【小説】霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -
今年どういうわけか妙にたくさん出してしまったキャラクターであるアンジェリカが登場します。別にラスボスではないです(笑)
前作を読んでいない方のために簡単に説明すると、アンジェリカは元スーパーモデルであるジョルジアの妹アレッサンドラ・ダンジェロと、ブラジル人サッカー選手レアンドロ・ダ・シウバの間の娘です。両親が離婚しているので、二人の間を行ったり来たりしています。
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霧の彼方から(9)新しい家族 - 1 -
レアンドロ・ダ・シウバは、愛娘に何度もキスをして、抱きしめた。
「じゃあな、アンジェリカ。五月には会いにいくから、それまでのさよならだ。ああ、明日の試合がなかったら、あと三日は一緒にいられたのに。なあ、もう少し、こっちに居たくないか。パパと、またマンチェスターに戻ってもいいんだぞ」
「パパったら。そんな訳にはいかないのはわかっているでしょう。どっちにしても、来週には学校が始まるのよ。大丈夫よ、パパ。一ヶ月半なんてあっという間ですもの。ロサンゼルスで待っているわ」
イースター休暇を利用して、マンチェスターの父親の元に滞在していたアンジェリカは、ジョルジアたちと共にアメリカへ帰ることになっていた。アレッサンドラからの連絡を受けたレアンドロは、愛娘を愛車に乗せてオックスフォードまで届けに来た。
永遠に思われる「さようなら」の儀式を、ジョルジアとグレッグは顔を見合わせてから、何も言わずに辛抱強く待っていた。レアンドロの車は目立つし、そのオーナーはサッカーに興味がない人ですら記憶に残るほどの有名人だ。彼の娘がそこら辺にいるとわからないように、わざわざ五つ星ホテルのロビーで待ち合わせたのだ。
それなのに、車寄せに見送りに行き、ドアマンだけでなくその場を通る一般人にも丸見えのところで二人は別れを惜しんでいる。
やがて、レアンドロは、ジョルジアたちに簡単に別れを告げると、名残惜しそうに去って行った。
「三時間も乗っていたんですもの。車はもうたくさん」
車が見えなくなると、アンジェリカはぽつりと言った。レアンドロ自慢のスパイダー・ベローチェも彼女にとってはただの車にすぎない。娘が自分のようにドライブ好きだと疑わずに思っているレアンドロには氣の毒だが、マンチェスターからオックスフォードまでのドライブは、アンジェリカには退屈だったようだ。
彼女は、くるりと振り向くと、父親と別れる寂しさで、真っ赤になった目元を伏せた。手元のビーズつきのハンドバッグからレースに縁取りされた薄桃色のハンカチを取り出して、目をぬぐい鼻をかみ、またバッグに投げ込んでパチンと閉じた。それから、にっこりと笑うと、グレッグに手を差し出した。
「初めまして。私、アンジェリカ・ダ・シウバよ」
「初めまして。僕は、ヘンリー・グレゴリー・スコットだよ。ああ、君はたしかにジョルジアの家族だね。とてもよく似ているよ」
それを聞いて、ジョルジアは目を丸くした。アンジェリカも一瞬驚いたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「そう言ったのは、あなたが初めてよ。みんなアレッサンドラ・ダンジェロそっくりっていうのに」
「ってことは……」
グレッグが自信無さそうに二人の顔を代わる代わる見た。ジョルジアが答える前に、アンジェリカは言った。
「もちろん知っていると思うけれど、私のママよ」
「僕は、君のママにはまだ会ったことがないんだ」
グレッグの言葉はアンジェリカには新鮮な驚きだった。
「ママを見たことないの? 雑誌でも?」
「アンジェリカ。グレッグは、ケニアの動物学者なの。アメリカの芸能雑誌は読まないし、スーパーモデルにはそんなに興味ないと思うわよ」
ジョルジアは少し慌てて言った。グレッグは、困ったように笑った。
アンジェリカは、可笑しそうに笑った。ママの顔を知らないなんて人、はじめて。
「うふふ。そういう人もいるのね。最高。姻戚になる人の中で、絶対に仲良くなれそうと初日に思ったのはあなたが初めてよ。ねえ、私もグレッグって呼んでもいい?」
それを聞いて、グレッグはほっとしたように笑った。
「もちろん」
「アンジェリカ、お腹は空いている?」
「そうね。そんなに空いてはいないけれど、何か美味しいものが食べたいなあ。ソニアの料理って、あまり美味しくないんだもの。パパのウェイトコントロールのためだと思うけれど」
ジョルジアは、小さいアンジェリカが父親の新しい妻にあまり歓迎されていないことを知りながらも、角が立たないように騒がず、氣丈に振る舞ったのを感じてそっとその手を握った。彼女は、伯母の愛情を感じて嬉しそうに笑った。
「だから、今日からジョルジアと一緒だって聞いた時、実をいうと、ほっとしたの。ねえ、グレッグ、あなたはものすごくラッキーだって知っている? ジョルジアみたいに美味しいご飯を作れる奥さんって、そんなにいないわよ」
彼は大きく頷いた。
「知っているよ。ご飯づくりだけじゃなくて、君のジョルジア伯母さんは、何もかも素晴らしい人だ。僕は本当にラッキーな男だよ」
ジョルジアは、彼がそんなことを言うとは思いもしなかったので驚いた。
「でも、今晩は、ジョルジアのご飯は食べられないのよね。どこか美味しいお店、知っている?」
ませた口調でアンジェリカが訊いた。
グレッグは、少し考えてからジョルジアに言った。
「僕は、学生時代にはあまり外食をしなかったから、そんなに詳しくないんだけれど、とても美味しい料理を出すパプがあったんだ。もし君が反対でなければ……」
ジョルジアは肩をすくめた。十歳の子供を連れて行ってもいいのだろうか。アンジェリカは、急いで言った。
「ジョルジア、お願い。私一度でいいからパブに入ってみたいの。でも、ソニアがいつも反対するんだもの。子供がお酒を出す店に行くものじゃないって」
アンジェリカの言葉に、ジョルジアは少し困ってグレッグに訊いた。
「子供が入っちゃだめなの?」
「いや。キッズメニューがあるパブもあるよ。そこにはないかもしれないけれど」
彼が行こうと考えるからには、酔っ払いがひどく騒ぐような店ではないのだろう。
「じゃあ、あなたのお薦めのそのパブに行きましょうよ。アンジェリカ、パパにどんなお店に行ったか訊かれたら、パブじゃなくてレストランに行ったと言っておいてね。教育方針に反しているかもしれないから」
「もちろん、黙っているわ。やった!」
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毎日少しずつ運動
Apple Watchを買った動機の一つに、なまった身体をなんとかしたいというのがあったのです。そして、目論見通り、九月から毎日欠かさずに何らかの運動をしています。
といっても、平日はそれまでと変わらずに、朝晩自転車で通勤するか、昼休みに30分ほど散歩をするだけで、ほぼ一日に必要なワークアウトは完了するのです。
とはいえ、老後に備えてすこしブヨブヨしてきたお腹をなんとかしたかったので、加えて毎日わずかずつ筋トレ的なことをすることにしました。そして、Apple Watchのワークアウトのメニューで「これなんのこと?」と調べてわかったのが、「高強度インターバルトレーニング(HIIT)」というトレーニング方法です。簡単に言うと「強い負荷の筋トレを20秒行っては10秒休む、パターンを4種目、2周分繰り返す」ことなんですけれど、だいたい四分間これをやると有酸素運動と無酸素運動の両方の効果があって、効率的に痩せやすい身体になるっていうんですよね。
で、いろいろとメニューはあるようなんですけれど、アプリに時間とメニューをお任せできないかなと思って調べてみました。
で、とりあえずこちらを使っています。「3分フィットネス」というアプリです。

運動レベルは「 楽」「普通」「ハード」「めっちゃハード」、鍛える部位は「全身」「上半身」「下半身」と選べます。毎日少しずつ違うメニューを提案されるので、いろいろな部位の筋肉を鍛えられるんですよね。今は「普通」「全身」か「ハード」「下半身」のどちらかで毎日一セットだけやっています。
このアプリ自体はiPhoneアプリなのですけれど、ついでにApple Watchのワークアウトで「高強度インターバルトレーニング(HIIT)」の計測もするので、ヘルスケアやアクティビティにも記録されています。
3分フィットネスとありますが、おそらく休憩を入れていないのか、一セット五分かかります。ま、大した違いはないですね。これを続けたお陰なのかわかりませんが、お腹周りに筋肉らしい手触りがはっきり感じられるようになってきましたし、春からどんなに頑張っても落ちなかった体重がようやく落ちてきました。
健康のためにしばらく続けてみようと思います。
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【小説】主よみもとに
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はBYU Vocal Pointの “Nearer, My God, to Thee” にインスパイアされて書いた作品です。作品中に出てくる賛美歌は世界中で歌われていますが、この歌もその一つです。一番よく歌われるのはお葬式という特殊な賛美歌です。
歌詞はむしろ喜びに満ちているような歌なのですが、トーンはどちらかというと悲壮です。このギャップに私はいつも引っかかっていました。これが、この話で伝えたかったことと重なりました。これは「悲壮な幸福」の話です。
今回のストーリーは、名前だけを変えてありますが、私小説です。私の話ではないのですけれど。
追記に動画と、歌詞、そして意味がわかるように私のつたない訳を添えました。

主よみもとに
Inspired from “Nearer, My God, to Thee” by BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus
私が海外に移住した時期と、シスター荻野が帰国したと母から聞いたのは、ほぼ同じ頃だったと思う。私の記憶の中のシスター荻野は、小柄なのにとてもエネルギッシュ、快活な女性だった。カトリックの小学校に通った私の身近には、白いくるぶしまである服を着て黒いベールを被ったシスターと呼ばれる修道女がたくさんいたので、彼女たちがどのような出来事をきっかけに修道の道に入ったのか、深く考えることがなかったように思う。
純潔を保ち、神に仕える。ありとあらゆる私欲を、今の私にとっては決して罪ではない、例えば「欲しいものを好きなだけ所有する」「大笑いするためだけのエンターテーメントを観にいく」「誰かを好きになる」「同僚達と一緒にムカつく上司の噂を肴にして呑む」といったことのどれもができない生活に自ら志願して向かう、覚悟のある人たちの心持ちをほとんど考えていなかった。
子供の頃の私にはわかっていなかった。たとえ善良な努力家であっても、世界に溢れる物質的または精神的な誘惑に抵抗し、世界とそこに生きる誰かのために己の人生を捧げることが、どれほど難しいことなのかを。
シスター荻野は、そうした修道女の中でも格別で、驚くべき熱意と克己心を持ち、その人生を神に捧げる道を邁進し、行動に移した。ブラジルの貧民窟にある修道院に志願し赴任したのだ。
子供の頃に考えていたほど、宗教の世界は徳と善良だけが支配する世界ではない。それは、他の宗教と同様にカトリックも例外とはならない。免罪符の販売に象徴された中世における腐敗とは違うかもしれないが、十三億もの信者を抱える大きな組織には、階級もあり、それに伴い莫大な資金の動きもある。権力争いもあれば、栄華もある。
テレビに映り、みなに跪かれ、ジェット機で飛び回る有名な枢機卿もいれば、教会内での信者や他の聖職者を己の意のままにして満足する司祭もいる。また、オルガンの演奏者として名を成すもの、心ゆくまで学究にいそしむ学者型の聖職者もいる。学校の経営者として子供たちを厳しく導く修道女たちもいる。
どの生き方が正しい、またはキリスト者として間違っていると、私が断じることはできない。真面目な信者とは口が裂けてもいえない俗物である私と違って、信仰と祈りによってその道に邁進している人たちは、それぞれに信念に従って正しいことをしているのだから。
ただ、『選び取った苦難』の一点だけにこだわれば、現代においては、その道を選ぶキリスト者は少ない。
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としており、そこを通って入る者は多いからだ。 命に至る門はなんと狭く、その道はなんと狭められていることか! それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音7章13-14節)
マタイの福音書で、有名な『山上の教え』の一つとしてイエス・キリストが語っている言葉を実践することは、非常に難しい。恵まれた世界に生を受けたにもかかわらず、自ら苦難に向かっていくことは非常な思い切りを必要とする。
シスター荻野は、その道を選んだのだ。日本にいて、ごく普通の修道女として信仰に満ちた生活を送る事もできたのに、それでは自分にできる全てを差し出したことにはならないと、敢えて志願したのだ。
彼女のことを思い出すとき、母が段ボールに詰めながら私に見せた古着やタオルのことが脳裏に蘇る。母は、シスターからの手紙を読み、支援物資を集め、教会を通してブラジルに送る担当を買って出た。
「こんなよれたバスタオルやTシャツは失礼かと思っていたんだけれど」
私は目を丸くした。以前手伝った近所の教会バザーでは、新品に近い物以外は持ち寄ることはしない。売れないので結局主催者の邪魔になるからだ。その箱の中には、切って雑巾にでもした方がいいかと思うものもあった。
「色褪せた物どころか、穴の空いたものですら、有難いんですって」
新品はおろか、こぎれいな中古品を買うことすらもできない人々が溢れているという事実は、どこか別の惑星の出来事のように、私の観念からシャットアウトされ続けてきた。けれど、その箱は、わずか一瞬ではあるが、その遠い世界のことを私に想起させた。貧しく誰かの支援なしには生きられない人たちの、出口のない苦しみをほんのわずかだけ想像して、氣の毒に思った。そして、その世界と日々向き合い、異国で神と人々に奉仕し続けるシスターについての尊敬の念を深くした。
私にとっては、ほんのそれだけのことで、すぐに忘れ、いつもの飽食と怠惰な日々を過ごした。人生の全てを擲ち、貧しい異国の人々の救済のために捧げているシスター荻野のことは、それからしばらく忘れてしまっていた。
そのシスター荻野が、帰国したと母から聞いたとき、はじめは休暇の帰国なのかと思った。
「まさか。自分の休暇のために使える飛行機代があったら、貧民街の方のために使ったでしょうね。上層部からほぼ命令に近い形で送り返されたんですって」
「どうして?」
「ずっと帰国していなかったし、健康状態がよくないので精密検査をしなさいってことだったみたい……」
「ご病氣なの?」
「ええ。検査の結果ドクター・ストップで、海外赴任は禁止されてしまったらしいわ。本来ならとっくに定年になってるお歳だし、あんなに尽くされたんだし、ゆっくり養生して楽に余生を送っていただきたいと思うけれど、ご本人はブラジルに戻りたいと本当に悔しそうで」
「それで、今どうしてらっしゃるの?」
私が訊くと母は「U市の祈りの家ですって」と答えた。それは、高齢の修道女だけが住んでいる家で、いわば修道女達の老人ホームのような位置づけの場所だった。
次にシスター荻野の近況を耳にしたのは、週に一度していた母との国際電話でだった。鍼灸院に私の姉が行ったときに偶然出会ったというのだ。腰が曲がって歩くのもやっとだったらしい。
それから、母は祈りの家にシスターを訪ね、歩くのもおぼつかないのに奉仕に加わろうとしていた様子を話してくれた。
「あんなに永いこと働きづめだったのだから、老後くらいはのんびりして欲しいと私たちは思うけれど、ご本人はまだ神様に尽くして働きたいのでしょうね」
「じゃあ、何か簡単な仕事をなさっているの?」
私が訊くと、母のトーンは暗くなった。今でも何かで奉仕したいと願うシスター荻野のことを、世話をしている若い修道女らが迷惑がってきつく当たっているようだと。
「意地悪をしているつもりではないんでしょうけれど、身体が動かないのに余計なことをするから仕事が増えると言わんばかりだったのよね。私たち古い信者や関係者は、シスターの素晴らしい働きのことを知っているけれど、若い人たちは昔のことなど知らないし、ご本人も謙遜して何もおっしゃらないみたいだったし」
なんて悲しい老後なんだろうと私は思った。母もそう思ったらしく、時おり訪問して、話を聞いたり教えを受けていたようだ。次に私が日本に行くときは一緒に訪問しようかと話をしていたのだが、元氣だった母が急逝してしまい、その約束は果たされなかった。
母の葬儀に際しては、急いで一週間だけ日本に帰国したので、シスター荻野の話題を姉としたのは、その次に日本に帰国したときだった。
「そういえば、お母さんと近いうちにシスター荻野の所に訪問したいって話したから、今から一人で行ってこようかしら」
すると、姉は首を振った。
「行ってもわからないと思う。三ヶ月くらい前に、鍼灸院の先生に聞いたんだけれど、認知症が進んでしまって、誰のこともわからなくなってしまわれたんだって。それを聞いて私も訪問を諦めたの」
どうして……。私は、シスター荻野の人生の苦難を思い、やりきれない心持ちになった。
努力が必ず報われるわけではないことくらい知っている。でも、因果応報の法則から考えれば、あれほどまでに人のために尽くし、キリスト者としての理想的な生き方を続けてきた彼女には、笑顔と尊敬に囲まれた穏やかな老後が相応しいと思っていた。こんな人生の最終章は、あまりにも酷だ。
亡くなった母の葬儀で聴いた「主よみもとに」の歌詞が心に響く。
主よ、みもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に
ありともなど 悲しむべき 主よ、みもとに 近づかん
さすらうまに 日は暮れ 石のうえの かりねの
夢にもなお天を望み 主よ、みもとに 近づかん
主のつかいは み空に かよう梯 の うえより
招きぬれば いざ登りて 主よ、みもとに 近づかん
目覚めてのち まくらの 石をたてて めぐみを
いよよせつに 称えつつぞ 主よ、みもとに 近づかん
うつし世をば はなれて天がける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき 主のみかおを あおぎみん
(カトリック聖歌 658番 / 讃美歌 320番)
葬儀では、たいてい歌うので、亡くなった人のための曲のように錯覚するが、これは生きている信者達がどのように生きて死を迎えるべきか思い新たにするための歌なのだ。
キリスト教の、そしておそらくシスター荻野が考えていた幸福とは、おそらく私の感じる幸福とは違うのだと思う。現世での因果応報や、人々に認められて尊敬されることも、穏やかで健康な老後も、その他、私がそうだったらいいと願うよりよい人生の終わり方も、真のキリスト者の目指すべきものではないのだろう。
幸福といえば、健康で衣食が満たされ、栄誉を授けられ、氣の合う仲間やお互いを大切に思う家族に恵まれるようなことをすぐに思い浮かべるが、キリスト教の教えではそれは真の幸福ではない。イエス・キリストが人類のために無実の罪で十字架の上で命を失ったように、使徒やそれに続く信者達が迫害に屈せず殉教したように、断固として教えの道に忠実に生きて命を捧げ、最後の審判で認められて天国に受け入れられることこそが幸福なのだ。
もちろん過去から現在に至る多くの信者は、その様な生き方はできない。かなり善良な信者でも、良心に恥じない、つまり「盗まず」「殺さず」「姦淫せず」程度のさほど難しくない戒めを守り、時おり貧しい者を心にとめて慈善行為をしたり、時おり思い出したように祈りを唱えたりして、自らの至らなさに心を留めるのが精一杯だ。ついつい食べきれないほどの豪華な食事を食べてしまったり、恵まれた人たちを妬んでしまったり、嘘をついてしまったりと、小さな罪をも重ねつつ、それでもできることなら死んだら地獄には行きたくないと、都合のいい望みを抱く。
そうした何億人もの「正しい信者になりたくてもなれない人びと」、聖書のいうところの広き門から入り楽に暮らす人々を見つつも、一線を画して真のキリスト者を目指すことは、厳しく孤独な道行きだ。生きているうちに尊敬され報われるのではなく、一人狭き門と険しい道を選び続け、惨めな生の終わりすらも神の国へ至る途上だと喜ぶのはなんと難しいことだろう。
身体がボロボロになるまで働き、邪険に扱われ、お荷物と見なされていることを肌で感じ、働きたくても身体が動かなくなったことを嘆くシスターには、忘却は一つの救いなのかもしれない。一足先に旅立った母は言っていた。あの方こそ、神の国に迎えられるのに相応しいと。
他の誰かが天国に行くのかは知らない。惜しまれて立派な葬儀で送り出された人のことも。けれども、ゆっくりと旅立とうとしているシスター荻野の行く先については、私は亡き母と同じ意見を持っている。
(初出:2019年11月 書き下ろし)
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この花の名前は

道ばたで花が咲いていて「これなんていう花だろう」って思うこと、ありませんか? 私はよくあるんです。更にいうと「日本でよくある●●に似ているけど、違うような」とうろ覚えの時もあります。で、以前は、手元に図鑑でも持っていなければ調べようもなかったのですけれど、最近は便利なものがあるのですね。
最近ダウンロードした「PlantNet」というアプリです。私はiOSのものですけれど、Android版もあります。とてもわかりやすいアプリで、「写真を撮り、その写真で検索する」ということに特化してあります。
写真を選び、それが花なのか、葉っぱなのか、幹なのかなどを選んで検索すると、いくつか候補が出てきます。で、他の写真と見比べて同定できるのですね。
フランスの「農業開発研究国際協力センター(CIRAD)」「国立情報学自動制御研究所(INRIA)」「農業研究所(INRA)」などの研究機関によって開発されたアプリなので、情報の信頼性も高いですし、それに位置情報つきで知らせることが出来るので、おそらく分布などを調べているであろう研究機関に協力することも出来るわけです。
まあ、日本語化はされていませんが、そもそも花アイコンや葉っぱアイコンをはじめ、基本的に視覚だけで全て済むアプリなので日本語でなくてもOKなのでは。また結果についても、学名はいずれにしても世界共通のラテン語ですから、そのラテン語を検索すれば簡単に和名もわかるかと思います。
また、私にとってラッキーなことには、ヨーロッパの情報はかなり多いので、「結局わからない」ということは皆無です。
スマホが当たり前になった時代にマッチした、自然科学の楽しみ方ですよね。
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【小説】走るその先には
「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十月はホイットニー・ヒューストンの “Run To You” にインスパイアされて書いた作品です。これまた超有名な曲ですので、歌詞やその和訳はネットにたくさん出回っています。
歌詞を聴いて(読んで)いただくと、何にインスパイアされたのかがわかると思います。この話も実話をモデルにして書いています。

走るその先には
Inspired from “Run To You” by Whitney Houston
最初にヴェルダの存在を意識したのは、いつだっただろうか。レオニーが最初にヘルツェン野犬保護センターでのボランティアに参加したのが二年前だったので、その時にはもう出会っていたのかもしれない。
最初の年、レオニーは実に軽い心構えでそのプログラムに参加した。好きな動物と触れ合いながら、エキゾティックなイスタンブールの街を楽しめる、パッケージ旅行のようなものだと。
でも、その考えが甘ったれたものだと、初日に思い知らされた。センターはレオニーと同郷の獣医フライシュマン女史が自費で立ち上げた。彼女は定年後の人生をトルコの放置されて傷ついた野犬たちの保護活動に捧げている。色艶の悪い顔は表情に乏しく、痩せた筋肉質の肌は日焼けで荒れていた。ギスギスとしているのは外見だけでなく、口のきき方も同じだった。だが、あの地獄を毎日続けていたら誰だって朗らかで自分の容姿に氣を配ることなんてできなくなるだろう。
荷物を奥に置いて一息つく余裕もなく、レオニーはフライシュマン女史が棘を抜こうとしている大きな犬を共に押さえつけるように言われた。それは、後からわかったのだが、アバクシュというトルコの固有種の成犬で、白く豊かな体毛が特徴なのだが、黒っぽい犬だと思い込むほどにひどい汚れにまみれていた。
痩せこけ、疥癬にまみれて、所々の露出した肌にウジ虫がたかり、さらにどこかの有刺鉄線に引っかかったのだろうか、目の近くに鉄の棘が深く刺さり化膿しかかっていた。ひどい目に遭い続けてきたのだろう、人間不信がひどく、センターのメンバーたちが保護したときも、処置を受けているときも吠え続けていた。
それから、少しは人なつこさを残している小さな犬たちの世話でくれた一週間は、レオニーに動物保護の現実を思い知らせた。それは愛情に満ちた崇高な旅などではなく、人間の身勝手さと己の無力さに向き合うだけの日々だった。
同じプログラムに参加した同郷のメンバーで、翌年の休暇もヘルツェン野犬保護センターへ行くことを決めたのはレオニー一人だった。
「思っていたよりも、骨があるようね」
フライシュマン女史は、そう言って初めて笑顔を見せてくれた。
二年目に担当するように言われたのが、身体が大きい犬たちの世話だった。ヴェルダは、そのうちの一頭だった。トルコ固有種カンガールの血を引くと思われる雑種犬で、身体の多くの部分は白い短毛で覆われ、くるんと撒いた尾と鼻の頭が黒い。保護されたときは生後三ヶ月だったというが、すでにそこら辺の成犬より大きかった。唸ったりはしなかったが、檻の奥に張り付くようにうずくまり疑い深くレオニーを眺めていた。
「ヴェルダって、どういう状態で保護されたんですか?」
フライシュマン女史は、顔を曇らせて答えた。
「ひどい状況だったわ。母犬と一緒に放り出されたみたい。母犬は打ち据えられてあの子を含む三匹の子犬を抱きかかえるようにして冷たくなっていた。生きて保護されたのは二匹だけで、生き残ったのはヴェルダだけ」
「そうだったんですか。人なんか信用できないって思うのも無理ないのかな。じゃあ、名前は先生がつけたんですか?」
彼女は、奥で作業している青年エミルを示して答えた。
「これだけたくさんいると、私が考えつく名前にも限りがあるのよ。だから、この子の名前はエミルが考えてくれたの。近所の雌犬と同じなんですって、薔薇って意味らしいわ」
ヴェルダは、食事を入れて檻の扉を閉めると、そろそろと近づいてきて喉につかえるかと思うほど急いで平らげた。
「心配しなくても、だれもあなたのご飯を取ったりしないよ、ヴェルダ」
レオニーは、前回と違い三週間滞在したので、以前よりも犬たちと信頼関係を築くことに成功した。一週間目の終わりには、食事の用意や散歩だけでなく、多くの犬たちのブラッシングやシャンプーもできるようになったし、ヴェルダも匂いを嗅いで身体を撫でさせてくれるまでになった。尻尾を振って黒い鼻先をすり寄せてくる様子が愛しくて、レオニーはたくさんの言葉をかけながら心を込めて撫でた。
次に来るのはまた一年後のつもりだったが、フライシュマン女史が人手不足に悩んでいるとメールをよこしたので、レオニーは半年後のクリスマスにも一週間だけまたセンターへ行った。
夏に馴染んだ大型犬たちのほとんどは姿を消していた。怪我が治りきらなかったアバクシュ犬のように亡くなってしまった犬もいたし、幸い新しい飼い主に引き取られてセンターを去った犬たちもいた。
ヴェルダは、まだいた。レオニーの姿を見ると狂ったように尻尾を振った。
「あなたの後任の子とは合わなかったのよね。スタッフにも時間もなかったから、かわいがってもらうこともなかったし。だからあなたに会えて嬉しいのよ」
フライシュマン女史は頷いた。
センターは深刻な人手と資金の不足に悩んでいた。一週間の滞在中、レオニーは以前の三倍の数の犬たちを担当し、ヴェルダと遊ぶ時間はほとんどなかった。けれど、大きくなった白い犬は、哲学的な面持ちで、食事や散歩のために近づいてくるレオニーをじっと見つめ嬉しそうに尻尾を振って見せた。
「レオニー、お願いがあるの」
フライシュマン女史が、クリスマスケーキの一切れを手に彼女の側に座ったのは、レオニーが発つ二日前だった。
「なんでしょうか」
「ヴェルダの引取先がチューリヒの老婦人に決まったことは話したでしょう。その輸出許可関連の書類が、今日届いてね。急だけれど、あなたが帰る時に付き添って欲しいの。こちらから付添人のために航空券を買う余裕がないから。空港に私の知人が引き取りに来て先方に届けるので、多くの手間は取らせないわ」
レオニーは、ヴェルダに家ができることにほっとすると同時に寂しさも感じた。新しい飼い主に愛情を注がれて、幸せになったらきっと私の事なんて忘れちゃうんだろうな、そんな風に思ったから。
イスタンブールで、ヴェルダを連れて車に乗り込んだ。尻尾を振るレオニーに「一緒に行くんだよ。新しいお家に行くんだよ」と語りかけた。ヴェルダは、まるで意味がわかっているかのようにことさら激しく尻尾を振り笑顔を見せた。特別貨物室へ向かうヴェルダは不安そうだったのでやはり声をかけた。
「大丈夫。同じ飛行機に乗るから。チューリヒでまた逢おうね」
チューリヒのクローテン空港で、ヴェルダを受け取ったとき、疲れていたのかぐったりしていたのが、レオニーを見てまたちぎれんばかりに尻尾を振って立ち上がったのが愛しくて、思わず駆け寄った。税関と検疫の長く煩雑な手続きも無事に終えて、綱をつけたヴェルダと一緒に到着ゲートを越えた。
フライシュマン女史の言った通り、そこには迎えが来ていてそこでヴェルダと別れることになった。不審げに幾度も振り返りつつ連れられていくヴェルダをレオニーは涙ぐんで見送った。
三ヶ月後にフライシュマン女史からもらったメールを読んでレオニーは驚いた。ヴェルダを引き取った老婦人が老人ホームに入ることになり、大型犬を飼い続けることができなくなったというのだ。費用や検疫手続きを考えるとトルコに送り返すのは現実的ではないが、このままではチューリヒの動物保護施設に送られ場合によっては安楽死になることもある、できれば新しい引取先を見つける手伝いをして欲しいというのだ。
だったらはじめからトルコから大きな犬を引き取ったりしなければいいのに。あの檻の奥で絶望的に眺めていたヴェルダの表情を思い出して、レオニーの心は痛んだ。虐待で母親や兄妹を失い、ようやく慣れたセンターから遠くスイスまでやって来たというのにまた別のセンターに逆戻りで、さらに生きられる保証もないなんて。レオニーは憤慨した。
レオニーは、急いでチューリヒに向かい、老婦人の話を聞きに行った。もう誰か引き取り手を見つけたのか、どのくらい時間の余裕があるのか知りたかった。
レオニーを見たヴェルダは、狂ったように尻尾を振って近づいてきた。老婦人は、驚いて言った。
「まあ、こんなに喜びを表現することもあるのね。大人しいけれど感情に乏しい犬だと思っていたの。今まで飼った犬みたいに、人なつこいと引き取り手も見つけやすいのだけれど、この子のように相手を選ぶとなかなかね。それにこんなに大きいし」
成犬になったヴェルダは、85センチもの体高になっていた。それにトルコでは牧羊犬として狼や熊にも立ち向かうといわれる勇猛さ故、子供のいる家庭では敬遠されるだろう。でも、それもわかっていて引き取ったはずなのに。
これからヴェルダは、どれだけ長く家族が見つからない不安な状態を過ごすのだろう。新しい飼い主が見つからなければ、邪魔者扱いされてこんな故郷から遠く離れたところで命を落としてしまうのだろうか。
「私が引き取ります」
ほとんど何も考えずにレオニーは口にしていた。老婦人は驚いた。自分でも驚いたが、もう後には引けない。
フライシュマン女史に報告したところ「おすすめじゃないわね」と言われた。関わる犬を全て引き取ることはできない、割り切ることも大切だと言うのだ。それはわかっている。でも、そうやって割り切って、後からまた嫌なニュースを耳にすることには我慢がならない。
それにヴェルダが茶色の瞳を輝かせて見ていたのだ。尻尾を振り、大きく口を開いて。
「おいで、ヴェルダ。はじめから私が飼えばよかったんだよね。私の住む村は、散歩するところもたくさんある。だから一緒に行こう」
白い大きな犬が、体当たりするように駈けてきた。まだ20キロくらいしかなかった頃によくしてきたように。50キロ近くになり、大きくてがっしりとした彼女の身体は、責任感の重さそのもののようだった。でも、きっと上手くいく。こんなに喜んでくれるんだもの。
レオニーは、思いがけず大型犬と過ごすことになる、大きな生活の変化に向けて、あれこれと思いを巡らせた。
(初出:2019年10月 書き下ろし)
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【小説】豪華客船やりたい放題 - 6 -
某参加者の方が、パニック状況を作り出したようですが、こちらは魔法はもちろん、世界平和に寄与したり市民の安全をどうにかできたりするようなスペックのない小市民の集団ですので、安全第一で問題の起こる前にさっさと下船することにしました。尻切れトンボだとの批判は一切受け付けませんのであしからず。「君子危うきに近寄らず」
いや、もともと何もしないで降りる予定だったんですよ。で、TOM−Fさんが作ってくださった状況をちゃっかり利用することにしました。そう、ワープしちゃったんですよ、かなり初っぱなから。
【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
私のところのチームの詳細設定/この話をはじめから読む
目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 6 -
甲板に出てみたら、本当にそこはドイツ風の街並みが見える湖だった。僕は、スマートフォンの電源を入れてしばらく待った。程なくしてメッセージが届く。「ようこそドイツへ。電話をかける場合の通信料は……」ここは、間違いなくドイツらしい。地図アプリで位置情報を確認し、目眩がした。
困惑して船内に戻った。甲板近くにいて電話をしているのは、マッテオ・ダンジェロ氏だ。姪のアンジェリカ嬢もすぐ側にいる。ガラス窓を挟んで向こう側には、黒ずくめの衣装を纏った男性と全身白い衣装を身につけた綺麗な少女が向かい合ってお茶を飲んでいる。アンジェリカ嬢は、その少女のことを知っているらしく、嬉しそうに窓に駆け寄り手を振った。白い少女は、ビスクドールのように白い顔を向けて首を傾けた。白い頬がうっすらと鴇色に染まったように思った。
「わかっているよ。セレスティン、世界一有能な秘書さん。君が次から次へとかかってくる電話を上手に捌いてくれるお陰で僕がこうして数日羽を伸ばせるって事もね。でも、いつの間にかボーデン湖に来てしまっているのは、僕の予想を超えているんだよ。まあ、ある意味で好都合かもしれないな。もともとこの旅の後にアンジェリカをアレッサンドラの所に届けるつもりだったんだし、かなり早く着いてしまったって事でね。ああ、緊急事態なのはわかるとも。幸い妹は、ここからさほど遠くないところに居るから、こちらも明日にはオフィスに戻れるとも。僕に会えないのがそんなに寂しいとは嬉しいね。おや、そういう意味じゃないなんてつれないね、青空の瞳を持つお嬢さん。じゃあ、航空券の手配を頼むよ、できれば午後の便をね」
ダンジェロ氏は、電話を切ると僕に笑いかけた。
「やあ、タカシ、どうでした? 本当にここはボーデン湖だったでしょう?」
僕は、困惑して答えた。
「ええ。どういうことになっているのか理解できませんが、間違いなくここはドイツのようです。飛行機だってこんなに速く移動できないはずなのに、一体どうしたんでしょう」
「なに、枠の中をどこにでも移動できる狐のお嬢さんと暮らしているあなたが、この程度のことに驚くことはないでしょう。ところで、かの狐さんはどうしたんですか?」
アンジェリカ嬢との身体の交換は、本当に一日以内で、朝確認したときには、山内はもう妖狐姿に戻っていた。そして、意氣揚々としてテレビのチャンネルをつけてから、パニックに陥ったのだ。それが予想外の場所にいることに氣が付いた最初のきっかけだった。
「それが、どうしても観たい番組の電波が入らないことがわかり、日本の我が家に戻ってしまいました。その節は、姪御さんにもいろいろとご迷惑をおかけしました。大丈夫でしょうか」
僕の質問にダンジェロ氏は笑って、窓から少女に手を振り続けているアンジェリカ嬢を呼んだ。
「僕の愛しいカッサータちゃん。タカシが君の心配をしているよ」
アンジェリカ嬢は、振り向き笑顔でこちらに歩いてきた。
「こんにちは、タカシ。心配してくれてありがとう。それに、服をクリーニングしてくれてありがとう。大きな問題はないわ。少しスカートがきつくなっちゃったけれど」
僕は、彼女に謝った。
「そんなに食べるなって、散々言ったんだけれど。もっと強く止めるべきだったな。申し訳ない」
彼女は、朗らかに笑った。
「明日からママと一緒にトレーニングするから大丈夫。それに、いろいろと面白いものを観ることができて楽しかったの。ステゴザウルス、一番好きな恐竜なんだけれど、生きているのを観ることができてとても嬉しかったのよ。ところで、タクヤはどこに行ったの?」
「彼は、どうしても観たいアニメがあるから、先に日本に帰ったんだ。僕も、仕事があるので次の寄港地で降りなくてはならなくなったんだ。まさか、一晩でドイツに来るとは思わなかったのでね」
「そう。じゃあ、私たちと一緒ね。短かったけれど楽しかったわ。あのね」
そういうとアンジェリカ嬢は、肩から提げたビーズのハンドバッグをパチンと開けて、中から可愛らしい包みを大切に取り出した。
「あそこに座っている女の子がいるでしょう? これ、あの子から、タクヤへのプレゼントなの。美味しいワッフルなんですって。タクヤはワッフルが好きなの?」
可愛らしいリボンのついた綺麗な包みは、がさつな山内にはもったいないような氣もするが、二人の少女の優しい思いが籠もったプレゼントだ。壊さないようにそっと受け取った。
「好きだろうな、きっと。ありがとう。必ず山内に渡すよ」
僕は、ガラス窓の向こうの少女にも、その包みを見せて会釈をした。少女の瞳が優しく輝いたように思った。
「ところで、船のオーナーとは会えたのかい?」
ダンジェロ氏は、僕の話を憶えていてくれたようだ。
「いえ。残念ながら。それに、たとえ知り合えたとしても、こんな突拍子もない話を信じてもらって助力をお願いするには、十分な時間が必要です。慌てて話をしてそのまま立ち去るような無礼はできないでしょう」
僕が肩を落として語ると、ダンジェロ氏は肩を叩いた。
「そうだね。彼は、とても忙しいし、多くの陳情者に悩まされている。今日知り合って、明日何かを解決してもらうと期待するのは難しいだろう。だが、僕は今回君とかなり親しくなった。この船のオーナーほどの情報ネットワークと権能はないけれども、イタリアにも少しはコネがある。ヤマウチタクヤという名の日本人の足取りについて、調べてみよう」
僕は、深く頭を下げた。大切な姪にあれほど迷惑をかけたというのに、山内のために親身になって助力を申し出てくれるなんて、なんと心の広い人なんだろう。
寄港地のコンスタンツが近づいてきた。ダンジェロ氏とアンジェリカ嬢、そして僕もスーツケースを持って待っている。
ここを降りたら、すぐにチューリヒに向かい、それから日本に向けて発つ。《ニセ山内》のいるイタリアにこれほど近いのに、尻尾を巻いて退散するのは悔しいが、会社員の僕が勝手に有休を延ばして長く休むなんて事は許されない。
子供の頃には、長い休みを取ってくれない父のことをどうしてだろうと思っていたものだが、今の僕も似たようなものだ。豪華客船で何ヶ月ものんびりと楽しむような旅をいつかしてみたいものだが、ダンジェロ氏のような大富豪ですら早々に切り上げなくてはならないというなら、僕のようなしがない会社員にそんな贅沢が可能な日は来ないのだろう。
スマートフォンが震えた。観ると我が家からだ。
「もしもし?」
受信すると、四角い枠の中に見慣れた狐耳の美少女が浮かび上がった。
「よう。もう降りたのか?」
楽しみにしていたアニメ『魔法少女♡ワルキューレ』、今日は、黄金戦士フレイヤの活躍回とか言っていたが、 それに合わせてなのかスカートとセーラーカラーは黄色いものになっている。色が違うだけの服を何着買ったんだ、この男は。
「ああ、君が場所が違うと言いだしたときには信じられなかったけれど、本当に一晩でヨーロッパ、それもドイツのボーデン湖に来ていたんだ。次にどこに行くかわからないし、三日後には社の会議に出なくちゃ行けないから、急いで降りたよ」
説明をしたが、彼には休職中の会社のことなど、どうでもいい様子だった。
「そうか。じゃあ、また船に戻っても仕方ないな、お前の家で待っているから、寄り道しないで帰って来いよ。お家に着くまでが遠足です、なんちゃって」
いいたいことだけ言うと、彼はさっさと消えた。お土産を預かっていると伝え損ねた。
あの瞬間移動能力は少し羨ましい。それに、やりたい放題のできる彼の性格も。いや、何を言っているんだ。僕は、頭を振った。港を振り返るとあの素晴らしい船が優雅な巨体を横たえていた。さようなら、また、いつか。日常に戻るべく、僕はコンスタンツの街を歩いて行った。
(初出:2019年11月 書き下ろし)
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【小説】霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -
この連載の開始前に公開したPR動画での台詞、氣になさっていらした方もあるようですが、たぶんこの回のアレじゃないかしら。予想通りの意味合いでの台詞か、それとも全然違う意味合いを想像なさっていらしたのか、ちょっと興味があったりします。
さて、少しだけ別小説を挟んだ後、この小説もついに最終章に入ります。今年ももうすぐ終わり。妙に早いなあ。
![]() | 「霧の彼方から」を読む あらすじと登場人物 |
霧の彼方から(8)もう一人のマデリン - 6 -
グレッグは、瞳を閉じてうなだれた。
「僕のために……僕はなにも知らずに、誰にも受け入れてもらえないといじけていたのか」
ジョルジアは、彼の髪を梳き、そのまま顎髭に指を絡めて優しく撫でた。
「でも、あなたは、彼女の期待に応えたわ。ちゃんと卒業して、立派な学者になった。そして《郷愁の丘》で、望む仕事ができるようになった。アトキンスさんは、それを知ったらとても喜ぶと思うわ」
「そして、ケニアでシマウマの研究をすることができたから、君と出会うこともできたんだ」
瞳を上げて、彼はジョルジアを見つめた。
「僕は、こんな歳だけれど、今までこんな密接な関係を誰かと持ったことがない。愛想を尽かされて去られることを怖れて、ちゃんとした関係を築く努力をしてこなかったんだ。君と上手くやっていきたいし、不快な思いはさせたくないけれど、おそらく僕はまた失敗をたくさんすると思う。嫌だと思ったことは言って欲しい。そして、僕に自分を変えるチャンスをくれないか」
「グレッグ。それはそのまま、私の言葉よ。私たち、お互いにそうやって一緒に歩いて行ける、そう思わない?」
「ありがとう。ジョルジア」
「それに……」
「それに?」
彼女は、彼を愛おしいと思うと同時に、心からの憐憫を感じた。この旅で知ったのは、彼女が想像していたようなノスタルジックで甘い過去ではなく、彼のあまりにも寂しい半生だった。
「あなたはもう一人じゃないわ。私では代わりにはならないのはわかっているけれど、でも、これからは、私があなたを抱きしめて暖めるから。お祖父さまやご両親の代わりに。ジェーンの代わりに。アトキンスさんの代わりに……」
彼は雷に打たれたように、ビクッと震えた。そして、彼女の言葉を遮った。
「君は誰かの代わりなんかじゃない」
彼の少し強い調子に、ジョルジアは驚いた。彼は、じっと彼女を見つめて言った。
「そうじゃない。君を、誰かの代わりに仕方なく抱きしめるなんてことはない。絶対に」
「グレッグ」
「そうじゃないよ。反対なんだ。僕はこれまでの人生、ずっと君を探し続けていたんだ。まだ君を知らなかったから、その代わりにあちこちで、違う人に間違った期待をかけて、断られて、困惑していたんだ」
ジョルジアは、再びそっと彼の頬に触れた。彼はその手を暖かい手のひらで包んだ。
「長老の言葉を、僕は間違って解釈していたみたいだ」
彼女は首を傾げた。彼は笑って続けた。
「『答えはお前とともにある』と言われたのを、僕は答えを自分で知っていると言われたと思っていた。でも、そうじゃなかった」
「そうじゃなくて……?」
「僕が人生をかけてずっと探していた問いの答えが君なんだ。そして、君は本当に今、僕の側にいてくれる。ここまで来る必要なんかなかったんだ。僕の求めていた愛情も、探していた温もりも、見続けていた夢も、理想の女神の形をとってここにいるんだから。愛されなかった過去に苦しむ必要なんかもうないんだ。君が愛してくれたから」
ジョルジアは、彼の胸に顔を埋めて呟いた。
「私は、ここに来て良かったと思っているわ。あなたのことを知りたかったの。知り合うまでのあなたの人生を理解したかったの」
「僕は、知られることに不安を持っていた。いつも、何か上手く行きかけると、後からやはりダメだったと落胆することばかりで、今度もそうなるんじゃないかと怖れていた」
ジョルジアは、彼の瞳を見上げた。
「私も怖れていたわ。あなたが、私が理想の女神じゃないと知ったら、きっと離れていってしまうって。でも、あなたは、私の肉体や精神の欠点を知っても変わらずに愛してくれた」
グレッグは、ジョルジアの頬に優しく触れて答えた。
「それは君の欠点なんかじゃないよ。確かに君は他の人とは違う外見を持ち、別の行動をするだろうけれど、それは単なる違いなんだ。僕は模様のないロバの毛皮もいいと思うけれど、シマウマの縞模様のことをとても美しいと思う。君の服の下に隠れている肌も、僕にできないことを瞬時にやってみせる好奇心も、君が君である全てを僕は愛しく思う。そして、君が情けない僕のことも、こんな風に愛してくれるのも同じ理由なんじゃないかと思うんだ」
ジョルジアは、彼の言葉をその通りだと感じた。
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お目付役の京極に見つかってしまったので、仕方なく一緒に船内を回ることにした山内拓也。現在は『不思議の国のアリス』コスチュームをしたアンジェリカの外見です。ただし、中身と声は拓也そのものです。
今回は、中途半端な『旅の思い出』と参加者のみなさまとのコラボ系を少し書いてみました。それとレストラン名などは、数学パラドックス系で遊んでみただけです。次回、最終回にできるかなあ、頑張ります。
【2019オリキャラオフ会】豪華客船の旅の募集要項記事(大海彩洋さんのブログ)
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目が合ったそのときには 3
豪華客船やりたい放題 - 5 -
「すげーな、豪華客船って。プールもある、カジノもある、レストランやバーもいっぱいある、船室だっていくつあるんだか」
アメリカ人少女、アンジェリカの外見に成り代わった俺は、執事コス、もといタキシードをビシッと着こなした京極に付き添われて船内を歩いた。
「客船に乗るのは初めてか?」
京極が訊いた。
「もちろん。お前は、初めてじゃないのかよ」
「子供の頃に、何回か乗ったことがある。もっとも世界一周するような客船ではなくて、三日くらいの国内クルーズだったけれど」
「へえ? 海外のクルーズだっていくらでも行けるだろうに、なんで?」
「父は仕事人間でね。三日以上の休みを取ったことがないんだ。家族旅行そのものも滅多に行かなかったけれど、行くとしても最長三日。それも、お盆や年末などの会社の閉まる時期だけだから。どこへ行っても混むのがわかりきっている。だから、定員以上にはならないし、渋滞もないクルーズ旅行をしたんじゃないかな」
そうなんだ。
「で、この船と較べてどうだった?」
「僕は子供だったからね。何もかもが大きくて、夢のように見えた。もっとも、実際には、この船の方がずっと大きいし、豪華だし、スケールも桁違いなんだけれどね。オーナーはもちろん、招待客にしろ、用意されている食事やアトラクション、エンターテーメントにしろ」
そうなんだっけ? エビフライやスパゲッテイは、けっこう馴染みっぽい味だったけどな。
「どこがそんなにすごいんだ?」
俺が首を傾げると、京極は壁に掛かっているポスターを示した。
「例えば、ほら。メインダイニングでは、今夜は相川慎一とテオドール・ニーチェがベートーヴェンのソナタを聴かせてくれる。明日は、新星ディーヴァとの呼び名も高いミク・エストレーラによるディナーコンサートだ」
「俺、そういう高尚なのは、よくわかんないからな。こっちのほうが面白そうじゃね? 高級クラブ『サンクトペテルブルク』でワンドリンク付きショウってだってさ。おい、見ろよ、このシスカって歌手の姉ちゃん、銀髪にオッドアイだぜ。戦闘服系のコスプレさせたら、メチャクチャ似合いそう」
京極がため息をついた。なんだよ、思うのは自由だろ。
「お。こっちも、いいじゃん」
俺の指したポスターを見て、京極は「ほう」という顔をした。
「君もスクランプシャスのファンなのか」
俺はムッとした。俺だってアニソンの専門じゃないんだよ。スクランプシャスは若者の思いを代弁してくれる名バンド。ま、俺も若者っていっていいのか、若干怪しい年齢にさしかかっているけどさ。
しかし、まさか生スクランプシャスがここに来るとは。ライブはいつなんだろう。お願いだから『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間とだけは重ならないでくれよ。
そんな話題を花咲かせながら、俺たちは豪華客船の中を歩いて行った。
目立つメインダイニングに行くことを京極が渋るので、俺たちはカジノを横切り、わりと目立たないカフェテリア『アキレスと亀』を目指した。
カジノでは、アラブの王族みたいな服を着た男と、小柄の中年のおっさん、それに胡散臭いオヤジが、目も醒めるようなタイコーズブルーのドレスを着た女と勝負をしていた。はじめはけっこう余裕をかましていた男たちだが、みるみるうちにチップが女の方に移動していく。へえ。すげえ。
「なあ、京極、俺も少し賭けていい? あの赤い髪のねーちゃんみたく賭ければ、少し儲かるかも。そしたらコスプレも、自分の金で買えるようになるし」
そういうと、京極は首を振った。
「君は今、十歳のアンジェリカ嬢なんだ。カジノで賭け事するなんて言語道断だ。行くぞ」
ちぇっ。本当にお堅いんだから。少しぐらいいいじゃん。
カジノを横切って再び廊下に出ると、小脇に二頭のハスキー犬ぬいぐるみを抱えたとても幼い少女とぶつかりそうになった。おっと。
少女はぽかんとしているだけだが、抱えたぬいぐるみ達が眉間を釣り上げて吠えかけたような氣がした。
「なんだよ、怖えな。わざとじゃないって」
少女を氣遣っていた京極が振り向いて「なんだって?」と訊いた。
「いや、そのぬいぐるみが、怒ってしかもちょっと火を噴いたような……」
俺が言うと、京極は今日何度目になるかわからないため息を漏らした。
「ハスキー犬が怒っているように見えるのは普通だろう。模様だよ」
ま、そうだよな。よく見てもやはりぬいぐるみだし。京極の女に対する神通力は、幼児から老婆まで変わらないらしく、小さな女の子は俺なんか見もせずにヤツににっこりと笑いかけて手を振った。
まあいいや、とにかくメシ食おう。カフェテリア『アキレスと亀』は、その廊下の突き当たりにあった。黒をメインにしたインテリアに、ギリシャ風の壺などがあちこち置いてある。
俺は、メニューを開いて「うーん」と唸った。なんだよ、ここ、ギリシャ料理の店じゃん。俺は、普通の洋食が……。あれ、このムサカってのは美味そうだな。茄子のグラタンみたいなもんじゃん? それにほうれん草のパイか。それももらおう。それにえっと、飲み物は、おおっ。ウゾか、結構強そうだな。
「それはダメだ。君は十歳なんだから」
京極がすぐにダメだしする。ちっ。ま、いいか、このヨーグルトドリンクみたいなヤツで。
選んでいると、奥の方のステージに灯がついた。ミュージシャン登場かな? でも、この店、まだ開店休業状態じゃん。俺たちの他にいる客といったら……、あ、白っぽいキャミソールドレスを着た女が一人か。お、すげー美人だ。それにあのスタイル。ポン、キュッ、ポンてな具合だよな。今のドレスもいいけど、コミケで着せるとしたらやっぱりピッタリとした戦闘スーツかなあ。別に戦闘系にだけ萌えるわけじゃなんいだけどさ。
ともかく、客より従業員の方が多そうな状態だけれど、何かショーが始まるらしい。
見ると、奥にわずかに他の床よりも高い場所があり、大広間にあったのとは比べものにならない古ぼけた感じのするピアノが置いてある。そこに着崩した麻のジャケットを着た金髪の男が座った。フルートを持った女や、ギターを抱えた男もステージに上がってきた。この二人はアジア人だ。それから、ひょろひょろとしたもじゃもじゃ頭の眼鏡男がピアノの前に立った。
最初に弾きだしたのは、ギターを持った日本人。流れてきたメロディは、ギリシャ風の曲だ。あ、これ聴いたことがあるような。ギリシャ観光局って感じ? 別にどうということのない曲なので、メシを食うのに邪魔になることはなさそう。もじゃもじゃ頭の眼鏡男はなぜかトランプ手品を繰り広げている。
俺は目の前に置かれたムサカに取りかかることにした。あっちっち。茄子と挽肉のグラタンみたいなもん? 美味っ。
「上品に食べてくれよ」
京極がささやく。うるせえな。お前は食わないのかよ。
ヤツは、舞台の方に集中している。金髪男がピアノで先ほどより上品そうな曲を弾き出して、手品男もトランプをしまって歌い出した。意外にも上手いのでびっくり。
「モーリス・ラヴェルの『五つのギリシャ民謡』だな」
京極が頷く。
「なんだよ、お前、知ってんのか」
「ああ。ギリシャの民謡に素晴らしい和声のアレンジを加えて作った作品だ。この店に合わせてこの曲目を用意するなんて、洒落たアイデアだと思わないか?」
俺は「うん」とは答えてみたものの、いまいちピンときていない。飯が美味ければ、何でもいいんだけど。京極はレチーナワインを飲んでいるだけで、全然食わないので俺がどんどん片付ける。舞台の曲は、アジア女のフルートや、ギター男が演奏に加わり、なかなか華やかな演奏になってきた。
その『五つのなんとやら』が終わったらしく、客席から拍手が起こった。京極、白いドレスの綺麗な姉ちゃんや、いつの間に入ってきたのか他の観客も拍手を送っている。
舞台のギター男がさっと立ち上がり手を伸ばした。その先にいたペパーミントグリーンのドレスを着たショートカットの女が、舞台に上がった。あ、この顔は知っている。さっき京極がポスター見ながら褒めてた歌手じゃん。初音ミクみたいな名前の、ええと、なんだっけ。
一層大きな拍手に迎えられ、彼女は優雅にお辞儀をした。もじゃもじゃ男は舞台から降りて、アジアの二人と金髪男が伴奏をはじめた。
おお、この曲はよく知っているぞ。なんて曲か知らないけれど。
「映画『日曜日はダメよ』のテーマ曲『Ta Pedia Tou Pirea』だな」
京極が解説してくれる。
「何それ?」
「ギリシャを舞台にした名作映画だよ。曲名は『ピレアの男たち』って意味じゃないかな。アカデミー音楽賞も取ったはずだ」
澄んだ歌声は心地よい。さすがメインダイニングで歌う予定のディーヴァ。見るとキャミソールドレスの別嬪姉ちゃんも、さっきのもじゃもじゃ眼鏡男の時とは全く違う熱心さで舞台に見入っていた。
俺は、とりあえずほうれん草のパイを片付けるのにメチャクチャ忙しい。京極、悪いけど全部片付けちゃうぞ。美味いし。
「ところで、君はいつまでアンジェリカ嬢の身体を乗っ取っているつもりなんだ」
京極は声を潜めて訊いた。
「ほんのちょっとだよ。うまいもん食って満足すればそれでいいんだ。最長で明日の『魔法少女♡ワルキューレ』放映時間までには戻してくれって頼んである。あの子が、船のあちこちを見るのに飽きちゃったら、すぐにでも終わりだろ。ほら、そこにも四角い額縁があるしさ」
俺は、ガツガツとフェタチーズとオリーブ入りのサラダをかき込んだ。
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シエナ&フィレンツェに行っていました
「また休暇かよ」と言われそうですが、今年は特別一週間休暇が多かったのです。勤続十五周年でもらったので。(本当は去年だったのですが、去年はそれどころではなかったので、今年取得しました)
最初は、またイギリスに行こうかと思ったのですが、計画すればするほど接続などが上手くいかなかったので、これは今回は縁がないのだなと判断して、以前から行ってみたかったシエナに、フィレンツェでラファエロの絵を観るという計画を合わせて行ってきました。

シエナは、「イタリアでもっとも美しい中世都市」と言う人もいるくらい、素敵な街です。夏のシーズンほどではなかったのでしょうが、普段人のいないところに慣れている私には「こんなに混んでいるの!」とびっくりするほどの人出でした。
今回は初めてだということもあって、大聖堂に並ぶのもどうかと思い、チケットを予約していきました。大聖堂、ピッコロミニライブラリー、ミュージアム、洗礼堂、納骨堂など、大聖堂の見所をまとめて見ることができて、その豪華絢爛さにいちいちため息をついていました。
それから、連れ合い(一緒に行ったのです)が観るというので、なぜか拷問博物館も。中世ヨーロッパで実際に使われていた拷問器具を展示していて、うんざりするほどの数々なのですけれど、途中から私はすっかり取材モードに。森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠」を書くときに役に立つかと……。

今回泊まった宿は、どちらも「街の中心地に近く、しかもお値頃」なB&B(ただし朝食別料金)でした。部屋そのものは素晴らしかったのですが、その値段には理由があり、シエナは実質七階、フィレンツェは四階、どちらもエレベーターなしでした。
ふうふう言って登っただけのことはあり、シエナではこのように美しい夕景を楽しむことができました。

シエナと言えば、このカンポ広場。一度観たら忘れられない広場で、老若男女ここで座って時間を過ごしていました。わたしたちもちょっと(笑)
この周りのカフェの値段は、殺人的なので一休みにはあまり向かないのですけれど、それでも二回ほどコーヒーやワインを楽しみました。
そして、この広場の中心にそびえる市庁舎には、私がとても観たかったものがありました。これについては、そのうちに別記事で。

人手と殺人的な値段は、フィレンツェに移動してからも相変わらずでした。これでもヴェネチアよりはマシだとか(笑)
さて、フィレンツェの目的はラファエロ絵画で、いつまでも並ぶのは嫌だったので、チケットを買っていきました。一つのチケットでウフィッツィ美術館、ピッティ宮殿、ボーボリ公園を回れるものです。
これまでは、行きそびれていたボーボリ公園に行くことにして、その分ドォーモやショッピングをほとんどしないスタイルにしてみましたが、心地よかったです。
シエナでは嘘のような好天に恵まれていて、フィレンツェに移ってからは雨続きと言われていたのですけれど、意外にも降られたのはほんのわずかで、心配していたボーボリ公園行きも、わずかに青空が覗く程度の心地よい条件で回ることができました。
ボーボリ公園、とても広いので、いらっしゃるならばたくさん歩く覚悟を……。私たちは、疲れたのでパラティーナ美術館に行く前にカフェで一休みしました。

ウフィッツィ美術館、パラティーナ美術館ともに、ラファエロの絵が充実しています。私はヨーロッパの大都市(ロンドン、ウィーン、ドレスデンなど)に行くたびにラファエロの絵の前でボーッとするのを常にしているのですけれど、フィレンツェは特に名作がたくさんあって、行ったり来たり大変なのです。
日本だと、名画の前に何十分も陣取ったりできないのですけれど、それができるのが嬉しい。ウフィッツィ美術館が混みまくりといっても、日本の「観客の頭しか見えない」というような混み方ではないですし、一度行ってから戻ってくる事も可能でした。それどころか、パラティーナ美術館では、「大公の聖母」と「小椅子の聖母」のある部屋にかなり長いこと座っていたのですが、数分間ですが私しかいない時間もあったのです。なんて贅沢。
ラファエロ三昧、堪能してきました。

さて、食いしん坊の私たち、朝食からデザートまであれこれ楽しみました。今回の一番のヒットは、フィレンツェで見つけた小さなリストランテ。お料理も美味しかったですが、ウエイターさんたちが親切でしたし、さらに変な時間(午後三時〜)に食べたがった私たちに、文句も言わずに臨機応変に対応してくれました。
しかも、あまりお腹がすいていなかったので、前菜もメインもシェアできるか訊いたらOK。最終的にドルチェまでばっちり食べて幸せでした。で、結局翌日もリピートしました。
写真は、トスカナ・ワイン、ポルチーニ茸のフェットチーネ、イノシシのラグーポレンタ添え、ほうれん草のオリーブオイルソテーですね。そうそう、デザートに食べたカントゥッチ・ビスコッティとデザートワインも美味しかったなあ。二晩通ったのでリモンチェッロもサービスしてくれましたよ。
以上、簡単ですけれど、旅の報告でした。
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