【小説】《ザンジバル》
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はフランスのシンガーソングライター、ディディエ・シュストラックの”ザンジバル”という歌にインスパイアされて書いた作品です。
私がこの曲を知った経緯はそのままこの小説に書いてあります。そして、1996年のアフリカ一人旅でも、本当にザンジバル島を訪れています。そして、ここを訪れたことが、現在、アフリカとは全く関係のないこの国に移住することになった小さなきっかけの一つになっているのです。だから、私の中でこの島は今でもものすごく特別な場所です。
観念的でこれといったオチのない話です。よかったら、先に(または同時に)曲を聴いてお読みください。なお、小説を飛ばして動画だけご覧になるのもいいかと思います。素晴らしい光景ですけれど、これ、いいところだけを上手に切り取った系の風景ではなく、本当にこういう島です。

《ザンジバル》
Inspired from "Zanzibar" by Didier Sustrac
明るいエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていた。白い砂浜には陽光が反射している。こんなに完璧なビーチだというのに、観光客の姿が少ない。いないわけではない。だが、八月と言えば世界中から夏の休暇で観光客が押し寄せるハイシーズンのはずだ。例えば、カナリア諸島やギリシャの島ではパラソルやビーチタオルが隙なく広げられて、砂浜も見えないほどだ。それなのにここでは、背景に自分たち以外は映っていない、まるで無人島のような写真を撮ることも簡単なほどわずかな観光客しかいないのだ。
ようやくここにやって来た。初めてこの島のことを知ってから八年が経っていた。渋谷のCDショップで何げなく試聴したフランス語のアルバム。ディディエ・シュストラック。聞いたこともないアーティストだったけれど、心地よい声とリズムに心惹かれて、歌詞の意味もわからずに買い求めた。その最後に入っていた曲がアルバムのタイトルにもなっていた「Zanzibar」だった。
日本語対訳を読みながら、この歌が実在のザンジバル島のことを歌いながら、同時に遠い憧れを語っていることを知った。でも、よく理解できない言葉がいくつかあった。「貿易風はささやく、”ランボー”と……」「わずかなアビシニアの魅力と、”アルチュール”の言葉」。何のことだろう? フランスの詩人ランボーのこと?
それで、調べてみた。ザンジバルと関係のあるランボーのことを。それは本当に詩人アルチュール・ランボーの事だった。彼は、なくなる前年までの十年間を、アラビアのアデンと、アビシニア(現在のエチオピア)のハラルを往復して過ごした。そこからフランスの家族にあてた手紙で「ザンジバルへ行くつもりだ」と告げていたのだ。けれど、彼は実際には一度もザンジバル島に足を踏み入れなかった。
彼は、アデンでフランス商人に雇われ、やがてハラールで武器商人となって暮らした。骨肉腫で右足を切断することになり、フランスに戻り亡くなった。
「あなたは、中国人?」
私は、驚いて手に持っていたカメラを取り落とすところだった。
振り向くと、褐色肌のすらりとした女性が立っていた。アーモンド形の綺麗な瞳、化粧ではなくて自然のままに見えるのにまるで二日目の月のごとく完璧な形の眉。すらりとした鼻筋と口角の上がった厚めの唇。低めにまとめたストレートの黒髪は、とても長いのだろう大きなシニヨンとして艶やかに首の後ろを飾っている。鮮やかなセルリアンブルーの布を巻き付けたように見えるワンピースドレスが褐色の肌の美しさを引き立てていた。
ここまで彫りが深くて目鼻立ちの整った女性は、『アフリカの角』の出身だろう。かの『シバの女王』やランボーの愛した《アビシニアの女》と同じく。
ランボーは、アデンに住んでいた一時、アビシニア出身の恋人と住んでいた。手紙で金を無心していたフランスの母親にはひた隠しにしていたその女の存在は、雇い主の家政婦であったフランス人女性によってある程度詳しく証言されている。美しいキリスト教徒の娘と彼は睦まじく過ごしていたと。
「あなたは、中国人なの? それとも?」
現実の方の女性は、英語の質問を繰り返した。
「いいえ、私は日本人です」
私は、答えた。
「まあ、そうなの。日本にはいずれ行ってみたいと思っているのよ、素敵な国だって聞いているわ」
彼女は、微笑んだ。真っ白い歯ののぞく肉感的な唇には、女である私すらもドキドキする。
私は自分の服装を見下ろして、情けなくなった。近所のコンビニに行くのすらもはばかられる格好だ。大学生時代からの習慣で、バックパックで安宿を泊まり歩くスタイル。捨てて帰る予定のヨレヨレのTシャツと、色のあせたジーンズ、それに履き古したスニーカーと折りたためるのが利点のベージュの帽子。タンザニアの空港では、さほど場違いだとは思わなかったし、スリや置き引きなどに狙われないためには、貧乏に見えた方がいいと思っていたが、この美しい海浜には全くそぐわない。
彼女の装いは対照的だ。波のきらめきのように様々なトーンの青が混じり合う薄物のドレスは、ファッション誌の巻頭グラビアか、それともリゾートのパンフレットを飾るモデルのように、ビーチを完璧に変えている。もともとの美貌を選び抜いた服装で神々しいまでに昇華しているのだ。美を保つとは、どれほどの努力を必要とするのだろう。そして、それを厭わなかったわずかな人が、こうして「美こそが究極の善である」印象を世界に誇示することが出来るのだ。
「ザンジバルは、初めて?」
「はい。こんなに綺麗な海なのに、ほぼ独り占めってすごいことだなって感心していたところなんです」
「そうね。確かに観光客が押し寄せることは少ないわね。イエローカードが必要だからかしら」
ザンジバル島は、タンザニアの一部だ。そしてタンザニアに入国するためには黄熱病の予防接種が必須だ。一週間程度のバカンスを頼むのに、わざわざ保健所を訪れて予防接種をしたがる観光客はあまりいないかもしれない。
「あの注射、死ぬほど痛かった。私も予約する前に知っていたら、来るのを考え直したかも。……あなたも予防接種をしてきたんですか?」
私が訊くと彼女は笑った。
「ここに来るためにする必要はないわ、もともとしているもの。私はエチオピアから来たのよ」
ああ、この女性は、本当に『アビシニアからきた麗人』だったのだ。
「あなたは、ここに来たのは初めてなのね。どうして来ようと思ったの?」
その質問に、私ははっとした。言われてみれば、それは少し珍しい選択だったのかもしれない。
会社を辞めて、次の就職活動をするまでの一ヶ月に旅をしようと思ったのは、それほど珍しくはないだろう。学生時代にはユーレイルパスを利用して、ヨーロッパ横断の旅をしたし、オーストラリアにワーキングホリデーに行った友人もいる。サラリーマンの短い有休では決して行けない旅先でよく聞くのは、マチュピチュなどインカの遺跡を巡る旅、イースター島やナスカの地上絵やウユニ湖など少し遠いけれど有名なところだ。もしくは中国やアジアの多くの国を巡ったり、アメリカ横断、さらには資金問題はあるとはいえ世界一周も悪くない。
ザンジバルに行くと言って、親や友人たちに口を揃えたように言われたのは「それはどこにある国?」だった。熱帯の島と答えれば、どうしてハワイやグアムではないのか、もしくは新婚旅行で有名なセイシェルやニューカレドニアならツアーがあると逆に提案もされた。
この島に行きたいという思いを、日本の家族や友人に理解してもらえなかったのは、知名度から言って当然だと受け止めていたけれど、アフリカ出身のこの女性から見ても、極東からここを訪れるのは不思議なことらしい。
私にとっては、いつの日かこの島を訪れるのは、当たり前のことだった。あの曲が、私の人生に囁きかけてからずっと。《ザンジバル》という名は、私にとって《シャングリラ》《ガンダーラ》《エルドラド》などと同じどこかにある理想郷になっていた。
「ある歌で、ここへの憧れを歌っていたんです。それに、詩人のアルチュール・ランボーも憧れていたと聞いて、一度来てみたいと思っていました」
ランボーの名前を口にしたときに、彼女の表情にわずかな変化があった。あのエピソードを知っているのだろうと感じた。彼女から、かの《アビシニアの女》の子孫だと告白されるとしても、私は驚かないだろう。もちろん、彼女はそんなことを言い出したりはしなかった。
その代わりに私の心が、アルチュール・ランボーがマルセイユで短い一生を終えた十九世紀末、まだ私自身が影も形もなかった頃に飛んでいた。ちょうどこの美しい女性のように、かの《アビシニアの女》が、この場に佇んでいたという幻覚、勝手な想像に心を遊ばせた。こんな風に。
「ザンジバル島に行きたいんだ。それから、船に乗って、もっと東へね。とにかく、何よりも大切なのは行くって意思だよ」
でも、ザンジバルにこうして立っているのは、彼ではなくて私。
「どこでも、好きなところへ行ってしまえ。もう、僕はお前とは関係ないからな」
そう言われて、旅の半ばで放り出された、この私。
彼は、「はみ出しもの」だとよく自嘲していた。若き日に、恩師との恋愛沙汰と発砲事件がスキャンダルになり、国での出世の見込みは絶たれたと言っていた。母親が心から望んだ、国内のきちんとした職場でコツコツと働くことが出来ず、ギリシャやカイロへ出稼ぎに行ってしまうのだと。
アデンで一緒に暮らしていた頃、彼は時おりこんなことを口にした。
「フランスにお前を連れ帰ることはできないよ。結婚許可証をもらえる見込みはないしね」
「うちの母親や彼女の住んでいる村は、びっくりするほど旧弊で、お前を連れ帰ったりしたら大変なスキャンダルになるだろうよ」
なぜそんなことを口にするのだろうと、私はいつも不思議に思った。遠く帰る必要もない国の許可証なんて、何の意味があるのだろう。ましてや、私は彼の国に行くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。
今ならば、少しだけわかる。
彼自身が、まっぴらだと言っていた彼の国と、その「常識的な生き方」から自由になっていなかったのだと。彼は、どこかで「まともな女と」「ちゃんとした家庭をもち」「いずれは国に帰る」と思っていたのだろう。
ザンジバルへ行き、それから、どこだかよくわからない東の国へと向かうことなど、本当は「できない」と思っていたのだろう。
「お前は女だから」
「お前は教育も受けていないから」
「お前は海の風土に耐えられないだろうから」
彼が、私をザンジバルにも、彼の故郷にも連れて行けない言い訳のように使った全てのフレーズは、彼自身が海の果ての未知の国へと行けないと思い込んだ理由だったのだ。彼は、十分に勇猛でなく、知識や経験が足りず、湿度や高温に耐えられない貧弱な身体であると、恥じていたのかもしれない。
私は肌の色や、話す言葉の違いなどにはこだわらない。行きたいところにどんな風土病があるかや、そこの人々が自分を受け入れてくれるだろうかなどを怖れたりなどはしない。どこにいても病にかかることはあるし、生まれ故郷でいつも歓迎されていたわけではない。
小さな舟を乗りついで、私はこの島へやって来た。鮮やかな花と、珍しい果物の溢れる島。遠浅の美しい海が守る島。ほんの少し前まで、かのムスリム商人たちが、大陸から欺して連れてきた人々を、遠い国に奴隷として売り払っていた港。
私は「ヒッパロスの風」に乗り、アラビアへ、そしてもっと東へと進むだろう。私は風のように自由だ。何よりも彼と違うのは……私は生きているのだ。
「あなたは、アルチュールの夢見たユートピアを探しにここへ来たのね」
青いドレスの麗人が優しく囁いた。私は、現実に引き戻され、はっとしながら彼女を見た。謎めいた瞳には、どこか哀れみに似た光が灯っていた。
突然、私は悟った。たどり着いたこの地について、はっきりと認識したのだ。
遠浅の白い砂浜。エメラルドグリーンの海。バニラ、カルダモン、胡椒、グローブ、コーヒー、カカオ、オクラ。島の中程に南国のスパイスを宝物のごとく栽培する島。イランイランやブーゲンビリアの花が咲き乱れ、イスラム世界を思わせる装飾の扉で迎えるエキゾティックな家並み。夕日に映える椰子の林や、枝を天に広げるバオバブの大木。想像していた以上に美しく、観光客ずれもしていない、奇跡のような美しい島。
けれど、ここは私の《ザンジバル》ではなかった。アルチュール・ランボーが生涯足を踏み入れなかった憧憬の島でもなかったし、ディディエ・シュストラックが誘い願った「物語の終わり」の地でもなかった。
それは、この島が期待はずれであったからではなく、単純に、私がこんなに簡単にたどり着いてしまったからだ。飛行機を予約し、わずかな金額を振り込み、たった二度の乗り換えで二十四時間もかけずにこの地に降り立ってしまった。悩みも、苦しみも、別離も、挫折も経ずに、なんとなく心惹かれるという理由で、ここに来てしまったから。ユートピア、憧憬の島は、そんな形ではたどり着くことはできないのだ。
「確かにこの島に一度は来たかったし、それにとても素晴らしい島ですけれど……。でも、ユートピアではないですよね」
彼女は、私の答えに共感したようだった。
「ユートピアは、辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所なのかもしれないわね」
それから、私の後ろの方を見て、続けた。
「夫が来たわ。私たち、午後の便で帰るの。そろそろ空港に行かなくては。島を楽しんでね」
会釈をして別れた彼女が向かう先には、レンタカーで待つ白人男性の姿があった。たぶん、移動の手段も、人種の違う二人の結婚も、アルチュール・ランボーの時代とは何もかも違うのだろう。愛の意味も、夢のあり方も。
この美しい島は、もしかしたら私の想像したように《アビシニアの女》を目撃したかもしれない。そして、私を目撃し、何世紀も後に同じように夢の島を探して彷徨う誰かを目撃するだろう。
私の《ザンジバル》を求める旅も続く。物語に終わりはないのだ。
(初出:2019年8月 書き下ろし)
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イタリアにいます

久しぶりにバイクのタンデムでイタリアに来ています。去年は日本行きがあったので、バイクの旅は二年ぶり。
スイスはとっくに秋のように涼しいのですが、こちらはばっちり夏。一週間ほど、北イタリアの風景とグルメを堪能してきます。
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【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -
バースの「観光案内」的描写、ローマンバスでもなく、バルトニー橋やロイヤルクレセントでもなく、ましてや「サリー・ラン」でもなく、一番さりげないここを選びました。このくらいなら「いかにも観光名所を入れてみました」的な記述にはならないかなと思って……。
さして、こんな形で二人はバースを去ることになります。
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 4 -
表に出ると石畳が濡れていたが、柔らかい陽の光が射していた。
「あら、いつの間にか雨が降っていたみたいね」
ジョルジアは、空を見上げた。噂に聞く英国の天候、一日の間に全ての天氣を体験できるというのは、冗談でも大袈裟でもなく、普段傘を持ち歩かないジョルジアでも今回は毎日折りたたみ傘をバッグに入れることを覚えた。
「傘を広げずに済んでラッキーだったわね。ホテルに帰る前に、また少し散策しない?」
そういうと、グレッグは頷いた。
彼は、しばらく歩いて向かいの道を指さした。
「あそこに女性の人形があるだろう?」
オブジェが眼に入った。昔のファッションをしたマネキン人形のように見えるが、全身チョコレート色で艶やかな仕上がりと相まってまるで巨大なチョコレートのように見える。
「ええ。あれ、チョコレート屋かしら?」
「そうだ。バースでは一番有名なチョコレート専門店だろうな。十八世紀にシャ―ロッテ・ブランズウィックという女性が始めた伝統のある店なんだ」
彼は、店に歩み寄ると、窓から色とりどりのパッケージの並ぶ店内をのぞき込んだ。
「思い出があるの?」
彼は頷いた。
「ケニアからここにつき、母とマッケンジー氏が正式に結婚するまでの間、僕たちは市内の小さなアパートメントに住んだんだ。僕は、こんな風にショーウィンドウにいろいろな物が並べられている街に住むのは初めてだったし、驚きと憧れでいつもキョロキョロしていた。母は、いつも叱りながら僕を引っ張っていたよ。でも、一度だけ、ここでチョコレートを買ってくれたことがあったんだ」
それは、彼の誕生日の一ヶ月ほど前だった。二週間後に寄宿学校に入る彼のために、必要な買い物をしながら、二人はバースの街を歩いていた。当日やその直後の週末に、自宅に戻り彼の誕生日を祝うという計画はなかった。母親はマッケンジー氏と結婚し、マッケンジー氏の二人の子供や使用人たちの面倒を見る主婦としての新しい仕事に全力を傾けるつもりだった。
彼自身は、誕生日を祝ってもらった記憶もなかったので、特別に悲しいとは思っていなかった。歩きながらチョコレート店のウィンドウをのぞき込んだのも、買ってもらえるという期待があったわけではない。彼は、アフリカにいた時から、生存に必要な物か、もしくは教育に役立つ物以外は頼んでも絶対に買ってもらえないことに慣れていたので、物欲しそうな顔すらしなかった。ただ、ひたすらに眩しかったのだ。華やかで楽しそうな箱に詰められた、宝石のようなチョコレートの数々が。
また歩みが遅れている息子を振り返り、いつものように小言を言おうとしたレベッカは、留まり息子を見た。母親に叱られると悟ったのだろう、少年は黙ってウィンドウから離れて、彼女の元にやってきた。レベッカは、「欲しいの?」と訊いた。
「きれいだと思ったんだ。前におじいちゃんがくれた、キスチョコみたいに美味しいのかな」
そう言うと、母親は呆れた顔をした。
「アメリカの大量生産チョコレートとは全く違うのよ。ずっと美味しいに決まっています。いらっしゃい、入りましょう」
彼女の息子は、目を丸くした。
中にいた感じのいい店員は、少年に試食用のチョコレートの欠片を二つ三つくれた。高級チョコレートを始めて口にした少年にはどう表現していいのかわからなかったが、その滑らかで香り高い口溶けは彼を天にも昇る心地にした。彼は、その経験だけでも十分に幸せだったが、母親はプラリネが四つ入った小さな箱を買い求めた。
誰かへのプレゼントにするのだろうと彼は思っていたが、料金を払って受け取ったそれを、彼女は息子に手渡した。
「少し早いけれど、誕生日祝いです。しばらく帰って来られないけれど、しっかり勉強しなさい」
彼は衝撃を受けた。まさか自分がそのリボンのかかった美しい箱の持ち主になるなんて。嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
「そうだったの。それはお母様との美しい思い出ね」
ジョルジアは、窓の向こうのプラリネの山を見ながら語るグレッグに微笑みかけた。
「この話にはまだ続きがあるんだ。僕はそのチョコレートを大切にしすぎて、クリスマスの前まで開けなかったんだ。愚かなことに、暖房ラジエーターの近くに飾っておいたせいで、溶けてしまってね。食べられなくはないけれど、大して美味しくなってしまっていた。それを母に手紙で書いて叱られた。今にして思えば、母にしてみたらせっかくのプレゼントを粗末にされて悲しかったのかもしれないな」
ジョルジアは、初めてもらった美しいチョコレートをいつまでも取っておこうとした寂しいグレッグ少年を抱きしめたかった。もし彼が喜ぶのならば、この店中のチョコレートを買い占めて、彼の寄宿舎の部屋に飛んでいきたかった。けれど、彼が待っていたのはチョコレートではなく、きっと暖かな楽しい家庭だったのだ。
レベッカが、息子に普段は買い与えないチョコレートを贈ったのは、もしかしたら厄介払いをするように寄宿学校に送ることへの後ろめたさだったのかもしれない。でも、そのことを口にしたら、彼にとって数少ない母親との美しい思い出にケチをつけることになる。同様にここで彼にこの店のチョコレートを贈ることも、やはり彼の母親に対するノスタルジーを傷つけることになる。
テレビでのドキュメンタリーのように、母と子が愛を確かめ合う感動の再会にならなかったことは、しかたがない。けれど、そうであっても、グレッグにとってレベッカは母親で、彼女に対する子供としての想いはこれからも続いていくのだろう。そして、レベッカにとってもそれは同じなのだろう。
振り返ると、彼はもうチョコレート店を覗いてはいなかった。ジョルジアは、彼に近づいた。彼は、スマートフォンを見ながら何かを思案していた。
「何かあったの?」
ジョルジアが訊くと、彼はメールの画面を見せた。
「いま例の恩師、サザートン教授からメールが来た。教授は、レイチェルとも親しいんだ。僕がイギリスにいるって彼女から聞いたんだろうね、会いに来いと言っている」
ジョルジアは言った。
「まあ、素敵じゃない。あなたは逢いたくないの?」
「いや、久しぶりだし、可能なら逢いたい。母のところの用事は終わったから、バースに長居をする必要はなくなったんだし。その……また予定を変更してオックスフォードへ行ってもいいだろうか」
「もちろんよ。あなたが学んだ街を見てみたいわ」
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甘いのと塩辛いのと

それなのに、太りそうなものがやめられないあたり。
ともあれ、今日の話題は、最強の組み合わせの話。日本人には馴染みやすい話だと思いますが、甘いものと塩辛いものって一緒になるとやたらと美味しくなりますよね。日本食には多い組み合わせで、たとえばみたらし団子のタレも、焼き鳥のタレも、配合は違うけれど塩辛い醤油と、みりんやお砂糖など甘みとの組み合わせです。また、スイカに塩をかけると甘く感じるなど、この二つの味覚は同時に食べるととても美味しい。
で、最近はまっている、バタースプレッドの類い(林檎バター、蜂蜜バター、イチゴバター、練乳バターなど)を作るときも、無塩バターで作るよりも有塩バターの方が美味しいように感じるのですよ。もっとも、私の住んでいるところでは無塩バターの方が手に入りやすくて安いので、無塩バターに塩を加えて作っています。
今は、TOM−Fさんおすすめの練乳バターがあるのですけれど、これまた滅茶苦茶美味しくて危険な味です。止まらないったらありゃしない。なぜ太るんだろうなんて、本当によく言うよなー。
そのままパンに塗っても美味しいのですけれど、思いついてこの塩味の効いたクラッカーに載せてみたら、いやー止まりませんよ。これは本当にまずい。
日本だと、昔は、某美人女優がCMでしょっちゅうパーティ開いていましたよね。あのパーティで使われていた円形クラッカー美味しかったなあ。写真のクラッカーは、まあ、似たような味です。
あのパーティって、本当にあのクラッカーを使ったカナッペだけしか出てこないんでしょうかね? いや、それだけでも、美味しいと思うけれど……。
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【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -
先週アップした分と同じく、二人は昼食代わりに入ったティールームで話をしています。
どこかで読んだようなエピソードが、と思われる方もあるかもしれません。前作「郷愁の丘」の連載中、クリスマスに合わせて発表した外伝「クリスマスの贈り物」という作品です。あの作品も今回と同じ、グレッグと実母レベッカの、実の親子なのに上手くいかない様子を描写していました。
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 3 -
「もっと応援してもらいたかったと思うのは、当然だと思うわ。あなたは自分の道を行くことを選び、それでお母様との関係を壊してしまったと苦しんだのね」
「たぶんね。それに、僕は今日まで母のことを冷静に分析するのを避けていたんだと思う」
「分析?」
「母親は子供ために存在するわけではなくて、一人の別個の人間だ。でも、僕は自分のことで頭がいっぱいで、その視点で考えていなかった」
「お母様の視点……」
「離婚して、イギリスに戻ってきた母は、今の僕よりずっと若かった。一度結婚に失敗して、今度こそ自分に合う相手と巡りあい、新しい人生の舵取りをするのに精一杯だったのだと思う。なのに、我慢して面倒を見続けている息子が氣にいらない進路を選んだりするものだから、嫌みの一つも言いたくなったのかもしれない」
「でも、子供が母親は女や人間であると認識するのって難しいことじゃない?」
「小さい子供ならね。でも、僕はもう四十歳を超えているんだし」
ジョルジアは、ふと初めて会ったときと今では、彼の印象がずいぶんと変わっていることを思った。彼の穏やかで感情を露わにしない態度は、口髭を生やしている彼の外見の影響もあり、初対面の人には実際の年齢よりも年上の印象を与える。少なくとも両親との関係で悩んでいるようには見えない。おそらく今から十年前でも、いや、二十年前でも同じ印象を与え続けてきただろう。
けれども、今のジョルジアには、時折彼が小さな子供のように感じられるときがある。叱られて泣きながら、理由もわからずに両親の許しを請う幼い少年が彼の中に住んでいるのを感じる。まだ甘えたかった年頃に、寄宿学校の小さな部屋で孤独に耐えていた彼の話は、ジョルジアの心を締め付けた。
漁師として働いていたジョルジアの両親も滅多に家に居なかったが、寂しいときには歳の離れた兄マッテオがいつもあふれんばかりの愛情で抱きしめてくれた。そして、しばらくぶりに会う両親も、ジョルジアと妹のアレッサンドラに十分すぎる愛を注いでくれた。その愛は、やがて確認しなくても信じられるようになり、今こうして離れていても家族の絆を感じることができる。
けれど、グレッグは愛に飢えたまま独りで立ち続けてきたのだ。
やがて、彼は少しやわらかい調子で話した。
「今日の彼女は、僕の記憶にある母そのものだった。それなのに、僕は違う母と会えるつもりでここに来たんだ」
「違うお母様?」
彼は自分を嘲るような笑い方をした。
「僕が憶えている母の姿は、歪んだ記憶なんじゃないかと、会ってみたらもっとずっと快い歓待をしてもらえるんじゃないかと、期待していたのだろうね。でも、それは彼女に対しても失礼なことだった」
「どういうこと?」
「母を正しく理解するためにならともかく、僕はただ自分の心の安定のために、それにこだわっていたんだ。誰一人として僕のことを愛してくれる人がいないと認めたくなかったからだろう。自分が両親にすら愛されることのない存在であるということに、向き合うのが辛すぎたから。でも、やっとわかった」
「何が?」
「彼女は、彼女なりに母親として僕を愛しているのかもしれない。それが僕の望む形ではないことを彼女は知らないし、今後も知ろうとはしないだろう。そして、僕も、彼女が望むような息子には永久になれないだろうし、なりたいとも思わない。それは、彼女が悪いわけではなく、そして、僕がずっと思っていたように、僕が悪いからでもない。ただ、どうしようもないことなんだ」
「あなたは、それでいいの? つらくはないの?」
「ああ。それでいいと感じたし、今、少し驚いているんだが……母と上手くいかないことに、以前ほど傷ついてもいないんだ。不思議なくらいに」
それから、彼はジョルジアの方をじっと見つめて言った。
「こんなに平常心でいられて、母との関係を冷静に分析できるのは、君と出会ったからだと思う」
「それは少し大袈裟じゃない?」
「いや、全く大袈裟じゃないよ。今から思うと、クリスマスにも、これまでと違うのを感じたんだ」
「クリスマス?」
突然話題が飛んだので、ジョルジアは戸惑った。
「ああ。君と親しくなって初めてのクリスマスに、プレゼントとカードを送ってくれただろう?」
「ええ。憶えているわ、あれが?」
ジョルジアがニューヨークのデパートメントストアで見つけた、サバンナの動物たちを象ったクリスマスツリーのオーナメント。
「ずっと苦手だったクリスマスシーズンだが、あれから、待降節を他の人と同じように少し浮かれて過ごすようになったんだ。あのオーナメントと、君たちからのカードを眺めながらね」
彼は、思い出しながら微笑みを漏らした。
ジョルジアは、その温かい想いに覚えがあった。彼女自身、それまでクリスマスシーズンは嫌いではなかったが、どこか場違いさを感じていた。兄のペントハウスの三メートルもあるクリスマスツリーの豪華な飾りや、妹の豪邸で姪を喜ばせるために飾られたオーナメントの数々には圧倒されたが、それは自分とはほど遠い祭りに感じていたのだ。
けれど、彼へのプレゼントとしてサバンナの動物たちのオーナメントを買い込んだ後、わざわざ小さなニューヨークの小さな住まいでも同じオーナメントを飾るようになった。七千マイル離れた《郷愁の丘》で、同じオーナメントを飾ったツリーを眺める彼と、一緒にクリスマスを待つことが出来るように感じたから。
「君からの、それに君のお兄さんや、キャシーたちからのカードは、僕にとって初めてもらった義務ではなくて心のこもったクリスマスカードだったんだ。僕は、あれからクリスマスの期間を悲しく辛い想いで過ごすことがなくなった。たとえ独りでいても。世界中の人間に嫌われているから独りでいなくてはいけないわけじゃないんだと、思えるようになったんだね」
彼女は、彼を見つめ返した。彼のいう意味が、彼の感じ方が、よくわかった。
「あなたは誰にも愛されない人なんかじゃないことを知ったのよね」
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モブログ投稿用のショートカット作ってみた
突然ですが、ここでお知らせです。いつもお世話になっているもぐらさんが、「バッカスからの招待状 -5- サマー・デライト」を朗読してくださいました。
さとる文庫 「第488回 バッカスからの招待状 サマー・デライト」
いつものように、とても素敵に読んでくださっています。ぜひ聴いてみてくださいね!
今日は、「面倒なことをちょっと簡単にしたぞ」という話。
ところで、これまで「生活のあれこれ」にいつも入れていたMac、iPhoneなどのApple・プログラミング関係ですが、増えてきたので独立したカテゴリにしてみました。

カテゴリー名、「Apple信者」や「Apple布教」も考えたんですが、やっぱり恥ずかしいので普通の感じにしました(笑)
さて、本題。
普段、このブログを更新するときは、Macで管理画面を開いて、写真をアップロードし、記事にそれを挿入し、文章を書きます。ごく普通に。そうそう、その前に写真を小さくする作業もあります。
写真のサイズはいつも同じにしているので、「このフォルダに入れた画像のサイズをまとめて変更」するAppleスクリプトを用意してあり、ダブルクリックだけでサイズ変更します。
ところが、旅行中はMacが手元にないので、この一連のルーティンができないのです。iPhoneからも更新できるのですが、写真のサイズ変更や、アップロードなどを手持ちのいろいろなアプリを駆使してするのが少し煩雑でした。連れのいる旅行中にずっとそんなことばかり出来るわけではありませんし。
それで、FC2にもともとある「モブログ」というシステム(管理画面であらかじめ設定済み)を利用して、可能な限り少ないクリックで簡単な記事をアップロードできないか考えてみました。
iPhoneでは「ショートカット」というアプリが使えます。もともとは「Workflow」という他社のアプリだったのですが、Appleが買収して純正アプリになったのですね。そして、このアプリを使って、いろいろな動作を自動でひとまとめにやってくれる(レシピという)のです。
で、今回私が作った「レシピ」は、こんな動作になります。小さなアプリみたいな感じですね。
(1)iPhoneに保存されている写真を選ぶように促す
(2)縦のサイズかそれとも横のサイズを600にするかを選ばせる
(3)メールの題名を訊く(記事のタイトルとなる)
(4)メールが開かれる。メールの宛先は「moblog+dn@fc2.us」(更新完了通知を受け取らずに下書き保存させる)
このメールには先ほどの写真がすでに添付されているので、記事の本文にあたる文章を書いてそのまま送信すると、題名と本文と写真が希望通りに配置されて、投稿記事が用意されるのですね。
私は、そのまま公開するのは心配なので、下書きになるようにして、FC2アプリで確認してから公開するようにしてみましたが、なんならそのまま公開することも可能です。
旅行中に写真を撮り、このショートカット(iPhoneのホームスクリーンに置いてある)で、メールまでをあっという間に用意するのです。そして、数行の簡単な本文を書いて送信すると一分くらいで下書きまでできてしまうというわけです。便利ですよね。
応用で、やはり写真を選ばせて、サイズは自分で決めさせ、さらにメールで送るか、友人や連れ合いにメッセージで送るか、それともただ保存するだけかを選ばせるショートカットも作ってみました。写真が大きいままだと、海外で不要にパケットを使ったりするじゃないですか。手間を省いて、パケットも節約できるのはちょっと嬉しいです。
【参考】
FC2のモブログ機能については……
FC2ブログ マニュアル 携帯電話で使う(モブログ)
iPhoneのショートカットについてのわかりやすい説明は……
【iPhone】最高に便利な純正アプリ『ショートカット』のおすすめレシピ。上手く使いこなし、快適な生活とSNS環境を手に入れよう!【iPad】
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【小説】霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -
一つ前の記事でも書きましたけれど、この章は三月にイギリスに行き、バースを歩いてから書き足したところです。そんなわけで、ロケハンの成果がいろいろと顔を出すのですけれど、今回切ったところにはあまりないか。
「郷愁の丘」を書いていたときに私の脳内にすら存在しなかったこの世界の重要キャラクターが一人だけいて、それが今回名前の出てくる人です。そもそも私の小説はそんなキャラクターばかりですけどね。
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
霧の彼方から(6)蜂蜜色の街 - 2 -
「プラウマンズランチをいつも食べていたわけではないの?」
訊くと、彼は首を振った。
「パブなどで外食することはほとんどなかったから」
「主に自炊していたってこと?」
「いや、君も知っているように、僕の料理の腕は初心者以下だ。寄宿学校時代は学食以外で温かいものは食べなかった。オックスフォードでは二回ほど引っ越したけれど、住んでいたところのどこにも、ちゃんとした自炊の設備はなかったし。共有スペースのオーブントースターくらいは使ったけれど。リチャードたちやサザートン先生が残り物をくれたこともあったので、それを温めたりしてね」
「サザートン先生?」
「ああ、そうか、言っていなかったね。オックスフォードでの
「今は、交流はないの?」
「アフリカに戻る前に、挨拶に行ったのが最後だった。形式的なことが嫌いな人で、別れの挨拶になんか来るなって怒られたよ」
「今回、会いに行くつもりはないの?」
「お忙しいだろうし、それに、僕のことをよく憶えていないかもしれないし……」
しばらく黙ってサンドイッチを食べていた彼は、紙ナフキンで口を拭うと言った。
「いや、憶えてはいるだろうな。どんなことにも抜群の記憶力を持つ人なんだ。でも、僕は彼の貴重な時間を奪っても歓迎されるような存在じゃないから」
それから、ためらいがちに続けた。
「それは、母にとっても同じだったのかもしれないな。わざわざ来る必要なんてなかったのに、君にまで無駄足をさせてしまった」
彼は、彼の心を沈ませいてるトピックに戻り、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「私のことは氣にしないで。お母様と知り合って、ご挨拶はしたかったから、来てよかったと思うわ」
ジョルジアは、言葉を選びながら、ようやくそれだけ言った。「母親にとって息子が特別じゃないなんてことはありえない」と明確に否定したくても、先ほどレベッカとグレッグ親子が決裂に近い形で別れたのは事実なのだ。
「不愉快にさせたのは本当に申し訳なかった。ただ、君に母と僕との関係を見てもらえたことは、今後のためにはよかったかもしれないな」
「どうして?」
「僕はこれまで通りに、母とは最低限の関わりしか持たないだろうが、そのことを理解してもらえるだろうから。僕と母は、無理して付き合ってもお互いに愉快なことにはならないんだ」
グレッグは、サンドイッチを食べ終えると紙ナフキンで口を拭い、皿の上にきちんと並べたフォークとナイフの下に置いた。テーブルに散らばったパンの粉を集めて、それも皿に置いた。ジョルジアはすっかり見慣れた、とても自然な動きだった。
「子供の頃の僕は、母に振る舞いや考えを否定される度に、どんな悪いことをしてしまったのだろうと悩んだ。反省して、できることなら自分を彼女の希望に合わせようとした」
ジョルジアは慣れていたが、グレッグの几帳面で紳士的な振る舞いは、もしかするとレベッカ・マッケンジーの厳しい躾の結果なのかもしれないと思った。彼は、茶色い瞳をあげて少し強く言った。
「でも、途中から、僕はどうしても彼女の願うとおりには生きられないことを悟ったんだ」
「あなたにも、譲れないことがあったのね」
「ああ。動物行動学研究の道に進むことを決めたときも、アフリカへ戻ると決めたときも、彼女には愚かでくだらない決断だと言われた。思いとどまるように説得された」
「そんな……野生動物の研究やアフリカは、お母様には嫌な思い出でしかないみたいだけれど……」
「ああ。そして、それは理解できるし、僕は彼女にアフリカや僕の研究を好きになってもらおうとは思ったことはない」
彼は、ため息をついた。
「学位を取った時に知らせに行った。博士号を取った時も手紙で知らせた。母は、『おめでとう』と言ってくれた。でも僕は、母が心から喜んでいないことを感じる。もし法科や経済学を修めて、イギリスの大学にでも職を得たら、ひどく喜んだだろう。もしくは、首席で卒業したら……。だから、辛辣なことを言われなかっただけでもマシと考えるべきかもしれない。いずれにしても、僕の心は沈んでしまう。それを避けようとして、僕は母に話すことがなくなってしまったんだ」
ジョルジアは、学校に通っていた頃のことを思い出した。妹のアレッサンドラは、モデル養成学校でもトレーニングを積みながら、学校の試験でも優秀な成績を取った。出席日数がギリギリだと嫌みを言う教師たちを、試験の度に黙らせてきた。ジョルジアは、中の上程度の成績を取った時、家に帰るのが嫌だった。ずっと時間のある自分の努力不足を指摘されると思ったから。
でも、兄のマッテオは、アレッサンドラを心から賞賛すると同時に、ジョルジアが美術で満点を取ったことを、言葉を尽くして褒め称えた。優秀で有能な兄妹二人に挟まれて、居たたまれない思いで生きてきたと思い込んでいたが、彼女は認められ、肯定され、愛されてきたのだ。
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バースのティールームで
あのシーンの元になっていた記述にはずっと納得がいっていませんでした。もともとは、母親の家を出てから道を歩きながら話していたことだったのです。ストーリー上は、具体的な環境がどうしても必要というわけではなかったのですが、会話が長い分少しバランスが悪いなと、首をひねりながらのイギリス行きだったのです。
さて、オプショナルツアーで訪れたバースで何でもないティールームを見つけて、そこで軽く食べたのです。

いくつかある有名どころの店(たとえば「サリー・ラン」の店など)に入るという、お上りさん的な行動は、若干凹んでいる二人には似つかわしくないのですけれど、こんな何でもない店だったらあるかな……なんて思いました。
この作品、ニューヨークでよく舞台にしている《Sunrise Diner》という大衆食堂は、オレンジのネオンを使った看板やスチールの椅子のような、わりとチープなインテリアを想定しているのですが、イギリスで二人が入る店はどちらかというと自然素材を使った、もしくはかなりレトロな感じの、しかもあまり観光客でわらわらしていない店をイメージしています。
このティールームは、そんな私のイメージにぴったりの店でした。
主人公たちと違って、私はストーンヘンジで買ったサンドイッチを食べてしまったあとだったので、紅茶とクッキーのお茶タイムになりました。

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