【小説】Usurpador 簒奪者(5)弱き者
前作『Infante 323 黄金の枷 』で、母親のいないマイアのことを氣にかけて何かと世話をしてくれていたドラガォンの主治医、若かりし日サントス医師がちらりと登場しています。この方、実はマヌエラの又従兄弟でした。今回のエピソードとは全然関係ないのですが。
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Usurpador 簒奪者(5)弱き者
掃除のためにカルルシュの部屋を一人訪れる時、マヌエラはどこか暗い心持ちになることが多かった。22の居住区を訪れる心地よさとは反対だった。
朝食の席で、彼は当主に叱責されることが多かった。理由は、他愛もないことばかりだ。コーヒーをこぼしたり、服にジャムを飛ばしたりのこともあったし、家庭教師の報告に書かれた情けない試験結果のこともあった。厳格なドン・ペドロが、おそらくカルルシュのために義としている厳しい教育なのかもしれないが、萎縮したプリンシペはさらなる失敗を重ねるばかりだった。
一週間前に叱咤されたことが、改善されないことにドン・ペドロは苛立ちを見せる。それを自覚しているのか、彼は当主の叱責に項垂れるばかりだ。加えて、身体の弱いカルルシュは無理がきかず、教師の訪問が中断されることも度々あった。
とくに氣管支が弱く、わずかな急な天候の移りかわりや夜更かしなどが続くと、風邪を引いたり熱を出すことも多かった。ドン・ペドロは「またか」といいたげな様相で、カルルシュの喘息のような発作にも心配を見せなかった。
彼が体調を崩すと、よほど重い症状でない限りジョアキン・サントス医師が呼ばれてきた。彼は、ドン・ペドロの主治医である老サントス医師の長男でありマヌエラの又従兄弟にあたる。ジョアキンは、手慣れた様子で吸入剤を用意し、丁寧に彼を診察していた。カルルシュは、申し訳なさそうに体を縮こめ、涙を浮かべて身を任せていた。
学業のさらなる遅れに焦るのか、まだ完全に熱が下がっていないのに起き上がって課題に取り組んでいることもあった。
「メウ・セニョール。氣管支喘息はアレルギーやウィルス感染だけでなく、ストレスからも引き起こされると考えられているのですよ。お体をいたわることも大切ですが、ストレスをため込まないようにすることもお忘れにならないでください。お一人で抱え込まずに、親しい方とお茶でも飲んでゆったりと話される時間をお持ちください」
ジョアキンは、彼に諭した。必要なタオルなどを持参してその場にいたマヌエラは、医師のアドバイスを聞きながら心の中で(誰と)と呟いた。カルルシュには、自由時間に楽しく語り合う友人などいない。ドン・ペドロの厳しい教育に着いていくことの難しい彼にとって、ストレスを減らすことも難しいだろう。そして、彼は脱落することも、逃げ出すことも許されない立場にいる。
そして、起き上がり歩けるようになれば、朝食や午餐の席でドン・ペドロに厳しく叱責を受ける日々が待っている。マヌエラは、給仕をしながら、彼の苦難の再開を感じて氣を揉んだ。
三日ぶりに床を離れた彼は、覇氣のない疲れた表情で朝食の席に座った。ソアレスとその朝の朝食当番のマヌエラは、ドン・ペドロとカルルシュ二人の給仕に当たった。
22の居住区からは、新しいソナタを練習する音が響いていた。彼が朝食を居住区で簡単に済ませるようになった理由がそれだ。執事と召使いに給仕され、当主たちとのんびりと朝食を取れば簡単に一時間ほど経ってしまう。彼はむしろその時間をピアノの練習に充てたがった。その成果は、マヌエラが掃除にやってくる日のメロディとなるのだから。
ドン・ペドロは、22が習慣を変えたことに、何も言わなかった。彼は、屋敷のどのような小さなこともソアレスやその他の腹心から報告を受け、若い世代の様子にも十分に目を留めていたが、22の生活態度に対して意見を言うことはほとんどなかった。22は、午餐や晩餐、または礼拝などにはきちんとした服装で、落ち着いた態度で臨席し、家庭教師や音楽教師からは絶賛されていたし、使用人たちとの関係も良好で問題を一切起こさなかったからだ。
当主が、カルルシュに厳しくあたる様を目にするのは、あまり心地よいものではない。だが、マヌエラは認めなければならなかった。ドン・ペドロは、理に適わぬことでカルルシュを叱責したことはただの一度もなかった。語氣に苛立ちを込める前に、彼は少なくとも二度はカルルシュに同じことを冷静に指摘している。既に「ああ、次に同じ間違いをすれば、ドン・カルルシュは叱られる」とマヌエラにも予想ができるようになっていた。
法務関係の課題に関しては、法学を学びたかったマヌエラにもわかるトピックが多かった。今朝、彼が叱られているのは、先週の初めやり直しを命じられた法務に関する課題だ。
「カルルシュ、いいか。お前が弁護士や裁判官として人前に立つことはない。だが、ドラガォンが関わる多くの重要決定事項にはお前が決裁を下さねばならないことばかりだ。契約書を作成するのもお前ではないが、裁決をするのはお前だ。法の強行規定と任意規定の差がわからぬような者に、その役割が果たせると思うのか?」
朝食の皿を下げながら、マヌエラはカルルシュと目が合わないようにした。当主は、家庭教師から預かった彼の課題である書類をたたき付けるようにして返した。
「午餐の前に、まともな契約書らしい体裁に書き直せ。もちろん、数学の課題も遅れずに出すように。22の課題は、どちらもとっくに終わっているんだぞ」
朝食の給仕が終わるとすぐに、彼女はカルルシュの部屋の掃除に向かった。ノックに答えはなかったので、中に入ると人影はなかった。
あらかたの拭き掃除を終えてマヌエラが彼の書斎に続くドアを念のためにノックをして開けると、彼は中にいて先ほどの書類を見ながら真剣な面持ちで考えている所だった。
「失礼しました。また、後で伺います」
カルルシュは赤い顔をしてパッと立ち上がり、彼の足元に書類は散らばった。
「あっ」
二人はあわてて、書類を拾うためにかがんだ。
彼のすぐ近くで、目が合うと、彼はさらに赤くなり、その後に項垂れてだまって書類を集めた。
「すまない。一生懸命に考えていて……いや、違う、さっき叱られたのを見られたのが恥ずかしくて、君が掃除に来たのに返事もしなかったんだ」
「メウ・セニョール……」
マヌエラは、彼をそっとしておくために去ろうかと思ったが、何か言いたそうな彼が助けを求めているように感じたので、思い切って言ってみた。
「あの……、先ほどのドン・ペドロのお話ですけれど……。強行規定とは、たとえば独占禁止法による規制や売買契約における消費者側のクーリング・オフ権など、契約がどうであろうと法律上動かせない規定のことで、任意規定は、たとえば商品引き渡しと支払いの順番のように、両者の合意や契約内容で変更してもいい規定です。だから、どの部分が強行規定に抵触しているのかだけ見つけられれば、修正すべき所もおわかりになるのでは?」
彼は非常に驚いた様子で、彼女の顔を見た。
「申し訳ありません。出過ぎたことを……」
彼は慌てて言った。
「いや、違うんだ。ありがとう。本当にどこをどうしていいのかわからなくて、でも、誰に訊いていいのかもわからなかったんだ」
彼女は、頭を下げてから、ハタキかけを始めた。彼は、そのマヌエラについてきて話しかけた。
「昔は、困っていると22がこっそり教えてくれた。だから、こんな僕でもなんとかやっていけたんだ。でも、22が居住区に移ってからは、そんな風に教えてくれる人がいなくなってしまって」
「お役に立てて光栄です。でも、たまたま知っていたことですので……」
「君みたいな優秀な人は、召使いとして働いているのはもったいないな。きっと、すぐに中枢システムにいくんだろうな」
マヌエラは、思わず足を止めた。すぐにここを離れて……?
そうであって欲しいと、彼女はずっと願っていたはずだった。それなのに、その言葉を聴いたときに「ここから離れるのは嫌だ」という想いが頭をもたげた。心のどこかに流れているピアノの旋律と共に。
「その……。もし、またこういうことがあったら、また君に助言をお願いしてもいいだろうか」
カルルシュは、消え入りそうな声で訊いた。
「もちろんです。お手伝いできることがありましたら、いつでも」
彼が書き直した課題は、完璧なものとはいえなかったようだが、それでも午餐の後にそれを読んだドン・ペドロは彼の努力と改善を認めてさらなる改善点を静かに口にした。向かいに座る22も微笑んで頷くのを見て、カルルシュは頬を紅潮させた。
ちょうどマヌエラが「どうぞ」と目の前に運んできたコーヒーを置くと、彼は顔を上げて万感の思いを込めて「ありがとう」と言った。
それから、カルルシュは、マヌエラの顔を見ると緊張を解くようになった。
(読者からのご指摘に基づき強行規定の例を訂正しました)
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【行ったつもり】(エアー)旅行 -4- 奥出雲

いや、何が何でも作品と結びつけたいというわけではないのですけれど、そもそも私の頭の中は、自由時間にはほぼ作品で埋め尽くされてしまうので、旅先と作品がほぼ一致してしまうのです。大体は、先に旅先があり、そこで受けたインスピレーションを元に作品が生まれるのですが(『大道芸人たち Artistas callejeros』や『Infante 323 黄金の枷 』など)、『樋水龍神縁起』と旅先との関係は逆です。作品の舞台にしたので特別な場所になってしまった……というパターンですね。
『樋水龍神縁起』は、題名にもあるように龍神が重要な役割を果たす小説で、樋水龍王神というのが奥出雲に流れる樋水川の化身という設定になっています。で、もちろん小説のためのフィクション設定である樋水川のモデルこそが、奥出雲に流れる斐伊川なのです。
そもそも斐伊川は八岐大蛇伝説と関わりがあるといわれ、龍王的な存在そのものでもあるのです。この流域で獲れる仁多米や僅かしか残っていない在来種の山茶など、神に供えるのに相応しい農産物を生み出す源流であると同時に、八岐大蛇が暴れたように氾濫して人々を震え上がらせた荒ぶる神格でもあったのです。

で、島根の旅といったら、松江をめぐり、みなさんもちろん出雲大社にお詣りするわけですが、たいていは海岸沿いに滞在して帰るわけです。でも、私にとっては、奥出雲に行かないという選択肢はないのです。
特に何がある、というのではなく、斐伊川を眺めたい。奥出雲(存在しないけれど樋水村のある辺り)に足を踏み入れたいと、思うわけです。当然、普通には、一緒に行ってくれる人はいないわけです。

奥出雲にそれでも行くなら、おすすめは『奥出雲おろち号』です。トロッコ列車で奥出雲の見どころを周り、「延命水」を飲んだり、出雲大社に似た外見の「出雲横田駅」を見たり、それに撮り鉄のみなさんや電車マニアの皆さんの喜びそうな、橋やループや折り返す「三段式スイッチバック」やらをまとめて楽しめます。
もちろん私も乗りましたよ。一度目は。
ええ、そうなんです。二度も奥出雲に行ってしまいました。二度目は、いまは亡き母も一緒でした。さすがに奥出雲往復というのは、母がかわいそうだったので、その時は出雲から奥出雲経由で倉敷へ抜け、それから伊勢神宮へと行きました。
その時は、「絲原記念館」を見学し、「もののけ姫」で有名になったたたらについて少し理解を深めました。秋の紅葉が始まった頃で、素晴らしい庭園も堪能しました。

そして、泊まったのは「奥出雲多根自然博物館」です。ええ、ミュージアムに温泉民宿がついているんですよ。なぜここに泊まったかというと、奥出雲で格安だったからなのですが、大正解でした。私、恐竜系も好きなんですよ。それに鉱物や宝石も。
食事もとても美味しかったですし、奥出雲のお湯に浸かるという私にとっては究極の幸福にも浸れましたし、さらに、泊まっている人だけの特典で、夜のライトアップされた博物館も楽しめたのです。
展示物で特に印象深かったのはカナダ産のアンモライト。アンモナイトが圧力によりオパール化した化石&宝石なのですが、ものすごく大きくてきれいなのです。あんな素晴らしい石に出会えるとは。
そんなこんなで、できればまた行きたいですね。。
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心の黎明をめぐるあれこれ(4)受け入れて、生きましょう
第四曲は『Se É Pra Vir Que Venha』使われている言語はポルトガル語です。
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心の黎明をめぐるあれこれ
(4)受け入れて、生きましょう related to 'Se É Pra Vir Que Venha'
第四曲目は、ポルトガル語。そう、住んだことのある日本とスイスを除いたら一番に思い入れがある国の言葉だ。
ここしばらく私がポルトガル礼賛ばかりしているので、ずっとポルトガル狂だったと思われているかもしれないが、そうではない。2012年に初めてポルトに行ったのは「なんとなく」の思いつきで、まさかその後にこれほど嵌まり、毎年訪れることになるとは思ってもいなかった。
日本とも縁の深い国ではあるけれど、かつての私にとってポルトガルは「よく知らない国」でしかなかったのだ。イベリア半島に共存しているというだけで「スペインみたいな国かも?」と考えていたくらいに。とんでもない無知である。
この四曲目を歌っているのは、私の大好きな歌手ドゥルス・ポンテスだ。ファドの歌手という言い方もできるのだけれど、この人はどちらかというと典型的なファド以外も歌うし、映画音楽や海外の音楽家との共演などでの活躍の方が目立つ。今回のアルバムへの参加も然り。
この曲の歌詞は、第三曲の『老子道徳経』に由来する歌詞に比較すると、かなりわかりやすい。だからと言って、内容に深みがないわけではない。
歌詞はこんな感じで始まる。
私の牛を野に放とう
牧草地に横になろう
風景を私のものにし
悲しむことなく微笑もう
実は、私はポルトガルで放牧を見たことはない。しかし、住んでいるスイスでは隣家が牧畜農家で、放牧された家畜は東京で見る鳩や雀くらいに馴染みがある風景だ。
東京で育った私は、スイスに移住するまで生きた牛や羊、山羊などのことをほとんど知らなかった。牛乳や牛肉は、スーパーマーケットで製品として買うもので、動物園や□□ファームといった特別の場所で目にする動物との別の姿だとは知っていても実感がなかった。現代の子供たちは海に魚の切り身が泳いでいると想像していると笑い話を聞いたことがあるけれど、それを笑うことができないほど、私の家畜と食料の関連性についての意識は薄いものだった。
ごく普通の日本人と同じくかつての私なら、この歌詞を読んで牧歌的で美しい光景をイメージするだろう。アニメに描かれるようにきれいでのんびりとした光景を。それは間違いではないけれど、その後ろにはもっと多くのものが横たわっている。
オフィスワークなどと較べてずっと長い労働時間。肉体的に厳しい労働、その中には糞尿の処理なども含まれている。優しい瞳をして懐いてくる家畜たちに名前をつけて可愛がっても、何年かすれば屠殺に送らざるを得ない現実もある。家畜はペットではないのだ。
見渡す限りの美しい牧草地で、優しい風に吹かれながら、僅かな平和と美しさを享受する時間の背後に、現在の私はこうしたあれこれを感じ取ることができる。その背景は、美しさや平和を否定することはない。むしろ深みを増させる要素だと思うのだ。
曲の題名にもなっている「Se é pra vir, que venha」というリフレインは、「やってくるものがあるならば、来るに任せよう」という意味である。とても牧歌的で心地よいメロディにのせて歌っているので、爽やかな詩かと考えてしまうが、最後まで読むとやはりそれだけではないことがわかる。
私は人生や
また、その反対にあるものを恐れない
何かが来るのなら、来るに任せよう
生きることの反対にあるものとは、やがてやってくる死のことだろう。死を怖れるのは、未知のことだからだ。同様に生きることを怖れるのも、どうなっていくのかわからないからだろう。これまでがどうであったかに関わらず、未来を見通すことは難しい。だからこそ、人は怖れる。この歌はそれを優しく否定する。
ポルトガルは、ヨーロッパの中でも経済的に困難な状況にある。平均給与は低く、家族がバラバラになっても他国への出稼ぎに行かざるを得ない人も多い。でも、人々は比較的当たりが柔らかい。地域にもよるだろうが、私がよく行く北ポルトガルの人々は勤勉で、家族や友人との関係を大切にし、美味しいものを食べ、彼らの文化を大切にしながら生きている。
そんなポルトガルを大好きな私には、この歌詞は受け身の姿勢ではなく、懸命に生きた上での潔い受容なのだと聞こえてくるのだ。
人によって人生はとても過酷で、たとえば生まれてからずっと爆撃に怯えながらの生活だけをしている人もあれば、長いあいだ病に苦しんでいる人もいる。そういった大変な苦難を背負っている人に較べたら、私は恵まれた非常に楽な人生を歩み続けてきた。
そうなのだけれど、やはり時には「これはなんとかならないものか」「頑張りでは打開できないぞ」と思うようなことが起こる。「こんなはずじゃなかった」や「間違ってきちゃったかなあ」と過去の選択に涙目になることもある。
隣の芝生が青く見えることもしょっちゅうだ。誰よりも努力したとは口が裂けてもいえない一方で、でも、まったく何もしなかったわけではないと、時には唇を噛みしめたくなることもある。
それでも、他の人生を生きたかったかと問われれば、私は否と答えるだろう。違う家庭環境であれば、異なる配偶者を選べば、もしくは一人で生きてくれば、あるいは別の思い出が蓄積したかもしれない。他のことを学び、別の職種を探し、別の土地で暮らせば、もっと笑顔になったかもしれないし、その反対もあるだろう。でも、その「もし」の存在は、私ではない。
実のところ私は世の中のためになることを成し遂げていない。世界平和にはほとんど貢献していない。人に感謝されるようなすごい仕事もしてこなかったし、これからもきっとしない。生きているだけで、どちらかというと環境破壊に加担してしまう。
そんな自分を肯定するのは、時に非論理的に感じられて、とても難しい。
かつては自己肯定感や自尊心がもっと強かった。
中学校から高校生のはじめくらいまでは、今で言うところの『厨二病』に罹患していた。つまり、見合った努力は全くしていないにもかかわらず、自分には世界を救うとまではいかないけれど、素晴らしい運命が待っていると期待していた。もちろん何も起こらなかった。
高校に入った頃から、急に周りの似たような境遇の人たちとは微妙に違う役割が与えられるようになった。最初は、生徒会の役員に抜擢されたというような、大したことのないものだった。大学のサークルでも、就職してからも『○○連盟」といった団体の役員や、労働組合の執行委員というような役割に抜擢される。本人はその様な目立つことをしたいとは全く思っていないにもかかわらずである。
中学時代からの勘違いの延長で、自分をどこか特別な存在だと思っていたのを、察知されていたのかもしれない。スケールは『厨二病』時代に考えていたものよりもかなり小さいけれど、どこか自分は他の人とは違うものを持っているのだと、まだ考えていた。だから、それらの与えられた役割を、私は全力でこなした。
今にして思えば、私がそれぞれ所属した団体にどれほどの尽力をしたかと問われれば、大したことはないと言うしかない。「女性初の△△」などという肩書きも「革命的な●●」といわれた当時の働きも、時間が経てば「過渡期の小さな半歩」でしかない。おそらく誰も憶えていない何かでしかないのだ。
日本からスイスに移住して、それがはっきりした。ちょうど日本では履歴書に書かれた大学名が就職を若干有利にしたような、もしくは、ずっと住んでいた街の名前を言うだけで実際よりもハイクラスのように扱われたような、本人とは本来は無関係なのに下駄を履かせてくれた前提は、ほかのあらゆる業績と共に全て消えた。残ったのは、そこら辺のティーンよりもまともに話せず、文法正しく体裁の整った文章も書けず、当たり前の教育も受けておらず、極東の聞いたこともないどこからか来た取るに足りぬ外国人だった。私は平均以上に特別な存在ではなく、平均以下の存在になったとはっきりと感じた。
それは認めるのはつらかったけれど、紛れもない事実で、私は『厨二病』の第二段階からも卒業しなくてはならなかった。それから、もう一度生きる意味を探すことになった。そして、たどり着いたのは、やはり自分の歩いた道と学びを肯定することだった。
すべての経験が特別なことだった。外側である世界にとってではなく、内側つまり私本人にとっては。何かを成し遂げたとか、よいことをしたとか、立派な功績を残したといった、世界にとっての貢献ではなかったかもしれないが、それらはみな天から与えられた課題で、私はそれらをこなしてきたのだと。
私が選んだ道は、きっと他の誰かにとっては不正解で、つまらなく、通るに値しないだろうが、私にとっては常に必要で、意味があり、何を犠牲にしてでも通るべきだったのだ。つまり、私は小市民であることを認め、その範囲でしぶとく生きることを受け入れたのだ。
それを自覚するようになってから、私の書く小説は現在のようなスタイルになった。主人公が小市民で華々しい活躍はしない。世界を救ったり、華麗などんでん返しもない。そうではなく、苦しんだり、笑ったり、美味しいものを食べたりして、それぞれにとってはかけがえのない一つの命を生きる等身大の人生を扱うのがメインだ。
そういえば、ポルトガルへの愛を詰め込んで書いた小説『Infante 323 黄金の枷 』をはじめとする『黄金の枷』シリーズのテーマは「運命との和解」だった。与えられた困難と戦って打ち勝つという「RGPの勇者」のようなアプローチではなく、自らに与えられた運命を受け入れつつ、その範囲の中で主人公たちがより良く生きていこうとする姿を描きたいと思ったのだ。
この第四曲が、ポルトガル語で受容のメッセージを伝えてくれることに、改めて縁を感じてしまうのは、その辺りにもあるのかもしれない。
(初出:2020年4月 書き下ろし)
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【行ったつもり】(エアー)旅行 -3- コルシカ島

今から十年以上前のことですが、私と連れ合いがよくリピートしていた旅先がコルシカ島でした。たまたま映像を目にして行ってみたら連れ合いのお氣に入りになってしまったというパターンで、四回くらい行ったでしょうか。
今は、なかなか行かなくなってしまったのは、嫌いになったからではなく、単純に連れ合いも歳をとり、私を後ろに乗っけたタンデムで、二週間でコルシカ島往復するのが大変になってしまったからのようです。コルシカ島は小さな島ですが、非常にワイルドな道があり、バイカーには楽しくてならないらしいのですけれど、やはり大きめのバイクだと小回りがきかなくて大変なようです。なので、むしろ往復の通り道だった北イタリア辺りでダラダラと走り回ることが増えてしまったというわけです。
しかし、もしたっぷり時間があったらまた行きたいと願うのが、コルシカ島。観光客ずれしていない(船の発着する一部の街を除く)旅情あふれる素敵な滞在先です。
ご存じのように、コルシカ島はフランスに属しています。が、もともとの島民はジェノバのあたりから移ってきた人たちで、コルシカ語はイタリア語に近いのです。といっても、かなり不思議な語尾でイタリア語の方言というには訛りすぎていると思いますが。
そして、奥地の島民は民族主義が強く、フランス人、特にパリの人たちが好きではないらしく、フランス語表記の標識を塗りつぶしてしまったり、フランス語で道を訊くと答えてくれなかったりします。イタリア語でスイスから来たと言うと、教えてくれたりするのですよ。分離主義強硬派によるテロもまだあって、通り道に半分吹き飛んでしまった家などを見かけることもあります。くわばらくわばら。

しかし、何回か通うちに、フランスから移住してきた感じのいい宿屋を見つけ、連れ合いは母語であるフランス語で心ゆくまでおしゃべりを楽しんでいました。フランスからやって来た小洒落た食生活と、素朴な島の食生活が上手にミックスして、毎日胃袋を甘やかしまくりの日々。
南フランスでおなじみアニスのお酒バスティスも、ここでは至る所で飲まれています。
「大道芸人たち Artistas callejeros」では、レネに教えられて他の三人もフランス語圏を旅する度に飲みまくっているお酒です。

コルシカ島のもう一つの魅力は、かなり原始的な自然が残っていること。この写真の栗の木は少なくとも樹齢八百年といわれていますが、近くに佇むだけで荘厳な氣持になる巨木です。
そして、こうした原生林的な自然に守られて、先史時代以降の様々な遺跡や巨石遺構が残されているのです。それを見て回るのもなかなか興味深いのです。もちろんそうした遺跡は電車やバスなどでは行けないので(そもそも島内の観光バスなんでない)、自家用車またはレンタカーでまわるしかないのです。

島内は物価も高いし、何よりもガソリンが高いのですけれど、ガソリンスタンドを見つけたら即満タンにしないと、次のスタンドはまた200メートル先。今はわかりませんけれど、当時はクレジットカードが使えるような場所も限られていて、島に入るときにはかなり念入りな準備が必要でした。そういえばWifiがある所なんてほとんどなかったけれど、今はさすがにもう少し進んでいるでしょうね。
次回いけるのはいつかなあ。
「大道芸人たち Artistas callejeros」のメンバーたちも、いま行かせたらどんな光景を見るんでしょうね。
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【小説】Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》
前作『Infante 323 黄金の枷 』で、脇役として出てきた二人の人物に関する話です。この二人の話が、メインとして語られるのは、おそらくこれが最初で最後だと思います。読者に知らせなくてもいいかなとは思ったのですけれど、システムに閉じ込められて重たいことをやっているのは、当主一家だけではないという例としてお読みいただければと思います。
少し長いですが、前回同様この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。
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Usurpador 簒奪者(4)《鍵を持つ者》
若葉が次々と芽吹きだした四月。大西洋からの風が道往く人々の上着やスカーフを無為に揺らした。それは、まるでギターラを戯れにかき鳴らすようだった。
フェルナンド・ゴンザーガは、サントス医師の診療所に行くためにアリアドス大通りを渡った。思い詰めた暗い顔をし、手のひらをぎゅっと握りしめていた。
彼が愛した娘は、彼の求婚を拒絶した。その理由を彼はよく知っていた。ジョアナ・ダ・シルヴァには愛する男がいた。そして、その男アントニオ・メネゼスもまたジョアナを愛していた。だが、彼らはすぐに一緒になる事はできなかった。《星のある子供たち》であるジョアナは同じ《星のある子供たち》である男との子供を産まない限りは《監視人たち》一族の男とは結婚できないのだ。
「だったら、まず俺と一緒になって子供を作れよ」
彼は、言い募った。一年間共に暮らし、子供も出来れば、あるいはジョアナの心が自分に向く事もあるかもしれないと思ったのだ。
――女なんて、寝てしまえば簡単になびく。お前の母さんもそうだった。
彼にそう言ったのは、フェルナンドの父親だ。もともとは子供を作るまでとの約束で一緒になった彼の両親は、結局現在に至るまで結婚生活を続けている。
しかし、ジョアナは首を振った。
「それは無理だわ。あなたの事を私もアントニオも知っている。たとえ私が子供を産んでからあなたの元を去ったとしても、同じ職場で働く彼とあなたと私の間にはわだかまりが残ってしまう。そうでしょう? 私は、《監視人たち》中枢組織に頼んで、人工授精を望む《星のある子供たち》の男性を紹介してもらうわ」
それは、フェルナンドにはもっとつらい言葉だった。もし彼女の人工授精の相手が決まってしまえば、彼のチャンスは永久に潰える。《星のある子供たち》である女は、たった一人の《星のある子供たち》の男としかペアになれないから。どんな事があってもジョアナを諦める事の出来ないフェルナンドにはたった一つしか道がなかった。
彼自身が人工授精の精子提供者となり、ジョアナの相手であるたった一人の《星のある子供たち》の座を確保する事。彼は、それをジョアナに申し出た。拒否反応を示す彼女に、もし断るなら宣告をすると脅迫じみた言葉まで使って、ようやく賛同を取り付けた。だが、彼女が子供を身籠り出産するまでの時間を確保しただけで、フェルナンドにとっての苦悩は終わらなかった。
《星のある子供たち》である男は《星のある子供たち》である女に子供を産ませる事を強制できる。けれども、女はその男の元を去る権利を持つ。ジョアナは子供を産みさえすれば自由になり、アントニオと家庭を作るだろう。アントニオ・メネゼスは、いずれバジリオ・ソアレスの跡をついで、ドラガォンの執事になり、《監視人たち》中枢組織の最重要ポストにつく。前途洋々の未来があり、彼の愛するジョアナと彼自身の子供をも奪っていく。フェルナンドの絶望は深かった。
現在は彼のパートナーであるジョアナをアントニオに渡さないようにする方法は、一つしかなかった。人工授精を始まらせない事。もちろん《監視人たち》組織は、いくら彼がぐずぐずしても彼に精子採取を急がせるだろう。あの組織は《星のある子供たち》を作り出す事にしか興味はないのだから。
フェルナンドの足は、サントス医師の診療所に向かわず、大聖堂の方へと進んだ。そして、その先には大きく美しいドン・ルイス一世橋が堂々たる姿を横たえていた。空は青く、カモメが悠々と飛び回り、河にはボートがゆっくりと進んでいた。人びとが街の美しさを楽しみ、幸せを謳歌していた。
アントニオ・メネゼスは、警察での諸手続きを終わらせると、哭き叫ぶフェルナンドの母親とじっと悲しみを堪えている父親の待つ病院へと向かった。検死が終わり次第、フェルナンド・ゴンザーガの遺体は自宅に帰ることになっていた。なぜと問う両親に、執事であるバジリオ・ソアレスはどのような説明をしたのだろうと思った。
警察では、事故と自殺どちらの可能性も捨てきれないと言われた。遺書はなく、目撃者もいなかった。人工授精の第一回目の精子採取のためにサントス医師の診療所に向かう代わりに、どのような理由で彼がドン・ルイス一世橋から河に転落したのか知る手段はなかった。
アントニオにも、何が起こったのかはわかっていなかった。わかっているのは、少なくともフェルナンドが望んでいた事が一つだけは叶ったことだ。ジョアナ・ダ・シルヴァは、もう誰かと一緒になる事は出来ない。彼女がフェルナンドとの人工授精を一年間にわたり試行することは、永久に不可能になってしまったからだ。手続き上すでにフェルナンドに「選ばれて」しまったジョアナは、もう他の《星のある子供たち》の男に「選ばれる」ことも出来ない。
フェルナンドが、ジョアナを彼に渡さないためだけに命を断ったとは思いたくなかった。彼とジョアナが彼を追いつめたのだと考えるのは苦しかった。だが、いずれにしても何もかも遅すぎた。
アントニオ・メネゼスは、渡された鍵の束をじっと見つめた。
「重いだろう」
執事バジリオ・ソアレスは、口元を歪めるだけのいつもの笑い方をした。
それは鍵の数から考えると実に重かった。十に満たない鍵が、丸い輪でまとめられている簡素な鍵束だ。見かけは古めかしいレバータンブラー錠用の鉄鋳物風棒鍵だが、実際にはスイスのメーカーに特別に作らせたディンプル錠が組み合わされており、さらに紛失や盗難に備えて内部発信機や自動溶解システムが組み込まれている最先端の鍵だ。だが、その鍵を常時持つという事実に比べれば、実際の重量など大したことではなかった。
この鍵束と同じものを常時携帯することが許されているのは、他にはドラガォンの当主と執事だけだった。この鍵束を持つということは、緊急時にはドラガォンの運営に関する全てを独断で決定できるということであり、その権能の規模は、おそらく世界で数人のみが可能な非常に強大なものだった。
だが、世界の他の権能者とドラガォンの支配者たちには決定的な差があった。他のものは、その力を誇示し、財力を用い、己の名声を高め、世界に広く知られる外向きの発展があるが、ドラガォンの使命は、誰からも存在を注目されぬよう、その存在を隠しながら存続を図ることにあった。
アントニオは《監視人たち》の家系の中でも、ソアレス家同様に、多くの《鍵を持つ者》を生み出してきたメネゼス家の直系男子として、生まれた時から特殊教育を受けてきた。《監視人たち》の家系に生まれた者の中で、黒服を身に纏い特別な任務に当たる者たちは百人ほどだ。その中でもドラガォンの当主と話をしたことがある者は三十人に満たない。
《監視人たち》が黒服を纏うようになると、ドラガォンの中枢的存在として一目置かれるようになる一方、もはや他の生き方は一切許されなくなる。黄金の腕輪をした《星のある子供たち》は、この世から隠されている存在だったが、黒服を着た《監視人たち》は、自らを滅し《星のある子供たち》を命に代えて守る役割を担っていた。
アントニオは、黒服を着て働くべく育てられた。彼の個性は、その任務と人生に適していた。彼を知る多くの人間は「あの男が何を考えているのかわからない」と感じるだろう。彼は私的感情を滅多に表に出さない子供だった。そして、成人した今もそれは変わらない。「冷たい男」ともよく評された。そのことを、彼の家族や上司は喜んだ。《鍵を持つ者》の後継者として、これほど好ましい資質はないのだから。
彼は、鍵束の重みを噛み締めた。
「まだ早すぎませんか」
黒服を着た《監視人たち》の中枢組織の最上位に就く証を、わずか二十五歳の若者が手にした前例は聞いたことがなかった。
ソアレスは、いつもの口元を歪める微笑を見せた。
「検査の結果が出たのだよ」
ソアレスが言及しているのは、先日彼が病院で受けた精密検査のことだろう。
「どれほど意志が固くても、病には勝てぬ。私はまもなくこの重要な努めを果たすことができなくなるだろう。それまでに、お前に全てを託さねばならない。今はまだいい。ドン・ペドロが適切な判断を下し、この巨大なシステムの舵取りを続けてくださる。だが……」
ソアレスが眉を顰める原因は、己れの病にあるのではないことは確かだった。そうではなくて、次のドラガォンの当主の世代になったときのことを考えているのだ。そして、その時に自分はもはやどんな支えにもなれないことを歯噛みしたい想いで考えているのだ。
「よいか、アントニオ。私はお前に、決して外せない枷をかけた。《星のある子供たち》ですらも固辞したくなる辛い役目だ。時にお前は、安らかに眠れぬかもしれぬ。その手が白いまま墓に入ることも叶わぬかもしれぬ。だが、それでもお前はこのシステムに忠実であらねばならぬ。それがお前の
アントニオは、バシリオ・ソアレスがその宿命を受け入れてきたことを知っていた。当主に代わりその手を穢したであろうことも知っていた。穢したとまでは行かずとも、「心のない冷たい男」と謗られたことが幾度もあることも知っていた。たとえば、ドンナ・ルシアが、プリンシペに手をかけようとした罪でこの館から追われた時も、我が子から引き離されることを恐れて許しを乞う女主人の懇願に、彼は眉ひとつ動かさなかった。ソアレスは揺るがなかった。彼は掟に忠実に振る舞い、その役目を果たした。
掟の前には、どの《星のある子供たち》も《監視人たち》も平等だった。たとえ、その一人に対して個人的な好意を持っていても、あるいは不快感を持っていても、それを理由に掟を曲げることは許されない。《鍵を持つ者》であるならばなおさらだ。我が子が閉じ込められるのを指示し、罪を犯した妻を遠ざけ、その怒りと悲しみと憎しみを受け止めながら、何事もなかったかのように当主としての日々の仕事を続けたドン・ペドロも、やはり《鍵を持つ者》だった。彼の前の当主たちも、ソアレスの前の執事たちも全て同じ厳格さで、このシステムを守り続けてきた。
「ところで、アントニオ。少し個人的なことに立ち入っても構わないか」
「なんでしょうか」
「先日、ドン・ペドロと話をしている時に、お前の話題になったのだ。お前は《鍵を持つ者》としては非常に若いが、メネゼス家の男子として若すぎるということはない。つまり、その……」
アントニオは「またか」と心の中で思ったが、顔色一つ変えなかった。
「つまり結婚して跡取りをつくらないのか、ということでしょうか」
「そうだ」
ソアレスはあっさりと認めた。
「ソアレスさん。私の系統でなくとも、ジョアンとペドロの中にメネゼス家の血は流れています」
アントニオは、必要もないことをあえて口にした。バシリオ・ソアレスの妻ローザ・マリアは、アントニオの父の妹だった。バシリオの長男ジョアンはすでに《監視人たち》中枢部で幹部として働いており、歳の離れた次男のペドロも特別教育を受けいずれは兄に続くであろう。
「それは、わかっている。《星のある子供たち》と違って、我々《監視人たち》の家名が途絶えることは、さほど大きい問題ではないし、子孫を残す努力を強制されるわけではない。だが、アントニオ。ドン・ペドロは心配しておられるのだ。お前が、あの娘の件の責任を取ろうとしているのではないかと」
アントニオは、わずかに眉をひそめた。
「責任。どうやって」
「そうだ。フェルナンド・ゴンザーガの死に、誰にも責任を取ることはできない。そして、ジョアナ・ダ・シルヴァが掟の迷宮から抜け出せなくなったことも。だから、お前がその宿命に付き合う必要はないのだ」
アントニオは、普段決して見せない反抗心の籠もった鋭い目つきでソアレスを見た。
彼には、世界中の他の全ての女と結婚する権利が残されていた。彼の人生がそれで終わったわけでもなかった。だが、彼は決して出る事の出来ない黄金の枷に囚われた愛する女を見捨てて、自分だけ忘れる道を選ぶことはできなかった。フェルナンドは、彼にも決して外せない枷を掛けてこの世を去ったのだ。
「《星のある子供たち》に対して、掟に従うように強制する役目を私は果たします。ジョアナが生涯一人でいなくてはならない掟も。私が彼女に別の幸福を見せつけることが、ドラガォンのためになるとは思えません」
「では、やはり彼女のためにお前は生涯独身を通すつもりなのか」
彼は答えなかった。ただ、重い鍵束を受け取り、《鍵を持つ者》としての使命を生き始めた。
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【行ったつもり】(エアー)旅行 -2- ロンドン/オックスフォード他
というわけで(?)今日も、行動制限中で今は行けないけれど、行ったつもりのエアー旅行、第二弾は2019年に『霧の彼方から』のロケハンで弾丸ツアーをしたイギリスです。

イギリスには何度も行っているけれど、オックスフォードに行ったのは2019年が初めてでした。『郷愁の丘』の執筆をしていた頃、続編を書くなんて全く考えていなくてものすごく適当に主人公グレッグの履歴を決めたのです。で、続編をイギリスを舞台に書くとなった時「ううむ。イギリスの大学ってそういえばよく知らないなあ」と困ることになりました。
そして、実際にロケハンをすることになって知ったのは、グレッグの出身校として決めていたベリオール・カレッジは、オックスフォードの街のど真ん中、そして、某『ハリ●タ』の撮影で使われて観光客に大人氣のトリニティ・カレッジのお隣でした(笑)
トリニティ・カレッジにしないでよかった〜。私は、人々がワラワラと集まるような有名校はちょっと苦手です。写真のようにベリオール・カレッジは、超名門なのにひっそりとしていて、写真を撮っても絵になりました。「ここで学んだのね〜(フィクションだし、学んでいないって)」と、感激しながら歩き回るのがロケハンや聖地巡礼の醍醐味です。痛いですけれど。

こちらは、オックスフォードでもわりと有名なパブ、ターフ・タベルンです。お料理も美味しいと評判だし、パブっぽい感じが素敵で、グレッグがジョルジアとアンジェリカを連れてきた店のモデルにしました。ベリオール・カレッジのある中心地から徒歩数分で行ける立地です。
「ロケハンだからどうしても注文まで体験したい」と、勇氣を奮い立たせて行ったので、その旅でようやくパブで注文ができるようになったヘタレな私です。いやはや、やってみたら簡単でした。
パブでの注文は、カウンターに行ってしなくちゃいけなかったのを知らなかった私。数年前に行ったときは、二十分も待ったあげく「誰も注文を訊きに来てくれない。ビールは苦手だし、何が食べられるのかもわからないし、怖いよ」と尻尾を巻いて逃げ出したのですよ。でも、もう大丈夫。一度成功したら全然怖くありませんでした。それに英語ですしね〜。言葉の通じない国に較べたら楽勝。

というわけで、ロンドンでもパブに入りましたよ。あいかわらずビールには手を出さない私は、赤ワインをグラスで。いいんです。ジョルジアもワイン派だし。(なんの話だ)
ロンドンに滞在するときは、必ずどこかのミュージアムに行きます。なんと言ってもロンドンのミュージアムはただのところが多いので。そして、ミュージアムグッズが充実しているので、ミュージアムの援助も兼ねて必ずお買い物を楽しみます。
ロンドンは大好きなのですが、しかし、物価が高いし、連れ合いが都会大嫌い派なので、なかなか行けません。前回は連れ合いがアフリカに行っていていなかったのでこれ幸いと行きましたが。でも、また行きたいなあ。いつか。

さて、こちらはヒースロー空港で買ったミールセット。そうです。『霧の彼方から』の最終章でお嬢様アンジェリカが嬉々として食べていたシモジモの味です。実は、買ったはいいものの食べる時間がなくて、スイスに到着してから電車の中で夕飯として食べたのでした。チキン、トマト、モツァレラ入りサンドイッチにオレンジジュースとスナック菓子。貧乏くさくても、遠足氣分で食べれば楽しい。

こちらはおまけです。バースへのロケハンついでに行ったストーンヘンジ。このアングルからのストーンヘンジ、あまり見ないかと思います。この手前の石、ヒールストーンといってストーンヘンジ信仰ではとっても大事な石なのです。
ストーンヘンジは、合計で三回行ったけれど、是非また行きたいなあ。しかし、毎回ものすごい風なんです。そういう所なんですよね。行くときは、着るものに注意した方がいいかも。
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【小説】Usurpador 簒奪者(3)ため息
この『黄金の枷』シリーズの設定、とくに「ドラガォンの館」や《星のある子供たち》または《監視人たち》の説明はあまりにも長くなるので、前作『Infante 323 黄金の枷 』をお読みになっているという前提で書き進めています。この作品から読み始めた方には非常識と感じられることがたくさんあるかと思いますが、そういう設定だということでご了承ください。
今回もいつもなら二回に分ける長さなのですけれど、この「Usurpador 簒奪者」に関しては長々と連載するつもりはないので、まとめて発表しています。
![]() | 「Usurpador 簒奪者」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
Usurpador 簒奪者(3)ため息
マヌエラがドラガォンの館に勤めるようになって一年が経った。サントス家に生まれた娘として、それは義務に近かった。この地には、一般には知られていない特別な一族が住んでいる。その左手に自ら外すことのできぬ黄金の腕輪をはめた《星のある子供たち》。己の名声や偉業を押し殺し、ひたすら過去の誰かの血脈を守るためだけの存在。
サントス家は、ドラガォンの館に当主として君臨する《青い星を五つ持つ者》の血を色濃く受け継いだいくつかの名家の一つだ。絶対的に守らねばならぬ秘密を抱えた館に関わる多くの職務をになっている家に生まれた宿命は、彼女の意思の入り込む余地を与えなかった。マヌエラは法学を学ぶことを願っていたが、その夢を諦めてドラガォンの館で召使いの職に就くように説得された。
反抗することはできた。けれど、彼女は知りすぎていた。いくら学問を究めても、彼女はその知識を真に社会のために役立てることは許されないのだ。名のある法律家になり、この街を出て行くことは不可能だ。そして、外部の人間になぜ他の街や海外に行ってはならないかを説明することすら許されていない。その様な存在がこの世に存在することを、知らせてはならないのだ。
この街に生まれ、黄金の腕輪をはめ、《監視人たち》に見守れながら生きる存在であることを、そして、直接的にも間接的にも《星のある子供たち》と《監視人たち》の双方を統べる立場として、血脈を守る役割を果たしてきた先祖たちの努力を子守歌のように聴かされて育ったのだ。
彼女は、サントス家の娘としての本分を果たすことを承諾した。召使いとして勤めるといっても、文字通りの役割だけが期待されるわけではない。それはドラガォンのシステムを維持する人材グループの一人となる事を意味した。《星のある子供たち》と《監視人たち》双方を統べる中枢システムに属する人々は、次代を担う人材を慎重に選び、教育し、そして、お互いに知り合わせる。選ばれた《星のある子供たち》と《監視人たち》は、共に働き、時に婚姻を通して絆を深めながら、システムを維持し続ける。
この館から出ることのほとんどない当主の直系子孫たちは、館の中にいる存在の中から配偶者を選ぶ。マヌエラの曾祖母や大伯母は、当主の娘であるインファンタだったし、前々当主夫人ドンナ・カミラはサントス家の出だった。
彼女は、しかし、結婚相手を見つけるためにこの館で働こうと思ったことはない。むしろ法学を諦めたのに値する責任ある職務を担う可能性に期待してこの館に足を踏み入れた。召使いの仕事が不満だったわけではないが、それだけで終わることは、彼女の自尊心を傷つける。
同僚に彼女と同じような志を持って勤めている者は多くなかった。おそらく執事バジリオ・ソアレスが信頼するアントニオ・メネゼス、そしてその他の数人だけだろう。だから、インファンテ22の聡明さと自己克己が余計にマヌエラの目を引いた。
22は「当主後継者のスペア」としての人生を送るには、無駄な優秀さを備えていた。冷静沈着で、物覚えが早い。立ち居振る舞いも洗練され、使用人や《監視人たち》中枢部からの人望も篤かった。
同い年の兄であるカルルシュは、身体が弱く動きも鈍重だった。二人が並んで比較されるような場面は少ないが、一日に一度ある午餐か晩餐では、当主であるドン・ペドロを挟み二人が向かい合うので、使用人達にもその二人の差がよくわかる。
ルネサンスの彫刻家達が好んだような端正な顔立ちと綺麗になびいた明るい茶色の髪をもつ22は、質のいいスーツを品良く着こなし、背筋を伸ばして完璧なマナーで食事をする。
一方のカルルシュは、黒くもつれた髪と眉が濃く厳つい風貌を持ち、俯きがちで姿勢がよくないので、あまり背が高くないのにもっと小さく見える。落ち着きがなく、水をこぼしたり肉をうまく切れずにソースを皿の外にこぼしてしまったりするのは、いつも彼の方だった。
ドン・ペドロは、その席で様々な話題を口にした。この国や世界の時事問題のこともあるし、先の大戦やその前後にこの国を襲ったファシズムに関する話題のこともあった。ローマ時代のカタコンベに関する話題のこともあったし、先史時代のブリテン島の遺跡で見つかった装飾品について話すこともあった。
どんな話題になっても22は、当意即妙に話題をつないだ。父親の興味のあることについてよく知っているだけでなく、本人も興味を持ってあらかじめ多くの本を読んでいることがわかる。建築についても、医療についても、法律についても、彼は多くに興味を示し、知らないことがあるとすぐに文献を取り寄せて読み、次の午餐では父親を驚かせるような視点で話題を広げることもあった。
一方のカルルシュは、ドン・ペドロに話題を振られても長く話題を続けることはできなかった。彼もまた真面目に話題についていこうとしているのだが、ドン・ペドロと22が熱心に討論をはじめると、もはやその流れについていくことができずに黙ってナイフとフォークを動かしていることが多かった。
跡継ぎとして、ドン・ペドロや《監視人たち》中枢組織のメンバーから期待をかけられていることを自覚している彼は、次回は話題についていこうと22に薦められた本を読み始めるのだが、そもそも家庭教師から言い渡された課題すらもなかなか終えることができない要領の悪さで、それ以外に本を読了する時間などはほとんど残っていない。マヌエラ達が掃除に入ると、前回と置く場所が変わっていない本の山にハタキがけをしなくてはならないことが多かった。
22の方は、課題も読書も難なく終えて、さらに彼自身の一番好きな行為に多くの時間を割くことすらできた。彼の居住区の一階には、黒く艶やかに光るグランド・ピアノが置かれ、彼はそこに腰掛けて好きな曲を心ゆくまで練習するのだった。
マヌエラはその朝一階のはたきをかけ終えて、隅から拭き掃除を始めた。階段を降りて22が現れ、マヌエラに氣付くことなくグランドピアノの屋根を開けて譜面台を起こした。しかし、彼は譜面を置くことをせずにそのまま何か曲を弾き出した。短くて優しい曲だった。邪魔になるかと思い、マヌエラが二階の掃除に移動しようとすると、氣付いた彼は演奏を止めた。
「いたのか。すまない、もう終わって出て行ったのだと……」
「いえ、私こそ。先に上からやります」
マヌエラが言うと、彼は首を振った。
「そのまま続けていいよ。掃除機をかけるときは言ってくれ。退散するから」
そう言うと、棚から楽譜を持ってきて、練習を始めた。右手の練習、左手の練習、同時にゆっくりとしたテンポで、それからより自然なテンポで。ピアノなど全く弾けないマヌエラにも、その曲が決して簡単ではないことだけはわかった。
彼の元には、週に一度教師がやってくる。厳めしい顔つきをした老人で、左の手首の腕輪を持ち上げるのも大儀な様子だ。自分が弾いてみせることはほとんどなく、歌うように指示しながらレッスンをつけていた。22が格別優秀な生徒であることは、召使い同士の噂で知っていた。もし、彼が、いや、《星のある子供たち》として生まれていなければ、ピアニストとして名を成すこともできたであろうと。
もし、ただの《星のある子供たち》であったなら、彼は有り余る才能をどう使ったのだろうか。この街を離れることも、著名な楽団と共演することもできないピアニスト。いや、それどころか、彼は裁判官にも、大学教授にも、優秀な経営者にもなれる頭脳と要領の良さを兼ね備えている。けれども、マヌエラが法学の道を諦めたように、彼もまた『市井の目立たぬ誰か』以上の存在になることは許されないであろう。ここドラガォンで何らかの役割を果たす以外には。
けれど、彼はドラガォンで中心的な役割を果たすことも許されていなかった。存在しない者として、その頭脳と才能を、単なる趣味に費やすことしか許されていなかった。
にもかかわらず、彼の奏でる音は、なんと美しいことだろう! トリルの一つ一つは朗らかで優しく、静かに響かせる和音からは世界の深淵が顔を覗かせる。
手を動かさずに、聴いているマヌエラを見て、彼は微笑んだ。彼女は恥じて、慌てて仕事を続けた。
「ピアノ曲は、好きかい?」
彼は訊いた。
「ええ。クラッシック音楽には、あまり詳しくないのですが、聴くのは好きです。光景が目に浮かぶようですね」
彼は、意外そうに彼女を見ると「そうか」と言った。先ほどの笑顔よりもずっと柔らかい、嬉しそうな表情だった。
「じゃあ、次に君が来るときは、通しで何かを弾けるように準備しておこう。今日は、そろそろ掃除機をかけたいだろうから、僕は退散するよ」
そう言って彼は二階に上がっていった。
約束通り、次に彼の居住区を掃除するときに、彼ははじめから一階で待っていて、マヌエラに美しいメロディを聴かせてくれた。それどころか、マヌエラが掃除に来るときには、次第にそのミニコンサートが決まりのようになっていった。彼は、曲が終わると曲名を教えてくれた。ショパンだったり、ベートーヴェンだったりした。優しく可憐な曲もあれば、おどけた楽しい曲の時もあった。半年もするうちに、マヌエラは彼の演奏を聴いただけで、誰の作曲か推測ができるほどにピアノ曲に詳しくなってきた。
ある春の日に、22が弾いて聴かせた曲をマヌエラはことのほか氣に入った。彼女は、はじめの頃のように仕事をしながらかしこまって聴くことはなくなっていた。
「リストだよ。『三つの演奏会用エチュード』という作品の中の一曲さ」
「エチュードって?」
「練習曲のことだ」
「これが? こんなにロマンティックで素敵な曲が練習曲なの?」
「リストは皮肉っぽい人だったんじゃないかな。一般には『ため息』と呼ばれている曲なんだ」
それは、ほんとうにため息をつきたくなる美しい曲だった。仕事中である事も忘れて、ピアノの脇に進み、鍵盤に触れられるほど近くに立って彼の演奏に聴き入った。流れるような左手から生み出される細やかな音が、心の中を優しく撫でていく。右手の落ち着いた動きが、何か確かなものを語っている。それから、右と左の手は、役割を交代しながら優しく、戯れながらマヌエラの周りを踊った。その中に微かにとても真剣な想いが紛れ込む。
この人は、本物なのだと思った。繊細な黄金の糸で出来た輝かしいハートを、この暗い石造りの牢獄にいながら、決して曇らせる事なく燃やし続けている希有な人なのだと。たとえシステムが彼の存在を否定しようとも、誰にもそんなことはできない。生まれた順番や運命も、彼の心を砕くことも錆びさせることもできない。
格子の嵌まった窓から漏れてくる陽の光が、端正な横顔を浮かび上がらせる。明るい茶色の艶やかな髪の上で、メロディに合わせて踊りを踊る。この美しい時間を止める事が出来たらどんなにいいだろうと思った。
余韻とともに曲が終わっても、二人ともしばらく動かなかった。マヌエラがため息とともに彼を見ると、彼もその青い瞳を向けてきた。それが、二人の秘めやかな関係の始まりだった。
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【行ったつもり】(エアー)旅行 -1- ポルト

第一回は、三月末に涙を飲んでキャンセルしたポルト。ご存じ、私が毎年行っている旅先です。
よく考えると、私がポルトに初めて行ったのは、このブログを開設してすぐの頃でした。その当時はまだ今いらしてくださるブログのお友だちとも知り合っていない……っていうか、ほとんど誰も訪問してくれていなかった頃。
いつも三月の終わりに、有休を使い切るために一週間の海外旅行をしていたのですが、「今まで一度も行ったことのないところで、どこにしようかな」と適当に決めたら、嵌まってしまったというわけです。それ以来、毎年欠かさず通よう羽目になるとは。
ポルトとポルトガルの魅力は、「街が美しい」「ご飯が美味しい」「人々が優しい」の全てが揃っていること。

私の住むスイスは内陸国なので、魚介類を食べる習慣があまりありません。あっても淡水魚で、値段もとても高いのです。同じヨーロッパでも海岸近くに行くと、いろいろな魚介が食べられるので、海辺に行くときには魚介メニューを選ぶのを楽しみにしています。スペイン、イタリア、フランス、それに北海に面したドイツなども。ポルトガルも同様。とくに美味しいタコが食べられるのはとても嬉しい。
写真はAvadiaというお店で食べたグリルです。このレストランのタコは本当に柔らかくて美味しい。

ポルトの北部、ドウロ河が大西洋に流れ込むFozというほぼ海辺の地域にあるプロムナードです。恋人たちのデートスポットになっているという情報を聞きつけて、『Infante 323 黄金の枷』の中でちょっとしたトキメキシーンの舞台に使いました。ここから眺める大西洋は、「大航海時代が夢の跡」という風情で、ほとんど誰もいないときに眺めるのが好みです。
最初に来たときに、この辺りを周りながら『Infante 323 黄金の枷』の構想を練っていたなあ。この作品のせいで、余計に特別な街になってしまったのですけれど。

去年、念願叶って訪れた「サン・ジョアンの前夜祭」で食べたイワシの塩焼き。半人分をさらに連れ合いと分けたのに、この量(笑)でも、美味しかった。粗塩をつけただけなんですけれど、イワシそのものが久しぶりだったし、幸せでした。
心配ごともなく、楽しく旅行を楽しめることの幸せを、当たり前のように享受していたのですけれど、しばらくお預けですね。
みなさまも、Stay safe!
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【小説】秋深邂逅
「scriviamo! 2020」の第十弾、そしてラストの作品です。大海彩洋さんは、『オリキャラオフ会@豪華客船』の作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
大海彩洋さんの書いてくださった『2019オリキャラオフ会・scrivimo!2020】そして船は行く~方舟のピアニストたち~ 』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じだと思いますが、今回はピアノとピアノ曲に関する愛をたっぷりと詰め込んで、「何でもあり」の豪華客船に乗せてくださいました。そもそも主要キャラたちが「そんなふうに集まるのは本編ではないでしょ」な状態に大集合しているのですけれど、加えてお友達のブログのそうそうたるメンバーも乗っちゃっている「オリキャラのオフ会」です。
うちのチャラいピアニストもちゃっかり加わってすごいピアノに触らせていただいているようですが、さすがにこのストーリーに直接絡むのは無理だわ……。うちオフ会参加メンバーはほとんど逃げたした後だしなあ……。
というわけで、単純なオマージュ作品を書いてみました。このお返しの方法は、TOM−Fさんの作品には何回かしたことがありますが、彩洋さんへのお返しでは初めてかも?
「船旅」「四人の演奏」「一人の女の過去」あたりを踏襲してあります。歴史的事実と「聊斎志異」に出てくるとある怪異譚もちゃっかり絡めてありますが、加えて私の未公開(黒歴史ともいう)作品由来の嘘八百も混在しています。こちらもオリキャラのオフ会と同じくアトラクタBだということで、ご容赦ください。
読む上では関係ありませんが、使ったメインの四人は、先日のエッセイにちらりと語った「黒歴史で抹殺した神仙もの」のキャラクターたちです。つまりワイヤーワークで空飛ぶ仙人だと思っていただいて結構です。今回用意した通名は、ガーネット、翡翠、アクアマリン、紫水晶の中国名で、これは石好きな彩洋さんへのサービス(笑)
「scriviamo! 2020」について
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「scriviamo! 2013」の作品を全部読む
秋深邂逅
——Special thanks to Oomi Sayo-san
深まる秋の夜空に大きな月が煌々と輝いていた。出立より荒れ狂う波にひどく悩まされた航海で、このように凪いだ宵は初めてである。紅榴は
紅榴と呼ばれるこの弾き手は、揚州出の高官という触れ込みである。まるで少年のように若く、ひどく赤みの強い髪を髷に結っているために露わになっている首がほっそりとしている。文人でありながら武術もなかなかの腕前である。大使と共に第一船に乗る晁衡大人からの推挙状を持っていたため、この船でも破格の扱いを受けている。なぜ本名ではなく紅榴と呼ばれるのか、また、どこで流暢な日本の言葉を身につけたのか、皆が訊いたが笑みを浮かべるのみで多くを語らなかった。
蘇州黄泗浦を出て三日、遣唐使船四艘のうち二艘の姿は見えない。が、渡航が上手くいき阿児奈波に着けば消息も知れよう。
紅榴のつま弾く箜篌の音は、近くを走行するもう一艘に届いているらしい。むせび泣く声がこちらにまで届いてくる。
「おそらく普照どのではないか。鑑真和上を日本にお連れできなかったことを嘆いておられるのだ」
顔を上げると、いつの間に側まで来たのか、翠玉が立っていた。紅榴は、「そうやもしれぬな」と口先だけで笑った。
十九年の長きにわたり、日本で授戒を行うことのできる高僧を探し、苦労を重ねてきた普照にしてみれば、五度の失敗にもかかわらず、日本へ行こうとしてくれた鑑真を置いて日本へ帰らねばならぬことは耐えがたいに違いない。同じ志を持ち共に辛苦を耐えた栄叡は唐で客死し、鑑真和上と共に日本へと向かおうとした弟子の多くも波間に消えていった。ようやくやって来た遣唐使の船に鑑真を乗せることができたというのに、発覚を怖れた大使藤原清河が一行を降ろしてしまったのだ。
「ご存じないのはお氣の毒だが、あれだけ派手に嘆いてくれれば、清河殿は和上を密かにお連れしていることに氣付くまい。大伴様としてはありがたいのではないか」
背の高く深緑の装束に身を固めた男は、持っていた縦長の包みを前に置いて紅榴の横に座った。絹の包みを取り去り現れたのは七弦琴だ。黒く漆塗りが施され金銀や螺鈿で装飾されている。
翠玉と呼ばれるこの男もまた、謎に包まれている。太い眉の下に鋭い光を放つ切れ長の目を持つ剣士で、口髭の下の口元は一文字に結ばれ、長い髪は乱れ一つない。途中でこの船を襲った海賊どもを軽々と撃退したときですら、顔色一つ変えなかった。しかし、武門だけでなく風流にも通じているのか、七弦琴を嗜むらしい。紅榴は、この男と旧知の仲らしく現れた琴に驚きすらも示さなかった。
二人が静かに演奏を繰り広げるところに現れたのは、二人の僧侶である。老いた一人は手に五絃琵琶を手にしている。
「これは海藍どの。あなたも加わっていただけますか」
翠玉は琴を少し引いて、僧の座る場所を作った。
「このような月夜に、ともにつま弾くことができるのは、願ってもないことでございます。仏のご加護ですな。ところで、こちらにおりますのは、私と同室で過ごしております常白殿です。鑑真和上と共に日本に向かわれるのです。紅榴どのの弾いておられた曲のことをお訊きしたいと仰せでしてな」
紅榴は眉を上げて、壮年僧の顔を見た。思い詰めているのか、それとも怖ろしい思い出があるのか、わずかに震えている。
「先ほどそなたが弾いていた曲といえば……」
翠玉は、琴をつま弾いた。紅榴は、音色を絡ませながら答えた。
「……紫娘娘が我らに教えた曲だ」
「紫娘娘!」
常白の顔色は一層悪くなった。
「失礼ですが、あなた方は、どこかでその娘娘にお会いになったのですね」
その僧が震えながら訊くと、老僧海藍までがバチを手に合奏に加わった。
「その通り。そして、今そなたもな」
船倉から誰かが簫笛を奏でながら上がってきた。淡い紫の薄物を纏った女だった。明るい月の光に照らされて、女の白い顔がくっきりと浮かび上がる。この世の者とも到底思えぬ美しさだ。
演奏をしていた三人は、一様に手を止め、笛を吹く女に拱手礼をした。常白だけは、ガタガタと震えながらその場に立ちすくんでいた。
女は吹き終えると緩やかに笛を放し、三人に一人一人深く抱拳揖礼をした。
「海藍上人、翠玉真人、そして、我が師、紅榴元君、お久しゅうございます」
「紫娘娘、頭をお上げください。あなたも、日本へと向かうおつもりとは存じ上げませんでした」
海藍が愉快な声で告げた。
「みなさまがこの船に乗られるのを知り、急ぎはせ参じました。お声がけいただけなかったことを、恨みに思いますわ」
紅榴は箜篌をつま弾いた。
「そなたは泰山にて修行中と聞いた。我らが酔狂、鑑真和上の密航が発覚したときの安全弁の仕事などで邪魔するには忍びなかった」
「まあ。安全弁ですって?」
紫娘娘が大きく目を瞠る。
翠玉が答えた。
「さよう。皇帝は、高僧鑑真を連れていくなら、道教を広めるのため道士も連れて行けと、難題を押しつけたそうだ。それで大使の清河殿は、皇帝からの正式な許可を得るのを諦めた。大伴古麻呂殿は、晁衡大人と謀り、一度降ろされた鑑真和上と弟子たちを密かにこの第二船に乗せた。それにあたり、我らは用心棒かつ役人に捕まった場合の申し開き用の道士として招聘されたというわけだ。ついでに日本の見学もできるしな」
紫娘娘は鈴のような笑い声を上げた。
「でしたら尚更、お誘いくださらなくては。私はみなさまと違いかの
そこまで言ってから、いまにも倒れんばかりに震えて立つ壮年僧を見て、艶やかに微笑んだ。
「私、紫石英と申します。どうぞお見知りおきを。……それとも」
海を一陣の冷たい風が立った。紫娘娘の黒髪と薄絹がゆらりと泳ぎ、それに伴い牡丹の花のような芳香がただよった。
「紫葛巾と名乗った方が、よろしゅうございますか?」
常白は、地面にひれ伏し叫んだ。
「許してくれぇ! 葛巾、許して……頼む、許してくれ……」
紫娘娘は、ひんやりとした眼差しを向けて立っていた。その口元にはうっすらと微笑みすら浮かべている。
常白は、その顔を仰ぎ見る勇氣もないらしい。
「そなたを置いて逃げたのは、申し訳なかった。皇子さまに嫁ぐ予定の貴人と駆け落ちするなど、とんでもないことをしでかしてしまったと、恐ろしくてならなかったのだ」
紅榴がおかしそうに口を開く。
「なるほど。娘娘を盗み出したあげく、破れ屋に置き去りにした日本からの進士受験生というのはこの男だったか」
翠玉が、やはり口元だけで笑いながら琴をかき鳴らした。口を挟むつもりはないようだが、わざわざ唐までやってきた志も果たせず、見捨てた女の怒りを怖れて震える小人に呆れている様子が見て取れた。
「どうか祟らないでくれ。成仏して欲しい。……おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まにはんどま じんばら はらばりたや うん」
固く目を瞑り、真言を唱えて震えている。
海藍上人は、笑いながら常白の肩をトントンと叩いた。
「心配せずとも良い。このお方は怨霊などではない。ここにいる紅榴どのの弟子にて我らが同志でもある。そなたごときに去られたぐらいで、命を落とすほど弱々しき女子ではない」
「ご上人、その言い様はあんまりでございます。あのとき私は悲しみと飢え苦しみで生きる望みを失っておりました。実際に通りかかった師がお救いくださらなければ、あのまま山中で朽ち果てていたはずでございます」
紫石英は、氷を吹くように告げて、ゆっくりとかつての愛しい男に近づいた。
「仏門に入ったのも、私の菩提を弔うためではありませんのでしょう」
「いや……その……」
「鑑真和上は、ご自身で費用を賄われてまで日本行きを決意しておられた」
海藍は、琵琶をかき鳴らす。
「渡航の禁を破ってまでな。……お側にいれば、日本に戻る機会に恵まれる」
紅榴が箜篌で加わり、翠玉も琴をつま弾きながら答えた。
「進士に受からず遣唐使船で大っぴらに帰国できぬ日本人には、唯一の手立てだろうな。元来望んでいなかった剃髪をしても」
常白は、もはやきちんと立っていることもできなくて、紫娘娘から離れようとガタガタと震えながら船室の方へと這っていく。彼が退くと、彼女はゆっくりと歩みを進め、その距離はほとんど変わらない。月がゆっくりと歩むのと同じように、青白く浮かび上がった二人は移動していった。
残った三人は、もう二人を見ることもなく和やかにそれぞれの楽器を構え、再び先ほどの曲を合奏し始めた。
かつて二人が恋人同士であった唯一の満月に、微笑みながら共に奏でた曲が凪いだ海を渡っていく。もう一つの船で嘆く普照の泣き声と、許しを請う不実な常白のわめき声は、共に闇夜に消えていった。
悲鳴と何かが階段を転げ落ちる大きな音がして、こちらの船の不快な声はピタリと止まった。船室の奥で、何事が起きたのかバタバタと駆け寄る音がしているが、紫娘娘は興味を失ったかのごとく身を翻し、合奏する三人の元へと戻ってきた。
三人とも手は休めずに、女の方を見やった。紫娘娘は、ほんのわずかの微笑みを口に浮かべたが、何も言わずに簫笛を構えた。美しい音色が加わり、冴え渡る月は輝きを増したようだった。
凪いだ地平線の彼方にわずかに黒い影が見える。鑑真和上が熱望した日本への玄関である阿児奈波は、もうさほど遠くないようだった。
(初出:2020年3月 書き下ろし)
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