【小説】バッカスからの招待状 -14- ジュピター
今日の小説は、TOM−Fさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 絆
私のオリキャラ、もしくは作品世界: 『樋水龍神縁起』シリーズの女性キャラ
コラボ希望キャラクター: 『天文部シリーズ』から智之ちゃん
使わなくてはならないキーワード、小物など: 木星往還船
ええと。わかっています。『樋水龍神縁起』だって言ってんのに、なんで『Bacchus』なんだよって。ええ。でも、『Bacchus』はそもそも『樋水龍神縁起』のスピンオフなのですよ。というわけで、「木星往還船」を使わなくちゃいけなかったので、紆余曲折の末こうなりました。あ、ちゃんと一番大物の女性キャラ出しているので、お許しください。(あの作品も、ヒロインはサブキャラに食われていたんだよなあ……いつものことだけど)
智之ちゃん、名前は出てきていませんが、ご本人のつもりです。三鷹にいるのは詩織ちゃんのつもりです。TOM−Fさん、なんか設定おかしかったらごめんなさい!
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バッカスからの招待状 -14- ジュピター
「いらっしゃいませ。……広瀬さん、いえ、今は高橋さん! ようこそ」
全く変わらない心地よい歓迎に、摩利子は思わず満面の笑みを浮かべた。
「お久しぶり、田中さん。早すぎたかしら?」
「いいえ。どうぞ、いつものお席へ」
いつも座っていたカウンター席をなつかしく見やった。一番奥に1人だけ若い青年が座っていた。やはり、いま来たばかりのようで、おしぼりで手を拭きながら渡されたメニューを検討していた。
久しぶりに東京を訪れた摩利子は、新幹線で帰り日中の6時間以上を車窓を眺めているよりも、サンライズ出雲で寝ている間に島根県に帰ることを選んだ。そこでできた時間を利用して午後いっぱいをブティック巡りに費やした。そして、大手町まで移動して出発までの時間を懐かしいなじみの店で過ごすことにした。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
かつて彼女は、今は夫になり奥出雲で彼女の帰りを待っている高橋一と、この店をよく訪れた。仕事が早く終わる摩利子が一の仕事が終わるのを待つ間、いつもこの席に座りマティーニを注文した。
「ジンを少し多めに。でも、ドライ・マティーニにならないくらいで」
店主であり、バーテンダーでもある田中佑二は、にっこりと微笑みながら摩利子が満足する完璧な「ややドライ・マティーニ」を作ってくれた。結婚して東京を離れてから、飲食店を開業、さらに母親となり、なかなか東京には出てこられない日々が続き、この店を訪れるのは実に10年ぶりだったが、田中は全く変わらずに歓迎してくれた。それがとても嬉しい。
「今日は、お里帰りですか」
「うふふ。用事のついでにね。これから寝台で島根に帰るの」
「高橋さんは、お元氣でいらっしゃいますか」
「ええ。さっき電話して『Bacchus』に行くっていったら、田中さんにくれぐれもよろしくって言われたわ」
「それはありがたいことです。どうぞよろしくお伝えください」
「ええ」
カウンター席の青年は、常連然とした摩利子と田中の会話を興味深そうに聞いている。
「今日は、何になさいますか。マティーニでしょうか」
メニューを開こうともしない摩利子に、田中は訊いた。彼女は、少し考えてから答えた。
「そうね。懐かしい田中さんのマティーニ、大好きだけれど、今日はほんの少しだけ甘くロマンティックな味にして欲しい氣分なの。夜行電車の向こうに星空が広がるイメージで」
田中は、おや、という顔をしたがすぐに微笑んで、いった。
「それでは、メニューには書いてありませんが、ジュピターはいかがですか。マティーニと同じくドライジンとドライヴェルモットを基調としていますが、スミレのリキュール、パルフェ・タムールとオレンジジュースをスプーン1杯分加えてつくるのです」
摩利子は、へえ、と嬉しそうに頷いた。
「ジュピター!」
カウンターの端に腰掛けている例の青年が大きな声を出した。
摩利子と田中は、同時に青年のほうを見た。彼は、話に割り込んだことを恥じたように、戸惑っている。摩利子はかつて職場の同期の男の9割に告白をさせたと有名になった、自信に満ちた笑顔をその青年に向けた。
「ジュピターって、カクテル、初めて聞いたわ。あなたも?」
それは「会話に加わっても構わない」というサインで、それを受け取った青年は、ほっとしたように2人に向けて言葉を発した。
「はい。僕も……その、すみません、大きな声を出してしまって。今日1日、高校時代の天文部のことを考えていたので、ジュピターって言葉に反応してしまって……」
「まあ。天文部。私はまた、なんとかっていう女性歌手のファンなのかと……。ほら、『ジュピター』って曲があったじゃない? もしくは、なんとかってマンガもあったわよね」
「マンガですか?」
田中が、シェーカーに酒を入れながら訊いた。
「ええ。なんだっけ、プラなんとかっていう、木星に行く宇宙船の話」
「『プラネテス』木星往還船を描いたSFですね。NHKでアニメにもなりました。2070年代、宇宙開発が進み、人類が火星に実験居住施設を建設していて、木星や土星に有人探査を計画している、そういう設定の話でした」
青年が言った。
「さすがによく知っているのね。木星って、現実にも探査が進んでいるはずよね、確か。人間は乗っていたかしら?」
「いえ、無人探査です。現在は何度も周回して木星を詳細に観測するジュノーのミッションが進行中です」
「どうして降り立たないの?」
「木星の表面は固体じゃないし、常時台風が吹き荒れているようなものなんです。そもそも、ジュノーあそこまで近づくことも、長時間にならないように緻密に計算されているんです。強い放射線の影響で機器に影響が出ないように」
「放射線?」
「ええ。木星からはものすごく強い放射線がでているんです」
「そうなの?」
「では、木星の近くまで旅行するのも難しそうですか?」
田中に訊かれて、青年は笑った。
「今の技術では難しいですね。木星には衛星もあるし、たとえばエウロパには表面の分厚い氷の下に豊かな液体の海があって間欠泉と思われるものも観測されているんですが、木星に近すぎて放射線問題をクリアできないでしょう。一方、カリストくらい離れればマシのように思いますが、こちらには液体の水はないようです」
「そうなんですか。技術が進化すれば宇宙進出もできるというような単純な話ではないのですね」
「それに、たとえ、寒さや放射線の問題がなかったとしても、ちょっと遠いんですよ。僕たちが海外旅行を楽しむような氣軽さでは行けないと思います」
「どのくらい遠いの?」
「太陽から地球までを1天文単位っていうんですけれど、太陽から木星まではだいたいその5倍くらいあります。なので単純に一番近いときでも、太陽までの4倍ちょっとあります。以前計算したことがありますが、時速300キロの新幹線で行くとすると230年以上。時速2000キロのコンコルドで35年、時速2万キロのスペースシャトルで3年半ぐらいです。もっともその間も木星は動いているので、この通りというわけにはいきませんけれど」
「片道でそんな距離なのね」
「燃料、ずいぶんと必要なんでしょうね」
「そうですね。僕にチケットが払えないのは、間違いなさそうです」
シェークを終えた田中が、カクテルグラスを摩利子の前に置いた。ほんのりとスミレの香りがする紫のカクテル。
「まあ、きれいね。それに……オレンジジュースのお陰なのかしら、爽やかな味になるのね」
「パルフェ・タムールは、柑橘系の果実をベースにしたリキュールですから、その味も感じられるのではないですか」
「それ、アルコールは強いですか?」
青年が訊いた。
「そうですね。マティーニのバリエーションなので、マティーニがお飲みになれれば……」
田中は言った。
摩利子は、ということはこの客は初めてここに来たのだなと思った。何度かやって来た客がどのくらいの酒を飲めるのかを、田中はすぐに憶えてしまうのだ。
「せっかくですから、僕もその『ジュピター』をお願いします」
田中は微笑んで、再び同じボトルをカウンターに置いた。
摩利子は、話を木星に戻した。
「じゃあ、スペースシャトルが格安航空券なみにダンピングされたら、木星往復ツアーなんてできちゃうかしらね。7年間、ほとんど車窓が変わらなそうでなんだけど」
青年は、首を傾げた。
「どうだろう。7年で往復できるとしても、その時間、地球では、他の人たちが別の時間を過ごしていて、帰ってきたら浦島太郎みたいな想いを味わうんじゃないかな」
摩利子は、にっこりと微笑んだ。
「7年なんて、あっという間よ。待っている人たちは、待っているわ」
田中が、そっと『ジュピター』を青年の前に置いた。青年は軽く会釈をして、紫のドリンクを見ながら続けた。
「『去る者日々に疎し』っていいますよね」
「そうねぇ。側に居て同じ経験を続けていないだけで疎くなってしまうのって、それだけの関係なんじゃないかしら。ほら、私、そんなにしょっちゅうは来られないけれど、『Bacchus』と田中さんは、私たち夫婦にとってとても大切なままだもの」
「恐れ入ります」
「それは……そうだけれど。星空だけを観ながら時間を止めたような旅をしている人と、その間もたくさんの他の経験をしている人との間に、認識の差が生まれてくることはないのかなって。離れている間に、どんどんお互いの知らない時間と経験が積み重なって、なんていうんだろう、他の誰かたちとは絶対的に違うと僕は感じている『何か』が、相手たちの中では薄れていくのかもしれない、なんて考えることがあるんですよ」
「それは木星旅行の話じゃなくて、現実の話?」
「まあ、そうです。高校の時に、いつも一緒だった仲間たちのことを考えています」
摩利子は、なるほど、という顔をした。それからわずかに間をとってから言った。
「私たちね。私たち夫婦も、それに、ここにいる田中さんも……たぶん、もう帰ってこないだろう人を待っているの」
「え?」
田中は、何も言わずに頷き、後ろにある棚を一瞥した。キープされたボトルのうち、定期的に埃がつかないようにとりだしているが、2度と飲まれないものがあった。彼は一番端にある山崎のボトルを見ていた。
青年は、具体的にはわからないが、2人が示唆している人物の身に何かが起こったのだろうなと考えながら聞いていた。摩利子は、それ以上具体的なことは言わずに続けた。
「絆って、ほら、一時やたらと軽く使われたでしょう? だから、手垢がついた言い回しになってしまったけれど、でも、きっと、そういう時間や空間の違いがどれだけ大きくなっても変わらない、口にすることもはばかられる強いつながりのことをいうんだと思うわ」
青年は「そうかもしれませんね」と、カクテルグラスを傾けた。わずかに頷きながら、確かに自分の中にある『絆』を確認しているようだった。
「僕は、高校まで兵庫県にいたんですけれど、それから京都に出てそれからずっとです。高校の時の仲間も、アメリカに行ったり、東京に出たり、みなバラバラになったけれど……確かにまだ消えていないな」
「あら。じゃあ、こちらに住んでいるわけじゃないのね」
「ええ。昨日から泊まりがけで研修があり東京に来ました。今日夕方の新幹線で帰るはずだったんですけれど、こちらには滅多に来ないし、明日は日曜日なので、先ほど思い立ってステーションホテルに部屋を取ったんです」
「そう。じゃあ、この店に来たのは、もしかして偶然?」
「はい」
「あなた、とてもラッキーな人ね。知らずにここを見つけるなんて」
青年は、顔を上げて2人を見た。それから、頷いた。
「本当だ。ここに来て、話をして、そして『ジュピター』を飲んで。すごくラッキーだったな」
それから、何かを思いついたように晴れやかに訊いた。
「あの、三鷹って、ここから近いんでしょうか」
「三鷹? 多摩のほうでしょう。山の中じゃなかった? 子供の頃、遠足に行った記憶があるわ」
摩利子の言葉を田中が引き継いだ。
「確かに多摩ですけれど、山の中ってことはありませんよ。東京駅で中央線の快速に乗れば30分少しで着くのではないでしょうか」
2人は、この青年が明日、『絆』を確かめ合う相手に連絡することを脳裏に浮かべながら微笑んだ。
ジュピター(Jupiter)
標準的なレシピ
ドライジン : 45ml
ドライヴェルモット: 20ml
パルフェ・タムール: 小さじ1
オレンジジュース: 小さじ1
作成方法: アイスカクテルシェーカーでシェイクし、カクテルグラスに注ぐ。
(初出:2020年8月 書き下ろし)
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もう戻りたくない

本人としては、途中でサボりまくった記憶もないし、自分のできることを懸命にやってきた人生だとは思っているのですけれど、ふと周りを見回すとみなさん立派に大成していたりして、「あらあ……差が出たわね」と思わないこともないのです。高校時代や、大学時代の頑張りが違ったのか、その後なのか、そもそもキャパシティや素材が違ったのか、その辺はわかりませんけれど。
とはいえ、時間のリールを巻き直して、もう1度たとえば10代前半からやり直したいかと問われれば、私の答えは「ノー」ですね。あの時代に戻ったら、「あの時間はこう使うし、こんなこともしただろうし、あれは無駄だったから手を出さなかったし」ということはあるのですが、それでも、もう戻りたくないです。
それは、この8年間にしてもそうで、このブログのサイドバーを見ても思います。こんなに書いたんですよ。今ならもっといいものが書けるかもしれないけれど、これをまた1から書くなんて、本当にごめんです。
同様に、体験した1つ1つのこと、積み上げてきたすべてのことを、またはじめからやり直すのは、勘弁願いたいです。
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【小説】Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪
第2作『Usurpador 簒奪者』は主に30年ほど前の事情を取りあげていましたが、この作品は、第1作『Infante 323 黄金の枷 』の直接の続編という位置づけです。ただし、前作のヒロインだったマイアは、今回の記述を最後にヒロインの座を明け渡し、表舞台から引っ込みます。最後なので、サービス(誰への?)で、沐浴シーンです(笑)
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Filigrana 金細工の心(1)新しい腕輪
その夜、23の髪を洗っている時にマイアがふざけて突然腕を出した。23はとっさにそれをよけて脇にどいた。バスタブに落ちそうになったマイアを支えようとして、結果として23は大量の湯を跳ねさせてしまい、服を着たままのマイアはびしょ濡れになった。2人は顔を合わせて愉快に笑った。
「着替えてくるね」
23は泡だらけの髪を指して「このまま?」と訊いた。
「だって、このままじゃ風邪引いちゃう」
マイアが重くまとわりつく服を見せると、23はマイアの腕を引っ張った。
「お前も一緒に入ればいいじゃないか」
マイアは顔を真っ赤にして「えっ」と言った。彼にはマイアが今さら恥ずかしがる理由が全くわからないようだった。最終的に彼女も23のいう事に理を見出して、「後ろを向いていてね」と念を押してから、濡れた服を脱いで広いバスタブの23の横にそっと滑り込んだ。
「お風呂、2人で入るの、はじめてだね」
マイアがいうと、彼は彼女の肩に腕をまわしてそっと顔を近づけてきた。
「そういえばそうか」
いつもよりずっと長くなってしまった入浴を終えて、その後、びしょびしょになっていた浴槽の周りを2人で笑いながらピカピカにしてから、ベッドに横になったのは11時近かった。
23の胸にもたれかかるように眠っていたマイアは、彼が身を起こすのを感じて目を覚ました。
「どうしたの。私、重かった?」と目をこすりながら訊いた。
23はマイアの唇に人差し指を置いて、それから部屋のずっと先にあるドアに向けて声を掛けた。
「何があった」
するとドアの向こうからメネゼスの声がした。
「このような時間に誠に申しわけございません、メウ・セニョール。大変恐れ入りますが、至急お越しいただきたいのです」
「すぐに支度するので、待ってくれ」
そう言うと、23はベッドから出ると服を着て、ドアの方に向かった。途中で引き返してくるとマイアに言った。
「待たずに寝ていていい。遅くなるかもしれないから」
それから耳に口を近づけてメネゼスに聞こえないように言った。
「寝間着は着ておいた方がいいぞ」
マイアは真っ赤になって頷いた。23が出て行き、2人の足跡が階下へと消えていってから、マイアは急いで寝間着を着た。それからシーツをかぶりながら考えた。こんな時間にどうしたんだろう。今までこんなこと1度もなかったのに。窓の鉄格子から月の光が射し込んでいた。寝ていいと言われたけれど氣になるな。彼女は寝返りを打った。
それでも、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。目が覚めたのは、階段を上がってくる2人の足音を聞いたからだ。
「朝、またお迎えに参ります」
「お前は何時に起きるんだ?」
「いつも通り5時に」
「では、6時に起こしにきてくれ」
「かしこまりました、メウ・セニョール」
「それから、朝一番で24とアントニアに知らせるように」
「かしこまりました」
「クリスティーナはしばらく業務から外してやってくれ。必要ならマイアに手伝いを」
「かしこまりました。朝、ミゲルに連絡をしてマティルダにも手伝いにきてもらうように手配いたします」
「そうしてくれ」
「おやすみなさいませ、メウ・セニョール」
ドアが開き、23がしっかりした足取りで入ってきた。マイアは23の側のサイドテーブルの電灯をつけた。時計の文字盤が見えた。針は2時半を指していた。
「どうしたの」
23は口を一文字に閉じたまま、サイドテーブルに鍵の束を置いた。マイアはひどく驚いた。彼が鍵を持つことを許されたことはなかったから。このような鍵の束をメネゼスがいつも使っていた。
不安そうに見上げるマイアをじっと見つめると、23は服を着たまま突然ベッドに載ってきてマイアの胸に顔を埋めた。マイアは、えっ、こんな時間にするの、寝間着を着ろと自分で言ったのに、と思ったが、彼はそのまま肩をふるわせていた。やがて絞り出すような声が漏れてきた。
「アルフォンソ……アルフォンソ……」
寝間着に涙が沁みた。マイアにも何があったのかわかった。ドン・アルフォンソが亡くなったのだ。とっさに彼女の右肩をつかんでいる23の左手首を見た。黄金の腕輪の手の甲の側、これまで何の飾りもなかった所に1つ青い石が増えていた。
マイアは鍵の束の意味を理解した。23は、たった今ドン・アルフォンソになったのだと。
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Filigrana 金細工の心 あらすじと登場人物
【あらすじ】
黄金の腕輪をはめた一族ドラガォン。当主の娘インファンタとして生まれたアントニアは、別宅に共に住む叔父との平穏な暮らしに波風が立ちはじめていることを感じる。
【登場人物】(年齢と説明は第1話時点でのもの)
◆ドンナ・アントニア(28歳)
本作品のヒロイン。『ボアヴィスタ通りの館』に住む美貌の貴婦人。漆黒のまっすぐな長髪で印象的な水色の瞳を持つ。
◆Infante 322 [22][ドイス](50歳)
本作品の主人公。『ドラガォンの館』の先代当主ドン・カルルシュの弟(実は従弟)でアントニアの叔父。『ボアヴィスタ通りの館』に軟禁状態となっている。雄鶏の形をした民芸品に彩色をする職人でもある。明るい茶色の髪に白髪が交じりだしている。海のような青い瞳。ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロを弾くことができる。
◆ライサ・モタ(26歳)
『ドラガォンの館』に少なくとも2年ほど前まで召使いとして勤めていたが、現在は腕輪を外されて実家に戻されている。長い金髪と緑の瞳。優しく氣が弱い。かなり目立つ美人。若いころのドンナ・マヌエラと酷似している。
◆フランシスコ・ピニェイロ[チコ] (31歳)
豪華客船で働くクラリネット奏者。縮れた短い黒髪と黒い瞳。
◆ドンナ・マヌエラ(51歳)
『ドラガォンの館』の女主人。前当主ドン・カルルシュの妻で、ドン・アルフォンソやアントニアたちの母親。ブルネットに近い金髪にグレーの瞳が美しい貴婦人。
◆ドン・アルフォンソ = Infante 323 [23][トレース] (27歳)
『ドラガォンの館』で格子の中に閉じこめられていたが、兄のアルフォンソの死に伴い、彼に代わって『ドラガォンの館』の当主となった。靴職人でもある。黒髪の巻き毛と濃茶の瞳を持つ。幼少期の脊椎港湾症により背が丸い。
◆マイア・フェレイラ(23歳)
ドン・アルフォンソ(もと23)の婚約者。茶色くカールした長い髪。
◆ドン・アルフォンソ(享年29歳)
重い心臓病で亡くなった『ドラガォンの館』のもと当主。アントニアたちの兄。
◆Infante 324 [24][クワトロ](25歳)
金髪碧眼で背が高い美青年。『ドラガォンの館』で「ご主人様(meu senhor)」という呼びかけも含め、当主ドン・アルフォンソと全てにおいて同じ扱いを受けているが、常時鉄格子の向こうに閉じこめられている。口数が多くキザで芝居がかった言動をする。非常な洒落者。
◆アントニオ・メネゼス(55歳)
『ドラガォンの館』の執事で、使用人を管理する。厳しく『ドラガォンの館』の掟に忠実。
◆ジョアナ・ダ・シルヴァ(50歳)
『ドラガォンの館』の召使いの中で最年長であり、召使いの長でもある女性。厳しいが暖かい目で若い召使いたちをまとめる。
◆ペドロ・ソアレス
《監視人たち》の中枢組織に属する青年。メネゼスの従兄弟。
◆マリア・モタ(25歳)
ライサの血のつながらない妹。ブルネットが所々混じる金髪。茶色い瞳。
◆『ボアヴィスタ通りの館』の使用人
ディニス・モラエス(34歳) - 《監視人たち》の一族出身
チアゴ・マトス(24歳)
シンチア・ロドリゲス(31歳)
ルシア・ゴンサルヴィス(25歳)
ドロレス・トラード(38歳) - 料理人
◆『ドラガォンの館』の使用人
アマリア・コスタ(35歳)
マティルダ・コエロ=メンデス(26歳)
ミゲル・メンデス=コエロ(29歳)
ジョアン・マルチェネイロ(25歳)
ホセ・ルイス・ペレイラ(28歳)
フィリペ・バプティスタ(32歳)
クラウディオ・ダ・ガマ(46歳) - 料理人
アンドレ・ブラス(37歳) - 料理人
マリオ・カヴァコ(39歳) - 運転手
【用語解説】
◆Filigrana(フィリグラーナ)
ポルトガルの伝統工芸品で、非常に細い金銀の針金や小玉を使用して細工された貴金属品。様々な形状があるが純金製でハートの形をしたものが有名。聖遺物箱の装飾に用いられたり、民族衣装の装飾にもされる。ポルトガルでは娘の嫁入り道具として時間をかけてフィリグラーナを買い集めるという。
◆Infante
スペイン語やポルトガル語で国王の長子(Príncipe)以外の男子をさす言葉。日本語では「王子」または「親王」と訳される。この作品では『ドラガォンの館』に幽閉状態になっている(または、幽閉状態になっていた)男性のこと。命名されることなく通番で呼ばれる。
◆黄金の腕輪
この作品に出てくる登場人物の多くが左手首に嵌めている腕輪。本人には外すことができない。男性の付けている腕輪には青い石が、女性のものには赤い石がついている。その石の数は持ち主によって違う。ドン・アルフォンソは五つ、22と24及びアントニアは4つ、マイアは1つ。腕輪を付けている人間は《星のある子供たち》(Os Portadores da Estrela)と総称される。
◆《監視人たち》(Os Observadores)
Pの街で普通に暮らしているが、《星のある子供たち》を監視して報告いる人たち。中枢組織があり、《星のある子供たち》が起こした問題があれば解決し修正している。
◆モデルとなった場所について
作品のモデルはポルトガルのポルトとその対岸のガイア、ドウロ河である。それぞれ作品上ではPの街、Gの街、D河というように表記されている。また「ドラガォン(Dragãon)」はポルトガル語で竜の意味だが、ポルト市の象徴である。この作品は私によるフィクションで、現実のポルト市には『ドラガォンの館』も黄金の腕輪を付けられた一族も存在しないため、あえて頭文字で表記することにした。
この作品はフィクションです。実在の街、人物などとは関係ありません。
【プロモーション動画】
使用環境によって、何回か再生ボタンを押すか、全画面にしないと再生できない場合があるようです。その場合はこちらへ
【関連作品】 | |
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『黄金の枷』外伝 |
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下り坂の歩き方

人間の平均的な一生を四季にたとえると、生まれてすぐから子供時代が春、青春というような時期から30〜40代くらいまでが夏だと思うのですよ。そして、それからが70代の頭くらいまでが秋で、その後老いて体も動かなくなり冬の時代をむかえるのかなと。
なので、今日の話題は別の言い方をすれば「人生の秋の過ごし方」なんですけれど、今の日本はまだ本格的な夏も来ていないのに妙かなと思い、こちらのタイトルにしました。
別に何かつらいことがあって、世をはかなんでいるわけではなく、「終活」というほどのことでもないのです。ただ、単純に年齢を重ねたことで、以前と同じようにやっていくことが難しくなってきたので、意識的に変えたことを覚え書きのように書いてみようかなと。
1. 食事や栄養を意識的にとる
代謝がわるくなってくるんでしょうか、普通に3食にするとどんどん太るのですよ。で、夜21時から朝9時までは何も食べないようにして、朝の9時ごろにヨーグルトと足りていないと思われるミネラルを含む食品をミューズリーに入れて食べています。たとえば、キヌア、ヘンプシード、小麦胚芽、大豆などですね。昼食は普通にしっかりと、夕食はスイスの一般的家庭と同じく軽くを心がけています。そして、水分も意識的に摂っています。
2. 体を毎日動かす
Apple Watchを買うことにした理由の1つがこれなのですけれど、毎日30分以上の軽い運動をしています。だいたい心拍数が105ぐらい越えていないといくら歩いてもカウントしてくれない仕組みになっているので、早歩きをしたり、自転車で遠出をしたり、ここのところ意地で続けています。Apple Watchは、ほかに「座りっぱなしだよ」と教えてくれたりするので、便利です。
それに、心拍数だけでなく、ストレッチやスクワットなど、普段使わない筋肉を使ったり伸ばしたりというようなことも意識的にするようになりました。体育の授業がなくなってから放っておいた体は、なまりまくっていて大変ですけれど。
3. 脳を使う
これは、若い人には「何それ」だと思うんですけれど、放っておくと脳みそって本当に退化するのですね。普段使っているつもりでも、ルーティンな生活をしていると、全く使わない部分ができてきて、そこから脳が老化していってしまうらしいです。とくに現在氣にしているのは前頭葉のトレーニングです。こういうことをやっても、アルツハイマーなどのような病でわからなくなってしまうこともあるのでしょうけど、単純な老化でわからなくなってしまうことは、少しでも回避できたらいいなと思うんですよね。
ブログや小説を書くということ自体も前頭葉のトレーニングとしてはいいらしいのですけれど、それはいつもやっていることなのでその他に、簡単なゲームのアプリを使って計算をしたり、神経衰弱のようなことをしたりしています。それに、ギターの練習も、左右の手を同時に別の動きをさせたりするので、脳の老化防止にはいいといわれています。せっかくだから続けてみましょう。
4. きちんと生活する
もともと几帳面な性格の方は、こういう必要性はないのでしょうけれど、私は非常にアバウトな性格なので、放置すると何もかも適当になってしまうのです。なので、週にどのくらい何を食べて、掃除や洗濯はどの頻度でやって、というようなことを決めてそれを実行することをずっと心がけています。それに加えて、最近は季節ごとのイベントを意識的に取り入れるようになりました。「またこの季節がめぐってきたな」「これってあと何回やれるかな」と噛みしめながら。たとえば七夕飾りや、クリスマスツリー、それに果物のコンポート作り、もしくは季節の花を生ける、というようなあれこれです。
5. 無理をしない
もとからあまり無理はしない人ですけれど、体力と能力が減ってきているのに、前と同じことをすると必ずオーバーキャパになってしまいます。というわけで、以前にも増してゆったり暮らすことを目指しています。スケジュール帳は真っ白が理想。実際はそういうわけにはいきませんけれど。同じ週にいくつかの予定が入りそうになったら、1つはずらすか断ります。今はいずれにせよ無理ですけれど、コロナ禍がなかったとしても、毎年日本に帰るようなことはしません。日本行きは、スケジュール的にも体力的にもきついので。そのくらいでないと、私はこなせないのですよね。
6. 日々を楽しむ
若い頃は、「今はこれに集中して、いつか後で時間ができたら、あれとこれをやって」というような考え方をしていたのです。でも、「いつか」なんて日は、来ないんですよね。もしくは時間やチャンスはあっても、体力がなかったり、興味対象が変わってしまったり。予定を詰め込まないで、ゆったりと暮らすのならなおさら、今やっていることを楽しもうと思うようになりました。それはたとえば、散歩の途中で景色や草花、風の匂いなどをもっと楽しむことであったり、日々の食事を美味しく満足の深いものすることであったり、とくに目新しいことをしなくても可能な楽しみです。
そんな風に、日々を過ごすようにしています。
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【小説】賢者の石
今日の小説は、大海彩洋さんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 旅
私のオリキャラ、もしくは作品世界: レオポルドⅡ・フォン・グラウリンゲン
コラボ希望キャラクター: マコト
使わなくてはならないキーワード、小物など: 賢者の石
中世ヨーロッパをモデルにした架空世界を舞台にしているレオポルドと、彩洋さんのメイン大河小説の主役……から派生した別キャラのコラボということで、舞台も時代ももちろん被っていません。オリキャラのオフ会でメチャクチャやらせたので、そのくらいどうって事ない……といってはそれまでですが、一応(?)オフ会ではないということで、どちらが動くかということを考えたのですよ。
しかし、「賢者の石」と言われたら、現代(または昭和)日本ではないかな、と思ってこちらの世界にいらしていただきました。しかし、あくまでこちらの世界観から見たマコトですので、彩洋さんの所でのようにしゃべったりしません。しゃべっているあれこれは、ファンのみなさんが各自アテレコしていただければよいかなと(笑)
さて、設定したのは、本編の2年くらい前ですね。マックスが旅に出たちょっと後です。ま、全然関係ありませんけれど。
そして、もうしわけないのですが、またしてもオチなしです。
【参考】
![]() | 「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読む あらすじと登場人物 |
森の詩 Cantum Silvae 外伝
森の詩 Cantum Silvae・外伝
賢者の石
ことが済むと、彼は長らく横たわっていたりはしなかった。高級娼館《青き鱗粉》を経営するヴェロニカは彼の好みを知り尽くしているので、送り込む女の容貌に遜色はない。この女も唇が厚く、肌は柔らかく、肉づきのいいタイプだが、ほかに氣にかかることのある彼にとっては、今のところどうでもいいことだった。
「ヴェロニカには、また連絡すると伝えてくれ」
それだけ言うと、彼はさっさと上着を羽織り、政務室に向かった。
私室の警護をしていた者から連絡が入ったのか、政務室で召使いに軽い飲み物を持ってくるように言いつけたのと入れ違いに、ヘルマン大尉が入ってきた。
「フリッツ。きたか」
「それはこちらのセリフです、陛下。午後はずっとあの女とお過ごしになるはずでは?」
フリッツ・ヘルマンは、グランドロン王である彼の警護責任者である。乳母の一番歳下の弟であるため、子供の頃から彼の剣術の相手として身近に育った。腹の底のわからぬ貴族の子弟などと違い、彼にとっては数少ない信頼を置く人物だ。人には言えぬ話題も、彼には安心して相談できた。
「午後はずっと、と言ったのは、ジジイどもに他の予定を入れられぬためだ。悪いが、老師のところに行くんでな。うるさい連中に見つからないように付いてきてくれ」
ヘルマン大尉は首を傾げた。国王であるレオポルドが護衛なしに城の外に出ることは、彼としてはもちろん許しがたい。とはいえ、この君主は、いくらヘルマン大尉が口を酸っぱくして説いても、全く意に介さず、勝手に城を抜け出す常習犯だ。わざわざ自分についてこいという理由がわからない。
「着替えた方がいいのでしょうか」
戸惑うヘルマン大尉に、レオポルドは首を振った。
「いや。そのままでいい。お前の用事だというフリをして、馬車を出してくれ」
「ははあ。なるほど」
若き国王は、彼の教育を担当していた老ディミトリオスに、何か内密の頼み事があるのだ。それも、周りの人間にどうしても知られたくない。何だろう?
彼は、宮廷の裏口に馬車の用意をさせると、政務室の扉の外に部下を配置し、午後いっぱいは誰が来ても取り次がぬようにと言いつけてから出かけた。政務室の奥の隠し扉から抜け出してきたレオポルドは、裏口にもう来ており、ヘルマン大尉と馬車に乗った。外套のフードを目深に被っているので、御者はまさか国王その人を乗せているとは氣がついていない。
「賢者どのは、ご存じなのですか?」
「こちらから行くとは言っていないが、おそらく待ち構えているだろう。ヴェロニカを通じて、連絡をよこすくらいだからな」
「なんですと?!」
ヘルマン大尉は仰天した。堅物で有名な賢者ディミトリオスが、《青き鱗粉》のマダム・ベフロアを通じて連絡をよこしたことなど、これまで1度もなかったからだ。
「あの女が、わざわざ言ったんだからな。老賢者ディミトリオスさまが、猫を飼いだしたと」
「猫? それが何か」
レオポルドは、ふふんと、鼻を鳴らした。
「わからぬか。《ヘルメス・トリスメギストスの叡智》とでも言えば、わかるか」
「皆目わかりません」
ヘルマン大尉は憮然として、主君の顔を見た。
「まあ、いい。話をするのはいずれにせよ余だからな」
レオポルドは至極上機嫌だ。
老賢者テオ・ディミトリオスの屋敷は、王城からさほど離れていない城下町のはずれにある。王太子時代から彼の教えを受けていたレオポルドは、表向きはまだその屋敷を訪れたことはないことになっている。だが、彼は時おり貴族の子息デュランと名乗って王城を抜け出しており、そのついでに何度か老師の屋敷を訪問したことがあった。
ディミトリオスは、非常に白く長い髪とひげを持つ老人で、何歳になるのかよく知られていない。市井では、不老不死になる薬を飲んで生き続けているとうわさするものもあるが、もしそれが本当ならばこれほど年老いた姿のはずはないだろうと、ヘルマン大尉は密かに思った。背は曲がり、近年はよく手先が震えるようになっているが、鷲のような眼光は健在で、頭脳の働きも一向に衰えていないようだ。
先王の病死に伴い、王位を継承したばかりのレオポルドは、相談役としてかつての師を厚遇していた。屋敷には、常時数名の弟子が生活を共にしている。弟子といっても、ヘルマン大尉の父親の世代の男たちばかりだ。
ヘルマン大尉は玄関先で突然の訪問を詫び、出てきた召使いに取り次いでもらった。国王のもっとも信頼する腹心の部下として、彼はすぐに丁重に迎え入れられ、応接室に案内された。飲み物が用意され、召使いと入れ違いに老賢者が入ってきた。扉がきっちりと閉められるのを確認してから、老師はフードの男に非難めいた言葉をかけた。
「いったい、どういうお戯れですかな、陛下」
レオポルドは、笑って外套を脱ぐと老師に軽くあいさつをした。
「ヴェロニカの送ってきた女が言ったのだ。猫を入手したとか。『アレ』を試すのではないかと思ってな」
「はて。妙ですな。我が屋敷のどの者が娼館にいったのやら。時に『アレ』とは何のことでございましょう」
「しらばっくれずともよい。《賢者の石》だ。硫黄や水銀が足りないのなら、余が用意させるぞ」
老賢者は、露骨に嫌な顔をした。
「突然お見えになったかと思えば、また酔狂なことを」
その時、扉の向こうでかすかにカリカリと音がした。
「おや、ちょうどいい。向こうから来たみたいですな」
老賢者は、わずかに扉を開けると、「みゃー」という声と共に、なにやら小さな毛玉が飛び込んできた。
それは、赤っぽい茶トラの仔猫で、老賢者の足下に直進してきて、その長いローブにじゃれついた。ヘルマン大尉は、笑いそうになるのを堪えるために、横を向き暖炉の上にある醜いしゃれこうべを眺めた。
「なんだ。こんなに小さな猫か。これじゃ、指輪ほどの金しかできないではないか」
レオポルドがいぶかしげに言った。
「あなた様は、どうしても錬金術から離れられないようですな。私めは、この猫をその様な理由でここに置いているわけではありませぬ。それは単なる迷い猫でございます」
「錬金術?!」
ヘルマン大尉は、仰天して思わず口に出してしまった。
「そうだ。フリッツ、そなたはそもそも錬金術について何を知っている?」
「えー、魔術で金を作ることですか?」
国王と賢者は2人とも非難の目つきを向けた。老賢者はため息をついた。
「ヘルマン大尉。学問は、魔術ではございませんぞ」
ヘルマン大尉は恥じ入った。彼にとって、老師の行っている学問と、魔術の境目は今ひとつ曖昧なのだが、その様なことを口にできる雰囲氣ではない。
「まあまあ、少しわかるように説明してやってくれ」
「かしこまりました。そもそも、錬金術は、この世の仕組みを解き明かそうとする試みです。古人の知恵によれば、世界のすべては火、氣、水、土の四つの元素より成り立っていますが、これらもまた唯一の物質《プリマ・マテリア》に、湿もしくは乾、熱もしくは冷の4つの性質が与えらてできていると、考えられています。すなわち、《プリマ・マテリア》に正しい性質を与えることさえできれば、どのような物質でも作り出すことができるのです。我々が追い求めているのは、その真実、純粋なる《プリマ・マテリア》を見つけ出し、自在にどのような物質をも作り出すことのできる手法です」
「はあ」
よくわからない。ヘルマン大尉はちらりと考えた。
「こういうことだ。そこの土塊から、土塊たらしめている性質を取り除き、鋼の性質を与えてやるだけで、鉱山にも行かずに名剣ができるとしたら、便利ではないか」
なるほど。でも、やはり魔術そのものではないか。
「で、老師は、それがおできになるのですか」
「まさか」
「なんだ。いいところまでいっているのではないのか?」
レオポルドは、自分の足下に寄ってきた仔猫を拾い上げて、どかっと椅子に腰掛けた。仔猫は国王の上着の袖の装飾が面白いようで、揺らしながらパンチを繰り返している。
「物質を《プリマ・マテリア》に戻し、そして別の性質を与える《賢者の石》は、その辺に転がっているものではありませんでしてな。残念ながら」
老師は、にっこりと微笑んだ。それは全く残念そうに響かない言い方だったので、レオポルドはもちろんヘルマン大尉ですら信じられなかった。
「そなたが口にしたのだぞ。生きた猫に水と硫黄と水銀と塩を適正量飲み込ませ、その体の中で黄金を精製させる方法を試した錬金術師がいたと」
仔猫と戯れながら、レオポルドが言った。
「事実を申したまでです。私めが同じことをするとは申し上げておりませんぞ。それでは、陛下。その仔猫に硫黄と水銀を飲ませたいとお思いで?」
老賢者が問うと、国王はピタリと動きを止めた。仔猫は愛らしい2色の瞳を向けて、遊んでくれる長髪のおじさんを見上げている。
「ううむ。この仔猫か。それは……」
レオポルドは、愛らしい仔猫にすっかり骨抜きにされたようだ。
「なぜ猫にその様な物質を飲ませるのでございますか?」
ヘルマン大尉は、恐る恐る訊いた。
「《賢者の石》といわれる物質にはいくつかの説がございましてな。言葉の通り石の形状をしているという者もあれば、赤い粉だと言う者もあります。また
「あ。溶けてしまいますね」
「さよう。たとえそれを見つけても保管するどころか、捨てることすらできないのですよ。地面も、海も、すべて溶けてしまいますから」
「それで?」
「それで、この世で万物融化液に一番近いが、外界に危険のない存在として注目されたのが猫だったというわけです」
「は?」
「猫は、地を這い、空を飛び、森にも山にも人家にも自在に棲む。愛らしさを持つと同時に、魔女の手先ともなる。ごく普通の動物でありつつ、液体のようにどこにでも入り込むことができる。誰がいい始めたことかはわかりませぬが、猫を《賢者の石》そのものとみなし、その体内で精の製を試す錬金術師が現れたというわけです」
「では、賢者殿は、その様な説は信じていらっしゃらないわけですね」
「今のところ、敢えて猫を死なせる物質を飲ませるつもりはございません」
レオポルドは「ふん」と鼻を鳴らした。
「この余や、そなたの弟子に毒を飲ませることは躊躇しなかったのにな」
「それは、あなた様の御身のためですよ。その証に、あなた様はそこでピンピンして猫を撫でておられる。sola dosis facit venenum…服用量が異なれば毒とは申せませぬ」
賢者も負けていない。
「そういえば、余とともに毒になるギリギリの物質をあれこれと飲まされた、そなたの弟子はどこに行ったのだ。まさか飲ませすぎて死なせたのではあるまいな」
「とんでもございません。少なくともここを発った時は、あなた様以上に健康でしたよ」
「ほう。出て行ったのか」
「はい、半年ほど前のことでございます。陛下にお仕えする前に、世を見て見聞を深めたいと申しまして」
「まったく、羨ましいことだ。余も政務や軍務などに煩わされずに、自由に旅をしてみたい」
老賢者は、ムッとして言った。
「お言葉ですが、陛下。他国の諸王は、あなた様のように勝手に領内を出歩いたりなさりませんぞ。あなた様の自由な『領内視察』を可能にするために、ここらおいでの大尉ほか一部の臣下がどれほど手を尽くしているか、よくお考えくださいませ」
「わかった、わかった」
ヘルマン大尉も黙ってはいなかった。
「それに、他の方よりも自由に旅もなさっているではありませんか。先日、使者で済ませることもできたのに、わざわざマレーシャル公国まで姫君に会いに行かれましたし……」
「ふふん、あそこには、行っておいてよかっただろう。母上の強引な勧めに従って結婚していたら、今ごろお前たちは贅沢にしか興味のないあの氣まぐれ女に振り回されていたぞ。絵姿と家格の釣り合いだけで決めるのは余の性分に合わない。父上が不幸な結婚生活を強いられたのも、そんな横着をしたからだしな」
ヘルマン大尉は、主君の発した他国の姫や実母である王太后への失礼な発言は聞かなかったことにした。
国王レオポルドの花嫁選びは難航している。彼が好みにうるさく、ことごとく断るからだ。だが、花嫁候補への挨拶という口実で彼が隣国に足を運び、その土地の特産や富み具合、地形の強みや弱み、住民の気質、国境警備の状況などを予め伝えられている情報とすりあわせていることも知っていたので、王太后や城の老家臣たちのように、国王の判断を責めるような愚行もしなかった。
息抜きに城下に遊びに行き、また、暗君のごとく娼館の女たちとふざけているようで、彼は貴族たちとつきあうだけでは得られない市井の人々の生きた言葉に触れている。ヘルマン大尉をはじめとする腹心の臣下たちも、表向きの仕事だけでなく主君の手足となるように陰に日向に動き回り、レオポルドがつきあっている妙な連中をむやみに追い払ったりしないようにしていた。
しかし、この猫は、どうなんだろう。黄金を作り出す《賢者の石》でないのは確かなようだが。
「陛下、この仔猫、お氣に召されたのであれば、王城に召し出しましょうか」
レオポルドは、驚いて大尉を見た。
「いや、そんなことは考えてもいなかったぞ。そもそも、老師、そなたが猫を飼うのははじめてではないか?」
「私が望んで連れてきたわけではございませぬ。召使いが家の前で保護したのでございます」
「そうか。ネズミ捕りくらいには役立つかもしれんな」
「それはちと疑問が残りますな。なんせ、ネズミとの戦いで負けて、助けを求めてきたのが、拾うきっかけになったとのことでございますし……」
自らの不名誉な戦歴が話題になっていると認識しているのか、仔猫はなにやら勇ましい様子で机の上に登ったが、暖炉の上に置いてある髑髏をみつけると、あわてて飛び降り、レオポルドの上着に頭をこすりつけた。
「なんだ、ネズミに負けた上に、動きもしない髑髏に怯えているのか。その調子では、魔女のお付きなどにはなれんぞ」
そう言うと、国王は椅子から立ち上がった。
「陛下、本当にこの猫をお連れになりますか?」
賢者の問いに、彼は首を振った。
「いや、その猫と四六時中遊んでいるようだと、このヘルマン大尉らやジジイどもが氣を揉むからな。仔猫よ、次に来るとき、また遊んでやるから、それまでにネズミくらい狩れるようになっておけ」
彼は、小さな頭をもう一度撫でた。
「そんなにしょっちゅう王城を抜け出されるのは困ります。それに、この猫も、ネズミ捕りの練習をするほどヒマではないかもしれませんぞ」
「ふん。そうか。では、もう少し遊んでから帰るか」
陛下。そろそろお城に帰っていただかないと、空の政務室を守っている私の部下たちが困るのですが……。ヘルマン大尉は、仔猫と戯れる国王を見ながらため息をついた。確かに水銀やら硫黄やらを飲ませるには、残念なほど愛らしい仔猫だった。おかしな錬金術が流行ることがないように祈りつつ、彼は午後いっぱい猫と遊ぶ君主を辛抱強く待ち続けた。
(初出:2020年7月 書き下ろし)
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こういう話が書きたい
この動画、教授こと坂本龍一の2013年に行われたコンサートのものらしいです。
Happy End - RYUICHI SAKAMOTO
この曲、もともとはシンセの曲らしいのです。シングル「フロントライン」のB面(レコードのシングルにはA面とB面というのがあったんです!)で、YMOのアルバムでも使われていました。そしてピアノバージョンもあるみたいですが、とにかくこのオケ・バージョンが氣にいったので、ここに貼り付けました。あ、iTunesストアで購入しましたよ。
で。題名、「Happy End」です。この曲調で、ですよ。YMOで演奏するときは、なぜかこの美しいメロディを省略してしまうそうです。いずれにしても「Happy End」……。
私が書きたい小説は、こういうのです。意味不明かもしれませんね。
ハッピーエンドという文字(あらすじでは、そうなる話)の裏に、この曲をも耳にしたときに感じるような何かを喚起する小説を書けたらいいなと、切に思います。本当に。
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心の黎明をめぐるあれこれ(7)異界のとなりに
第7曲は『Caoineadh』使われている言語はゲール語です。
![]() | 『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む |
心の黎明をめぐるあれこれ
(7)異界のとなりに related to “Caoineadh’
子供の頃、私はいつもどこか遠くへ行きたかった。それも、学校の遠足や修学旅行のような決められた場所に集団で行くのではなく、自由に「ここではないどこかへ」行きたかった。東海道線に乗って静岡県まで行く短い時間に、太平洋を見ながら心ゆくまで空想を泳がせた、あの時間が愛おしかった。
あるていど歳を重ねると、人は金銭的にも、能力的にも多くを手にする。子供の頃には不可能だった新幹線や寝台列車の切符を買うことは、「いつか叶えてみたい遠い夢」ではなくなる。それどころか海外旅行も大冒険ではなくなる。
私は、海外に住み、日々外国語を話し、365日海外旅行をしているのと変わらない生活をすることになった。年にいく度も国境を越え、見たかったものを見て、食べたかったものを食べた。
それでも、遠くへ行きたいという願いは、消え去っていない。よその惑星や宇宙に行きたいという願いは皆無だけれど、「ここではないどこか」に対する憧れは、まだある。そして、そのハードルは子供の頃よりも高くなってしまった。100キロメートルほど移動しただけで心躍っていたあの頃には、世界は未知のもので満ちていた。現在は既知のものに埋まり、散文的で、機械的な世界に囲まれている。
そんな私を、今も昔も瞬時に心躍らせてくれる魅力に溢れた場がある。それが、ケルト民族の遺構だ。
ケルト十字、ドルイド教。ケルト文明や類似するあれこれが好きな輩には答えられない魅力がある単語だ。今では、ゲームやラノベなどですっかりメジャーになり、調べたければ事典なども日本語でいくらでも購入できるトピックになったケルト文明も、私がティーンエイジャーの頃は、まだかなりマニアックな人間しか知らない異文化だった。
ケルト文明は、アイルランドやブリテン島それにフランスのブルターニュなどで現在もケルト系言語を話す人たちがその文化を引き継いでいる。そのため、かつての私のように、アイルランドあたりが発祥の民族と文化なのだろうと思う人も多いかもしれない。
実際には、正確には不明ながら、中央アジアからやって来た民族の文化と文明が、後に血縁関係のない別の民族の子孫に引き継がれて、ブリテン諸島に残っている、ということらしい。
何千年も、1つの島に同一民族が(何種類か)いて、同じ言語と文化を継承しているのが当然のように感じてしまうのは、たまたまその状況に近い極東の列島で生まれ育ったからだ。世界の別の場所では、それは当然のことではない。
国家と言語と民族が、それぞれバラバラであることは、現在住んでいるスイスに関わり始めてからようやく「そういうことか」と実感を持って受け止められるようになった。
住民AとB、Cが、全員同じ言語を話すとは限らない。Aは異国語であるBの言語を便宜上用いつつ、とりあえず住んでいるCの文化を継承していくこともある。そして、BとCの子孫がすべてDの文化と言語に飲まれた後も、Aの子孫が異国でBとCのなごりを伝えることもあるのだと。
ともあれ、考古学上または歴史上スイスに重要な爪痕を残したケルト人たちの直接の子孫は、すぐそこにいるのではないかと思うが、残念ながらスイスで私がそれを感じることは皆無だ。同じくケルト人が向かったスペインでも、ユリウス・カエサルと戦ったガリア人の地フランスでも。
ブルターニュ半島やブリテン諸島には、言語だけでなく、古代より伝わるケルト文化が未だに残っている。たとえば、私がデボン州のなんでもない墓地を訪れたとき、ケルトに関する観光地でも何でもなく、そこに住む人たちの多くはごく普通の英語を話すキリスト教徒だったにも関わらず、ケルト十字の墓標が非常に多く目に付いた。ケルトの結び目のシンボルを組み合わせたものもあった。
はじめてイギリスを訪れたのは、大学に入った年だ。日本で憧れていたケルトのシンボルが、現実に当たり前のように使われていることにひどく感激した。そう、まるで異世界に迷い込んだかのように。あの頃は、海外旅行の敷居はずっと高かった。海外へ行くこと自体が非日常に属していた。ましてや、自分がヨーロッパで暮らすことになるなど、夢にも思わなかった。
ケルトに限らず、私はずっと民俗信仰に興味を持ち続けている。だから、このエッセイ集でも取りあげているように、節操なく「あれも好き、これにも興味がある」と騒いでいる。アイルランドには、残念ながらまだ行ったことがない。ゲール語も、ウェールズ語も、ブルトン語も何一つわからない。私の「ケルト大好き」はその程度の浅さだ。
ともあれ、私がこれまでに関心を持った世界の多くの民俗信仰は、どちらかというと「生きている人間の世界」に関わるものなのだが、どうもケルトに関してだけは、「あの世に近い」と感じることが多い。
たとえば、アーサー王伝説の終盤、瀕死の重傷を負ったアーサーを3人の女たちがアヴァロン島へ連れて行く。その女たちは、人間なのか、魔女なのか、はたまた妖精なのか曖昧であるし、アヴァロン島もどうやらあの世のようである。
イングランド・サマセット州にあるグラストンベリー、フランスのブルターニュ半島沿岸にあるリル・ダヴァル、コーンウォール半島沿岸のセント・マイケルズ・マウントなど「ここがアヴァロンである」といわれる場所がいくつかある。現実の場所が伝説のあの世と一致すると考えられているところが、彼らの「異世界との近さ」を表しているように思う。(島根県の東出雲町に「黄泉比良坂」があるのと似ている)
そして、ケルト神話では、英雄に人気があればあるほど、いわゆるこの世でのハッピーエンドにならない。負けて死んだり、妖精に魅入られて連れ去られたり、もしくはあっさり天に召されてしまったりするのだ。理不尽な
立派な人物が亡くなる前には、バンシーまたはクーニアックと呼ばれる妖精があらわれて泣き叫ぶという。長い髪をし、泣きはらした赤い目で、怖ろしい泣き声を上げる妖精の不吉なイメージは、ケルトとあの世を地続きに感じさせた。
さて、クーニアック(Caoineag=泣く者)と、『Calling All Dawns』第7曲の題名「Caoineadh(嘆き歌)」は、同じゲール語の単語から来ている。
ヨーロッパにはアイルランドに限らず、哀悼歌の伝統があり「エレジー」「ラメント」と呼ばれ、実際に「Caoineadh」は「エレジー」「ラメント」と訳されることが多い。
しかし、イタリアやドイツなどにある「エレジー」や「ラメント」は楽曲に限られ、吟遊詩人によって語られるか、もしくは作曲されて歌うことが前提だ。一方で、「Caoineadh(嘆き歌)」は「キーン(Keen)」とも呼ばれ、葬儀の時に棺の上で読み上げられる詩を指す。ケルト的習慣、死の妖精バンシーを彷彿とさせる哀歌だ。実際にアイルランドでは、19世紀になっても実際の葬儀の一部として職業的「泣き女」が叫んでいたという記録がある。
第7曲の歌詞を読むと、悲劇的な内容には思えない。英語から日本語に訳してみた。
我が友、心から愛する者よ!
ああ、輝く剣の使い手よ。
起きて、服を着てください
あなたの美しく高貴な服を
黒ビーバーを纏い、
手袋をはめてください。
見て、鞭はここにかかっている
あなたの素晴らしい雌馬はあなたを待っている
狭い道を東に向かって走って
茂みはあなたの前でかがみ
小川はあなたの道行きでは幅を狭くし
男も女もあなたにはひれ伏すだろうから……
非の打ち所のない英雄の、立派な旅立ちを促す歌詞だ。メロディーは英雄の勇ましい旅立ちという感じではない。どちらかというと祈りのよう。しかも「Caoineadh(嘆き歌)」という題名であるからには、これは「起きて、服を着る」ことのできなくなった主人への虚しい懇願なのだろう。
クリストファー・ティンによる解説を読むと、この歌詞の出典は「Caoineadh Airt Uí Laoghaire」だ。18世紀にアイルランドの大佐アート・オリアリーは、良質の馬をめぐるいざこざにより、とあるイギリスの役人に殺された。夫人アイリーン・オコネルは、アイルランドの伝統的な葬儀のために、とても長い悲劇的な詩を彼のために書き上げた。
そこでこの詩のことも少し調べアイルランドの作家・詩人であるブレンダン・ケネリーによる英訳をみつけた。ティンが用いた部分を含む長い詩には、夫が無残にも殺され、それを嘆き復讐を誓う様子が語られていた。
悲しみと喪失を痛烈に訴えかけ、それどころか夫の敵を自ら率先して討とうとする態度は、ケルト民族の伝統に通じる。控えめな表現をよしとする日本人がこの詩の全文を読むと芝居がかっているように感じるが、そこが文化の違いなのだとも思う。
妻の嘆きはバンシーのそれに通じ、現実の18世紀の夫は伝説の英雄の姿に重なる。ティンの引用した部分を読んだとき、私はそれが18世紀の話だとは想像もできなかった。まるで、アーサー王の時代にタイムスリップしたようだ。
一方、同じケルト文化がかつて存在し、国の呼び方にその民族の名ヘルヴェティアを残すスイスには、たとえその血が体内に流れているとしても、それを感じさせる文化は何ひとつ残っていない。
スイスには幽霊がいない。これは私の長年の感覚だ。妖精も、ゴブリンも、アンデットも。いるのが似つかわしくないと表現した方がいいかもしれない。人々はその存在を信じないだろうし、万が一存在していても、彼らですら「この行為は合法か」もしくは「どの保険会社に加入すべきか」といった興ざめな話題をしていそうだ。柳の下、廃墟、古い巨木、大きな岩の陰、どこに行っても、「そこにはなにかがいる」という伝承はない。いたのかもしれない妖精たちも、語り手がいなくては張り合いもなく、いずこへか立ち去ってしまっただろう。
同じヨーロッパに住みながら、私がブリテン島を訪れるとき、若き日の私と同じく心躍るのは、「ここは異界が近い」と感じる余地があるからだ。見えなくとも、妖精やゴブリン、樫の側にいる緑の者たちが、去っていないと感じるからだ。
いずれまたケルトの異界を感じにブリテン諸島を旅してみたいと思っている。セント・マイケルズ・レイラインをたどり、「トリケトラ」や「永遠の結び目」といったケルトのシンボルを探し、大きな樫やヤドリギにケルトの秘密を感じる、自己満足な旅をしてみたい。「ダナンの子供たち」が残していったとする巨石の神秘を訪ねたい。
まだこの世を立ち去っていない異界の者たちが、私を待っていると考えるほどおめでたくはないが、あの世と地続きになっている土地に佇むロマンを感じることはできるだろう。
(初出:2020年7月 書き下ろし)
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Hugo飲んだ

さて、その出かけた1泊は、友人に会いイタリア側スイスにいったのです。そして、今年初めてのカフェテラス。
頼んだのは、今まで頼んだことのないカクテルでした。Hugoという名前。中身は、エルダーフラワーシロップとプロセッコ(スパークリングワイン)、それにミントのようです。調べたら7,8年くらい前にはポピュラーになっていたカクテルです。
もうひとつ、イタリア語圏スイスだとどこにでもあるカクテルにAperol Sprizというのがあるのです。オレンジ色のAperol というリキュールとプロセッコのカクテルなんですけれど、このAperol の味が私は苦手なのです。好きだという女性はとても多いのですよ。でも、私にとってはお薬に使われているような人工的な味にかんじられるのですね。
それで、Hugoを頼むときもちょっとした賭けのつもりでした。で、美味しかったのです。
ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、私は2年に1度はエルダーフラワーのシロップを自分で作ります。このシロップの味をとても好きなのです。そして、カクテルにするとプロセッコのわずかな苦みもすっかりなくなり、女コドモ向けのジュースのようなカクテルになるのですね。
これはいいものを知ったと、ほくほくしています。
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【小説】禍のあとで – 大切な人たちのために
今日の小説は、山西サキさんのリクエストにお応えして書きました。
リクエスト内容
テーマ: 愛
私のオリキャラ、もしくは作品世界: サキさんの知っているキャラ
コラボ希望キャラクター: サキさんの作品のキャラクターを最低1人
時代: アフターコロナ。近未来(2~5年先?)
使わなくてはならないキーワード、小物など: 道頓堀
今だってわからないのに、アフターコロナの道頓堀なんて、皆目、予想がつかないのですけれど、書けとおっしゃるので仕方なく書いてみました。これ、いまから1年後にこうだったら困るかもしれません。笑い話になることを期待しつつ。
さて、登場人物です。実は、こちらで使うキャラクターはすぐに決まったのです。アフターコロナだと、近未来キャラのうち、もう生まれているのがぼちぼちいますので。使ったのは、いつもコンビで登場している2人組です。で、この2人と共演させるためにお借りするのはどなたがいいかなと迷ったあげく、この方にしました。
というのは、メインキャラの方の年齢設定が今ひとつわからなかったので。この方は3代くらいずっとストーリーの中にいらっしゃるので、どこかはかするだろうなと思ったんです。
大道芸人たち・外伝
禍のあとで – 大切な人たちのために
やっぱり赤い街だ。拓人は、思った。青空を額縁のように彩る看板に赤やオレンジの利用率が高い。昨日のホールや泊まったホテルのある周辺はそうでもなかったので、彼は印象を間違って記憶していたのかと訝っていた。
拓人が大阪を訪れるのは2度目だ。2年前は、父親のリサイタルだったので純粋にピアノを聴くために連れてこられたが、今年はどちらかというとシッターが見つからなかったので連れてこられた感がある。母親が従姉妹と一緒にジョイントコンサートをするのだ。その娘で拓人とは再従兄妹の関係にある真耶も、同じように連れて来られていたが、彼女の方は大阪が生まれて初めてだった。
とはいえ真耶は、まだ6才だというのに妙に落ち着いていて、コンサートは当然のこと、新幹線でも街並みでもはしゃいだりしなかった。
2人の母親たちは、今日はワークショップがあり観光につきあってくれる時間はない。ホテルで大人しく待たせるつもりだったのだが、夕方訪れる予定にしていたヴィンデミアトリックス家が観光をさせてから先に邸宅へと連れて行ってくれると申し出てくれたので、安心して仕事に専念しているというわけだ。
「私、歩くのが速すぎやしませんか、お2人とも」
香澄は、訊いた。黒磯香澄は、ヴィンデミアトリックス家で働いている。今日は、東京から来ているお客様の子供たちを観光させてから、邸宅につれていくいわばベビーシッターの役目を任されていた。
「大丈夫です。……だよな、真耶」
拓人は、香澄を挟んで反対側にいる真耶に訊いた。大きなマスクの下から彼女は「ええ」と、くぐもった声を出した。外出時に誰も彼もがマスクをするエチケットは、ようやく薄れてきたが、今日はかつての繁華街に行くのだから、預かる方としては徹底したいと、香澄が2人につけさせたのだ。もちろん彼女自身もしている。
真耶は、道頓堀の繁華街を眺めながら、言った。
「……ここは、なんだか、テーマパークみたいなところね」
真耶は、戸惑っていた。それはそうだろう。大きなタコや、ふぐや、カニがあちこちにあり、騒がしい音がしている。東京の繁華街で見るよりも看板が派手だ。
平日の昼とはいえ、人通りは少ない。これではマスクも必要なさそうだ。かつての賑やかな道頓堀を知る香澄には不思議な光景だった。
「ここ、開店時間、遅いの?」
拓人は、香澄に訊いた。
香澄は首を振った。
「いいえ。もう11時ですもの。例のロックダウンで閉店してしまったお店がたくさんあって、まだ次のテナントが決まっていないところが大半なのね」
未知のウイルスのために、世界中で都市のロックダウンがされてから1年以上が経った。拓人の通っていた小学校も、しばらく登校禁止になった。現在はロックダウンをしている都市はないけれど、社会的距離を保ち感染を防ぐための政策は続いていて、2年前のような賑わいは世界中のどこにも戻っていない。
拓人や真耶の住む東京も、かつては日本でももっとも賑わったと言われる繁華街の1つであるここも、押し合いへし合いといった混み方はもうしないらしい。見れば、シャッターを閉め切ったままの店がいくつもある。
「2年前は、人がいっぱいで、まっすぐ歩けなかったよ」
「そう。そういえば、ずっと外国人観光客が押し寄せていたのよね。それはまた、私には少し不思議な光景だったのだけれど」
香澄は、2人に優しく話しかけた。
「お昼はどこにしましょうか。スイスホテルのラウンジがいいかしら」
拓人は、露骨に不満を表明した。
「えー。せっかく道頓堀にいるのに、そんな洒落たとこに行くの? 東京と同じじゃないか」
「でも……」
香澄は少し困ったように、フリルのたくさんついた可愛らしい洋服を着た真耶を見た。大人しく文句も言わずに付いてきているけれど、この上品な少女は、B級グルメの店には行き慣れていないだろうし、嫌がるのではないかと思ったのだ。
視線を感じた真耶は、香澄を見上げて言った。
「わたしのことなら、大丈夫。拓人、たこ焼きとお好み焼きを食べるって、新幹線からずっと言ってました。ね、拓人」
「うん。ママたち、うちで食べるのとおんなじようなものばっかり食べたがるんだもん。今を逃したら食べられないよ」
香澄は笑いを堪えた。白いシャツに蝶ネクタイとグレーの半ズボン、上品そうな格好はさせられていても、彼はやんちゃ盛りの少年だ。マダムたちの好きそうな小洒落たカフェよりも、目の前の鉄板で繰り広げられるエンターテーメントが楽しいに決まっている。インパクトの強いコクと旨味たっぷりの庶民の味も、子供の舌には合うだろう。
ヴィンデミアトリックス家に勤めて長いので、良家の食事がどんなものであるか香澄はよく知っている。それらは栄養に富み、美しく、繊細で、多くの文化と技術が凝縮されている。子女たちはそれらを日々口にすることで、外見だけでなく内面までも、一両日では真似のできない真の上流階級に育っていくのだろう。
そうであっても、庶民の味の美味しさをよく知る香澄は、B級グルメを心ゆくまで楽しむ幸福もまた人生を豊かにすると思うのだ。せっかくだから、めったにない機会を2人にプレゼントしてあげたいと思った。
普段なら決して許してもらえないだろう、たこ焼きの買い食いからはじめた。かつては長々と行列ができていた有名店もほんのわずか待つだけで購入することができる。たこ焼きだけでお腹いっぱいになっては本末転倒なので、香澄は一舟だけを買い、堀沿いの遊歩道にあるベンチに腰掛けた。
真耶は、小さなハンドバッグにマスクをしまうと、レースのハンカチを取りだして、おしゃまに膝の上に置いた。その間にたこ焼きの1つはすでに拓人の口に放り込まれていた。香澄は慌てた。
「氣をつけて! 中はとても熱いから!」
あまりの熱さに目を白黒する拓人を見て、女2人は思わず笑ってしまった。わずかに火傷をしたらしいけれど、それでも拓人の食欲は衰えなかったようで、嬉しそうに大きな3つを平らげた。香澄と真耶は2つずつを楽しんで食べた。香澄は、ここのたこ焼きが大好きだ。大きなタコのほどよい弾力。生地の外側はカリッとしているのに、中側の柔らかな味わい。ネギや鰹がソースと上手に混じって、ひと口ごとに幸福が口の中に広がる。子供の頃から、たこ焼きは彼女にとって「ハレの日」の食べ物だった。真耶もたこ焼きを氣に入ったようなので、香澄はほっとした。
「こんどはお好み焼きだね」
拓人の言葉に笑いながら、香澄は以前夫に連れて行ってもらった美味しいお好み焼き屋に2人を案内するため、法善寺横町の方へ向かう。
橋を渡り、少し歩いていると、ギターと笛の音が響いてきて、真耶は足を止めた。異国風のメロディーがここらしくないと香澄は思った。見ると南米風の衣装をまとった2人の男と拓人たちと同年代の少女がいた。ギターとケーナを演奏する2人の大人は、背の高さが少し違うものの明らかに兄弟なのだろう、そっくりの見かけだ。傍らの少女は鈴で拍子を取っている。
彼らは東洋人のようでもあるが、肌が浅黒くどこか悲しげな印象を与える。拓人と真耶は、少女の前に歩み寄った。
2人の他に、その演奏に足を止めるものはほとんどいなかった。その空虚さと、ケーナの独特の息漏れと音色のせいで、曲調は決して悲しくないのだが、香澄はなんだか居たたまれない心持ちになった。
真耶と拓人が熱心に聴いてくれるので、鈴を振っている少女は嬉しそうに笑った。その曲が終わると、子供たちは大きく拍手をした。ケーナとギターの大人たちは帽子をとって大きくお辞儀をした。
「すてきでした。南米のどちらからですか」
香澄が訊くとケーナの男がにっと笑った。
「ペルーのクスコですわ」
「あら。こちらにお長いんですか?」
香澄は驚いた。男の返事が、大阪弁のアクセントだったからだ。
「せや。ぼちぼち30年になんねん」
なんとも不思議な心地がする。民族衣装を着た外国人が外国なまりの大阪弁で話しているのを、東京から来た子供たちが不思議そうに見上げているシュールな絵柄だ。大道芸人だろうか。
「音楽家なの?」
拓人がストーレートに訊いた。ギターの方の男が、首を振って答えた。
「いや、その裏でペルー料理屋をやっているんだ」
「まあ。ここにペルー料理のお店が?」
香澄は思わず声を上げた。
「ええ。小さい店です。よかったら、どうぞ」
男は、ギターケースの中に入っていた紙を香澄に渡した。
「なあに?」
真耶がのぞき込む。
「チラシだ」
拓人が受け取って真耶に見せた。ランチタイムセットの案内だ。
香澄は、どうしようかと思った。楽しみにしている拓人はお好み焼きを食べたいだろう。一方、真耶は同じ年頃の少女やいま聴いた音色、ひいてはペルーに興味を示している。ここで意見が分かれたら……。
拓人は、真耶の方を見た。
「行きたい?」
真耶は「お好み焼きはいいの?」と訊き返した。拓人は、にっと笑うとチラシを香澄に渡して、言った。
「ここに行っちゃダメ?」
香澄は、ほっとして微笑んだ。
「行きましょうか。……子供たちの食べられる、辛くない料理もありますか?」
ギターの男が頷いた。
「今日のランチセットは、ロモ・サルタードといって、醤油も入った日本人向けの味ですし、唐辛子は使っていません」
「よかったな。来てくれはる、いうとるよ」
ケーナの男が、少女に言い、彼女はうれしそうに微笑んだ。
その店は、路地裏の地下にあり、狭かった。外から見ると、こんな所に店があるとはわからないぐらいだ。ランチタイムなのにここまで閑散としているのは、どんなものだろう。味はわからないが、店の感じは決して悪くない。店内は暗くならないように木目の壁で覆われ、机の上には刺繍された黄色いテーブルクロスがかかっていた。
奥から女性がひょいと顔を出した。
「ママー!」
女の子がその女性に向かって飛んでいった。
2人はスペイン語で何かを話し、女の子の母親が3人ににっこりと笑った。
「マイド。ドーゾ」
演奏していた2人とくらべると、日本語は片言ではあるが、彼女も優しい笑顔で歓迎してくれた。ギターの男が、3人に水を運んできた。
「注文はどうしますか。ランチセットですか?」
チラシの写真では、肉野菜炒めのように見えたので、3人ともランチセットを注文した。わりとすぐにでできたのは、牛肉の細切りとタマネギやピーマン、フライドポテトを炒めて、醤油やバルサミコ酢で味付けした料理だった。
「おいしいわね」
真耶は、あいかわらず上品に食べている。
少女の母親が調理したのだろうか、家庭料理のような見かけだが、肉は軟らかいし、フライドポテトははサクッっとしていて、パプリカも上手に甘みが引き出されている。醤油とバルサミコ酢もしっかりからんでいて、舌の上でジュワッと旨味が広がる。これだけおいしい料理を出し、感じのいい店主たちの経営する店なのだからもっと繁盛してもいいはずだと香澄は思った。
拓人は、四角錐に盛られたご飯を崩すのがもったいないようだ。
「ご飯が、ピラミッドみたいになってる」
「お、わかったかい。これは僕たちの故郷にあるピラミッドをイメージして盛っているんだよ」
ギターの男が、テーブルの近くにやって来た。真耶の近くに立っている少女を膝にのせると、子供たちにもわかるように答えた。
「エジプトと関係あるの?」
「いや、ないと思うね。僕たちの言葉ではワカっていうんだ。神聖な場所って意味だよ」
「ペルーって遠いの?」
そう拓人が訊くと、女の子は「地球の反対側っていうけど、よく知らない」と言った。
「この子は、まだペルーに行ったことがないんだよ。ここで生まれたから」
父親が説明した。
「コロナが流行ったときに、帰らなかったの? 同じクラスのナンシーの家は、急いでアメリカに帰っちゃったよ」
拓人が訊いた。
彼は首を振った。
「そう簡単にはいかなくてね。向こうには住むところもないし、この店をたたむのも簡単じゃない。それにこの子はここで生まれたから、向こうの学校にはついていけない。ここで踏ん張るしかなかったんだ」
香澄は、この店をめぐる状況を理解した。国の仲間や観光客が来なくなり、外出の自粛の影響も大きく客足が途絶えたのだ。店内で待っているだけでは食べていけないほどに経営が苦しいのだろう。
ケーナの男が出てきて、少女の父親に声をかけた。
「せっかくやから、何か演奏しよか、フアン。坊ちゃんと嬢ちゃん、何がええ? 『コンドルは飛んでいく』?」
奥のわずかに高くなって舞台のようにしてある所に座った。
真耶が訊ねた。
「さっきの曲は、なんていうの?」
「ん? あれは、『Virgenes del Sol 太陽の処女たち』っていうんや。好きなんか?」
真耶は、頷いて訊き返した。
「たいようのおとめたちって、誰?」
ファンが答える。
「昔、ペルーには僕たちの先祖の築いたインカという帝国があったんだ。そして、皇帝のいる都クスコには、全国から集められたきれいで賢い女の子たちが、織物を作ったり、お供えのお酒をつくったりしながら、神殿で太陽の神様に仕えたんだ。あの曲は、その女の子たちのための曲なんだよ」
膝の上の少女は、大きな瞳を父親に向けた。祖先のインカの乙女たちを思わせる優しく澄んだ黒目がちの瞳。フアンは、娘をぎゅっと抱きしめて「頑張らなくちゃな……」と呟いた。
香澄は、ひと気のない街並みのことを思った。興味を持って立ち寄った日本人、観光や出稼ぎで日本を訪れた外国人、それらの人々で賑やかだっただろう、かつてのこの店の様子を想像した。国に帰ることと、ここに残ることのどちらも楽ではない。苦渋に満ちた決断だったに違いない。客引きのため大道芸人のような真似をしてでも、この街のこの店で営業を続けるのは、守るべき大切な家族がいるからだ。
みな頑張っているのだ。愛する家族や仲間たちを守るために。
「フアン~。来てや、弾くで~」
ケーナの男がしびれを切らしたらしい。
「わかったよ」
「ホセのおっちゃん、パパの従兄弟なの。一緒にクスコから来たんだって」
少女が、小さな声で説明してくれた。それから棚から鈴を3つ盛ってきて、2つをテーブルに置き、自分で1つ持った。
拓人と真耶は、同時に鈴に手を伸ばして、駆けていく少女の後を追った。香澄は、2人のよく似たペルー人と、仲良く鈴を鳴らす子供たちが、仲良く演奏する姿を眺めながら、微笑んだ。
(初出:2020年6月 書き下ろし)
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