【小説】郷愁の丘(17)わたしはここに
前回、第三者であるレイチェルに移った視点は、再びジョルジアに戻っています。
追記に恒例の後書きを記載しています。
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郷愁の丘(17)わたしはここに
ハンモックに揺られながら、ジョルジアは深く澄んだ青空を眺めた。全ての不安がこの光景のように拭い去られていた。ページをめくる静かな音がした。顔を向ける。ハンモックのすぐ下に座って彼は曾祖父の研究日誌を繰っている。彼女の視線を感じて目を上げた彼は、目を細めて微笑んだ。
穏やかな優しい微笑みも、朝焼けの中で燃え上がる魂の闕乏も、月の光に照らされた激しい情熱も、全てが紛れもない彼自身であると同時に、そうあるべきひとりの人間の姿だった。そこには何のぎこちなさもなく、わずかな矛盾もなかった。全く同じものが、ジョルジア自身の中にもある。彼女は彼を肌で感じ、魂で受け入れることができた。
そして、それは一方通行ではなかった。これまで誰一人として出来なかったことを彼は容易くやってのける。醜い肌を見られることを怖れてジョルジアが流した涙は、彼の抱擁の中に溶けて消えていった。何も失われなかったし、どちらの想いにもブレーキはかからなかった。
そして、グレッグも彼女の弱さと怯えの原因を目にしたことで、ようやく彼女の言葉を心から受け入れることができた。「あなたは私に似ている」
家族に心から愛され、素晴らしい友人と理解ある同僚に囲まれていてもなお、彼女は彼と同じ煉獄を歩き続けてきた。
それは同情でも寛容でもなかった。受け入れてもらえなかった苦しみと、そのために傷つき迷い続けてきた同じ感情の共有だった。だからこそ、二人はお互いを求め、受け入れることができ、与えることができた。
彼は相変わらず礼儀正しく臆病だが、想いを隠そうとはしなくなった。穏やかな、けれども、あの朝焼けと同じように心の隅々までに広がる万感の想い。彼女はそれを感じ、受け止め、自分の中にも認め、境界もなく溶け合っていく歓びを知った。
自然と環境が引き起こす、すべての強い印象とわき上がる感情も、螺旋を描くようにして彼の中に穏やかに帰着していった。
ジョルジアはついに、彼女の《郷愁の丘》は場所ではなくこの人なのだと見出した。
発つ朝に、ジョルジアはようやく納得のいく写真を撮ることに成功した。朝焼けの中に佇む彼と寄添う愛犬ルーシーの影。
愛しいジョルジア。
もう雪が降ったというのは本当かい? 前に雪を見たのはずいぶん昔、オックスフォードでだ。イギリスの冬が苦手で屋内に隠ってばかりいた僕には、あまり楽しい思い出ではないけれど、君のいるニューヨークの雪を想像すると、とてもロマンティックに思えるから不思議だ。
こちらは、少雨期の終わりだ。そろそろバブーンたちが悪さをしに《郷愁の丘》を訪れるようになる。台所にまで入り込むので、より一層、戸締まりをちゃんとしなくてはいけなくなる。
もっとも悪い事ばかりじゃない。道のぬかるみがなくなるので、君が経験したようなひどい運転はしなくて済むようになる。移動にかかる時間もずっと短くなるんだ。今度は、君も乾季のケニアを経験するだろうね。
君と会社の契約の話、もちろん僕には全く異存はないよ。君のキャリアを大切にしてほしい。ニューヨークでの君の味方とのつながりも。僕はむしろ、君と年に五ヶ月も一緒にいられるようになったことを心から喜んでいるんだ。
それに、ダンジェロ氏、君の兄さんにも感謝しなくてはならない。年に一度、報告にニューヨークまで行くという契約、そうでもしないと成果を出そうともせずにのらりくらりとしていると疑われているのかと思っていた。たとえその通りでも、君の居る街への往復航空券をもらえるのは本当にありがたい。もちろん休みを都合して、出来るだけ長く君と過ごす時間を作るつもりだ。もっとも、そうなると今度からはルーシーを連れて行く手だてを考えないといけないな。
論文は、山登りで言うと七合目まで来ている。もっとも新しいアイデアが湧いてきたので、少し別の角度からアプローチすることになるかもしれない。明日、レイチェルの所に行って、方針について相談して来ようと思っている。
レイチェルの所には、ここの所ずっとマディたちがいる。だから最近よく逢うんだけれど、小さなエンリコが、僕に懐きはじめているんだ。メグにひどく嫌われていたから、全く思いもしていなかったんだけれど、彼は僕といるのを好み、自分からやってくる。子どもの扱いは全くわからないけれど、絵を描いてみせると喜んでケラケラ笑うんだ。
マディは、僕が君と出会って変わったからだというけれど、そうなのかな。自分では変われたのか、よくわからない。でも、誰かに好かれていると感じるのは、嬉しいものだね。
そうそう、君に教えてもらったボローニャ風パスタソース、とても簡単そうだったから試してみたんだ。でも、火にかけていた事を忘れてしまって鍋を焦がしてしまった。二回もそれをやったので、アマンダがとても怒ってしまって、二度と焦げた鍋は洗わないって言われてしまったよ。焦げていない上の方は食べたよ。君のほどではなかったけれど、長く煮たおかげで自分で作ったとは思えないくらい美味しかった。焦げた匂いはしたけれどね。そういうわけで、時間のかかる料理は僕にやらせると危険だから、別の簡単な料理を教えてくれないか。
君が来る二月が待ち遠しい。君に見せたいものがたくさんあるんだ。それに、話したい事も山のようにある。手紙やメールには全ては書ききれない。
マディは君がもっと快適に過ごせるように《郷愁の丘》を変えた方がいいっていうんだ。一理あると思う。でも、彼女がなんとかしろと言う家具よりも、一番大切なのは暗室を用意する事だろう? どうしたら氣にいるか、君の意見を聴かせてくれるね。近いうちに、また書くよ。愛を込めて グレッグ
ジョルジアは、手紙を折り畳むと、コートのポケットにしまった。一昨日、彼が送って来たメールには、彼の家の近くに出現した小さな川で水を飲むシマウマ親仔の写真が貼付されていた。《郷愁の丘》は、痛みや悲しみを越えて新たな生命を生み出している。はるかに広がるサバンナは生きてさまざまな表情を見せている。
ジョルジアは今にも雪が降り出しそうな高層ビルの合間の空を見上げた。ニューヨークでは今日も八百万もの人生ドラマが忙しく繰り広げられている。彼女も、その一人として人生の道を歩いていると思った。
その道は曲がりくねり、見とおしは悪く、とても遠い。けれども、地球の裏側には彼がいる。同じくらい遠く足元の悪い道を、一歩一歩進んでいる。それを知っているのは、何と素晴らしいことか。やがて、その二つの道が一つに重なる事を夢見ながら歩いていくのは、この上なく美しい。
彼女は今日もまたここで、精一杯の日常を生きようと思った。
(初出:2018年6月 書き下ろし)
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今年もサン・ジョアン祭に行けないけれど

私が大好きで毎年通っているポルトで一番大きな祭りがサン・ジョアン祭です。サン・ジョアンとは日本語でいうと「洗礼者ヨハネ」のこと。キリスト教ではとても大切な聖者ですが、日本だとサロメの逸話が一番知られているかもしれませんね。先日発表した小説でも触れましたが、6月24日の「聖ヨハネの祝日」にヨーロッパ各地で大きな祭りが開催されるのは、洗礼者ヨハネが重要な聖者ということもありますが、やはりキリスト教以前に祝われていた夏至祭の影響が強いのでしょう。
サン・ジョアンの祝日の前夜祭は、私の小説でも何度か書いています。「Infante 323 黄金の枷」本編でも、主人公たちのデートに使いましたし、外伝でも書いています。だから、一度は行きたいなと思っているのですが、まだ実現していません。今年行こうと思っていたのですけれど、実は母が三月にポルトに来るかもという話があって、実際は来られなかったのですが、この祭を訪れるのは別の年にしたのです。結局、母はポルトガルを見ずじまいになってしまいました。残念。

サン・ジョアンの前夜祭で大事な役目を果たすのが、バジルとイワシの塩焼き。今年は、そのバジルの種を買ってきて自宅で栽培しました。ほら、こんな風に育ちましたよ。スイスにももちろん普通のバジルはいくらでも売っているのですけれど、このバジルは葉がとても小さくてその分くせが少ないのです。香りはそのままに、苦みが少ないのですね。

こちらは、紙風船を飛ばす時の、やり方。昨年の三月に、向こうで友達になって自宅に招いてくれたミゲルが季節外れだけれど飛ばしてみてくれたのでした。やはり一度は本番を見たいですね。
なんとなく、日本の灯籠流しにも近いものがあって、夏の趣があります。実は、これと同じ風船をいただいてきたのですけれど、やはり火事が怖いので私は飛ばせないので、ランプ的に使えないかななんて考えています。
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【小説】夏至の夜
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。いただいたテーマは「夏至」です。(明日が夏至ですから、なんとしてでも今日発表したかったのです)
そして、【奇跡を売る店】シリーズで素敵な短編小説を書いてくださいました。
彩洋さんの書いてくださった 「【奇跡を売る店・短編】あの夏至の日、君と 」
コラボは、ここに出てくる登場人物の誰か、でいいでしょうか。このシリーズ、元々がパロディなので、適当にキャラを崩壊させていただいても何の問題もありません。如何様にも料理してくださいませ。
そして、舞台は、私がまだ見ぬ巨石・ストーンヘンジがいいかなぁ。あるいは夜のない北欧の夏至でも。
というご要望だったのですが、この中の誰かって、皆さん日本にいるし、ヨーロッパの夏至にいた方たちのうちお一人は、もうコラボできないし、結構悩みました。
それで、コラボしているような、全くしていないようなそんな話になりました。さらにいうと、ストーンヘンジは絡んでいますがメインではありません。キャラクターも読み切り用でおそらくもう二度と出てこないはず。若干「痛たたたた」といういたたまれない状況に立っています。「そうは問屋が卸さない」って感じでしょうか。
ちなみにリトアニア辺りだと、夏至でもまだ夜はあるようです。私の辺りで日没は21時半ぐらいですが、リガだと22時半ぐらいのよう。その短い夜に一瞬だけ咲くと言われる、生物学的には存在しない花。これが今回の小道具です。

夏至の夜
風が牧場の草をかき分けて遠くへと渡っていった。川から続く広い通りは、聖なるサークルへの最後の導きだ。ここまで来るのに三年の月日が経っていた。これほどかかったのは誤算だったが、なによりも長くつらい旅を乗り越えられたことに感謝しなくてはならないだろう。
彼は、遠く常に雪に覆われた険しい山脈の麓からやってきた。この地に伝わる「癒やす石」の力を譲り受け、同じ道を帰らねばならない。主は彼の帰りを待ちながら、苦しい日々を過ごしているはずだ。もちろん、まだ彼が生きていれば。それを知る術はない。
なんと長い一日だ。彼の故郷でもこの時期の日は長い。だが、この北の土地ではゆっくりと眠る暇もないほどに、夜が短くなる。通りを歩く旅人の姿が多い。みなこの日にここへ来ようと、集まってくるのであろう。聖なるサークルへと向かい、夜を徹して祈り、不思議な力を持った朝の光がサークルを通して現れるのを待つのだ。夏至祭りだ。
彼は、サークルへ向かう巡礼者たちの間に、奇妙な姿を見た。純白の布を被った小柄な女だ。どのような技法であの布をあれほどに白くしたのだろう。布はつややかで柔らかそうだった。風にはためき時折身につけている装身具が現れた。紫水晶のネックレスと黄金の耳飾り。
視線を感じたのか、女は振り向き彼を見た。浅黒い肌に大きな黒い瞳、謎めいた笑みをこちらに向けた。
奈津子は反応に困っていることを顔に出さないようにするのに苦労した。目の前にいるのが中学生だったなら、「これが中二病か」と納得して面白かったかもしれない。また、妙齢の大人だったら、一種の尊敬心すら湧いてきたかもしれない。もし、自分の身内だったら「何言っているの」と一蹴することもできた。
けれど、目の前で憂鬱そうな様子で先史時代のストーンヘンジの話をしているのは、基本的には自分とは縁もゆかりもない、二十歳も年下の日本人男性だった。そして、非常にまずいことに、妙にいい男だった。
奈津子がこの青年と二人で旅することになった原因を作ったのは甥だ。それも唯一氣が合い、コンタクトを持ち続けてくれる可愛い身内だ。そもそも奈津子は甥の順と一緒にこの旅行をするつもりで休暇を取った。計画の途中で、「友人を連れて行ってもいいか」と訊かれたので「もちろんいいわよ」と答えた。甥が出発前日に「会社存続を左右する顧客への対応で、どうしても休暇を返上しなくてはならなくなった」とキャンセルしてきたので、初対面の若い青年とこうして旅をしているというわけだ。
甥がわざわざこの青年を旅に誘った理由は、間もなくわかった。
スイスに住む奈津子は、宗教行事の影に隠れた民俗信仰を訪ねることをライフワークにしていて、これまでも色々な祭りを見てきた。スペイン・アンダルシアのセマナサンタ、ファリャの火祭り、フランスのサン・マリ・ド・ラ・メールの黒い聖女サラを巡るジプシーの祭り、ヨーロッパ各地の個性豊かなカーニバル、チューリヒのゼックス・ロイテン、エンガディン地方のカランダ・マルツ。
豊穣の女神マイアの祭りに起源があると言われる五月祭とその前夜のヴァルプルギスの夜や、太陽信仰と深い関係のある夏至や六月二十四日の聖ヨハネの祝日は、ヨーロッパ各地で様々な祭りがあり、奈津子にとって休みを取ることの多い時期だ。有名なイギリスのストーンヘンジの夏至のイベントも若い頃に体験していて、そのことを甥に話したこともある。甥の順とは、去年一緒にノルウェーの夏至祭を回った。
今年の順との旅では、リトアニアの夏至祭を訪ねることにしていた。
この時期のリガのホテルはとても高いだけでなく、かなり前からでも予約が取れないため、奈津子は車で五十分ほど郊外にある小さな宿を予約してあった。今日の午後、早く着いた奈津子が既にホテルにチェックインを済ませた。それから空港に一人でやってきた古森達也を迎えに行った。別の部屋とは言え、見知らぬ年上の女と一週間も過ごすことになって、さぞかし逃げ出したい心地になっているだろうと思っていたのだが、達也は礼儀正しい好青年でそんな態度は全く見せなかった。
レンタカーでホテルに向かい始めてから、助手席に座った達也はどうしてこの旅に同行したいと順に頼んだのかを語り始めた。長年彼を悩ませている夢。夏至を祝うためにストーンヘンジに向かい、謎の女に出会うという一連のストーリーの繰り返し。それも、おそらく先史時代のようだった。
そんな話を真剣に語られて、奈津子は戸惑った。
そもそもストーンヘンジには、痛々しい思い出があった。二十年以上前のことだ。まだ、大学を卒業して間もなく、また、自分自身でも何を探していたのかよくわからなかった頃、奈津子も熱に浮かされたようにパワースポットといわれる場所を巡っていた。そして、夏至のストーンヘンジへ行ったのだ。
太陽と過去の叡智が引き起こす自然現象を待つ巨石遺構は、エンターテーメントを求める人々で興ざめするほどごった返していた。そもそも、こうした祭りには一人で参加するものではない。一人でいると周りの盛り上がりにはついて行けず、楽しみも半減していた。
当時はまだ今ほど外国語でのコミュニケーションに慣れていなかったので、奈津子は一週間近くまともな会話をしていなかった。そんな時に、明らかに日本人とわかる二人の壮年男性らを見かけて、もしかしたら会話に混ぜてもらえないかと近くまで寄っていったのだ。ヒールストーンの彼方から太陽が昇ったその騒ぎに乗じて、その二人に話しかけるつもりだった。
だが、それは非常にまずいタイミングだった。奈津子は、一人の男性がもう一人に対して愛の告白をするのを耳にしてしまったのだ。いくら人恋しいからといって、このなんとも氣まずい中を平然と話しかけられるほど奈津子は人生に慣れていなかった。今から思えば、そこでふざけて話しかければあの二人のギクシャクした空氣の流れを変えられたのかもしれないが。
あの時と違って、奈津子はいい年をしたおばちゃんになった。スイスで十年間以上一人で暮らし、言葉や度胸でも当時とは比べものにならない。そして、可愛い美青年が、妙な告白をしても、なんとか戸惑いは表に出さずに、会話を続けることもできた。
「だとしたら……どうしてストーンヘンジに行かずにここへ来たの?」
奈津子は単刀直入に訊いた。
達也は頭をかいてつぶやいた。
「いや、あれは、夢の話ですから。変な話をしてしまって、すいません」
「いいえ、してもいいのよ。でも、どう答えたらいいのか、わからないのよ。それはあなたの前世の記憶だって思ってるの?」
「いや、そんなことは……。あれです、どっかのアニメか映画で観たのかもしれないです」
奈津子は首を傾げた。
「さあ、知らないわ。あったとしても、私は浦島太郎で、日本のアニメや映画などにはずっと触れていないのよ。もっとも私、夏至のストーンヘンジにはいったことがあるのよ」
「知っています。順がそう言っていました。だから奈津子さんに逢ってみろと」
一度もストーンヘンジに行ったことがないにしては、達也の話すストーンヘンジの様子は妙に具体的だった。誰でも見たことのある二つの石の上に大きな石で蓋がしてあるような形のトリリトンの話なら、行ったことがない人でも記憶に留めているかもしれない。だが、達也はヒールストーンの向こうから昇る朝日のことを口にしていた。
ヒールストーンは周壁への出入り口のすぐ外側のアヴェニューの内部に立つ形の整えられていない赤い砂岩でできた巨石だ。サークルの中心から見て北東にあり、夏至の日に太陽はヒールストーンのある方向から出て、最初の光線が遺跡の中央に直接当たり、ヒールストーンの影はサークルに至る。
普段の観光ではあまり話題にならないが、夏至のストーンヘンジでは、主役といってもいい石なのだ。
それに、最近の学説では、夏至のストーンヘンジの祭りは天文学的な意味合いだけではなく、民俗的な、ヨーロッパの他の夏至祭りとも関連のある意味合いを持つともいわれている。すなわち男女の仲を取り持つ祭りというわけだ。馬蹄形に並べられたトリリトンとその周辺にあるヘンジは女性器を表すと考えられ、もともとは脇に小ぶりな岩が二つ置かれていたと考えられるヒールストーンの影が夏至にその遺跡に届くことが、性的な象徴として祝われていたというものだ。
「ヨーロッパの各地の夏至祭りでは、いわゆるメイポールのような柱を立てて、その周りで踊ったり、たき火を飛び越えたりして祝う習慣があるのね。そして、この日に将来の結婚相手を占う、あまりキリスト教的ではない呪いが、主に北ヨーロッパで行われているの。多くが縁結び的な役割を担っているのよね」
「大昔のストーンヘンジでも、そういう役割を担っていたということなんですか」
達也は真面目に訊いた。奈津子は肩をすくめた。
「なんとも言えないわ。そうかもしれないし、違うかもしれない。ブルーストーンに癒やしの力があった信じられていたというのも、推測に過ぎないし、ヒールストーンの影に性的な意味合いがあるというのも、勘ぐりすぎなのかもしれないし。現在の各地の夏至祭に縁結び的な側面があるというのは事実だけれど」
薬草を摘み、三つ叉になったポールを囲み祝う。朝露を浴びる。そうした呪いの後、夢の中に未来の夫が現れるといった縁結び的信仰が共通してみられるのだ。
とはいえ、奈津子には夏至祭りに縁結びの力があるとは思えなかった。なんせ二十年以上、何かとこの祭りに行っているのに、一向に御利益がないからだ。たまにいい男と一緒かと思えば、ここまで年下だと、期待するのも馬鹿みたいだ。
「夢の中に……ですか」
「枕の下にセイヨウオトギリソウを置いて眠ると、未来の夫が夢に現れるというような信仰ね」
「なるほど」
「この辺りでは、シダに夏至の夜にしか咲かない赤い花が咲くので、それを見つけて持ち帰るといいという言い伝えもあるのよ」
生物学的にはナンセンスだと言われている。そもそも胞子で増えるシダに花は咲かないから。
「なんですって?」
達也が大きな声を出した。奈津子はぎょっとした。
「どうしたのよ」
「いや、シダの赤い花っておっしゃったから」
「言ったけれど?」
「さっき、日没の直後くらいに見たように思ったんです」
奈津子は車を停めた。今夜は、夏至祭りではない。祭りは大抵どこも聖ヨハネ祭である二十四日かその前夜である二十三日に行われるからだ。つまり、二日ほどゆっくりと観光をしてから祭りに行く予定だった。が、よく考えれば今夜こそが本来の夏至だ。そこで赤いシダの花を見たなどと言われては聞き捨てならない。
「どこで?」
「さきほど通った林ですよ。ここは一本道だから。このまま戻ったら見られると思いますけれど」
馬鹿馬鹿しいと、このまま走り抜けてもよかったのだが、好奇心が勝った。それに、夏至らしい思い出になるではないか。無駄足だとしても、少しくらい戻っても問題はないだろう。ホテルはすぐそこだ。奈津子は素直に車をUターンさせた。
その林は、さほど時間もかからずに、たどり着くことができた。十一時を過ぎてすでに暮れていて、どこにシダが群生しているのか見つけるのにもう少しかかった。けれど、最終的に車のライトが茂みをはっきりと映し出した。
「ほら、あそこに」
それは、本当に花と言えるのか、それともまだ開いていない葉が赤く見えているのか、奈津子には判断できなかった。けれども、それが花に見えるというのは本当だった。
「本当だわ。まるで花みたいね」
赤い花を咲かせるシダを見つけたら、深紅の絹でそっと包み、決して立ち止まらずに家まで持ち帰らなくてはならない。そして、道を尋ねる旅人に出会っても、決して答えてはいけない。それはただの旅人ではないのだ……。奈津子は、赤いシダ花の伝説を思い出して身震いした。
達也は、車から降りると、黙ってシダに手を伸ばした。奈津子は、心臓の鼓動が彼に聞こえるのではないかと怖れた。奇妙な組み合わせとは言え、夏至の夜に未婚の男女が、存在しないはずの伝説の植物を手にしようとしている。それは、常識や社会通念というものを超えて、何かを動かす力を持つのかもしれない。ストーンヘンジで、道ならぬ恋心を打ち明けたあの男が、もしかしたらこのような夏至の魔法に促されたように。
達也は、シダを手折ると、奈津子には目もくれずに林の奥へと歩き出した。人里離れた林の奥を目指しているようだ。声を出してはならない。そう思う氣持ちとは逆に、どこかで冷静で現実的なもう一人の奈津子が「戻さないとまずい」と訴えていた。
と、視界の奥に、見るべきでないものが入ってきた。白いマントのようなもので全身を覆った人。小柄だからおそらく女だろう。二十一世紀には全くふさわしくないドルイド僧のようなその姿に、奈津子は焦った。彫りの深い顔立ち、黄金の耳飾りと、紫水晶のネックレス。つい先ほど彼が描写したままの謎の女の姿。
あれこそ、決して答えてはならない危険な旅人ではないのだろうか。達也は、ずっとその人物と無言で見つめ合っていた。どれほどの時間が経ったのかわからない。しびれを切らした奈津子は禁忌を破り、声をかけた。
「達也君。そっちへ行ってはダメよ。さあ、ここから離れて、ホテルに行きましょう」
達也は、ビクッとしてこちらを振り向いた。奈津子は、手にしていたシダを全て手放させると、袖を引っ張るようにして、彼を歩かせ車に乗せた。彼は何度か振り向きつつも、やはり理性の命じるままに助手席に乗った。そのままホテルにつくまで、奈津子が何を訊いても全く口をきかず、ずっと考え込んでいた。
翌朝、約束の朝食の席に降りてきた奈津子は、達也が伝言メモを残して消えてしまったのを知った。
慌てて日本の順にメールを送ると、彼にもメールが入っていたそうだ。急に予定を変えることになり、一足先に帰国することになった。お詫びを順からも伝えて欲しいと。ホテルのフロント係によると、朝一番でチェックアウトしたらしい。隣には、異国風の女性が一緒にいたということだった。
へい、奈津っち。
ぶったまげたよ。達也がまさかいきなり国際結婚するとか、ありえなくね? つーか、俺が何度訪ねていっても、奈津っち一度だって女の子紹介してくれたことないのに、なんで達也にはそんなサービスするんだよ。てか、人の世話していないで、自分の相手は?
それにしてもすげー美人を連れてきたって、仲間内でも大騒ぎだぜ。この間ダメになった休暇の代わりに改めて休みをもらったので、冬休みには、そっち行くから、その時に話そうな。 順
別に私がくっつけたわけじゃないわよ。甥からのメールを見ながら、奈津子はひどい疲れを感じた。あちこちを蹴飛ばしたい氣分だった。心配して損した。前世がどうのこうの、ストーンヘンジがなんとかかんとかいうから、夏至の揺らぎが見せる魔界に取り込まれたんじゃないかって、どっちが中二病かわからない不安を持っちゃったじゃない。
彼はきっと、あの女性がどうしているのか氣になって、またあの林に行ったのだろう。そして、そのまま意氣投合して二人で旅することにしたのだろう。
男女の仲を取り持つと言われる不思議な夜。確かに、ある種の人々には効果絶大らしい。たまたま自分だけそうでないからと言って、迷信扱いするのは間違っているのかもしれない。いや、語り部というのは、その手の恩恵は手にすることができないということなのか。
奈津子は大きなため息を一つつくと、この件はもう忘れようと思った。そして、「冬に来るならクリスマスマーケットに付き合え」という趣旨のメールを、唯一なついてくれる甥っ子に書いた。
(初出:2018年6月 書き下ろし)
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どれを完成させるべき?
で、代わりと言ってはなんですけれど、今日は「coming soon……詐欺」を少し進めてみました。(この記事も少し前にほとんど用意が終わっていたものです)
実はですね。現在、本来ならば完結させるべき「続編あれこれ」、どれも書き終わっていないんですよ。個人的には書き終えてから連載を開始したい性格なんですけれど、今から終わっている関係ない作品でお茶を濁すのもなんなので、この後は、「リゼロッテと村の四季」を一つと、「大道芸人たち Artistas callejeros」の次の章を公開しようかなと思っています。
で、その次に来るのは、ちゃんと完成してからにしたいんですけれど、次の三つの内のどれかにしたいと思っています。
そして、可能ならば、すでに既読の方からご意見を頂戴して、一番要望の多かったのから書こうかなと思っているんですけれど、そういうのはダメでしょうか……。この記事に全くコメがなければ、まあ、自分で決めますけれど。
(動画ですけれど、何度かスタートを押さないと動かないみたいです)
【候補その1】『霧の彼方から』
『ニューヨークの異邦人たち』シリーズですけれど、とどのつまり『郷愁の丘』の続編です。今回の作品でさらっと逃げたところを、掘り下げてあります。R18シーンがあるから逃げたんですけれど、実際に書いてみたら全然たいしたことのないシーンだったので、これなら公開してもいいかなと思っています。今のところ七割くらい書き終わっています。そんなに長くないので。
【候補その2】『Filigrana 金細工の心』
「黄金の枷」シリーズの三作目です。二作目の『Usurpador 簒奪者』がうまくまとまらないために、いつまでも公開できないんですけれど、はっきり言って『Usurpador 簒奪者』はなくても話は通じるので、外伝的に細切れに出して、ちゃんと連載するのは『Filigrana 金細工の心』にしようかと思っているんです。時系列で言うと、『Infante 323 黄金の枷』の直接の続編になります。これも七割くらいかなあ。
【候補その3】『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』
『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』の続編です。構想だけは、一番ちゃんと進んでいるのですけれど、やはり執筆に時間がかかるのが、このシリーズ。問題は記述の裏取りです。まあ、架空の国なんだからそこまでこだわらなくてもいいんですけれど。
そして、以前の動画でお知らせしたところは、どう考えても一つのストーリーで入りきらないことがわかったので、『トリネアの真珠』と『柘榴の影(仮題)』に分けて、『トリネアの真珠』だけに集中して完成させる予定です。これはまだ四割行っていないかな。かなり頑張らないと難しいかも。
自分でツッコみますが、「こんな動画作っている暇があったら、書けよ」……ですよね。
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ホルンデルシロップを作りました
ふと思ったんですけれど、いわゆる海外ブロガーさんとあまり交流ないなと。(あ、創作仲間のけいさんをのぞく)
海外在住とプロフィールに書いているから、たまーに海外ブロガーさんがいらっしゃるんですけれど、たいていもう二度といらっしゃらない。何でだろうなと思って、訪問したブログの後に自分のブログを見たら、理由がわかりました。海外在住の話、全然書いていないわ。自分の作品の話ばっかり。そりゃ、もういらっしゃいませんわね。
さて、だからというわけでもないんですけれど、今日はちょっと『海外ブロガー』っぽい話題を。といってもいつもの田舎暮らしの話ですけれど。

通勤路でニワトコが満開になったので、慌てて有機レモンを買ってきました。年に一度のホルンデルシロップを仕込む季節なんです。ホルンデル(Holunder) とは西洋ニワトコのことで、白い花でシロップを作るほか、黒い実でもシロップやアルコール漬けなどを作ります。実を使った方は、風邪の予防になるなど自然療法でも重要視されていますが、やはりこの花のシロップが爽やかで美味しいのです。
スイスに移住してから、ずっと欠かさずに作っています。もっとも最近の若い人たちは、こういうのはお店でしか買わないみたいです。日本人なのに毎年手作りしているというと驚かれます。でも、ウルトラ簡単なんですよ。

花を30くらい摘んできます。もともと教えていただいたレシピによると10くらいでいいらしいんですが、そのレシピだと花を洗わずにそのまま使うんですよ。でも、かなりの確率で虫がいるので、私はちょっとだけ振り洗いするんです。
それを3個分のスライスレモンと一緒に3リットルの水につけておきます。今年は、ちょっとやり方を変えて、水は2リットルにして、後で少し加えることにしました。というのは、容れ物に水が入らなかったのですよ。いつもは大鍋を使うんですけれど、今年は大鍋を三日間占拠させることができなかったので。

これがしばらく経った状態。毎日かき回してじっくりと浸透させます。
三日経ったら、花とレモンは使わずに漉したエキスと3㎏の砂糖(三温糖と白砂糖を適度に混ぜる)と一緒に沸騰させます。十分間沸騰させたらもうできあがりです。熱湯消毒した密閉瓶に詰めておしまい。簡単でしょう?
大人たちは昼間っからワインやパスティスを飲んだりする国ですけれど、子供たちや運転する人は、好んで甘いシロップを飲みます。市販の清涼飲料を用意するよりも、こうしたシロップがあるといつでも用意できて便利なのです。
以前もご紹介しましたが、ニワトコとはこういう花です。とてもいい香りがするのですよ。

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スイスに戻っています

皆様の暖かいお言葉、心に染みました。
いつかはこういう形で駆けつけることになるだろうと、覚悟はしていたのです。でも、どこかでまだずっと先だと思っていました。
母は今あちらへいくつもりは全くなかったはずですが、私が訃報を受けてから、ここに戻ってくるまで、まるで母が全部お膳立てをしてくれているとしか思えないようなトントン拍子でした。
報せを受けた翌日の直行便に空席が残っていました。有休の残り日数や仕事のことを悩むまでもなく、もともとこの一週間は休暇でした。家を出る数分前まで降っていた大雨が止んで晴れたこと、帰りも梅雨に入っているのに晴天だったこと。珍しく左側の窓際に座ったのですけれど、富士山がよく見えました。さらに、私が本当は帰国用に取りたくて取れなかった一日後のフライトは、大雨(台風?)で悪天候でした。
葬儀の準備や当日も、過ごしやすい爽やかな天候で、日本の夏を知らない連れ合いは「日本の夏っていいねえ」と驚いていました。「これ、夏じゃないよ」と釘を刺しましたけれど。
悲しさがなくなったわけではないし、やることはまだ山のように残っているのですけれど、生活の方も待ったなしです。折り合いながら続けていくしかないと思いますし、そうすることで、みな立ち直っていくのだろうなと思っています。
来週辺りから、ブログも再開しようと思っています。どうぞよろしくお願いします。
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【小説】庭園のある美術館で
今日は「十二ヶ月の情景」十月分をお送りします。毎月ある情景を切り取った形で掌編を作っています。三月から、100,000Hit記念企画として、みなさまからのリクエストに基づいた作品を発表しています。
今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。今月も、難しいリクエストでした。
テーマは、『秋の東京』でお願いします。月の希望は、10月か11月で。
ウチの詩織(都立高校生)を使ってやってください。八少女夕さんの作品世界とキャラは、お任せします。
観月詩織ちゃんは、TOM−Fさんの「天文部シリーズ」のダブルヒロインの一人です。最初の登場では高校生でしたが、とある事情があって、都立高校卒業後の話になっています。事情って、つい最近彼女がうちの小説の舞台を訪問してくださった後の話を書いてしまったからです。この時の話は、以下の二つの作品でTOM−Fさんとコラボさせていただきました。
TOM−Fさんの書かれた 『この星空の向こうに Sign05.ライラ・ハープスター』
私のお返し掌編 『あの時とおなじ美しい海』
読まなくても通じるようには書きましたけれど、まあ、そういうことが背景にあると言うことで。
そして、共演させていただいたのは、最近よく出てくるあのシリーズの、いつも作者に散々な扱いを受けているナイロビ在住のあの人です。今回も特にオチのない情景だけで、すみません。

【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む |
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
庭園のある美術館で
東京都庭園美術館のカフェは、ほぼ満席だった。
その日、『マンハッタンの日本人展』が開催されて、氣鋭の作家たちによる現代絵画や彫刻などが展示されていた。そして、アレッサンドラ・ダンジェロ所蔵のケン・リィアン作『impression sunrise , long island iced tea』も、目玉作品の一つとして来日していた。
リチャード・アシュレイは、美術に造詣が深いわけではない。実のところケン・リィアンがどのような画家なのかも全く知らなかった。単純に、スーパーモデルが大衆食堂にかかっていた色鉛筆画を32万ドルという高額で買い取ったという話を聞いて興味を持ったのだ。
彼は、ケニアのナイロビ在住で、たとえニューヨークに行く機会があってもその大衆食堂に行くことはないであろう。たまたまやってきた東京でその絵を観るチャンスがあるなら、観ておくのも悪くないと思って出かけてきたのだ。それに、直接ではないが、彼はアレッサンドラ・ダンジェロやその大衆食堂と縁がないわけではなかった。
間もなく結婚する友人の婚約者はアレッサンドラ・ダンジェロの実姉で、ニューヨークでの結婚パーティはその大衆食堂で行うことになっているらしい。リチャードはそのパーティに行くことはないが、ケニアでの披露パーティは、彼と、彼の親友であるアウレリオ・ブラスが仕切ることになっているのだ。
仕事を兼ねて日本へ行くというアウレリオに同行して、プライヴェートな休暇として秋の日本にやってきたリチャードは、この展覧会の話を聞き一緒に行くことにした。商談を終えて合流するはずだったアウレリオがやってこないので、彼は十五分ほど待ってから中に入り、一人で展覧会を見て回った。
アウレリオのことは心配していなかった。彼が時間通りにやってきたら、その方がよほど不安に思ったことだろう。アウレリオは、知り合ってから二十年近く経つが、予定通りに現れたことは二度ほどしかなかった。
この美術館は、かつては日本のプリンスの一人である朝香宮鳩彦王が1933年に、当時フランスで全盛を迎えていたアール・デコ様式を大胆に取り入れて建てた邸宅をそのまま伝えている。建物そのものが芸術作品といってもよく、日本国の重要文化財に指定されている。
アール・デコ風の額縁に収められ、赤外線センサーと警報器に守られている『impression sunrise , long island iced tea』は、確かに繊細で美しい作品だった。しかし、リチャードは美術への造詣が浅く、何をもって他の作品よりいい、悪いと判断すべきなのかわからなかった。そして、32万ドルの価値がどこにあるのかは、全く理解できなかった。
それは他の作品も同様で、納得したのかしないのか、自分でもわからないまま、とにかくお茶にしようと思ってカフェにやってきたのだ。少なくとも食べるものが美味しいか、まずいかだけは彼でもわかるのだ。
彼は、颯爽と庭園に面したカフェ『TEIEN』に入り、ケーキとコーヒーを食べたいのだと言った。
店員は彼を見上げて困った顔をした。リチャードはケニア生まれのオランダ人で、187センチと長身だ。自由な方向になびいてしまう赤毛と、そばかすの多い白い肌を持って生まれてきたが、長らく赤道直下の太陽に焼かれたせいで、外から見える部分の大半はかなり浅黒くなっていた。
「申し訳ございません。ただいま満席でございまして。少々お待ちくださいませ」
何を言っているのか、全くわからない。日本語だから。彼は、満席だといっているのではないかと推測した。相席でもいいかと訊いているんだろうか。
ぐるっと見回すと、窓辺に一人で腰掛けてアイスティーを飲んでいる若い女性が目に入った。柔らかなウェーヴのかかった髪の綺麗な日本人女性だ。先ほどの絵『impression sunrise , long island iced tea』で、白い服を着た女性の前にあった飲み物に似ている。もっとも『ロングランド・アイスティー』は、強いアルコールの入ったカクテルだから、この女性の飲んでいる罪のないソフトドリンクと同じではないだろう。
窓から入ってくる柔らかな陽射しに、グラスの明るい茶色と、彼女の艶やかな髪が輝いて見えた。
目の前の係員は、しどろもどろの英語で「満席です」「お待ちください」というようなことを伝えようとしていたが、彼はわからなかったフリをして、窓辺の女性の近くへと進みながら言った。
「ここに相席してもらうんですね。彼女が嫌でなければ、僕は構いませんとも」と女性にも聞こえるように係員に宣言した。女性は、それでこちらを見て、まともに目が合った。
「ありがとう、お嬢さん。助かりましたよ」
彼は人なつこく笑いながら、女性の前に座った。店員は、諦めてメニューを取りに行ってしまった。リチャードの目の前に座っている彼女は、少し困った様子で、ただ頷いた。
「英語はわかりますか? ああ、大丈夫そうですね。日本は面白いですね。多くの方が英語はわかるのに、ほとんど返事をしないんですから。でも、こうしてトライすると、ちゃんと意思が通じる。そうですよね」
返事を待たずにどんどん会話を進める。
「ちゃんと話せる人もいます。例えば、私の友人はニューヨークに留学中ですが、地元の人と同じように流暢に話せます」
その女性が、ゆっくりとではあるがきちんとした英語で話すと、彼は前よりももっと嬉しそうに身を乗り出した。
「やあ、そういうあなたもちゃんと返事をしてくれた! 素晴らしい。僕は東京に来たのは三回目で、プライヴェートで動き回るのは初めてなんですが、あなたが初めての友達になりそうだ。リチャード・アシュレイといいます。どこから来たと思いますか?」
女性は、首を傾げた。
「どこか南の島ですか?」
日焼けから推測したのかな。リチャードは笑った。
「はずれ。アフリカ大陸です。ケニアです。ナイロビに住んでいるんですよ。今週は、親友と一緒に東京に来ていましてね。この展覧会でアレッサンドラ・ダンジェロ所蔵の絵が展示されるって聞いたんで、予定を変更して見に来たって訳です。驚いちゃいけませんよ、実は僕たちの友人がまもなくそのアレッサンドラ・ダンジェロの義兄になるんですよ。まあ、僕たちはまだ彼女とは面識がないんですけれどね。きっと時間の問題でしょう。だから、先に絵の方とお近づきになるのも悪くないと思いませんか」
彼はここまでの間に、まったく息継ぎをした様子がなかった。女性はあっけに取られ黙って頷いていた。
「ああ、親友はどこかって疑問に思うでしょうね。それは僕も同じなんですよ。どこにいるんでしょうね。あいつは昔から、どういうわけか予定の通りに行動するってことが全く出来ないんです。本当なら二時にこの美術館の入り口で合流していたはずなんですが、もう三時半ですからね。それはそうと、僕はケーキでも頼もうと思うんですが、お嬢さんも一ついかがですか。ご馳走しますよ。やあ、まだ名前を訊いていなかったな、教えていただけませんか?」
「観月詩織です」
彼女がそう答えると、彼はそばかすの多い顔をさらにほころばせた。そして、詩織をケーキのショーケースに連れて行った。
「そうですか。もう僕たちは友達ですからね、シオリって呼んでもいいですよね。僕のこともリチャードって呼んでください。おや、これは困ったな、なんて美味しそうなケーキばかり並んでいるんだ。シオリは何を頼みますか。二つでも三つでも遠慮しないでくださいね」
詩織は遠慮していたが、リチャードが何度も勧めるので諦めて一番さっぱりしていそうなレアチーズケーキを選んだ。彼の方は、フルーツタルトとチョコレートケーキを頼んだ。
「この時期の東京に来たのは初めてなんですよ。アウレリオは、あ、これが待ち合わせに来ない友人の名前なんですけれどね、彼が言うには、日本に行くなら春かこの時期がベストだって言うんです。一度夏に来た時にはモンバサに来たかと思うくらい蒸し暑くて閉口しましたが、今は嘘のように過ごしやすいですね。あとでその庭園を散策するつもりなんですけれど、シオリ、あなたも付き合ってくださいますよね」
カフェの目の前は、日本庭園になっていた。池を中心に築山や茶室が、豊かな自然に囲まれた静かな四季折々の佇まいを表現している。職人たちの技の粋を集めたアール・デコ様式の邸宅も素晴らしいが、宮家の人々は完全な洋風の世界のみに住み生きるのではなく、やはり和の心で日本庭園に向き合うことも好んだのであろう。
ヒヨドリ、ツグミ、セキレイ。たくさんの小鳥のさえずりが響いていた。そして、虫の声も聞こえる。都心にあることを忘れてしまいそうになる。リチャードは日本庭園内の茶室を指さした。
「あの建物はなんですか」
「あれはお茶室です。ティーセレモニーをご存じですか。そのセレモニーのために建てられる専用の小屋です。間取りや設備が決められている上、環境もそれにふさわしい静けさと自然を兼ね備えている必要があるんです」
「なんですって! お茶を飲むために、静かな庭や小屋を用意する必要があるんですか?」
リチャードは、信じられないと大げさに騒いだ。
「ティーセレモニーのお茶は、ただのお茶とは違うのでしょうね」
詩織は微笑んだ。
「ロングアイランド・アイスティーが紅茶ではないように?」
リチャードの問いに、詩織ははっとして立ち止まった。
彼女は、長らくそこに立ちすくみ、何かの想いを追っているようだった。それでリチャードは当惑した。
「あの絵に何か特別な思い出があるんですか、シオリ?」
そう訊かれて彼女は、ようやくそこにリチャードがいたことを思いだしたように顔を向けた。
「ええ。とても深い思い出があります。いえ、それはきっと絵を描いた本人にあるのでしょうね」
「あの作者、ケン・リィアンをご存じなんですか!」
詩織は、ただ小さく微笑んだ。リチャードのように自分が当事者と知り合っていることを自慢したりはしなかった。
その色鉛筆画は、実は詩織がかつてケン・リィアン自身から受け取り、吉祥寺の自室の引き出しに収めていたのだ。あの絵を持ってニューヨークの友人を訪ね、今は亡き画家の足跡を共に辿った。そして、彼が大切な女性を想いながらこの絵を描いたと確信した場所を探し当てて、飾ってもらうように頼んだのだ。
絵は、その後、同じ場所に飾られたままで著名なスーパーモデルの手に渡り、一時的にこの東京に里帰りしている。この展覧会での収益は、薬物依存症治療の支援団体に寄付されるそうだ。
秋の爽やかな風に、詩織のわずかに赤みかがかった髪が踊る。楓のまだ緑の葉が優しくそよぐ。湖面をつがいの鴨がゆっくりと泳ぎ去って行った。
「さあ、あちらへ行ってみましょう」
詩織は、想いを振り切るようにそう言うと、落ち着いた佇まいの西洋庭園を通り、美術館の本館に近い明るい芝庭へとリチャードを案内した。
芝庭は明るく開放的で、人々がのんびりと寛いでいた。見るといくつかの野外彫刻が置かれている。
「やあ。こんな所にキリンがいるぞ」
リチャードが笑い出した。ブロンズ製のキリン像が首を弓なりに反らして近くの木の葉を食べようとしているように見える。
「ケニアには野生のキリンもいるのですよね」
詩織が訊くと、リチャードは頷いた。
「ええ。それも、首都のナイロビの近くにも住んでいるんですよ」
「え? でも、ナイロビは首都ですよね」
「そうです。ビルが建ち並ぶ都会です。でも、郊外にでるとサバンナが広がっているのですよ。すぐ側にも国立公園がありましてね。ライオンやヒョウはそんなに簡単には出会えませんが、インパラやシマウマ、それにキリンなどはそれほど珍しくないのです。それに仕事柄、野生動物の保護区に行く機会がとても多いので、月に数回は目にしていますよ」
「よく見慣れているものを、入館料を払いわざわざ見るのは不思議な感覚がするんじゃありませんか?」
詩織が訊くと、リチャードは笑いながら頷いた。
「ええ。あなたもそうでしょう、シオリ。あの絵をわざわざ展覧会で観るのは不思議に感じるのではないですか」
詩織は、そうですねと小さく頷いて、アール・デコ建築の堂々たる姿で佇む本館を眺めた。
かつて彼女のものであった絵は、彼女の手を離れ違う世界に旅立った。晩秋、この庭の銀杏や楓が美しい錦絵を見せる頃には、ひっきりなしにしゃべり続けるこのケニアからの男だけでなく、あの絵の中の白い服を着た女性もまたこの国から立ち去るだろう。そして、あの輝かしい海を眺めながら「ロングアイランド・アイスティー」を楽しむのかもしれない。
そして、彼は? 彼の魂は、ここにいるだろうか。それとも、あの海へ行くのだろうか。自由に、全てから解放されて。詩織は、そんなことに思いを馳せて、リチャードと共に出口へと歩いて行った。
(初出:2018年10月 書き下ろし)
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日本に向かいます
昨日、母が急逝したためです。海外に生きるからには、死に目に間に合わないことは十分わかっていましたが、最後にそばにいてあげられなかったことが残念です。
本当に急で、姉と姪がギリギリで間に合い、看取りました。長く苦しまなかったことは、ありがたいことだと思いますし、メソメソしていると母が困るだろうと思うのですが、しばらくはハンカチが手放せないでしょう。
身内のことは謙遜するのが日本の美徳で、それに大いに反していますが、自慢の母でした。まっすぐで、明るくて、しなやかで強い人でした。私は、彼女の生き方から、実に多くのことを学びました。誰よりも幸福でいてほしい人でした。できれば、あちこちに楽しく歩き回る余生を、もっと満喫してほしかったです。
海外移住することで寂しい思いもさせましたし、この秋に逢うのをお互いに楽しみにしていました。先週の日曜日に電話し、それからその翌日にメールをしたのが最後になりました。もっと何度も電話をすればよかった、メールも書けたはずと後悔してはいますが、人生とは常にそういうものなのでしょうね。
ブログを始めてから、ここまで近い身内に不幸があったのは初めてです。いつきちんと再開できるかまだわかりませんが、一週間ほどでいったんまたスイスに戻りますので、その後に追々通常運転に戻していくつもりでいます。
この記事のコメント欄は開けておきますが、このような事情でしばらくお返事はできないと思います。どうぞご容赦ください。
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