た。ジェームスが昏睡状態に陥ってから葬儀が終わるまでの間、娘と孫、それに義理の息子とその恋人が同じ屋根の下に泊まり込んでくれた。
ジェームスの息子、表向きは彼の唯一の家族であるヘンリー・スコットは、悲しみに暮れるレイチェルたちの横で静かに葬儀の準備を進め、穏やかに且つ世間に恥じない形で父親を送り出した。体裁を非常に氣にしたジェームスも必ずや満足するだろうと思われる葬式だった。
弔問客たちは、実の息子よりも長年の恋人とその娘の方を氣遣い、ヘンリーのことを葬儀の手伝いにやってきた無関係な男であるかのように扱っていた。が、当人は決して本意ではないだろう扱いに対して不平も言わなければ、苦悩も見せなかった。
誰かがその姿を目に留めても、それは彼が父親に対して無関心だからだろうと思ったが、レイチェルはそうでないことを知っていた。この親子の少し常軌を逸した親子関係をずっと目の当りにしてきただけでなく、父親の亡くなる五日前に彼が強い苦渋の想いを垣間見せたのを知っていたから。
初めてヘンリーと知り合ったのは、イギリスのオックスフォード大学のあるカレッジにサマースクールの講師として招聘された時だった。
現在エージェントとしてありとあらゆる煩雑な手続きを代行してくれるリチャード・アシュレイも、当時は学生としてそのクラスを受講していた。
リチャードは甚だ残念な成績を残し、結局卒業できずにケニアに帰ってくることになったのだが、その一方で当時から見事な話術と機転で多くの人脈を作り上げていた。憎めない性格と魅力的な人懐こい笑顔を持つ赤毛の青年で、レイチェルも受講している学生たちへの意思伝達のためにずいぶんと彼の世話になった。
そのリチャードがある時目立たない一人の青年を指差したのだ。
「彼はベリオール・カレッジの学生で、僕と同じ学生寮に住んでいるんですが、我々と同じケニアの出身なんですよ。もっとも子供の頃に親が離婚してそれ以来バースに住んでいたらしいですが」
それではじめてその学生の名前を確認した。ヘンリー・G・スコット。ジェームスの息子だとすぐに思い至った。
レイチェルはそれまで一度もヘンリーの写真を見た事がなかった。ジェームスの持ち物には、彼がかつて息子とともに暮らしていたような形跡は何も残っていなかった。離婚したレベッカが全て持ち去ったのか、ジェームスが故意に処分したのか彼女は知らない。
ジェームスは異常なほどにレベッカを嫌い、その激しい罵倒は恋敵の立場であったレイチェルですらあまり心地よく思えないほどだったので、もしかしたらその面影のある少年の写真を見たくないのかと思っていた。が、二十代に育ったその青年の顔を改めて見ると、なぜ今まで目に留めなかったのだろうと訝るくらいジェームスとよく似ていた。
ただ、その周りに纏う雰囲氣が全く違った。自信に満ちて人を惹き付ける魅力にあふれたジェームス・スコットの遺伝子を半分引き継いでいるというのに、ヘンリーは地味で内向的だった。彼の書いた文字は小さくて線が細い。
父親と同じ動物行動学の研究の道を目指しているとは知らなかったので、電話でケニアにいるジェームスに確認すると彼はあまり興味のない様子で答えた。
「動物行動学を学ぶとは聞いていたよ。お前のクラスを受講しているのか? 成績はどうだ」
ヘンリーの成績は、悪くはなかった。少なくともリチャード・アシュレイのような困った成績ではなかった。けれども、彼の成績は上から一割と二割の間あたりに埋没していた。一位や二位、特別な奨学金を受けることができるような輝かしい突出した優秀さではなかった。ジェームスやレイチェルがそうだったように、教授がすぐに一目を置く好成績をとった人間と違って、学者として必ず成功するとは言いがたかった。
講座の最終日に、レイチェルは思い切ってヘンリーに声を掛けてみた。彼自身はレイチェルの側に寄ってこようともしなかったし、話しかけられるのを待っている風情でもなかったが、少なくとも両親が離婚することになった原因のひとつを作ったレイチェルへの憎しみを持っているようにも見えなかった。
「あなたは、ジェームスの息子でしょう?」
当たり障りのない会話の後に、レイチェルは言ってみた。彼は、少し言葉に詰まった後で、申しわけなさそうに視線を落とし「そうです。すみませんでした」と言った。
「どうして謝るの?」
「黙って、受講しました。ご存知になったなら不快な思いをなさったでしょう」
「そんなことはないわ。あなたはここの学生として、受講する資格があるし、そもそも、あなたがここにいるからと言って不快だということはないわ」
「あなたの本や論文を読んで、ぜひ直接講義を聞きたかったんです。ツァボ国立公園の現状も知りたかったし」
「あなたはアフリカの動物行動学に興味があるの?」
「ええ。できることなら、ケニアで研究できたらいいと思っています」
「ジェームスには、言ったの? 論文は何で書くつもりでいるの?」
「父にはまだ言っていません。相談する以前に、まずは学位を取らないと……。現在はロバで論文を書くつもりでいます」
その当時から、彼の心はサバンナでシマウマの研究をすることに向いていたのだ。
彼の自信のない後ろ向きな態度は、レイチェルに強い印象を与えた。それはジェームズの持つ個性と正反対だったからだ。
彼とその父がほとんど交流を持たないのは、ジェームスがよく口にするようにレベッカに父親に対する悪口を吹き込まれ、それによって父親とレイチェルたちに憎しみを募らせているからだと想像していた。ジェームズの強い個性を受け継いだ人物は、やはり彼のようにはっきりとした意思と行動力で人間関係を築くのだとどこかで思い込んでいた。
だから、彼女は、ヘンリーの見せるへりくだってレイチェルを尊敬する目に驚くと同時に、彼が父親との関係だけでなく世界から逃げるように内側に籠っていることにひどく戸惑った。
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【キャラクター紹介】マッテオ・ダンジェロ
今回はそろそろ完結に向けてどんどん畳んでいる「郷愁の丘」などで、読者の皆さんを呆れさせているヒロインの兄、マッテオをご紹介します。
【基本情報】
作品群: 「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ
通り名: マッテオ・ダンジェロ(Matteo d'Angelo)
本 名: マッテオ・カペッリ(Matteo Capelli)
居住地: アメリカ合衆国ニューヨーク
年 齢: 「ファインダーの向こうに」では39歳。
職 業: ヘルサンジェル社(HealthAngel, inc.) 最高経営責任者(CEO)
マッテオは、イタリア系移民である貧しい漁師の息子でしたが、大学在学中に買い取った小さな健康食品会社を一代でアメリカ有数の大企業にしたアメリカンドリームの具現者です。早くから妹であるスーパーモデルのアレッサンドラ・ダンジェロを広告塔に起用し、ダイエット食品の売り上げを飛躍的に伸ばしました。兄妹揃って公の場に登場することが多く、妹の芸名に合わせてダンジェロと名乗っていますが、本当の苗字はカペッリです。
なお、この二つの姓は、イタリアの細いパスタ「Capelli d'angelo」(天使の髪の毛という意味)をもじってつけました。
独身の億万長者なので、女性関係が派手です。女優、モデル、お金の有り余っているセレブのお嬢さんなどとしょっちゅう浮名を流しています。また、妹のアレッサンドラと社交の場に登場することも多いため、芸能人でもないのにゴシップ誌の常連です。また、イタリアの血が濃く出たのか、女性を口説く語彙が豊富です。よどみなくペラペラ口説きますが、本人はそれぞれ真剣に口説いているつもり。ただし、全く一途ではありません。
こういった性格なので、もちろん苦手とする人もいますし、お調子者と思われている事も多いですが、憎めない性格と、誠実な対応が評価され、経済界や政治家などに味方がとても多いです。またチャリティーにも熱心です。
私の脳内でのマッテオのテーマ曲は、こちらです。
Chris Botti feat. Michael Bublé - Let There Be Love
この曲の歌詞、ずっと不思議だなと思っていたんですよ。「君らしくいたまえ。僕らしくいよう。そして牡蠣は海の底に……」って、唐突に牡蠣が出てくるんです。で、スラングを調べたら「オイスター」って無口な人って意味があるんですね。そっか、「無口な人はそのままでもいいよ」って意味なのかなと、勝手に納得。そうすると後半の「鳩」とか「カッコー」とか「ヒバリ」も「平和主義者」「まぬけ」「騒ぎ立てるヤツ」という具合になるのかなと……。
まあ、それはともかく、「でも、何よりもまず愛がなくっちゃね」と明るく歌い上げるところが、なんだかマッテオにぴったりだなーと思っているんですよ。
そして、マッテオといったら、身内の女の子に対する愛情の話を忘れてはいけませんね。イタリア人はそういう傾向が強いんですけれど、「うちのお姫様、最高!」とやたらと姉や妹などを熱愛するんですね。日本だと「シスコン、きもっ!」という捉え方をするかもしれませんが、イタリアだと割と普通。で、マッテオはアメリカ人ですけれど、イタリアの血がうずくのか、二人の妹(ジョルジアとアレッサンドラ)そして姪(アンジェリカ)に対する濃い愛情は、時々本人たちを辟易させてしまうほどです。
Michael Buble You'll Never Find Another Love Like Mine
この曲は、私の脳内イメージでは、某初婚の妹の結婚披露パーティでマッテオが熱唱する歌。「僕ほど君のことを優しく愛する男はいないよ。君は僕の愛を恋しく思うだろうね」みたいな。そして、面白がってもう一人の妹がデュエットで参加しています。花嫁と花婿は、困ったように顔を見合わせて、自分たちの結婚式なのに目立たない端の方に行ってたりする、なんて想像して楽しんでいます。
こんな痛い想像をして遊ぶのは、オリジナル作品のキャラを持っている方なら「あるある」ですよね?
【参考】
![]() | 「ファインダーの向こうに」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
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【小説】キノコの問題
今日の小説は、canariaさんのリクエストにお応えして書きました。
テーマはずばり「マッテオ&セレスティンin千年森」です!
情景は森(千年森)で、ギリギリクリアかな?
キーワードと小物として
「セレスティンの金の腕時計」
「幻のキノコ」
「健康食品」
「アマゾンの奥地」
「猫パンチ」
希望です。
時代というか時系列は、マッテオ様たちの世界の現代軸でお願いしたいと思っています。
コラボキャラクターはクルルー&レフィナでお願いいたします。
「千年森」というのはcanariaさんの作品「千年相姦」に出てくる異世界の森、クルルーとレフィナはその主人公とヒロインです。
一方、マッテオ&セレスティンは、私の「ニューヨークの異邦人たち」シリーズ(現在連載中の「郷愁の丘」を含む)で出てくるサブキャラたちです。「郷愁の丘」の広いジョルジアの兄であるマッテオは、ウルトラ浮ついた女誑しセレブで、その秘書セレスティンはその上司には目もくれずいい男と付き合おうと頑張るけれど、かなりのダメンズ・ウォーカー。このドタバタコンビをcanariaさんの世界観に遊びに来させよという、かなり難しいご注文でした。
これだけ限定された内容なので、ものすごくひねった話は書けなかったのですけれど、まあ、そういうお遊びだと思ってお読みください。コラボって、楽しいなってことで。canariaさん、なんか、すみません……。

【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
「ニューヨークの異邦人たち」・番外編
キノコの問題
覆い被さり、囲い込み、食べ尽くして吸収してしまうかと思うほど、深く濃い緑が印象的な森だった。鳥の羽ばたきと、虫の鳴き声、そしてどこにあるのかわからないせせらぎの水音が騒がしく感じられる。道のようなものはあるはずもなかった。ありきたりの神経の持ち主ならば、己が『招かれざる客』であることを謙虚に受け止め、回れ右をして命のあるうちに大人しくもと来た道を戻るはずだ。だが、今その『千年森』を進んでいる二人は、ありきたりの神経を持ち合わせていなかった。
「それで、あとどのくらいこの道を進めばいいんでしょうか」
若干機嫌の悪そうな声は女のものだ。都会派を自認する彼女は、おろしたての濃紺スウェード地のハイヒールを履いていて、一歩一歩進むたびに苛ついていると明確に知らせるトーンを交えてきたが、彼女の前を進んでいるその上司は、全くダメージを受けていないようだった。
「なに、もうそんなに遠くないはずだ。こんなに森も深くなったことだし、【幻のキノコ】がじゃんじゃん生えていそうじゃないか」
そう言って彼は振り返り、有名な『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』を見せたが、『アメリカで最も商才のある十人の実業家』に何度も選出された男としては、かなり無駄な行為だった。エリート男と結婚したがっている何十万人もいるニューヨーク在住の独身女のうちで、セレスティン・ウェーリーほど『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』に動かされない女はいないからだ。
「それはつまり、あなたは根拠も何もなく、こんな未開の森を進んでいると理解してもいいんでしょうか」
「そうさ、シリウス星のごとく熱く冷たいセレ。まさか誰もまだ知らない【幻のキノコ】の生えている場所が、カラー写真と解説つきの地図として出版されていたり、GPS位置情報として公開されているなんて思っていないだろうね」
ヘルサンジェル社は、CEOであるマッテオが一代で大きくした。主力商品は健康食品で、広告に起用されたマッテオの妹であるスーパーモデル、アレッサンドラ・ダンジェロの完璧な容姿の宣伝効果でダイエット食品の売り上げはアメリカ一を誇る。社のベストセラー商品はいくらでもあるが、新たな商品開発はこうした企業の宿命だ。とはいえ、あるかどうかもわからないキノコを社長みずからが探すというのは珍しい。
セレスティンは深いため息をついた。
「もうひとつだけ質問してもいいでしょうか」
「いいとも、知りたがりの綺麗なお嬢さん」
「あなた自らが、その【幻のキノコ】を探索なさるのは勝手ですけれど、どうして社長秘書に過ぎない私までが同行しないといけないのでしょうか。この靴、おろしたてのセルジオ・ロッシなんですよ!」
「まあまあ。世界一有能な秘書殿のためなら、五番街のセルジオ・ロッシをまるごと買い占めるからさ。ところで、今日の取引先とのランチで君が自分で言った台詞を憶えているかい?」
「もちろんですわ。とても美味しい松坂和牛でしたけれど、あんなに食べたら二キロは太ってしまいます。週末はジムで運動しなくちゃいけない、そう申し上げました」
「ここを歩くとジムなんかで退屈な運動をするよりもずっとカロリーを消費するよ。湿度が高いってことはサウナ効果も期待できるしね。それに、【幻のキノコ】は、カロリーを消費中の女性のオーラに反応して色を変えるそうだ。つまりこの緑一色の中で見つけやすくなるってことだ。ウインウインだろう?」
セレスティンは、カロリーを消費する運動やサウナでのウェルネスに、テーラードジャケットとタイトスカートが向いていないことを上司に思い出させようと骨を折った。が、マッテオはそうした細部については意に介さなかった。
『とにかく今日この森に来られたことだけでもとてつもなく幸運なんだ。そうじゃなかったらアマゾンの奥地まで行かなきゃいけないところだったんだぜ」
「なぜですの?」
「『千年森』に至るルートは、いくつか伝説があってね。一番確実なのがブラジルとボリビアの国境近くにある原生林らしいんだが、あそこには七メートルくらいある古代ナマケモノの仲間が生存しているという噂があってさ。追われたらハイヒールで逃げるのは大変だろう?」
「それはその通りですわ。でも、カナダとの国境近くの町外れの廃墟がボリビアと繋がっている森への入り口になるなんてあり得ませんわ」
「あり得ないもへったくれも、僕たちは今まさにそこにいるんだ。まあ、堅いことを言わずに、ちょっとしたデートのつもりで行こうよ、大海原色の瞳を持つお嬢さん」
「いつも申し上げている通り、まっぴらごめんです。そもそも、今日はちゃんとしたデートの予定があったのに……ハーバード大卒で銀行頭取の息子なんですよ。ああ、連絡したいのにここ圏外じゃないですか」
「まあ、なんと言っても『千年森』だからね。安心したまえ。今日のが不発に終わっても、今後ハーバード大卒で頭取の息子である独身者と知り合う確率は……チャートにして説明した方がいいかい?」
「けっこうです!」
ブリオーニのビスポークスーツにゴールドがかった絹茶のネクタイを締めた男とマーガレット・ハウエルのテーラードジャケットを来た女が森の奥深く【幻のキノコ】を探しているだけでも妙だが、話題もどう考えてもその場にふさわしいとは思えなかった。
その侵入者の会話に耳を傾けつつ、物陰から辛抱強く観察している影があった。それは黒髪を持った美貌の少年で、二人のうちのどちらが彼の存在に氣付いてくれて、悲鳴を上げた瞬間に颯爽と飛びかかろうとひたすら待っていた。
だが、都会生活が長く野生の勘のすっかり退化してしまったニンゲンどもは、いつまで経っても彼に氣付かなかった。それどころか、めちゃくちゃに歩き回っているにもかかわらず、どうやら最短距離で彼の大切な養い親のいるエリアに到達してしまいそうだった。
「お。見てみろよ。あの木陰、なんだか激しく蠢いているぞ」
マッテオが示した先を、セレスティンは真面目に見ていなかった。大切なハイヒールのかかとが何かぬるっとしたものを踏んだようなのだ。
「マッテオ。この森はどこを見ても木陰だらけで、蠢いているなんて珍しくもなんともありませんわ、それよりも……」
「でも、ほら。女神フレイヤの金髪を持つお嬢さん、木陰は珍しくなくても、木々と一緒に女性が蠢いているのはちょっと珍しいよ」
「なんだって!」
背後から叫びながら突然黒い影が飛び出してきたので、今度こそセレスティンとマッテオは驚いた。
「本当だ! レフィーったら! 僕がちょっと目を離すとすぐこれだ。発情の相手なら、この僕がいるって言うのに!」
マッテオは、セレスティンに向かって訊いた。
「あれは、誰かな。男の子のようにも見えたけれど、猫耳みたいなものと、尻尾が見えたような……」
セレスティンは、目をぱちくりさせて言った。
「猫耳に尻尾ですって。マッテオ、あなた頭がどうかなさったんじゃないですか。それよりも、いつから私たちの後ろにいたのかしら。やはり危険いっぱいじゃないですか、この森。これ以上、こんなところに居て、私のおろしたてのハイヒールに何かあったら困るわ。何か変なものを踏んじゃったみたいだし……」
ところが、そのハイヒールの惨状に98パーセント以上の責任があるはずの彼女の上司は、その訴えをまるで聴いていなかった。
「ひゅー。こいつは、滅多に見ない別嬪さんだ」
返事が期待したものと全く違ったので、真意を確認したくて顔を上げると、マッテオが意味したことがわかった。先ほど森と一緒に蠢いているとマッテオが指摘した誰かが、黒髪の少年に木陰から引きずり出されていた。深い緑の襤褸がはだけていて、白い肌や白銀に輝く髪が露わになっていた。あら、確かに、珍しいほどの美女だわ。いつも綺麗どころ囲まれているマッテオでも驚くでしょうね。
マッテオは、美女を見たら口説くのが義務だとでもいうように、ずんずんと二人の元に歩いて行って、アメリカ合衆国ではかなり価値があると一般に思われている『マッテオ・ダンジェロの100万ドルの笑顔』をフルスロットルで繰り出した。
「こんにちは、麗しい森の精霊さん。この深くて神秘的な森には、人知れず永劫の時間を紡ぐ至宝が隠されているはずだと私の魂は訴えていたのですよ。美こそが神の叡智であり、すべてに勝る善なのですから、私があなたを崇拝し、その美しさを褒め称えることを許してくださいますよね」
何やら揉めていたようだった森色の襤褸を着た美女と黒髪の少年は、この場の空氣を全く読まない男の登場にあっけにとられて黙った。相手に困惑されたくらいで、大人しく引き下がるような精神構造を持たないマッテオは、構わずに続けた。
「怪しいものではありません。僕は、マッテオ・ダンジェロといいます。アメリカ人です。この森で国籍というものが何らかの意味を持つなら、ですけれど。少なくとも佳人に恋い焦がれる心に国境はありません。あなたも、この森のように幾重にも巡らされた天鵞絨の天幕の後ろに引きこもっていてはなりません。どのような深林も恋の情熱の前では無力なのですから。あなたの名前を教えてくださいませんか。私が心から捧げる詩を口ずさめるように」
「てめぇ、何を馴れ馴れしく!」
黒髪の少年が我に返って敵意を剥き出しにした。襤褸を着た美女は、その少年をたしなめた。
「クルルー。客人にそのような口をきいてはならぬ」
「でも、レフィー。聖域であるこの森で神聖なあなたを口説くのがどんなに罰当たりか思い知らせないと」
「さっき、発情の相手がどうのこうのって自分でも言っていたのに」
セレスティンが、小さくツッコんだ。
「なんだとぉ」
少年は、セレスティンの元に飛んできた。おや、こちらも美形だったわ。セレスティンは驚いた。緑色の宝石のような切れ長の瞳に、漆黒ではなくて所々トラのような模様の入った不思議な髪。綺麗だけれど、危険な匂いがプンプンするタイプの美少年だ。ツンとしていれば、いくらでも女が寄ってきそうだが、どういうわけか今の少年は取り乱して怒っていた。
手元を素早く前後に動かして、こちらを小突いてくる。この動作は、ええと、ほら、あれ……猫パンチ。うわー、ありえない。美少年がやっちゃダメな動作でしょう。
「ちょっと、やめてよ。何取り乱しているの」
「レフィーの前で余計なこと、言うなよ」
「あのね。そうやって取り乱すと、知られたくないことがバレバレになるのよ。わかってるの?」
二人がこそこそと会話を交わしている間、マッテオはさらに美女に愛の言葉の攻勢をかけていた。
「あんた、あいつを止めなくていいのか。目の前で他の女を口説くなんて、とんでもない恋人だな」
少年が怒っている。
「おあいにく様。あの人は、私の上司で、恋人じゃないの。それよりも、目下の問題は、私のハイヒール……。何を踏んじゃったのかしら」
セレスティンが、足下を見ると、どういうわけかそこには真っ赤なキノコがうじゃうじゃと生えていた。しかも、怪しい蛍光色の水玉が沢山ついていて、それが点滅しているのだ。
「やだっ、何これ!」
美女にクルルーと呼ばれた美少年は肩をすくめた。
「ああ、そのキノコね。ニンゲンの女に先の尖った靴で踏まれると増殖を始めるんだよね。ああ、こんなに増えちゃって面倒なことに……。レフィー、ちょっと! お取り込み中のところ悪いけれど、緊急事態みたいだよ」
マッテオの口説き文句を半ば呆れて、半ば楽しむように聴いていた美女はこちらを振り向いた。そして、セレスティンとクルルーの周りにどんどん増殖している赤いキノコを見て、慌ててこちらに走ってきた。
「なんだ。おい! 何をやっているんだ」
マッテオは、そのキノコを見て大喜びだった。
「なんてことだ。これこそ僕たちの求めていた【幻のキノコ】だよ! セレ、でかした!」
だが、襤褸を着た美女の方は厳しい顔をした。
「何が【幻のキノコ】だ。これを増やすことも、持ち出すことも許さんぞ。やっかいなことになるからな。クルルー、その二人を森の外へ連れて行け。私はそのキノコの増殖を止めねばならぬ」
クルルーが、ものすごい力を発揮してキノコで真っ赤になったエリアからマッテオとセレスティンを引き離すと、美女はそこへ立ち、続けて森の緑が同調するようにその場所に覆い被さった。そこで、美女が何をやっているのかはわからなかった。クルルー少年に引きずられて二人は森の端まで連れて行かれたからだ。
「これだからニンゲンをこの森に入れるのは反対なんだ。カナダ側にも巨大ナマケモノを配置しないとダメなんだろうか」
そういうと、少年は二人をドンと突き飛ばした。
一瞬、世界がぐらりと歪んだかと思うと、二人の目の前から美少年クルルーと『千年森』は消えていた。それどころか、彼らが通ってきたはずのカナダとの国境近くの町から400マイル近く離れているマンハッタンのカフェに座っていた。
「え?」
騒がしかった鳥のざわめきの代わりに、忙しく注文をとるウェイターと客たちのやり取りが聞こえ、心を洗うようなせせらぎの代わりに、趣味の悪い電飾で飾られた噴水の調子の悪い水音が響いた。
「なんてことだ。ここまで飛ばされてしまったか。やるな。さすがは『千年森の主』だ」
マッテオは、残念そうに辺りを見回した。セレスティンは、まず手始めに自分の服装がまともな状態に戻っているかを確認したが、残念ながら汗だくでボロボロの様相は、『千年森』にいたときと変わっていなかった。
でも、ニューヨークに戻ってくるまでの時間を短縮できたんだから、急いで家にもどれはデートまでに着替える時間があるかも! 彼女はお氣に入りの金の腕時計を眺めた。ギリギリ! でも、今すぐ行けば間に合うはず。
「セレ。君のハイヒールに、例のキノコ、ついていないかい?」
諦めきれないマッテオが訊いた。彼女は、大事なハイヒールにキノコがついていたら大変と見たが、『千年森の主』が何らかの魔法で取り除いたのか、あの赤いキノコは綺麗さっぱり消え失せていた。
それに、あのクルルー少年の言葉によると、ハイヒールに近づけると、あのキノコはとんでもなく増殖してしまうはず。ついていなくて本当によかったってところかしら。
「残念ながら、ついていないみたいですわ、マッテオ。申し訳ないんですけれど、もうアフターファイブですし、私、失礼します。今から急げば、デートに間に合いますので」
そう言いながら、颯爽と立ち上がった。
「OK。楽しんでおいで。今日の残業分、明日はゆっくり出社するといい。やれやれ、僕は氣分直しにジョルジアを訪ねてご飯を作ってもらおうかな」
セレスティンは、にっこりと微笑みながら立ち去った。途中でもう一度時間を確認するために金時計を見た。
あら。この時計の文字盤、ルビーなんてついていたのかしら。
この時計は、なくして困り果てていたところ、マッテオが見つけてくれて、さらに素晴らしい高級時計に変身させてくれたものだ。だから、見慣れていた前の安っぽい時計だった時についていなかったものがあっても不思議ではない。でも、確か、今朝はついていなかったと思うんだけれど。
立ち止まってもう一度サファイアガラスの中の文字盤をよく見た。ルビーがキラリと光った。蛍光色みたいな色で。しかも動いているような。
これ、ルビーじゃないわ。さっきのキノコ。この中に入り込んでしまったのかしら。
セレスティンは先ほどの趣味の悪い噴水前のカフェに戻ろうとした。マッテオに見せないと。だが、どうもカフェが見つからないし、マッテオもいない。ううん、今から電話して戻ってきてもらってこれを見せるとなると、時間を食っちゃう。せっかくの頭取の息子とのデートが……。
彼女は、そのやっかいなキノコは金時計に閉じ込めたまま、明日まで何も言わないことにした。どう考えても、今夜この時計がハイヒールで踏まれるような事態は起こらないはずだし、明日の朝に氣がついたことにしても問題ないと思う。
彼女は、キノコの問題はとりあえず忘れることにして、今夜ハーバード大卒の男を逃さないために、彼の前でいかに頭の足りない金髪女の演技をすべきか、綿密にプランを練りだした。
(初出:2018年5月 書き下ろし)
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マリッレ

「アプリコット色の猫」は去年の「scriviamo!」で発表した小説。マリッレはそこに出てくる猫なんです。人生踏んだり蹴ったりだった女性が、一匹の猫との出会いを機にオーストリアのザルツカンマーグートでちょっと幸せになるという、メルヒェンがかった話なんですけれど、どうやら姫子は恩人であるマリッレに猫まんまを作っていない模様。だめじゃん(笑)
たらこさんの描く、ほのぼのとした感じいいですねぇ。大好きです。

ちなみに、マリッレの名前はこのアプリコットジャムからきています。オーストリアではどういうわけかアプリコットのことをマリッレというのですね。かなり濃いオレンジ色のジャム。濃厚で美味しいんですよ。あ、手前はオレンジマーマレードですけれど。
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【小説】郷愁の丘(15)あなたのもとへ -2-
計算していただくとおわかりかと思いますが、大体この頃、グレッグはメールが来ないとメソメソしながら、ハンモックでふて寝を始めてしまいました。そうです、何人かの皆さんがコメント欄でご心配なさったように、「この期に及んで留守」なんて事態は起こりません。ヤツはお昼寝中。
今回はおそらくこの作品で一番の盛り上がりシーンであると同時に、一番のドン引きシーンでしょうね。どこまでいっても、グレッグはグレッグです。
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郷愁の丘(15)あなたのもとへ -2-
ようやくたどり着いた。驚かせたかったから黙って来たが、それを決意してから四十時間以上経っていた。
ジョルジアは、門の前に立つと指先で額にかかった髪をそっと梳いた。汗と土とでザラザラしていた。それで自分の服装を見回した。細かい土だらけで色褪せたようになっている。ため息がでる。それをはたきながら、ちっともマシな状態にならないと思っているところに、ルーシーが駆けてきた。
茶色い大きなローデシアン・リッジバックは、情けないジョルジアの姿には全く構わず、尻尾をちぎれんばかりに振って喜びを表した。彼女の憂鬱で不安な氣持ちは、少しだけ治まった。
「少なくともお前は私を歓迎してくれるのね」
ジョルジアは、そっと門を引いて中に入った。ルーシーがここにいるという事は、彼は家にいる。それに、ルーシーが全く吠えていないということは、アマンダは今ここにいない。それも彼女を力づけた。
「グレッグはどこにいるの? 部屋かしら?」
そういうと、ルーシーは案内するように家の脇を周り、こちらだよといいたげに裏庭の方へとジョルジアを誘導した。
そっと覗くと、ハンモックに彼が横たわっているのが見えた。ガーデニアの木は優しい木陰を作り、彼は穏やかに寝息を立てていた。久しぶりに見た彼の姿に、彼女はときめいた。
彼が自然に目を覚ますのを待つ事は出来なかった。ハンモックをほんの少し揺らすと、彼はぼんやりと瞼を開けた。
ジョルジアは、じっと見つめて微笑んだ。
彼は手を伸ばして「ああ、来たんだね」と言った。彼女はがっかりした。もう少し驚くかと思ったのに。
頬に触れた手は、何の躊躇もなくジョルジアを引き寄せた。驚いたのは彼女の方で、氣がついたらもう彼とキスをしていた。それも長年の恋人同士のような濃厚な口づけで、彼女は戸惑った。けれど、二秒もしないうちに、驚きは恋の歓びと独りよがりではなかったという安堵とに押しやられ、ジョルジアは体が熱くなるのを感じながら彼の情熱を受け入れていた。
彼の動きが止まった。ジョルジアを引き寄せていた強い力が急に抜けた。ジョルジアは瞼を開いて彼を見た。
彼は瞬きをしながら何かを考えていた。何かがおかしいと訝っている、そういう表情だった。
それからがばっと身を翻し、ジョルジアから離れようとして、そのままバランスを崩しハンモックから落ちてしまった。
「きゃあ!」
叫んだのはジョルジアの方だった。
「いたた……」
「大丈夫?」
助け起こそうとする彼女の腕に、彼は確かめるように触れて「本物? ジョルジアなのか?」と訊いた。
「もちろんよ。誰だと思ったの?」
「いつもの夢だと……あ、いや、その……本当に申し訳ない。なんて失礼を……」
平謝りするグレッグの頬に手を添えて、彼女は自分から彼にもう一度口づけをした。驚きのあまり硬直した彼の唇は、やがて、状況を理解したのか先ほどと同じように情熱的に応えた。彼の腕が背中にまわされ抱きしめられると、彼女は力を抜いてもたれかかった。
しばらくすると彼は息をついて彼女の唇を解放した。ジョルジアは、そのまま彼の首筋に顔を埋めて「私も謝らなくちゃだめ?」と囁いた。
「僕は夢を見すぎておかしくなってしまったんだろうか」
放心したように彼が呟く。
「驚かせてごめんなさい」
「どうしてここに?」
ジョルジアは、体を離すと正面から彼の瞳を覗き込んだ。
「あなたが泣いているような氣がしたの。そして、私を呼んでいると感じたの」
グレッグは、青ざめた。それから下を向いて小さく「すまない」と言った。
「謝らないで」
「できるだけ、そんな感情が出ないように氣をつけたつもりだったんだ。せっかくの楽しい旅を……」
「違うわ」
ジョルジアは、叫ぶように彼の言葉を遮った。彼は驚いたように顔を上げた。
稲妻に照らされて暗闇の中から浮かび上がった光景を見るように、突然自分の心がはっきりとわかった。彼女は、震えながら続けた。
「違うの。イタリアに行くのがあんなに楽しみだったのは……故郷を訪問できるからじゃなくて……あなたと一緒に観るつもりだったから。あなたが私を必要としていると、理由を作ったけれど……本当は、理由なんかない。ただ、あなたに逢いたかったの。だから、来たの」
「ジョルジア」
「怖かった。とても不安だった。あなたの心が今誰に向いているのかわからなかったから。もし、あなたに『もう必要じゃない』って言われてしまったら、『押し掛けられるのは迷惑だ』って思われたらどうしようって。だから、理由を作って……」
「僕は、本当に君を呼んでいた。君の存在が必要だった。でも、君を困らせたくなかったから、いや、疎ましく思われて嫌われたくなかったから、感情を隠し続けなくてはいけないと思ったんだ」
彼は立ち上がって、彼女の手をとるとテラスの椅子に座らせた。それから、すぐ近くにもう一つの椅子を引き寄せて触れるくらい近くに座った。
ジョルジアは、訊いた。
「お父様に何か辛い事を言われたの?」
彼は視線を落とした。
「彼は、遺言を書いたと言った。『彼の家族』に可能な限り残したいから。それに対して、裁判を起こして争ったりしないでくれと。具体的にどんな内容かは知らないけれど、少なくとも僕は『彼の家族』には含まれていないような口ぶりだった」
「そんな……」
「もっと話したかった。共に過ごす時間がほしかった。そう言いたくても『家族との残されたわずかな時間を大切にしたい』と言われたから、それ以上留まれなかった。『遺産のことで騒いだりはしない、一銭ももらえなくても構わない、でも、曾祖父さんの研究日誌だけは引き継がせてほしい』、そう頼むのがやっとだった。でも、それすらも、レイチェルに必要だろうからと断られた」
「グレッグ……」
「ここに戻ってきてから、ずっと君のことを考えていた。僕には、悲しみを打ち明けられる友も、心の支えとなる存在も、君の他に誰もいないんだ。でも、旅をキャンセルして、せっかく示していてくれていた友情すらも無駄にして、愛想を尽かされたと思っていたから、あのメールをもらえただけでもよかったと思わなくてはと自分に言いきかせていた。どんなに逢いたくても、話がしたくても、言ったら迷惑になるのだと。君にこれ以上の事を期待するのは無理だと。でも……」
グレッグはそっとジョルジアの頬に手を添えた。
「でも……?」
「来てくれた。信じられない」
しばらくそうしていたが、ふいに彼は彼女の頬が土ぼこりでざらざらしているのに氣がついた。訝りながら全身に視線を移し、汚れた服や土だらけの全身を眺めて訊いた。
「どうやってここまで来た?」
それでジョルジアは、炎天下に乗り捨ててきた動かないレンタカーの事を思い出した。
「あのね。助けてもらわなくちゃいけないことがあるの」
ジョルジアが、事情を話すと彼はぎょっとして、「よく無事で」といいながら強く抱きしめた。彼女は幸せに酔いながら、直感が正しかった事を喜んだ。
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最近のプレイリスト
でも、さすがにこの作品の詳細を語るのは止めようと思い、その代わりにiPhoneで聴いているプレイリストの話をしようと思います。
交流の長いブログのお友達の皆さんはよくご存じだと思いますが、私が作品を書く時は、同じプレイリストをしつこく聴き続けることで集中力がなくなるのを止めています。つまり、その作品の「My BGM」を聴き続けることでその作品脳のままにしておくのですね。
というわけで、このプレイリストの曲をまとめて流していれば、おそらく私がどんな作品を書いているかがわかってしまう……かな?
プレイリストの名前は伏せておきます。まんま作品のタイトルなんで(笑)
作曲者 | 曲名 | 演奏 |
Johann Sebastian Bach | Brandenburg Concerto No. 3 in G Major, BWV 1048: I. Allegro | David Parry & London Philharmonic Orchestra |
Dmitri Shostakovich | Suite from "The Gadfly", Op. 97a: VIII. Romance | Sofia Symphony Orchestra, Ivan Peev & Ivan Marinov |
A. Galbiati; E. Ramazzotti | Più che puoi | Eros Ramazzotti / Cher |
Johann Sebastian Bach | Double Concerto in D Minor for Two Violins, BWV 1043: Vivace | London Philharmonic Orchestra, David Parry, Pieter Schoeman & Vesselin Gellev |
Sergei Rachmaninoff | Vocalise, Op. 34 | London Philharmonic Orchestra, David Parry & Pieter Schoeman |
Johann Sebastian Bach | Cantata, BWV 147 "Herz und Mund und Tat und Leben" X. Chorale: "Jesu bleibet meine Freude" | Bach Collegium Japan & Masaaki Suzuki |
Heitor Villa-Lobos | Chôro No. 1 "Chôro típico" | Dakko Petrinjak |
Sergei Rachmaninoff | Rhapsody on a Theme by Paganini, Op. 43 | Tamás Vásáry, London Symphony Orchestra, Yuri Ahronovitch |
Arcangelo Corelli | Concerto grosso No. 8 in G Minor, Op. 6 "Christmas Concerto": III. Vivace - Allegro - Pastorale ad libitum. Largo | London Baroque & Charles Medlam |
これだけで脳内に「ああ、こういう好みね」と浮かんだ方はかなりクラッシック音楽好き。三曲目だけはイタリアンポップスですが、残りは全部クラッシックですね。あ、二曲目は映画音楽で、七曲目は、稔でも弾きそうな感じのギター曲です。
バロックのやロマン派の音楽が多いので、格調の高い話かと思われそうですが、そうでもないです。まあ、いつもの私の話に近いですね。
ちなみに、これをひたすら聴き続けているので、先ほども書いたように私の脳内は、この世界につなぎ止められています。つまり『Artistas callejeros 大道芸人たち』や『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』などはまたしても放置です。
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【小説】郷愁の丘(15)あなたのもとへ -1-
東京のような便利な都市に慣れていると、なかなかわかりにくいと思いますが、世界にはまだそう簡単に「問屋が卸さない」所が存在しています。特に、今回の舞台であるケニアを初めとするアフリカは、一筋縄ではいきません。しかも今は雨季。道はとても悪いのです。都会っ子であるジョルジアが四苦八苦する様子をお楽しみください。
今回は、二回に分けました。一応、このストーリーのクライマックスに当たる部分ですからいいですよね。
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郷愁の丘(15)あなたのもとへ -1-
彼女は落ち着くために一度エンジンを停止させた。悪い道を長距離走ることには、ニューヨーク在住の一般的な女性よりも慣れている。アリゾナやデスバレーで何日間も一人で撮影をしたこともあったから、四輪駆動車でなければダメだということは言われなくても知っていた。
ミラノで飛行機に乗り込む前にレンタカーの予約もしておいたが、列車に乗り遅れたくなくて、早朝ナイロビ空港に到着してすぐに確認しなかったのが最初の躓きだった。ジョルジアは、その日の午後には《郷愁の丘》に着いているつもりだった。
鉄道に乗り込んで、ムティト・アンデイまで二時間車窓を眺めた。この列車に乗って、モンバサへと向かったのは遥か昔のことのようだった。あれは一年と半年前の春の休暇だった。パーティにしつこく誘うリチャード・アシュレイへの言い訳のように、列車でモンバサへ向かうと口走った。そして、その言葉がきっかけで、グレッグは私をマリンディの別荘へと招待してくれたのだ。
それが、この旅の始まりだった。《郷愁の丘》への。
まだヘンリー・スコット博士と認識していたあの頃から、私は彼と親しくなりたかった。彼のことをもっと良く知りたかった。ずっと人との関わりを怖れて逃げ回っていた私が、三年前に知り合った時から、彼のことだけは安心できて友達になれると知っていた。直感で。
ジョルジアは、逸る心を抑えながら窓の外のサバンナを見つめた。シマウマの姿が見えた時には思わず微笑んだ。彼のフィールドにいるのだと感じたから。
彼女は、グレッグの元へ突発的に向かうのはこれで三度目だと思い当たった。レイチェルの家から、ニューヨークのパーティから、彼女を置いて黙って去っていこうとした彼を咄嗟に追った。そして今回、彼のメールに答える代わりにミラノの空港に急いだのも、心が答えを得ていたからだと思った。
彼を失ってはならないのだと。同僚であり彼女の苦しかった時期に支え続けてくれた友人でもあるベンジャミンが言った「運命の女神が用意してくれた貴重な瞬間」、絶対に逃してはいけない一瞬を捕らえるためには、今走るしかないのだと。そして、この旅はもうすぐ終わる。あなたの元で。彼女は、彼女の来訪を喜ぶ彼の笑顔を思い描いた。
だが、その甘い想いは、ムティト・アンディの駅で粉々になった。彼女の頼んでおいたレンタカーは用意されていなかった。そもそも窓口が閉まっていて、駅の係員に訊き、三度ほどたらい回しをされたあげくにようやくレンタカー会社の社員に電話をしてもらえた。一時間ほど待って現れたその係員はのらりくらりと応対しただけでなく、代車を用意するがセダンでいいかと言った。
「ダメです。四駆でないと」
「だったら、今日は無理です。明日の朝なら」
予約したのに用意されていないことに対する謝罪もなければ、速やかに対応するつもりもない。ジョルジアは怒りを抑えた。ここはアメリカではないのだ。
結局、ムティト・アンディで一泊して、今朝再び窓口に行って待った。あいかわらず時間通りにはやってこない。そして渡されたのは四駆ではあったが希望した車種ではなかった。だが、この車を借りなければ、今日中に《郷愁の丘》にたどり着けるかも怪しい。ジョルジアは諦めてキーを受け取った。
契約書では、ガソリンを満タンにしてあるはずなのに、満タンに見えないので文句を言うと「計器が故障しているだけで、ガソリンは入っています」と言われた。だが、次の町に着く頃にはガス欠に近かった。
そこでガス欠寸前にしたのがいけなかったのか、それとももともと壊れていたのか、車の調子は非常に悪かった。グレッグが彼の愛車にどれほどきちんとメンテナンスを施し、丁寧に乗っているのか、彼女は今さらながらに実感した。ここはとんでもない国だ。相手を信頼して任せていては何ひとつまともに機能しない。
そして、道も悪かった。たとえひび割れていても舗装されていればまだマシだが、多くの道はぬかるんでいるか土ぼこりの舞う自然道で、起伏も激しかった。大してスピードも出せない。予定では一日以上前に彼に会っているはずだった。
三度目にエンジンを切って、温度を下げ、彼女はハンドルの上に身を持たせかけた。私は何をしているんだろう。彼が呼んでいる、いますぐに逢いに行かなくてはならないと確信して飛んできたけれど、本当に彼は私を必要としているんだろうか。
彼はイタリア旅行を楽しむようにと書いてくれただけだ。お父様に拒否されたことを慰めてほしいなどとひと言も書いていなかった。ジョルジアは、《郷愁の丘》に滞在した時の、キクユ族のアマンダの憎しみに満ちた瞳を思い出した。その時に、もしかしたらこの娘はグレッグと特別な関係なのではないかと思ったことを。
彼は、ジョルジアに求愛したことは一度もなかった。初めて出会った時はもちろん、二年後に偶然再会したときも、彼はそんなそぶりを全く見せなかった。レイチェルが何も言わなければ、ジョルジアに恋心を伝えるつもりは全くなかったのだ。ジョルジアはクロンカイト氏を愛していると口にしてしまい、彼が何かを言う前にもう失恋させてしまった。しかも、それにも拘らず彼女が友達になりたいと願ったので、それを受け入れてくれた。それから一年半、主に手紙で交流しているが、彼が友情以上のことをほのめかしたことは一度もなかった。
彼を恋愛対象ではなく友達の枠に押し込めたのはジョルジアだったにもかかわらず、彼女はもうその立場に満足できなくなっていた。残酷で身勝手な自分は、運命によって既に罰せられているのだと思った。
「君みたいな化け物を愛せる男なんかいるものか」
かつて投げつけられた言葉は、未だに彼女の行動に足枷をつけている。恋愛感情と友情の境目で、とりあえず進んでみようとする選択肢は、彼女にはなかった。一対一の、のっぴきならない関係に直面するのを避けて、一人で傷つけられない立場にいることを好んだ。グレッグとの関係は友情だと自分を誤摩化してきた。彼に「愛せない」と宣言されないように。
けれど、もう安全地帯はない。ジョルジアはここまで来てしまった。このレンタカーのひどい状態と、慣れないケニアの道に、彼女は自分の力の限界を思い知らされた。軽やかに飛んでいき、好きな時に帰れる、そんな身勝手で楽な行程ではない。この車で今からムティト・アンディに引き返すことも、彼以外の誰かに助けを求めることも不可能だ。そして、彼への想いをなかったことにするのも、一人で問題がないと言い張ることも。そんなことは、ニューヨークにいる時に、そしてもっとずっと前に、自覚して処理しなくてはいけない問題だったのだ。
地球を半周してこんな形で登場したら、私が友達ではなくて、それ以上の特別な関係になりたいと思っていることはすぐにわかるだろう。それを彼はどう受け止めるのだろう。もう私に友情以上のものを感じなくなってしまっているとしたら。もし、彼とあの娘が一緒にいたら……。
イタリアに来なかったのも、もしかしたら遠回しの断りだったのかもしれない。もう、遅いのだと。
エンジンを再びかける。弱々しくモーターが回りはじめる。あと数十キロメートル。たどり着けるだろうか。たどり着いて、私はどうなるんだろう。
赤道直下の陽射しが彼女を焼いた。汗にまとわりつく土ぼこりが不快だ。どうしてこんなに遠いんだろう。こんなに上手くいかないのはどうしてなんだろう。私が間違った道を進んでいるからなんだろうか。
また、傷ついて「二度と恋はしない」と思うことになるんだろうか。
ジョルジアは、不穏な騒音や、心落ち着かない動きをする車を騙し騙し、ようやく見覚えのある辻にたどり着いた。ここから先には《郷愁の丘》しかない。ここをまっすぐ進めば少なくとも遭難はしないはずだ。その後に、人生の旅路で迷うことになっても。
彼女は、「お願いだから、もう少しだけ走って」と車に呟いた。車はその願いをきき遂げたらしい。異音をさせつつ彼女にグレッグの家が見えるところまでは動いた。だが、あと五百メートルというところで、急に静かになるとあとはどんなにキーを回してもエンジンがかからなくなった。しばらく待っても同じだった。
彼女は思いあまって、携帯電話を取り出してグレッグにかけようとした。圏外だった。車から降りると、赤い土の上に降り立ち、荷物は車の中に残したまま歩き出した。
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