【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 世吉と鵺
「scriviamo! 2018」の第七弾です。もぐらさんは、オリジナル作品の朗読で参加してくださいました。ありがとうございます!
もぐらさんの朗読してくださった作品『主人思いの小僧と貧乏神』
もぐらさんは、オリジナル作品、青空文庫に入っている作品、そして創作ブロガーさんたちの作品を朗読して発表する活動をなさっているブロガーさんです。お一人、もしくはお二人で作品を朗読なさり、当ブログの作品もいくつも読んでくださっています。いつもとても長くて本当にご迷惑をおかけしています。
今年もオリジナルの「貧乏神」シリーズでご参加くださいました。日本の民話をアレンジなさった素敵な作品です。貧乏神のシリーズとはいえ、毎年、とてもハートフルなエンディングでお正月にふさわしい素敵な作品ばかりです。どうぞあちらで聴いてみてくださいね。
で、お返しですけれど、恒例の「樋水龍神縁起 東国放浪記」の話です。今回も窮鬼(貧乏神)の話題はほんのとっかかりだけですが、もぐらさんのお話のエッセンスを取り入れた話にしてみました。
平安時代の話なので、馴染みの少ない言葉がいくつか出てきますのでちょっとだけ解説しますと、出てくる「家狸」というのはいわゆる猫のことです。この当時、猫は民衆の間では狸の仲間だと思われていたようです。日本の在来の野生の猫をネズミを捕ることからペット化し始めた頃のようです。それとは別に遣唐使などと共に輸入されてきた猫もいました。それから、題名に出てくる「
【参考】

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樋水龍神縁起 東国放浪記
世吉と鵺
——Special thanks to Mogura-san
その村についたのは、もう暮れかかる頃だったので、次郎は何をおいてでもすぐに今夜の宿を探さねばならなかった。村はずれの小さな家でどこか泊めてくれる家がないかと訊くと、親切そうな女は困った顔をした。
「この家は狭く、とてもお二人をお泊めできるような部屋はございません」
確かにここは難しいだろうと思った。貧しい家はどこもそうだが、土を掘り床と壁と屋根を設置した竪穴式の家で、家族が身を寄せ合って眠るのが精一杯の広さしかないことが見て取れた。
女は辺りを見回して言った。
「この先にもいくつか家はありますが、皆ほぼ同じような有り体でございます。例に漏れますのは、一番村の奥に住んでおります
次郎は首を傾げた。
「何か不都合があるのでしょうか」
「いえ。実は、この者の家には、化け物が棲んでいるのでございます。確か
「そうですか。では次に泊まれるような家があるような村は」
「さようでございますね。隣村は難しいので、おそらく山道を十里ほど先に行く他はないかもしれません。ただ、もう暮れてまいりましたね。さて、どうすべきでしょうか」
次郎は言った。
「我が主人は陰陽道に秀でられたお方ですので、多少の化け物など怖れることはないかと存じます」
「さようでございましたか! それならば、世吉も喜ぶことでしょう。誠にあの化け物さえいなければ、どんなにいいかと、村の皆で申しておったのでございます」
次郎は、急いで主人である安達春昌の元に戻ると、女の話を伝えた。
「鵺?」
春昌は怪訝な顔をしたが、特に反対はせずに、その世吉の家へと馬を進めた。
その家は、確かに村の他の家とは違い、決して大きくはないが茅葺き屋根の木造家屋だった。簡素な佇まいながらもきちんと掃き清められ、化け物が棲み憑いているような禍々しい氣は一切感じられなかった。
もちろん次郎には、そういった普通の人には見えぬものはぼんやりと見えるだけで、主人のようにはっきりと見たり、判断をする知識があるわけではない。だが、主人が「心せよ」とも言わないところを見ると、いきなり化け物に襲われるようなことはないだろうと判断し、戸を叩いた。
「もうし、旅の者でございます。一晩の宿をお願いにまいりました」
その次郎の声に反応して、中から誰かが戸口へとやってきた。
顔を出したのは、質素な身なりだが人好きのする顔をした小柄な青年であった。
「これは、珍しい。立派なお殿様のおなりですな。もちろん喜んでお泊めしたいのですが……その……村では何も申しておりませんでしたか」
次郎は頷いた。
「伺っております。鵺という化け物が棲み憑いていると。まことでございますか」
世吉は、困ったように言った。
「名前はわかりませぬが、異形のものがいるのはまことでございます。お氣になさらないのであれば、どうぞお上がりくださいませ」
「わが主は陰陽道に秀でておりますので、もしお望みでしたらお泊めいただくお礼に、その鵺の退治なども……」
次郎が小さい声で囁くと、世吉はぎょっとして春昌の顔を見た。
それから困ったように言った。
「いえ、あれが窮鬼のようなものだとしても、仕方ないことと受け入れたのは私でございます。皆に追われて行く当てがなく氣の毒だったのです。私には生きるに足らぬ物はなく、これで構わぬと思っておりますので、どうぞあれをそのままにしておいていただければと思います」
そう言うと、世吉は春昌と次郎を奥の部屋へと案内した。調度も整い、掃き清められた心地いい部屋で、嫁はなくとも世吉が家の中をきちんとしていることがわかった。化け物が突然遅いかかって来ることなどもなく、次郎は少し拍子抜けした。
夕膳の支度をしてくると世吉が部屋から出て行ったので、次郎は家の脇につないだ馬の世話をするために再び戸口に向かった。すると、奥の部屋からヒューヒューという薄氣味悪い声が微かに響き、何かが拭き清められた廊下を静かに歩いてくる。
次郎は肝を冷やして、急いで春昌のいる部屋に駆け戻ると大きな声で叫んだ。
「春昌様! 鵺が!」
春昌は、落ち着いて次郎の飛び込んできた部屋の入り口を見た。それから、廊下から世吉が慌てて走ってくる音が聞こえた。
「どうか、そのものをお助けくださいませ!」
世吉は、戸口で何か黒い生き物を抱えてひれ伏していた。怖れ伏していた次郎は、その世吉の言い方に驚いて顔を上げた。
「心配せずとも何もせぬ」
春昌は少しおかしさを堪えているような顔を見せた。
「春昌様?」
次郎は、春昌と鵺らしき生き物を抱える世吉の顔を代わる代わる眺めた。
「世吉どの。教えていただけないか。あなたがその生き物と暮らすようになつたいきさつを」
春昌の静かな声に、世吉は安堵し、生き物を放した。それは「ヒューヒュー」とわずかに喉から漏れるような音を出しながら、悠々と春昌の側に歩いてきた。
次郎はその生き物を見て、少し拍子抜けした。確かに一度も見たことのない生き物だった。漆黒で、長い毛に覆われている。尾の長さは頭から尻までと同じくらい長く蛇のように蠢いていたが、蛇というよりは狐の尾に近いものだった。顔と体つきは屏風で見た虎に似ているが、全体の見かけは少し大きな町の裕福な家にて飼われる
「はい。このものは、私めがまだ少領である佐竹様の下人として、辺りを回っていたときに出会いました。とある裕福な家で、むち打たれていたのでございます。訊けば、どこからともなく来て棲み憑いたものの、それ以来、家運が傾き下人などが夜逃げをするようになったとのこと、法師さまに見ていただいたところ、このような生き物は見たことはないがおそらくは文献に見られる鵺であろうと。窮鬼のごとく、家運を悪くすると申します。されど、小さい体で息も絶え絶えに助けを求めている様を放っておくことはできず、お館ではなく、我が家でしたら殿様のご迷惑にはならぬであろうと、お許しをいただき連れ帰りました。それ以来三年ほど共にこうしておりますが、すっかりと慣れておりますし、たまに鼠なども狩ってくれます。たとえ運がよくなろうと、退治されてしまうのはあまりにも辛うございます」
春昌は、ゴロゴロと喉を鳴らすその黒い生き物を撫でて言った。
「これは鵺ではない。
次郎は仰天してその大きな生き物を見た。唐猫と呼ばれる生き物ことは、以前に仕えていた媛巫女に聞いたことがあった。天竺の様々な法典を鼠より守るために遠く唐の国から船に乗せられてきた貴重な生き物だと。
「非常によく似た唐猫を御所で見たことがある。天子様がことのほかご寵愛で、絹の座布団で眠り、日々新しい鶏肉と乳粥で大切に養われていると聞いた」
春昌の言葉を耳にして、世吉は腰が抜けるかと思うほど驚いた。
「鼠を狩るのは当然だ。
唐猫は、悠々と世吉の元に戻ると膝に載りヒューヒューと息を漏らした。その愛猫を抱きしめながら世吉はつぶやいた。
「そうか。そんなに尊い生き物だとは知らずに、ずっとお前を窮鬼の仲間だと思っていた。申し訳のないことを」
「そうではない。禍々しくないと同様に、尊くもない。ただ、
「私は、このものを追い出すことも死なせることも出来ませんでした。もし窮鬼と共に生きるのであれば、人の数倍、身を粉にして働かねばと思っておりました」
春昌は頷いた。
「その心がけが、そなたをただの下人から、少領どのの片腕と言われるまでの地位に就けたのであろう。言うなれば、そなたの
「はい。安達様、お教えくださいませ。私ごとき、身分の低い者がそのような珍しい生き物と暮らしていて、とがめられることはないのでしょうか。知らなかったとは言え、三年ほども共におりましたし、もし天子様の唐猫の仔などであったとしたら……」
春昌は、怯える世吉に笑って言った。
「誰にも言わねばよい。法師は鵺と言ったのであろう。誰もが鵺を恐れて、その生き物を引き取りには来ない。そなたはその唐猫を鵺と呼び、寿命を迎えるまで大切にしてやるといい」
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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【小説】迷える詩人
「scriviamo! 2019」の第六弾です。前回に引き続き、ポール・ブリッツさんのご参加分。今年は十句の無季自由律俳句でご参加くださいました。
ポールブリッツさんの「電波俳句十句」
毎年ポールさんのくださるお題は難しいんですけれど、今年は更に悩まされました。毎年のお題と違うのは、今回の作品はかなりパーソナルな内容なのかなと思いまして、どう取り扱っていいのか。
ここで私が十句もパーソナルな内容の俳句をお返しすることは、誰も望んでいないと思うので、俳句に詠まれた内容を(一部は申し訳ないのですけれど、正確な意味がわからなかったのですが)、私なりに感じる創作者の共通の悩みのことを書いてみようかなと思いました。そして、書いてくださった十句にちなんで、十のよく知られたラテン語の箴言や格言を散りばめてみました。私が付け焼き刃で書く下手な俳句などでは却って失礼になると思ったので。
登場するのは、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」における「歩く傍観者」こと、(身元が判明する前の)主人公マックスです。ご存じない方も、彼が主人公だったことをお忘れの方も、全く問題ありません。この作品ではほとんど関係ありませんから。
【参考】
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae 外伝
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森の詩 Cantum Silvae 外伝
迷える詩人
——Special thanks to Paul Blitz-san
穏やかな秋の午後、マックスは山道を急いでいた。まだ今宵の宿を見つけていないのだ。足下には絨毯のごとく大量の栗のイガが散らばっていた。
「痛っ」
マックスは、声を上げた。今日は、もう三度目だ。彼はまたしてもそれを踏んでしまったのだ。
この地域は、特に風味豊かな栗を産することで有名だ。鬱蒼と茂る背の高い栗の木々は、村のそれぞれ家で管理している。教会と代官に納める分以外は、乾燥栗や、その粉末に加工されてヴェルドンはもとより、貿易によって運ばれ遠くセンヴリやカンタリア王国の宮廷でも食卓に上ることがあった。
落ちているのはイガばかり、つまり、旅籠で本日の定食を頼めば、彼の足を刺したイガが抱いていた秋の味覚を口にすることが出来るはずなのだ。
まずは栗を煎る香ばしい煙が、それからようやく小さな灰色の家々がマックスを出迎えた。彼は、歩きにくい粗い石畳の小径を進み、《牡鹿亭》と書かれたおそらくこの辺りで唯一の旅籠に足を踏み入れた。
中には旅人らしい影は多くなかった。食事をしているのは、旅籠の亭主らも含めて四人ほどで、おそらく客は奥に一人で座る青年のみだろう。
「今宵の宿を頼みたいのだが」
そう尋ねると、亭主は立ち上がり、中へと招いた。古い栗の木を用いた寝台や机、とても小さな戸棚があるだけの簡素な部屋だったが、マックスは満足した。
「今すぐ来てくれれば、定食を出すが」
マックスは、頷いた。少し早すぎるとも思ったが、食いっぱぐれるよりはいい。
食堂は狭いので、彼は先客の前に案内された。それは青ざめた顔をした痩せた青年で、銀色のタンブラーを右手で持っている。中には半分ほどのワインが入っている。その手がわずかに揺れているのを見て、マックスは「おや」と思った。
「ワインはいかがですか」
亭主がワインの入った水差しを持って近づいてきた。マックスは礼を言ってタンブラーを差し出した。マックスに注ぎ終えると、訊くまでもなくもう一人の客もタンブラーを差し出したので、そちらにもためらいながらも注いだ。
「そんなに飲んで、大丈夫か、アントー? 」
亭主の問いかけに、アントーと呼ばれた客はあざ笑うように言った。
「大丈夫じゃないさ。生まれてからこのかたずっと」
「それじゃ、わざわざ明日の頭痛や悪寒をあえて背負い込む必要はないんじゃないかい?」
余計なことと思いつつも、マックスは言ってみた。
男は片眉を上げると、マックスにタンブラーを差し出して答えた。
「正にその通り! それでは、明日の頭痛と吐き氣に乾杯しよう、旅のお方」
マックスは、盃を合わせて少し飲んだ。
「君は、この村にしばらく逗留しているのかい? 詳しいなら少し教えてくれないか」
アントーは、口の端だけで笑いながら言った。
「何を知りたいのかね、旅のお方。俺は、確かにこの辺りのことに少しは詳しいさ。今は歓迎されず、長居をすることはないが、何といっても隣村で生まれ育ったのでね」
「そうなのか! 僕は、サッソ峠を超えてグランドロンヘと入るのは初めてなんだ。初雪が降る前に街道へと出たいんだが、どこを通ると一番いいだろうか」
「そうだな。俺なら、少し西へと向かいエッコ峠にするな」
「ずいぶんと遠回りなのにかい?」
「サッソ峠は、日が当たらないためか辺りはひどく貧しくてね。旅籠はないし、食べられるものや安心して休める場所も見つけにくい。ここを出てしばらくはひもじい思いをすることになるし、追い剥ぎにやられる可能性も多い。道は一本なので、迷うことはほとんどないと思うがね」
「じゃあ、君がここに居るのは、故郷に帰るためなのか?」
そうマックスが訊くと、アントーは引きつったような笑い方をした。
「俺は、二日ほど前に故郷の村へ行ったんだが、追い払われたんだよ。金の無心だけのために戻ってくるなってね。名をなして、豊かにならない限り、故郷にも帰れないのさ」
そう言うと、苦しそうにワインをあおった。
「故郷を離れてから、どこに居たんだい?」
「あちらこちらさ。宮廷で雇ってもらおうなんて野望は持っていないが、大きな町に行けば、詩人として名をなすことも出来るかもしれないってね」
「君は、詩人なのか」
「今は、ただの酔っ払いだ。言うだろう、『In vino veritas.(真実とはワインの中にある)』ってね」
マックスは肩をすくめた。
「つまり、これから君は、本当のことをペラペラとしゃべってくれるというわけだね」
アントーは、おやと言うようにマックスを見た。
「ラテン語がわかるってことは、お前さんは、ずいぶんと教育を受けているんだね、旅のお方」
「ほんの少しね」
マックスは、酔っ払っていないので、真実を吐き出してはいなかった。実際には、彼は当代で受けられる最高の教育を受けており、宮廷や貴族たちの家で教師として働くことで生計を立てていた。そして、この旅籠の主人らが生涯に一度も見たことがないほどの大金を質素な旅支度に隠し携えていたのだ。
「そうか。俺は、だが、ラテン語に詳しいというわけではない。さっきのはたまたま知っていただけだ。そもそも、まともな教育を受けることなど不可能だったしな。まともに食うものもない貧しい村で、詩人になりたいといったら、誰もが笑ったよ。ただ、親は喜んだ。小さな畑を二人の息子が引き継ぐのは不可能だったし、詩人になるなら村から出て行くに決まっているからな」
「そして、君はそうしたんだね」
「ああ、したとも。ヴォワーズ大司教領へ向かい、門前町で自慢の詩を朗々と歌うところから始めた。まさか、村でよりもひどい嘲笑に迎えられるとは思いもしないで」
「『Sedit qui timuit ne non succederet.』」
「なんだそれは?」
「ホラティウスの言葉だよ。『失敗を怖れ成功したくなかった者は、静かに座っていた』つまり、何もしない人間は失敗もしない代わりに成功することは絶対にないって意味だ。君は詩人になる努力を始めたんだろう」
アントーは頷き、タンブラーから酒を飲み干すと、亭主に合図してお代わりを要求した。亭主は、先にマックスにスープを運んできた。わずかに茶色いクリームスープからはほのかに栗の香りがした。
アントーは、酒をもらうと、低い声でブツブツと詩らしきものを唱えていたが、マックスにはほとんど聞き取れなかった。彼は、顔を上げてマックスに語りかけた。
「そうさ。でも、詩人を目指すのと詩人になるのは同じではなかった。大きな壁があった。みな俺の詩には、教養がないと言うんだ。韻は踏めていないし、故事も含めていないと。だけれども、どうしたらそんなことが出来る? 俺は、何も知らないし、習う相手もいないんだ。金もないし。なあ、旅のお方、詩人の資格とはなんなのだ?」
マックスは同じホラティウスの言葉を思い出した。
「『天賦の才、人より優れた心、そして偉大な物事を表現する雄弁さを持っている人は、詩人の名誉を受ける権利がある(Ingenium cui sit, cui mens divinior, atque os magna sonaturum, des nominis hujus honorem)』ってね。雄弁さの部分は、技術的な問題もあるから学ぶ必要があるのかもしれないが、そもそも大切なのは何を表現したいかじゃないのかな」
アントーは、顔を上げた。暗い想いにわずかな陽が差したかのように。
「表現したいこと……それならいくらでもある」
「こうもいうよ。『魂があるところに、歌がある(Ubi spiritus est cantus est)』僕は、全く詩人ではないから、知識があっても詩は作れない。詩を作りたいと想うことこそが、既に一つの才能なのではないかな」
「じゃあ、俺はまだ詩人でありたいと願い続けていてもいいのだろうか」
「もちろん、いいと思うさ。名をなして金持ちになるかどうかはわからないけれど、もともと金がないから詩人を目指してはいけないなんてことはない、そうだろう? もし、君さえよければ、僕に一つ聴かせてくれないかい?」
アントーは、小さく頷くと、うつろな瞳を宙に泳がせ詠じた。
「少女が戸口で頼む 火のついた炭を分けてくれと
隣人は怠惰なのろまと罵り 戸を閉めた
冷えた家に戻った継母は 怒りにまかせて少女を叩き
彼女は叩かれた数を 腹の中で数えた」
詩は、次の連へと進み、いくつもの傷跡を受けて謎の死を遂げた継母を置き去り、少女が街へと出て行く様子を述べた。少女は街で早々に男たちに売られて、悲惨な生活へと流されていくやるせない物語だった。マックスがこれまで聴いた詩と違うのは、確かにそのアントーの詩は韻律を全く無視しており、平坦な文章にしか聞こえなかったことだ。だが、物語そのものは、非常に興味深かった。
亭主がやってきて、詩には全く感銘を受けた様子を見せずにアントーをじろりと睨んだ。
「おい、なんの役にも立たない物語でお客さんを悩ませるんじゃないぞ」
青年詩人の声は小さくなり、語るのをやめてしまった。その様子を見て、マックスは、この近隣でのアントーの立場を思いやるせなくなった。
『何故笑っているのか。名前を変われば、物語はあなたのことを語っているのに(Quid rides? Mutato nomine et de te fabula narrator.)』
そう言ってやりたいと思ったが、それが却って故郷でのアントーの立場を悪くしてはならないと思い、黙った。
亭主は、マックスの空になったスープ皿の椀を下げると、平たい麺にラグーをかけた料理を置いた。ラグーには煮込まれてバラバラになった肉が見えたが、塊はなかった。その代わりに大きな栗がいくつか見えた。
「スープはいかがでしたかい」
「ありがとう。美味しかったよ。栗が入っているんだね」
「へえ。そして、この麺にも栗の粉が練り込んでありやす」
その麺を、マックスは一度も見たことがなかった。指ほどの長さに切れていて、グレーと茶色の中間の色をしている。少しざらりとした舌触りだが、もっちりとして弾力のある歯ごたえだ。
「土台になっているのは小麦ではないのかい?」
「ソバ粉、栗の粉、それにほんのわずか小麦でさ。この谷の名産としてお代官さまに献上する品目に入っておりやす」
この地域は、小麦がよく育たなく、むしろソバの生育に適しているのであろう。ないものを憂えるのではなく、その土地だからこそ出来る物を強みに、人々が生き抜く様を、マックスはここでも感じた。
「『Aut Viam Inveniam Aut Faciam』と言うとおりだね」
「なんですかい、それは?」
「先ほどから、僕たちが話しているラテン語名言集のひとつさ。『私は道を見いだすか、さもなくば自ら道を作るだろう』っていう意味だよ。他の土地のように小麦を植えるのは難しいかもしれないが、栗にしろ、蕎麦にしろ、この谷だからこそよく育つ植物を利用して、他にはない強みを作った先人たちの知恵に感心しているのさ」
「そうなんですかね」
そういって亭主はまた下がった。
「自ら道を作るか……」
アントーが、つぶやいた。
「そうだ。君の詩も、おそらく道を作りかけている最中なのではないか?」
マックスは言った。
アントーは、自信なさそうにマックスを見た。
「聴いてくれるのは、貧しい人たちばかりだ。金のある奴らは、俺の語りかけに立ち止まることをしない。それに神父がやってきてたしなめるんだ、善きことをした者が報われる物語を、きちんとした韻律で語れと。この世に善きことをした貧しい者が報われたことなど、俺は一度も見聞きしていない。そんな耳障りのいい絵空事を語るために詩人になりたかったわけじゃないんだ」
マックスには、アントーの悩みの本質が見えてきた。韻律や故事などは習うことが出来よう。だが、彼が望むのは世の中の矛盾と不正義に対する告発を詩にすることなのだ。そして、それを望む限り金銭的な成功や名誉を得ることは難しいに違いない。
「僕には、君を助けてあげることが出来るかどうかはわからない。でも、名を成すことと、伝えたいことを同時に実現するのは、詩人に限らず難しい。君の物語に僕は心を動かされたから、受け入れられることは可能だと思う。でも、それが難しいのは確かだ。少なくとも韻律を学んで、体裁を整えれば、聴いてくれる者が増えるかもしれない。もしくは耳障りのいい詩で先にパトロンを作ってから、より伝えたい詩を詠じるという道もある」
アントーは、しばらく黙ってマックスを見つめていた。
「お前さんは、まじめに聴いてくれるんだな。そうか、そうかもしれないな。今すぐに全てを実現しようとするから、上手くいかないのだろうか」
「新しいことをしようとすれば、時間はかかるだろう。『滴は岩に、力によってではなく、絶え間なく落ちることによって、穴をあける(Gutta cavat lapidem, non vi, sed saepe cadendo. )』って言うからな」
アントーは、タンブラーを脇にどけて、真面目にマックスの顔を見つめた。
「体裁を整えるために韻律を学ぶか。だが、どこで、誰に……」
マックスは、少し考えた。
「もし、またセンヴリに向かうつもりならば、マンツォーニ公の領地へと行くがいい。サン・ジョバンニ広場には、アレッキオという年老いた詩人がいる。彼とは、一年ほど親交を持っていたが、人の心のわかる立派な魂を持った男だ。彼にマックス・ティオフィロスに紹介されたといって教えを請うといい」
「ありがとう。是非そうするよ。なんとお礼を言っていいか」
「『苦難の中にいるものには、恐らく、よりよいものが続くであろう(Forsan miseros meliora sequentur.)』もしくは『過ぎ去った苦しみの思い出は、喜びに変わる(Jucunda memoria est praeteritorum malorum.)』っていうからね。君の志が実を結ぶことを応援させてもらうよ」
それからマックスは、懐から財布を出して、銀貨を一つ渡した。一つの詩に対する賞賛にしては高すぎる金額だったので、アントーはぎょっとして訊いた。
「どうして?」
「君の未だ世に認められていない才能にさ。『Magna voluisse magnum.』(全ては我が槍に至る - 偉大なことを欲したということが偉大である)、そう思って受け取るといい。僕に出来るのはここまでだ。このあとに運命が開かれるかどうかは、君次第だ」
マックスは言うと、彼自身のワインを飲み干して、青年の幸運を願った。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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【小説】迷える詩人
「scriviamo! 2019」の第六弾です。前回に引き続き、ポール・ブリッツさんのご参加分。今年は十句の無季自由律俳句でご参加くださいました。
ポールブリッツさんの「電波俳句十句」
毎年ポールさんのくださるお題は難しいんですけれど、今年は更に悩まされました。毎年のお題と違うのは、今回の作品はかなりパーソナルな内容なのかなと思いまして、どう取り扱っていいのか。
ここで私が十句もパーソナルな内容の俳句をお返しすることは、誰も望んでいないと思うので、俳句に詠まれた内容を(一部は申し訳ないのですけれど、正確な意味がわからなかったのですが)、私なりに感じる創作者の共通の悩みのことを書いてみようかなと思いました。そして、書いてくださった十句にちなんで、十のよく知られたラテン語の箴言や格言を散りばめてみました。私が付け焼き刃で書く下手な俳句などでは却って失礼になると思ったので。
登場するのは、「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」における「歩く傍観者」こと、(身元が判明する前の)主人公マックスです。ご存じない方も、彼が主人公だったことをお忘れの方も、全く問題ありません。この作品ではほとんど関係ありませんから。
【参考】
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迷える詩人
——Special thanks to Paul Blitz-san
穏やかな秋の午後、マックスは山道を急いでいた。まだ今宵の宿を見つけていないのだ。足下には絨毯のごとく大量の栗のイガが散らばっていた。
「痛っ」
マックスは、声を上げた。今日は、もう三度目だ。彼はまたしてもそれを踏んでしまったのだ。
この地域は、特に風味豊かな栗を産することで有名だ。鬱蒼と茂る背の高い栗の木々は、村のそれぞれ家で管理している。教会と代官に納める分以外は、乾燥栗や、その粉末に加工されてヴェルドンはもとより、貿易によって運ばれ遠くセンヴリやカンタリア王国の宮廷でも食卓に上ることがあった。
落ちているのはイガばかり、つまり、旅籠で本日の定食を頼めば、彼の足を刺したイガが抱いていた秋の味覚を口にすることが出来るはずなのだ。
まずは栗を煎る香ばしい煙が、それからようやく小さな灰色の家々がマックスを出迎えた。彼は、歩きにくい粗い石畳の小径を進み、《牡鹿亭》と書かれたおそらくこの辺りで唯一の旅籠に足を踏み入れた。
中には旅人らしい影は多くなかった。食事をしているのは、旅籠の亭主らも含めて四人ほどで、おそらく客は奥に一人で座る青年のみだろう。
「今宵の宿を頼みたいのだが」
そう尋ねると、亭主は立ち上がり、中へと招いた。古い栗の木を用いた寝台や机、とても小さな戸棚があるだけの簡素な部屋だったが、マックスは満足した。
「今すぐ来てくれれば、定食を出すが」
マックスは、頷いた。少し早すぎるとも思ったが、食いっぱぐれるよりはいい。
食堂は狭いので、彼は先客の前に案内された。それは青ざめた顔をした痩せた青年で、銀色のタンブラーを右手で持っている。中には半分ほどのワインが入っている。その手がわずかに揺れているのを見て、マックスは「おや」と思った。
「ワインはいかがですか」
亭主がワインの入った水差しを持って近づいてきた。マックスは礼を言ってタンブラーを差し出した。マックスに注ぎ終えると、訊くまでもなくもう一人の客もタンブラーを差し出したので、そちらにもためらいながらも注いだ。
「そんなに飲んで、大丈夫か、アントー? 」
亭主の問いかけに、アントーと呼ばれた客はあざ笑うように言った。
「大丈夫じゃないさ。生まれてからこのかたずっと」
「それじゃ、わざわざ明日の頭痛や悪寒をあえて背負い込む必要はないんじゃないかい?」
余計なことと思いつつも、マックスは言ってみた。
男は片眉を上げると、マックスにタンブラーを差し出して答えた。
「正にその通り! それでは、明日の頭痛と吐き氣に乾杯しよう、旅のお方」
マックスは、盃を合わせて少し飲んだ。
「君は、この村にしばらく逗留しているのかい? 詳しいなら少し教えてくれないか」
アントーは、口の端だけで笑いながら言った。
「何を知りたいのかね、旅のお方。俺は、確かにこの辺りのことに少しは詳しいさ。今は歓迎されず、長居をすることはないが、何といっても隣村で生まれ育ったのでね」
「そうなのか! 僕は、サッソ峠を超えてグランドロンヘと入るのは初めてなんだ。初雪が降る前に街道へと出たいんだが、どこを通ると一番いいだろうか」
「そうだな。俺なら、少し西へと向かいエッコ峠にするな」
「ずいぶんと遠回りなのにかい?」
「サッソ峠は、日が当たらないためか辺りはひどく貧しくてね。旅籠はないし、食べられるものや安心して休める場所も見つけにくい。ここを出てしばらくはひもじい思いをすることになるし、追い剥ぎにやられる可能性も多い。道は一本なので、迷うことはほとんどないと思うがね」
「じゃあ、君がここに居るのは、故郷に帰るためなのか?」
そうマックスが訊くと、アントーは引きつったような笑い方をした。
「俺は、二日ほど前に故郷の村へ行ったんだが、追い払われたんだよ。金の無心だけのために戻ってくるなってね。名をなして、豊かにならない限り、故郷にも帰れないのさ」
そう言うと、苦しそうにワインをあおった。
「故郷を離れてから、どこに居たんだい?」
「あちらこちらさ。宮廷で雇ってもらおうなんて野望は持っていないが、大きな町に行けば、詩人として名をなすことも出来るかもしれないってね」
「君は、詩人なのか」
「今は、ただの酔っ払いだ。言うだろう、『In vino veritas.(真実とはワインの中にある)』ってね」
マックスは肩をすくめた。
「つまり、これから君は、本当のことをペラペラとしゃべってくれるというわけだね」
アントーは、おやと言うようにマックスを見た。
「ラテン語がわかるってことは、お前さんは、ずいぶんと教育を受けているんだね、旅のお方」
「ほんの少しね」
マックスは、酔っ払っていないので、真実を吐き出してはいなかった。実際には、彼は当代で受けられる最高の教育を受けており、宮廷や貴族たちの家で教師として働くことで生計を立てていた。そして、この旅籠の主人らが生涯に一度も見たことがないほどの大金を質素な旅支度に隠し携えていたのだ。
「そうか。俺は、だが、ラテン語に詳しいというわけではない。さっきのはたまたま知っていただけだ。そもそも、まともな教育を受けることなど不可能だったしな。まともに食うものもない貧しい村で、詩人になりたいといったら、誰もが笑ったよ。ただ、親は喜んだ。小さな畑を二人の息子が引き継ぐのは不可能だったし、詩人になるなら村から出て行くに決まっているからな」
「そして、君はそうしたんだね」
「ああ、したとも。ヴォワーズ大司教領へ向かい、門前町で自慢の詩を朗々と歌うところから始めた。まさか、村でよりもひどい嘲笑に迎えられるとは思いもしないで」
「『Sedit qui timuit ne non succederet.』」
「なんだそれは?」
「ホラティウスの言葉だよ。『失敗を怖れ成功したくなかった者は、静かに座っていた』つまり、何もしない人間は失敗もしない代わりに成功することは絶対にないって意味だ。君は詩人になる努力を始めたんだろう」
アントーは頷き、タンブラーから酒を飲み干すと、亭主に合図してお代わりを要求した。亭主は、先にマックスにスープを運んできた。わずかに茶色いクリームスープからはほのかに栗の香りがした。
アントーは、酒をもらうと、低い声でブツブツと詩らしきものを唱えていたが、マックスにはほとんど聞き取れなかった。彼は、顔を上げてマックスに語りかけた。
「そうさ。でも、詩人を目指すのと詩人になるのは同じではなかった。大きな壁があった。みな俺の詩には、教養がないと言うんだ。韻は踏めていないし、故事も含めていないと。だけれども、どうしたらそんなことが出来る? 俺は、何も知らないし、習う相手もいないんだ。金もないし。なあ、旅のお方、詩人の資格とはなんなのだ?」
マックスは同じホラティウスの言葉を思い出した。
「『天賦の才、人より優れた心、そして偉大な物事を表現する雄弁さを持っている人は、詩人の名誉を受ける権利がある(Ingenium cui sit, cui mens divinior, atque os magna sonaturum, des nominis hujus honorem)』ってね。雄弁さの部分は、技術的な問題もあるから学ぶ必要があるのかもしれないが、そもそも大切なのは何を表現したいかじゃないのかな」
アントーは、顔を上げた。暗い想いにわずかな陽が差したかのように。
「表現したいこと……それならいくらでもある」
「こうもいうよ。『魂があるところに、歌がある(Ubi spiritus est cantus est)』僕は、全く詩人ではないから、知識があっても詩は作れない。詩を作りたいと想うことこそが、既に一つの才能なのではないかな」
「じゃあ、俺はまだ詩人でありたいと願い続けていてもいいのだろうか」
「もちろん、いいと思うさ。名をなして金持ちになるかどうかはわからないけれど、もともと金がないから詩人を目指してはいけないなんてことはない、そうだろう? もし、君さえよければ、僕に一つ聴かせてくれないかい?」
アントーは、小さく頷くと、うつろな瞳を宙に泳がせ詠じた。
「少女が戸口で頼む 火のついた炭を分けてくれと
隣人は怠惰なのろまと罵り 戸を閉めた
冷えた家に戻った継母は 怒りにまかせて少女を叩き
彼女は叩かれた数を 腹の中で数えた」
詩は、次の連へと進み、いくつもの傷跡を受けて謎の死を遂げた継母を置き去り、少女が街へと出て行く様子を述べた。少女は街で早々に男たちに売られて、悲惨な生活へと流されていくやるせない物語だった。マックスがこれまで聴いた詩と違うのは、確かにそのアントーの詩は韻律を全く無視しており、平坦な文章にしか聞こえなかったことだ。だが、物語そのものは、非常に興味深かった。
亭主がやってきて、詩には全く感銘を受けた様子を見せずにアントーをじろりと睨んだ。
「おい、なんの役にも立たない物語でお客さんを悩ませるんじゃないぞ」
青年詩人の声は小さくなり、語るのをやめてしまった。その様子を見て、マックスは、この近隣でのアントーの立場を思いやるせなくなった。
『何故笑っているのか。名前を変われば、物語はあなたのことを語っているのに(Quid rides? Mutato nomine et de te fabula narrator.)』
そう言ってやりたいと思ったが、それが却って故郷でのアントーの立場を悪くしてはならないと思い、黙った。
亭主は、マックスの空になったスープ皿の椀を下げると、平たい麺にラグーをかけた料理を置いた。ラグーには煮込まれてバラバラになった肉が見えたが、塊はなかった。その代わりに大きな栗がいくつか見えた。
「スープはいかがでしたかい」
「ありがとう。美味しかったよ。栗が入っているんだね」
「へえ。そして、この麺にも栗の粉が練り込んでありやす」
その麺を、マックスは一度も見たことがなかった。指ほどの長さに切れていて、グレーと茶色の中間の色をしている。少しざらりとした舌触りだが、もっちりとして弾力のある歯ごたえだ。
「土台になっているのは小麦ではないのかい?」
「ソバ粉、栗の粉、それにほんのわずか小麦でさ。この谷の名産としてお代官さまに献上する品目に入っておりやす」
この地域は、小麦がよく育たなく、むしろソバの生育に適しているのであろう。ないものを憂えるのではなく、その土地だからこそ出来る物を強みに、人々が生き抜く様を、マックスはここでも感じた。
「『Aut Viam Inveniam Aut Faciam』と言うとおりだね」
「なんですかい、それは?」
「先ほどから、僕たちが話しているラテン語名言集のひとつさ。『私は道を見いだすか、さもなくば自ら道を作るだろう』っていう意味だよ。他の土地のように小麦を植えるのは難しいかもしれないが、栗にしろ、蕎麦にしろ、この谷だからこそよく育つ植物を利用して、他にはない強みを作った先人たちの知恵に感心しているのさ」
「そうなんですかね」
そういって亭主はまた下がった。
「自ら道を作るか……」
アントーが、つぶやいた。
「そうだ。君の詩も、おそらく道を作りかけている最中なのではないか?」
マックスは言った。
アントーは、自信なさそうにマックスを見た。
「聴いてくれるのは、貧しい人たちばかりだ。金のある奴らは、俺の語りかけに立ち止まることをしない。それに神父がやってきてたしなめるんだ、善きことをした者が報われる物語を、きちんとした韻律で語れと。この世に善きことをした貧しい者が報われたことなど、俺は一度も見聞きしていない。そんな耳障りのいい絵空事を語るために詩人になりたかったわけじゃないんだ」
マックスには、アントーの悩みの本質が見えてきた。韻律や故事などは習うことが出来よう。だが、彼が望むのは世の中の矛盾と不正義に対する告発を詩にすることなのだ。そして、それを望む限り金銭的な成功や名誉を得ることは難しいに違いない。
「僕には、君を助けてあげることが出来るかどうかはわからない。でも、名を成すことと、伝えたいことを同時に実現するのは、詩人に限らず難しい。君の物語に僕は心を動かされたから、受け入れられることは可能だと思う。でも、それが難しいのは確かだ。少なくとも韻律を学んで、体裁を整えれば、聴いてくれる者が増えるかもしれない。もしくは耳障りのいい詩で先にパトロンを作ってから、より伝えたい詩を詠じるという道もある」
アントーは、しばらく黙ってマックスを見つめていた。
「お前さんは、まじめに聴いてくれるんだな。そうか、そうかもしれないな。今すぐに全てを実現しようとするから、上手くいかないのだろうか」
「新しいことをしようとすれば、時間はかかるだろう。『滴は岩に、力によってではなく、絶え間なく落ちることによって、穴をあける(Gutta cavat lapidem, non vi, sed saepe cadendo. )』って言うからな」
アントーは、タンブラーを脇にどけて、真面目にマックスの顔を見つめた。
「体裁を整えるために韻律を学ぶか。だが、どこで、誰に……」
マックスは、少し考えた。
「もし、またセンヴリに向かうつもりならば、マンツォーニ公の領地へと行くがいい。サン・ジョバンニ広場には、アレッキオという年老いた詩人がいる。彼とは、一年ほど親交を持っていたが、人の心のわかる立派な魂を持った男だ。彼にマックス・ティオフィロスに紹介されたといって教えを請うといい」
「ありがとう。是非そうするよ。なんとお礼を言っていいか」
「『苦難の中にいるものには、恐らく、よりよいものが続くであろう(Forsan miseros meliora sequentur.)』もしくは『過ぎ去った苦しみの思い出は、喜びに変わる(Jucunda memoria est praeteritorum malorum.)』っていうからね。君の志が実を結ぶことを応援させてもらうよ」
それからマックスは、懐から財布を出して、銀貨を一つ渡した。一つの詩に対する賞賛にしては高すぎる金額だったので、アントーはぎょっとして訊いた。
「どうして?」
「君の未だ世に認められていない才能にさ。『Magna voluisse magnum.』(全ては我が槍に至る - 偉大なことを欲したということが偉大である)、そう思って受け取るといい。僕に出来るのはここまでだ。このあとに運命が開かれるかどうかは、君次第だ」
マックスは言うと、彼自身のワインを飲み干して、青年の幸運を願った。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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【小説】日曜の朝はゆっくりと
「scriviamo! 2019」の第五弾です。ポール・ブリッツさんは、今年も、二つ同時にご参加くださいましたが、まずはプランBの方です。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
ポールさんは、オリジナル小説と俳句、それに鋭い書評や愛に溢れた映画評論などを書いていらっしゃる創作系ブロガーさんです。毎年難しいお題を出すのを生きがいになさっていらっしゃるのでは、と思うのですが、どうでしょう(笑)
さて、まず先にBプランからのお返しですが、ポールさんは「自炊日記」という形で、一ヶ月間召し上がったものを記録していらっしゃるので、それにちなんだ作品を書いてみました。別になんてことのない短い話ですが、中に簡単なレシピが組み込んであります。
というわけで、お返しはこの作品と一切関係のないもので、単純に「中にレシピ的な記述が入っている作品で」お願いします。
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日曜の朝はゆっくりと
——Special thanks to Paul Blitz-san
朝から何も食べていなかったので、真子はすこぶる機嫌が悪かった。正直言って、食べられるものであれば、コンビニのおにぎりだろうが、ファーストフードの最安値ハンバーガーでも構わなかった。
でも、そんなことを言おうものなら、食文化への冒涜だとか、よい食事と少しの酒は精神への貢ぎものだとか、意味不明な言葉を並べ出す男がいる。だから、イライラをぐっと堪えて、その男の手がもう少し早く動くように誘導しなくてはならない。
オーギュスタンは、面倒くさいタイプだ。真子のかつて勤めていた会社に、一筋縄ではいかない同僚がいた。忘年会に一人遅れ、乾杯の音頭をとる部長がしびれを切らして真子に様子を見てこいと言った。行ってみると余興に使うプリントを作っている。部長が苛ついているから早くしろと言ってもフォントが揃っていないと、それからやたらと時間をかけていた。オーギュスタンは、かなりその人に近い、空氣を読まずにこだわるタイプだ。元同僚と違ってフランス人なので仕方ないのだろうか。
めくるめく情熱の夜を過ごして、幸せの絶頂にいるというのならば、このウルトラ悠長なブランチの準備に何も思わないかもしれない。だが、あいにく真子とオーギュスタンは、そのような色っぽい関係ではなかった。
真子は、かつてかなり高給をもらっていたので、広くて綺麗な新築マンションを購入した。ところが、急に子会社に出向を命じられ、手取りが減ってしまい、ローンの返済が苦しくなってしまったのだ。売るのは条件が不利だったし、通勤に便利なこの住まいを手放すのも悔しかった。それで、空いている部屋を貸すべく同居人を募ったのだ。
本当は女性の方が安全だと思っていたのだが、あいにくちょうどいい感じの女性はみつからない。あれこれ検討しているうちに、なぜかこの謎のフランス人男が同居することになってしまったのだ。言葉の心配をしたが、英語でなんとかなることがわかったので、お互いブロークンなままなんとか意思疎通を図っている。
実は、それも彼と同居することにした理由の一つだ。日本人同士だと毎日ちゃんと会話をしないと氣がとがめるが、外国人なら「意思疎通が外国語で難しくて」と逃げられると思ったのだ。もっとも、彼が居るときには、どういうわけか会話に引きずり込まれてしまう。氣まずくなることもない。
それに、フランス人と言えば、女を見ればすぐに口説くものなのかと思っていたが、おそらく彼も相手を選ぶのであろう、同居を始めて二ヶ月経つが、ただの一度もそのようなことはなかった。
真子の方でも、それ以上の関係になりたいとはカケラも思っていない。今朝にしても、別にご飯を作ってもらわなくてもいいのだが、つい話の流れで作ってもらうことになった。トロいので自分で作るから台所を明け渡せと今さらいうのも剣呑だ。
ガラスタンブラーに、彼は赤ワインを注いだ。よくカフェなどで水を入れてくれるDURALEX社のピカルディというコップだ。そして鼻歌を歌いながら真子に微笑んだ。
「君の健康に乾杯」
真子は乾杯に応えるために、手元の水の入ったコップを持ち上げた。
「ありがと。でも、朝っぱらから、ワインなの?!」
「もう十時半だから、早すぎないさ」
いや、まず朝ご飯を作ってから、そういうことをほざいて欲しいんですけれど!
その真子の心の叫びを全く意に介さず、オーギュスタンは、窓辺に置いている小さなプランターに向かい、何かの草に見えるハーブを数本指でカットした。
「それは、何?」
「エストラゴンさ。日本人の使うヨモギと親戚にあたるハーブだよ。ギリシャでヒポクラテスが著作で触れているくらい、ヨーロッパでは歴史のあるハーブなんだ」
なるほど。ああ、しまった。こんなことを訊くんじゃなかった。彼は、ワインを飲みながら、コンピュータに向かい、エストラゴンのことを書いたサイトを探して真子に見せてくれた。
他にすることがないので、真子はエストラゴンについての長い説明を読んだ。
その間に、オーギュスタンはエシャロットの皮を剥いて刻んだ。小さくつやのある薄紫の小タマネギ様の野菜は、タマネギに似ているけれど匂いはマイルドで甘みも少ない。エストラゴンやパセリもみじん切りにしている。赤ワインのボトルを開けたのでまた飲むのかと思ったら、小さな鍋に入れてそれでみじん切りにした野菜類を煮だした。
塩胡椒してから、ぐつぐつと煮ている。
「さあ、しばらくかかるからおしゃべりしよう」
なんですって!
「それ、何を作っているの?」
「ベアネーズソースだよ。白ワインで作る人もいるけれど、僕は赤ワイン派さ。アルコールは飛ぶから問題ないよ。十分くらい煮るから。とにかくきちんと煮詰めないと美味しくないからね」
ものすごくいい香りが台所に充満している。これは間違いなく美味しいはず。かんしゃくを起こしてコンビニに菓子パンを買いに行ったりしたら、きっと生涯後悔する。でも、お腹がすいたなあ。
「食事をする度に、こんなに手をかけているの? 大変じゃない?」
真子は訊いた。
「せっかくの食事は、美味しく愉しくすべきだよ。それが可能ならね。高級な食材や、手間のかかる手順が必要だと言うんじゃないよ。でも、胃袋だけでなく、眼も舌も、心も喜ぶ様な食事こそが、本当の意味での豊かさだと思うよ。だから会話や、テーブルセッティングも、大事だ。それに少しのワインもね」
彼は、ガラスタンブラーをもう一つ出してきて、真子の前に置くと、ワインの瓶を手に持って訊いた。
「飲む?」
「まだ昼前だし……」
真子は、一度良心に従って水差しをみたが、このいい香りのブランチは、日常ではなくて「ハレ」だと思ったので、改めてワイン瓶を指さし頷いた。オーギュスタンは、にっこりと笑いワインを注いだ。
「人生は短いんだ。夜にアルコールを飲めない日もある。なのに、休日でも昼前は飲まないなんてルールで自分を縛っていると、もったいないよ」
「そうかもしれないけれど……。フランスって、みんなそうなの? それじゃ、下戸が生きにくいじゃない」
「飲みたくない人に強制したりするのは、犯罪だよ。酒は、節度を持って楽しく飲むべきさ。それに僕は、楽しみを分かち合いたいだけで、飲ませたいわけじゃないよ。いらないなら喜んで一人で平らげるさ」
ふむ、そうか。そのポリシーは、いいかも。
「フランスでは、こんな凝った料理を作れる男性、多いの?」
「別に凝っていないよ、このくらい、誰だって作るだろう?」
いや、私は作らないけど。真子は思った。ううむ、ということは、この料理はフランスでは大したことのない部類なのか。まだソースしか作っていないから何が出来るのかわからないけれど。
オーギュスタンは、鍋の様子を見た。ずいぶんと煮詰まってきたようだ。火を止めて、少し冷ましている。それから小さな鍋に移して、卵黄を混ぜてから湯煎にかけた。オリーブオイルを少しずつ加え、マヨネーズのような状態になってから火を止めた。
それから彼はパンを入れている戸棚から、マフィンを取り出して二組トーストした。粗熱がとれてから、柔らかくしておいたバターを塗り、ベアネーズソースも塗った。そして冷蔵庫から取り出したローストビーフを「そんなに」といいたくなるほどこんもりと載せるとまた少しベアネーズソースを塗り、ミルで挽いた海の塩、黒胡椒とエストラゴンを載せた。
「さあ、テーブルについて」
冷蔵庫から様々なハーブの入ったサラダ菜を取り出してきて大きめの黄色い皿に敷いた。そこにローストビーフマフィンを置いた。それだけで、そこらのカフェが逃げ出したくなるほどのおしゃれな一品になった。
いつもと同じテーブルだし、台所だって変わっていない。なのにどうしてここまでおしゃれブランチになるんだろう。ソース以外は、本当に全く難しくなさそうなサンドイッチなのに。
「ああ、お腹すいた。でも、待った甲斐があったわ、本当に美味しそう」
「
真子は、マフィンをしっかりと手に持つと、思い切ってかぶりついた。ベアネーズソースの濃厚な味いと香りが、口の中に広がる。
「このソース、本当に美味しい! これって、どこかで売っていないかなあ」
そう真子が言うと、彼は人差し指を振ってたしなめた。
「出来合のソースを、プラスチックの容器から絞るようなやり方では、この味わいは得られないさ。コンビニエンスストアでは手に入らないからこそ、作りがいがあるんだ」
「そうかもね」
待たされた怒りは、どこかに吹き飛んでしまった。仕事と自宅の往復だけで疲弊し、何かに当たり散らしたいと思っていたイライラもいつの間にか消え去っていた。
空腹を満たすためだけ以外の食事をしたのは、久しぶりだった。一杯の昼前の赤ワインと、自宅で食べるとびきり美味しいサンドイッチ。少しゆっくりすぎるほどに手間をかけた準備と、ゆったり味わうブランチタイム。それ以外に予定のない、何でもない時間。
満たされない想いへの処方箋は、高い給料でもなければ、かっこいい彼氏でもなかった。新しいショッピングモールや話題のカフェに行くことでもなければ、スケジュール帳を予定で埋めることでもなかった。そうではなくて、反対に、今あるものの中でゆったりと時間を過ごすことなのかもしれない。
ベアネーズソースを心ゆくまで味わいつつ、真子は自分で面倒くさい呼ばわりをした同居人に対して、「次は何を作ってくれるのかな」と虫のいいことをいつの間にか考えはじめた。
その野望を知ってか知らずか、彼は満足げにサンドイッチを食べながら、またワインをグラスに満たした。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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卵焼き器でミニロールケーキ
で、もう一つ、ネットで見かけて「簡単そう」と思いトライしてみたのがミニロールケーキを作ることでした。

見かけが今ひとつアレなのは、私の腕前のせいです。ネットで探せばもっと本格的に美味しそうな写真が見つかります。私のところは料理ブログではないので、これでご勘弁を。
ロールケーキに限らず、スポンジケーキを使うお菓子って、敷居が高いじゃないですか。材料を用意して、まずオーブンでスポンジケーキを焼いて、それからクリームを用意してと、工程が多くてレシピを読んだだけで「いいや、食べたいけれど我慢しよう」になってしまう。それに、量が多いので「こんなに食べたら、カロリーが……」となりますよね。
この卵焼き器のロールケーキは、卵焼き器の幅のミニサイズのケーキが出来るので、一人で食べきれます。「いや、わたし一人でそんなに食べない、彼と二人で(はあと)」という方は半分食べるんでしょうが、私はあまりに美味しくて即完食してしまいました。食べられます、ノープロブレム。
という話はさておき、工程がどれほど楽なのかという話に戻ります。
材料は、卵一個、砂糖大さじ1、牛乳大さじ1、ホットケーキミックス(私は海外在住なので自作のミックスです)大さじ3です。詳しい工程はネットで調べていただくとして、要するにこの順番に泡立て器(私は電動)で混ぜ合わせます。これを焼きます。
私の卵焼き器はティファールのテフロン加工のものなんですけれど、油をしかずに普通に五分焼くだけでこのように綺麗な茶色い綺麗なスポンジが出来ます。大事なのは卵焼き器が熱くなったら一度濡れ布巾で冷ましてから生地を流し入れること、それから念入りに長く焼きすぎると固くなってロールするときに割れます(経験済み)。
この生地を冷ましている間に、クリームを作ります。レシピではクリームを泡立てたりしていますが、ズボラな私はマスカルポーネを使います。これにメープルシロップを適宜入れるのが最も簡単なバージョン。バリエーションとしてココアを入れてチョコ味にしたり、オレンジと砂糖を混ぜてオレンジマスカルポーネクリームにしたりと、色々と出来ます。
で、巻いておしまい。文字で書くと工程があるようですが、お菓子作りを少しでもしたことがある方は、実際にやってみればどれほど面倒が減っているかがわかります。洗い物は少ないし、すぐに出来るし、しかも一口サイズで美味しい。コンビニに買いに行くよりも楽だと思います。まあ、自宅に生クリームはともかく、マスカルポーネもあることが多い私は特殊かもしれませんけれど。
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【小説】野菜を食べたら
「scriviamo! 2019」の第四弾です。canariaさんは、楽しい「薄い本(同人誌)」様の短編で参加してくださいました。ありがとうございます!
canariaさんの『scriviamo! 2019 参加作品』
canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。現在ブログでは、「千年相姦」を絶賛連載中で、同時に「侵蝕恋愛」も続々刊行、それにイラストのプロジェクトも同時進行と、大変精力的に活動なさっていらっしゃいます。無理にブログの友達になっていただいたのは、前の前のブログの時からですから、お付き合いは結構長いですよね。
さて、今回は昨年に続き、私の「ニューヨークの異邦人」シリーズに絡めた作品、同人誌による二次創作という体裁で遊んでくださいました。
妹Loveで大富豪な上、何をやるのか作者でも謎なマッテオ・ダンジェロが、「郷愁の丘」作品中でグレッグがジョルジアに書いて渡したスケッチをWWFでの商品化するために動いてしまったという笑える設定です。ま、そんなわけないだろうというツッコミはなしで。これ小説の世界ですから(笑)
というわけで、またしても外伝を書かせていただきました。ええと、ヒロインのジョルジアはお留守です。その代わりに、思いっきりネタバレな(というか本編では書く予定のなかった人たち)がゾロゾロ出てきています。どんな先の話だ……。ま、いっか。
【参考】
![]() | 「郷愁の丘」を読む |
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野菜を食べたら
Special thanks to canaria-san
ドアの前に立って、アンジェリカは大きく息を吸い込んだ。ジョルジアの言いつけたことを忘れたわけではない。でも、他にどうしようもないんだもの。
思い切ってノックをした。
「グレッグ、ねえ。邪魔して悪いけれど……」
その先を言う必要はなかった。バタバタと音がして、中からドアがガチャリと開いた。口髭に隠れてはいるけれど、慌てて口をパクパクさせている様子は、おかしい。
「す、すまない!」
「ジョルジアには言われていたの。あなたが論文執筆に集中しているときは、邪魔をしないで先にご飯を食べろって。でも、二人ともあなたを待つって言い張るし、それなのに、ラファエーレはお腹が空いてぐずり出すし。だから、ご飯を食べに来るか、そうじゃなかったら二人に直接もう食べろって言って欲しいの」
「もちろんすぐに行くよ。本当に申し訳ない、アンジェリカ。僕は、また時間をすっかり忘れてしまったんだ」
そう言うと、一度デスクに戻って、広がっていた資料にいくつか紙を挟んでから閉じて重ね、それから走るようにしてさっさと戻りかけているアンジェリカを追った。
ダイニングテーブルの横で、老いた愛犬ルーシーを撫でながらうつろな瞳をしていた幼い少年が、アンジェリカの後ろから入ってきたグレッグを目に留めて歓声を上げた。
「パパがきた! エンリコ、ごはんだよ!」
飛び上がり駆け寄ったラファエーレ少年を、抱き上げるとグレッグは「ごめんな」と言った。少年は父親にぎゅっと抱きついて、そのまま椅子まで運んでもらった。グレッグは、もう一人のもう少し年長の少年に目を移した。
エンリコは、明らかに自分も大好きなグレッグ伯父さんに抱きつきたいという顔をしていた。しかし、彼はもう九歳で抱きつくには少し大きくなりすぎているし、さらにいうと、目の前にいるアンジェリカ・ダ・シウバに笑われるのは嫌だった。
グレッグは、そのエンリコの側にやってきて、肩の辺りを優しくポンポンと叩くと「遅くなってごめんな」と謝った。彼は首を振って笑顔を見せた。赤ちゃんではないので、食卓に全員が揃うまで待つことは問題なかった。もちろん、自分の父親を待つのは話が別だ。アウレリオ・ブラスは、食事に間に合うように帰ってきたことなどない。それどころか、予定よりも数日遅れることもしょっちゅうだ。朝はマリンデイに行くと話していたのに、夕方になってミラノから電話をしてきたりする男なのだ。
でも、グレッグは違う。彼は、小走りになって、こうやってテーブルについてくれる。研究に夢中になると時間を忘れてしまうのはいつものことだから、せっかく遊びに来たのにほとんど一緒の時間を過ごせないこともある。それでもエンリコは、大好きなグレッグにわがままを言って困らせたりはしたくなかった。
グレッグは、エンリコの母親マディの腹違いの兄だ。ツァボ国立公園に近いサバンナの真ん中《郷愁の丘》と呼ばれるところに住んでいるので、エンリコの家からは早くても一時間以上かかる。でも、数年前までは、二週間に一度くらい、エンリコの祖母レイチェル・ムーア博士と研究のことを話しに来ていたので、エンリコは祖母の家でしょっちゅうグレッグ伯父さんと会うことが出来た。
様子が変わってしまったのは、ラファエーレが生まれてからだ。それからは、仕事と育児に忙しくて、二人ともなかなかレイチェルのところにもマディのところにもやってこない。だから、エンリコは、休みになると自分から率先して《郷愁の丘》に数週間泊まりに行くようになった。
「ねえ、ちゃんと付け合わせの野菜も食べなさいよ。好き嫌いなく何でも食べるから安心してって言われたのになぁ」
お皿の上の肉はなくなったものの、野菜がいっこうに減らないことにヤキモキしたアンジェリカが促した。
エンリコは口を尖らせた。
「ジョルジアが作る付け合わせは美味しいから、すぐなくなっちゃうんだよ」
「ママのごはん、とってもおいしい!」
小さなラファエーレも調子を合わせたので、グレッグが慌てた。
「君の作る食事も美味しいよ。実を言うと、君に料理が出来るなんて、思ってもいなかったんだ。まだ十八歳だし、それに……」
「甘やかされたお嬢さまだから?」
「いや、その……」
「そんなに真面目に困らないで、グレッグ。それに氣を遣ってくれなくてもいいのよ。だいたいね、エンリコ。私がジョルジアみたいに料理上手だったら、こんなところであなたのベビーシッターなんかしていないで、とっくにスターシェフになって稼いでいるわよ。まったく子供のくせに生意氣だわ、ジョルジア並みに美味しくないと完食しないなんて」
二年前から、アンジェリカは夏休みには小遣い稼ぎに働こうと自分で決めた。小学校の頃から親しい友達は、ピザ屋やアイスクリーム屋などで働いていたし、いま在籍している寄宿学校の仲間もそれぞれの国に帰って、なんらかの季節の仕事をするかヴァカンスに出かけていた。
アンジェリカは、ピザ屋でも何でもいいから外で働いてみたいと思ったけれど、皆にひどく反対された。いつ誘拐されるかわからないというのだ。
アンジェリカのためには、百万ドル以上の身代金を要求をされても、即座に払おうとする人間が周りにやたらといる。スーパーモデルの母親アレッサンドラ・ダンジェロ、有名サッカー選手の父親レアンドロ・ダ・シウバ、城をいくつも持つ母親の再婚相手ヴァルテンアドラー候家当主ルイス=ヴィルヘルム。それに姪を溺愛する伯父でアメリカ有数の富豪マッテオ・ダンジェロ。
だから、送迎なしではなかなか街には行けない。ピザ屋で働くなんて夢のまた夢だ。
それで、泊まり込みで身内のところで働いてみたけれど、二年前のマッテオのところでは甘やかされすぎて自分でも給料泥棒だと思った。去年は、ルイス=ヴィルヘルムのドイツにある城の一つで働いてみたけれど、今度は使用人たちが真面目で厳格すぎて息が詰まる。出来ればあそこにはもう行きたくなかった。
それを相談したら、ジョルジアが《郷愁の丘》に来てみたらどうかというのだ。ちょうど彼女は長期アメリカに行かなくてはならない時期で、マディのところにしばらくラファエーレを預けるか悩んでいるところだった。
「あなたが来てくれたら、私は安心して旅立てるわ。ラファエーレの遊び相手は泊まりに来るエンリコがしてくれるし、グレッグも可能な限り二人の面倒を見るから、さほど手はかからないと思うの。それに、ここには誘拐犯は絶対にやってこないって、あなたの両親も、それにルイス=ヴィルヘルムやマッテオも安心すると思うわ」
《郷愁の丘》は、陸の孤島だった。誘拐犯は来ない代わりに、ショッピングも出来なければ、観光も出来なかった。ネットのつながりも悪いし、そこまでドライブというわけにもいかない。退屈ではあるが、居心地は抜群だった。叔母のジョルジアは、ほぼ入れ替わりでいなくなってしまったが、真面目で内氣で小言を言わないグレッグや、純朴で比較的従順な二人の少年との暮らしは悪くなかったし、サバンナで見る動物たち、広大な景色など、都会では体験できない刺激的な日々を満喫していた。
エンリコとラファエーレは、テレビもなければゲーム機もないところで、遊んでいた。ルーシーを撫でながら、おそらく原始時代から大して変わっていないのであろうと思われるカジュアというゲームを何時間もしていることがあった。なぞなぞや積み木やブロック遊びに興じ、たくさんある百科事典を開いてみたり、グレッグが仕事をしていないときは絵を描いてもらっていた。
今も、食事をしながら、エンリコは夕方に絵を描いてもらいたいとグレッグにねだっている。絵といっても彼が描くのは野生動物のスケッチなのだが、子供たちは彼の手にした鉛筆の先からシマウマや象やキリンが魔法のように現れるのを見るのが大好きだった。
「あ、絵といえばね! 忘れるところだったわ」
アンジェリカは、突然思い出して立ち上がり、自分が滞在している客間に入っていった。
すぐに戻ってくると、アンジェリカはグレッグと子供たちに手にしたクリアファイルを見せた。
「あ」
グレッグは手を伸ばすと、それを嬉しそうに眺めた。彼にとってそれは思い出深いものだった。
始めてジョルジアがこの《郷愁の丘》に来て、彼のスケッチを褒めてくれたのはもう十年以上前のことだ。その時に彼女に贈った絵を、彼女は額に入れてニューヨークの寝室に飾ってくれていた。二人が結婚してから、絵はこの《郷愁の丘》に戻ってきて、今も寝室にかかっている。
今、アンジェリカが持ってきたクリアファイルは、その絵の一部分拡大を用いてある。ジョルジアの兄、マッテオがその絵を「WWFで商品化したい」と言い出したとき、始めは冗談だと思っていた。
マッテオはWWFに多額の協賛金を寄付している会員だ。十年以上前にニューヨークで開催された野生動物の学会の最終日にWWF主催のパーティのことは忘れられない。レイチェルが彼女たちの研究のスポンサーである大富豪に紹介してくれるというので、嫌々出かけてったのだ。その篤志家マッテオ・ダンジェロこそが他ならぬジョルジアの兄とは夢にも思っていなかったのだが。
ジョルジアがレイチェルと一緒に彼の地味な研究の意義を兄に力説してくれたお陰で、彼はマッテオに継続的な援助をしてもらうことが出来るようになった。それだけでなく、二人の結婚が決まってしばらくしてから、寝室にかかっている例の絵をWWFでの商品化するよう推薦してくれると言い出したのだ。
その前後の数年にわたり、WWFでは無名の人物や子供たちの描いた野生動物のイラストや写真で、寄付金付き商品を作り販売していた。ポストカード、レターセット、鉛筆ケース、額入りのコピー絵、メモブロック、ミニタオル、エコロジーバック、それにアンジェリカが持ってきたようなクリアファイル。
グレッグの絵も他の作者の絵と一緒に商品化され、一年間にわたり世界中で販売された。もっともアフリカで目にしたのは、「僕の親しい友人の絵が商品化されたんですよ」と誇らしげに配るリチャード・アシュレイの事務所でだけだったので、グレッグは実際のところそれがどれほど売れたのかを知らない。
「懐かしいものを……。アレッサンドラ、君のお母さんがくれたのかい?」
グレッグが訊くと、アンジェリカは首を振った。
「違うわ。これはね、ここに来る直前に、私がマドリッドで見つけたものなの」
「マドリッド? 君のお父さんのところでかい?」
レアンドロ・ダ・シウバは、現在はリーガ・エスパニョーラでの連覇を目指すチームに所属しているので、マドリッド在住だ。だから、アンジェリカはマドリッドに立ち寄ってから《郷愁の丘》のあるケニアへやってきた。
「パパの家にあったわけじゃないわ。実はマドリッドで『オタクの祭典』って催しをやっていたので、ちょっと顔を出してきたの」
「『オタクの祭典』ってなんだい?」
グレッグは地の果てに住んでいる上、サブカルチャーなどにほとんど興味がない。日本発のマンガやアニメを特に愛好する人たちが世界各国で同人誌即売やコスチュームプレイを楽しむイベントを開催していることなど知るよしもない。
「あなたに詳しく説明したら、夜が明けちゃうわ。簡単に言うなら、コミックやアニメーションの愛好家がトリビュート作品を販売する展示会みたいなものかな。いろいろなジャンルのものがあって面白いのよ」
グレッグだけでなく、並んでご飯を食べているラファエーレも、アンジェリカの座った席の隣で、いやいや野菜をつついていたエンリコも、さっぱりわからないという顔をして彼女を見ている。
アンジェリカは、こほんと咳をして続けた。
「とにかく。とある作品のグッズがないかなと思って行ったんだけれど、行列で並んでいるときに、たまたまその隣のブースにね『Fleurage』っていう綺麗な名前のサイトがあって、氣になっていってみたの。そうしたらたぶん偶然だと思うけれど『郷愁の丘……』っていう作品を売っていて、日本語で読めなかったんだけどつい買っちゃったの。そしたら、特典だってこのクリアファイルをくれたのよ。例のWWFのファイルが今ごろ私の手元に来るっていうのも驚きだけれど、それが《郷愁の丘》に行くっていうのも、おもしろくない?」
グレッグは、アンジェリカが差し出したクリアファイルを、感無量な様子でじっと見つめた。
「そうだね。本当に」
「そのシマウマの絵、グレッグが描いてくれる絵とそっくりだよ」
エンリコが不思議そうにのぞき込んだ。
「そうよ、だって、これ、グレッグの絵なんだもの」
アンジェリカが答えると、彼は『ええー!」っと、椅子から飛び降りて、ファイルを持っているグレッグの側に回った。
「いつこんな風になったの? 僕、知らないよ!」
「お前がまだ、ラファエーレよりも小さかった頃の話だからね。そうか、これは見たことなかったか」
「いいなあ。これがあったら、僕、学校に毎日持っていくのに。みんなに自慢して、それに……」
エンリコは、クリアファイルをそっと撫でた。グレッグは困ったなという顔をして、甥の頭を撫でた。
「残念ながら、リチャードが全部持って行ってしまって僕やマディのところにも残っていないし、今はもうどこにも売っていないんだ」
アンジェリカは、肩をすくめた。こうなると思った。とにかくエンリコときたら、グレッグに関することは何もかも素晴らしいと思っているんだもの。私には、ちっとも理解できないけれど。
「いいわよ。そのつもりで取り出してきたし、これはエンリコにあげるわ。私の滞在中、付け合わせの野菜を一口も残さないって、約束できるならね」
エンリコは、駆け足で自分の席に戻り、喉が詰まるのではないかと思われるほどのスピードで野菜を平らげた。
笑ってそれを見ているグレッグの横から、ラファエーレが小さな声を出した。
「ぼくも、もらえるの? おやさい、たべたよ」
グレッグはまた困って、息子の頭を撫でた。
「お前は、まだ学校に行っていないし、あれをなんに使うんだ?」
「でも、おやさい、たべたよ」
アンジェリカは、笑って答えた。
「大丈夫よ。マッテオのところに、あの時に発売されたものがみんなとってあるはずだもの。ラファエーレにはミニタオルがいいんじゃないかしら。すぐに送ってくれるように、連絡するから」
ラファエーレは、すぐに笑顔になった。おそらくタオルが届く頃には、きっとこの子は何を欲しがったかも忘れているだろう。シマウマの絵など何百枚でも描いてくれる父親と、付け合わせを食べろと言う必要もないほど料理の上手な母親の両方の愛情を受けて楽しく日々を過ごすのだろうから。
それでも、アンジェリカは早速マッテオにメールを書こうと思った。自分のアイデアで生まれた作品が、今ここでまたホットな話題になっていることを、大好きなマッテオ伯父さんがとても喜ぶだろうと思ったから。カペッリファミリーの結束は固いのだ。たとえアメリカ、ヨーロッパ、アフリカと違う大陸に住むことになっても。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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健康と享楽の間
でも、続けます。今日の話題は、食べるもの全般について考えることです。
誰だって、たとえば三食カップラーメンだけでは「体によくない」って思いますよね。あ、カップラーメンに恨みがあるわけではありませんよ。私は元祖カップヌードルを昔から好きでして。ま、滅多に食べませんが。
「あなたは、あなたの食べているもので出来ている」という言葉がありますけれど、日々何を食べているのかで、体型から顔つきから病歴まで、いろいろと影響してくることは間違いないでしょう。
私は、そういう考え方を持った親に育てられたので、普段の食事にはそこそこ氣をつけています。肉や魚や野菜はどこで獲れたものか調べますし、調味料なども何が入っているのかを氣にし、たとえば出来合のソースよりも自分で作るソースを使うようにしています。食品目のバランスや、調理方法なども大切だと思いますが、まあ、この辺は毎日のことですので旬のものを中心に、大体の目分量と長年の主婦の勘で用意しています。
満点にはほど遠いですけれど、たぶんファーストフードとコンビニのものだけを食べている方よりは、健康的な食卓なのではないかと思います。
とはいえ。
あまり、健康健康と騒いで、外出先でまで面倒くさい注文をしたり、せっかくの美味しいものを逃したり、もしくは、全然美味しくない食生活をするのは嫌なんですよね。
べつにアレルギーではないので、外では何でも食べます。ファーストフードも、コンビニも、問題なし。まあ、自分で握ると米と塩と鮭と海苔くらいで出来る「おにぎり」が、商品になると、ぎょっとするような内容表示になっていることをたまに認識したりしますけれど、まあ、数年に一度くらい食べたからって死ぬわけではないんですよ。むしろ、そこら辺の隣人にもらう森のキノコの方がよっぽと死の危険性をはらんでいたりします。
それに、一時、連れ合いの関節炎の治療に付き合って、マクロビオティックの調理法をしばらく実践したことがあるんですが、確かに健康的なんだろうなと思いましたが、私はもう少し不健康でいいやと尻尾を巻いて逃げ出してしまいました。(もっとも今でも、マクロビの考え方や食べ方、調理のしかたは頭に入れながらの食生活は送っています。そうやってバランスを取ると、確かに体調もいいですから。以前よりは少なめとはいえ、肉もばっちり食べながら)
結局は、バランスの問題なのだと思います。私には完全にストイックな生活は向きません。もともとズボラなタイプで、しかも人生は楽しみたいタイプ。贅沢である必要はありませんが、毎日食べるのであれば「美味しい」と感じられるものがいいのです。外出しても、旅の途上でも、そして、自宅でも。
そんなわけで、今日も中途半端にストイックでありつつ、食いしん坊な日々を送っています。
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【小説】魚釣奇譚
「scriviamo! 2019」の第三弾です。夢月亭清修さんは今年は、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
清修さんは、小説とバス釣りのことを綴られているブロガーさんです。サラリーマン家業の傍ら小説家としてブログの他に幻創文庫と幻創文芸文庫でも作品を発表なさっていて、とても広いジャンルを書いていらっしゃいます。それに魚釣りでは専門誌に寄稿なさるほど本格的に取り組んでいらっしゃいます。
「scriviamo!」では毎年全く違ったジャンルでご参加くださるのですが、今年はプランBをご希望です。
去年は大変ご迷惑をおかけしたこの企画、今回はプランBで参加させてください!
力入れて、がっつりお返しする所存です!
希望としましては、コラボではなくオリジナルが嬉しいです^^
ということですので、ご縁のある既存の作品に絡める作品はなし。完全なオリジナルで書くことにしました。どんなものにするか考えたのですが、ご本人のお書きになるジャンルがとても広いので、どうしようか途方に暮れました。結局、お好きなお魚と、それからほんの少しだけ「異世界」っぽい感じを絡めた作品を書いてみました。ただし、「異世界もの」というわけではありません。
他のプランBの方にも書きましたが、お返しはこれに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いません。
「scriviamo! 2019」について
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魚釣奇譚
——Special thanks to Mugetutei Seishu-san
その湖は、電車がトンネルを抜けて最初のカーブを曲がった所に突然広がっていた。深い青緑の湖水は、風が全くないためか、周りの新緑を綺麗に映し出している。曲がりなりにもアウトレットと名のついている商業施設があるような街から、まだ15分も走っていないようなところに、こんな神秘的な湖があるとは夢にも思っていなかったので、亜美は思わず立ち上がった。
アウトレットにろくなモノがなかったこともあるが、亜美はその街を闇雲に歩き回った。石畳の道は、少し合っていない靴を履いた彼女をひどく疲れさせた。だから、予定よりも早い電車に乗って戻ってきたのだ。
往きにこの湖を見た記憶は全くなかった。反対の山側に座って、考え事をしていたせいだろうか。
車内放送が次の駅がすぐであることを知らせた。この湖畔で停まるの? 彼女は少しだけ考えた。このまま電車に乗っていても、一時間後にあの何もない街のホテルについてしまう。だったら、この湖畔で少しだけ時間を過ごすのもいいかもしれない。
五月になったばかりで、この北国では遅くやってきた春が、遅れを取り戻そうかとするごとく忙しく飛び回っていた。新緑の木々はぐんぐんと伸びて、あちこちで白や黄色の花が咲き誇っていた。陽が高くて、明るい光に満ちている。彼女は、ショルダーバッグをつかむと、立ち上がり出口に向かった。
それは、湖畔の洒落たホテルの前に停まった。そのホテルの横から、湖へと出ることができる。ホテルにはテラスがあって、数人の客が湖を見ながらコーヒーを飲みつつ談笑していたが、湖に出るとそのざわめきは全く聞こえなくなった。
不思議な静寂だった。わずかに霞みだした青緑の湖水を一艘の小舟が漂っている。灰色の服を着た小柄な男が釣り糸を垂れているのを亜美はようやく見て取った。釣り竿も、男も、舟も、湖も動かなかった。まるで時間が止まっているかのように。

「君は、中国人? それとも日本人?」
すぐ近くから声がしたのでびっくりして振り返ると、すぐ後ろに青年と中年とどちらで形容していいかわからぬ男が立っていた。外国人にしてはあまり背が高くなく、濃い茶色の髪は短く服装もどこにでもあるような茶色いジャケットにジーンズ姿だ。
「日本人です」
「そうか、ずっとあの釣り舟を見ているけれど、珍しいかい?」
「ええと、そうですね。東京ではあまり見ないし……その、何もしないでぼーっとしているのって、本当に久しぶりで」
亜美は、戸惑いながら答えた。
「君たちは、本当に予定をいれて忙しくするのが好きだよね。僕の知っている何人かの日本人も来る度に今日は何をするのかって訊くよ。休みの時にまで動き回らなくてもいいと思うけれどね」
「はあ。でも、せっかく遠いヨーロッパまで来たんだし、いろいとやらなくちゃって思ってしまうんですよ」
何を弁解しているんだろう、私。男は、肩をすくめて笑った。
「それで、ここで立っているのも、その『いろいろ』のひとつかい?」
「電車でここを通ったら、とても素敵だったんで降りてみたんです。こんなところに、こんな幻想的な湖があるって思ってもみなくて。あの舟も全然動かないし、不思議だなって」
「あれはトマ爺さんさ。彼は楽しんでいる。ようやく五月になって釣りが解禁になったからね」
「解禁?」
「ああ、ここでは釣りは五月しかしちゃいけないんだよ」
ぴしゃんとわずかな音がして、トマ爺さんは何かを釣り上げたようだった。舟と湖面、そして、爺さんの釣り糸の先が揺れている。爺さんは、魚を箱にしまうと、次の餌をつけてまた湖に糸を垂らした。再び湖面は静かになった。
男は訊いた。
「一人で旅行をしているのかい。日本人にしては珍しいね」
亜美は頷いた。
「本当は、プレ・ハネムーンのつもりで予約したんですけれど、相手に二股かけられていたことがわかって。傷心の旅になりました」
「そうかい。それは氣の毒だったね。でも、結婚してからわかるよりはマシだろう」
「そうとも言えますね」
「見ていてごらん、だんだん大物が釣れるようになるから。トマ爺さんの釣り竿には魔法がかかっているんだって、人々は言うよ」
男が指さすと、確かに爺さんのは少し大きな二匹目を釣り上げたようだった。
「さあ、君の願いを言ってごらん。爺さんの魔法の釣り竿が大きな魚を仕留める度に、それは現実になっていくから」
男の言葉に、亜美はぎょっとして、その顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているのかと思ったが、表情はごく真面目だった。
そして、亜美はようやく思い当たった。どうして私はこの人とこんなにペラペラと話しているのだろう。ここまでいつも下手くそな英語でのコミュニケーションに苦労していたのに。もしかして、この湖も、あの釣り舟も、この男の人も、本当に魔法が関係しているんだろうか。
「信じられないみたいだね。こんな話は知っているかい? ロシアの民話だよ。あるところに貧しい漁師のおじいさんがいて、海で金色の魚を釣り上げた。その魚は人間の言葉を話し、海へ帰してくれたらどんな願いでも叶えてくれるという。おじいさんは、かわいそうに思い何ももらわずに放してやったが、家に帰ってその話をするとお婆さんは彼の無欲をなじった。壊れたたらいを示し、せめてそれを直してくれと頼んでくれればよかったのにと」
亜美は、その話をどこかで聞いたことがあると思った。子供の頃に読んだ絵本だ。たしかプーシキンによる民話集を元にした本だったように思う。
「たしかそのおじいさんは海へ行ってそれを頼んだのでしたっけ」
「そうだ。そしてまた家に戻るとたらいは新品に変わっていた。おばあさんは、くだらないことを頼んだと悔しがり、新しい家を頼め、貴族になりたい、女王になって宮殿に住みたいと、次々とおじいさんに願いを言わせた。そして、金の魚はその全てを実現してくれた」
亜美は、その話をどうしてこの男はするのだろうと訝った。でも、今いるここが、魔法にかけられた異次元であるのならば、この男の言うとおりに、素直に願い事を言ってみるべきではないかと感じた。
「私の願いも本当に言っていいんですか?」
「もちろん。願わなくては、何事も叶わないからね」
亜美は、あれこれを考えた。そして、金の魚や魔法の釣り竿を怒らせないような些細な願いごとを口にしてみた。
「インスタで、100のハートマークが欲しいなあ」
彼は、片眉を上げるとトマ爺さんの方を示した。
「撮ってアップしてごらん」
亜美がスマートフォンを向けてシャッターを切ると、ちょうどトマ爺さんが魚を釣り上げている瞬間が撮れた。魚は大きく跳ね上がり、偶然とは言えこんなにいい写真が撮れたことは今まで一度もなかった。彼女が、その写真を早速アップすると、みるみる「いいね」のハートマークがついていき、数分以内に倍のフォロワーと108のハートマークがついてしまった。
亜美は、驚いた。本当に魔法の釣り竿なのかと。今は二十一世紀なのに。
「さあ、次の願い事はなんだい?」
男は冷静に言った。
亜美は先ほどよりもずっと慎重に考えた。結婚するつもりで退職してしまったが、破談になって出発前まで履歴書を書きまくってあちこちに送った。その一つでも色よい返事が来たら嬉しい。
「第一志望の会計事務所に就職できたら嬉しい」
トマ爺さんの舟から、またぴしゃりという音がして、明らかにより大きな魚がかかった。男は頷いた。
「メールをチェックしてごらん」
亜美が、メールを調べると、会計事務所からのメールが入っていた。
「来月から、働いて欲しいって! すごい、信じられないわ」
男は表情を変えずに続けた。
「次の願いは何かね」
願いは決まっていた。
「別れた彼よりも、優しくて、誠実で、有能で、かっこよくて、みんなが羨む彼氏が欲しいな」
男は「やれやれ」という表情を見せたが、またしてもぴしゃんという音がした。するとスマートフォンからダイレクトメッセージの通知音が鳴った。
亜美がスマートフォンを見ると、どうやら新しいフォロワーのようだったが、よく見るとそれは長い間ファンでしょっちゅう舞台を観にいっていた有名俳優からだった。
「素敵な写真だね。僕も釣りが大好きなんだ。君が僕を既にフォローしているって知って嬉しかった。相互フォローさせてもらったよ。これからもよろしくね。というより、もっと親しくなりたいから、DMしたんだけれどね。連絡を待っているよ」
亜美はスマートフォンを取り落とすかと思うくらい驚いた。隣にいる男を見ると、「どうした」とでも言いたげな涼しい顔で立っていた。
「見てごらん」
恐る恐るトマ爺さんの方を見ると、釣り上げた魚はすでに鮭サイズになっていた。こんな小さな湖にあんな魚がいるんだろうか。
「そろそろ大きさも限界だよ。もっと願いがあるなら慎重に頼むがいい」
亜美は、急いであれこれ考えた。こんなラッキーは、二度とないだろう。何億円ものお金を頼むか、お城を頼むか、それとも……。そうだ。
「いっそのこと、あの魔法の釣り竿をもらえれば、いつでもどんな願いでも叶うんじゃないかしら」
亜美がそう言った途端、男はとても悲しそうな顔をした。そして、黙ったまま亜美から離れていった。
「え?」
スマートフォンが震えたように思ったので、それを見るといきなり電源が落ちて画面が暗くなった。
「え、え?」
亜美はまずスマートフォンの再起動ボタンを押して、電源を入れようとした。それから離れていった男に何か言おうとして顔を上げると、彼はどんなスピードで離れたのか、もうどこにもいなかった。動揺しながら湖のトマ爺さんの方を見ると、舟の上の爺さんは始めと同じように黙ってい釣りをしていたが、釣り上げたはずの大漁の魚はどこにも見えなかった。
スマートフォンの起動を待つ間に、亜美の脳裏には、突如として子供の頃に読んだ「金色の魚」の絵本の結末が蘇った。女王になってもまだ満足しなかったおばあさんは、おじいさんに「金色の魚を家来にして海の支配者になりたい」と言い出したのだ。どんな欲張りな願いも叶えてあげた金色の魚は、さすがに呆れて海の中へ戻ってしまった。そして、お婆さんは元の貧しい家で壊れたたらいと一緒に待っていたそうだ。
亜美は、自分の最後の言葉が、民話のお婆さんと同じだったことに氣がついた。再起動を終えたスマートフォンは、前と全く同じ状態だったが、トマ爺さんを映したインスタグラムの投稿はなかった。フォロワーも前と同じだったし、今朝ホテルを出て以来の新着メールもなかった。
亜美は、肩を落としてまた駅へと歩いて行った。
(初出:2018年1月 書き下ろし)
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日本で買った便利なモノ (2)ミニサイズのボウルとざる

さて、今回ご紹介するこのミニサイズのボウルとざるは、正確に言えば私が買ったものではありません。母が残していったモノをもらってきただけですけれど、実はかなり便利です。それも、おそらく本来の目的とはちょっと違った使い方をしていると思います。
既に何度か書いたように思うのですが、我が家には電子レンジがありません。連れ合いがどこかで「非常に体に悪い」と聞いてきて禁止令を出したのがきっかけですけれど、結局彼の工場にはあって、時々使っています。なんせ彼は蒸し物などが一切出来ないのですね。
私は、「夫に対して絶対服従」というタイプではないんですけれど、電子レンジに関してはあちこちで「実はよくない」という話を聞く上、日本にあるような便利な電子レンジでもないですし、いっそのこと全く使わないという暮らしを既に十年近くしています。
我が家の食卓では、オーブンを多用するので、それでもすむのかもしれませんね。
でも、ちょっと面倒くさいなと思うのは、冷やご飯を一杯分だけ温めたいとき。その時に、このセットがとても重宝するんです。簡単に言うと、ざるの上にボウルをセットして、わずかに水を引いた小さなお鍋で蒸すんですね。普通の蒸し器と違って量が少ないのであっという間に沸騰して、蒸す時間もおそらく電子レンジとあまり変わりません。
応用としては、バターをちょっと溶かしたい時やチョコレートの湯煎などでも使えます。便利ですよ。
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「scriviamo! 2019」の第二弾です。たらこさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
たらこさんは、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を絶賛連載中です。
「scriviamo!」では毎年Bプランをご希望です。前回と前々回のお返し作品が、わずかに重なっていたので、なんとなくそこに留まってみました。今回書いたのは、最初の作品「アプリコット色の猫」の続きになります。(競馬好きの例のお客さんの話題がちょっとだけ出てくるのは、たらこさんの作品へのトリビュートです)
あ、毎年のことですが、お返しはこれに絡めてもいいし、ぜんぜん関係のない作品でも構いませんよ。
「scriviamo! 2019」について
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アプリコット色の猫 2
——Special thanks to Tarako-san
いつになく暖かくなったので、お昼ご飯は林檎の木の下でお花見としゃれ込むことにした。姫子は、相棒である猫のマリッレの姿を探した。
姫子は、ザルツカンマーグート、フシュル湖畔の小さな果樹園を経営している。……というと海外で成功した立派な日本人みたいに響くが、実際の所はすぐ近くでお城を改造したホテルを経営するケスラー夫妻にあれこれ面倒を見てもらいながら、お情けで暮らしているようなものだ。
長い話は省くが、かつて人生のゲームオーバーぎりぎりまで行っていた姫子は、ウィーンでこの猫と知り合い、ここにたどり着いたのだ。マリッレは不思議な猫で、姫子には彼の言葉がテレパシーのように聞こえる……と思っている。彼の元の飼い主、ケスラーさんの亡くなったお父さんも、マリッレと会話が出来ると言っていたらしいが、その主張のせいで耄碌したと皆に思われてしまったらしいので、姫子はこの件は誰にも言っていない。姫子が日本語でマリッレに話しかけてもその意味がわからないので、まさか物事をいちいち猫に相談しているとは誰も思っていないようだ。
マリッレは、明るいオレンジ色の毛をした雑種で、大きいつぶらな瞳と、ぶちっと途中で切れたような尻尾を持っている。姫子はマリッレを連れ帰ってきたので、ケスラー氏の遺言により果樹園と小屋を相続し、初めての冬を乗り切った所なのだ。
湖はキラキラと輝いていて、空は高く晴れ渡っていた。湖の向こう側に見える山の雪が、たったの二日で見事になくなり、太陽が気持ちよく燦々と降り注いだ。そして、タンポポが牧場をあっという間に黄色に埋め尽くしたと思ったら、ついに林檎の花が次々とほころび始めたのだ。
林檎の花は、底抜けに明るい女の子のようだ。うっすらとピンクのつぼみが、開くと真っ白になる。ミツバチたちが、必死に飛び回り、春の女王に挨拶して回る。姫子は、その林檎の木の下でお昼ご飯にするのだ。ケスラー夫人が届けてくれた焼きたてのバンとチーズ、それに小瓶に入れたレモネード。もちろん、マリッレのためにガラス瓶にクリームを入れ、薄切りハムも用意した。
「ねえ、マリッレ。この林檎、このままでいいの?」
「このままって、どういうこと?」
「ほら、花を間引きしたり、虫がつかないように一つ一つ袋で覆ったりするんじゃないの?」
姫子は都会育ちなので、その辺の知識はかなり怪しい。
「まさか。このままでいいんだよ。虫がついたって大したことないよ。味には変わりないし」
マリッレは、そう答えるとまたクリームを舐めることに集中した。こんな大切な仕事の最中に、何をバカなことをといわんばかりの態度。
味には変わりないしって、そりゃ、猫にとってはどうでもいいかもしれないけれど、虫のついた林檎なんて売れないんじゃないかしら。まあ、無農薬って謳えばなんとかなるのかなあ。
ぼんやりと考えながら、ごくっとレモネードを飲んだ。お日様がぽかぽかとあたって、暑いくらい。春がこんなに素敵だと思ったのは何年ぶりだろう。去年までは、奨学金を返済するために、昼は役所の仕事、夜はキャバクラのバイトに追われていた。あの生活が嘘みたいだ。
ふと、影が差して太陽の光が遮られたので、姫子は瞼を開けてそちらを見た。いつの間にか、馬がそこにいた。乗っているのは隣人の「フレ姐」ことフェレーナだ。ケスラー氏の姪にあたる女性らしい。女性といっても、短髪にチェックのシャツ、ダボダボのデニムのオーバーオールに長靴、ファッションもへったくれもない農家の装いで、声を聴かない限り女性か男性か判断が難しい。
フェレーナの名は、愛称としてフレーニーが一般的だ。名詞の後に「i」をつけて伸ばすのは、小さいまたは可愛いという意味合をもたせる指小辞で、つまりフレーニーとは「フェレーナちゃん」に近い呼びかけだ。だが、このフェレーナの場合、本人がそれを嫌がるので「フェレ」とだけ呼ぶ人が多い。服装はもとよりかなり男前な振る舞いなので、姫子は普段はフェレーナと呼び、心の中では「フレ姐」と呼んでいる。
「ピクニックか」
頭上からの声は、とても威圧的に響く。怒られているのかと思った姫子は、怯えて立ち上がった。けれど、「フレ姐」は、ひらりと馬から飛び降りると、バスケットをのぞき込んで言った。
「その美味そうなのはなんだ? レモネードか。少し振る舞っておくれよ」
「どうぞ」
姫子は、水用に持ってきていたもう一つのコップにレモネードを入れて差し出した。ついでにクラッカーとチーズも念のために手で示すと、「フレ姐」は嬉しそうに座って一緒に食べ出した。
「本当にこんな陽氣のいい午後は、あくせく働くのはもったいないよな。さっさと店じまいしてきてよかったよ」
「フレ姐」は、レモネードをごくごくと飲んだ。
「店じまい?」
姫子が首を傾げる。
「観光客相手の馬車巡りのことだよ」
クリームを舐め終わり、丁寧に顔を洗いながらマリッレが注釈を入れた。もちろん「フレ姐」には聞こえていないと思う。姫子の頭の中だけに響いてきているはずだ。
「うん。農場の世話だけじゃ心許ないだろ。だから、こいつに小さな馬車をつなげて、そこら辺を巡るんだ。けっこういい収入になるんだよ」
「ケスラーさんの古城ホテルのお客さん?」
「ま、それが主かな。送迎を兼ねて駅に行くと、ただの観光客も乗るけど」
馬は、ぶるるとたてがみを震わせた。
「こいつも少しは休みたいよな。そこら辺の草、食わせてもいいかい?」
「もちろん」
この馬ウイスキーは、「フレ姐」の愛馬だ。もともとは、マリッレと同様に亡くなったケスラーおじいさんの持ち物だったらしい。「フレ姐」は、ケスラーおじいさんとは血が繋がっていなくて、亡くなったお嬢さん、つまり今の当主ケスラーさんの姉の夫の連れ子だ。
姫子がこの農場を譲り受けて住み込んだときに
「あんたが、噂の日本人だね。上手いことやったね。この果樹園、欲しかったのになあ」
といわれたので、姫子はぎょっとしたのだ。が、すぐに彼女はウィンクして言った。
「心配しなくていいよ。あたしには全くその権利はないんだ。それに、あたしはこのウイスキーをもらったんだ」
ケスラーおじいさんは、このなんとも粗っぽい娘とウマがあったらしく、おじいさんがへそを曲げて亡くなるまでボロボロの果樹園小屋に住み込んでいたときも、よくやってきて一緒に酒盛りをしていたらしい。
それが縁で、何頭かいる馬の世話を彼女に頼むようになり、遺言には死後も動物の世話は「フレ姐」の農場がするだけでなく、このウイスキーを譲ると書いてあったそうだ。「フレ姐」はウイスキーをとても大切にしている。しょっちゅうブラッシングしているので、毛はとてもつやつやだ。
「ウイスキーってなんて種類? まさかサラブレッド?」
姫子は訊いた。
「まさか! あっちは競走馬に使えるくらい軽いんだ。ウイスキーはどっしりしていて全然見かけが違うだろう。これはティンカーだよ。英語では、ええと、アイリッシュ・コブとかいうんじゃないかな。乗馬だけでなく農作業をしたり、馬車を牽いたりするんだ。大人しくて御しやすいから乗馬セラピーにも使われるんだよ」
「乗馬セラピーって何?」
「馬に乗ることで精神や神経を癒やすんだよ。注意欠陥多動性障害や自閉症の子供たち、ノイローゼや鬱病、それに多発性硬化症などの患者にも効果があるらしいよ」
姫子は目を丸くした。所変われば、色々なセラピーがあるものなんだなあ。
「姫子は、馬に興味があるのか?」
「……どうかしら。さっきわかったと思うけれど、全然知らないの。生きている馬を見たのも動物園以外ではここが初めてだし……でも、ある男の人がいつも馬の話をしていたから……」
「なんだよ。ボーイフレンド?」
姫子は大きく頭を振った。
「いや、そう言うんじゃなくて。もう二度と会うこともない人」
バイト先のキャバクラに来ていたお客さん、なんて言えない。そもそもキャバクラが何か説明しなくちゃいけないし、ものすごく面倒くさい。
「そんなこと言って、簡単に復縁したりするんだよな、女って。ま、いいや、こっちに来たら紹介してくれよ。馬に詳しいヤツなら、一緒に盛り上がれるだろうし」
そう言って、レモネードを飲み干すと「ありがとう」と「フレ姐」は立ち上がった。
夢中になって草を食んでいるウィスキーを口笛一つで呼ぶと、ひらりと跨がり、あっという間に古城の方へと去って行った。
「凜々しくてかっこいいよねー」
そうつぶやくと、マリッレは「そう?」とでもいいだげに無視して、バスケットの中のハムに前足を伸ばした。
「姫子の周りに、凜々しくてかっこいい男も女も全然いなかっただけでしょ。あんな感じの農家なら、この辺にはどっさりいるよ」
「別に農家の男の人と知りあいたくて言ったわけじゃありません」
そう言って、姫子はタッパーウェアを開けて、細かく裂いたハムをタッパーウエアの蓋に載せてだしてやった。
(初出:2018年1月 書き下ろし)
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日本で買った便利なモノ (1)シンク水切りプレート
この記事は、シリーズ化して日本で買ってきた便利なあれこれをご紹介したいと思います。

さて。我が家のフラットはもともと独身者を想定して作ったらしく、キッチンの調理台などはかなりコンパクトに出来ています。窓から45センチの水切り兼調理台、33センチ幅のシンク、38センチの調理台、そして四つのガラストップ式コンロです。
十五年以上これで調理してきているので、出来なくはないのですが、たまに「手狭だな」もしくは「水切りの時にちょっと置くスペースがあったらな」と思うことが多かったんです。
そして、前回日本の某百円均一ショップでみつけたのが、この水切りプレートです。あ、百円ではなかったと思いますけれど、文句はありません。
これ、奥の五本柱のついている部分が伸縮してネジで固定できるので、自分の好きな長さにしてこんな風にシンクに橋渡しできるのです。縦でも横でもどちらでも使えますし、もっと幅の広いシンクのお宅でも使えるんじゃないでしょうか。
例えば洗ったジャガイモをむくまでの間ちょっと置いておいたり、手で洗ったお椀などを拭くまでの間乾かしておいたり、色々な使い方が出来るんです。
こういうモノは、スイスではちょっと見つかりませんし、あったとしてもまあ、五千円くらいは軽くかかるでしょうね。これは買ってきて大正解でした。
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【小説】魔女の微笑み
「scriviamo! 2018」の第一弾、最初の作品です。大海彩洋さんは、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。この「真シリーズ」は数代にわたる壮大な大河小説で、まだ私たちが目にしたのはほんの一部でしかないのですけれど、それだけでも引き込まれてしまう濃厚な世界。昨年、私はその舞台の聖地巡礼もしましたし、更に馴染み深く続きを読ませていただいているのです。
さて、お知り合いになってからは皆勤してくださっている「scriviamo!」ですが、今回はいつもと趣向を変えて、完全なお任せでということでした。悩んだのですが、今回の一本目ですし、こんな感じでサーブを投げてみることにしました。
以前、当ブログの77777Hitの時にリクエストを受けてこんな作品を書いたことがあります。
「薔薇の下に」
今回の短編には、上記の小説で書いた二人の人間が登場します。どちらも彩洋さんのオリキャラではないのですが、「真シリーズ」のとんでもない大物に絡めて書いた作品ですので、まあ、ほらね、絡んできてくれたら嬉しいなあ(ちらっ)という思惑が大ありで書いてあります。サーブ(しかもめちゃくちゃな)ですから、はっきり言ってオチはありません。ここに書いてあることでおしまいです。特に登場する三人のうち、視点のあるヴィーコ以外は、なんの裏設定もないので、「名前はこうだった」「実は●●だった」「実は全部知っていたのに知らないフリをしていた」など、ご自由に設定していただいてOKです。もちろん、全て無視して全く別のお話でも構いませんよ。お任せです。
【参考】
小説・黄金の枷 外伝
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
「scriviamo! 2019」について
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魔女の微笑み
——Special thanks to Oomi Sayo san
垂れ込めた雲から、わずかの間だけ光が差し込んだ。それはまるで、子供の頃に見た祭壇画の背景のようだった。
彼の生まれ育った村は、ウーリ州の山奥にあり非常に聞き取りにくいドイツ語を話し、難しい顔をした大人たちがよそ者を監視しながら暮らしているようなところだった。イタリア語圏にルーツを持つ彼の家族がその村で生活するのはあまり快適とは言えなかった。彼は日曜日のミサで祭壇に描かれた聖母マリアとその背景の差し込む光に慰めと憧れを抱いていた。それが今の職業と暮らしに繋がる第一歩だったのかもしれない。
ヴィーコ・トニオーラはヴァチカンのスイス衛兵伍長だ。四年前に二十歳でスイス衛兵に採用された。その前にスイスの兵役を全て終えている。つまり、彼は成人してからほとんど兵役に当たっている。今時のスイス人はもっと給料が多くて自由のある職業に就きたがるだろう。彼のように健康で体力があり、更に言えば村の中で唯一進学が可能と言われる頭脳も持っているのだから。だが、どういうわけか彼は、小学校の高学年の時から、将来はヴァチカンでスイス衛兵になりたいと思っていた。
いつだったか見た、真っ白で広大なサン・ピエトロ大寺院、真っ青な空、その前に佇むカラフルな衣装を身に纏ったスイス衛兵。それが、辺境で鬱屈した村の日々とどれほど違った人生に思えたことだろう。
規律に満ちた衛兵としての日々は、決して子供の頃に夢見ていた自由で輝かしい毎日と同じではなかったが、彼は現在の日々に一応は満足していた。時折、妙な任務を命じられること以外は。
それは半年ほど前に始まった。ポルトガルからやってくるメネゼス氏という一見どうということもない人物を、目立たないように警護しながら、ヴァチカンのとある重要人物のもとに届けた。
スイス衛兵はローマ教皇の警護だけでなく、世界各国からヴァチチカンを訪れる要人、国王夫妻や大統領などの警護にもあたるので、本来の任務から完全に離れているとは言えない。だが、そのポルトガル人は政府の要人でもなければ、さらにいうと本当の要人その人ではなくただの使者だった。上司は「竜の一族の使者」という言い方をした。そして、送り届けた先もヴァチカン宮殿ではなく、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所だ。それから、時折大して重要とは思えない人物を目立たぬようにヴォルテラ氏の元に届けたり、偽名で予約されたレストランに向かい一人で食事をするなどという意味のわからない命令が下された。
今朝もタウグヴァルダー大尉はヴィーコにすぐに空港へと向かうように命じた。例のポルトガル人が到着するというのだ。本来ならば、彼は夜勤明けでその朝から非番だったにも関わらず。他のことならば規則を口にして抵抗することも辞さないヴィーコだったが、この件に関してだけは反論が許されないであろう事がわかっていたので、疲れを隠して空港に出向いた。
ディアゴ・メネゼス氏は、前回のように音もなく出迎えのヴィーコの近くまで現れ「ご苦労様です」とだけ言った。会話はほとんどなく、知り合いの誰にも氣付かれることがないほど密やかに、ヴォルテラ氏の事務所に送り届けた。ヴォルテラ氏の事務所にいつもいる紺の背広をきちんと着た男は、メネゼス氏を鄭重に迎え入れるとヴィーコに言った。
「ご苦労様でした。非番だそうですね。後ほど氏を空港までお送りするのは私がしますので、今日はどうぞお引き取りください」
だったら、どうして始めからあなたが迎えに行かないんですか。その言葉をヴィーコは飲み込んだ。これまで引き受けた奇妙な任務に危険はなかったし、関わる全ての人は礼儀正しかった。それなのに、ヴィーコはいつも「逆らってはならない」という強迫観念を持ち続けてきた。それほど、この事務所の主の影響力は大きかった。その存在を世界中の誰もが知らないにも拘わらず。
タウグヴァルダー大尉の物言いも、影響しているのだろう。アメリカ大統領が来ようが、常にテロの標的となっている王族の訪問を受けようが、夕食前の武具の手入れを命じるかのような調子で淡々と命令を下す大尉が、ヴォルテラ氏に関してだけは緊張しやけに神経質になる。何一つヴィーコにはわからなかった。説明するつもりなどないのだ。ヴィーコがその義務を果たすことを知っているから。
わかるのは一つだ。本来の仕事、派手なユニフォームに身を包み、教皇と聖ペテロの座であるヴァチカンを守る任務は、儀礼的なものでしかない。彼が訓練しその手に持つ
実際に教皇とこの小さな国を守っているのは、ヴォルテラ氏の配下、懐に銃を隠し持った黒服のボディガードたち、世界中に張り巡らされた情報ネットワーク、銀行や政治の取引のごとく一般人の目には見えない交渉だ。教皇と全世界十三億のカトリック信者が敬虔に祈りを捧げている間も、目を光らせながら場合によっては冷酷になすべき事を行動に移しているのだろう。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込んだ。ひどく疲れていたのだ。実際に、目が覚めると日は傾きだしていた。普段ならば、六日働いた後は、三日連続の休みが与えられるが、明日1月6日は
ヴィーコは起き上がると私服に着替えて、テヴェレ川に沿って南へと歩いて行った。トラステヴェレにある馴染みのピッツェリアに行こうと思ったのだ。
クリスマス市場の開催されているナヴォーナ広場の賑わいには比べる事も出来ないが、川沿いの地区にも屋台が出ていて、魔女ベファーナの人形や子供たちの枕元に置く菓子を売っていた。
ベファーナの菓子の伝統は、おそらくサンタクロースのプレゼントの原型だ。
ヴィーコの生まれ育ったドイツ系スイスでは12月6日に聖ニコラウスと従者シュムッツリイがやってくる。子供たちの一年の所業を裁定して、いい子にはナッツやミカンや菓子を渡し、悪い子はシュムッツリイが鞭で叩くことになっている。
一方、イタリアではその一ヶ月後
そのドイツ語圏とイタリア語圏の二つの伝統が混じり合い、現在では世界中の子供たちがクリスマスの朝におもちゃなどのプレゼントをもらう習慣に変わってしまったのだろう。
ヴィーコは、醜いけれど優しい目をしたベファーナの人形がたくさんぶら下がった屋台を眺めながら歩いて行った。すると、突然目の前で、屋台にあったたくさんの飾りと菓子の袋が崩れ落ちて散らばった。
「きゃっ」
その場にいた、若い女が短く叫んだ。コートの上から引っかけていたストールが、屋台の飾りに引っかかったらしい。
ヴィーコは、散らばってもう少しで川に落ちそうになっている魔女の人形を二つ三つ拾って屋台に戻した。女は、それを見ると微笑んで「ありがとう」と言った。
彼は初めてまともに女の顔を見た。顔が小さく、綺麗に整った眉と、長いまつげ、それにその下で煌めく淡い色の瞳が印象的な女だった。薄めの唇にしっかりと引かれた紅と強くカールした睫毛がひどく化粧の濃い女という印象を与える。彼女は、自分の失態に対して力を貸してくれたヴィーコに対して礼を言いつつも、助けられて当然という空氣を纏っていた。
「やれやれ。なんて散らかし方だ。ラウドミア。困った人だね、君は」
声のした方を振り向くと、そこには意外な人物がいた。ヴィーコは思わず「あ」と言って、男の顔をまじまじと見つめた。女性に話しかけていたのは、今朝、チェザーレ・ヴォルテラ氏の事務所の事務所にいたあの紺の背広を着た男だったのだ。男の方も、すぐにヴィーコに氣がついたようだった。
ラウドミアと呼ばれた女性は、悪びれぬ様子で最後のベファーナ人形を雑に屋台に載せ「失礼」とおざなりに売り子に言うと、紺の服の男性に向かって肩をすくめた。
「もう片付けたわ。こういうのも
ヴィーコは、それでは、この女性はこの人の連れだったのかと思った。彼は、軽く頭を下げて言った。
「先ほどはどうも」
「あら、あなたたち、お互いに知っているの?」
女性は、二人の顔を交互に見つめた。今は茶色のコートに身を包んでいる男性は、表情を全く変えずに言った。
「ヴァチカン市国に入るものなら、嫌でもスイス衛兵とは顔なじみになるさ。どこへ行くのか毎回聞かれるしな」
「ああ、スイス衛兵なのね」
ラウドミアは、艶やかに笑った。ヴィーコは、今朝遭ったのは門ではないのにと思ったが、もしかしたらこの女性の前で「ヴォルテラ氏の事務所で」などという会話をしてはいけないのかと思った。
「スイス衛兵って、ヴァチカン市国の中だけにずっといるわけじゃないのね。どこへ行くの?」
「……。その先のピッツェリアに」
「あら、トラステヴェレの? 美味しい所を知っているならば、教えてくれない? この人が連れて行ってくれる店、いつも全然美味しくないんですもの」
ヴィーコは戸惑って男性の顔を見た。デートの邪魔をするつもりはなかったし、さらにいうと一緒にいたら男性との会話に苦労するだろうと思ったのだ。彼の方から、一緒にいかなくていい口実を言ってくれることを期待していた。
ところが男性はあっさり言った。
「お願いします」
ヴィーコは、肩をすくめて二人を連れていつもの店へと行った。
「テヴェレ川の向こう岸」を意味するトラステヴェレは、中世からの町並みが残る地区だ。ローマの下町といっていい。石畳の道が迷路のように入り組んでいて、その所々に観光客がなかなか見つけられないような小さなトラットリアやピッツェリアがある。
ヴィーコがよくいくピッツェリアもその一つで、狭い店内は飾りけはないが、古い窯から出てくるパリッとしたピッツァが絶品で、少しでも遅く行くとなかなか座れない。
「まあ。こんな所に。行き方、忘れそうね」
ラウドミアは、小さな店内を珍しそうに見回した。ふんわりとした毛織りのコートを脱ぐと、金ラメを織り込んだ臙脂のワンピースが現れた。胸元が広く開いていて、白鉄鉱の細やかな細工で装飾された赤褐色に濁ったキャッツアイがかかっていた。ヴィーコはこの女性は、その道のプロフェッショナルなのかそうでないのかは判断できないけれど、いずれにしても「非常に高くつく」のだろうと思った。
「いずれにしても、君は店への行き方なんて記憶に留めたことはないだろう?」
「そうね。だから、あなたが、しっかり憶えておいてね」
おざなりに微笑みながら彼女は、その笑顔に対して感銘を受けた様子もない男に言った。
見ると、男の方は先ほどのカチッとした背広ではなくグレーの開襟シャツ姿で、まるでどこにでもいる事務員のように見えた。少なくとも十三億人もの信者を抱える宗教の中枢部、秘密の通路を通って行かなければたどり着けないオフィスにいる人間には見えなかった。
「ねえ。時代がかった傭兵さん。教えてちょうだい。門を通る人を呼び止めたり、ミサの時に突っ立ってパパさまを警護する以外に、あなたたちは何をしているの?」
ラウドミアは、頬杖をついてヴィーコに語りかけた。
ヴィーコは、ちらっと男を見たが、とくに反応を見せなかった。僕のことよりも、そっちを問い詰めた方がいいのに、そう思いつつ、職務に忠実で口の固いスイス衛兵は口を開いた。
「それだけですよ」
もちろんそんなわけはないとわかっただろうが、ヴィーコが面白おかしく軍務について詳細を話してくれるタイプではないとわかったのだろう。彼女は、それ以上追求しなかった。
「実際に、鉾槍を捧げ持った僕たちは儀式用の装飾品みたいな存在だ。クレメンス七世の時代とはもう違うんですよ」
1527年に神聖ローマ帝国のカール五世によって引き起こされたローマ略奪で、教皇クレメンス七世を守るため果敢に戦い189人中147人が戦死した故事はスイス衛兵の誇りで、五月六日は今でも隊の祝日になっている。新しい衛兵の入隊式もこの日に行われる。
「そうは言えない」
男は、ヴィーコの眼をじっと見つめながら言った。
「確かに君たちの鉾槍は、大陸弾道ミサイルに対しては無力かもしれない。だが、十六世紀には既に大砲もあったんだからね。それでもスイス衛兵たちが、サンタンジェロ城へと向かう
「それは、そうですが……」
注文していたピッツァが出てきたので、ヴィーコは口ごもった。スイスで食べていたのと比べると、少し小ぶりで直径20センチほどだ。非常に薄く焼き上げた土台にトマトと水牛モツァレラ、アーティチョークと生ハム、それにルッコラが載っている。熱々に溶けたチーズとトマトは、ぱりっと膨らんだ
美味しいピッツァとは、シンプルだ。パリッとした台。
「まあ」
ラウドミアは、辛いサラミを使ったディアヴォラを注文していた。上手にナイフとフォークで切り分けて口に運ぶと、長い睫毛を閉じた。赤く染まったオリーヴオイルが真っ赤な唇で光っている。「
連れの男が選んだ水牛モツァレラとゴルゴンゾーラのピッツァ・ビアンカ、白とルッコラの緑だけが載ったピッツァはそれと対照的だった。また、彼はピッツァの味の魔力に全く感化された様子はなく、黙々と口にしながら話を続けた。
「時代は変わり、教会の存在意義も、信者のあり方も変わったし、これからも留まることはないだろう。だが、君がヴァチカンの門前で、教皇の傍らで、もしくはそれ以外の職務でしていることは、間違いなく君の志した『教皇と教会への奉仕』だ。違うか」
その通りだと思った。上司がよく説くように、彼の職務に必要なのは忠誠心とひたすらな謙虚さだ。讃えられることや注目されることがなくても、静かに自分たちの任務を遂行する、誇りを持って。そうだ、引っかかっていたのはそこだ。
「僕は、単純に、誇りの拠り所を失いかけていたのかもしれません。本当に、僕たちの存在意義があるのかって」
「それは誰でも持つ疑問さ」
「あなたも?」
男は黙ってわずかに微笑んだ。ラウドミアは、面白そうに頬杖をついて口を挟んだ。
「郵便局の仕分け係なんて、すぐにロボットに取って代わられるに違いない仕事だっていうのが、口癖だものね」
ヴィーコは、それではこの女性に対しては郵便局勤務ということにしてあるのかと思い、かといって初めて知ったようなふりをするのも白々しいと思い黙っていた。女は妙な微笑みを浮かべてから、また幸せそうにピッツァを食べた。
それに見覚えがあると思いしばし考えたヴィーコは、先ほどの魔女ベファーナの人形だと思い当たった。明日は
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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【小説】好きなだけ泣くといいわ
かなり有名な曲ですし、著作権的にわからないので訳は書きません。検索するといっぱいでてきますし。歌詞は、不実だった元恋人がやってきて泣いていると言うのに対して「私だって散々泣いたんだから、川のように泣くといいわ」と返すものです。
出てくる登場人物は、「ニューヨークの異邦人たち」シリーズのサブキャラたちです。今回登場しているのは、「ファインダーの向こうに」と「郷愁の丘」のヒロイン・ジョルジアの妹であるアレッサンドラと、その周辺の人物。元夫のレアンドロも別の外伝で既に登場済みですね。

【参考】
![]() | 「ニューヨークの異邦人たち」 |
好きなだけ泣くといいわ
Inspired from “Cry Me A River” by Julie London
丁寧に雪かきをしてあっても、石畳の間に残った雪が凍り付いていた。安全にドタドタと歩ける無粋なブーツを履いていなかったので、いつもよりもスピードを落として慎重に歩いた。アレッサンドラ・ダンジェロが、雪道で滑って転ぶなどという無様な姿を晒すことは、何があっても避けなくてはならない。
スーパーモデルとしてだけではない。
娘のアンジェリカは、暖かい部屋でもうぐっすりと眠っているはずだ。父親のもとでの二週間の滞在を終えて、明後日またアレッサンドラと共にアメリカに帰るのだ。
九歳になるアンジェリカは、アレッサンドラの最初の結婚で生まれた娘だ。その父親であるレアンドロ・ダ・シウバは、ブラジル出身のサッカー選手で、現在はイギリスのプレミアムリーグに属するチームで活躍している。娘を溺愛しているにもかかわらず、毎週のように会いに来ることが出来ないのは、そうした事情があるからだ。
だから、学校の長期休暇には、アンジェリカが長い時間を父親と過ごすことに反対したりはしなかった。時おりイギリスまで娘を送り迎えする必要があってもだ。
今回はレアンドロが、アレッサンドラと今の夫がヨーロッパでの多くの時間を過ごすスイス、サン・モリッツへと足を運んだ。そして、愛する娘との長く大げさな別れの儀式を繰り返した後に、滞在しているクルムホテルに戻った。
そのまま、彼の鼻先でドアを閉めて、暖かい室内に戻ってもよかったのだ。なのに、どうした氣まぐれをおこしたのだろう。彼女は、前夫に誘われてクルムホテルへと行ったのだ。重厚なインテリアのエントランスの奥に、目立たないバーがある。別れてから五年経っている。アンジェリカの受け渡し以外の会話をしたのは本当に久しぶりだった。
スイスという国に、有名人の多くが居を構える理由の一つに、この国の住民の有名人に対する態度がある。たとえ、いくら山の中とはいえ少し大きな街に出れば化粧品や香水の巨大な広告は目に入る。金色の絹のドレスを纏い挑戦的に微笑むアレッサンドラの顔はすぐに憶えるだろう。街を歩いていて「あ」という反応を見せる人はいくらでもいる。けれど、彼らはそのまま視線をそらし、何事もなかったかのように歩いて行く。カメラを取り出したり、通り過ぎてから戻ってきてサインをねだったりしない。
ホテルの従業員たちも、バーにやってきたのがプレミアム・リーグで活躍する超有名選手と、離婚した超有名スーパーモデルだということを即座に見て取っただろうが、それとわかるような素振りは全く見せなかった。
クルムホテルのバーで、たった一杯カクテルを飲み、一時間後に颯爽と立ち去った。タクシーを呼んでもらうこともなく、迎えをよこすように連絡することもせずに、彼女は一人歩いた。頭を冷やすために。
別れた夫との会話が、彼女の頭に渦巻き、彼女を戸惑わせている。
彼は、二人の共通の興味対象について話しだした。
「それで、お前がこちらで過ごす時間が増えているなら、いっそのことアンジェリカの学校もロサンジェルスにこだわる必要はないんじゃないか」
「そうね。でも、この辺りには英語で通える学校はないのよ。ルイス=ヴィルヘルムはフランス語圏には、今のところ行きたくないみたいだし。もう少し大きくなったら寄宿学校という案も考えないでもないけれど」
「そうか。マンチェスターの学校ってわけには……」
「いきません」
ぴしゃりと言われて、レアンドロは仕方ないなという顔をした。
「あなたは父親だし、意地悪で会わせないっていっているんじゃないわ。でも、離婚原因を作ったのも、毎週会えないほど遠くに行ったのも、あなたの選択でしょう。私を困らせないで」
「それは、わかっているさ。だから、あの子にもっと会いたくても我慢しているんだ。それに、その、俺の方もずっとイギリスに居続けるって決めたわけじゃないし。でも、アンジェリカとの時間はとても貴重だし、あの子に家庭のことで悲しい思いはさせたくないんだ」
それを聞くと、アレッサンドラは片眉を上げた。キールの入ったグラスに光が反射している。その姿勢はお酒の宣伝の写真のように完璧で、レアンドロは改めて元妻がスーパーモデルであることを認識した。だが、彼女の口からは、コマーシャルのような心地よい台詞は出てこなかった。
「よくもそんなことを言うわね。で? ベビーシッターと結婚すれば、家でじっとあなたを待っていてくれる人と、アンジェリカと三人で幸せな家庭になるとでも思ったってわけ?」
「……それとこれとは……」
レアンドロは三本目のブラーマ・ビールを頼んだ。よく冷えたグラスが置かれ、バーテンダーが注ごうとするのを手で制し、瓶を受け取るとそのままラッパ飲みをした。
「始めから結婚するつもりでソニアに手を出したわけじゃないさ」
「手を出してから、乗り換えようと決心したってわけね」
「そう具体的に思ったわけじゃない」
「でも、そうなのよね。私が、一日中テレビ・ショッピングでも見ながら、家の中であなたを待っていなかったから」
「つっかかんなよ。そりゃ、あの頃は確かにお前に腹を立てていたけど」
「けど、何よ。お望み通り、若くて家庭を守る妻を持ったんだから、私に因縁をつけるのはやめてよ。言っておくけれど、アンジェリカの親権は絶対に渡しませんから。あの女の元になんてぞっとするわ」
「わかっているよ。それにソニアは、その、口には出さないけれど、さほどアンジェリカを歓迎していないし……でも、お前だって、再婚したんだし、おあいこだろう」
「ふふん。あいにくだけど、ルイス=ヴィルヘルムは、アンジェリカを大切にしてくれているわよ」
「その前のヤツは」
「あの男のことを思い出させないで。あの結婚はそれこそ完全な間違いだったわ」
アレッサンドラは、眉をしかめた。彼女の二度目の夫は、テレビなどで活躍するモデレーターだったが、表向きの人当たりの良さに反して、家庭では支配的で嫉妬深かった。また子供が嫌いで、アレッサンドラがいない時にアンジェリカに対して意地の悪い言動を繰り返していた。
アンジェリカの様子がおかしいのに氣がついたアレッサンドラが、使用人の協力を得て現場を押さえた。結婚してから半年経っていなかった。一刻も早く離婚したかったため、離婚原因については他言しないという申し合わせをすることになっていた。いずれにしてもレアンドロにその件を詳しく話すわけにはいかない。あの男の愛娘への仕打ちを知ったら、後先を全く考えずに暴力を振るいに行きかねないからだ。
「そうか。二人目と簡単に別れたから、三人目ともすぐかもしれないと思ったけれどな」
「あなたには関係ないでしょう」
「別れるのか?」
「そんなこと言っていないわ。あなたには関係ないって言っているのよ。こぼれたミルクは元に戻らないって、ことわざ、知らないの?」
「お前は、いつもそうだよな。前を見て、闊歩していく。振り返って後悔したりなんかしない。それがお前らしさなんだけれどな」
苛ついた様子を見せて、アレッサンドラは向き直った。
「ねえ、あなたは確かに私の娘の父親だけれど、私の再婚にあなたが口を出す権利があると思っているの? あの女と再婚したのはそっちが先でしょう?」
「わかっている。だけど、俺はお前と結婚した時ほど、ソニアと結婚する時に舞い上がっていたわけじゃない」
「なんですって?」
「その、半分は離婚したやけっぱちで、それに半分はソニアがかわいそうで……」
「かわいそう?」
「だって、そうだろう。お前は、離婚しようとしまいと、アレッサンドラ・ダンジェロだ。だが、ソニアは、俺に捨てられたらそのまま人生の敗者になってしまう。家庭を壊した性悪のベビーシッターってことでな。だから、俺は……」
「どうかしら」
アレッサンドラは、多くは語らなかったが、元ベビーシッターが世間の評判を氣に病むような弱いタイプだと思っていないことは明白だった。レアンドロも、今は自分でも元妻と似たり寄ったりの意見を持っていた。
「でも、俺は今でも時々思うんだ。なぜあの時、あんな簡単にお前と離婚してしまったんだろうって」
「あなたは、自分が言ったことも憶えられないの? 私とは完全に終わりで、仕事を持つ女となんか二度と関係を持ちたくないとまで言ったのよ。不貞を働いたのは自分のくせに」
レアンドロは、じっとアレッサンドラを見つめて、泣きそうな顔をした。
「俺は、拗ねていたんだ。子供みたいに。お前も歩み寄ってくれて、やり直せるんだって、心のどこかで期待していたんだ。アンジェリカのためだけに俺といるんじゃない、俺とずっと一緒にいたいと思ってくれているってね。その甘さのツケを今払っているんだ。申し訳なかったと思っているんだぜ。時折、俺たちの新婚時代を思い出して、こうなった情けなさに泣いたりしてさ」
「そんなあざとい口説きは、他の女にするのね。ごちそうさま、私帰るわ」
アレッサンドラは、石畳を踏みしめながら、わめき散らしたい思いを必死で堪えた。泣きたいなら好きなだけ泣くといいわ。何よ、今さら。
私がどれほど傷ついて苦しんで、泣いたと思うのよ。私は強くて振り返りもせずに前へと歩いていくですって。そうじゃない姿を世間には見せないだけよ。
彼女は駅の近くまで降りてきた。タクシーに乗り込むと、今の家族の待つ家へと戻った。静かな一角にあるその邸宅からは、サン・モリッツの街明かりが星のようにきらめいて見える。外側はコンクリートの直線的な佇まいだが、中に入ると古い木材を多用した柔らかいインテリアがスイスらしい住まいだ。
暖炉には暖かい火が燃えていて、ソファに座っていたルイス=ヴィルヘルムは、さっと立ち上がってアレッサンドラを迎えた。
「お帰り、寒くなかったかい。言ってくれれば迎えに行ったのに」
1918年に多くの貴族が王位、大公位、侯爵位などを失った、その一人の末裔として、先祖伝来の宝石や城などと一緒にプライドも受け継いだはずなのに、ルイス=ヴィルヘルムにはどこか山間に走る子鹿のような臆病さがあった。優しく礼儀正しい彼は、アレッサンドラを熱烈に崇拝し、大切に扱う。彼女の仕事も、愛する娘もすべて受け入れ、尊重した。だから、アレッサンドラも、新しい夫を困らせないように、彼の家名に傷のつくような仕事は一切断り、品位を保ち、彼の信頼に応える妻であるように、新しい努力を重ねている。
まだ二十一歳だったアレッサンドラが、若きレアンドロと出会い恋に落ちた時、品位などということは考えなかったし、努力もしなかった。そこにあったのは、火花のように燃え上がる熱い想いだけだった。世界が二人を祝福していると信じていたあの頃、豪華でクレイジーな結婚披露宴に酔いしれたこと、全てが単純で素晴らしかった。
あれから十年以上の時が流れ、事情はずっと複雑になり、今夜の二人は同じ場所にいても、もう元の恋人同士には戻れない。アレッサンドラは、優しく抱きしめる夫をやはり優しく抱きしめ返しながら、窓の外を見た。レアンドロの滞在するホテルの辺り、サン・モリッツの街明かりが、泣いているように煌めくのを見て、そっと瞳を閉じた。
(初出:2019年1月 書き下ろし)
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