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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】ジャカランダの並木道

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十五弾、最後の作品です。けいさんは、英語の詩で参加してくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『Solitaly walk 』

けいさんは、スイスから見て地球の反対側のオーストラリアにお住まいのブロガーさんです。同じ海外在住者として、勝手に親しみを持っている私です。私と同じように小説もお書きになるのですが、ここしばらくはお仕事に集中なさるそうです。そういう時期も大切です。でも、詩作の方はお続けになるとのこと、今回の作品もそのお一つですね。

さて、今回の書いてくださった作品の情景は、おそらくオーストラリアのものだと思うのですが、私の頭の中にはやはりアフリカで見た景色が広がったので、また「郷愁の丘」関係の外伝を書かせていただきました。けいさんの詩からインスパイアされたエピソードです。「郷愁の丘」の一番盛り上がっているラストシーンの辺りの時期の話ですが、主人公たちとはほとんど関係ありません。登場する女性は初登場です。この人のことも、ずっと書きたかったんですよね。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



ジャカランダの並木道
——Special thanks to Kei-san


 その並木道は、妖精の国に迷い込んだのかと錯覚させるほど美しかった。藤色の鈴なりになった花が雲のように咲き乱れ、落ちた花びらは薄紫の絨毯となった。ほのかにアンバーのような、それとも蜂蜜のような香りが漂い、むせかえる。十月の風物詩、ジャカランダの開花だ。

 リンファは、日本には行ったことがないが、噂に聞く満開の桜に列島が湧く春というのはこんな感じなのではないかと考えた。

 乾期は終わったのだ。季節は動いていく。

 標高1500メートル、赤道直下のナイロビに暮らして十二年になるリンファは、また一年経ったのだなと思った。リンファがこのケニアの地に降り立ったのもやはり十月だった。

 角を曲がり、コロニアル風の建物がなくなって、高層ビルのある地区に入った。リンファは、背筋を伸ばして歩いて行く。東洋人の自分は、この街にはどうしてもそぐわないように感じてしまうから。リチャードのように、どこにいようと常に自分の街にいるという確信を持てたらどんなにいいだろう。

 リンファはナイロビにあるエージェントのスタッフとして働いている。世界各国からやってくる観光客のための個人旅行の手配もするし、ビジネスにおける行政との橋渡しなどもする。要は何でも屋だ。異様に顔の広いボスと、秘書兼会計兼スタッフのリンファの二人だけの小さな事務所だ。

 オフィスは三階にある。リフトはないので歩く。ここまで汗をかかずにやってきたとしても、必ずこの階段で汗をかいてしまうのが難だった。

「ただいま」
粗く息をつきながら言うと、受話器を置いたばかりのリチャードが明るく「お帰り」と言った。
「それで、君の同胞たちは、喜んで帰ったのかい?」

 リンファは、雇い主であり私生活においては恋人でもある、デリカシーのない赤毛の男を軽く睨んだ。リンファが空港まで送っていった相手は、彼女の同国人ではなかったのだ。
「同胞って、アジアってだけじゃない。あなたをドイツ人と一緒にするようなものだわ」

 リチャード・アシュレイは、「それがどうした」というように肩をすくめただけだった。彼には、少なくともオランダ人と、アメリカ人の血が四分の一ずつは混じっている。残りはイギリス系のケニア人と、ジンバブエからの移民の他に、もしかしたら本当にドイツ人の血も混じっているのかも知れない。彼は、自分のルーツに細かくこだわったりはしないのだ。

「とにかく、そこそこ満足して搭乗ゲートに向かってくれたわ。これからタンザニアにも行くらしいけれど、あっちでメチャクチャな目に遭えば、私たちへの感謝も少しは増加するかもしれないわね」
リンファは、冷蔵庫から冷やしておいた紅茶のポットを取り出すと、グラスに注いで一氣に飲んだ。

 それから、思い出したように言った。
「そういえば、空港で意外な人を見かけたわよ」
「誰?」
「ほら、例のアメリカの女流写真家。あなたとアウレリオが、わりと最近、あれこれ噂していたでしょ」

 リチャードは、関心を示してリンファの方に向き直った。
「ミズ・ジョルジア・カペッリかい? 空港で?」
「ええ。ついたばかりみたいだったわ。なんだか急いで鉄道駅に向かっていたわよ」

「そうか。今回は来るって知らせてくれなかったな。どうしてだろう。また撮影かな。とにかく、ヘンリーのやつに知らせてやろう。知っているか、あいつ、もう何年も彼女を追い回しているクセに、晩熟でいっこうに先に進めないんだぜ」

 リンファはリチャードの面白くてしかたないという顔を見て憤慨した。
「忘れたの? 今は、彼のお父様スコット博士がかなり危険な状態だってこと。ドクター・スコット・ジュニアを今からかうなんて最低だわ」

 誰もが、リチャードやその親友のアウレリオのように、器用に立ち回れるわけではない。前回、そのアメリカ人写真家がこの事務所を訪問した時、普段なら可能な限りナイロビに来たがらないヘンリー・スコットは電話でも済む用事なのにわざわざやってきた。リチャードがミズ・カペッリに馴れ馴れしく話しかけている間、辛抱強く話しかける機会を待っていたコミュニケーション下手な男を、リンファは部屋の隅から密かに応援していた。なんとか彼が再会の約束を取り付けたのを耳にした時には心の中でガッツポーズをしたのだが、それから一年半経っている。あまりの不器用さにリンファもため息がでるが、それでもリチャードに面白おかしく笑いの対象にされるのは氣の毒だ。

 リチャードは、彼女の剣幕に肩をすくめて言った。
「からかっているわけじゃないさ。ただの親切心だよ。でも、まあ、そうだな。後でアウレリオに電話して、義父殿の容態を訊いてからにするか」

 それから十日後に、リチャードは事務所の留守番をリンファに任せ、ツァボへと出かけていった。噂のスコット博士が亡くなり、葬儀に参列することになったためだ。アウレリオ・ブラスの義父というだけでなく、動物学の権威であるスコット博士とは、公私ともに様々な関わりがあったのだ。
 
 リンファはその二日間は一人で業務をこなした。珍しくトラブルが少なかったため、なんとか一人でもこなせたのは、天が自分に味方したのかもしれないと思った。もちろん、午前中の停電と、十一時からの水道のストップには辟易したが、少なくともクライアントが苦情の電話をしても通じなかったのだからラッキーの内に入るだろう。

 ようやくPCに電源を入れられる状態になったので、急いでいくつかの用事をこなした。一番大切だったのは今日中に発送しなくてはならない宛名ラベルの印刷だった。リンファの祖国あての小包に貼るためのラベルだ。かの国の郵便配達夫にはアルファベットを読めない者も多いので送り状には漢字のラベルをつけて欲しいと依頼されているのだ。

 次の停電が起こる前に、なんとしてでも印刷を終えてしまわないと。リンファは調子のあまりよくないプリンターをなだめながら、作業を続けた。なんとか予定していた枚数を印刷できそうだと胸をなで下ろした。

 国を離れて、遠い異国でこうして数々のトラブルと闘いながら日々を過ごす意味を考えることがある。何をしているのだろうと。両親は、もうリンファのことは諦めたという態度を見せた。他の娘たちのように結婚して孫の顔を見せてくれるわけでもなく、異国の成功者として故郷に錦を飾ってくれるわけでもない。リンファ自身、自分の中途半端さに、腹立つこともある。

 リチャードとの関係も同じように中途半端だ。共同経営者というほどに中心的な役割を果たしているとは思っていないが、それでも、こうして二日間でもなんとか彼の代理を務めることの出来る存在までになっている。でも、それを思うのは自分一人なのではないか。プライヴェートにおける関係も、八年以上も恋人という立場でいるにも関わらず、それ以上に進む氣配はない。

 それでも、リンファは昨日と変わらぬ日常を歩き続ける。他の道があるわけではない。

 階段を上ってくるよく知るリズムの足音に続き、鍵を回す音がして、リチャードが入ってきた。彼は、どさっと荷物をソファーに投げていつものように明るく「ただいま」と言った。

「お帰りなさい。ちょっと待って。このラベルの印刷、そろそろ終わるから」
プリンターの横に立ってそうリンファが告げると、リチャードは「いいよ」と手振りで示してソファーに座り寛いだ。

「携帯に電話が入って、そのラベルのことを訊かれたよ。グッドタイミングだったな」
「停電さえなければ、もうとっくに出来ていたのに」
「あっちのパッキング作業も停電で遅れているから問題ないだろ」

「バカみたいよね。なぜ水牛の角なんか輸入するのかしら。向こうにいくらだっているのに」
そうリンファが憤慨するとリチャードは笑った。
「ケニアから届いたってことが重要なんだよ。水牛の角ってことになっているけれど、本当はそうじゃないって信じてもらうためにね」

「え? 水牛の角じゃないって、まさか犀角や象牙じゃないでしょうね。見つかったらこっちも逮捕されるわよ」
「されっこないよ。本当に水牛の角だから。箱に書いてある通りさ。それをこの商品表示はカモフラージュのためですと、嘘ついて売るつもりなんだろう。どうするつもりかなんて、こっちは関係ないから、売ってくれと言われたら素直に手配するけれどね」

「そう」
リンファは、少し嫌な氣持になったが、いちいち角を立てたくなかった。リチャードは、まったく意に介さずに朗らかに言った。
「悪いけれど、終わったらそれ発送してきてくれるかい?」

「わかったわ。ところで、お葬式はどうだった? ムーア博士やマディたち、大丈夫だった?」
話題を変えたくて、リンファは訊いた。
「マディはけっこう泣いていたけれど、レイチェルは氣丈にしていたな。まあ、表向きには、ヘンリーが全部仕切っていたしね」

 レイチェル・ムーア博士は、表向きは亡きスコット博士の親しい友人ということになっていたが、実際には内縁の妻と言ってもいい間柄で、マディがスコット博士の愛娘であることは親しい者には周知の事実だった。ジェームス・スコット博士は最初の結婚に失敗してから二度と家庭を持とうとしなかったが、息子のヘンリー・スコット博士との距離のある付き合いは、部外者のリンファにも異常に思えるほどだった。おそらく葬儀に行ってはじめて彼に息子がいることを知った人も多いだろう。

「ドクター・スコット・ジュニアも、お氣の毒ね。こういう時だけ息子として矢面に立たされて。この間、意地悪くからかったりしなくてよかったわね」
リンファがそう言うと、リチャードは意味ありげに笑って首を振った。
「ふん。からかうまでもなかったよ。件のジョルジア・カペッリはヘンリーと一緒にいたんだ」

 郵便局へ行こうと、戸口に向かっていたリンファは、思わず足を止めた。
「え?」
「驚くだろ? こっちも仰天したのなんのって。アウレリオからあの二人は婚約したって聞いて、腰を抜かすかと思ったよ。まったくいつの間に」

 リンファは、階段を降りて表に出た。わずかに乱れた想いを封印するかのように、足早に通りを歩いた。

 何に動揺しているのか、自分でもよくわからなかった。よかったじゃない。ドクター・スコット・ジュニアがようやく幸せをつかんだんだもの。

 今日は、風が強い。後れ毛が舞っている。

 風に心揺らされても、やはり独り歩いて行くほかはない。ドクター・スコット・ジュニアが、彼の道を一歩一歩進めて、彼の幸福な停留所にたどり着いたように。リチャードが、リンファだけでなく氣の遠くなるほど多くの人びとと関わり合い、必要ないほど多くの言葉を用いながら、彼の人生を進めているように。

 この道を、異国の、決して楽ではない道を歩いて行く先に、何が待っているのかは、誰にもわからない。でも、歩いて行かなければ、どこにもたどり着けないのだ。

 強い日差しが、肌を突き刺すようだ。リンファは、額に手をやり、空を見上げた。ジャカランダの並木道は、鮮やかな新緑が育ちだしている。間もなくこの道を歩く時は直射日光のきつさを感じずに済むようになるだろう。

 花の時期は終わり、育った羽毛のような葉が季節が変わったことを宣言するように覆っていた。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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ジャカランダ

ジャカランダJacaranda mimosifoliaはノウゼンカズラ科キリモドキ属の高木。和名は「紫雲木」。中米原産だが、熱帯や亜熱帯の多くの国で栽培される。南アフリカ共和国プレトリアは春の十月に満開になるジャカランダで有名。
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Posted by 八少女 夕

雑多なあれこれ 2019 その2

さて、あっという間に今年も四分の一が過ぎてしまったという驚愕の事実は置いておき、いくつかのお知らせをまとめて記事にしますね。

空見の日の空

まずは、「scriviamo!」ですが、今年も無事に終了しました。多くのみなさんのご参加くださり、さらには読んでコメントをくださり盛り上げていただき、本当に感謝しています。

今ごろになりましたが、「プランB」でご参加くださった夢月亭清修さんのお返し作品をここでご紹介しますね。(「プランB」は、私が先に書いて、参加者の方がお返事(の作品。または記事など)を書く方式のことです)

 夢月亭清修さんの書いてくださった『scriviamo! 2019 参加作 『探訪の入り口』

私の無茶なサーブに、がっつりと打ち返してくださった、清修さんワールドどっぷりの作品です。どうもありがとうございました。

また、もぐらさんへのお返し作品、「樋水龍神縁起 東国放浪記 世吉と鵺」を、もぐらさんがさっそく朗読してくださいました。

 もぐらさんが朗読してくださった「第464回 樋水龍神縁起 東国放浪記 世吉と鵺」

ついでの報告で恐縮ですが、3月18日に、もぐらさんが主催なさっている「空見の日」に参加しました。「空見の日」は毎年決まった日にみなで空を見上げて、東日本大震災をはじめ災害で犠牲になった方に想いを馳せようというイベントで、私も毎年参加させていただいています。ただし、毎年日本では日付が変わった頃の更新になってしまうのですけれど。とにかくスイス時間の当日中にはPIYOだけでご報告したのですけれど、今日は改めてその写真を貼り付けてみました。

* * *


さて、今後のブログ活動ですけれど、四月から「郷愁の丘」の続編である「霧の彼方から」を連載します。書き終わっていないのに、見切り発車。まあ、なんとかなるでしょう。

その前に、今月末から一週間だけまた休暇です。しばらく音信不通になりますが、すみません。
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Posted by 八少女 夕

【小説】今日は最高

少し早いのですが、「十二ヶ月の歌」の四月分です。

月刊・Stella ステルラ 4、5月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。四月はQueen の”It’s A Beautiful Day”にインスパイアされて書いた作品です。

歌詞は特に書きませんが、下に公式の動画を貼り付けてみました。この曲の詳しい成り立ちは知りませんが、どこか「ボヘミアン・ラプソディ」を彷彿とさせる歌詞だなと思いました。「ボヘミアン・ラプソディ」」では誰かを殺してしまって、逃げていくストーリーのようですけれど、この曲ではそういった具体的な物語は語られていません。でも、「もう誰も僕を止められない」と繰り返し言っているところに、何か自由になりたい強い要望があるのかなと想像しながら書いていました。

私が書いたのは、皮肉を少し混ぜた作品です。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む




今日は最高
Inspired from “It’s A Beautiful Day” by Queen

 茂みをかき分けて、ずんぐりとした緑の生き物が進んでいた。半時ほど前に、彼が常にぐるぐると回っていた場所のはずれ、垣根にわずかな隙間が空いているのを見つけたのだ。彼は頭をぐいぐいと押し込み、二十分ほどかけてようやく外に出ることに成功した。

 島の地形に詳しいわけではない。どこに行くべきなのかを理解しているわけでもない。両翼を羽ばたかせるが、他の鳥たちのように空を飛び島を俯瞰することは出来ない。長い進化の過程で、空の飛び方を忘れてしまった鳥類はいくつかあるが、彼とこの囲いに同居している仲間はその一つに属する。その代わり足が長くなったわけでもなく、泳ぎが上手になったわけでもない。彼は短い足を交互に動かし、とにかく出てきた穴から遠く離れる方へと向かった。

 その鳥が、鬱蒼と茂った森へ溶け込むように姿を消した頃、やはり同じ家から逃げ出した少年が、小さな足漕ぎボートに乗って、島から遠ざかっていた。

 鳥と違って、少年の脱走は計画的だった。大陸に渡って街に行くのだ。街には美味しいものがたくさんあって、綺麗な女の子がそこら辺にたむろしているのだそうだ。この島に居続ける理由は全くない。彼の母親は「ここにいれば安全だから」と口癖のようにいっていたが、その根拠は訊きそびれた。そもそも、彼にとって安全かどうかはさほど重要ではなかった。クレイヴン博士のことを母親はどういうわけか信頼していたようだが、彼はあれは胡散臭い女だと思っていた。

 彼の母親がいなくなったのは二ヶ月前だ。病を治すために大陸へ行った、元氣になるまで我慢しろと言われた。寂しさに折り合いをつけることは出来た。いつまでかはわからないけれど、また帰ってくるのだとぼんやりと思っていたから。それを突然亡くなった、もう二度と会えないのだと言われても、実感がない。また会えるはずだと、心が感じて納得しないのだ。単に、母親はここに帰ってこないだけだ、置いて行かれたのだと感じるだけだ。

 母親がいなければクレイヴン博士しかここにはいない。つまり、これからはあの女のヒステリーにうんざりしながら、愚鈍な緑色の鳥を監視して暮らせって言うのか。まっぴらだ。

 見ていなくても、あの鳥はどうせ飛べないんだから、放っておけばいいんだ。餌は数日分山盛りにしておいた。それにそんなに大事なら、俺に任せっきりにしてどっかに行ったりしなきゃいいんだ。自分の宝物は、自分で面倒を見ろ。

 彼は、囲いの中をぐるぐると回る鳥を思い出した。ずんぐりとして頭が悪そうだ。「落ち着けよ」と話しかけてもまったく意に介することがなかった。同じように自由になりたいのなら、連れて行ってやってもいいかなと思ったけれど、あの女が追ってくるかもしれないのでやめた。俺なんかいなくてもどうってことないだろうけれど、あの鳥がいなくなったら騒ぐんだろうな。

 今日は、最高だ。見ろよ、太陽は燦々と輝き、雲は真っ白だ。この広い海にこぎ出していく、俺は自由だ。誰も俺に勉強しろとか、鳥の糞を片付けろとか、飯の前にチョコレートを食べるなとか、言わない。ずっと前に取材とかいって来た男たちが言っていたみたいに、テレビって箱から流れる面白い絵を見たり、あいつらの持っていたスマートフォンとやらを持ったり、それに、クラブって所に行って朝まで綺麗な女の子たちと踊ったりするんだ。

 少年の乗った足漕ぎボートは島の反対側へ行くために使うもので、エンジンはもちろん計器もついていない。少年は海図も持たなければ、どこへ向かっているのか、そもそもどこを出発したのかもよくわかっていなかった。

* * *


 キンイロトサカハシリカカドゥ研究者であり保護活動の一人者でもあるエイダ・クレイヴン博士は微笑みながら、集まった報道陣や学者たちと握手した。出来ることなら、一分でも早く島に戻りたい。だが、寄付金を集めのためには少しでも好印象を残さなければならない。

「三十年ぶりにオスの個体の保護に成功されたというニュースは、保護活動にとっては大きな一歩だとおっしゃられていましたが、繁殖の見通しについてお話しください」

 エイダは少し深刻な表情を見せた。
「そこはまだなんとも言えません。キンイロトサカハシリカカドゥは毎年同じパートナーと繁殖をする習性があるのですが、今回のオスを保護した時にはメスと一緒にはいなかったのです。パートナーをまだ見つけていなかったのか、それともパートナーが隠れてしまっていたのか、はっきりしていません。願わくば、前者であることを祈っているわけです。現在島の保護センターには四羽のメスがいてどれも求愛可能な状態になっているはずなのですが、オスはまだ求愛行動を始めていないのです」

「島に、他のメスなりオスなりが野生で潜んでいる可能性はいかがですか」
「それもはっきりしたことは言えません。今回保護できたということは、もちろんまだ野生の個体が生き残っている可能性はありますが、例のリゾート計画で持ち込まれた猫を完全駆除するまでに八年もかかったので、その間に他の個体が絶滅してしまった可能性もあるわけです」

「リゾート計画の差し止め裁判の判決後、島はほぼ無人化し、一般人の渡航も禁止されたわけですが、今後、キンイロトサカハシリカカドゥを一般に公開する計画などはありますでしょうか」
「それは今のところありません。観光客を受け入れると意識的もしくは無意識に拘わらず何を持ち込まれるかわかりませんし、わずかな環境の変化はキンイロトサカハシリカカドゥの絶滅を加速させるだけです。もちろん繁殖プロジェクトの成功で個体数が三桁にでもなれば話は別ですけれど」

 そんな日は、私が生きているうちには来ないだろうと、エイダは心の中でつぶやいた。せめて二桁までにはしたい。そのためにはどんなことでもする予定だった。

 大きな誤算は、マロアが病死したことだった。彼女には、現在センターに保護している五羽の直接的な世話を担当してもらっていた。肺炎が疑われたので知り合いの医師のクリニックに移送したが、もちろん精密検査などはさせなかった。万が一にでも、オウム病クラミジアによる肺炎だったなどということになれば、研究も保護活動もおしまいだ。マロアには申し訳ないと思っているが、少なくとも彼女は絶滅に瀕している種ではなく、むしろ増えすぎが危惧されているホモ・サピエンスの一人なのだ。

 もちろんマロアの一人息子が成人するまでは、エイダも親代わりとしてできる限りのことをしてやるつもりだ。かわいげのない子だけれど、そのうちに、この私に頼らなければ生きていくことも難しいことを理解するだろう。

 あの子一人にキンイロトサカハシリカカドゥの世話を任せてきたことが少し不安だった。ちゃんと世話をしているだろうか。マロアにだったら、何日も任せて安心していられたのに。

 マロアに代わる誰かを見つけるのがどれほど困難かはエイダもよくわかっている。キンイロトサカハシリカカドゥの世話は単調で、しかも外界から切り離されている。

 もっとも、キンイロトサカハシリカカドゥの存在の重要性を完全に理解しているような者をあの島に連れて行くのも危険だ。もし、研究データなどを持ち出されでもしたらエイダの死活問題になる。

 何も知ろうとせずに、ただ忠実に、世話を任せられるような存在をすぐに見つけなくてはならないのは、頭の痛い問題だ。ましてやマロアの死因に疑いが持たれれば、なり手はいないだろう。

 とにかく、今は、そんなことを考えるのはやめよう。プレゼンテーションが大成功だったことを喜ばなくては。今日は私にとって最高の一日になるはずなんだから。

 エイダは、キンイロトサカハシリカカドゥと自分の輝かしい未来を脳内に描きつつ、報道陣に向かって心にもない微笑みを見せた。


(初出:2019年4月 書き下ろし) 

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Queen - It's A Beautiful Day (Official Lyric Video)

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Tag : 小説 読み切り小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

パブが美味しかった話

さて、たった四日間の英国旅行、続きです。

ロンドンのパブにて

これまで出来なかったことが、ある日突然出来るようになることって、ありませんか? 

たとえば、日本で最初にバーのカウンターで普通に注文できるようになったのは30歳になってからでした。金沢旅行中にホテルのバーで和服のママに接客してもらったんですが、あれが出来れば他のバーなんて楽勝だろうと、それから一人でバーに入って注文も出来るようになりました。よく考えたら、仕事でそれより前に銀座のバーにも行っていてそこでウーロン茶を飲んだりはしていたから、ビビる必要なんかなかったんですけれど。

ヨーロッパでも、スイスやイタリアのバーに入って、ワインを一杯頼み、つまみを食べるくらいのことは移住してわりとすぐに全然問題なく出来るようになっていましたが、なぜかイギリスのパブには怖くて入れなかったのですよね。

で、前回、頑張って入ってみたんですが、誰も注文を取ってくれないし、一人で場違いみたいだし、尻尾を巻いて退散した苦い思い出がありました。

でも、今回は、取材です。パブのシーンがあるんです。中の描写をするためにもやはり入りたいなあと思っていました。で、そう思って入ると、そんなに怖くないんですよ。変だな。

そして、ようやく理解しました。パブって、カウンターで注文しないといけないシステムなんですね。そりゃ席で待っていても注文取りに来ないわ……。

それに、イギリスのパブってビール以外を頼むと怒られそうなイメージがありましたが、もちろんそんなことはなく、ワインを普通に頼めました。あ、私、ビールが苦手なんですよ。

ロンドンのパブにて

さて、驚いたのは、パブの料理が美味しかったことです。イギリスでは美味しいものは食べられないと覚悟していった、なめきった観光客の私ですが、どうしてどうして、入った二つのパブ、料理が美味しいと評判の所ではあったのですが、本当に美味しかったです。

写真はどちらもロンドンのヴィクトリア駅の近くにある「The St George's Tavern」です。このトマトのパイ、本当に美味しかったんです。お腹すいていなかったので、前菜にあるこれだけ食べたんですけれど、もちろん嫌な顔もされず、感じのいいパブでしたよ。
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Posted by 八少女 夕

【小説】郵便配達花嫁の子守歌

「十二ヶ月の歌」の三月分です。

月刊・Stella ステルラ 2、3月号参加 オムニバス小説 stella white12
「月刊Stella」は小説、イラスト、詩等で参加するWEB月刊誌です。上のタグをクリックすると最新号に飛びます。


「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。三月はロシア歌手ポリーナ・ガガリーナの“Колыбельная (Lullaby)”にインスパイアされて書いた作品です。

実は、この作品の元になるアイデアは、かなり前「マンハッタンの日本人」シリーズを書いていた頃に浮かんだのです。当時は、ブログのお友だちTOM−Fさんから、某ジャーナリスト様をお借りして好き勝手書いていたのですけれど、その延長で小説には関係ないけれどそのお方がどんな風にアメリカに来たのかなあなんて妄想もしていました。で、イメージは彼なのですけれど、さすがにTOM−Fさんも大困惑でしょうから、この作品では誰とは言わずに、似たような境遇の誰かとだけで書いてみました。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む




郵便配達花嫁の子守歌
Inspired from “Lullaby” by Polina Gagarina

 舳先に行くには、少しだけ勇氣が要った。重く垂れ込めた雲を抉るように、荒い波が執拗にその剣先で襲いかかっている。雨が降りそうで、いつまでも降らない午後。ヴェラはストールが風に飛ばされないように、ぎゅっと掴まねばならなかった。

 こんな悪天候に船外に出ようとする物好きはほとんどいなくて、たった一人、まだ少年と言ってもいいような若い男だけがカーキ色のコートの襟に首を埋め、ドアの側の壁にもたれかかっているだけだった。

 波の飛沫が、彼のしている安っぽい眼鏡にかかっていた。海の彼方を睨むように見つめている姿は、希望に満ちているとは言いがたい。でも、それは、自分が感じていることの投影でしかないのかもしれない。ヴェラはこの船に乗ったことが賢い判断だったのか、確信が持てなかった。この暗く荒れた海が、彼女の未来を予言していなければいい、そんな風に思っていた。

「あまり先には行かない方がいい。波にさらわれて落ちた人もいるそうだ」
その男はヴェラを見て英語で言った。

「この船で?」
「いや、この航海の話ではないよ。乗る前に聞いた」
「そう」

 この人は、どこの国から来たのだろう。少なくともヴェラと同じウクライナの出身ではなさそうだ。顔から判断すると、どこかバルカン半島の出身かもしれない。

 誰もがこの船に乗って、ここではない所へ向かおうとしているように感じてしまう。ある者は戦火から、ある者は貧困から、そしてある者は閉塞した社会やイデオロギーから、どこかにある光に満ちた国へと向かおうとしているのだ。

「あなたも、トリエステまでよね。イタリア旅行?」
ヴェラが訊くと、彼は「まさか」という顔をした。ヴェラも自身も、そう思っていたわけではない。彼は「服装なんかに構っている余裕はない」と誰でもわかる出で立ちだった。すり切れ色のあせたシャツ、くたびれたカーキ色のパンツ、底が抜けていないだけでもありがたいとでも言いたげな靴。

国連難民高等弁務官事務所UNHCR が、旅をお膳立てしてくれたんだ」

 ということはやはり……。
「あの紛争の? 逃げてきたの?」
「ああ」
「じゃあ、ご家族も、この船に?」

 彼は、首を振った。
「国境まで生きていられたのは、僕だけだった」

 ヴェラは、お悔やみの言葉を述べたが、彼は「いいよ」というように手を振った。
「これからは、イタリアに住むの?」
ヴェラが訊くと、彼は微かに笑った。
「いや、ローマから飛行機でUSへ行くよ。難民として受け入れてもらったんだ。君は?」

「偶然ね。私もアメリカへ行くの。もしかしたら、飛行機まで一緒かもしれないわね」
「君も難民?」
「違うわ。私『郵便配達の花嫁』なの」

 彼は首を傾げた。
「それは何?」
「国際結婚専用のお見合いシステムがあってね。テキサスの人と知り合ったの。それで、彼と結婚することを決めたの」

* * *


 ヴェラは、今日五本目の煙草に火をつけた。

 目の前のラム酒の空き瓶をうつろに眺める。新しい瓶を買いに行くと、月末まで食べるのに困る事実を思い出し顔をゆがめた。飲むことか、煙草か、もしくはその両方をやめれば、新しい靴下を買えるのにと、ぼんやりと考えた。

 そろそろ出かけなければ。教会の炊き出しに並べば、三日ぶりに温かい食事にありつける。彼女は、すり切れたコートを引っかけると、アパートメントから出た。

 隣の部屋からは、テレビの音が漏れている。ニュースを読む男のよく通る声が、地球温暖化の脅威について訴えかけている。正義と自信に満ちた温かい声。ヴェラは、煙草の火や煙も地球を蝕む害悪なのだろうかとぼんやりと考える。それとも、車も持たず、電氣も止められている貧しい暮らしは、表彰されるべき善行なのだろうか。どちらでもいい、こちらには世界の心配をする余裕などないのだ。

 空は暗く、今にも雨が降りそうなのに、いつまでも降らない。こんな天候の日はあの船旅のことを思い出してしまう。

 船の上で、下手な英語でお互いのことを話した。ヴェラは幸せな花嫁になることを、彼は自由で幸せな前途が待っていると願いながら、それまでのつらかった人生と、それでもあった、幸せな思い出を語り合った。ヴェラが民謡を歌うと、彼は今はなくなってしまった国に伝わるお伽噺を語ってくれた。

 船旅と、ローマまでの二等車での旅の間に、ヴェラにとってその若い男は、全く別の存在になっていた。はじめの安っぽい服装の何でもない男という印象から、優秀な頭脳と温かい心、それに悲劇や苦境に負けないユーモアすら失わずにいる、理想的な青年に代わっていた。

 しかし、彼とはローマで別れて以来、どこにいるかも知らない。同じ飛行機ではなかったし、こんなに何年も経ってから「今ごろどうしているだろうか」と考えるような相手になるとは、夢にも思っていなかった。

 テキサスに着いて、迎えに来た未来の夫には二十分で失望した。彼は、ヴェラを妻ではなく奴隷のように扱った。「高い費用がかかったんだから」それが夫の口癖で、昼は農場の仕事に追い立て、夜も疲れていようが意に介せず奉仕を要求した。

 ヴェラが自由になるまでには、八年もの間、夫の暴力と支配に耐えなくてはならなかった。隣人たちは、みな夫の味方だったし、一人での外出を許されなかったヴェラは、助けを求めることも出来なかったのだ。たまたま、夫がバーボンの飲み過ぎで前後不覚になった時に、彼女は家を逃げ出した。二百キロメートル離れた街で無銭飲食をして捕まり、ソーシャルワーカーの助けで保護されて離婚することが出来た。

 けれど、その後に幸せな人生が待っているわけではなかった。ずっと夫に閉じ込められたままだったので、英語も下手なままだったし、自立して生きるための手に職を身につけているわけでもなかった。彼女は、そのままどこにでもいる貧民の一人として、祖国にいた時と同じか、それ以下の立場に甘んじることになった。

 あの船に乗り、国を出た時に持っていたものの多くを彼女は失ってしまった。若さと、美貌と、祖国の家族や友人たち。戻る氣力も経済力もない。希望と、笑いもあの海に置いてきてしまったのだろうか。静かに、ゆっくりと無慈悲に諦めと老いに蝕まれていく彼女は、襤褸布のようなコートを纏い、地を這いながら生き続ける。

 船で出会った青年と、いつかどこかで再会できることを、どこかで願い続けている。彼が成功していて、自分をすくい上げてくれることを夢見ることもあれば、同じように地を這っている彼と再会し、傷をなめ合うことを期待することもある。

 それは、暗い情熱、生涯に一度もしたことのない恋に似た感情だった。重く垂れ込めた雲間から注がれた天使の梯子のわずかな光。荒い波のように繰り返す不運に高ぶる神経を尖らせたヴェラを、落ち着かせ優しく眠らせてくれる、たった一つの子守唄ララバイ だった。


 (初出:2019年3月 書き下ろし) 

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この曲は、もともとポリーナ・ガガリーナという歌手の曲なのですが、才能発掘番組でこの曲を歌って一躍有名になったアイーダ・ニコライチェクのバージョンが日本では有名なので、こちらの動画を貼り付けてあります。また、歌詞は原語では全くわからないので、いくつかの英訳版を比較して掴んだ意訳を下に書いておきますね。


Aida Nikolaychuk - Lullaby [HD English-Lyrics Remaster]

(歌詞の意訳)
私の心の中を覗いてみて
そして冬に「立ち去れ」と言って
風は吹くけれど、あなたが私を暖めていてくれる
まるで私に早春を運んできてくれるように

空の雲に頼んで
私たちに白い夢を運んでくれるように
夜は浮遊して、私たちはそれを追うのよ
神秘的な光の世界へと

私の中にある憂鬱を霧散させて欲しいの
それは私の魂を怯えさせているの

空の雲に頼んで……

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Tag : 小説 読み切り小説 月刊・Stella

Posted by 八少女 夕

【小説】ジャカランダの並木道

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十五弾、最後の作品です。けいさんは、英語の詩で参加してくださいました。ありがとうございます!

けいさんの書いてくださった『Solitaly walk 』

けいさんは、スイスから見て地球の反対側のオーストラリアにお住まいのブロガーさんです。同じ海外在住者として、勝手に親しみを持っている私です。私と同じように小説もお書きになるのですが、ここしばらくはお仕事に集中なさるそうです。そういう時期も大切です。でも、詩作の方はお続けになるとのこと、今回の作品もそのお一つですね。

さて、今回の書いてくださった作品の情景は、おそらくオーストラリアのものだと思うのですが、私の頭の中にはやはりアフリカで見た景色が広がったので、また「郷愁の丘」関係の外伝を書かせていただきました。けいさんの詩からインスパイアされたエピソードです。「郷愁の丘」の一番盛り上がっているラストシーンの辺りの時期の話ですが、主人公たちとはほとんど関係ありません。登場する女性は初登場です。この人のことも、ずっと書きたかったんですよね。



【参考】
郷愁の丘「郷愁の丘」を読む

「ニューヨークの異邦人たち」
「ニューヨークの異邦人たち」


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ジャカランダの並木道
——Special thanks to Kei-san


 その並木道は、妖精の国に迷い込んだのかと錯覚させるほど美しかった。藤色の鈴なりになった花が雲のように咲き乱れ、落ちた花びらは薄紫の絨毯となった。ほのかにアンバーのような、それとも蜂蜜のような香りが漂い、むせかえる。十月の風物詩、ジャカランダの開花だ。

 リンファは、日本には行ったことがないが、噂に聞く満開の桜に列島が湧く春というのはこんな感じなのではないかと考えた。

 乾期は終わったのだ。季節は動いていく。

 標高1500メートル、赤道直下のナイロビに暮らして十二年になるリンファは、また一年経ったのだなと思った。リンファがこのケニアの地に降り立ったのもやはり十月だった。

 角を曲がり、コロニアル風の建物がなくなって、高層ビルのある地区に入った。リンファは、背筋を伸ばして歩いて行く。東洋人の自分は、この街にはどうしてもそぐわないように感じてしまうから。リチャードのように、どこにいようと常に自分の街にいるという確信を持てたらどんなにいいだろう。

 リンファはナイロビにあるエージェントのスタッフとして働いている。世界各国からやってくる観光客のための個人旅行の手配もするし、ビジネスにおける行政との橋渡しなどもする。要は何でも屋だ。異様に顔の広いボスと、秘書兼会計兼スタッフのリンファの二人だけの小さな事務所だ。

 オフィスは三階にある。リフトはないので歩く。ここまで汗をかかずにやってきたとしても、必ずこの階段で汗をかいてしまうのが難だった。

「ただいま」
粗く息をつきながら言うと、受話器を置いたばかりのリチャードが明るく「お帰り」と言った。
「それで、君の同胞たちは、喜んで帰ったのかい?」

 リンファは、雇い主であり私生活においては恋人でもある、デリカシーのない赤毛の男を軽く睨んだ。リンファが空港まで送っていった相手は、彼女の同国人ではなかったのだ。
「同胞って、アジアってだけじゃない。あなたをドイツ人と一緒にするようなものだわ」

 リチャード・アシュレイは、「それがどうした」というように肩をすくめただけだった。彼には、少なくともオランダ人と、アメリカ人の血が四分の一ずつは混じっている。残りはイギリス系のケニア人と、ジンバブエからの移民の他に、もしかしたら本当にドイツ人の血も混じっているのかも知れない。彼は、自分のルーツに細かくこだわったりはしないのだ。

「とにかく、そこそこ満足して搭乗ゲートに向かってくれたわ。これからタンザニアにも行くらしいけれど、あっちでメチャクチャな目に遭えば、私たちへの感謝も少しは増加するかもしれないわね」
リンファは、冷蔵庫から冷やしておいた紅茶のポットを取り出すと、グラスに注いで一氣に飲んだ。

 それから、思い出したように言った。
「そういえば、空港で意外な人を見かけたわよ」
「誰?」
「ほら、例のアメリカの女流写真家。あなたとアウレリオが、わりと最近、あれこれ噂していたでしょ」

 リチャードは、関心を示してリンファの方に向き直った。
「ミズ・ジョルジア・カペッリかい? 空港で?」
「ええ。ついたばかりみたいだったわ。なんだか急いで鉄道駅に向かっていたわよ」

「そうか。今回は来るって知らせてくれなかったな。どうしてだろう。また撮影かな。とにかく、ヘンリーのやつに知らせてやろう。知っているか、あいつ、もう何年も彼女を追い回しているクセに、晩熟でいっこうに先に進めないんだぜ」

 リンファはリチャードの面白くてしかたないという顔を見て憤慨した。
「忘れたの? 今は、彼のお父様スコット博士がかなり危険な状態だってこと。ドクター・スコット・ジュニアを今からかうなんて最低だわ」

 誰もが、リチャードやその親友のアウレリオのように、器用に立ち回れるわけではない。前回、そのアメリカ人写真家がこの事務所を訪問した時、普段なら可能な限りナイロビに来たがらないヘンリー・スコットは電話でも済む用事なのにわざわざやってきた。リチャードがミズ・カペッリに馴れ馴れしく話しかけている間、辛抱強く話しかける機会を待っていたコミュニケーション下手な男を、リンファは部屋の隅から密かに応援していた。なんとか彼が再会の約束を取り付けたのを耳にした時には心の中でガッツポーズをしたのだが、それから一年半経っている。あまりの不器用さにリンファもため息がでるが、それでもリチャードに面白おかしく笑いの対象にされるのは氣の毒だ。

 リチャードは、彼女の剣幕に肩をすくめて言った。
「からかっているわけじゃないさ。ただの親切心だよ。でも、まあ、そうだな。後でアウレリオに電話して、義父殿の容態を訊いてからにするか」

 それから十日後に、リチャードは事務所の留守番をリンファに任せ、ツァボへと出かけていった。噂のスコット博士が亡くなり、葬儀に参列することになったためだ。アウレリオ・ブラスの義父というだけでなく、動物学の権威であるスコット博士とは、公私ともに様々な関わりがあったのだ。
 
 リンファはその二日間は一人で業務をこなした。珍しくトラブルが少なかったため、なんとか一人でもこなせたのは、天が自分に味方したのかもしれないと思った。もちろん、午前中の停電と、十一時からの水道のストップには辟易したが、少なくともクライアントが苦情の電話をしても通じなかったのだからラッキーの内に入るだろう。

 ようやくPCに電源を入れられる状態になったので、急いでいくつかの用事をこなした。一番大切だったのは今日中に発送しなくてはならない宛名ラベルの印刷だった。リンファの祖国あての小包に貼るためのラベルだ。かの国の郵便配達夫にはアルファベットを読めない者も多いので送り状には漢字のラベルをつけて欲しいと依頼されているのだ。

 次の停電が起こる前に、なんとしてでも印刷を終えてしまわないと。リンファは調子のあまりよくないプリンターをなだめながら、作業を続けた。なんとか予定していた枚数を印刷できそうだと胸をなで下ろした。

 国を離れて、遠い異国でこうして数々のトラブルと闘いながら日々を過ごす意味を考えることがある。何をしているのだろうと。両親は、もうリンファのことは諦めたという態度を見せた。他の娘たちのように結婚して孫の顔を見せてくれるわけでもなく、異国の成功者として故郷に錦を飾ってくれるわけでもない。リンファ自身、自分の中途半端さに、腹立つこともある。

 リチャードとの関係も同じように中途半端だ。共同経営者というほどに中心的な役割を果たしているとは思っていないが、それでも、こうして二日間でもなんとか彼の代理を務めることの出来る存在までになっている。でも、それを思うのは自分一人なのではないか。プライヴェートにおける関係も、八年以上も恋人という立場でいるにも関わらず、それ以上に進む氣配はない。

 それでも、リンファは昨日と変わらぬ日常を歩き続ける。他の道があるわけではない。

 階段を上ってくるよく知るリズムの足音に続き、鍵を回す音がして、リチャードが入ってきた。彼は、どさっと荷物をソファーに投げていつものように明るく「ただいま」と言った。

「お帰りなさい。ちょっと待って。このラベルの印刷、そろそろ終わるから」
プリンターの横に立ってそうリンファが告げると、リチャードは「いいよ」と手振りで示してソファーに座り寛いだ。

「携帯に電話が入って、そのラベルのことを訊かれたよ。グッドタイミングだったな」
「停電さえなければ、もうとっくに出来ていたのに」
「あっちのパッキング作業も停電で遅れているから問題ないだろ」

「バカみたいよね。なぜ水牛の角なんか輸入するのかしら。向こうにいくらだっているのに」
そうリンファが憤慨するとリチャードは笑った。
「ケニアから届いたってことが重要なんだよ。水牛の角ってことになっているけれど、本当はそうじゃないって信じてもらうためにね」

「え? 水牛の角じゃないって、まさか犀角や象牙じゃないでしょうね。見つかったらこっちも逮捕されるわよ」
「されっこないよ。本当に水牛の角だから。箱に書いてある通りさ。それをこの商品表示はカモフラージュのためですと、嘘ついて売るつもりなんだろう。どうするつもりかなんて、こっちは関係ないから、売ってくれと言われたら素直に手配するけれどね」

「そう」
リンファは、少し嫌な氣持になったが、いちいち角を立てたくなかった。リチャードは、まったく意に介さずに朗らかに言った。
「悪いけれど、終わったらそれ発送してきてくれるかい?」

「わかったわ。ところで、お葬式はどうだった? ムーア博士やマディたち、大丈夫だった?」
話題を変えたくて、リンファは訊いた。
「マディはけっこう泣いていたけれど、レイチェルは氣丈にしていたな。まあ、表向きには、ヘンリーが全部仕切っていたしね」

 レイチェル・ムーア博士は、表向きは亡きスコット博士の親しい友人ということになっていたが、実際には内縁の妻と言ってもいい間柄で、マディがスコット博士の愛娘であることは親しい者には周知の事実だった。ジェームス・スコット博士は最初の結婚に失敗してから二度と家庭を持とうとしなかったが、息子のヘンリー・スコット博士との距離のある付き合いは、部外者のリンファにも異常に思えるほどだった。おそらく葬儀に行ってはじめて彼に息子がいることを知った人も多いだろう。

「ドクター・スコット・ジュニアも、お氣の毒ね。こういう時だけ息子として矢面に立たされて。この間、意地悪くからかったりしなくてよかったわね」
リンファがそう言うと、リチャードは意味ありげに笑って首を振った。
「ふん。からかうまでもなかったよ。件のジョルジア・カペッリはヘンリーと一緒にいたんだ」

 郵便局へ行こうと、戸口に向かっていたリンファは、思わず足を止めた。
「え?」
「驚くだろ? こっちも仰天したのなんのって。アウレリオからあの二人は婚約したって聞いて、腰を抜かすかと思ったよ。まったくいつの間に」

 リンファは、階段を降りて表に出た。わずかに乱れた想いを封印するかのように、足早に通りを歩いた。

 何に動揺しているのか、自分でもよくわからなかった。よかったじゃない。ドクター・スコット・ジュニアがようやく幸せをつかんだんだもの。

 今日は、風が強い。後れ毛が舞っている。

 風に心揺らされても、やはり独り歩いて行くほかはない。ドクター・スコット・ジュニアが、彼の道を一歩一歩進めて、彼の幸福な停留所にたどり着いたように。リチャードが、リンファだけでなく氣の遠くなるほど多くの人びとと関わり合い、必要ないほど多くの言葉を用いながら、彼の人生を進めているように。

 この道を、異国の、決して楽ではない道を歩いて行く先に、何が待っているのかは、誰にもわからない。でも、歩いて行かなければ、どこにもたどり着けないのだ。

 強い日差しが、肌を突き刺すようだ。リンファは、額に手をやり、空を見上げた。ジャカランダの並木道は、鮮やかな新緑が育ちだしている。間もなくこの道を歩く時は直射日光のきつさを感じずに済むようになるだろう。

 花の時期は終わり、育った羽毛のような葉が季節が変わったことを宣言するように覆っていた。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

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ジャカランダ

ジャカランダJacaranda mimosifoliaはノウゼンカズラ科キリモドキ属の高木。和名は「紫雲木」。中米原産だが、熱帯や亜熱帯の多くの国で栽培される。南アフリカ共和国プレトリアは春の十月に満開になるジャカランダで有名。
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Posted by 八少女 夕

オックスフォードへ行きました

先日の四日間だけのイギリス旅行の続きです。

ベリオール・カレッジのホール

今回の旅行は、有休の消化のためだったのですが、以前からどうしても氣になっていたことをやるのは今しかないと思い立ったからでもあります。

「郷愁の丘」を書いていたとき、私はけっこう適当な設定をしていました。主にグレッグの背景についてです。生まれた所はけっこう真面目に考えていたのですけれど、十歳でイギリスに越してからの設定をかなりその場の思いつきで決めていたのですね。で、その後にどんどんグレッグにスポットライトが当たるにつれて、破綻まではしていないのですけれど、細かい書き込みに困るようになってきたのです。

この春から「郷愁の丘」の続編をアップする予定でいるのですが、その期日が近くなるにつれてどんどん不安になってきたんです。「これ、そうとう嘘っぱちを書いているのでは」と。

それで、とにかく一度現地に行ってみようと思ったのです。

たったの三泊で、中の二日にロンドンを離れていたのはそういう理由です。ロンドンの一泊目が明けて、最初に向かったのはパディントン駅、そして、あらかじめ予約してあった電車に乗って、オックスフォードへ行ってきました。

現地のシステムを知らないと非常にわかりにくいことですが、いわゆる「東京大学」とか「慶應義塾大学」というような一つの大学で「オックスフォード大学」というものがあるのではなくて、オックスフォードにある38のカレッジを総称して「オックスフォード大学」というのです。その辺は、もちろん行くまでに知っていたのですけれど、それぞれのカレッジがどんな風に違うのか、どのくらい離れているのか、学生はどんな生活をしているのか、など、どうもネットでは把握しにくいことが多かったのですね。

今回は、まずウォーキング・ツアーで現役の大学院生によるオックスフォードの街案内をしてもらい、有名な建物などに入りました。それから、伝統的なパブでお昼ご飯を食べ、その後にグレッグが学んだという設定のベリオール・カレッジを一人で見て回りました。

「ハリー・ポッター」が大ヒットしたため、映画で使われた建物などは、ファンが大挙して押し寄せていましたが、幸いベリオール・カレッジは、そうでなかったためか、かなり静かに見て回ることが出来て、「この図書室で勉強していたな」とか「ここでお茶していたのか」など、本文とは関係ないところにも感激していました。

実際に書き直すシーンはさほど多くないのですけれど、やはり行ってみてよかったなと思いました。もちろん実際にいっても、入学したわけではないのでとんでもないことを書く可能性は大きいんですが、それでも台詞一つにしても具体性が変わってくるなと改めて思いました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】咲耶

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十四弾です。かじぺたさんは、写真を使った記事で参加してくださいました。ありがとうございます!

かじぺたさんの書いてくださった記事 『今年はこれで「scriviamo!2019」に参加させて頂きます~(^0^;)\』

かじぺたさんは、旅のこと、日々のご飯のこと、ご家族のことなどを、楽しいエピソードを綴るブロガーさんです。好奇心のおう盛で、何事にも全力投球で望まれる方です。創作でご参加くださったこともありますが、ここ二年は記事でのご参加です。

さて、今年は、2019年2月2日に藤枝市の辺りから静岡と神奈川の県境、箱根越えまでの車窓から撮った富士山の写真でご参加くださいました。これが、あちらのブログで見ていただくとわかると思うんですけれど、かなりの難問なのですよ。本当にどうしようかと思いました。

一応お伺いして、全部を使うべきかどうか確認しました。全部でなくてもいいということだったので、中から五枚だけ選ばせていただきました。順番は、一応、かじぺたさんの貼ったのと同じにして、写真の意味も、もともとのかじぺたさんの記事にできるだけ合わせるようにしました。場所は、これで合っているのかな。違っても、もうしかたないや。かじぺたさん、こんなのですみません。


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咲耶
——Special thanks to Kajipeta san


 行徳はゆっくりとハンドルを切った。目の前に富士山が見えた。法音寺で国道一号線に入り、箱根へ向けて走り出してから一時間以上が経っていた。藤枝市で大きな渋滞に捕まったのだ。

富士山 by かじぺたさん
この記事の全ての富士山の写真の著作権はかじぺたさんにあります。無断利用は固くお断りします。

「今日の富士はすごいな。雲一つない晴天だし」
助手席をちらっと見て話しかけると、咲耶は「そうね」と頷いた。

 勝手が違う。行徳は思った。彼女はスマホをとりだして写真を撮ることもなければ、感動して大きな反応を見せることもない。初めてのドライブデートに、箱根までの長距離を選んだのはまずったかなと、心の中でつぶやいた。

 そもそも、今日の待ち合わせ場所にも面食らった。
「桜が池にしない?」
そう言われたとき、それがどこにあるかも知らなかった。御前崎市には何度も行っていたのに。

「桜の名所よ。池宮神社の境内にいるから」
咲耶は言ったが、二月の初めに当然ながら桜は咲いていなかった。おかげですぐに彼女のことが分かったが、彼女の意図が分からない。

 咲耶と逢うのは今日が初めてだった。ネットで知り合った女の子と、ドライブデートにまでこぎ着けたのはいいが、行徳は少し警戒してぬか喜びしないようにしてやってきた。ネカマ、つまり実は男だったとか、そうでなくてもあまり好みじゃない見かけだったりとか、いろいろなケースが考えられた。名前が可愛くても、写真でも見ない限り本人の容姿はわからない。自分も芸能人のような容姿ではないので、文句は言えないけれど。

 だが、桜が池で行徳を待っていたのは、いい意味での驚きだった。予想していたよりずっと綺麗な人だったからだ。服装は古風だなと思ったが、ギャル風で来られるよりは安心できる。そして、驚いたことに咲耶というのは本名だったのだ。

「小角くんも、本名だったのね。驚いたわ」
咲耶は言った。行徳はハンドルネームに役小角を使っていたのだが、それは彼の苗字が小角だったからだ。

「もしかして、僕と逢うことにしてくれた決定打は、ハンドルネーム?」
そう訊くと、咲耶は「そうよ」と言った。

 意外と住んでいるエリアが近いことを知ったので、どこかで逢わないかと提案したのは行徳だが、箱根まで行きたいと伝えてきたのは咲耶だった。高速代がかかるけれど、この距離ならしかたないよなと思っていたら、彼女は首を振った。
「一般道で行ってほしいの」
「どうして?」
「富士山をゆっくりと見たいから」

 そう言ったのは彼女なのに、実際に現れた富士山を目にしても、喜んでいる素振りがない。

富士山 by かじぺたさん


 富士川にさしかかる頃には、視界が開けて、見事な裾野も見えた。

「今年は雪が少ないんだな。夏とあまり変わらない様な姿だと思わないか」
行徳が訊くと、咲耶は黙って頷いた。運転の合間に、助手席の咲耶の様子を横目で見た。ずいぶん真剣に山を見ているな。

「富士山が好きなのかい? それとも……」
彼は、思い切って訊いてみた。

 咲耶は、はっとしてから、運転席の行徳の方を久しぶりに見た。
「好きか嫌いかって訊かれたら、もちろん好きよ。大抵の日本人はそうじゃないかしら」
「でも、ほら、わーっと騒いだりとか、写真撮ったりとか、そういう感じじゃないからさ」

 咲耶は、クスッと笑った。
「そういうベタな反応を期待されていたのね。した方がいい?」
「いや、わざわざしなくていいけどさ」

 彼女は、行徳の方に向き直って言った。
「小角くんは富士山のどういう所に魅力を感じる?」

「あ、僕? 形もいいし、日本のシンボルだし、あと、ユネスコ世界遺産だし。僕はインドア派だから登りたいとは思わないけれど」

 すると、咲耶は小さくため息をついた。
「ハンドルネームに相応しい関心を少しは持っていると思っていたのに」

 天平時代の修験者として有名な役小角は、伝説によると、流刑先の伊豆大島から毎晩海上を歩いていき、富士山に登って修行をしたという。後に恩赦を受ける頃には五色の雲にのって自由自在に空を飛ぶまでになっていたとか。そのくらいは、行徳も知っている。

「あ、富士山で修行して空飛んだとかいうヤツね。でも、それって史実じゃないだろう?」
「史実かどうかで物事を判断するのは危険よ。歴史なんて、その時の為政者に都合のいいことしか書いていないもの」
「じゃあ、君は、本当に役行者が空飛んで富士山に行ったと信じているわけ?」

 咲耶は首を振った。
「そうじゃなくて、伝説にはそれなりの意味があるっていいたいの。役行者と富士山とは縁が深いの。もう少し正確に言うと瀬織津比売せおりつひめ 信仰と縁が深いのよ」
「せおりつひめ? 誰それ?」

富士山 by かじぺたさん

 先ほどから見えている大きな富士はゆっくりとその位置を変えつつあった。正確に言えば、車が富士を回り込んでいるからなのだが、はじめは見えていなかった山腹の宝永火口が右側からゆっくりとこちらへと向いてくる。江戸時代中期の大噴火で誕生した側火山である。

「瀬織津比売は、古代日本では信仰の中心ですらあった姫神よ。龍神であり、水の神様なの。さっき待ち合わせた池宮神社も、瀬織津比売が出現したことを縁起とする神社なの。富士山は平安時代まではもっと活発に噴火していたので、人びとは怖れて水の神様に守護を願ったのでしょうね」

「一度も聞いたことないけれど……」
「そうかもね。大和朝廷に意図的に封印されてしまった神様だから」

「え? そうなんだ」

 咲耶は、驚く行徳に笑いかけた。
「意図的に封印したのは持統天皇だと言われているわ。天照大神という女性神を最高神として、女帝である自分から孫である文武天皇への譲位に権威付けをしたって。瀬織津比売は饒速日命にぎはやひのみこと の妃なのだけれど、このニギハヤヒは天照国照彦火明櫛甕玉饒速日命という別名があって、彼こそがもともとの太陽神アマテル、つまり最高神だったのを、持統天皇が女性神に変えたとも言われているの」

「つまり、最高神が性転換しちゃったから、奥さんは邪魔になったってこと?」
行徳の言葉に、咲耶は「なにそれ」と言いたげな笑みを漏らした。

「当時の人々の瀬織津比売への信仰は、ものすごく強かったのだけれど、支配者にとっては邪魔だったのでしょうね。瀬織津比売やニギハヤヒは国つ神、もともとから信仰されていた土着の神。この二柱への信仰は、天つ神の正当性、つまり天孫降臨を支配の拠り所とする大和朝廷には、迷惑だったんじゃないかしら。大和朝廷は中央集権を進めている最中で敵対勢力の神様を禁止することでその影響力をそごうとしたみたい。役行者は瀬織津比売信仰を明言していたから、その意味でも持統天皇と対峙していたのね」

「そして、両方とも負けてしまったと?」
「どうかしら。表向きには、瀬織津比売は神道の表舞台からは姿を消しているように見えるけれど、実際には現代まで生き延びているのよ。例えば神道でもっとも大切な祝詞である大祓詞おおはらえのことばに祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神として名前が出てくるし、天照大神の荒御魂であるともされている。完全に抹消することが出来ない程に大きな存在の女神だったのよ。それに、いろいろなものに姿を変えて未だに私たちのとても近くで信仰の対象となっているのよ」

「それは?」

「弁財天。七夕の織姫。宇治の橋姫。白山菊理媛。熊野権現。桜。滝。龍神。お不動様。イチキシマヒメ。そしてコノハナサクヤヒメ」

「! だから君は、そんなに瀬織津比売に詳しいのか」

 咲耶はにこっと笑った。
「そして、あなたも役小角を名乗るなら、もう少し関心を持つべきってことよ」

富士山 by かじぺたさん


 瀬織津比売の話に夢中になっていたが、国道一号線は三島を過ぎてから山道となり、山中城跡を通り、箱根を目指して登っていった。いつの間にか富士はすっかりその姿を変えていいた。

「こっちは、ずいぶんと雪があるんだな」
「そうね。静岡の方はほとんど雪がなかったのに」
「宝永火口も雪で真っ白だ」

「静かな富士山しか見たことがないから忘れているけれど、あの宝永火口を見ると、富士山はかつて活火山だったんだって思うのよね」
「あれって、いつの爆発の火口だっけ?」

「1707年よ。それよりもずっと前の平安時代には何度も大きな噴火があったみたいだし、『竹取物語』では、富士山からいつも噴煙が上がっているのは不死の薬を焼いたからだってラストで締めくくっているわよね」
「そういえば、そんな話だったよな。当時はその富士山の姿が普通だったんだな」

 富士山の周りには、神社がたくさんある。
「雄大で素晴らしいから、それだけでも信仰の対象となっただろうけれど、火を噴いて恐ろしい存在だったら、尚更、神のご加護を祈ったんだろうな」

「富士山信仰の中心の浅間神社だけれど、誰を祀っているか知っている?」
咲耶はいたずらっ子のように笑う。

「誰?」
「富士山その者を神格化した浅間大神と、コノハナサクヤヒメよ」

「え? なんでコノハナサクヤヒメ?」
「火の中で出産したからって言う人もいるけれど、私は違うと思っているわ。もともと、火を怖れた人たちが水の女神、龍神に祈りを捧げたのよ。つまり瀬織津比売ね。でも、瀬織津比売信仰は禁じられてしまったので、その姿を変えたコノハナサクヤヒメを祀ることになったのだと思うわ。役小角は瀬織津比売を信奉していたので、それで富士山詣りをしていたのかもしれないわよ」

富士山 by かじぺたさん

 行徳は、車を芦ノ湖スカイラインへと走らせた。三国峠の展望台では、遮るものもなく堂々とした富士の姿を拝むことが出来るはずだ。

 こんなに晴れた展望日和だというのに、展望台には一台の車も停まっていなかった。二人は車を降りて、富士山の前に立った。

 宝永火口はほとんど左端へと移動していた。穢れ一つない白い雪を戴く霊峰が、深く濃い青空を背景に堂々とそびえている。

 咲耶は、じっと富士山を見つめていた。やはりスマホを取りだして撮影するような素振りはない。不思議な女性だと思った。

「君さ。今日、ここに来た理由は、やっぱり瀬織津比売伝説を追うため?」
彼が訊くと、彼女は行徳の方を向いて口角を上げた。

「違うわ。このルートは、もう何度も来たことあるもの。そうじゃなくて、あなたがどんな人なのか、知りたかったの。ネットだけじゃわからないから」
「え?」

「興味のある話は、誰だって熱心に聴くでしょう? 興味のない話をされた時に、どんな反応をするかは、人によって大きく差が出るのよ。頭から否定したり、自分の好きなことに話題を変えさせたり、もしくは、それなりに聴く姿勢を持ってくれることもある。でも、ネットだけだとそこら辺まではわからないもの」

 行徳は、ほんの少しだけほっとした。この口調だと、及第点をもらったみたいだ。
「まあ、興味のない話じゃなかったし。 でも、まあ、ほら、そろそろ僕のことを話したり、君自身のことも訊いてもいいかな、とは思っていた。この辺の美味しい店を知っている?」

 彼女は、片眉を上げた。
「私のことなら、さっきからずっと話していたでしょう。桜が池で生まれて、いろいろな名前を持ち、一般に知られている夫はニニギノミコト、本当の夫はニギハヤヒ……」

 行徳は、ぎょっとして後ずさった。まさか! でも、やけに瀬織津比売のことに詳しかったし、そう考えると、合点はいく。

 青くなって言葉を探している彼を見ながら、咲耶は高らかに笑った。
「いやだ、そんなにすぐに信じないでよ。今は二十一世紀でしょう? 美味しい店なら知っているわ。細いおうどんのお店と、洒落たイタリアン、どっちがいい?」

(初出:2019年3月 書き下ろし)
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Posted by 八少女 夕

イギリスに行っていました

リアルタイムで騒いでいたので、ご存じの方が大半だと思いますが、先週から週末に有休をくっつけて、イギリスへ行っていました。

ストーンヘンジ

語ることはいっぱいあるのですが、現在「scriviamo!」中で、ゆっくりと記事を書いている暇がないので、とりあえずお土産自慢だけアップしておきます。

どうしてこんなに買うんだ、私は。

ロンドン土産

今回のテーマの一つだったエコバッグ。狙っていたストーンヘンジの折りたたみ式のモノはもうなかったのですけれど、黒い大きなエコバッグはゲットしてきました。その隣の可愛い鳥のついたジュートのエコバッグは、向こうで二十年ぶりに再開した友人にいただいたもの。ほかに、王室御用達の美味しい紅茶と超美味しいショートブレッドもいただきました。

ストーンヘンジでは、前回も買って美味しかったレモンカードがなぜか半額になっていたので、二つ買ってきました。それと、小さくて見えにくいと思いますが、ブルーストーンのキーホルダー。これは、巨石愛好の師匠である大海彩洋さんに買ったものとお揃いの自分用です。

手前のはがきサイズの箱二つはお高いチョコで、これはバースの有名店のモノ。義母と義兄へのお土産。大英博物館で買ったネックレスとネクタイは、甥と姪へのプレゼントにいつも困るので、その準備です。

あとは、自分用の大量の紅茶。フォートナム&メーソンのアソートの他、マークス&スペンサーで大人買いしたカフェインレスの紅茶、なども見えます。ポルトガル語のCDと、私の地元ではなかなか買えないクミンパウダー、それにライスペーパーを戻すときに使おうと思って買ってきた刺繍用の丸いネット。日本で買い忘れた無印良品の泡になるポンプ、それから映っていないけれど、ユニクロでもちょっと買い物しました。

ティータオル

軽いし実用的なので、いつもイギリスに行くと買うティータオルです。でも、有名観光地のはけっこう高いのです。今回は途中で正氣に戻ったので、例えばリバティのティータオルなどは買ってきませんでした。皿拭くモノに14ポンドも出せるか……。

ポストカード

こちらはポストカードコレクション。誰かに送るときにも使いますが、一部は当面資料として。

あと、どうでもいいのですが、デイヴッド・ギャンディのカレンダーないかなと探したんですけれど、全然見つかりませんでした。なんで? 需要絶対にあるでしょ? っていうか、売り切れたのかもな……。ハリ・ポタグッズみたいにいっぱいあると思った私が愚かでした。

資料

こちらは完全に資料ですね。そうです、今回の主目的は取材だったのですから。行ってよかったです。でも、これから大幅に小説に手を入れなくてはいけなくて、いつ発表できるかな……。心配です。
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Posted by 八少女 夕

【小説】能登の海

scriviamo!


「scriviamo! 2019」の第十三弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

TOM-Fさんの書いてくださった 『天城越え 《scriviamo! 2019》』 

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』。ロー・ファンタジー大作『フェアリーテイルズ・オブ・エーデルワイス』と、ハートフルな『この星空の向こうに』の両方の登場人物が集合し、物理学の世界で緊迫物語が展開しています。足りない頭ゆえ物理学の記述には既にすっかりついて行けていない私ですが、勝手に恋愛ものに読み替えて楽しませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も七回にわたり皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。

さて、『花心一会』のヒロインと今回書いてくださった作品に登場する破戒坊主が邂逅する作品を以前書かせていただいたことがありますが、今回書いてくださったのは、その時に名前を挙げた方がメインになっています。そしてですね。お相手役と『花心一会』のヒロインが邂逅するお話を、TOM−Fさんは2016年の「scriviamo!」で書いてくださっているんですよ。で、その時のお返しに書いた作品と、今回の破戒坊主は、こちらの小説ワールドで繋がっているものですから、つい、輪を完成したくなってしまったというわけです。

しかし、それだけではちょっといかがなものかと思いましたので、せめてTOM−Fさんの作品と対になるようにしました。TOM−Fさんの作品は誰もが知っている石川さゆりの「天城越え」とリンクする作品になっているので、わたしもそういう話にしようと思ったのですね。それで三曲ほど候補をあげて、その中でTOM−Fさんに選んでいただいた曲をモチーフにしました。

同じく石川さゆりによるご当地ソング「能登半島」です。

「樋水龍神縁起 東国放浪記」を読んでくださっている方には、とんでもないネタバレになっています。どうして私は、本編発表まで黙っていられないのか、まったく。ものすごく自己満足な作品になってしまっていますが、「樋水龍神縁起」はいつもこうですね、すみません。ご容赦くださいませ。


【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

「scriviamo! 2019」について
「scriviamo! 2019」の作品を全部読む
「scriviamo! 2018」の作品を全部読む
「scriviamo! 2017」の作品を全部読む
「scriviamo! 2016」の作品を全部読む
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「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む



樋水龍神縁起 外伝
能登の海
——Special thanks to TOM-F san


 まだ夜も明けず暗いのに、行商人たちが騒がしく往来する湊の一角を抜けて、かや は先をよく見るために編笠を傾けた。手に持つ壺には尊い濱醤醢はまひしお が入っている。もっとも鮮度のいい最上の小鯛のみを使い、家に伝わる秘伝の製法にて調整した魚醤だ。本来ならば献上品としてすぐに大領の館へと運び込まれる品だが、粗末な壺に収めてこうして持ち歩いているのにはわけがある。

 萱は、足を停め振り返った。後ろを歩いていた連れも足を止めた。密やかに問いかける。
「まことに、行くつもり? どうしても留まるつもりはないの?」

 水干に被衣、つまり中級貴族の子息を模した装束の女が頷く。
「はい。萱ねえ様。どうしても」

 萱は、黙って頷くと、先を急いだ。作蔵の船はすぐにわかった。こんなとんでもないことを頼める船頭は、あの男を置いて他にはなかった。船には何人もの荒くれ者が乗っている。若くて美しく、世間知らずの娘が無防備に乗っていれば、羽咋の港に着く前に無事ではおられまい。

 作蔵は、清廉潔白とは言いかねる男だが、萱は彼に十分すぎる貸しがある。その妹である三根が少領の家で湯女として働いていた時に、うつけ息子に手込めにされそうになり逃げてきたのをかばってやったのだ。平民ではあるが濱醤醢の元締めである萱には、少領の家の者も手は出せず、それ以来、三根は萱の元で働いている。

 船の袂には、水夫たちに荷の運び込みを指示している頭一つ分大きな男の姿があった。
「作蔵」
萱の声に、作蔵はゆっくりと振り向くとニヤリと笑い、水夫たちを行かせてからこちらに歩いてきた。

「これは萱さま。まことにおいでになりましたな。三根から聴いております。では、そのお方が……」
「ええ。面倒をかけ申し訳ない。羽咋の港まで連れて行って欲しいのです」

「して、その後は?」
「港で降ろせばよいのです。後は、自らなんとかすると申している由」
「まことに? ここですら、お一人では船にも乗れないお方が?」

 その言葉に、萱はため息をつき、世間知らずの従姉妹の姿を眺めた。それから、意を決して作蔵に顔を向けた。
「羽咋に、誰か信頼できる助け手がいますか? この者を、何も言わずに数日寝泊まりさせてくれるような」

 作蔵は、ちらりと水干姿の娘を見て言った。
「わしの、わしと三根の伯父に頼んでみましょう。伯父は、わしとおなじく無骨な船頭だが、伯母は面倒見がよくて優しい。理由はわからぬが、その姫さんが誰とやらを待つ間くらい泊めてくれるでしょうよ。その……萱さま、わしにも少し頼み甲斐というものがあるならね」

 その多少ずる賢い笑いを見越したように、萱は懐から壺をとりだして作蔵の手に押しつけた。
「そなたが戻ってきて、この者がどうなったかを知らせてくれれば、後にまた三根にこれを渡そう」

 この貴重な醤醢は、闇で売りさばけば大きな利をこの男にもたらすはずだ。
「これはこれは。合点いたしました。では、お姫様、どうぞこちらへ。申し訳ないが、水夫たちに女子であることがわからぬよう、ひと言も口をきかぬようにお願いしますよ」

 深く頭を下げ、船に乗り屋形の中に姿を消した従姉妹を見送り、萱は立ちすくんだ。萱の被衣と黒髪は潮風にそよぎ、荒れる波に同調したようだった。水夫たちのかけ声が、波音に勝ると、船はギギギと重い音を立てて、夜明け前の北の海に漕ぎ出でた。

 なぜあのような便りを書いてしまったのだろう。萱は、不安に怯えながらつぶやいた。

* * *


 ふた月ほど前のことだった。萱のもとにとある公達とその連れがしばらく留まったのだ。途中で明らかになったのだが、その主人の方はかつては都で陰陽師をしていたのだが、語れぬ理由があり今は放浪の旅をしていた。

 それを、丹後国に住む従姉妹への手紙に書いたのは、とくに理由があったわけではない。面白がるだろうと、ただ、それだけを考えてのことだった。だが、彼女はこともあろうに屋敷を逃げ出してはるばる若狭小浜まで歩き、昨夜、萱の元に忍んできたのだ。

「なんということを。夏。そなたはもう大領渡辺様の姫君ではないですか。お屋敷のみなが必死で探しているはずです。すぐに誰かを走らせてお知らせしなくては」
「やめて、萱ねえ様。あたくしは、もうお父様の所には戻りません。お願いだから、渡辺屋敷には知らせないでください。安達様の元に参りたいのです」

 萱は、その陰陽師と夏姫が知り合っていたことを、昨夜初めて知ったのだ。

 夏の母親は、三根と同じように湯女として大領の屋敷で働いていたが、やがて密かに殿様の子を身ごもった。生まれた夏は長らく隠され、母親の死後は観音寺に預けられて育ったが、その美しさを見込まれ二年ほど前にお屋敷に移されたのだ。殿様は丹後守藤原様のご子息に差し上げるつもりで引き取ったと聞いている。

「そのお話は、もうなくなったの。お父様は、もうあたくしなんて要らないのです」
「なんですって?」

「藤原様は、この春にお屋敷に忍んでいらっしゃったの。でもね、手引きしたのは、妹の絢子の乳母の身内だったの。それで、わざわざ間違えたフリをして絢子の所にお連れしたの。北の方おかあさま だって、もちろんその方が嬉しかったでしょうね。実の娘が玉の輿に乗れるんですもの。もう三日夜餅も済んだのよ。だから、あたくしを引き取る必要なんてなかったの。そこそこの公達に婿になっていただければいいなんて言われているわ」

 夏は、さほどがっかりしていなかった。
「あたくしは、玉の輿に乗れなくて、かえって嬉しいのです。だって、お父様のお屋敷にいるだけで窮屈なのよ、どうしてもっと上のお殿様との暮らしに慣れると思うの? こうして萱ねえ様のお家にいると本当にほっとするわ。だから、ねえ様のお便りを読んですぐに決断したの」

「私が、いつ逃げ出して来いなんて書いたのですか」
「書いていないわ。でも、安達様が、ねえ様の所にいらっしゃるとわかったら、一刻も待っていられなかったの」

「あの陰陽師といつ知り合ったの?」
「昨年の夏、庭の柘植の大木に奇妙な物が浮かび上がって、あたくしが瘧のような病に悩まされるようになった時に、弥栄丸が連れてきてくれたの。本当にあっという間に、治してくださったのよ」

「まさか、そなたがあの二人を知っているなんて……。しかも、あの陰陽師に懸想してこんなとんでもないことをするなんて、夢にも思っていなかったわ」
萱は、頭を振った。

 夏は、両手をついて真剣に言った。
「わかっているわ、萱ねえ様。どんな愚かなことをやっているか。安達様は、あたくしのことなんか憶えていないかもしれない。憶えていても、相手にはしてくださらないでしょう。それでも、あたくしは、あの方にもう一度お目にかかりたいの。あの屋敷で、みなに疎まれつつ、誰か適当な婿をあてがわれるのがどうしてもいやだったの。それなら、あの方を追う旅の途上で朽ち果ててしまう方がいいの。お願いよ、屋敷には帰さないで。安達様を追わせてください」

 若狭国を抜け、北陸道をゆくと行っていた陰陽師と郎党を送り出して、ひと月以上が経っていた。今から陸路で追っても、そう簡単には追いつけないであろう。萱は、無謀な従姉妹を助け、追っ手の目をくらまし、彼女の望む道を行かせるために、海路を勧めた。

「夏。ねえ、約束しておくれ。もし、安達様を見つけられなかったら、もしくは、そなたの願いが叶わなかったら、必ずここに戻ってくると」
夏は、萱の言葉に頷いた。

 どのような想いで、この海を渡るのだろう。何もかもを捨て去り、ただひたすらに愛しい男を追うのは、どれほど心細いことだろう。そして、それと同時に、それはどれほど羨ましいことか。亡き父に代わり秘伝の醤醢づくりを背負う萱には、愛のために全てを捨て去り、男を追うような生き方は到底出来ない。

 日が昇り、水平線の彼方に夏を乗せた作蔵の船が消えても、萱はまだ波の高い海を見つめていた。夏は終わり、秋へと向かう。北の海は、行商人や漁師たちの日ごとの営みを包み込み、いくつもの波を打ち寄せていた。

* * *


 語り終えた老僧を軽く睨みながら、茅乃かやの は口を開いた。
「素敵なお話ですけれど、和尚様。それは、私の名前から思いついたでまかせのストーリーですの?」

 福浦港の小さな喫茶店で遊覧船を待っている茅乃の前で、奇妙な平安時代の話をした小柄な老人は、新堂沢永という。歳の頃はおそらく八十前後だが、矍鑠として千葉の寺から石川県まで一人でやってくるのも全く苦にならないらしい。

 茅乃は、福浦に住んで二十八年になる後家で、婚家の親戚筋に頼まれて独身時代に近所にあった浄土真宗の寺に連絡をした。その親戚筋の家では、なんとも奇妙な現象が続き途方に暮れていたのだが、沢永和尚は加持祈祷で大変有名だったのだ。

 無事祈祷を終え、奇妙な言動を繰り返していた青年が、嘘のように大人しくなりぐっすりと眠りについたので、家の者は頭を畳にこすりつけんばかりに礼を言い、和尚を金沢のホテルまで送ると言った。だが、和尚は、それを断り茅乃に案内を頼み福浦港に向かったのだ。
「遊覧船に乗りたいのですよ。有名な能登金剛を見たいのでね」

 そして、遊覧船を待つ間、風を避けるために入った喫茶店で、和尚は先ほどの話を語り終えたのだ。

「でまかせではありませんが、本当のことかどうかは、わしにも分かりませんな。人に聞いたのです」
「それは誰ですか?」

 和尚は、ゆっくりと微笑んだ。
「茅乃さん、あなたは輪廻転生を信じますか?」

 答えの代わりに問いが、しかも唐突な問いがなされたことに、茅乃は戸惑った。
「さあ、なんとも。そういうことを信じている人がいるというのは、知っていますけれど」

「わしのごく身近に、転生した記憶を失わなかったという者がおりましてね。その者が、千年前に経験したことを話してくれたことがあるのですよ。先ほどの話は、その中の一つでしてね」
和尚は、ニコニコとしていたが、それが冗談なのかどうか茅乃には判断できなかった。

「それで、その方はその萱さんか夏さんの生まれ変わりだとおっしゃったのですか?」
「いいえ。その陰陽師の方だそうです。後に、安達春昌と従者である次郎は、再び若狭に戻ってきて萱どのと話をしているのですな。わしは、彼の話してくれたことの多くを非常に興味を持って聴いておりました。そして、今日、ここ能登半島に来たので、どうしても夏姫の渡った羽咋の海をこの目で見てみたかったのですよ」

 茅乃は、和尚の穏やかな笑顔を見ながら、不意に強い悲しみに襲われた。和尚の言及している不思議な話をした男が誰であるか、思い当たったのだ。和尚は早くに妻を亡くし、男手一つで息子を育てた。その息子、新堂朗を茅乃は知っていた。彼女が高校生だった時に朗は小学生だったが、子供らしいところのない、物の分かった様子の、不思議な少年だった。

 茅乃は、結婚して千葉を離れ、成人した朗には一度も逢っていなかった。その朗が二年ほど前に島根県で行方不明になったという話を、千葉の母親から聞かされていた。茅乃には、和尚が辿ろうとしているのは、平安時代の若い姫君の軌跡でも、魚醤造りの元締めの想いでもなく、行方知れずになった息子の運命を理解したいという、悲しい想いなのではないかと思った。

「和尚様は、その方が羽咋にいるとお思いなのですか?」
茅乃は、訊いた。

 和尚は、穏やかに笑いながら答えた。
「どうでしょうな。いるとは言いませんが、いないとも言いませんな」
「そんな禅問答のようなことをおっしゃらないでください」

「これは申し訳ない。わしにも分からぬのですよ。どこにもいないのかも知れないし、どこにでもいるのかも知れない。そういうことです。例えば、このコーヒーの中にいるのかも知れません。だが、その様なことは、この際いいのです。ほら、ご覧なさい、遊覧船が来たようです。せっかくですから名勝能登金剛を楽しみましょう」
老人は、カラカラと笑いながら立ち上がり、伝票を持って会計へと歩いて行った。

(初出:2019年3月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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で。モチーフにした「能登半島」の動画を貼り付けておきます。


能登半島  石川さゆり
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

ブログ開設七周年です

旅行中ですが、本日三月二日は当ブログ「scribo ergo sum」の誕生日です。本当に七周年? 2012年3月2日に開設したのだから、間違っていませんよね。ひえ〜。こんなに簡単に七周年になるんですね。

バースデーケーキ

いつも足繁く通ってくださる常連の皆様、小説を読んでくださったり記事に興味を持ってくださる方に、心からの御礼を申し上げます。

すっかり新年の恒例行事になった「scriviamo!」も今年で七回目です。今年の参加受付は既に終了しましたが、まだお返しすべき作品が残っていますので、引き続きお楽しみください。

七年も経つと、参加者も読んでくださる方にも変化が出てきます。みなさん、それぞれにお忙しく、さらには私のように十年近く身の回りに全く変化がないような生活をなさっているわけではないので、当然なのですが、参加くださった方も、せずにパスの方も、一回休憩の方も、もしくは「ブログなんてやっていられん」と広告出っぱなしになってしまわれた方も、それぞれに元氣で楽しくこの日を迎えられているといいなと思います。

現在、私は作品の取材と有休の消化を兼ねて、イギリスにいます。次の土曜日にはアフリカ旅行に行っている連れ合いが帰ってきてしまうので、その前にさくっと行ってしまおうという試みです。

次の記事は、もう帰宅しているので通常モードになっていることと思います。出発ギリギリまで、「scriviamo!」のTOM−Fさんへのお返しを書いていたので、新作の連載の準備等はまだ整っていないのですが、用意ができ次第、「郷愁の丘」の続編である「霧の彼方から」を連載しようと思っています。

八年目に入ったと言っても、特に代わり映えしない活動になると思いますが(「書く書く詐欺」は相変わらず山積み)、しつこく諦めずに一つずつ書いて、楽しく活動していきたいです。みなさんにお付き合いいただければ、これ以上の歓びはありません。

今後とも「scribo ergo sum」を、どうぞよろしくお願いします。
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