【小説】大道芸人たち 2 (8)リオマッジョーレ、少女 -2-
全くの余談ですが、私はチンクェ・テッレには二度行っています。一度は春、それから日本の友人に同行を頼まれて真夏にも行っています。本来のチンクエ・テッレらしさ(美しいけれど素朴な漁村)に近かったのは、春でした。観光シーズンでないので、土産物屋などの多くが閉まっていましたが、その分素朴で静かな趣がありました。夏は、えーと、修学旅行シーズンの京都三年坂みたいな……。特にユネスコ世界遺産になってしまってからは、ますますその傾向が強まったでしょうね。
自分自身が旅好きで、世界の素敵なところに行ってみたいと思うタイプなので、文句は言えないのですけれど、ひなびた春のチンクェ・テッレに行けただけラッキーだったと思うべき……ですかね。

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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(8)リオマッジョーレ、少女 -2-
ジュゼッペの視線を追うと、道をとぼとぼと歩いてくるパオラが見えた。半年前より少し背が伸びたようだ。体に合わない窮屈なワンピースを着ている。母親のいるバーへ行こうか迷っているようだった。そして、思い詰めたようにジュゼッペのリストランテの方をみやって、四人に氣がついた。
「蝶子お姉さん! レネお兄さんたちも!」
半年前に出会い、この店に招待してくれた蝶子たちのことを忘れていなかったのだ。
「元氣だった?」
蝶子が訊くと、彼女は大きく頷いた。
「またここを通ったのね」
「パオラに逢いに来たんだぞ」
稔が言うと「本当?」と顔を輝かせた。
「もし君に他の予定がなかったら、今夜また僕たちとご飯を食べてくれませんか」
レネが言うと、彼女はとても嬉しそうに笑った。
パオラはアジを丸々一匹食べた。いつも一人で食事をするために上手くフォークとナイフを使えない彼女に、稔が魚の食べ方を丁寧に教えてやる。
「そうだ。まず真ん中からまっすぐナイフを入れる。そうすると、ほら、身と骨が楽に離れるだろ。うん、そして、上の身を綺麗に食べ終わったら骨をこうやってすーっと取る。ほら、残りの下の身がでてきた!」
「こんなに子供の扱いが上手いなんて知らなかったわ」
子供の扱いは全く得意でない蝶子が感心して眺めた。
「まあな。うちには三味線の弟子がわんさか出入りしていてさ。稽古の間だけわざわざベビーシッターとか頼めないだろ。だから連れて来ることもある。そうやって音に馴染んだのが次の世代の弾き手になることもあるしさ。で、若手やジュニア組が幼年組の面倒を看るんだ。弟子が稽古を見てもらっている時に、俺もよくその子供の相手をしたよ」
「へえ。何が役に立つかわからないものね」
食事が終わると、一行はパオラと一緒にリオマッジョーレの街を歩いた。といってもとても小さいのでいくつかの観光客向けの土産物屋の他にはほとんど見るものもない。ある店のウィンドウ前で蝶子は足を止めた。子供のマネキン人形が、少し色褪せた祝日用のワンピースを着ていた。パオラは、ウィンドウから眼をそらした。望んでも手に入らないものは見ないようにしているようだった。
蝶子は快活に言った。
「ここ、入りましょう」
戸惑うパオラの後ろからレネが「ほら、行こう」と背中を押した。
色とりどりのかわいらしい子供服に、パオラの瞳は輝いた。女物の服に全く興味のないヴィルと稔は、所在なさげに入り口付近で待っていたが、蝶子とレネは、あれこれと話しかけながらパオラに似合う服を選んだ。
一つは、祝日用の白いワンピースで、沢山のフリルと桃色サテンの太いリボンベルトがついている。それから明るい色合いで着心地のいいTシャツを数点。それに、デニムのキュロットスカート。パオラの母親は家事を放棄してほとんど片付けないので、娘の衣装が増えたことに氣がつくか疑問だが、それでもワンピース以外はできるだけ今着ているものと変わらないデザインのものを選んだ。
「すぐに大きくなるから、長くは着られないかもしれないけれど、次にここに来る時にまた新しいのを買ってあげるからね」
蝶子が言うと、パオラは首を傾げた。
「どうして、そんなによくしてくれるの?」
「どうしてかしらね。多分、私もおしゃれが好きだから、かしら」
そう答える蝶子にレネは嬉しそうに微笑んだ。
「行ってよかったですよね」
ミュンヘンに向かう電車の中で、レネは蝶子に話しかけた。
「そうね。どうしているのか想像だけして、何もできないのって落ち着かないもの」
「これからは堂々とあのリストランテの店主に様子を訊けるしな」
ヴィルは、ジュゼッペおじさんのリストランテの連絡先を携帯電話に登録した。エッシェンドルフを継いですぐに、ヴィルは携帯電話を持つようになった。数日に一度カルロスの所に連絡を入れるだけでは済まない用件も多くなったからだ。
『La fiesta de los artistas callejeros』の事務局長として、稔もようやく携帯電話を契約したばかりだ。蝶子とレネは、今のところ必要を感じないので、持たずに行動しているが、こうした小さな変化は、四人の暮らしのあちこちに見られた。
見ず知らずの少女の人生に関わることなど、かつては考えられなかった。それまでの生活の全てから逃げ出してきた四人は、ここ数年、自分のことだけをする大道芸人のその日暮らしを心から楽しんだ。それは、それぞれの人生をリセットするためには必要な過程だった。どこにも所属することのない自由な日々だ。
やがて、行く先々に馴染みの場所ができて、ルーティンとなる仕事を持つようになった。そして、新しくベースとなる場所が生まれ、新しい責任も生まれた。自由は減ったが安心と、それから自由になる財産が増えた。そのことにより、自分以外のものに目を向ける必要と余裕が生まれた。エッシェンドルフの使用人たちの生活と業務を顧み、新しい仕事と責任をやり甲斐を持ってこなすようになった。
加えて通りすがりだった弱い存在に目を向ける余裕も生まれてきたということだろう。
親から冷たい仕打ちを受けるあの少女には、心の支えとなる存在が必要なのだ。強く生きて、やがて子供の頃の境遇を笑い飛ばせるようになるまで、永遠とも思える時間を過ごすためには「誰かが自分のことを考えてくれる」と感じる瞬間を噛みしめられるべきだ。
変わっていくのも、悪くない。窓の外を上機嫌で見つめる蝶子に、レネは嬉しそうに微笑んだ。
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紹介作品、書いていただきました
ブログのお友達けいさんが、当ブログの100,000Hitと私の誕生日へのプレゼントで素敵な紹介作品を書いてくださいました。
けいさんの書いてくださった 「ほんの気の迷い企画 5」
この「ほんの気の迷い企画」は、けいさんのところのお話のキャラがそれぞれのブログを突撃訪問し、お話の一部を覗き見または朗読してくださる企画なのですが、いつも作品の心髄とも言えるシーンを上手にピックアップなさっていて「けいさん、本当に丁寧に作品をお読みになる方だなあ」と感心していました。そうそうたる小説ブロガーさんたちを訪問紹介なさったこれまでのシリーズのどちらも、作品愛にあふれているだけでなく、ところどころで垣間見えるけいさん流の暖かいユーモアがたまらなくかわいいのですよ。
そして、今回も例に漏れず、私の作品やブログの記事で紹介した内容をとても素敵に組合わせてくださって、うちのブログがおそらく実際よりもずーーーっと素晴らしく思える、ありがたい内容になっています。感謝感激です。
本当は、感動をもっと語りたいんですけれど、書けば書くほど、書いてくださった作品と乖離していくので、やめておきます。どうぞあちらで読んでくださいませ。あ、紹介してくださるのは、先日私が図々しくお借りしたキャラ「阿倍先生と要くん」です!
けいさん、どうもありがとうございました。
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【小説】大道芸人たち 2 (8)リオマッジョーレ、少女 -1-
今回の登場する少女のエピソードは、実は2014年の「scriviamo!」で発表した外伝として生まれました。そして、第二部が書き終わっていなかったので、彼女が本編にも組み込まれることになったのです。この外伝が生まれたきっかけは、limeさんにいただいた一枚のイラストでした。
交流からストーリーが大きく変わることは本当に珍しいのですが、こんな風にたまに起こります。もしこの外伝をご存じなかったら、ぜひこちらからどうぞ。

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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(8)リオマッジョーレ、少女 -1-
ジェノヴァ滞在中に海の見える店で食事をしようと言い出したのは蝶子だった。
「この間みたいな、ぼったくりはごめんだぜ」
稔は疑わしげに言った。
「わかっているわよ。でも、せっかく海の街にいるんだから、今日くらいいいでしょう?」
蝶子は言った。だが、ジェノヴァのような大きい街で、海岸沿いのリストランテなどに行くと割高になるのは必至で、さらに外国人だと見るとメニューを隠して通常よりも高い値段を吹っかけてくるのは、その手の観光エリアに多い。
「少し観光エリアから離れていて汚いエリアですけれど、地元民が通う店を一つ知っていますよ」
レネが言った。
「マジか? そこ行こうぜ」
稔が身を乗り出し、蝶子やヴィルももちろん反対などするはずがなかった。レネが随分昔に行ったトラットリアは、海が見えるといっても、いくつもの家の壁の間からわずかに覗いている程度で、外装はもとより内装も全く観光客を惹き付けようとする意欲は感じられなかったが、本当に地元民で溢れかえっていた。看板の代わりに漂ってくる魚を焼く匂いに四人の足は速まった。
白ワインはいくつか選択肢があったが、メニューは二種類くらいしか選べなかった。
「今日は、シーフードリゾットか、カジキマグロだね」
太った親父が言い、蝶子とレネはカジキマグロを、残りの二人はリゾットを選んだ。
脂の載ったカジキマグロと、完璧なアルデンテのリゾットは、四人をしばし沈黙させた。もちろんすぐにワインをお替わりして、いつものごとく楽しく騒いでいたが、不意に蝶子がカジキマグロを見ながら黙った。
「あの女の子、どうしたでしょうね」
蝶子の代わりに、レネが言った。何の話をしているのか他の二人もすぐにわかった。
もう半年以上前になる。四人がはじめてチンクェ・テッレに行った時のことだ。リオマッジョーレという街に一日だけ滞在した。そして、四人はパオラに遭ったのだ。
少女は八歳だったが、それよりもずっと小さく見えた。栄養が足りていないのだろう。海辺の街で母親と暮らしているといえば聞こえはいいが、母親は家事を放棄してまともに帰っていなかった。食べるものがなくなると母親の勤めるバーへ顔を出しては菓子パンなどをもらうのが常だったが、そんな食生活でも栄養失調になっていなかったのはバーの隣でリストランテを経営するジュゼッペおじさんが見かねて残りものを包んでやっていたからだ。
そんな生活の中でも生き抜いている少女は、大きくなったら自分の力でこの街を出て行きたいと言っていた。蝶子はそんな少女に自分の子供の頃を重ねていた。彼らにとってあっという間の半年も、子供にとっては氣が遠くなるほど長いこともよく憶えていた。あの子は半年前にカジキマグロをおごってくれた彼らのことを思い出しつつ、大人になるまでの長い辛抱の日々を堪えているんだろうか。
「そんなに遠くないし、行くか、リオマッジョーレ?」
稔がワインを注ぎながら言うと、レネは即座に指を立てて賛成の意を示した。
「ジュゼッペおじさんの所は間違いなく飯も酒もうまいしな」
ヴィルが続ける。
「いいの? そろそろミュンヘンに行かないと」
蝶子が訊くと、ヴィルは首を振った。
「マイヤーホフが連絡して来たよ。明後日のアポイントメントは延期になったそうだ。二日くらい予定を延ばしても問題ない」
チンクェ・テッレはユネスコ世界遺産にも登録されている。色鮮やかな家々が可愛らしい五つの漁村。車の乗り入れは禁止されているので、ラ・スペツィアから電車に乗って訪れる。リオマッジョーレは、もっとも五つの中では大きい村だが、それでも見るべき所と言ったら広場が一つあるぐらいだ。
その広場にジュゼッペおじさんのリストランテはある。小さいアパートメントホテルも経営していることを前回訊いたので、電話をしてみると幸い一部屋空いていた。駅から直行すると、ジュゼッペは太った体を揺するように笑って言った。
「ああ、あなたたちでしたか。よく憶えていますよ。ようこそ。今夜はいいカジキマグロが入ったんですよ」
蝶子は、苦笑いすると訊いた。
「パオラはどうしていますか?」
「相変わらずですよ。先月、あの子の母親が男と失踪騒ぎを起こしましてね。振られて帰ってきてから二週間くらいはあの子と一緒にいたようですが、ここ数日はまた放置しているようですね」
「ここに来るんですか?」
「お腹がすいてしかたない時はあそこの低い塀の上に座ってこちらを見てますんでね。何かを見つくろって持っていってやります。いっその事引き取った方がいいのかとも思いますが、母親が隣の店にいますからねえ」
蝶子は、鞄を開けて財布を取り出そうとした。ヴィルが手を置いてそれを止めた。訝しげに見つめる彼女を短く見つめてから彼はジュゼッペに言った。
「差し出がましいとは思うが、毎月、代金を送るので彼女に毎日一回は暖かい食事を食べさせてやってくれないだろうか」
「旦那がですかい?」
「ああ、口座でも小切手でも都合のいい方法を指定してほしい。それに、他にも援助が必要そうだったら報せてほしいんだ」
「でも、それだったら母親に……」
蝶子は首を振った。
「そんなことをしたら、あの母親はそのお金を男に貢いでしまうわ」
「あんたの言う通りだね、スィニョーラ。わかりました。引き受けましょう。おや、ちょうど来たぞ」
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悪筆の話
最近は、ほとんどのことがデジタル通信で済むようになったので昔ほど苦悩しなくなりましたが、私は悪筆です。
よくブログのお友達がノートを公開なさっていたりしますが、私があれをできないのはメモった字が解読不可能なレベルに汚いからです。手紙を書かなくてはいけない時は、頑張りますのでもう少しまともですが、それでも「女性の筆跡」とはとても思えないろくでもない字です。
で、最近のニュースで著名な講師でタレントの方が「勉強のできる子は字が綺麗というわけではない」というような話をしたということを耳にして、なんだか少しほっとしてしまいました。いや、自分が勉強ができるといいたいわけじゃないですよ。そうじゃなくて、悪筆でも「人じゃない」みたいな扱いをする風潮が減るかなーと。ま、勉強のできるできないは別として、悪筆だと社会人としてどうよ、というのはありますけれども。
デジタルがメインの時代に生きているだけマシかも。はあ。
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【小説】コンビニでスイカを
今日の小説は、けいさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト月は8月でお願いします。
内容は、うちのキャラを適当に使って、一つ情景を描いていただけたら嬉しいです。
一番乗りでいただいたリクエストです。けいさんのところのキャラは、皆さん素敵なので悩みましたが、今まで一度もコラボしたことのない方にしようと、あれこれ探してみました。
けいさんの「怒涛の一週間」シリーズの三作目に当たる「セカンドチャンス」から、お二方にご登場願いました。実質コラボしていただいたのは、とある高校生(作品中ではまだ中学生でした)です。本編の中では、主人公の親友とその教え子という形で印象的に登場した二人ですけれど、もしかしたらいずれはこの二人が主役の作品が発表されるかも? 以前、ちらりと候補に挙がっていると記事を書いていらっしゃいましたよね。そんなお話も読みたいなーと願って、この二人にコラボをお願いすることにしました。あ、それに、舞台設定のために、もう一方も……。
けいさん、好き勝手書いちゃいましたが、すみません!

コンビニでスイカを
私には、行きつけの店がある。……といっても、コンビニエンスストアだけれど。都心に近いのに緑の多い一角、道路の向こうの街路樹を眺める窓際の飲食コーナーの一番端に座るのが好き。
オレンジジュースを買ってきて、問題集を広げる。クラスの女の子たちは、シアトル発の例のファーストフードに行っているけれど、なんとかラテを毎日飲んでいたら、私のお小遣いは一週間で尽きてしまう。話の合わないクラスメートに交じって居たたまれなく座ることに対する代償としては高すぎる。だから協調性がないって言われるのかな。
冷たいオレンジジュース。風にそよぐ街路樹の青葉を眺めてぼーっとしていたら、知っている男性が窓の外を通っていった。私が通う塾の先生。すぐ後ろからついていくのは、青木先輩。去年までおなじ中学に通っていた有名人だ。
少なくとも夏休みの前までは、彼は私のクラスの女の子たちの憧れの存在だった。背が高くて、スポーツマン。陸上部のエースだった。都大会で、100メートルと幅跳びで優勝。大会新記録と都中学新記録を同時に達成。関東大会と全国大会出場も決まっていた。高校のスポーツ推薦も決まっていたとか。
でも、新学期になったらに、彼の起こした事件のことでみんなが大騒ぎしていた。どこかのコンビニで万引きをして捕まったって。部活はすぐに引退との名目で辞めさせられて、推薦も取り消されたらしい。
それから、クラスの子たちの態度は180度変わった。以前はキャーキャー言っていたのに、今度はヒソヒソと眉をひそめて噂するようになった。当の青木先輩は、最初は少し背を丸くして、下を見ながら歩いていたけれど、二学期も後半になるとまたちゃんと前を向いて歩くようになった。
その理由を、私はなんとなく知っている。先ほど、彼の前を歩いていた塾の先生。私の担当じゃないから、確かじゃないけれど、名前は確か阿部先生。私は、このウィンドウから二人が行ったり来たりするのを何度も見た。最初は先生が先輩を引っ張るようにして歩いていた。それから先輩はうなだれるようにして、その次には妙に嬉しそうについていった。
学校でみんながヒソヒソ噂することや、受験しなくてはいけなくなったことは、先輩にとってとても大きなストレスだったと思う。きっとあの先生がいたから乗り越えられたのだろう。もっとも、のんびりそんなことを想像している場合ではないのよね。一年後の今、受験に立ち向かっているのはこっちだし。
私は、推薦で一足先に高校入学を決められるほど成績はよくない。もちろんスポーツ推薦はあり得ない。運動音痴だし。目指している学校は、私にとっては背伸びもしているけれど、近所のおばさんたちを感心させるほどの難関校というわけでもない。
オレンジジュースを飲みながら、私は問題集を解いた。なんのために受験をするのかな。義務教育は今年で終わる。みんな当たり前のように高校に行く。それに、成績がよかったら大学にも行くのだろう。お母さんは「頑張らないといい大学には入れないわよ」って言うけれど、まず高校に入らないと。
高校に行ったら、何か楽しいことがあるのかな。それとも今みたいに、クラスメートたちに嫌われないように適度な距離を取りながら、いるのかいないのかわからない存在でありつづけるのかな。透明人間みたい。
あれ、青木先輩が戻ってきた。なんだろう。
自動ドアが開いて、先輩は入ってきた。もちろん私には氣付かない。っていうか、多分、先輩は私を知らない。
「要。どうしたんだ」
レジの所にいる店長が先輩に声をかけた。えー? 名前を呼び捨てって、身内なのかな。
「ちょっとね。先生ん家に寄ることになってさ。先生の友達も久しぶりに来るんだって。だから、なんか一緒に食えるもん買いに来た。アイスかな。それとも……」
「ここから先生のお宅までは少しあるだろう。溶けるぞ」
「そうだよねー」
店長は、冷蔵ケースの方へ行きカットスイカを持ち上げた。
「これはどうだ。冷えているし、すぐに食べられる」
「いいね。えっと、398円か。二つ……小銭足りるかな」
「俺が払おう。息子がお世話になっているんだ」
「だめだよ。これは俺から先生への差し入れだもん。俺が買うの」
先輩はレジでスイカのパックを二つ支払った。律儀なんだなあ。私は、首を伸ばしてそちらを見た。あ、スイカ、本当に美味しそう。途端に、青木先輩と目が合った。
「あれ」
「なんだ、要。知っている子か」
「うん。中学の一学年下の子だと思う。たしか塾も同じだったはず」」
わ。先輩が、私の顔を知っていた。私は、ぺこりと頭を下げた。
「よう。勉強しているんだ。偉いね」
私は、先輩の近くまで歩いて行った。
「七時から塾なんです。まだ早いから」
「帰らないの?」
「家に帰ると、とんぼ返りしなくてはいけないし、うち、飲食店で夕方から親が忙しいし」
店長が笑った。
「うちと同じだな、要」
私は先輩に訊いた。
「店長さん、先輩の……?」
「うん。親父」
「わ。知りませんでした。すみません。山下由美です」
「いや、こちらこそ、まいどありがとうございます」
一杯のジュースで一時間も粘る客って、ダメな常連客じゃないかなあ。私は少し赤くなる。
「私も、その美味しそうなスイカ買います」
青木先輩が、ポケットからまた財布を取り出した。
「じゃ、それも俺がご馳走するよ」
「そ、そんな。悪いです」
「大丈夫だって。こんなに暑いのに、頑張って勉強しているんだろう。俺、去年、懲りたもん。暑いとぼーっとなって、もともとバカなのにもっと問題を間違えてさ。阿部先生にいつもの倍ヒントもらわないと解けなかった」
「でも、先輩、ちゃんと受験に成功して高校に行けたじゃないですか。私は頑張らないと。A判定出たことないし」
「俺だって、A判定も一度も出なかったよ」
そうか、それでも受かる時には受かるのね。諦めずに頑張ろう。
私は、先輩におごってもらったスイカのパックを開けて勧めた。店長がフォークを二つつけてくれた。先輩は、パックを私のいつも座る席まで持ってきてくれて隣に座り、嬉しそうに食べた。「おっ。甘い!」
「ごちそうさまです」
そう言って私も食べた。本当だ。甘い。
「スイカ食べたの、本当に久しぶり」
私はしみじみと味わいながら言った。先輩は驚いたようにこちらを見た。
「ええつ。何で? 夏って言えばスイカじゃん?」
「大きいから自分では買わないし、普段は、うちに帰っても一緒に食べる人いないし。あと、種を取るのが面倒くさいから、お母さんに買ってって頼んだことなかったんですよ」
青木先輩は笑った。
「確かに面倒だけれどさ。種のないスイカって、なんだか物足りないよ」
言われてみると、本当だな。種を取ったり、ちょっと甘みの足りないところにがっかりしながら食べるのがスイカ。そうやって食べると、甘いところがより美味しくなるみたい。
ってことは、何もせずに簡単に高校に行けるより、受験で苦労して入るほうがいいのかなあ。
「先輩。高校って楽しいですか」
私の唐突な質問に、先輩は首を傾げた。
「楽しいって言うのかなあ。前とそんなに変わらない。君は中学、楽しい?」
「全然。登校拒否したいと言うほど嫌じゃないんですけれど、あまり合わない同級生たちに嫌われないようにばかみたいに氣を遣っているんですよね。勉強もスポーツも得意じゃないから、学ぶ意味とか、達成感もあまりないし。こんなこというの贅沢かもしれないけれど」
「そうだなあ」
先輩は、よく知らない私の愚痴に、真剣に答えを探しているみたい。変なこと言って、まずかったかな。
「去年の夏休み、俺のやったこと、聞いているだろ」
えっと……。万引きの件かな? 今度は私が返答に困った。
「あまり詳しくは、知りません。推薦がダメになったって話は聞きましたけれど」
「そ。万引きの手口を研究して、できそうだから試してみたら捕まっちゃったんだ。自分のバカさ加減に呆れて、何もかも嫌になって死にたいって思ったよ」
「先輩が?」
「うん。でも、阿部先生が止めてくれて、セカンドチャンスをくれたんだ。俺に、どんなバカでもやり直しできるってわかるようにサポートしてくれたんだ。それに、そうやって先生に助けてもらいながら頑張っているうちに、うちの親だって、俺のことを要らないから放置していたんじゃないってなんとなくわかったし、こんな自分でも生きていれば何かの役に立てるかもしれないって思えるようになったんだ」
私は、頬杖ついて、先輩の話に聞き入っていた。
「そうだったんですか」
先輩は、大きく頷いて笑った。明るくて素敵な笑顔。
「うん。だから、メチャクチャ勉強して、今の高校に入った。正直言って、高校で学ぶことが何の役に立つのか、よくわからないし、すげー親友ってのともまだ出会えていないけれどさ。でも……」
「でも?」
「阿倍先生にとても仲のいい友達がいるんだ。本当に羨ましくなるくらいの親友。今日も来るんだよ。その人と先生、大学で知り合ったんだって。もし先生が高校に行っていなかったら、大学にも行けなかったし、そうしたら親友とも出会えなかったってことだろう? 出会いなんてどこにあるかもわからないし、未来のこともわからない。でも、今を頑張らないと、きっと未来のいいことはどっかにいってしまうんだ。そう思えば、なんだかなあって思う受験も頑張れるんじゃない?」
そうか。いま頑張ったご褒美、ずっと後にもらえることもあるのかな。
「あ。スイカ、なくなっちゃった! ごめん」
青木先輩が、空になったパックを見て叫んだ。あ、本当にあっという間に食べちゃった。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
そろそろ塾に行かなくてはいけない時間だ。私は、問題集を鞄にしまって立ち上がった。
「お。行くのか。俺も、そろそろ行かなくちゃ。また今度な」
店長の「またお越しください」という感じのいい挨拶に送られて、私は先輩と一緒にコンビニを出た。先輩は、阿部先生のお宅へと向かうので、角で別れた。頭を下げて見送ると、ビールやジュースやおつまみと一緒にスイカのパックの入った袋が嬉しそうに揺れている。
先輩の言ったことを、じっくりと噛みしめた。数学も、英語も、今後何の役に立つのかなんてわからない。私が高校に行って、意味があるのかも。楽しいことやいいことが、どこで待っているのかわからないし、ただのクラスメイトじゃなくて、本当の意味での親友といえる人とどこで会えるのかも知らない。
だからこそ、今やれることを一生懸命やるのが大事。うん。頑張ろう。先輩の高校、共学だったよね。志望校、今から変えたら先生に何か言われるかな。
(初出:2018年8月 書き下ろし)
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フレンチトーストを食べながら

昨日の朝、私は朝の一仕事を終えて、なんとなく空腹なのでそろそろ食べようかと思いました。木製パンケースを覗くと、大きな白パンが固くなって存在しています。パン粉にするには大きすぎる。カモのお池に差し入れするには「食べ物を大切にしなかった」と良心が痛むサイズ。そこでフレンチトーストで消費しようと思いつきました。
「ホテルの絶品フレンチトースト」にしたいのは山々ですが、あれは24時間も前に用意を始めなくてはいけないレシピ。基本的に、フレンチトーストを食べたくなるのは直前なので、あのレシピで作ることは稀です。
そういうわけで、レシピもへったくれもなく適当に作り始めました。ある程度の歳月を料理してきた方ならならよくあることだと思います。目分量で卵と砂糖と牛乳を混ぜて、パンを両面しっかりと浸し、バターを溶かしたフライパンで焼く。難しいことは何もありません。
さて、私は普段から自分の食べるものにある程度の判断をする習慣があります。●●療法というほど厳しい食事制限ではなくて、例えば、可能な限り有機農法から作られた食材、または、肉ならスイス産のものを買う、調味料も質を重視、使う油などに注意する、食べる量やバランスに氣を付けるといった、まあそこら辺の主婦だったら「そんなの当たり前」というレベルのことです。
今回も、砂糖を使うならきび砂糖で一回の量はこのくらい、と目分量で入れて作ったのです。で、食べる段階になって口に入れたら、全然甘くありません。仕方ないので、メープルシロップを少しかけました。……まあまあ。
というわけで、氣になってフレンチトーストのレシピを見直しました。
ええっ! レシピは四人分でパン四枚で作るんですが62グラムって書いてあります。一人分にするとパン一枚に、砂糖15グラムちょっと……。角砂糖5個! そりゃ、甘みは違うわ。
「砂糖を一切絶つべき」とおっしゃる方もいるくらい、砂糖の摂り過ぎは体によくないのはわかっています。糖質にもいろいろあって、ただの砂糖の量だけ論議しても表面的なのもわかっています。そういう話は別にして、とにかく、こういう身近な食べ物の思ってもみなかった調味料の配合にぎょっとしてしまったのです。自分で作ればともかく、購入して食べたり、外食する時って、そんなに入っていると意識して食べていないですよね。
なんだか甘みの少ないフレンチトーストを食べながら、私の意識はまたしても妄想モードに入っていました。
ロマンスグレーの立派な紳士がと都心のある著名ホテルのレストランに入っていく。
黒いスーツを着た壮年のウェイターがにこやかに迎える。
「いらっしゃいませ、九条様」
(名前はなんでもいい。鷹司様でも園城様でも。とにかく都心にお屋敷があって悠々とこのホテルに通う感じ)
彼は、午後四時になると決まってここを訪れ、馴染みのウェイターたちと和やかに会話しつつ、フレンチトーストとコーヒーを注文する。
「お待たせいたしました。フレンチトーストでございます」
にこやかに微笑みながら、恭しく差し出されたフレンチトーストを眺めながら、彼は微笑みつついつものように答える。
「ありがとう」
ってことをやると、この紳士は年間1825個の角砂糖分の糖分を、このホテルで体に入れることになるわけだ……。美味しいものは、大好きですが、やはり何を食べているのか確認しつつ、自分で作るのって大切だなと思った朝でした。
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- ホルンデルシロップを作りました (12.06.2018)
【小説】大道芸人たち 2 (7)ミュンヘン、事務局 -4-
無理矢理読ませて置いて、こんなことを書くのは申し訳ないのですが、長編小説を連載していると、どうしてもあまり面白くないパートというのが出てきてしまいます。この章もそんな部分の一つです。内容的には、後ほど重要な展開に必要なファクターが結構入っているし、もともとの「こんな設定あり得ないでしょ」を少し「現実でもあるかな」と錯覚していただくための記述がたくさん入っているのですが、どうしても「だからなんなの?」と思ってしまうような内容になります。すみません。
さて、今回は前回の続き、「蝶子はここエッシェンドルフでは家事などをしてはならない。あくまで男爵夫人でいなくてはならない。それは世間的な建前の話だけでなかった。稔がこのことを理解したのは、例の葬儀の後の相続ならびにヴィザの再取得などで四人が一ヶ月近く滞在したときの事だった」という記述の説明からです。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(7)ミュンヘン、事務局 -4-
冬で外ではあまり稼げなかった事もあり、ブラブラしているのに飽きた稔はヴィルに車の練習をしたいと頼んだ。日本ではよく運転していたが、ミュンヘンでドイツの免許を取得すればヨーロッパ中のどこに行っても運転できる。
ヴィルは運転手のトーマスに指導を頼んだ。仮免許運転者には横で指導する同乗者が必要なのだ。稔は言葉の壁も乗り越えて、かなりすばやくヨーロッパでの運転ルールを覚え、免許を手にした。
蝶子が車のいる買い物が必要になったときなどに、一緒に運転していくと申し出たが、ヴィルは首を振った。
「ここではだめだ。運転はトーマスの仕事だ」
「なんでだよ。トーマスを顎で使うのはお蝶だって氣が引けるだろ」
「そうであってもだ。いいか、トーマスは運転手として雇われているんだ。仕事にプライドを持ってね。俺だって、そこまで行くなら自分で運転した方がいい。だが、そんなことをしたらトーマスが暇を持て余す事になる。給料さえ払っていればそれでいいって問題じゃないんだ」
稔は納得した。ただでさえ、ヴィルがいないときはトーマスには本来の仕事がなく、マイヤーホフやマリアンたちを必要な所に送迎するか、他の事をして過ごしていた。
館には多くの使用人たちが、それぞれの仕事を持っていた。稔や蝶子が何もかも自分で出来るとしても、それに手を出す事で他の使用人たちの領分を侵す事になる。だから蝶子もここでは炊事や洗濯などをしてはいけないのだった。
蝶子は、「家事は必要ない」という稔の示唆を理解していたが、敢えてその事には触れなかった。その代わりにちゃかして笑った。
「メンバーを叱咤して皿洗いをさせる能力もあるわよね」
その一方で、稔はマリサの事を考えていた。
マリサはマリアンと同じような立場のイネスの娘でありながら、この話を聞いても自分がマリアンに家事を習いたいなどとは決して言わないであろう。
イネスは父親のいないマリサに不自由な思いはさせたくないと、カルロスのもとで身を粉にして働きながらマリサを簿記の学校に通わせたのだ。
マリサは同級生の様に子守りのバイトもした事がなければ、家事手伝いもした事がなかった。
彼女は怠惰な娘ではなかった。言われた事には素直に従うまじめさもあった。けれども、どこか受け身だった。蝶子のように豪奢な館での暮らしから一足飛びに大道芸人になるような度胸と強さもなければ、ヤスミンの自分に必要な事を吸収しようとする貪欲な機敏もなかった。
稔はマリサのはかなげで素直な所が好きだったが、弱く他力本願な性格を物足りなくも思っていた。
今までつき合った、多くの女の子がそういうタイプだった。それに対峙していたのは、永らく遠藤陽子だった。陽子は何もかも自分の腕でつかみ取った。三味線の腕前も、クラスで一番だった成績も、書道での一等賞も、近所のおじさんおばさんの評判も。
ずっと男だけが独占していた、高校の生徒会長の座も、陽子はほれぼれする選挙演説と周到な根回しで勝ち取った。そんな多忙な年のバレンタインデーに陽子が焼いてきたチョコレートケーキは、稔が当時つき合っていた沢口美代の持ってきた特徴のないチョコレートクッキーの数倍美味しかった。
陽子は本質的には稔のつき合ったどの女よりも尊敬を持てる、好ましい存在だった。けれど、稔はそれを認める訳にいかなかったので、苦々しく思っていた。
陽子のとげとげしい口調と、強い光を宿す負けず嫌いな瞳を思い出す。蝶子のカラッとした冷たさと違い、陽子には粘着質の冷たさがあった。いや、むしろ、陽子の心は熱く燃えていたのかもしれない。なぜ自分と恋仲になりたがったのだろうと、稔は思った。お蝶と築き上げてきたような色恋抜きの堅い友情、それをあいつと結べたなら俺は生涯あいつといい関係でいられたのに。
「今度は、そっちが考え込んじゃっているわけね」
蝶子の声で稔は我に返った。
頭を振ると、話題を変えた。
「再来週は、バルセロナだよな。俺、少し三味線を練習して来る。『銀の時計仕掛け人形』やるんだろ?」
蝶子はうんざりした顔をした。
「また、あれをやるの? グエル公園の常連たちに見つかると、一時も休めなくなるんだもの、嫌になっちゃうわ」
「いいじゃないか。男爵夫人生活でなまった体もしゃきっとするぞ」
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ソファを買い換えた
私が連れ合いと住んでいるフラットは、東京の住宅事情に慣れていた私には十分すぎるくらい広いのですけれど、本来は独身者用らしいです。「へえ。2と1/2なんだ」という感じですね。
スイス(や多分ドイツなどもそうだと思いますが)の部屋の数え方は、日本とはちょっと違います。日本だと1LDKなどといって、リビングは一部屋に数えていませんよね。こちらではリビングも数えます。そして、別になったキッチンはなぜか半分で数えるようです。
我が家を日本式に説明すると1LDKで、バスタブ&洗濯機乾燥機つきなところが、普通よりも豪華です。その話はともかく。
このリビングが、私にとってはとても広いのです。35㎡のリビングって、今のおしゃれなマンションなら普通なのかもしれませんが、「ここって独身者用だから狭くてさ、それで引っ越すんだ」というフラットにしては広くありませんか? ダイニングキッチンは別ですし。
さて、このリビングには、真ん中に薪ストーブがあって、そこで大体二つに分かれています。キッチンに近い半分は、私のオフィス的に使っている机と本棚、テレビ、それに昼寝や来客用に使っている小さな簡易ベッドを置いています。そして、残りの半分に、薪を入れておく大きな箱、もらったソファ二つと安楽椅子、それにCD用の飾り棚が置かれています。もらったソファのうち、革張りの一つはとても座り心地がいいのでそのままでよかったのですけれど、残りの面積の半分を占めていた巨大ソファがどうも氣に入らなかったのです。

いただいたものですし、色が氣に入らなかったのは布でカバーして15年以上使ってきたのですけれど、このソファが場所を占めているおかげで、増えてきたものをしまう場所がなくてイライラしていました。この写真では、何も載っていませんが、連れ合いが雑誌を山積みにして、文具やリモートコントローラーを放置し、さらに脱いだ洋服も掛けて、どんなに言っても片付けてくれません。そりゃ片付けられませんよ、しまう場所もないんですから。
それで、ついに私がキレて「ソファを買い換えたい」宣言をしました。連れ合いは最初は反対しましたが(彼はまだ使えるものを変えることにひどく抵抗するタイプ)、購入・搬入、前のソファの処分まで全て私が一人でオーガナイズすることを約束してOKを取り付けました。彼に手伝ってもらうと、決意してから実行するまでに何年もかかるので、一人でやらせてもらった方が話が早いのです。
(そういえば、ダイソンのハンドクリーナーを買う時もものすごく抵抗されたけれど、今や彼の方がずっと氣に入っていてほぼ乗っ取られています)
前のソファはベッドにもできなかったので、来客が来ても泊めることもできませんでした。いや、私の女性客が来る時は、寝室に泊めるのでいいんですけれど、簡易ベッドではまずいタイプの男性客が来ると義母のゲストルームに行ってもらうことにしていました。義母が年をとってきて、そうやって押しつけるのもまずいなと思っていたので、その問題も解決できるベッドになるソファを探してみました。

新しいソファが木曜日に無事届きました。そして、古い方は、持っていってもらいました。下が新しい方。並べると占めている空間の違いがわかりますよね?
新品を買ってもよかったのですけれど、環境問題、搬入の問題、前のソファの有効利用などを考えて、リサイクルショップから購入しました。こちらのリサイクルショップは、要らないものをタダで寄付し、その代わり買う方も新品を買うよりずっと安い値段で手に入れることができるシステムです。私が買ったものは、見かけは新品と変わらない感じで、とてもしっかりしている上、背もたれと肘掛けを取り外すと120㎝×210㎝のフラットなベッドになります。シンプルな形状のおかげで、カバーをつけるのも簡単です。しかも、以前のソファはその形状と置いた位置のせいで、窓のブラインドの開け閉めが大変だったのですが、その問題もなくなりました。

カバーをつけて完成。これ、自分への誕生日プレゼントです。(本日、4日が誕生日)
これで、前のソファで使っていた約1/3のスペースが空きました。ここをどう変えていくかは、連れ合いと相談の上です。全部一人でやると、またへそを曲げるので。
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ただ、この程度の内容で8000字ぐらい一度に読ませて、それから一ヶ月放置「また内容忘れちゃった」にするよりはいいのかなあ。もっと手に汗握る、さらに言うと忘れにくい強烈な内容の小説だと、また違うんでしょうけれど。
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大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(7)ミュンヘン、事務局 -3-
「話にもならないわ!」
蝶子がため息をつきながら戻ってきたのは二時間ほど後だった。
「なんの面接だったんでしたっけ?」
レネが蝶子に再びワインを注いでやりながら訊いた。
「家政婦よ。マリアン一人じゃまわらない仕事を分担する人が二人は必要なんだけど、よくわかっている方が結婚してやめる事になったの。もう一人が彼女のやっていた分を引き継ぐには荷が重いので、少ししっかりした人を雇いたいんだけど、今日来たのは普通以下よ」
「どんなことをしてもらいたいんですか? 掃除とか、洗濯とか、料理とか?」
「料理そのものは、料理人がいるからしなくていいの。下準備はしてもらうけれど。掃除や洗濯、それに買い物。掃除と一口に言っても、真鍮はどう磨くとか、この木材はどの溶剤で手入れするとか、ものすごく覚える事があるの。洗濯もしみ取りの方法や特殊な手入れを知らなくちゃいけないし。ある程度ちゃんとしたお屋敷で働いてきた人か、そうでなければものすごく頭の回る人がいいんだけれど、そんな人は、全然こなかったわ」
「ものすごく頭の回る人って、ヤスミンは?」
レネの言葉に、蝶子は目を瞠って答えた。
「そりゃ、理想的だけれど、ヤスミンが家政婦の仕事をしたがったりすると思う?」
「昨日、劇団の仕事と美容師の仕事の両立がきついって言っていたんです。でも、生活のためにはしょうがないってね。アウグスブルグのアパートを払うのが大変なら、ここの僕が使わせてもらっている部屋に越してくればって言ったら、それは理想的だけれど、ただの居候は嫌だし、時間のやりくりのつく仕事をミュンヘンで見つけるのは難しいって。ヤスミン、マリアンとは仲もいいし、時折率先して手伝っていたから、経験なくてもいいなら、やりたがるかもしれませんよ」
蝶子はヴィルの方を見た。ヴィルは、好きにしろという様に頷いただけだった。
「じゃあ、今晩でも電話して訊いてみるわ。そりゃ、ヤスミンが引き受けてくれたら、これ以上の事はないわね。私たち、安心していろんな事を任せられるし」
「やりたい!」
ヤスミンは即座にそう答えた。
「でも、ヤスミン、家政婦よ? いいの?」
蝶子は戸惑いながら訊いた。
「もちろんよ。花嫁修業になるじゃない。前ね、マリアンと話していて、家事のことをまったくわかっていないってわかったの。暇があったらこちらから頼んででも、マリアンにあれこれ教えてもらいたいと思っていたのよ。それが、お給料をもらえて、アウグスブルグのアパートを引き払えて、美容院の仕事も辞められて、レネが来る時には確実に会えるんでしょ? お願い、シュメッタリング、私を雇って」
「わかったわ。ヴィルにそう伝えるわね。私たち、再来週からしばらくいなくなるけど、都合のいい時に、こっちに移ってきて。引っ越しの請求書はマイヤーホフさん宛にしてもらってね」
「ありがとう、シュメッタリング」
蝶子は電話を切ってから、電話の前でしばらく黙って佇んでいた。
「どうしたんだよ、お蝶?」
通りかかった稔が声を掛けた。
「なんでもないわ。ヤスミンは柔軟ね」
「何の事だ?」
「わたしね、どこかで仕事を二つに分けていたの。『職業に貴賤なし』って言うけれど、まさにその貴と賤に。私がマリアンの雇い主なのは偶然にすぎないし、大道芸人は本来なら家政婦って職業よりも下かもしれないのにね。その無意識の差別に氣がついちゃって、自分でちょっぴりショックを受けているのよ」
「お前、だんだんトカゲらしくなくなってきたな」
褒めているのか貶しているのかわからない感想を稔がもらしたので、蝶子はにらんだ。
「ヤスミンは、わたしとは全然違う意識を持っていたんだわ。マリアンを家事のエキスパートとして尊敬していたの。私だってマリアンはすごいとは思っていたけれど、自分が習いたいだなんてまるっきり思わないのよね」
「お前はドミトリーの炊事場や洗濯場で、トカゲにしては率先してやってくれるじゃないか。それ以上の家事は必要ないだろ?」
稔はのんびりと言った。
蝶子はここエッシェンドルフでは家事などをしてはならない。あくまで男爵夫人でいなくてはならない。それは世間的な建前の話だけでなかった。稔がこのことを理解したのは、例の葬儀の後の相続ならびにヴィザの再取得などで四人が一ヶ月近く滞在したときの事だった。
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