もう真夏

夏至が過ぎてしまったんです。つまり、これからは日が短くなる一方。
つい先日まで雪が降っていたので、そんな感じがしないんですけれど、このままでは一番美しい季節がすぐに終わってしまう……。
ここのところ、ほぼ毎日散歩をしています。やはり、家から出ないでいると不健康ですから。これはそんな散歩道の途中で見た光景です。農家が十分に育った草原でせっせと草を刈るので、数日ごとに光景がガラッと変わります。
さて。一週間ほど留守にしています。コメ返等が遅れると思いますが、ご容赦ください。
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心の黎明をめぐるあれこれ(6)永遠の光の中へ
第6曲は『Lux Aeterna』使われている言語はラテン語です。
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心の黎明をめぐるあれこれ
(6)永遠の光の中へ related to “Lux Aeterna’
第6曲 “Lux Aeterna’は、このような歌詞だ。
Lux aeterna luceat eis domine
Requiem aeterna dona eis domine
主よ、永遠の光が彼らの上を照らしますように
主よ、彼らに永遠の安息を与えて下さい
これはキリスト教の『レクイエム(死者のためのミサ)』典礼文の聖体拝領唱 (Communio)の一部と入祭唱 (Introitus)の一部だ。単純に、この曲を耳にするだけでは、これが『レクイエム』の一部だと想像するのは難しい。しかも、とくに悲しさを感じさせないメロディになっているので、余計にそう思う。
しかし、私と『レクイエム』の関わりを考えるのに、この曲の淡々としたあり方は妙な符号を感じる。
最初に『レクイエム』を耳にしたのはいつだろう。何のための曲か理解しながら聴いたのは3歳ぐらいだったろう。モーツァルトの『レクイエム』だった。
両親ともにクラッシック音楽畑の家庭に育った私は、歌謡曲よりも早くにクラッシック音楽を耳にする、若干風変わりな育ち方をした。自分では記憶にないが、童謡と同じ氣軽さでワーグナーやベートーヴェンを口ずさんでいたらしい。
さて、父が何度も繰り返しかけて、強烈な印象を私に残したモーツァルトの『レクイエム』は、ヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団による1959年録音だった。なぜこれほど細かいことがわかっているかというと、数年前にそのLPレコードを実家で発見したのだ。持ち帰りたかったが、LPでは聴けないので、写真だけ撮り同じ録音をiTunesストアからダウンロードした。
このLPが幼かった私に大きな印象を残した要因の1つは、そのカバージャケットだ。おそらく本当に亡くなった誰かの青ざめた足の裏と白い布のアップという、大胆な写真が使われていた。2年前にiTunesでダウンロードした方は、もちろんそのように衝撃的な写真は使われていない。
私の父が一時期狂ったようにこの曲ばかりをかけていた理由と、おそらく私が3才の頃だっただろうと推測するのは、その頃に私の弟が夭逝したからだ。享年3ヶ月だった弟を初めて見たのは、棺の中で花に囲まれている姿だったので、私には生きていた弟を亡くしたという実感は現在に至るまで薄い。もちろん両親にとってそれは全く違ったことだろう。今は3人ともあちら側にいる。私は、親への悼みを通して、両親の弟に対する想い、痛みや悲しみを感じる。
子供の頃に私が聴いていた『レクイエム』も同様に、父母の感じ方と、私の感じ方とでは全く違ったものであったろう。私は、『レクイエム』と実際の身内の死が結びついていなかったのだ。そして、純粋に音楽としてモーツァルトの『レクイエム』を好きだった。
そのような一風変わったなじみ方をしたせいか、私はごく普通のクラッシック音楽愛好家と比較しても『レクイエム』をよく聴いている。つまり、「お葬式の音楽」という物忌み感が薄かったように思う。なぜ過去形なのかというと、母が亡くなって以来は、どちらかというと本来の意味での鎮魂ミサ曲として聴くようになったからだ。
誰もがクラッシック音楽やキリスト教の葬儀に詳しいとは限らないので、簡単に説明を入れるが、『レクイエム』とは「安息を」という意味のラテン語である。カトリック教会で「死者のためのミサ(死者の安息を神に願うミサ)」に使われるラテン語の典礼文が、この言葉で始まるのだ。そして、ミサは、言葉で唱えるほか合唱曲として演奏する形もあり、クラッシック音楽でいう『レクイエム』は、この典礼音楽のことをいう。グレゴリオ聖歌をはじめとして、多くの曲が存在するが、有名なのがモーツァルト、ヴェルディ、フォーレの3作品である。
日本では、ヴェルディの『レクイエム』から『怒りの日(Dies irae)』が映画の主題歌に使われたのをご存じの方も多いかもしれない。私が聴くのは、やはり圧倒的にモーツァルトの作品で、次にフォーレ。ヴェルディは、通しで聴いたことがないかもしれない。これは個人の好みの問題もあるが、そもそもヴェルディの作品は教会で『死者のミサ』のために演奏されることが少ないのだ。オーケストレーションがドラマティックすぎて葬儀に向かないからかもしれない。
このブログによく書くように、私は音楽を聴きながら小説のアイデアを膨らませていくことが多い。そして、2つの『レクイエム』の『入祭唱とキリエ』が、『樋水龍神縁起』の重要シーンの発想の源になった。モーツァルトが本編、そしてフォーレが続編である『樋水龍神縁起 Dum Spiro Spero』の、それぞれ瀧壺に潜るシーンである。
死を意識せずに書いたかといえば嘘になるのだが、この2つのシーンはどちらも死と生の境界が非常に曖昧な世界を舞台にしている。
私たちの日常では、死と生はコンピュータ演算で言えば1と0と同じくらい明確に分かれ、曖昧であることはあり得ない。たとえば、私が両親や弟とこの世で再会することは100%ない。けれど、『樋水龍神縁起』でなんとか表現しようとした世界、人間の叡智の及ばぬレベルの世界では、生と死がまったく同じものとみなされている。それは、キリスト教会で説かれる世界観ではなく、東洋哲学を元にした、けれど宗教に囚われない精神世界の話だ。私は、このエッセイで何度か述べている『般若心経』の解釈からこの世界観を作り出した。そこでは生と死だけではなく、聖と俗、男と女、過去と未来、愛と憎、有と無など全ての相反するものが1つとなる。
その世界に向かうときに私がイメージしている曲が、どちらも『レクイエム』だったのは、私にとってその世界が死に近かったからではなく、私の原体験により『レクイエム』が死よりもそのどちらでもない世界に近かったからだ。弟は死でも生でもない世界に属していた。耳にしていたメロディも同様だった。その世界は、暗闇と光の両方を持っている。外界から光の届かない深い瀧壺に現実ともつかぬ黄金と虹色の光が溢れている。
その世界観は、私自身がどのように世界を理解しているかの集大成でもある。私は一応カトリック信者の名簿に載っている信者だが、その思想はローマ法王庁の教示には全くしたがっていない。私が理解している「神」とは、キリスト教信者が信じ、そしてまた、彼らは認めなくとも、その他の宗教を信じる者たちも信じている至高の存在である。
その存在は、私たちに都合よくは存在しない。免罪符や壺を買ったり、票集めに協力することで不老不死にしてくれたり死後に快適な場所を確保してくれるような存在ではない。人類だけに特権を与え、他の存在を破壊することを許可するような存在でもない。
私がいまよりも幸福になれるか、楽な死を迎えられるかは、全く保証されていない。たとえ「あの世」があるにしても、私が他の誰かよりも有利になるように、いま現在できることは、ない。
私が「この世」で、少しでも良く生きようとするのは、ポイントを集めて来世で何かの特典と交換するためではない。単純に、私は「この世」で後から後悔したくないから、つまり、自分の精神を良く保つためにだけ、信条にしたがって日々の生活を営んでいるだけだ。
私がこの宗教観らしきものにたどり着いてから、そろそろ20年ほどになる。正しいかどうかはわからないし、誰かに勧めようとも思わない。ただ、私はそう考えて生きている。
とはいえ、私が日常生活で本当に達観して生きているかと問われれば、それは違う。母が逝ったのは『樋水龍神縁起』を書いてから7年も経っていた2018年だが、大きなショックを受け嘆き悲しんだ。思想をもって感情を制御できるというものではない。
同じ敷地内に住む大家の飼っていた犬や猫たちが寿命でこの世を去ったときですら、悲しくて辛かった。そういうものなのだろう。
死に関することだけではない。日々の生活で理不尽な目に遭ったり、不愉快な思いをすれば、そのことで大いに感情を乱される。私はそれでいいと思う。悲しみや怒りに左右される分、喜びや楽しみの感情も私にはあり、それを思想に遮られることなくおおいに享受することができるのだから。
私が2度と会うことのできなくなった人たち、両親や弟、祖父母、親戚、恩師、隣人、それに、短い寿命を駆け抜けていってしまった犬や猫たちの魂、ただの物質以上の何かであらしめていた心ある存在は、どこへ行ったのだろう。
生と死の境のなくなる、暗闇と光が同じものとなるどこかで、個であることをやめたのだろうか。少なくとも彼らは、金銭や今日の食べるものの心配、成績不振、年金不足、戦争や地球温暖化、いつ終わるともしれぬ病魔の影などに煩わされることのない、安息の中にいる。
いつか私もまた、同じ光の中に去っていくことを考える。それでいて、「それは今日ではなさそうだ」と根拠もなく考えている。まだ、夕食の献立に頭を悩ませ、つまらないことに腹を立て、安物買いで銭を失い、平和で美しい田舎の光景に感動し、小市民としての日常を繰り返すことだろう。
(初出:2020年6月 書き下ろし)
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まだ終わっていない
6月19日、3か月ぶりにスイスの非常事態宣言が解除されました。世界中で、ロックダウンも解除傾向にあるのですけれど、でも、感染者数は一向にゼロ方向には向かわないようです。第2波が本当に来るのかもしれないと思いつつ、暮らしています。

私の住む地域は、もともとパーソナルスペースが広いので、買い物に行くときでもないと「感染の危険」を意識することは少ないのです。その買い物でも、入り口で手を消毒することと、レジの行列では間を空けること、以前よりも(Apple Watchで)カード払いをするようになったぐらい。身近にコロナウイルスに感染したという人が一人もいないせいか、最初の頃のような緊張感はもうありません。
新しいルールとしては、家族以外と車に乗るときや、公共交通機関でパーソナルスペースが保てない時は、マスクが必要になりました。不織布のマスクも売ってます。10枚800円くらいのか、50枚で4300円くらいで。あまり売れているようには見えないけれど。
私は、現在までマスクをしなくては、という状況になったのは2度だけです。日本人の高齢女性のMacの不調を見にいったときと、美容院に行ったときのみ。なので、ネットで調べて作った自作マスクを使っています。
写真のがそれなのですけれど、この手のものを4つほど自作して、車と鞄の中に常備しています。
レストランが再開し、イベントも開催できるようになると、ずっと10人台だった新規感染者数はまた増えてきています。とはいえ、何年間もロックダウンをしたままにはできないのも理解できます。
結局、それぞれが氣を引き締めて可能な限りロックダウンの時と同じような生活を続けるしかないのでしょうけれど……。
一方で、世界中でロックダウンが行われていた頃、世界各地の大氣汚染が劇的に改善したことも頭に引っかかっています。未成年に怒られても変えることのできなかった人間のエゴは、病魔によって抑えられたという皮肉です。これをコロナウィルス感染症の収束後に、また元の木阿弥にしてしまっていいのだろうかと思うのです。
「コロナ前の世界に1日も早く戻ろう」ではなくて、もしかしたら、現在生きているような、若干不便な世界に、人類は居続けるべきなのかもしれません。
いずれにしても先のことはまだ見えません。見えないなりに、何とか生きていくしかないのでしょうね。
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【小説】Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い
また大きく時が動いて、マヌエラは我が子アルフォンソの病床にいます。全ての目撃者であるジョアナは、マヌエラたちと自分たちの運命が変わった若かりし日々のことについて記憶をたどります。
30年前に起こったことの物語はこれでおしまいですが、この話の因縁が第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編でもある第3作『Filigrana 金細工の心』に引き継がれます。
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Usurpador 簒奪者(11)燃えて消えゆく想い
濃紺のゴブラン織りカーテンを締め切ってあるせいで、部屋はことさら暗く思われた。横たわる当主の具合が悪く、サントス医師は、しばらく泊まり込むことになるだろう。すぐ隣の部屋の準備を済ませた後、ジョアナは静かに戻り、控えめに報告を済ませた。
当主ドン・アルフォンソの顔色はいつもに増して悪く、食事のために起き上がることも出来なかった。それでも、彼はジョアナに礼を言うことを忘れなかった。その声は、聞き取れないほどにわずかなものだったが、彼が生まれた時からこの館で働き見守り続けてきた彼女にはよくわかった。
当主は、ベッドの脇に座る母親ドンナ・マヌエラに微笑みかけて、話の続きに戻った。
「父上が亡くなった日の事を思いだすのですよ」
マヌエラは、瞳を閉じた。ジョアナも、その日のことはよく憶えている。わずか5年ほど前のことだ。現当主と同じく身体の弱かった前当主は、同じように暗くカーテンを締め切った部屋でこの世を去った。
周りに揃った家族たち1人1人に、思いやりのこもった声をかけていた臨終のカルルシュは、しかし、意識が混濁すると、ずっと口にしなかった想いを漏らした。
「ドイス……。ドイス……。おもちゃも、絵本も……全部あげる……。だから、もう1度、笑ってよ……」
その心の叫びは、臨終に立ち会うことを拒んだ22には伝わらなかった。
カルルシュを支えて生きることを選び、結婚し、4人の子供の母親となったマヌエラを、22は裏切り者と罵倒し、2度と目を合わせようとしなかった。17年後、23が居住区に遷るのと入れ違いに『ボアヴィスタ通りの館』に遷されてからは、ジョアナが22と顔を合わせることはほとんどなくなった。
5年前、臨終のカルルシュのうわごとを耳にしたマヌエラは、いつものように娘のアントニアに伝言を頼むのではなく自ら『ボアヴィスタ通りの館』へ出かけ、22にこの部屋にきてくれるように懇願した。だが、彼女は虚しく1人で戻ってきた。
溝はあまりにも深く、時は無力だった。双子のように仲良く育った2人の少年は、もう2度とかつてように笑い合うことはなかった。
マヌエラは、その時のことを思い出したのだろう、聞き取れないほどの微かな声で言った。
「かわいそうなドイス……。かわいそうなカルルシュ」
それから我が子の頬にそっと手を触れて続けた。
「それに、かわいそうなアルフォンソ、かわいそうなクリスティーナ……」
ジョアナは、はっとして心を現実に戻した。非情なドラガォンの掟に遮られ、愛し合った2人が結ばれることの出来ない例は、22とマヌエラだけではなかった。
アルフォンソは間もなくくるであろう死を覚悟し、愛し合った娘と結婚しなかった。やがて代わりに当主アルフォンソとして生きることになる弟23に、決して触れることの出来ない妻を残さないように。新しい当主が自ら選んだ妻との間にドラガォンの《5つの青い星を持つ子》を残すこと。それはこの部屋にいる全て、ジョアナ自身を含めて、掟によって黄金の枷に囚われた《星のある子供たち》が、自らの想いを諦めてもサポートしなくてならないドラガォンの悲願だ。
「母上。私は幸せでしたよ。クリスティーナも、きっとこれから幸せをつかんでくれることでしょう」
当主は肩で苦しそうに息をしながらも、穏やかな口調で微笑みかけた。
「アルフォンソ」
マヌエラの背中を、ジョアナは見つめた。肩が震えていたが、彼女は取り乱すようなことはしなかった。ジョアナもまた、黙ってその場に立ちすくんだ。彼女の覚悟も、目の前の間もなくこの世を去ろうとしている若い当主がこの世に生まれたあの日にもう出来たのだ。
「ジョアナ。これはなんだ」
アントニオの手には、ジョアナの日記があった。昨晩、マヌエラの出産を控室で待ちながら書いていたのを、ドタバタでつい置きっぱなしにしてしまった。氣づいて朝一番で取りに来たが、その時にはもうなかったのだ。
「読んだの?」
「ああ。誰のものだかわからなかったからね。最初の方、誰が書いたかわかるまで読ませてもらった」
「そう」
受け取ろうと手を伸ばしたジョアナに対し、アントニオは首を振った。
「申し訳ないが、これをそのまま返すわけにはいかない」
「どうして?」
「君は誓約を忘れたのか」
ジョアナは首を傾げた。誓約が何かぐらいはわかっている。ここで起こったことを、外の人間に話したことは1度もないし、この日記を外の人間に見せるつもりも全くなかった。
「誓約を破ったりしていないわ。これは純粋な日記よ。個人的なものだし、いけないの?」
アントニオは頷いた。
「君が、これをよその人間に見せたりするような人でないことはよくわかっている。でも、君はたった数時間でもこれのことを忘れていたね。同じことが君の家で起こるかもしれない。それが起こってしまってからでは遅いんだ」
「持って帰ったりしないと言っても?」
「この館の中で存在を忘れることも許されないんだ。君は、この中にインファンテの存在について触れている。この記録を後世に残すことは許されない。たとえ、この館の中であっても」
アントニオが、どこまで読んだかジョアナにはわからなかった。彼女の彼に対する想い、フェルナンドの死、マヌエラをめぐるカルルシュとドイスの葛藤、すべてを次の世代の《星のある子供たち》と《監視人たち》にも知られずに置かなくてはならないことは、ジョアナにもわかった。
彼女は、この館の中で時間を過ごし、多くを目撃し、体験し、大切なものを得て、そして別の大切なものを失った。彼女は歳を重ねたのだ。それは記録してはならないものだった。アントニオは、いつものように落ち着いた低い声で言った。
「すべてを君の心の中に留めておくがいい。それは、誰にも禁じることはできない」
ジョアナは頷いた。薪の燃えている暖炉に視線を移した。
「燃やしてちょうだい」
アントニオも頷くと、彼女の手をその日記に添えさせた。彼女は力を込めて、それを火の中へと放り込む彼の手助けをした。
(初出:2020年6月 書き下ろし)
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サクランボの季節
そして、コロナ禍がまだおさまっていない今年も、サクランボの実る頃はやって来ました。

これは、私たちが借りているフラットの庭にある1本の木から採れたサクランボ。今年は豊作で、30㎏採ってもまだずいぶんと残っています。桜の木、それは重いでしょう。
大家が「お願いだから収穫して食べてくれ」というので、連れ合いが張り切って収穫しました。
買い物籠にぎっしりで、およそ10㎏あります。隣人たちにもお裾分けしても、まだまだ山のようでした。でも、放っておくと腐ってしまうので、必死に処理します。まず、洗って、種を取り除きます。

この時期しか使わないのですけれど、この器械はサクランボの種を取り除くためにあります。ホチキスのような形態で、1つずつ取り除くタイプのものもあるのですけれど、これだけ量が多いときは、それでは永遠に終わりません。なので、この器械でひたすらカシャカシャと取り除いていきます。

すぐに加工するにも限度があるので、まず大半を冷凍します。そして、2-3㎏の分だけを生で食べる分、シロップ漬け、ジャム、ラム酒漬けと分けて処理していくのです。
これが終わると「しばらくサクランボは見たくない」と思いますけれど、天然のチェリー色がとても美しい、美味しいジャムや、アイスクリームと食べるとめちゃくちゃ美味しいシロップ漬けなど、手作りならではの美味しい食品が1年間、食卓を彩ってくれるのです。
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【小説】Usurpador 簒奪者(10)決意
「うっかり」のせいで、自分の意思とは関係なくカルルシュの相手になってしまったマヌエラ。もともとは強制だった現実を、彼女は自分の意思で選び取ることになります。
現実に同じことがあるとして、たった2日でコロッと相手を変えるかと思う方があるかもしれませんね。私が思うに、マヌエラは始めから揺れていたのだと思います。人生には、あるものを得るために他方はどうしても捨てなくてはいけない場面があります。宣告は、どちらを選んでも後悔しただろう彼女に、一方の道に迷いなく進ませるための、大義名分を与えたのかもしれません。
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Usurpador 簒奪者(10)決意
宣告されたマヌエラが、掟に従い居住区に閉じ込められて2晩が過ぎた。はじめの晩にカルルシュが自死を試みた。一命は取り留めたものの、常に医師や召使いたちが行き来し続けていた。マヌエラは、特別に運び込んでもらった簡易寝台で夜を明かし、医師たちの指示に従い、弱っているカルルシュの世話をしてすごした。
鎮静剤によって眠りつづける彼を見て、マヌエラは複雑な想いに囚われていた。愛する男との未来を奪った彼への怒りや憎しみがないと言ったら嘘になる。けれども、彼が後悔し償いのために迷わず命を差し出したことは、彼女の怒りや悲しみの焰に大量の雨を降らせてわずかな熾り火にまで鎮火させてしまっていた。
それに、マヌエラは心底疲れていた。宣告から自殺騒ぎが立て続けに起き、居住区には常に誰かがバタバタと出入りしていた。本来ならば、宣告で意思に反した決定を強制された彼女を、館中の人々が氣を遣うはずだろうが、緊急事態でそのことは忘れ去られていた。ここから出ることの許されない彼女のために、朝昼晩の食事が運び込まれるが、それをゆっくり食べるような状況ではなかった。そもそも食欲もほとんどなかった。
厚い壁に遮られた隣の居住区には、22がいるはずだったが、その兆しは何も感じられなかった。彼が大きな声を出して抵抗したのは、彼女がここに閉じ込められるまでの事だった。その後に彼女は、常に誰かが忙しく出入りしている居住区の2階の出入り口には行かなかったし、そうでもしなければやはり居住区に閉じ込められている22と話すことは不可能だった。
3階の小さな部屋で用意された食事を終えると、彼女はカルルシュが横たわる寝室に戻り、ベッドの近くの小さな椅子に座った。その椅子は医師たちの邪魔にならないように、かなり後ろの壁際にあり、そこで彼女は痛み止めで朦朧としたカルルシュの顔を眺めていた。
やってくる召使いたち、監視人たち、そしてサントス医師や看護師たちは、これまでと同じようにカルルシュに丁寧に言葉をかけ、世話をしていたが、誰もがぎこちなかった。
マヌエラは、そのぎこちなさをよく知っていた。これまでも、ここまであからさまではなかったが、誰もがカルルシュに対してある種の距離を持って接していた。どこかに「ここにいるべきではない相手」に仕方なく接している風情があった。マヌエラは、カルルシュがずつと感じてきた疎外感を、この2日ほど強く身をもって感じたことはなかった。たった2日でも、直接自分とは関係がないにもかかわらずこれほどまでに居たたまれない立場に、彼は当事者として20年も立っていたのだ。
そして、サントス医師の指示で、その日彼はベッドの上に起き上がり午後を過ごした。うつむきサントス医師の言葉を聞いていたが、「何かありましたら、マヌエラに伝えてください」という言葉で、はっとした。壁際に疲れた表情で座っている彼女を見つけ、申し訳なさげに項垂れた。
彼が起き上がっていることを聞いたのだろうか、騒動以来はじめて当主ドン・ペドロが居住区に入ってきて、いつもの威圧的な佇まいでカルルシュを見下ろした。その眼差しには、いつもの厳しさだけでなく、あからさまな憎しみもこもっていた。当主が、怒りを収めていないどころか、2日前よりももっと腹を立てていることがマヌエラにも伝わってきた。
「22にお前の遺書のことを話してきた」
ドン・ペドロは、カルルシュを冷たく見つめ言い放った。マヌエラは震えながら立った。
カルルシュが残した遺書を、彼女は読んでいなかった。首を吊ろうとした彼を支えて助けを呼び、そのまま大騒ぎの中で震えている間に、その遺書は然るべき相手の手に渡ったらしい。この2日の間に、伝え聞く情報でおおよその内容は耳に入っていた。彼は命と引き換えに、彼が望まずに奪ってしまった全てを22に返したかったのだ。
だが、その遺書すらも、ドン・ペドロをひどく怒らせているらしい。
「22はこう言った。『全てなんてありえない。ドラガォンの掟では、私は2度とマヌエラに触れられない。あの男が死んで、私がプリンシペに代わったとしても、私が血脈を繋ぐなんて期待されては困ります。私はあなたたちドラガォンには絶対に協力しない。血脈を繋ぎたければあなたたちでなんとかするんですね』」
カルルシュは黙っていた。苛立ちを募らせてペドロは吐き捨てた。
「いいか。お前は自分の引き起こしたことの責任をとるんだ。その女でも、他の女でもかまわん。必要なら医学の手を借りてもいい。血脈を繋げ。他に何もできなくても、そのくらいはできるだろう。それさえ済ませれば、死ぬなりなんなり、好きにするがいい」
なんてひどい……。マヌエラは、ドン・ペドロの非情さに震えた。自分を道具扱いされたことよりも、ただひたすらカルルシュへの彼の冷たい態度にショックを受けた。
マヌエラはカルルシュの顔を見た。青ざめて、その瞳にはいっぱいの涙がたまっていたが、育ての父親が腹立ち紛れに部屋の扉を叩き付けるように閉めて出て行っても、反論もせず、泣きわめくこともなく下唇をかみしめていた。
ゆっくりと身を起こすと、まだ立ち竦んだまま彼を見ているマヌエラの視線から身を隠すように背を向けた。
「嘲笑ってくれ」
彼女は、言葉を見つけられなかった。瞳を閉じて、わき上がってくる悲しみと憐憫を持て余した。
「長く生き過ぎたんだ。こんなことをひきおこす前に、出来損ないはさっさと死んでいればよかったんだ。謝罪なんか何の役にもたたないのはわかっている。だから、もし、それで君の氣が済むなら、僕が死ぬまで憎んで、罵倒して、嘲笑ってくれ」
肩を落として震えるその姿は、マヌエラの心を締め付けた。
カルルシュは、このシステムの被害者だ。彼は、マヌエラと22にだけはひどいことをしたかもしれないが、それ以外の全ては、彼に何の責任もない。彼を追い詰め、命を差し出そうとしても許さずに責め立てるドン・ペドロと周りの人々は、彼を苦しめるドラガォンのシステムそのものだ。マヌエラに将来の職業を諦めさせ、22の才能を腐らせる巨大で非情なシステム。いま目の前で震えているカルルシュは、権力に潰されかけている弱者だ。法の下の正義を学びたかった彼女には、それは許せることではなかった。いや、それに抵抗しないことで、自分も加害側に加担してしまうことが許せなかった。
彼女は彼の横にそっと腰かけると、その手をとって自分の唇の所に導いた。彼は訝しげに涙に濡れた瞳を向けた。
マヌエラは静かに語りかけた。
「そんなことはしないわ、カルルシュ。あなたは1人じゃない。私があなたの味方になるから」
「マヌエラ?」
「あなたの運命の重みも、ドイスやドン・ペドロから受ける憎しみも、私と分け合いましょう」
彼は戸惑って、言葉を飲み込んだ。マヌエラは彼の喉に巻かれた包帯にそっと手をやり、哀れみに満ちた優しさでその溝をなぞった。
「どうして……。憎んでも憎みきれないだろう?」
「憎んでも、もう私たちは他の道には行けないのよ。憎みながらここににいても、お互いにつらいだけだわ。それに、こんなに追いつめられたあなたを、高みの見物をしながら嘲笑うなんてどうしてできるの。先に生まれてきたのも、体が弱いのも、あなたのせいじゃないのに。どうしてあなただけが全てを背負わなくてはならないの。どうしてあなただけが、皆に見捨てられなくてはならないの。そんなの悲しすぎるでしょう」
「マヌエラ……僕を哀れんでくれるのか」
マヌエラは微笑んで彼をそっと抱きしめた。彼は堪えきれず、声を上げて泣き出した。
「負けずに生きて。つらい時は、一緒に泣きましょう。私に助けられることは、なんでもするわ。叱られる時にも、一緒にいてあげるから」
カルルシュは、泣きながらマヌエラを抱きしめた。
彼女は心の中でつぶやいた。ドイス、許して。私はこの人の力になりたい。
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オンラインお茶会した

海外に住んでいると、日本の友だちとの会合を持つのは、普通の場合、日本に帰国したときのみになります。ずっとそういうものだと思っていましたし、普段はメールなどで気軽にあれこれ話しているので、わざわざスカイプでテレビ電話しようよということもなかったのですよ。
日本の姉との連絡用に2018年からLINEを導入し、友だちとのグループトークなども入ってくるのですけれど、そうすると「飲み会しましょう」というようなお誘いが目に入り「いいなあ」と思うことが増えていたのですね。
そして、このロックダウンで「オンライン飲み会」が流行っているという話がこちらにも届いてきました。そして、オンラインなら私だって参加できるのですよ。それで、オンライン飲み会もしたのですけれど。その後に、お酒をたくさんは飲まない友人との会話で「なら、オンラインお茶会しようか」と盛り上がったのです。
日本とオンラインで会合をもつとなると、時差の関係で私はいつも昼間になるのです。で、オンラインお茶会なら私にも都合がいいわけです。私は土曜日の11時からブランチ、日本の友人たちは18時から早い夕ご飯という時間で開催しました。
そのうちの1人は、イギリスに非常に造詣が深い(オタクともいう)ので「ならば、私は北部イングランドの労働者階級の設定でハイティーを用意する」なんてマニアックなことを言い出しました。私には全然なかった発想。マニアってすごい。
で、私も、せっかくなので盛り上げて、ちゃんとアフタヌーンティーっぽいものを用意して参加することに。
といっても、やはりヨーロッパなので材料はわりと簡単に集まります。
サンドイッチは、キュウリ、卵、ローストビーフ、スモークサーモン、チェダーチーズ。
普段は耳ごと半分に切るのですけれど、今回はお上品に耳を落し1/4サイズに。(耳は夕飯に食べました)
そして、スイスの田舎ではスコーンなんて買えないので、これは自作。初めて作ったけれど、簡単ですね。パンよりずっと失敗もなく、それらしくできます。クロテッドクリームは手に入らないので、常備しているマスカルポーネチーズで代用。その代わり、レモンカードはイギリスで買ったものを開けましたよ。
他には、ポークパイと、ハムのパイ(シンケン・ギップフェリといって、スイスではよくある前菜)、いくつかのチーズ。2日前に自分で作ったチョコレートブラウニー。それにクッキーアソート。
これ、1人分で用意したんですけれど、もちろん2時間あっても食べきれず(笑)
紅茶は、いただき物ですけれど、英国王室御用達の香り高い茶葉で。
楽しかったです。話題は、まったくハイソサエティっぽくはなく、普通にはしゃぎました。
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【小説】Usurpador 簒奪者(9)宣告
さて、このストーリーのメインとなる事件を語る回です。「そんなアホなことで……」と呆れるかもしれませんが、カルルシュの「うっかり」で何人かの運命が変わってしまいました。
サブタイトルになっている「宣告」について、前作未読の方のために少しだけ説明しますが、この作品群に出てくる《星のある子供たち》といわれる腕輪を填めた人々には、特別な掟があり、そのうちの一つに「《星のある子供たち》である男は、まだ誰にも選ばれていない《星のある子供たち》の女に、立会人の前で正式の文言による宣告をすることで、自分と一緒になることを強制できる」というものがあるのです。
前作の主人公23がヒロインであるマイアに発動したのもその正式な宣告でした。これは非人間的なので、現代では滅多に起こらないことになっています。ところが、この親子ときたら2代続けて宣告することになってしまったのでした。23は他に方法がなかったとは言え、それをしてしまったことでめっちゃ落ち込んでいました。なんせ母親に起こったことは、ある意味で、この一族のトラウマになっていましたし……。
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Usurpador 簒奪者(9)宣告
息苦しさに目を覚ました。暗闇の中に白い顔が浮かび上がった。眠っていた彼の上に、重みをかけてのしかかっていた。目を血走らせ、眉を吊り上げた、その凄惨な顔の女はドンナ・ルシアだった。同時に、その女の腕が自分の首にかかって締め付けているのもわかった。声は出ず、脳の周りにはち切れそうになった血管が集まり痛いほどに膨らんでいるのもどうする事も出来なかった。
なぜ、それほどまでに、僕が憎いのですか、母上。霞んでいく瞳、苦しくて恐ろしくて、抵抗する事も出来なかった。
カルルシュは、目を覚ました。13歳だったあの夜の夢を見た理由がわかった。首に痛みが残っている。脳の周りの痛みも、頭痛として残っている。ベッドの上にいて、サントス医師の顔が見えた。
「ご加減はいかがですか。メウ・セニョール」
「……死に損ねたのか」
「マヌエラが、すぐにあなた様を支えてくれたのですよ。そうでなければ、危ない所でした」
サントス医師の視線を追って顔を僅かに動かすと、ソファでぐったりとして顔を覆っているマヌエラが見えた。薄れていく意識の向こうで、彼女の悲鳴を聴いたのは間違いではなかったのだと思った。
22がマヌエラと愛し合っていることは、もはや公然の秘密だった。誰もがその日は近いと感じていた。彼らが当主ドン・ペドロに一緒になる許しを請い、インファンテ322の居住区がもはや独房ではなく、共に格子の向こうで暮らすことを望んだマヌエラとの愛の巣になる瞬間。
そして、事実、彼は昨日の午餐が終わったときに、立ち去ろうとする父親ドン・ペドロを呼び止めたのだ。彼は、マヌエラに近づきその手を優しく取ると、当主に許しを請うために近づいた。
カルルシュにとっては、死の宣告にも等しい瞬間だった。ドイスに、青い星を持つ男に選ばれたその瞬間から、赤い星を持つマヌエラは永久に、やはり青い星を持つカルルシュには手の届かないところへと行く。どれほど愛しても、事態が変わろうとも、絶対に覆すことの出来ない掟だ。
もう2度と、夢を見る事も許されない。自分が求愛して受け入れてもらう夢も、それから同じように繰り返した彼女に宣告で強制する夢も。夜の暗闇の中で何度も繰り返した虚しい宣告の言葉ももう使うチャンスがなくなるのだ。
「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる者が命ずる。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、余のもとに来たりて竜の血脈を繋げ》」
いつものひとり言のつもりだった。だが、彼は、3人が信じられないと言う顔をしながらこちらを眺めているのを見た。いったいどうしたんだろう。いつも僕の事なんか誰も見ないのに。
「嘘だろう……?」
22の顔が激しい憎悪に歪んだ。何かを続けて言おうとしているのを、彼の父親が制止した。それから、息子に負けないくらい憎しみのこもった目をしながら、低く妙に静かな声で言った。
「《碧い星を5つ持つ竜の直系たる余は、碧い星を5つ持つドン・カルルシュ、そなたの命令を承認する。竜の一族の義務を遂行せよ。紅い星2つを持つ娘、マヌエラ・サントスよ、ドン・カルルシュに従え。そなたには1年の猶予が与えられた》」
その時にカルルシュは、ようやく自分が本当に宣告をしてしまっていた事に氣がついた。あたりは白く遠ざかり、騒ぎが何も聞こえなくなって周りが回っているようだった。当のマヌエラの絶望に満ちた眼も、他の召使いたちの驚愕に満ちた顔も、彼に飛びかかろうとする22をアントニオが必死で止める姿も、まるで現実ではないように存在していた。
「なぜなんだ!」
22は暴れながら叫んでいた。
「まだ足りないのか! 名前も、人生も、夢まで取り上げて、それでもまだ足りないのか!」
カルルシュは、その言葉で我に返った。ドン・ペドロの合図で、ソアレスはマヌエラの腕を取って食堂から連れ出そうとした。それを見て22は絶叫した。
「離せ、アントニオ! 父上! あなたには心というものがないのか! マヌエラ、マヌエラ!」
「ドイス……」
マヌエラも泣きながら、無理矢理に格子の向こうへ押し込められる22に向かって手を伸ばした。
「父上……。私はなんてことを……」
カルルシュは椅子に崩れ落ちるように座り込むと、テーブルに突っ伏した。
ペドロはその息子を厳しく見つめた。
「撤回はできない。お前の義務を遂行しろ」
もっと早くに死んでいれば、あの時、彼を殺めようとした母親、いや、彼が母親だと信じていた女性が失敗していなければよかったのにと、彼は瞳を閉じた。
我が子である22をインファンテの宿命から救い出すために、彼女は手を穢そうと決心した。だが、その行為は、彼女の夫であるドン・ペドロに氣づかれてしまい、完遂する事が出来なかった。そして、彼は自分の妻を退けなければならなかった。プリンシペであるカルルシュに手を掛けようとした、ドラガォンで考えられる限り最も重い罪を犯した女は、当主夫人でありながら許されるはずはなかった。
僕は、ドイスからすべてを奪ったのだ。名前も、立場も、未来も、母親も、そして愛する女まで。
ドイスが大切だった。つらい館での子供時代で、ドイスだけが僕の光だった。それなのに、僕はドイスの人生と心を殺してしまった。ほんのわずかの不注意で、するはずではなかった宣告をしてしまった。
マヌエラは、22のとは別の居住区に閉じ込められた。そして、1年経つか、妊娠するか、それともカルルシュと正式に結婚するまでそこから出ることを許されなくなった。彼もまた、その居住区で寝泊まりすることになり、夜になるとそこへと案内された。顔を覆って泣いているマヌエラの横を通った。
彼は、短く遺書をしたためた。自分が死ねば、ドイスは本来手にすべきだったものを全て取り戻すことが出来る。ドラガォンも相応しい跡継ぎの帰還を喜ぶだろうと。
それから、バスルームへ向かうとタオルをシャワーヘッド掛けに結びつけ、小さな椅子の上に立つと輪に首を通した。怖かった。目をつぶって勢いをつけて椅子を倒した。苦しくて痛くて激しく後悔したが、すぐに意識がなくなった。
そして、あの悪夢の後、目が覚めた。絶望の中にいながらも、あの音を聞いて駆けつけたマヌエラが彼の命を救ってくれたのだ。彼は、瞳を閉じた。
マヌエラがいてくれたら、人生が変わると、1人ではなくなると、思っていた。そんな事はすべきじゃなかった。1人でいるべきだったんだ。たぶん、みんなの幸せのためには、僕はもともと生まれてくるべきではなかった。なのに、どうして死ぬ事も出来ないんだろう。
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