心配しちゃうけれど

私は、思われているよりもずっと心配性です。肝っ玉が小さいという方が正しいかも。先のことを考えて不安になってしまうんですね。
子供の頃、文化祭や運動会や体育祭の前日はなかなか寝付けませんでした。いつもと違う起床時間にちゃんと起きられるだろうか、本番で失敗したらどうしよう、自分だけ一緒にご飯を食べてくれる人がいないかもしれない。
親には、そういうことをあれこれ言わなかったし、遠足や体育祭の集合写真を見ると普通に笑っているので、周りはそんなことでグルグルしているとは思われていなかったと思います。
大きくなってからも、本質的にはあまり変わりません。久しぶりに飲み会がある、旅行に行く、出張といった普段と違うことのある前日は寝付けなくなりますし、1か月以上先の研修予定のことでもあれこれシミュレーションをしてくよくよします。去年は、このまま収入が途絶えたらどうなるだろうなんてことも、その堂々巡りに加わりました。
対策のあることはいいんです。それは手をつければいいのですから。例えば「掃除をしていない、まずい」というようなことなら、掃除をはじめればいいだけです。あれこれ心配するのは、今できることは何もなくてその時点になってみなければどう転ぶかわからないことなんですよね。
で、先日、個人としての大きな心配ごとがタタタタタッと解決してしまったので、急に心が軽くなりました。
それまでは定職が決まっていなかったので、3つから4つの別口の仕事の予定を組み合わせていたのです。1日に2つ以上の予定が入ることも多く、今後ちゃんとこなせていけるのかも疑問でした。一方で、コロナ禍の影響で、あったはずの予定がガタッと減ることもあり、今月の収入はどうなるんだろう、数ヶ月後は食べていけなくなるかもと、別の意味の心配も同時にしていました。
定職が決まり、今年いっぱいで他のフリーの仕事を順次片付けていける道筋がついたので、4月までの心配ごとはすべて杞憂に終わりました。
それで、「なるほどな」と思ったことがあります。
今年の初め頃だったかSNSで流れてきた情報ですが、「心配事の80%は起こらない」ことがわかったとか。米国ミシガン大学の研究チームがした発表だそうです。実際のソースがどこか探してみたのですが、英語で書かれた情報は85%という数値が多く、その中の1つはダウンロードできる論文のリンクに紐つけられていました。有料だったのでとりあえずしませんでしたが。
日本語と英語による二次情報を総合してみると、多くの人に長年にわたり心配事を1つ1つ書き留めてもらい、後にどれだけその心配事が実際に起こったかを照合させるという研究のようです。そして、80%だか85%の心配事はそもそも全く起こらず、残りの起こってしまったうち自力で対処できなかった心配事に至っては、たったの数%しかない、ということのようです。
翻ってみれば、この3年間で私があれこれ思い悩んだうち、ほとんどの心配ごとは現実には起こりませんでしたし、起こったこともすべて対処できていました。
人間は神経伝達物質セロトニンが不足すると、不安になったり睡眠障害になったりするそうです。で、遺伝子によってセロトニンのリサイクルを進めるセロトニントランスポーターなる物質の量が変わってくるらしいです。詳しいことは専門書を読んでいただきたいのですけれど、遺伝子量の多いL型(不安やストレス対してに強く楽観的になる)と遺伝子量の少ないS型(不安を感じやすく悲観的になる)の組み合わせでできているそうです。そして、日本人は圧倒的にS型を持つ人が多いそうです。細かく事前に心配してあれこれ準備をする日本人氣質は、このあたりからくるのかもしれませんね。ちなみにアメリカ人やアフリカ人はL型を持つ人が多いとか。
私がどんな遺伝子を持っているのかはわかりませんが、どう考えてもLL型ではなさそうですね。一方で、「心配事の8割以上は実際には起こらない」も自分の経験に当てはめても正しい感じがします。
残りの2割弱についても、起こってしまう時には起こってしまうけれど、それが今でないならば心配してもしかたがないということなのでしょう。心配のしすぎは、意味がないだけでなく、睡眠不足を招き健康を害するので、くよくよのループから抜け出す努力も必要なのでしょうね。
そうはいっても、まだとても大きい心配事があります。現実ではどうなるか正確には予測できないし、実際に何かが起こったとしてもどうやって解決できるかさっぱりわからないことです。私個人のことではなくて、全世界で起きていることです。情報が錯綜しているし、何が真実で何がデマなのかも、現時点ではわかりません。
なので、私としては可能な限りの情報を集め、いま現在できることを自分の信念に従って粛々と進めるしかないのでしょう。つまり、いつも通りの生活を淡々と続けるだけです。
セロトニン不足が、現在の自分にはどうすることもできないことについて余計な不安とストレスを誘発するというのならば、それを少しでも避けるべく、よく寝て、よく食べて、適度に運動し、日光を浴びる、ようするに健康的な生活を心がけるべきなのでしょうね。
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【小説】Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -1-
ようやく最後の重要人物が登場します。といっても、今年の「scriviamo!」で発表した外伝『酒場のピアニスト』でもう登場させてしまったので、ご存じの方も多いかと思います。第1作『Infante 323 黄金の枷 』では、伝聞で書かれていたライサとマリアの船旅の話も少し出てきます。
今回は、2回に切り、その前編です。
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Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -1-
サン・ベント駅の有名なアズレージョを見上げて、チコはジャケットの襟をきちんと直した。ここに、この街にあの人は住んでいるんだ。
この街に個人的に来るのは初めてだった。1度だけ演奏会のためにバスに乗って来たことがある。あの頃、チコことフランシスコ・ピニェイロはこの国で3番目に大きい交響楽団の団員だった。
劇場の改修だの、ユーロ危機だの、いろいろな理由が重なってチコはその職を失ったが、1番の原因はコンサート・マスターのセクハラを事務長に進言したことだと今でも思っている。あの2人は同じ穴の狢だと後から教えてくれたのはファゴットのジョアンだった。
今は、豪華客船の楽団員として、港から港へと流れる生活だ。最初は面白かったけれど、港というのはどこも似たような感じで、世界旅行も5度も行けばもうお腹いっぱいだ。だが、代わり映えのしない船の中に居続けるよりはマシだと思って、港の酒場に行く。お客さんたちは何をしても構わないが、夜に仕事のある団員たちが泥酔するわけにはいかないので、酒場で紅茶を注文していやな顔をされたりする、そんな生活だ。
でも、前々回の旅だけは別だった。あの人と一緒に世界一周をしたのだから。
チコが噂の《悲しみの姫君》のことを認識したのは、船がこの国を発ってから2週間以上してからだった。1000室、定員2000人を収容する世界でも有数の巨大客船で最も高価なスイートは、チコと同じ国出身の若い姉妹が使っていた。
「へえ、あの特別スイートにね」
ベッドルーム、リビングルーム、ダイニングルーム、ジェットバスとシャワーつきのバスルーム、それにやたらと広いバルコニーのある一番いい客室だ。
「あれで世界一周となると、いったいいくらするんだ?」
「35万ユーロかな」
「はあっ? 100日で?」
チコの給料では30年飲まず食わずで働いても手が届かない。
「しかもそれだけじゃないんだ。この船の予定していた航路にお前の国は入っていなかったんだ」
「え?」
「しかもPの街は首都ですらないじゃないか。あの2人を乗せるためだけに、航路が変更されたんだよ」
「何者なんだ?」
チコはオットーに訊いた。
「わからない。お前こそ知っているかと思ったよ」
「同国者だからって? 知らないよ。名前もごく普通だな」
ライサとマリア・モタ。どこにでもいるような普通の名前だ。貴族や王族の子孫にも思えない。
2人は対称的だった。背はマリアの方がわずかに低い。2人とも金髪だったが、ライサが柔らかく色の薄い北欧によく見られるタイプなのに対して、マリアはブルネットの混じる硬質の濃い金髪をシニヨンにしていた。選ぶ服もマリアはシャープでどちらかというとキャリアウーマンのように見えるものを好んだが、ライサはふんわりとしたワンピースを身に着けていることが多かった。
客室が客室なので、メイン・ダイニングでの夕食にはイヴニング・ドレスで現われるることが多かったが、マリアは暖色系や黒で現代的なスタイルのドレスを好み、ライサは寒色系か薄いグレーでオーソドックスなスタイルが多かった。同様に、マリアはハキハキと他の乗客たちと会話をし、親交を深めていた。ライサは、マリアが無理に会話の輪に連れて行ったときだけ話をしたが、それ以外はほとんど黙っていた。
その佇まいがあまりに違っていたので、いつしかスタッフの間ではマリアのことを《Lady Alegria 陽氣な姫君》、ライサのことを《Lady Triste 悲しみの姫君》と呼ぶようになっていた。
モーツァルトの『セレナーデ第10番』、通称『グラン・パルティータ』を演奏した時、会場にはいつものビッグ・バンド音楽を聴きにくるよう客はほとんど来なくて、最上階のレストランでタキシードやイヴニング・ドレスで食事をしているような上流客がほとんどだった。それはつまり、客席はあまり埋まっていなかったということでもあった。
《陽氣な姫君》マリアはそれまでも何回か見たことがあったが、ほとんど部屋から出てこないと噂されている《悲しみの姫君》ライサがはじめて演奏会にやってきたと、ホルンのオットーが耳打ちしてくれて、チコははじめてその姿に目をやった。
濃紺のサテンのドレスに身を包み、薄いクリームのオーガンジーのショールを羽織ったライサは、まるで雲間からいま顔を出した深夜の月のようだった。案内係は当然のようにライサとマリアを一番いい正面の席に案内した。マリアは既に親しくなった他の乗客たちと楽しげに挨拶していたが、ライサは目を伏せてわずかに頭を下げ、それから座ってプログラムを熱心に眺めていた。
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美しい季節

スイスで一番好きな季節は初夏です。これは移住した約20年前から変わりません。日本にいたときも5月の新緑の季節は大好きでしたが、東京では公園の横を通ったときに「ああ、いい季節になったなあ」と感じる感じでした。現在、私は田舎に住んでいるので目にする自然の量が違います。冬の間はダイニングの窓の向こうに立つ木々は全て葉を落としているので道が見えているのですが、これが5月の数日間に一斉に芽吹き出す新緑であっという間に見えなくなります。この緑の萌え方は、明るく生命力にあふれていて、毎年のことながら見るたびに感極まってきます。

冬が終わる3月末ごろには昨年刈り取ったプランターを少しきれいにします。古い根っこなどを取り去り、肥料と新しい土を加えて準備します。そして、毎朝水を撒くようにします。
それから2か月くらいすると多年草ハーブを入れっぱなしにしたプランターからは勝手に新しい芽が出てどんどん育ちます。チャイブはもう花が咲いています。いただいたシソを植えた所は毎年こぼれ種で小さなシソが生えてきます。今年はまだ双葉。シソはとても成長が遅いのですが、夏の終わりには楽しめるはず。義母からもらったセージは、そのまま冬を越して、今年の葉がぐんぐんと育っています。
芽の出てしまったタマネギを植えたもの、買ってきたハーブから根を生やさせたマジョラムも元気に育ち、その横に今年もバジルの小さな鉢を買ってきて植え替えました。これで今年の窓辺のハーブはすべて用意できました。

自宅の周りの牧草地や丘の上なども、色とりどりの可憐な花が咲き乱れています。
去年前の会社に放り出されてから、フリーで働き、なおかつコロナ禍でずっと自宅にいるので、健康のために近所を散歩し続けて1年が経ちました。一巡した自然を見るのは感慨深いです。そして、半フリーター的な生活、ついに終わります。6月からまた定職について働くことになりました。
この1年、コロナ禍で労働市場は動かないし、こちらは高年齢、資格足りず、しかも外国人とやたらと不利で再就職はほぼ不可能かと諦めかけていました。そんな中でもフリーのままでも収入は以前の70%くらいは常にあり、日本語教師など新たな挑戦もして、朝は二度寝もOKというのんびりライフをしていたのでした。それも悪くなかったのですけれど、やはり来月どれだけ収入があるかわからない、先の予定も決められないというのがかなりストレスになっていました。今月に入ってからトントンと話が進み、無事にフリーターを卒業できることになりホッとしています。
世界が以前のようになるにはまだ当分かかるか、もしくは2度と前のようにはならないかもしれませんが、とりあえず「家賃や食費が足りないかも」と心配せずに生きていけるのはありがたいことだと思いながら、頑張っていこうと思います。ご心配をおかけした皆様、すみません。そして、ありがとうございました。
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【小説】Filigrana 金細工の心(14)私を憎んでください
前回のぶっ壊れた24の発言から、22は例の宣告後にたった1度だけマヌエラとまともに会話をしたときのことを回想しています。
今回も、いつもの更新字数よりも長いのですが、3000字なかったので1度でアップしました。
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Filigrana 金細工の心(14)私を憎んでください
24が夢想したような事は、1度もなかった。もちろん、彼はそれを待ち望み続けていた。マヌエラが、彼への思慕を押さえきれずに戻って来る事を。「カルルシュを愛した事はない、あなただけをまだ愛している」と言ってくれる事を。
だが、それは彼の望みであって、真実ではなかった。彼女が、彼の許にやってきたのは、たった1度だけだった。瀕死のカルルシュに逢いにきてほしいと懇願したあの日だけ。彼への愛からではなく、夫のために。
その2日程前から、『ボアヴィスタ通りの館』は非常に静かだった。召使いたちは当主の容態が非常に悪いと声をひそめて噂し、彼がいることに氣がつくと口を閉じて視線を落としていた。アントニアは朝早くから『ドラガォンの館』に赴きマヌエラに代わり仕事に奔走していた。
アントニアは、毎晩「とても悪いの」と告げ彼の反応を見たが、彼は「そうか」と答えるだけで特に反応を見せなかった。カルルシュを憎んだことは間違いないし、許したつもりもない。だが、死にそうだからと喜ぶほど人の心のわからぬ化け物に成り下がったわけでもない。それに、容態が悪いのは、それを告げるアントニアの父親なのだから。
その日も、彼はいつものように規則正しく過ごした。雄鶏の彩色。新しく挑戦していた曲の譜読み。そして、CDでシューマンを聴いた。夕食にもアントニアは戻らなかった。カルルシュを見舞うためにしばらく『ドラガォンの館』に留まるのかと、彼は思った。
モラエスと若い召使いを残して、他の使用人は退出し、アントニアが戻らぬまま『ボアヴィスタ通りの館』は間もなく完全施錠されるのだろうと考え出した頃、車が到着した。彼もモラエスもアントニアが戻ったのだろうと思ったが、運転手のマリオ・カヴァコが連れてきたのはマヌエラだった。
「ミニャ・セニョーラ!」
「モラエス、ご苦労です。ドイスに話があって来ました。案内してください」
玄関ホールから聞こえるマヌエラの声を聞いて彼は戦慄した。彼の存在と愛の誓いをゴミ箱に投げ込み、祭壇でカルルシュへの愛を誓って以来、彼女が「ドイス」と口にしたのを聞いたことはなかった。彼女が、いまここにいる。彼はもう居住区の鉄格子の中には居なかった。自らの意思で部屋を出て、階段の踊り場から外套も脱がずにモラエスと話している彼女をじっと眺めた。
モラエスがまず彼に氣づき、その視線に誘導されてマヌエラもまた彼を見上げた。懐かしい灰色の瞳が、聡明で強い意志を持った視線が彼を捕らえた。
「ドイス」
「何の用だ」
「お願い。私と一緒に『ドラガォンの館』へ来てください」
彼は、その場に立ちすくんだ。彼女は、そのまま階段を駆け上がった。
「なぜ」
「カルルシュが……うわごとで、あなたを呼んでいます。あの人は、他の何よりも、あなたを苦しめたことを氣に病んでいます。あれから、ずっとです」
彼は顔をゆがめた。
「だから? 私にあの男の枕元に行き、お前のしたことは大したことではない、私はお前たち2人を祝福しているとでも、言わせるつもりか? お前は、当主夫人ならどんな命令にも従わせることが出来るとでも思っているのか」
「思っていないわ。あなたの憤りも苦しみも、許せない思いも帳消しにしてもらおうとは思っていません。でも、もう1度あなたの笑顔が見たいと、あの人はそれだけを願っているの。あなたの憎しみは、私が生涯1人で引き受けます。だから、だから、どうかカルルシュに逢ってあげて。あの人の魂を救ってあげて」
マヌエラは、あいかわらず美しかったが、動きも振る舞いも全く違っていた。かつての誇り高く朗らかな、彼が愛し憧れた娘はもうどこにも居らず、彼の前に立つのはドンナ・マヌエラという名の、別の男の妻だった。
「お前は、あいつのためなら、私に懇願するんだな」
彼は、マヌエラの願いをはねつけた。カルルシュと和解する最後のチャンスも自らの手で取り去った。そんな必要がどこにあると。
マヌエラは、彼がどうしても説得に応じないとわかると、肩を落として帰って行った。
カルルシュが亡くなったと知らされたのは、その翌日だった。本当にこの世からいなくなってしまったのだと理解するのは困難だった。喜びなどは、一切わき起こってこなかった。胸の奥に冷たい風が吹いた。父親が死んだときの感覚と似ていた。だが、あの時はカルルシュが当主になるという事実への憤りの方が大きく、その風を感じる余裕はほとんどなかった。
アントニアは、その日のうちに目を赤くして戻ってきた。
再び彼女に会うのは、1週間後だと思っていた。カルルシュの葬儀がサン・ジョゼ・ダス・タイパス教会で行われる。彼に参列を拒否する自由はなかった。彼の父親のドン・ペドロの葬儀の時と同様に、2階のギャラリーに座り儀式を眺め、母親の隣で涙を流す彼女を見いだすのだろうと。
戻ってきたアントニアは、悲しみを大きく表そうとはしなかった。それをすれば、私が皮肉を言うとでも思っているのか。言うかもしれないが。彼は空虚な慰めの言葉をかけなかった。
「昨夜も戻れなかったし、今夜も戻るのが遅くなってごめんなさい」
「父親が死んだんだ。私は今夜お前が戻るとは思っていなかった。好きなだけあちらにいればいいだろう」
アントニアは、彼の瞳を見つめてはっきりと言った。
「私は、叔父さまを1人にしたくなかったの」
「なぜ」
「叔父さま。お父様はあなたに酷いことをしたわ。あなたが私の両親や私たちを許せないことを、私は100%理解できるの。でも……それでも、あなたの心が今夜は痛むにちがいない、私はそう思ったの」
彼は、皮肉たっぷりに反論しようと思った。だが、できなかった。
アントニアの言っていることは正しかった。彼の故人に対する憎しみは、すでに枯渇していた。カルルシュに「お前をもう憎んではいない」と微笑んでやりたいとはみじんも思わなかったが、彼の心の中にある想いには、彼の人生の希望の光を奪い取った男への怒りはみつからなかった。その代わりに地下水のように暗く静かに流れているのは、彼に甘えてどんな時もぴったりと寄り添ってきた、あの心身共に弱く俯きがちな黒髪の少年への憐憫と、逝ってしまったことへの寂寥感だった。
彼は、そっけなく身を翻すと、居間に向かいピアノの前に座った。アントニアは、少し遅れて入ってきて、扉の近くに佇んでいた。
彼は、長い間、座っているだけで何も弾かなかった。それから、モーツァルトの「ああ、お母さん、あなたに申しましょう」変奏曲の主題の右手だけを弾きだした。
アントニアは、左手は幼かった頃の父親が弾いたのだろうと感じた。とてもゆっくりとした演奏のあと、彼は左手も使って次々と変奏曲を弾いた。おそらく父親には弾けなかったであろう。だから、父親はきっと聴き入って賞賛していたに違いない。
アントニアの想像は正しく、彼はカルルシュと仲の良かった頃のことを思い浮かべながら弾いていた。黒髪の少年の長かった苦しみは、終わったのだと思った。
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TefalのSnack Timeをフル活用

前回の記事を書いてからずいぶん待ちましたが先月末にようやくパニーニ用の替えプレートが配送され、ますますこの商品を便利に使っています。
プレートの使う頻度は、高い方から「フレンチトースト用」→「パニーニ用」→「ワッフル用」→「三角プレスサンド用」ですね。
「三角プレスサンド用」は、サンドイッチには全く使わなくなり、使うとしたら切り餅を焼くときだけです。
そうなんですよ。ホットサンドマシンは切り餅をさくっと焼くのにとても便利なのです。我が家は電子レンジを持たない主義なので、それまでお餅はオーブンで焼いていたのですけれど、ものすごくオーブン熱量の無駄遣いだし時間がかかるなと思っていたのですけれど、Snack Timeが来てからはそのストレスともお別れしました。

ワッフルメーカーは、余りまくって困るパン粉を消費するために使うと、これまた別の記事でご紹介しましたけれど、以前はわざわざワッフルを買っていたことを考えると、一石二鳥だなと思っています。

そして、「パニーニ用」は本来の目的であるパニーニ系のホットサンドを作るときの他、お肉や冷凍魚のフライをさっと焼くときにも重宝しています。食パンのホットサンドは、均一に焦げ目のつく「フレンチトースト用」で作ることが多いのですけれど、ホットサンドを完成する前に、肉類を焼いておきたい時もありますよね。そんな時に「パニーニ用」で肉を焼き、プレートを取り替えてホットサンドを完成することもできるんです。プレートはかなり熱くなりますが、それが冷めるのを待って洗い、それから改めてホットサンドを作るというような手間がいらないのが魅力的です。

そして最近見つけた活用法。こちらは「フレンチトースト用」だけを使います。オーブン調理で使っていた、円形の型を使って目玉焼きができるんです。そして、直接プレートには触れていないので取りだしてそのままホットサンドの調理が出来るんです。この時は別々に食べましたが、クロックマダムのようにホットサンドに載せる食べ方も出来るので、今度試してみようと思います。
もともとはホットサンドの洗う手間を簡単にするために購入した製品ですが、思ったよりもずっと活躍してオーブンの代わりに使うことが増えました。そういえば最近オーブン使用がめっきり減ったなあ。
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【小説】楽園の異端者たち
今回の舞台はスイスのカンポ・ルドゥンツという小さな村にあるバー『dangerous liaison』です。トミーとステッフィという男性同士のカップルが経営するこの店は、いくつかの小説の舞台になっています。わりとお堅い田舎で、流れ者、周りに上手く馴染めない異国人などが居心地よく過ごせる憩いの場になっています。登場するレーナは、この店の従業員であるハンガリー人。「夢から醒めるための子守唄」の主人公です。

【参考】
夢から醒めるための子守唄
楽園の異端者たち
カンポ・ルドゥンツ村に春が来るときは、ついでに初夏も一緒に連れてくる。つい先日に山が新雪にに覆われたばかりだというのに、
レーナは、職場である『dangerous liaison』までの通勤路を変えてみた。せっかくなので、果樹がたくさん植えられている1本東側の小径を行くことにしたのだ。そういえば、この道を通るのは久しぶりだな。レーナは、鼻歌を歌いながら小石のごろつく自然道を降りてゆく。真冬のぬかるみと凍結を繰り返す時期には、この小径は通勤に向かない。外国人であるレーナは冬にこうした道を問題なく歩ける技能を習得できていないのだ。
春になれば、この小径は美しい散歩道に変わる。特にこの時期の果樹園は、白い花の海のようでこの村で最も美しい光景のひとつだと思っていた。
今日は、いつもより大きい荷物を抱えているので歩みはゆっくりだ。だがそれも悪くない。ぽかぽかと暖かい日差しの中、新緑の香りを吸い込みながら歩くこの時間は、早く終わってしまうにはもったいないから。
「あら。なんだかすごい顔をしているわよ」
ドアを開けて入ってきたレーナをちらりと眺めて、トミーは片眉を上げた。
「ねえ、トミー! あんなことって、許されると思う?」
レーナは、息を切らしながら、カウンターの雇い主の前に駆け寄った。抱えていた大きく平たい荷物をそっとカウンターの端に立てかけてから、スツールに座る。
「なんの話?」
「あの素晴らしい果樹園! あのきれいな景色がメチャメチャじゃない!」
「どういうこと? 今朝は果樹園はあったと思うけれど」
彼は、丁寧に磨いた爪に新色のマニキュアを塗りおえたところで、乾かすのに忙しく、レーナの剣幕には歩調を合わせない。
「果樹園は、変わらずにあるけれど、あの裏手の家よ。オーソドックスな家だったのに、おかしなバルコニーを増築しているし、庭の木は大量に切り倒されて、代わりにバラックみたいな山羊小屋が林立していたの」
「ああ、オッターの家ね」
トミーは、したり顔で頷いた。果樹園に二方が囲まれる『椿邸』は、1900年代の初頭に建てられた邸宅だ。以前は、果樹園を含む広い土地全体を裕福な豪農が持っていたが、1950年代に果樹園と牧草地、いくつかの農園とともに売りに出され、『椿邸』は近くの電力会社の地元責任者の社宅として使われていた。それが、数年前に売りに出され、オットー・モーザーというよそ者が購入して住みだした。
モーザー氏は、住みだして1か月もしないうちに改築に着手した。その大胆な改築はすぐにうるさい村人たちの非難の的となったが、彼は村人と上手くやっていこうとか、周りの光景との調和を大切にしようとかいった思考回路を一切持たないタイプの人間だった。「自分の土地と家をどう変えようと、俺の勝手だろう」と突っぱね、毅然として改築を続けた。その結果、『椿邸』はおかしなテラスを持つ不格好な家に変身し、その周りを醜い山羊小屋が取り囲む、村でも最も奇天烈な光景になっていた。
「あんた、あの小径を通ったの初めてなの?」
何を今さらという風情でトミーは怒り狂うレーナをなだめた。
「あの家、有名なの?」
「家っていうか、持ち主がね。あんたも接客したことあるじゃない」
「誰?」
「先週、あんたが憤慨していた、あの髭の男よ」
そういわれて、レーナは思い出した。カウンターに座った太った髭の男は、常連たちと不毛な口論をしたあげく、ドアをたたき付けるようにして出ていった。その弾みにドアの上に掛けられていた絵が落ちて破損したのだ。
レーナは、持ってきた包みを持ち上げて慎重に中身を開いた。それは、修理の終わった額縁だ。パートナーのホルヘが作業をしてくれたのだ。トミーは裏手から外してあった絵を持ってきて収めた。それには、オオハシとモンステラが描かれている。レーナがルガーノで見つけて店のインテリアデザインとぴったりだと大喜びして苦労して持ち帰ったものなのだ。
ホルヘは、古木を用いた家具の製作と修理を生業としている。壊れたと嘆くレーナに「持って帰ってこい。来週にはまた掛けられるようにしてやる」と請け負ってくれた。約束通り、先ほど完成したこれを見て彼女は歓声をあげた。前はなんということはない平凡な額縁だったのだが、まるでアンティークのような味わいに変わっていた。
破損したところをわかりにくくするために、全体に古木の破片を散りばめて暗いニスで覆った額縁に納まると、絵の貫禄はさらに増したように思えた。
「ドアの上に飾るのは少し待ちなさい。ちょっとやそっとでは落ちないようにステッフィに仕掛けをしてもらうから」
トミーはウインクをして言った。
レーナは、この絵が落ちて、額縁が破損したときの怒りを思い出して肩をすくめた。
「あの人か。この村の住人だなんて知らなかったわ」
「めったに来ないからねぇ」
「オッターって呼ばれているの? よっぽど嫌われ者なのかしら」
レーナが口を尖らすと、トミーはひらひらと手を振った。
「さあ、それはどうかしら。ウマが合う、合わないはそれぞれあると思うけれど、嫌われ者ってことではないわよ。オッターは、単なる呼び名でしょ」
オッターというのは毒蛇の一種を指す言葉だ。通常は喜ばしくない呼び名だろうが、少なくともトミーには自分からそう名乗ったのだ。もともとはオットーのもじりで、おそらく本人も面白がっているのだろう。平凡な名前よりも個性的な呼び名を喜ぶタイプの人間がいることをトミーはよく知っている。
それにオットー・モーザーは、村人との口論もよくするが、かといって完全に孤立しているというわけでもない。四角四面なタイプの村人とはうまくいかないが、変わり者として有名なリュシアンや、無口な酪農家ハインリヒあたりとはそれなりに仲良くつきあっていることも知っている。
「ホルヘとも、それなりに上手くやっているんじゃなかったかしら。無骨者同士で」
レーナは「えっ」と目をむいた。まさか自分の伴侶が仲良くしているとは思わなかったのだ。
「仲良くってほどでもないけれど、頼まれれば仕事も受けるだろうし、道で会えば挨拶くらいはするでしょうよ。ああいう導火線の短いタイプは、ラテン民族では珍しくないし、喧嘩しても根に持たずに数日経ったらケロリとしているタイプが多いの。あとでホルヘに訊いてみなさいよ」
なるほどとレーナは思った。トミーも、そのパートナーのステッフィも、それにホルヘも、見た目や行動、村人とのいざこざなどから簡単に人となりを判じることがない。怒りっぽいから、外国人だから、セクシュアル・マイノリティだからといった、レッテルだけで門戸を閉ざされて嫌な思いをした当事者だからこそ、同じようにレッテル貼りをして簡単に壁を作らないようにしているのかもしれない。
「ふーん。悪い人ではないってことね。それでも、あの家の周りは、ひどくない?」
レーナは、先ほど見た光景を思い出して、なおも食い下がった。
「少なくとも彼のデザイン的センスは、まったくあたしの趣味じゃないわ」
トミーも同意した。かつての『椿邸』は格別に美しい建物というわけではなく、どちらかと言えば平凡な家だったが、いまや非対称、非調和を目指した前衛アートのような姿に変貌している。それに切り倒された何本もの古木の切り株に登る山羊たちが織りなすアバンギャルドな光景が風光明媚を売りとしていた村の中で異彩を放っている。
5月のカンポ・ルドゥンツ村は、生命力にあふれている。全ての樹木から一斉に萌え出でる若葉が真っ青な大空に向かってどんどんと空間を埋めていく。強い陽光が作り出す陰影を、
翌日、再び同じ小径を通って『dangerous liaison』に向かうレーナは、再び『椿邸』の前にさしかかった。かなり手前から主張していた雄山羊の独特の臭いに肩をすくめ、せり出した不格好なバルコニーから眼をそらすために反対側を見やると、切り株に純白の仔山羊が登っていた。
「あら、可愛い」
思わずレーナが立ち止まると、心配したのか母山羊がメエエと鳴きながら、切り株とレーナの間に立ち塞がった。
「ハハハ、なにもせんだろう」
後ろからの声に驚いて振り向くと、家の戸口にオッターが座っていた。何かの作業をしているらしい。
「こんにちは」
相手はいちおう客なので、レーナは挨拶をした。刺々しさが出ないようにしなくちゃ。オッターの方は、彼女の意向など特に注目していないようだった。
「可愛いヤツだろう、つれていくかい?」
レーナは、緊張していたのがバカみたいだと思った。数日前に店で大騒ぎを起こしたことも、村人にヒソヒソと悪口を言われていることも、彼の言動や行動にはまったく影響していないようだった。仔山羊は確かに可愛い。連れて行くわけはないけれど。
「悪いアイデアじゃないわね」
ジョークにジョークで答えると、それでレーナの中のわだかまりも溶けて消えてしまった。
レーナが『dangerous liaison』の扉を開けると、トミーはいつものようにカウンターの向こうに座っていた。どこで入手するのか知らないけれど、この辺りのキオスクではみたこともない都会的な雑誌をめくっている。
「今日の機嫌はよさそうじゃない」
トミーはいつだって、見ていないようでレーナの変化を簡単に捉えてしまう。
「オッターに会ったの。ぜんぜん悪びれないのね、あの人」
レーナはカウンターに座り、頬杖をついた。
トミーは、ふっと笑う。
「言ったでしょ」
戸口を振り替えると、扉の上方に 絵が掛かっていた。ステッフィがちょっとやそっとでは落ちないように固定してくれたらしい。以前よりもずっと上等な絵画に見えるのは、ホルヘの匠技と飾られた位置がきちんとしているからだろう。
オッターに対する憤りは、ほとんど消えてなくなっていた。
いろいろな人がいる。うまく行く関係ばかりではない。社会全体の賛同を得られることばかりでもない。自分もそうだ。外国人ではみ出し者。でも、意見の相違はあろうと、喧嘩をしようと、近づきすぎず、排除もせずに、なんとなく許容し合うそんな空間がある。
レーナは、「ま、いっか」と肩をすくめると、大好きな『dangerous liaison』を居心地よくするために、開店前の掃除をはじめた。
(初出:2021年5月 書き下ろし)
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【オリキャラ飲み会】こんなの飲んでる バッカスからの招待状 編
「オリキャラの飲み会」はオンライン上でそれぞれのキャラクターが勝手に飲んでいる記事です。期限はとくにありませんし、これといったルールもありません。
小説とか、詩作とか、マンガとか、わざわざ作品を用意する必要はありません。単に、うちの子が何を飲んでいる、というのをアップしてくださればそれでOK。写真や説明文も必須ではありません。ついでに、作品カテゴリーへのリンクや紹介を書きたい方はそれもご自由に。上のバナーは、よければご自由にお持ちください。もちろんバナーを使わなくても、この企画についての説明をしなくても問題なし。ゆるーく、飲みましょう、というだけの話です。もちろん誰でも参加OKです。
オリキャラの飲み会 こんなの飲んでるよ
バッカスからの招待状 編
大手町にあるバー『Bacchus』は、今日も常連と主要登場人物たちで賑わっています。でも、なんだかアルコールはあまり消費されていない模様……。
夏木敏也

1滴のアルコールも飲めない夏木は、『Bacchus』でノンアルコールカクテルを知り、常連になりました。名前にちなんで最初に作ってもらった「サマー・デライト」が1番のお気に入り。
久保すみれ
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あまり強くないのに頑張って飲んでいたブラッディ・メアリーのノンアルコール版「バージン・メアリー」があると知り、夏木と一緒にアルコール抜きで楽しむことにしました。
近藤

かつては強い「サラトガ」を無理して飲んでいた見栄っ張りさんですが、どうやっても飲めないので最近は同じサラトガでもノンアルコールドリンクの「サラトガ・クーラー」ばかりを頼んでいる模様。
吉崎護

『Bacchus』の客としても登場しましたが、静岡県にある喫茶『ウィーンの森』の店主。なので、「フィアカー・コーヒー」を飲んでいます。「アインシュペナー」(泡立てた生クリームつきダブルエスプレッソ)にキルシュワッサーが入ったもの。
伊藤涼子

『Bacchus』の店主である田中と因縁のある涼子は、神田にある『でおにゅそす』のママ。勤務前に酔っ払うわけにはいかないので、ノンアルコール・シャンディーガフを頼みました。ノンアルコールビールをジンジャーエールで割ったものですね。
田中佑二

マスターでありテンダーでもある田中は、勤務中につきスパークリング・ウォーターを飲んでいます。やっぱりノンアルコール。
【参考】
![]() | 「バッカスからの招待状」 |
![]() | 「いつかは寄ってね」 |
「ウィーンの森」
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【小説】Filigrana 金細工の心(13)婚儀
といっても、めでたい描写はほぼゼロです。ドラガォンの当主の婚儀って、カルルシュとマヌエラ以来ですが、前回も今回もどこかに「まったくめでたくない」人がいて、それでも婚儀を急いで行うのは、そうすることで相手の女性を居住区監禁から解放するためだったりします。今回、婚儀に参列してはいるものの、むしろ墓参のような面持ちで座っているクリスティーナに関しては、ずいぶん前に外伝を書きました。あれは、このシーンを受けての話でした。
さて、そのあれこれからも蚊帳の外にいるのがインファンテたち。それでも列席は強制されています。今回は、いつもの更新字数よりも長いのですが、2回にわけるほどではなかったのでそのままアップしました。
![]() | 「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
Filigrana 金細工の心(13)婚儀
サン・ジョゼ・ダス・タイパス教会は、決して小さな教会ではないが、目を引くほど大きな教会でもない。おそらくこの街を観光目的で訪れる多くの外国人は、その名前すらも知らないだろう。ましてや、平日に多くの参列者もなく行われている結婚式に興味を示す人もない。
非常に『ドラガォンの館』に近く、司教をはじめほとんどの関係者が《監視人たち》の家系で占められているとはいえ、当主の結婚式をこの教会で行った前例は過去に2件ほどしかない。だが、当主夫人となるドンナ・マイアの義父とその娘たちは、《星のある子供たち》ではない。彼らを招待するとなれば、『ドラガォンの館』の礼拝堂での挙式は不可能だった。
家族にしてみれば、彼女が半年ほど音信不通になっていたこともあり、さまざまな不安を持っていた。知らせもしないで結婚したといわれれば、不審に思い不要な騒ぎを起こす心配もある。それで挙式には養父一家を招待し、ドンナ・マイアに本当に結婚の意思があることを見せる方がいいだろうというのが中枢組織幹部の判断だった。もちろん、当分家族には会えないことを知っている花嫁もひと目ぐらいは会いたいだろう。
教会の内部は、白壁と灰色の柱を基調とした質素な作りで、金箔で飾った聖壇以外には目立つ装飾もない。ましてや、足下の大理石が一部新しくなり、そこにラテン語の碑文が彫られていることに目を留める者はほとんどない。だが、今日の結婚式に関わる一族にとって、その四角い大理石は非常に大きな意味を持っていた。《Et in Arcadia ego》。碑文にはそれだけ掘られている。
本日、結婚式を挙げるのは、ドラガォンの当主だ。当主がどのような容姿を持つ者なのかを知る者はほとんどいない。ましてや、その住まいである『ドラガォンの館』に誰が住んでいるのかを正確に知る者も限られている。中には、生まれてきたことも、亡くなったことも、全く記録に残らぬまま、この世から姿を消す者もいる。
彼は、アントニアに聞いていたその四角い石の置かれた位置を遠目に眺めた。すぐ横に座っているのが、クリスティーナ・アルヴェスなる女性なのだろう。まもなく腕輪を外されて自由になるという彼女が、再び訪れることができるように、アルフォンソはこの教会に埋められた。
アルフォンソを最後に見たのも、やはりこの教会だった。彼の父親ドン・カルルシュの葬儀だ。今日と同じように2階のギャラリーに案内された彼は、今日のマヌエラやアントニアが占める、1階の最前列に座るアルフォンソを遠く眺めただけだった。内外からの有力者が参列していたが、だの葬儀ミサが行われただけで、故人との別れや親族のあいさつもなかった。参列者もみなそれを理解しており、ミサが終わった後は黙って立ち去った。
彼もまた、閉じられた棺と、ヴェールで顔の隠れているマヌエラやアントニア、そしてあまり具合のよくなさそうなアルフォンソに近寄ることもないまま、また車に乗せられて『ボアヴィスタ通りの館』に戻った。
これが最後かもしれないとは、特に思っていなかったが、再び会うことがあるとも期待していなかった。『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってから、カルルシュの家族はそれほどに遠い存在になっていた。アントニアひとりを除いて。
あの葬儀で2階のギャラリーに座らされたインファンテは3人だった。そのうちの1人は、今日は当主として1階で祭壇の前にいる。もう1人の、『ドラガォンの館』の居住区に残されているのは、いま彼の隣に座っている24だけだ。
その24が、ペドロ・ソアレスに伴われてギャラリーに上がってきた時、彼はわずかに緊張した思いで見やった。5年前の葬儀の時には、決して感じなかった緊張感。それまでは、奇妙なほど彼自身に似ているとはいえ、全く思い入れのない誰かでしかなかった。かつて存在してもしなくても変わらなかったこの青年は、今は彼がよく知るライサを傷つけた加害者なのだ。
彼は、不快感が表情に現れないように、骨を折った。その彼の努力に氣付いた様子もなく、24は階下の結婚式を食い入るように見つめていた。
2階のギャラリーからは、そもそも花婿と花嫁の顔は見えない。彼にとってそれは大して重要なことではない。以前、見ることになったカルルシュとマヌエラの結婚式のように、激情を呼び起こす要素も、関心や好奇心すら彼は抱いていなかった。
彼は隣に座る従甥が、まるでかつての自分のように憎しみを込めた表情で身を乗りだすのを訝りながら見つめた。マイアという娘に入れあげていたのは23だけで、24の方は未だにライサに執着しているというのが、アントニアから聞いた話だったが、だとしたらなぜ24がこの挙式にこんな表情をするのだろう。
24は、彼の視線に氣がつき、ゆっくりと彼の方を見た。わずかに間を置いてから、囁くように言った。
「パパ。僕とあなたが、こうしてあいつに正統なる権利を奪われているのを見るのは悔しくないの」
彼は、その言葉の意味を理解するのに苦労した。
「何の話だ」
24は、確信に満ちた様子で、顔を寄せさらに声をひそめて続けた。
「あなたは、ママに僕を孕ませた。鉄格子の中に、ママを呼び寄せて。ママは、あなたに抱かれてどんな歓びの声を上げたの。あなたは、何度ママを突いて、僕をママの子宮に送り込んだの」
彼は、衝撃を受けたが、すぐに従甥の想像の根拠を理解した。それほどに、2人の容姿は似通っていたからだ。彼は、ため息をつくと、囁き返した。
「大した想像力だ。立派な作家になれるぞ。私とマヌエラが逢い引きをできるほど、ドラガォンの《監視人たち》はぼんくらではない。お前と私が似ているのはただの隔世遺伝のいたずらだ」
「恥ずかしがる事も、隠す事もないよ、パパ。ママは、本当はあなたのものだもの。正統なドラガォンの世継ぎであるあなたの。あそこにいるあいつがママを犯して、奪ったんだ。そして、あいつは、僕から、正統なプリンシペから当主の座と自由とライサをかすめとった。花嫁だって。またしてもママを犯すんだ。そして、あいつの汚い精液をママの中に……」
突如として22が立ち上がったので、控えていた8人の黒服《監視人たち》が身構えた。だが彼は、ベドロ・ソアレスに合図をすると、自分と24の間に座るように言った。もうたくさんだった。
なぜこれほど壊れるまで、誰も氣がつかなかったんだ。24の精神は、父親と23、それに母親とライサを区別できなくなるほどに歪んでいる。ライサは、この狂った男と何ヶ月も監獄に閉じこめられ、傷めつけられたのか。彼の心は痛んだ。
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【オリキャラ飲み会】こんなの飲んでる 黄金の枷 編
「オリキャラの飲み会」はオンライン上でそれぞれのキャラクターが勝手に飲んでいる記事です。期限はとくにありませんし、これといったルールもありません。
小説とか、詩作とか、マンガとか、わざわざ作品を用意する必要はありません。単に、うちの子が何を飲んでいる、というのをアップしてくださればそれでOK。写真や説明文も必須ではありません。ついでに、作品カテゴリーへのリンクや紹介を書きたい方はそれもご自由に。上のバナーは、よければご自由にお持ちください。もちろんバナーを使わなくても、この企画についての説明をしなくても問題なし。ゆるーく、飲みましょう、というだけの話です。もちろん誰でも参加OKです。
オリキャラの飲み会 こんなの飲んでるよ
黄金の枷 編
このシリーズもやたら多くの登場人物がいるんですけれど、とりあえず三部作の生存しているメインキャラと、外伝の便利なキャラたちに「オリキャラの飲み会」用の飲み物を選んでもらいました。
マイア
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あまりお酒には強くないけれど、楽しむのが好きなマイアはヴィーニョ・ヴェルデを選びました。少し炭酸のような泡のある若い白ワインです。小皿タパスと一緒に。
インファンテ323 = 新ドン・アルフォンソ (23、トレース)

23は、ポルトガルの赤ワインを好みます。ドウロやアレンテージョも好きですが、今回選んだのはダォン。すっきりとした赤で食事に合います。
インファンテ322 (22、ドイス)

この人が飲んでいる「アグアルデンテ(Aguardente)」というのは、イベリア半島とイベリア系アメリカで生産される29%から60%のアルコール飲料の総称。要するにグラッパや焼酎みたいなものです。今回この方が飲んでいるのは葡萄のアグアルデンテ。超絶甘いものが好きな22ですが、辛いお酒も嗜むのです。ええ、めっちゃ強いです。この方。
アントニア

アントニアが飲んでいるのは、マデイラワインです。ポートワインと同じく、世界3大酒精強化ワインの1つで、マデイラ島で作られています。アントニアは、22ほど甘党ではありませんが、ポートワインやマデイラワインは好き。ただし、一緒にお菓子は一緒に食べません。この方は、スタイルを保つためにめっちゃ努力をしている模様。
マヌエラ

23やアントニアの母親であるマヌエラが選んだのはドウロの赤。こちらはボディーのしっかりした重めの赤で、色はかなり暗いもの。飲んだ後に喉に訪れる余韻は華やかなものがお好み。
アントニオ・メネゼス

《監視人たち》中枢組織の最高幹部で《鍵を持つ者》であるこの人はどんなときも寛がないので、1人だけノンアルコール。Pの街で「シンバリーノ」と呼ばれるこちらは、要するにエスプレッソです。
ジョゼ

ジョゼは、小学校の頃から時おりやっていたポートワインの試飲の趣味が高じて、ポートワインの飲み比べをしている模様。これは飲みやすいけれど危険です。ガーンと来ますよ。
マヌエル・ロドリゲス

坊主になるつもりは皆無なのに神父見習いを続けるマヌエルは、イタリアでの勤務を思い出しながらトスカーナワインのキャンティ・クラシコを飲んでいます。ひと瓶は飲めないので、大好きなクリスティーナに「一緒に飲もうよ」と誘ってみましたが、振られてしまった模様。
チコ

まだ外伝にしか登場していないチコことフランシスコは、世界各国を周る客船の楽団に勤務しています。こうした機会に飲むのはポルトガルのビール「スーパー・ボック」。わりと飲みやすい味で、小瓶なので氣軽に飲めるようです。ライサは、一緒に飲んでくれるかどうか、ちょっと微妙。
【参考】 | |
![]() | 『Infante 323 黄金の枷 』をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![]() | 『Usurpador 簒奪者』をはじめから読む あらすじと登場人物 |
![]() | 「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
『黄金の枷』外伝 |
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【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 夕餉
今日の小説は『12か月の店』の9月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。
今回の舞台は、さらにイレギュラーで、そもそもレストランではありません。若狭小浜にて従者次郎が病に倒れてしまい、たまたま面識のあった萱に救われ長期滞在することになりましたが、今回の舞台はその濱醤醢醸造元『室菱』です。平安時代の食生活をいろいろと調べて盛り込んでエピソードにしてみました。だからなんだというわけではないのですけれど。
というわけで、『樋水龍神縁起 東国放浪記』とはいえ、今回、主人公の春昌は出てきません。次郎回です。

【参考】

樋水龍神縁起 東国放浪記
夕餉
庇の向こうに桜の赤く染まった葉が風に舞っていった。まだ早すぎると思ってから、そうでもないと思い直した。暦の上ではとうに秋だが、陽の高いうちはわずかに動き回っても汗ばむ日が続いている。三根は盆に夕餉を載せて、次郎の小部屋に向かった。
夏の始まりにこの地に足を向けた貴人とその従者は、これほど長く逗留するつもりではなかったらしい。だが、従者である次郎が
奥出雲で生まれ育った次郎は、瘧疾に罹るのは初めてだという。数日おきに高熱が出るこの病は、若狭国ではありふれたもので、子供の頃から幾度も罹っている三根はひと月半も寝込むようなことはもうない。次郎の主である安達春昌も、摂津国で生まれ育ったといい、瘧疾にはやはり子供の頃に幾度か罹っていたそうだ。なかなか治らぬ己の病で主を足止めしているだけでなく、見ず知らずの主従を客としてもてなすことになった『室菱』の若き女主人萱の迷惑を思い、次郎は事あるごとに床に頭を擦りつけて詫びた。
「そんなに、平伏しなくてもいいのよ、次郎さん」
三根は、次郎の看病役を務めてきたので、すっかり次郎と心やすくなっている。はじめは「次郎様」と呼んでいたのが、最近はふたりの時には敬語も忘れがちだ。
「萱様、樋水で媛巫女様にお目通りしたときに、なんだかすごい物をいただいたんですって。だから、媛巫女様のご縁の方の面倒を看るのは当たり前だっておっしゃっていたわよ」
「あれは、こちらが例祭で必要な姫川の御神酒をお譲りくださったお礼で……」
そういいながら、次郎はかつての主人であった媛巫女瑠璃と萱の不可思議な邂逅について思いを巡らせ口ごもった。
都からの使者や大社の神職とも滅多に会おうとしない媛巫女が、若狭からの平民である娘の来訪に心騒がせ、打診もされなかったのに神域の奥深く龍王神の住まう池前まで呼び寄せたのだ。そして、しばらく几帳の向こうで語らい、その時に神酒献上への返礼とは別に内々に玻璃珠を下賜をしたことを知っていた。
媛巫女付の従者となってよりそのようなことはただの一度もなかったので、次郎は若狭『室菱』の女のことは忘れていなかった。
次郎は、亡き媛巫女の最期の命に従い、安達春昌に命の終わるときまで付き従うこととなった。まさか自らが病に倒れるとは思いもしなかったが、その時に手を差し伸べてくれたのが他ならぬ萱だったことは亡き媛巫女の導きだろう。この間に萱は父の後を継ぎ元締めとなっていた。
彷徨の間、貧しい家に露しのぎを請うことも多く、主人と同じ部屋の片隅にうずくまるを常としてきたので、小さいとはいえ自分だけに与えられた部屋でゆっくりと休むことが、許されざる贅沢に感じられる。一方で、客として遇される主人が彷徨の疲れを癒やす刻を持てたことを、次郎は媛巫女の采配と感じ、ありがたく受け止めてもいた。
三根は、日に三度膳を運んでくれる。熱の出ない日には、次郎は起き上がり、春昌や馬の世話をしようとしたが、弱った体が言うことをきかない上、諸々の用事は『室菱』の家人たちが万事済ませてくれたので、諦めて熱はなくとも褥に横たわり、何かと世話を受けるままでいた。
旅の間はまともな食事にありつけぬ事も多く、腹一杯食べられることは多くなかった。だが、三根の運んでくる膳の上には、病のために食が細っているのが無念なほど、十分な量が載っていた。ようやく起き上がり、余すことなく食べられるようになった。粥ではなく歯ごたえのある姫飯、根菜汁、小魚が二尾ほど、山菜などが並ぶ。それどころか、三根が酒の酌までしてくれるのだ。
「この姫飯には、
次郎は、氣になっていたことを口にした。故郷の樋水龍王神社では、宮司とそのほか数人の上位神官のみが丁寧に杵つきした白米を食することができ、郎党だった次郎はヒエと粟、または固い玄米以外は口にしたことがなかった。献上品となる
「特別よ。なんてね、私たち使用人も病に伏せるときやお正月に食べさせてもらうの。萱様ご自身も、お正月以外は召し上がらないのに。萱様って、そういうお方なの」
次郎は頷いた。萱は仕事には厳しいが、三根たちにとって優しい心根のいい主人であることをすでに感じていた。
小皿に載った塩と醤醢を山菜に混ぜて姫飯に載せた。小さな茸がコリッと音を立て、そのあとに口の中になんとも言えぬ華やかな味わいが残る。なぜこのように美味なのだろう。無心に味わう次郎を見て、三根は誇らしげに笑いかけた。
「美味しいでしょう」
「ああ。これって何という名の山菜なのか? 格別な味がするんだが」
「蕨と
次郎は腰を抜かすかと思った。同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている献上品だ。
「なんだって? それ程貴重な醢を私なんかに?!」
「心配しないで。献上品ではなくて、樽の底に残った滓をためて作ったものだから。でも、捨てるなんてもったいない味でしょう? 山菜や茸と組み合わせるとさらに美味しくなると見いだしたのは岩次爺さんなんですって」
「ワケ茸も、蟒蛇草もいくらでも食べたことがあるが、醤醢と組み合わせると上手くなるなんて不思議だな。こんなに美味くなるのならば、殿上人が欲しがるのも無理はないな」
三根は不思議そうに次郎を見つめた。
「樋水の媛巫女様は、天子様の覚えめでたいお方だったんでしょ? 殿上人みたいなものを召し上がっていたんだと思ってたわ」
次郎は首を振った。
「宮司様たちは、都の貴族と同じような立派な御膳を召し上がっていたけれどね。媛巫女様は、それをお断りになったんだ」
「まあ。わざと?」
次郎は、好奇心丸出しな三根の問いに少し笑いつつ答えた。
「ああ。下賤のお生まれで舌が受け付けぬのでは、などと口さがなきことを言う者もあったけれど、媛巫女様は召し上がるものに、私どもとは違う何かを感じていらしたようだ。強飯に使われる
「氣?」
「やんごとなきお方たちの召し上がる
三根は、目を見開いた。
「それって、もしかして、私たちの食べているものの方が、尊いかもしれないって事?」
より尊いと言えるだろうか。宮司たちのために用意された御膳を見て、垂涎の思いをしたことは幾度もあった。貴重な濱醤醢を日々惜しげなく使っているだろうやんごとなきお方たちの食はさらに豊かで尊いだろう。
「まあ、そう一概には言えないけれどね。でも、例えば、媛巫女様は冬に
三根は、考え深そうに頷いた。次郎は、面白い娘だと思った。
かなり膨よかだ。食べることが好きなのであろう。だが、こまめに立ち回り仕事に骨を惜しまぬので、たくさん食べる必要もあるだろう。少領の屋敷から逃げ出してきたところを匿ってくれた萱に深い恩義を感じているとはいえ、普段の仕事にも加えて見ず知らずの病人の世話をするのは、骨の折れることに違いない。それでも迷惑さなどみじんも見せぬのは、決して当たり前のことではない。
「ねえ、次郎さん。あなたのご主人の安達様って何者なの?」
三根は、そろそろ訊いてもいいでしょう、という風情を醸し出した。
「萱様からの問いかい?」
次郎は用心深く問い返した。普段なら、旅先では常に春昌が宿主と話すときに同席するが、今滞在では、ほぼ常にここでひとり寝ているため、春昌が萱に何を話しているかを知らなかったのだ。
「いいえ。萱様は安達様の夕餉のお相手をしていらっしゃるから、知りたければご自分でお伺いすると思うわ。でも、そういうことを私たち使用人に話したりなさらない方だもの。でも、私だって知りたいのよ。あの方、絶対にやんごとない方でしょう、なぜ次郎さんと彷徨っていらっしゃるのかしら」
次郎は、あけすけな好奇心に半ば呆れ、半ばその正直さに感心して三根を見つめた。
「やんごとないとも。殿上も許されたお方なんだ。でも、ここで言うことはできないけれど、ある事情で全てを捨てられたんだ」
「それって、樋水の媛巫女様と関係のあること?」
三根の核心に迫った問いに、主はもしや自分が病に伏している間にほぼ全てを語ってしまわれたのかと、次郎は訝った。これまでどのような旅先でも、主はそのような話はしなかったというのに。
「君は知りたがりだなあ。いつもそうなのかい?」
次郎が用心深くいうので、三根は口をとがらせた。
「そういうわけじゃないけれど……。ほら、安達様って素敵な方だし、萱様ととてもお似合いだと思うのよね。でも、ほら、どんな方かわからないを婿殿としてどうですかって、お薦めできないし」
「春昌様は……!」
媛巫女様の背の君だから、そんな不遜なことを言うな。そう言いかけて次郎は口をつぐんだ。
その定めを選ばれたお二人を、宮司様の命令に従い引き裂こうとし、結果として命よりも大切に思っていた媛巫女様を殺めてしまった身の上だ。春昌様は、その己れの罪科を代わりに背負いながら彷徨い生きておられる。改めてそれを思い至り、大きくも苦しき悔の念が身を締め付ける。
「ちょいと、次郎さん、どうしたの? 大丈夫? ねえ、そんなにつらいこと訊いてしまったの? もう訊かないから、しっかりしてよ」
氣がつくと、頭を抱えてうずくまる次郎の背を、三根が当惑してさすっていた。
「す、すまない。つい動転してしまって……」
「何か、つらい事情があるのね。ごめんなさいね。私、すぐに思ったことを口にしてしまうの。それで、萱様にもよく叱られるの。でも、悪氣はまったくないのよ」
「ああ、わかっている。君はとても親切だし、主人の萱様のことをとても大切に思っているのもわかっているよ」
「次郎さん、ほら、もう少し食べて飲みなさいよ。早く元気になって、安達様に元通りお仕えするんでしょ」
濱醤醢が醸し出す旨味は、全ての幸いを捨てたはずの次郎にも、舌から悦びを思い出させ、小さい杯に注がれる酒は五臓六腑に染みていくようだった。そして、目の前に座り酒を勧める三根は、朗らかだった。生まれ育った奥出雲の神域を出て初めて、次郎は居心地がいいと感じた。
(初出:2021年10月 書き下ろし)
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