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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(17)《Et in Arcadia ego》 -1-

『Filigrana 金細工の心』の17回目「《Et in Arcadia ego》」をお送りします。

視点はアントニアに戻っています。前当主でありアントニアたちの父親であったカルルシュの実父はインファンテ321でした。この神経質で嫌な感じのインファンテについては既に何度か記述していますが、今回はカルルシュの実母も登場しています。

今回も切る場所で悩み、結局、2回にわけることにしました。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(17)《Et in Arcadia ego》 -1-

 ガレリア・ド・パリ通りから狭い路地を入ると、一番奥に陽の差さない小さい家がある。アントニアがそこへと歩いていくと、入口にパイプ椅子を置いて座っていた黒服の男が立って、頭を下げた。

「ご苦労でした、ソアレス。もう、終わったの?」
アントニアが問いかけると、ペドロ・ソアレスは、無言で頭を縦に振った。それから、先頭に立って、建物の中に彼女を案内した。

 入口はとても狭く見えたその家は、中に入ると本当は3軒分を1つにした広い空間であることがわかる。奥に中庭があり、そこには太陽の光が降り注いでいた。

 70を越したと思われる黒服の婦人が立っていて、足元の四角い石を眺めていた。その女は泣いている様子も、悲しんでいる様子も見せなかった。

「ごらんよ、アントニア。これっぽっちの石。まるで何もなかったかのようだ」
老婦人は、かがんで四角い石にそっと触れた。

 アントニアもまた、大きな悲しみは感じなかった。ここにいる老婦人が自分の実の祖母で、石の下に眠っているのが、祖父であることも、大きな感慨を呼び起こさなかった。彼には、嫌悪感すら持っていた。彼が石の下に眠ったことで、厭わしく思う罪悪感から解放されたのだ。

 だが、この四角い石、ひとりの人間が生きていたことすらかき消してしまう、ドラガォンの残酷な慣習に、彼女は悲しみを感じた。だがそれは、亡くなった祖父のためではなく、彼女の愛する男のための悲しみだ。こんな風にどうしようもなく、残酷なまでにエゴイストであることは、紛れもなく祖父の濃い血を受け継いだ証拠なのだと感じた。

 アントニアは、祖母アナ・トリンダーデとはじめて逢った、10か月ほど前のことを思い出した。

 その日、アントニアは、インファンテ321を訪ねた。ドラガォンの当主の名代として定期的に行われる訪問でもあったが、見舞いでもあった。彼は死にいたる病にかかっていた。医者の往診を受け可能な限りの処置はしてもらっても、決して入院することはない。彼には名前がなかったからだ。存在しないはずの男の住む家を訪ね、アントニアは「お祖父さま、ご機嫌はいかが」と呼びかけ「いいわけはないだろう」と悪態をつかれた。

 その男が今は亡き父カルルシュの本当の父親だった。

 半世紀前、先々代当主ドン・ペドロの妻ドンナ・ルシアと、インファンテ321に選ばれたアナは、ほぼ同時期に懐妊した。予定日はルシアが1ヶ月近く早かったにもかかわらず、先に産まれたのはアナの子供だった。

 アナが早く産氣づいたのが偶然だったのか、それとも祖父21がそうなるように何かをしたのか、アントニアは知らない。わずか数日違いで生まれてきた2人の男子。1人は伝統に基づき、5つ星のついた腕輪と名前をもらいドン・カルルシュとなった。そして、ドンナ・ルシアが産んだ息子は、4つ星の腕輪を持つインファンテ322となった。

「儂の人生で一番愉快だったのは、あいつらの子供が、儂と同じように閉じこめられることになったことだ。そして、あの傲慢な女が、館を追い出されたこともな」

 祖父は、神経質に高い声を出して笑った。アントニアは、黙って目を伏せた。ルシアが、我が子として育てることになったカルルシュを憎み続けたこと、そして、第2次性徴を迎えた22が閉じこめられるのに堪えられず、カルルシュを亡き者にしようとしたこと、それが発覚した時に当主だった夫は、妻を退けねばならなかったこと。その不幸な争いが、本来仲のよかった2人の少年を引き裂いてしまったこと。そして、生涯をインファンテとして過ごすことになった22の苦しみ。全てを知り、2人の苦しみを身近に見て、自らも運命に絡めとられているアントニアには、それは少しも愉快なことではなかった。

 だが、どうすることができただろう。愛する弟24が壊れていくのを姉としてどうすることもできなかったように、祖父が人格者になれなかったのもまた、インファンテとして産まれた不幸のせいでもあるのだから。

「アントニア。お前にこの女性を紹介したことがあったかね」
あの時、祖父は訊いた。てきぱきとコーヒーと菓子を用意して運んできた老婦人は、はじめて見る顔だった。腕輪をしているので、《監視人たち》が新しく雇った使用人なのかと思っていた。

「この女は、アナだ。カルルシュを産んだ後、館を出ていったお前の祖母だ」
老婦人は黙って微笑んだ。

「お祖母さま?」
アントニアは、驚いて老婦人を見つめた。

 子供が産まれた後、《星のある子供たち》である女には、選んだ男のもとに留まるか、それとも離れて自由になるか決める権利があった。だが、他の《星のある子供たち》を産んだ女と違って、我が子を、つまり星を5つ持つプリンシペであるカルルシュを連れて出て行くことは許されなかった。それでも彼女は出て行くことを望んだのだ。そして、《星のある子供たち》ではないトリンダーデ氏と結婚して幸せに暮らしていると聞いていた。

「そう。幸せな結婚生活でした。子供たちや孫たちにも恵まれました。去年、夫は亡くなりましたがね。半年くらい前に、この方の病のことを聞いて、以来時折、ここに伺うことにしたんですよ」

 アントニアは、瞳を閉じた。我が子の側にいてやらなかったことを責める権利は、自分にはないのだと心の中で呟いた。たとえ館に残ったとしても、彼女がカルルシュを守ることはできなかっただろうから。実の父親はとことん無関心で、実母には見捨てられた。育ての父親は厳しく、育ての母親には憎まれた。そのことがカルルシュを卑屈な男にしたことは確かだが、すべてはアントニアが責めることのできない、それぞれの人生のドラマ上でのことだった。

 歳とって丸くなったとしても、祖父インファンテ321は傲慢、身勝手で、無責任な男だった。同じインファンテの運命を持つ叔父22、そして、アントニアの弟である23もまた、もっと高潔で誇り高く自己克己を怠らない尊敬すべき人格を持っている。過酷な運命は同じでも、育つ人格には差があった。そんな祖父21の下品でわがままな言動を知っているだけに、この男とともに生涯格子のむこうに閉じこめられることを選ぶ女がいるとは思えなかった。

 祖母は、自らの意志で選んだ相手と結婚し、子供や孫のいる幸せな家庭を築いた。もうドラガォンに関わる必要はなかったのに、少なくとも、死を待つだけの幽閉生活を続けるかつての相手に手を差し伸べた。だから、善良で優しい人に違いないのだ。心の中であっても、彼女の決断を裁いてはならない。アントニアは、そう自分に言い聞かせた。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

久しぶりの旅行

1年半ほどどこにも行かない日々を過ごしていましたが、久しぶりに1週間弱の旅に出ました。といっても海外旅行はお高いPCRテストを自費で受けなくてはいけないので、国内旅行です。

Château de Bossey

目的地は、連れ合いの育ったフランス語圏スイスで、すでにこのブログでも何回か書いたことがあります。今回滞在したのは、以前にも泊まったことのあるシャトー・ド・ボッセー

この建物は、12世紀からいろいろな持ち主の手に渡ってきましたが、現在はエキュメニズム(キリスト教の教会一致促進運動)の団体が所有しています。なので、セミナー等で常時さまざまな流派のキリスト教徒が滞在しています。が、それとは関係なくリーズナブルな値段で滞在できるのです。シャトーなのですけれど。連れ合いの育った村のすぐ側にあるので、ここに滞在しつつ、友だちや昔世話になった近所のおばさんたちを訪ねて昔話に花を咲かせるといった日々を過ごしてきました。

レマン湖

ちなみに、連れ合いの育った村はヴォー州に囲まれたジュネーヴ州の飛び地です。レマン湖に面した風光明媚な地域で、ジュネーヴやニヨンにも近いのに、小麦畑や葡萄畑が見渡す限り続く美しい地域です。普段、アルプスの険しい山に囲まれて狭い谷間で過ごしているもので、往き帰りにバイクで駆け抜けた絶景はまさにため息ものでした。

Nufenen峠

国内旅行だといいましたが、私たちの住むドイツ語圏地域から、イタリア語圏スイスを通って、ドイツ語圏にもどり、それからフランス語圏へと向かったので、言語だけでいったら十分に海外に行ったようなもの。それぞれの土地の料理も堪能してきました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(16)再会 -2-

『Filigrana 金細工の心』の16回目「再会」の後編をお送りします。

世界一周をする客船の楽団で働く青年チコは、故郷に戻っているわずかな時間にライサにプッシュをかけています。本人も成功するとは思っていないのですが、意外とトントンと話が進んでいる模様。

船酔いの話がでてきていますが、酔いやすい人は客船勤務は大変でしょうね。私は大きい船ならたいてい大丈夫ですが、1度だけひどい揺れでめちゃくちゃ酔いました。降りるときに船員に「この船、いつもこんなに揺れるんですか」と訊いたら「この航海がどんなにヤバい状態だったか、知らないってのはよかったね」と言われてしまいました。大時化だったらしいです。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(16)再会 -2-

「あやまらなくていいよ。ただ、わからなくなったんだ。君たちが『Pの街に来るときは連絡して』って言ったのが、社交辞令だったのなら、ノコノコ本当にやってきた僕が馬鹿だったんだよね」

 ライサは首を振った。その台詞を口にしたのはマリアだったけれど、昨夜電話でチコと話したときも、ライサは決して迷惑だと思わなかった。むしろ、嬉しかったのだ。あの旅を最後に彼女の生活から消えてしまった『グラン・パルティータ』の旋律が戻ってきたようで。

「社交辞令じゃないわ。昨日、渋ったのには理由があるの。私自身の欠陥のことを思ったの」
「それは?」

「その……、私ね。友達がいないの。学校の同級生や仕事の同僚のように、話すべき事があって話すのは大丈夫なんだけれど、そうじゃない人と、どうやって会話を続けたらいいのかわからなくて。だから、1人であなたに会ってどうしていいのかわからなくて」

「でも、ライサ、君は知っているよ」
「何を?」
「会話の続け方。船の上でも、今も、僕と普通に話しているじゃないか」
「……。話しているけれど、退屈させていない? それに、さっきみたいに、つい他の事を考えてしまったりして、呆れていない?」

 チコは、口元を横に引っ張ったような一文字にして、目を細めた。

 ライサは、不思議な女性だった。驚くほど綺麗なのに、いつも伏し目がちだ。何か失敗をしでかすのではないかと、びくびくと怯えている。それでいながら、チコに対しては飼い主にすり寄る仔犬のような信頼と親しみに溢れた目つきをする。だから、彼ももしかすると脈があるのではないかと思ってしまうのだ。

「退屈していないし、呆れてもいない。僕は、もう一度君に逢えて嬉しい。あの船旅が終わったら、それっきりになってしまってもおかしくなかったんだし」
「楽しい旅だったわね。ご飯を作ってもらったり、UNOをしたり、夕陽を見ながら演奏を聴いたり……」

 ライサの語る船旅の想い出は、チコとその仲間が、ライサたちのスイートに来て楽しんだときの事ばかりだった。VIPとしてもっと素晴らしい経験がたくさんあったはずなのに、彼女はその事をさほど楽しんではいなかったようだった。

「君は、本当にどこかのお姫様ではなかったんだ」
「違うわ。それにふさわしいことをしてきたわけでもないの。マリアがいなかったら、きっと部屋から一歩もでなかったでしょうね。でも、もう元のなんでもない身分に戻ったの。だから、こういうあまり高くないレストランしか来られないの」

 チコは、嬉しそうに笑った。テーブルも椅子もプラスチックで出来ていて、テーブルクロスは紙だ。その上に紙の広告入りランチョンマットが載って、紙ナフキンに包まれた軽いカトラリーが置かれている。それでも、明るい陽射しの中を浴びて、目の前のライサが穏やかな笑みを浮かべているだけで、チコにはここが天国のように感じられるのだった。
「僕は、こういう方が居心地がいいんだ」

 野菜のスープ、鱈と玉ねぎを卵とじにしたものとサラダの定食は、チコの財布にもストレスを与えなかった。

 チコは、この3か月間、船の上で体験したおかしな話を聞かせた。ライサははじめは控えめに、それからだんだんと打ち解けて笑うようになった。

「旅が好きだから客船の楽団員になったの?」
ライサは訊いた。

「いや。生活のためさ。でも、衣食住が約束されて、世界を見て回れる経験は悪くないと思って募集に飛びついたよ。船酔い体質だと向かないけれど、幸い僕はけっこうな揺れでもへっちゃらだったんだ。そういえば、君も船酔いには強かったよね」
「そうね。船に乗ったのは初めてだったのよ。だから、悪天候の日にマリアが具合が悪いって言い出したことの理由がしばらくわからなかったの。……つまり、私も船の上で仕事をするのに向いているってことかしら?」

 チコは、目を大きく見開いてライサを見た。
「もしかして、客船で働くことに興味があるのかい?」

「わからないわ。考えたこともなかったもの。でも、私は何の演奏もできないから、楽団員は無理ね。船室の清掃やレストランの従業員なら、経験もあるしできるかもしれないわ」
ライサの答えにチコは椅子から転げ落ちるかと思うくらい驚いた。35万ユーロの船室に泊まっていたご令嬢が、客室清掃やレストラン勤務の経験があるなんてことがあるだろうか。

 ライサは、チコの反応を見て、笑顔を見せた。
「お姫様じゃないって、言ったのに」

「うん。僕にとっては、お姫様ではない方がありがたいけれど……。でも、まさか君がそんな仕事にまで興味があるなんて、考えもしなかったんだ。もし、冗談じゃないなら……」
「もちろん冗談でいっているんじゃないわ」

「そうか。それなら真面目に答えるけれど、あの船は、常にいろいろな職の空きがあって募集を掛けるんだ。客室関係だけでも本当の清掃員から、洗濯関係、それに彼らを管理する人までいろいろさ。本当に興味があるなら、君に求人を知らせるよ。陸地でもいろいろな仕事を探しているだろうけれど、その中の1つの選択肢として考えてみるといい。僕としては、また一緒に船で過ごせたら嬉しいけどなあ」

 夢中になって語るチコに、ライサは静かに頷いた。

 あの船旅の間、ライサの人生の時間は止まっていた。次のステップに向かって行動を起こす必要はなかった。陸地にたどり着かなければ何もできないことが誰の目にも明らかだったから。ライサは、マリアやチコや、そしてチコの仲間たちと過ごした日々を懐かしく思いだした。新しい何もかもが怖いライサにとって、あの場は少なくとも『知っている空間』で、勇氣を振り絞れば入っていけるかもしれないと思えた。

 それに、チコがいる。彼は、かつては全く知らない誰かだった。でも、クラリネットで『グラン・パルティータ』の、あの旋律を奏でてくれた。その時から、彼はライサにとって信頼できる存在になっていた。彼女が惹かれてやまないたったひとりの人に繋がるとても大切なファクター。腕輪と縁のない世界に、ライサはこれまでそんな人を持たなかった。これからもそう簡単にそんな人には会えないだろう。

 腕輪と縁のない世界の大海で、行く当ても泳ぎ続ける自信もないライサには、チコの提案はまるでそっと投げてもらった浮き輪のように感じられた。

 けれど、まだその浮き輪にすぐに掴まるべきかどうか、ライサにはわからなかった。心の中に水色の壁の邸宅、2階の窓が見える。揺れるレースのカーテン。ライサが、既に何度か足を運んでいるボアヴィスタ通りの一画から見える光景だ。開け放たれた窓から、ピアノやヴァイオリンの音色が漏れてくる。

 チコは、夕方、彼女をアパートの階下まで送った。
「今日は、本当にありがとう。船の求人のことは、陸にいるうちに調べてみるよ。……それとは別に、その、もし嫌でなかったらだけど、明後日か明明後日、また会ってくれないかな」

 ライサは、何も答えずに瞬きをした。チコは、断られる前にと、急いで付け加えた。
「その……カーサ・ダ・ムジカに行ってみたいんだ。もしかしたら、案内してもらえるかと思って」

 ライサはわずかに間を空けてからつぶやいた。
「カーサ・ダ・ムジカ……ボアヴィスタ通りの……」

 それからの不思議な間に、チコが他にどんなことを言ったらもう1度逢ってもらえるだろうかと考えていると「わかったわ」という声が聞こえた。
「え?」
「私も中は入ったことがないのだけれど、それでもよかったら……時間はあるから私はいつでも……」
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

Our Day Will Come

現在、1年半ぶりに国内旅行に旅立っています。行き先は連れ合いの子供時代を過ごした村。コメント等へのリアクションが遅くなりますが、ご了承ください。

今日は音楽の話です。というか、同じ歌の同じ歌詞に全く違うものを感じてしまった話。

先週の日曜日に、庭先の大きな木の下から青空を見上げていたときに、ラジオから往年の名曲『Our Day Will Come』が流れてきたんですよ。

歌詞の意味するところは若くて周囲に反対されているカップルの恋愛で、「愛し合っていればいつかは認められる」というものなのですけれど、それが全く違って聞こえてきてしまったのです。

「いつかすべてを手にすることができる」「しばらく待っていればいい。わたしたちの愛を想って笑顔でいよう」って。つまり今はダメだけれど、待っていればいずれ素晴らしい日が来るという歌詞が身につまされたわけです。

現在起こっているあれこれを、本当に乗り越えられるかどうかなんて、誰にもわかりません。人類が乗り越えることは可能かもしれませんが、そこに自分たちが含まれていなければ「私たち」ではないですよね。恋人たちだって、反対に抵抗しているうちに疲れて別れてしまうことだってあるかもしれません。そんなものです、すべての希望的観測は。

でも、だからこそ、それを信じて日々生きていくしかないんですよね。

思えば、私たちの世代とその前後は、素晴らしい日々を過ごしてきました。自由で楽しい日々がずっと続くと信じることができたものです。好きなことをする時間は、まだ数十年あって、その間に大きな不安や制約がかかる長い年月日があるとは考えもしませんでした。もしかしたら、それは、最後の輝きだったのかもしれません。

でも、まだ、そうであるとは思いたくないです。しばらく耐えて生き延びることが出来たら、いずれまた自由で楽しい、ささやかな楽しみを満喫できる世界が戻ってくると信じたいです。


Our Day Will Come
by Ruby & the Romantics

Our day will come
And we'll have everything
We'll share the joy
Falling in love can bring

No one can tell me
That I'm too young to know (young to know)
I love you so (love you so)
And you love me

Our day will come
If we just wait a while
No tears for us
Think love and wear a smile

Our dreams have magic
Because we'll always stay
In love this way
Our day will come
(Our day will come; our day will come)

Our dreams have magic
Because we'll always stay
In love this way
Our day will come
Our day will come

Copyright: Universal Music Publishing Group, BOURNE CO.
Writer(s): MORT GARSON, BOB HILLIARD

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(16)再会 -1-

『Filigrana 金細工の心』の16回目「再会」をお送りします。

客船の楽団で働く青年チコは、故郷に戻ったつかの間の休みにPの街を訪れ、ライサに「街の案内をして欲しい」と電話で頼みます。もちろん案内というのは口実でライサに会いたいだけです。

いつもはだいたい2000字で切るのですが、内容的に中途半端だったので、もう少し長く、2回にわけることにしました。



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あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(16)再会 -1-

 アリアドス通りを歩きながら、チコは空を見上げた。白い立派な建物が紺碧の空を強調している。なんて青さだろう。所どころの街路樹に咲くマグノリアの白と紫の花を見て春が来たなと思った。

 昨日の電話で約束を取り付けられたことが夢のようだった。でも、僕はこれからライサと逢うんだ。そう思うだけで駆け出したくなる。船旅の時と違って、ライサには断る何百もの方便があったはずだ。そもそも、たまたま同じ船に乗っていたというだけの誰かと逢わなくてはならない理由なんかない。逢いたいと思わないのならば。

 電話でのライサは、チコの連絡に歓声をあげたわけではなかった。だから、15分ほど話した後で、滞在中によかったら逢えないかと切り出したとき、よい返事をもらえるとは思っていなかった。

「1度、この街をゆっくり見てみたいと思っていたんだ。その、君が嫌でなかったら、案内してくれないかな」

 ライサは、少し考えてから言った。
「それはマリアの方が適任だと思うけれど……マリアは、平日は仕事で忙しいわね。私は、あまりちゃんと案内できないと思うけれど……」

「ツアーコンダクターの役割を期待しているわけじゃないよ」
「わかったわ」
その言葉を耳にして、彼はガッツポーズをして飛び上がった。

 彼女の氣の変わらぬうちに今日逢う約束を取り付けて、チコはアリアドス通りをこうして歩いているのだ。

 まだ若いマグノリアの木が、白と紫の花を咲かせていた。その若木の前に、アイボリーのワンピースを着たライサが立っていた。船の上で見たときよりも、長くなった髪を後ろで縛っているが、ワンピースもその金髪もゆらゆらと風に踊っていた。

「ライサ!」
駆けてくるチコを見つけて、ライサは笑顔を見せた。控えめで俯きがちな《悲しみの姫君》がそこに立っていた。

「ごめん。待たせてしまったのかい?」
「氣にしないで。早く着きすぎただけなの。まだ、約束の時間にもなっていないわ。久しぶりね、チコ」

「ああ、ライサ。久しぶりだ。今日は、時間をとってくれて、ありがとう」
チコは、右手を差し出した。ライサはびくっと動き、それから右手を自分の顎の下あたりに持ち上げて握ったり開いたりの動作をした。

 チコは、急いで右手を引っ込めていった。
「ごめん。すっかり忘れていたんだ、氣にしないでくれ」
 
 ライサは、船の上でも握手ができなかった。最初にオットーが自信満々に右手を差し出したのだが、彼女は銃でも向けられたかのように怯えて妹マリアの後ろに隠れたものだ。

 マリアが、あとで説明してくれた。
「ライサは、トラウマがあって男性には触れられないの。だから握手もキスも出来ないわよ」

 ライサは、チコの顔を見て、心からそう言っていることを見て取り、ホッとして頷いた。
「ごめんなさい。あなたと握手しても、悪いことが起こるわけじゃないって、頭ではわかっているんだけれど」
「うん。わかるよ。だってそうじゃなかったら、君は今日、ここに来てくれなかっただろう。さあ、行こうよ」

 チコに促されて、ライサは彼をまず河岸に連れて行った。坂道を降りていくあいだにいくつかのアンティークショップがあった。大きな手巻き式オルゴールを見て店主と3人であれこれと話した。

 ライサは表紙にクラリネットの絵の描かれた古い楽譜を見つけてチコに教えた。彼は驚いて手に取った。
「これ、モーツァルトの協奏曲だ。やあ、ずいぶん古いみたいだけれど、いい状態だね。買おう。『グラン・パルティータ』はないかな?」

 ライサははっとした。モーツァルトと聞いて、彼女もまた『グラン・パルティータ』のことを思い浮かべた。

 船の上でチコに奏でてもらった旋律はすぐに、彼女にとって聖域であるあのサロンにライサを導いた。レースのカーテンが揺れる窓辺、そして、アームチェアに座る人がクラリネットの音色に聴き入る姿。

 ライサが、『ボアヴィスタ通りの館』の主人セニョール を思い起こすとき、まず浮かび上がってくるのはアームチェアのひじ掛けに置かれた腕や組まれた足だ。それから、斜め上からピアノを弾く彼の後頭部や肩、そして魔法のように動く指先を見たことを思い出す。長いあいだ、彼女は恩人の顔を正面から見据えることができなかった。恐ろしい悪魔と非常によく似た端正な顔をライサはひどく怖れていた。

 それがいつからだろうか、遠くから、もしくは彼がドンナ・アントニアと言葉を交わしているとき、つまり彼女に意識を向けていないときに、彼の姿を見ずにはいられなくなった。白髪の交じりはじめた明るい茶色の髪も、海のように青い瞳も、演奏しているときに時おり浮かべる微笑みも、彼女を選んだもう1人の囚われ人とは何の繋がりもなくなり、御しがたく香り高い秘密を彼女の心の中に花開かせた。

 あるとき、ライサはその感情の意味を悟って愕然とした。ずっと悪夢から救い出してくれた恩人ゆえの崇拝だと思っていた。そして、主人セニョール 、つまり彼女とは違う世界と立場に居る人として尊んでいるのだと思っていた。年齢も離れすぎていて、考えたこともなかった。けれども、それは疑う余地のない感情だった。ライサが、これまで1度も感じたことのない、理性を無視して心の奥から沸き起こる甘い感情。

 ライサは、24を愛したことが1度もなかったのだと、ようやく氣がついた。恋が、人を愛することが、これほどまでに理屈も理性も超え、条件や成就の可能性といったファクターも全て忘れさせ、ただ泣きたくなるほどの愛おしさと強い心の痛みを呼び起こすものだとは知らなかった。

 いつだったか、彼はリストのエチュードを弾きながら、彼女を見て笑顔を見せた。一度も見たことがなかった少年のような明るい笑顔。いつもは、彼自身のために弾いている曲を同席を許されて聴かせてもらっていると恐縮していたが、その時だけはどうしてだか、彼が自分のためにその曲と笑顔を贈ってくれたと強く感じた。

 それはライサにとってこれまで感じたことのない高揚した想いだった。天からの贈り物、愛の至福。後に、そんなはずはないと心の中で否定したけれど、それでもあの時間の優しい暖かさが、いまでもライサをこの世界に留まらせている。崩れて風にさらわれそうになっている彼女を、彼の記憶だけが生かし続けている。

「逢いにきたりして、迷惑だったかな」
チコは、ぽつりと言った。ライサは、はっとして彼を見た。

「ごめんなさい」
どれだけ長いあいだセニョール322の思い出に浸っていたのだろう。彼女は小さなレストランの隅のテーブルにチコと向かい合って座っていた。何十分にもわたり、チコの問いかけにあやふやに答えて続けていたことを恥じて、彼女は頭を下げた。
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Posted by 八少女 夕

なければ作れの海外生活、和菓子編

この話題、いつだったかもしたかと思いますが、今回は自作和菓子に焦点を。

ぼた餅?

先日、和菓子職人の話を書いていたんです。このシリーズを書くと、いつも和菓子が食べたくなってしまうんですよね。

でも、もちろん近くには売っていないので、食べたければ作る他はありません。私はいわゆる「女子力」に欠けているので、ちゃんとした和菓子など作れません。でも食べたかったんですもの。

で、手っ取り早く食べられる和菓子を自作してみました。ぼた餅、お萩? いや、この季節の場合は「夜船よふね 」っていうんだそうです。要は潰した米を餡で覆うお菓子です。本当は滑らかなあんころ餅が食べたかったのですが、そうなると餡を漉したり、お餅を滑らかにしたりと手間がずいぶん増えるので、これでいいことにしてしまいました。

作り方ですけれど、餡は小豆を渋切りしてから圧力鍋で煮て、お砂糖を加えてからハンドミキサーで滑らかにするだけです。漉していないので粒餡に近いできになります。そして、お餅の方も餅米は手に入らないので、ご飯2合にお餅を1つ加えて炊くことで餅米を炊いたような状態にしています。

食べるのは私1人なのでさすがに余ります。で、冷凍して保存しました。

田舎汁粉風

余った餡は、お湯で溶いてお餅を浮かべてお汁粉にしました。普段お餅はバター醤油一択なのですが、たまにはお汁粉も美味しい。もちろん買って食べるプロの和菓子とは比べ物にもならない出來ですが本人の「食べたい欲」満たされたのでいいということにします。
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Posted by 八少女 夕

【小説】その色鮮やかなひと口を -8 - 

今日の小説は『12か月の店』の6月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は島根県の2つの店です。1つは松江にある和菓子店「石倉六角堂」。そして、もう1つは奥出雲樋水村にある「お食事処 たかはし」です。4月分の冗談作品と違いこちらが本来の「たかはし」です。つまり今回は『その色鮮やかなひと口を』と『樋水龍神縁起』のコラボということになりますね。『樋水龍神縁起』の方は、本編とは何の関係もないのでリンクはつけませんが、摩利子が氣になった方は別館に置いてある『樋水龍神縁起』本編に足をお運びくださいませ。

念のために書きますが、この作品で出てくる松江の「石倉六角堂」は実在しませんし、途中から出てくる樋水川、樋水村、そして樋水龍王神社も実在しません。樋水川のモデルは斐伊川なので、時おり実在の地名や神社ならびに施設が記述されていますが、創作のために混在していることをご了承ください。

そして、今回、どういうわけか予定の文字数(5000字)を大きくオーバーしております。すみません。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
その色鮮やかなひと口を シリーズ



その色鮮やかなひと口を -8 - 

 怜子は「晴れているなあ」と空を見上げた。梅雨が始まると憂鬱になるが、いつまでも始まらないと、それはそれで不安になる。今日から発売する6月の和菓子の紹介ポップを梅雨を意識して書いたのでなおさらだ。

 和三盆の打ち菓子が目立つようにディスプレーしたのは怜子自身だ。普段は置かない形に注目してほしいのだ。てるてる坊主やユーモラスなカタツムリ、それに紫陽花をイメージした菱形を4つ組み合わせた花。生菓子だと生々しく感じるカタツムリも、干菓子だと抵抗なく食べられるのが面白い。

 怜子は、できたての上生菓子をバックヤードから運んではショーケースに詰めていく。今月の上生菓子は三角形の水無月、若竹を模した鮮羹、練り切りは黄身餡を用いた枇杷と、赤紫のテッセン、そして紫陽花水饅頭。

 紫陽花水饅頭のアイデアは、怜子のアイデアをルドヴィコが実現してくれた自慢の商品だ。今までの年に作っていたものは細く麺状に絞った練り切りに青と紫の花弁を飾ったものや、ゼリーのような錦玉かんで覆って紫陽花を表していた。もちろんそれもも素敵だけれど、水饅頭もとても涼しげだ。ただの水饅頭だと少し地味で水無月と色合いが似てしまうが、怜子は白あんを葛で包み、上から紫陽花の花弁を飾るタイプを提案してみた。たくさんの花弁が置けない代わりに、ピンク、紫、青と色違いを用意した。

「あら、これ素敵ね」
ショーケースをのぞき込んでいた女性が言った。

「お待たせしました。どちらになさいますか」
怜子は、おしゃれな女性だなと思いながらその客を眺めた。怜子の母親と同年代にも見えるのだが、妙に垢抜けている。京紫に近い派手なシャツと黒いタイトスカート、それに黒いピンヒール。

「そうね。まずは今月届けていただく商品から……」
あ、個人のお客さんじゃないんだと怜子が思った途端、裏からルドヴィコが出てきた。

「あ、高橋様、いらっしゃいませ」
「ああ、マセットさん、いつもありがとう。今月も素敵ねえ。特にこの紫陽花の水饅頭、早速食べたくなっちゃったわ」

 ルドヴィコは、にっこりと笑った。
「ありがとうございます。これは、こちらの渡辺の案で作ったんですよ」

 高橋様と呼ばれた客は、怜子を見て満面の笑みを見せた。
「そうなのね。じゃあ、持ち帰る分はそれにしようかしら。それに、今月納品していただく分は、枇杷と若竹も入れてください。数量はいつもと同じで」
「かしこまりました。怜子さん、樋水村の『たかはし』様でお受けしてください」
ルドヴィコにいわれて、この方が奥出雲のあのお食事処の奥様なんだと納得した。

 半年ほど前から、週に1度「石倉六角堂」の和菓子をお届けするようになったお店だ。とくに有名でもない村なのだが、その店だけはメニューも店構えも妙に都会的センスにあふれているのだと、同僚たちが噂していた。ええっ、こんなオシャレな人があんな山奥に住んでいるってありえる?

「あら、このお干菓子、珍しい形ね」
高橋様は、怜子の書いた説明書きを読んでいる。

「はい。6月限定です。これまでは季節ごとに変えていたんですが、今月から毎月違う型で作ることにしたんです」
怜子が説明した。

「そうなの。シンプルだけれど季節感が出ていいわね。実はね、コーヒーと一緒に出すお砂糖代わりに和三盆を添えたらどうかなと思っているのよ。もしかして、うまく溶けないかしら?」

 ルドヴィコは頷いた。
「いいえ。その用途は考えたことがなかったんですが、大丈夫ですよ。和三盆糖に他の材料を加えた落雁と違い、打ち菓子の原材料は和三盆糖とねき蜜だけです。コーヒーなどに入れれば溶けます」

「ねき蜜ってなあに?」
「水飴と水を混ぜたものです」

「そう、じゃあ、お願いするわ。白と茶色のがいいわね。でも、このカタツムリや紫陽花もかわいいのよね……」
「では、白と茶だけで形はさまざまな物を作ってお届けしましょうか」

 高橋様は頷いた。
「そうしていただけると嬉しいわ。前はフランス産のちょっと高い砂糖を東京から取り寄せていたんだけれど、日本から撤退してしまったから、これからどんなお砂糖を出そうか考えていたところだったの」

 彼女が去った後、怜子はルドヴィコに話しかけた。
「あのお客さん、いつもあんなにスタイリッシュなの?」

 ルドヴィコはおかしそうに笑った。
「怜子さんが、そう訊くだろうと思っていました。ええ。いつもとても素敵ですね」

 怜子は、わずかに赤くなって恥じ入った。
「だって、あんなにおしゃれな人、このあたりでは珍しいよ。私、あんな高いピンヒール、テレビ以外で初めて見た。それなのに樋水川の奥地のお店だなんて」
「あの方はもともとは東京から移住してきたそうです。ご主人が樋水村の方だとおっしゃっていました」

 そういえば社長の奥様がお友達と行ったって……。インテリアもお料理もまるで都会か海外のお店みたいだったって絶賛していたっけ。怜子はあの人のお店ならあり得るなと思った。

「私、コーヒーのための砂糖なんて、考えたこともなかった。でも、フランス産の高いお砂糖を使ったり、和三盆をコーヒーに使ったり、こだわるとコーヒー1杯でも特別な感じがするよね」

「前回いらした時にも少しお話ししたんですが、あの方の和洋折衷のアイデア、とても勉強になります」
「え? ルドヴィコ、イタリア人なのに?」

「僕には日本人としての一般的な感覚がないので、意図せずにずれてしまっていることはあるかもしれません。でも、わかって敢えてずらすと意図しなかった場合よりも力づよい美しさが出るんですよ。こちらで皆さんに教わるように古来の伝統を学ぶこともとても大切と思っていますが、僕は異国のものを柔軟に取り入れる日本的な文化融合メソッドをも学びたいんです」

 なるほどねえ。怜子は頷いた。
「ねぇ。ルドヴィコ。だったら、その奥出雲のお食事処、行ってみない?」
「『たかはし』さんにですか?」
「うん。私、樋水村って行ったことないし、あの方のお店のお料理、とても美味しいなら行ってみたいもの。ものすごく高いのかなあ」

 ルドヴィコは笑った。
「ちょっとお値段が張ると聞いていますが、たまにはいいじゃないですか。よかったら今度のお休みに行きましょう」

* * *


 日曜日は、雨だった。予報は聞いてこなかったけれど、本格的に梅雨入りしたのかもとれないと怜子は思った。

 樋水村まではバスで50分ほどだ。道は基本的には樋水川に沿って登っていくが、時おり川辺を離れて街や小さな集落に寄っていく。河口近くでは鬱陶しい雨天だと感じていたのだが、家屋が途絶えて木々が鬱蒼と茂るようになると、木の葉に遮られるのか霧雨のような細かい雨粒だけが窓に触れるようになった。新緑が勢いよく芽吹く合間を水滴と風が通り抜けていく。

 奥出雲の主要な村で乗客は1人また1人と降りてゆき、次は終点の樋水村だ。車内には怜子とルドヴィコ、それから斜め前に座る老人だけが座っていた。

「ここは、あそこに似ていますね。志多備神社の……」
ルドヴィコは、考え深く言った。

「ああ、あのスダジイの巨樹のあった境内ね。ほんとだ。あの神社の外側は、どこにでもある田園風景だったのに、境内に入ってからガラリと感じが変わったわよね」

「もともと森林は世界のどこでも日常から切り離されて異界に入り込んだ感じがするものでした。少なくとも近世までは。でも、河川や道路を整備する必要のある公道の森林は、管理されて面白みのない林野になってしまうことが多く、こんな空氣を感じる場所は珍しくなってしまいました。樋水川は、下流は治水を積極的に行っているのに、このあたりは蛇行をそのままにしているんですね」

 ルドヴィコの言葉を受けて、老人は振り返ってにっと笑った。
「江戸時代からお上は何度かまっすぐにしようと頑張ったんだ。でも、龍王様のお氣に召さなかったんだな、結局元に戻っちまって、それでお役所も諦めたのさ。最後にやったのは戦前だよ。それ以来、ここをまっすぐにするのは税金の無駄だってことになったんだ」

「龍王様?」
怜子が訊ねると、老人は笑った。
「樋水川だよ。樋水龍王神社のご神体はこの樋水川なのさ。お前さんたち、ここに来るのは初めてかい?」
「はい。奥出雲は、多根自然博物館や絲原記念館までは来たことがあるんですけれど、樋水村は初めてです」

「そうかい。じゃあ、龍王様のところにお詣りしていくといい。それにしてもそちらの異人さん、立派な日本語話すねぇ。顔を見ないと日本人じゃないとわかんないぐらいだ」
老人はニコニコと頷いた。
「ありがとうございます。皆さんが丁寧に教えてくれるおかげです」

 怜子は、私は教えることなんてないよ、ルドヴィコの日本語も日本文化への造詣も、私が教えてもらうことの方が多いくらいだもの、と心の中でつぶやいた。

「こっちは長いのかい?」
「松江に来て6年です。その前は京都に2年ほどいました。日本語学校と和菓子の専門学校に行きました」

 すると老人は、わかったという顔をした。
「ああ、もしかして『たかはし』で始めた抹茶セットのお菓子作っている職人さんかい?」

「あ、和菓子を置いてくださっているの、ご存じですか? 私たち『石倉六角堂』に勤めていて、今日はせっかくなので『たかはし』さんでご飯食べてみたくて来たんです」

 怜子が言うと、老人はそうかそうかと頷いた。
「もちろん知っているさ。『たかはし』にはよく行くしね。先月の杜若の練りきり、美味かったね。あの紫と白と黄色の微妙な色の付け具合もよかったねぇ」

「ありがとうございます。この人のアイデアであのデザインにしたんです」
ルドヴィコは怜子を示した。

「そうかい。仲間うちでも評判よかったんだよ。君たちは、いいコンビなんだね」
ルドヴィコは、怜子も彼の菓子作りに寄与していることをことあるごとに表明してくれる。普段、賞賛されることのあまりない怜子にとっては、そうした状況は恥ずかしい一方でとても嬉しかった。

 バスは、茅葺きの小さな停留所の前に静かに停まった。ドアが開くと老人は運転手に礼を言って降りる。怜子とルドヴィコも続いた。バス停の50メートルほど先に樹木が色濃くなっている場所があり、老人はそちらにまっすぐ向かった。

 鬱蒼と茂った針葉樹林の間に氣づかぬほどの細い小径がある。いつの間にか上がった雨の雫でしっとりと濡れた石畳を老人はスタスタと通っていく。どこからか滝の音が響いてくる。2分ほど経つと唐突に林は終わり視界がが開けた。前方に音の源であった瀧と、こんな山奥には思いも寄らなかった立派な神社が見えた。村の家々は参道のように神社へ向かう石畳の道の左右に並んでいる。

「ええっ」
バス停の佇まいからもっと鄙びた村を想像していた怜子は思わず声を出してしまった。老人は、こうした反応には慣れているのか、クスッと笑った。ルドヴィコは、目を輝かせて瀧と立派な神社を眺めていた。日本オタクには堪えられない景色なのだろう。

「ほら、ここだ」
突然、老人が足を止めた。2人は神社に目を奪われたまま歩いていたのだが、指し示された方を見ると『お食事処 たかはし』という看板が目に入った。ランチセットは日替わりらしく扉の横の黒板に書いてある。島根牛のサイコロステーキも捨てがたいが、鯛のポワレのレモンバターソースという馴染みのない料理にも心が動く。

「ルドヴィコ。うわさ通り本当にオシャレなメニューだね。それに、全然高くないよ」
「そうですね。『おさがりスペシャル』って書いてありますが、何のことでしょう?」

「それは、撤下神饌てっかしんせん のことだよ。神社の供物、つまり神様が召し上がったものを分けていただくんだ。この村の飲食店では、龍王様のおさがりをこうして格安で提供するのだ。霊験あらたかだし、それに、摩利子さんの手にかかるとびっくりするくらい美味くなるんだよ」

 老人は、こう説明すると『たかはし』の扉を開いた。カランと音がする。
「摩利子さん、お客さんだよ」

 あの女性が2人を認めて笑顔になった。
「まあ、マセットさんたち! 来てくださったのね。ようこそ」

 そして、老人の方を見て頭を下げた。
「勝叔父さん、どうもありがとうございます。よかったらコーヒー飲んで行かれません?」
「そうしようかな。一はいるかい?」
「今、お社に行っています。お下がり品をいただきに。すぐ戻りますよ」

 老人は、ルドヴィコと怜子にニヤリと笑いかけた。
「実は、儂はこの摩利子さんの亭主、一の叔父なんだよ」

 店内は、白い壁と黒塗りの木材のシックなインテリアだった。カウンターの上に小さなふた付きのガラス円形ケースが置かれていて、中にはルドヴィコが作った上生菓子が飾られていた。怜子は嬉しくなって思わず歓声を上げた。

「とても評判いいのよ、『石倉六角堂』さんのお菓子。この和三盆も。ね、勝叔父さん」
コーヒーに和三盆を添えて運んできた摩利子が訊いた。

 高橋老人は、和三盆の打ち菓子をつまんで大きく頷いた。
「ああ、これもお宅の品だったのか。コーヒーにも入れるけれど、美味しくてついかじっちゃうんだよな。摩利子さん、せっかくだからコーヒーといっしょに、この異人さんの作った主菓子食べようかな。何がいいかな?」

 摩利子は、ケースを指して説明した。
「どれも美味しいけれど、今日のおすすめはこの紫陽花の水饅頭ね。そちらの渡辺さんのアイデアをマセットさんが形にしたんですって」
「じゃあ、それを」

 ルドヴィコと怜子は、鯛のポワレのランチを注文した。洒落た盛り付けに怜子は再び歓声を上げた。
「わあ、素敵。都会のフランス料理店みたい!」

「最近は、松江や出雲からもわざわざこの店目当てに来てくれる若い子も増えたんだよ。龍王様の参詣者も増えるし、儂らも鼻が高いよ」
高橋老人が言うと、摩利子はおかげさまでと笑った。

「こうした長い伝統のある村で革新的なお店のスタイルを始めるのは、勇氣がいりませんでしたか?」
ルドヴィコは摩利子に訊いた。

「そうね。はじめは様子を見ながら……だったかしら。もっとも、こちらは氣を遣っているつもりでも、何も知らずに大切な伝統を壊しかけたこともあったの。でも、ここにいる叔父さんをはじめとする村の人々がそれはまずいって教えてくれたから、それがストッパーにはなったかしら」

「儂らも、ここ出身の一がこれを始めたら止めたかもしれんが、東京から来た摩利子さんがすることだと頭ごなしには否定しないで、この程度なら悪くないと思い直すことも多かったね」
「だから、マセットさんが『石倉六角堂』さんに新風を起こすのも同じなんじゃないかしら」

「仲間と信頼し合って、そして、異邦人だからこその新風も取り入れて……ですね。たしかにそうかもしれない。怜子さん、どう思いますか?」
「うん。私もそう思う」

「伝統、伝統といっても、飛鳥時代から現代に至るまで、海外から入ってきたものをそれぞれ取り込んで現代の形にしてきたんだからなあ。新しい風を取り入れて少しずつ変わっていくこと自体が、日本古来の伝統的なやり方かもしれんな。儂らは、なかなか新しいことを取り入れられない石頭だけれど」

 そう言いながらも、高橋老人はコーヒーと一緒に水饅頭を楽しんでいる。怜子とルドヴィコ、そして摩利子は思わず顔を見合わせて微笑んだ。

(初出:2021年6月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

今年のトマト


トマト 2021

もう7、8年になりますが、毎年我が家でトマトを作っています。それも日本のトマトを。日本で売っている苗はもちろん入手できないので、タネからです。いくつかの日本の品種は、スイスでも一部の農家の方が作っていて、我が家の近くの有機農家も美味しい日本品種をウリの1つにしているんです。私がまいた種はそこから入手したわけではないんですけれど。

スイス原産でもわりと美味しい品種があって「Berner Rot」などが有名です。でも、私は日本人なので、今のところ日本のトマトだけ。

毎年、日本の方のブログで「トマトが収穫できたよ!」報告の記事を読むとき「えーっ、もう?」と思っていました。我が家のトマトはまだ花の蕾さえ見えていない状態だったからです。これには理由もあって、スイスの体感の季節は日本より1か月以上遅いのです。

でも、それにしても我が家のトマトの生長はいつも遅く、近くの農家が収穫する8月ごろにまだようやく花が咲いた感じ、収穫は寒くなるギリギリに始まり、霜の心配がでてくる10月頃になくなく緑のまま収穫して追熟する年ばかりでした。

これには理由があって、毎年5月に寒波が来るのでそれが終わるまでは苗を室内で育て、ついでに6月の旅行の時期まで様子を見ていたりしたからです。で、トマトの苗は、根っこがちゃんと広がる場所に植えない限りあまり大きくならないのです。

それで、今年は作戦を変えてみました。いつもより2ヶ月半ほど種まきを早くして1月に始めました。そして、4月の終わりにはかなり大きくなっていた苗をもう定位置に植えてしまったのです。案の定、それからはぐんぐんと育ち、いつもならそろそろ植え替えをする今の時期には、もうこんな立派な状態に育ちました。

トマト 2021

3段目くらいの花も出てきました。というわけで今年は、いつもより早くトマトが収穫できるはずです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -2-

『Filigrana 金細工の心』の15回目「《悲しみの姫君》」の後編です。

おそらく大半の方はお忘れかと思いますが、ライサが興味を持ったモーツァルトの『グラン・パルティータ』こと『セレナード第10番 変ロ長調』は、ライサに22がCDで何度も聴かせた曲です。それまで必要最小限しか客室から外に出てこなかったライサは、これをきっかけにチコらクルーたちと交流を深めていくことになるのでした。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(15)《悲しみの姫君》 -2-

 その日、控え室が他のグループで塞がっていたため、チコは普段は舞台に持ち込まないケースを演奏中椅子の下に置くことになった。案の定、演奏後に忘れて退出してしまった。それで、観客たちがいなくなった頃を見計らって舞台に取りに戻ってきた。

 誰もいないと思って入って来たが、舞台の側に見覚えのある濃紺のドレスの後ろ姿を見つけて驚いた。《悲しみの姫君》だ。こんなところでどうしたんだろう。チコの入って来た物音に振り向いたライサは、戸惑ったように目を伏せた。チコは、やはり忘れ物かと思い、丁寧に訊いた。
「あの、何かなくされたのですか」

「いえ、そうではなくて……」
ライサは非常に落ち着きなく下を向いていたが、やがて、顔をあげて訊いた。
「あの、今日のと同じブログラム、またやる予定があるのでしょうか」

「え? 『ナハトムジーク』ですか?」
「いえ、そちらではなくて……」
「『グラン・パルティータ』ですか。演奏時間が50分と長いので観客受けによると言われていますけれど……」
「そうですか……」

「お好きなんですか?」
そう訊くと、ライサははっとして、それから小さく頷いた。

 チコのような一介のクラリネット吹きは、出番の合間にそっと華やかな乗客たちの社交を眺めるだけだった。ライサもマリアも、それから他の乗客たちも会話をすることもなければ、2度と逢うこともないはずだった。それなのにチコはこれからライサを訪れようとしているのだった。『グラン・パルティータ』が取り持ってくれた縁だった。

* * *


 チコは携帯電話を取り出した。アズレージョに満ちた広いパティオは、忙しく歩くビジネスマンや、物珍しそうに写真を撮る観光客でごった返している。チコは小さな呼び出し音に耳を澄ました。電話が繋がった。チコはドギマギしながら名前を呼んだ。
「ライサ?」

「残念ながら、私はマリアよ。あなたは?」
「あ、すみません。僕、チコ・ピニェイロです」
「チコって、あの船に乗っていた、クラリネットの?」
「ええ、そうです。あの時は、どうも。ライサはいますか」
「待っていて」

 それから、マリアの「ライサ! 船の上のボーイフレンドから電話よ」という声が聞こえて、彼は真っ赤になった。ボーイフレンドだなんてとんでもない。でも、絶対に手の届かない雲の上の人でもないということが嬉しかった。

* * *


 演奏仲間のオットーやポール、ジュリア、それからそのボーイフレンドでサブチーフパーサーのニックといった親しい仲間たちを誘って、自由時間にライサたちの特別船室を訪れるようになったのは、『グラン・パルティータ』の演奏会から間もなくだった。ライサはプールやカジノなどに出かけることもなく船室に閉じこもることが多かったので、マリアが心配してライサが唯一興味を持った演奏家たちに声を掛けたのだ。

 寄港地で素早くスーパーに走り、様々な食材を買い込んでは、特別室のキッチンで郷土料理を作り、土地のワインで乾杯をした。マリアは時々ルームサービスもとってくれた。
「あの堅苦しいメイン・ダイニング、私も疲れるの。だから、何回かに1度は、ここであなたたちと食べる方がいいわ」
マリアがウィンクをした。

バルコニーで潮風に当たっているライサに、チコはシャンパンにオレンジジュースを加えたミモザを作って持っていった。
「ありがとう」
「僕たち、騒がしすぎるんじゃないか。君のようなお姫様には下品さに我慢ならないこともあるんじゃないかい」

 ライサは首を振った。
「私はお姫様じゃないわ。この船室にふさわしいレディでもないの」

「でも、どうやって、こんなすごい特別室の代金を?」
ライサは答えなかった。海をみながらため息をついた。
「海外旅行をしてみたいと言っただけなの」

 詳しい理由を訊かないでほしいという響きがあった。チコはライサを困らせたくなかった。それで、海を眺めるライサと同じ方を、どこまでも続く大海原と遠くにぽつりと浮かぶいくつかの雲を黙って眺めていた。

 それは心地よい沈黙だった。ライサがいつもよりリラックスしているのがわかった。それから何かを考えているのが、おそらく大切な何かを思いだしているのを感じた。

「ねえ。チコ。また吹いてちょうだい。あの、アダージオを」
「アダージオって、『グラン・パルティータ』の?」
「ええ。もう一度聴きたいの」
「じゃあ、クラリネットを取りに行かなくちゃ」
「え」

 ライサはとても戸惑った顔をした。
「ごめんなさい。今すぐじゃなくていいの。わがままを言ってごめんなさい」

 チコは目を伏せたライサの横顔を見つめた。潮風が彼女の細い髪をゆっくりと泳がせていた。透き通るような肌はゆっくりと暮れはじめた夕陽の色に染まっていく。

「ライサ。それはわがままじゃないよ。僕は嬉しいんだ。君を笑顔に出来るものがダイヤモンドや毛皮だったら、僕にはどうすることも出来ない。でも、僕のクラリネットが君を幸せにできるなら、何時間でも吹くよ」

 ライサは不思議そうに彼を見た。
「あなたは、どうしてそんなに親切なの?」

 チコは笑った。
「なぜかな。僕だって、誰にでも親切なわけじゃないんだよ」
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 約定

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


「scriviamo! 2021」の第9弾、ラストの作品です。TOM-Fさんは、「天文部シリーズ」シリーズの掌編でご参加いただきました。ありがとうございます!


 TOM−Fさんの書いてくださった「この星空の向こうに Sign04.ライラ・アークライト オブ ザ  スカイ

TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。フィジックス・エンターテイメント『エヴェレットの世界』は、無事完結、現在は次の長編に向けて、準備中とのこと楽しみですね。

「scriviamo!」には皆勤してくださり、毎回趣向を凝らした名作でご参加くださっています。そして、毎回めちゃくちゃ難しいのですけれど、今年の難しさは例年と違うところにありまして……。最愛のキャラの渾身のエピソードでご参加なのですよ。いや、他にも大切なキャラでご参加くださったことは多々あるのですけれど、今回の作品は最愛のキャラをここまで痛めつけるかという、TOM−FさんのドSぶりを遺憾なく発揮されていて、いや、これに適当なキャラでお茶を濁すお返しはナシでしょう……みたいな。

それで、こちらも最愛キャラ(の前世だけど)を持ってくることにしました。しかも、同じくらい虐めている……ええと、いや、そうでもないか。しかし、TOM−Fさんがご自分の作品について「イタい」とおっしゃっている以上に、めっちゃイタい仕上がりになっています。あと、男が病で死んじゃうのと、男が死んだ女に囚われているのもあちらの作品と同じ。

いや、合わせてそう書いたのではなく、もともとそういう構想でして。今回のこれ、バリバリの本編で、しかも終わりから2番目くらいのところにあるべき話をいきなり書いてしまいました。ええ、TOM−Fさんのお話を読んでから「いきなり(ほぼ)最終回」を書くことにしたんです。

最終回の手前ですから、主要キャラたちの行く末が全バレです。ここまでとんでもないネタバレはさすがに普段はしませんが、この話に限ってははじめから主人公が野垂れ死にすることを公表しているので、これでいいかなと。この話、いずれ途中を書いたら、記事の順番を調整してこれがちゃんとおしまいの方に来るようにしたいと思っています。でも、ほら、もう書かないかも知れませんしね〜。(根の国のシーンが大変そうで筆が進まないという説も)


「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」

「scriviamo! 2021」について
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樋水龍神縁起 東国放浪記
約定
——Special thanks to TOM−F-san


 開け放たれた鳥居障子の向こうに垂れ込めた雲が見えた。萱は、平伏する次郎から眼をそらし、その雲間より逃れた一条の光が、若狭の海に差して煌めくのを眺めた。
 
 安達春昌の忠実な従者である次郎が、ひとりでこの若狭を訪れるということが意味することは一つだった。久しぶりに次郎の顔を見て喜んだ三根もまた、その意を解して泣きながら萱に伝えに来た。

 訊けば、春昌はここ数年東国を彷徨い、伊勢の近くで流行り病で亡くなったという。廃寺の境内に主人を埋め、次郎は生まれ故郷の奥出雲へ戻る途上であった。

 かつて春昌は、いま次郎が座る位置のすぐ後ろの廂板間に座っていた。あれは何年前のことだろう。昨日のことのように鮮やかに脳裏をよぎるが、昔語りになってしまった。

「わざわざ報せにきてくれたこと、礼を申します。春昌様は、何かおっしゃられたのか」
萱は、頭を上げるように言ってから問うた。次郎は、わざわざ人払いを願い出た。何か伝えることがあるのだろう。

「お隠れになる二日ほど前のことでございました。こちらでお世話になったことを語られたとき、こうおっしゃいました。『誓いは果たしたと、萱どのに伝えてほしい』と」

 萱は、こみ上げるものを押さえつけた。神罰に全てを捨てて彷徨うかつての陰陽師を、それまで以上に苦しめることになった約定を、萱もまた忘れたことはなかった。これからも生き続ける限り忘れないだろう。

* * *


 それは、あの月夜のことだった。春昌は廂の板間に座り、若狭の海に揺れる月影を眺めていた。次郎は三根のもとに行き、佐代や岩次も下がり、萱はひとり春昌の杯を満たしていた。

 献上品となる濱醤醢を造る『室菱』の元締めとして、女だてらに重責を担う萱は、長らくふさわしき婿取りを期待され続けてきた。父に婿になることを所望された若衆が海難に遭い、間もなく父も急死したため、図らずも若くして元締めになった萱には、これまで婿探しをしている時間などなかった。

 何年か前より子細ありげな貧しい貴人、安達春昌とその従者次郎が滞在するようになって以来、古くからの使用人たちはこの貴人と萱との縁組みを期待するようになった。特に、萱の従妹である夏姫を巻き込んだ怪異を、春昌がみごとに祓い、かつて殿上すら許されていた陰陽師であったことが知れると、彼らの期待はさらに強くなった。それどころか若狭小浜の商い人たちも、もはやそれが決まったことのように噂するようになっていた。

 ところが、当人同士が話を進める兆しを全く見せないので、業を煮やした使用人たちがあえて場を離れ、次郎を主人から引き離して、春昌と萱がふたりきりになるよう骨を折っていたのである。

 萱は、彼らの願いは十分に承知していたものの、そのようなことは到底あるまいと心を定めていた。他の者らは、春昌と樋水龍王神社の御巫瑠璃媛の死にまつわる因果を知らなかったし、萱と播州屋惣太との深い因縁を春昌が承知していることも氣づいていなかったのである。

 萱と春昌はもはや、釣り合う似合いの男女、もしくは惚れた腫れたの始まりを探り合うがごとき浅い仲ではなかった。影患いの果てに生成りとなった惣太の妻に萱代わりに祟られた夏を救うため、萱は春昌と共に、根の国を訪れることとなった。ふたりはそこでこの世ならぬものと対峙した。そして、そこで不本意ながら、もっとも知られたくない心の一番奥にある悼みを晒すことになってしまった。

 十六夜の月は穏やかに輝き、若狭の海はいつになく凪いでいた。微かな風が、春昌の鬢からこぼれた髪をそよがせている。根の国で亡者に囲まれ二度と現し世に戻れぬことを覚悟したとき、彼は萱を守らんと全霊を尽くし半ば鬼と化した。その彼の姿は夢のように遠く想われた。

 彼は、萱が生涯をかけて愛し求めた男ではない。そして、彼にとってたったひとりの宿命の女は萱などではない。彼が奥出雲の地で禁忌を犯し、そのために名聞はなれ彷徨い生きていることも知っている。けれども、そうした全ての情状は現し世にのみ存り、根の国の在り様とは何ひとつ関わりなきことであった。萱は、神意も天罰も愛欲も恩讐も全て手放し、ただ彼と共に、かの黄金に輝く七色の光の中に溶け込んで消えていきたかった。

 こうして現し世に舞い戻り、またそれぞれの情状を抱えた者に分かれて座っていることに、違和感が拭えない。夢の続きのごとく、合うさきるよそ事に思える。春昌様も、同じように感じておられるのであろうか。萱は、穏やかな彼の横顔を見ながら考えた。それとも、この方にとって、あのような神事象の見聞は、明暮のことなのやもしれぬ。

 誰よりも近く、誰よりも頼りになると感じられた男が、現し世ではこれほどに遠く感じられる。身分と立場が、そして、お互いの持つ深い業と過去が、ふたりの間に大きな楔を打ち込んでいる。『室菱』の者らにも、おそらく春昌を知り尽くした次郎にも見えてはいない、まがう事なき隔たりを萱は感じている。この男とひとつになれるのは、あの七色の光の中でだけなのだと。

 ふたりとも、言葉にしてその様な語りは何もしない。ただ、周りの期待には応えられないことを、お互いが誰よりもわかっていた。怖ろしいほどに穏やかな月夜だった。

「そういえば、弥栄丸から便りがございました。来月、夏と共にこちらに参るそうでございます。ふたりとも一日も早く春昌様にお目にかかって御礼を申し上げたいと、心はやっている様子でした」
萱は、丹後の屋敷に戻っている夏の様子を知らせた。あのふたりが夫婦になることを夏の父親もついに許したらしい。

 春昌は、夏の話をするときにいつも見せる幼子を愛おしむような微笑みを見せて答えた。
「夏どのがこちらに戻られる頃には、私はもう居りませぬ。よろしくお伝えください」
「どうしてですか」
「月が明ける前に、出立する心づもりでおります」

 これから冬になるというのに、なぜいま苦しい旅に出ようとするのだろう。
「春昌様。春をお待ちください。これからの山越えはおつらいでしょう」

 彼は、顔を向けて萱に冷たい一瞥を与えた。ひどい冷氣が下りたかと思うほど空氣が変わった。春昌の全身が例の青紫の氣焰に覆われていた。
「だから行くのだ。ここで心地よい冬を過ごしたりせぬように」

 はじめてその氣焰を感じたとき、萱は何か禍々しきものに触れたのかと、ひどく怖れたものだ。だが、彼女はもうそれに恐れを感じることはなかった。それは、癒やされることのない痛みと己れすらを許さぬ怒りが生み出す彼の業そのものだからだ。彼女は、彼の心の痛みに耐えかねて、思わずその掌を彼に向けた。

 すると、不思議なことが起こった。あの根の国で見たのと同じ、彼女自身の黄色い氣焰が掌で暖かい色に輝きぶつかった彼の氣焰の色を変えたのだ。

 萱は長いこと、自らの氣焰も含めて、この世ではないものを見ることをやめていた。自分にはその様なことはできないのだと思っていた。かつて媛巫女瑠璃に、樋水龍王神の御前に連れて行かれたときも、偉大なる巫女の権能が彼女に特別なものを見せたのだと思い込んでいた。

 だが、それは、萱自身の『見える者』としての力だった。春昌と共に訪れた根の国で、彼女は再び樋水龍王神の御姿を拝し、禍つ神を浄める媛巫女に比肩する伎倆を手にしたのだ。

 全ては収まるべきところに収まった。萱は現し世に戻り、商いには不要なその特別な力はもう使うこともないと思っていた。

 それなのに、なんということであろう。かつて己をあれほど怖れおののかせたあの氣焰を、自ら触れるだけで消している。

 掌はまだ服の上にも達していないが、萱の掌から溢れる暖黄色の光は、春昌の外側に纏いつく青紫の氣焰を、触れたところから次々と春の若萌え草のような明るく心地よい氣に変えていった。

 だが春昌は、萱がしようとしていることを見て取ると、身を引き、苦しそうに顔をゆがめて言った。
「やめてくれ、浄めるな。頼む」

 萱は、動きを止め、わずかに後方へ下がった。青紫の氣の焰はまだ春昌の周りに燃えていた。若緑に変わりだしていた氣も、やがて再びその青紫に打ち消されて消えていった。

「すまぬ」
春昌は、絞り出すように言った。
「無駄なのだ。一刻、すべてを浄めても、またこの業が勝る。奥田の秘め蓮の池も、権現の瀧も、若狭姫大神の神水も、どうすることもできなかった。私が生き続ける限り、これは消えはせぬ」

「春昌様」
「夏どのを救うためには、そなたの力を借りる他はなかった。だが、そなたの眠れる力をあのような形で目覚めさせたのは、忌むべき咎だ。ましてや、そなたをこの呪われた業に巻き込むわけにはいかぬ。呪われ黄泉へ引きずり込まれるべきはこの身だったのだ。媛巫女ではない。憐れな次郎でもない。そして、そなたでもないのだ」

「想ってはならぬ方を想うことが呪われた業ならば、この身はとうに奈落に落ちております」
萱は、わずかに震えながらも、はっきりと口にした。

 惣太の妻を恨みの鬼にし、影患いに追い込んでしまったのは、他でもない自らの業だ。たとえ全てが終わった今となっても、神罰を受けることはなくとも、その事実を変えることはできない。

 春昌は、わずかに顔の険しさを緩めた。否定しないことが、彼が萱の言い分を認めていることを示している。

「春昌様。苦しまれるあなた様を、同じ浄めの力を持つ私の元へと導かれたのは、媛巫女様だとお思いになりませぬか」

 夏のように、三根のように、すべてを投げ打ち想いのままに慕う相手の胸に飛び込むことは、萱にはできない。自らが媛巫女に立ち替わる存在だとうぬぼれているわけでもない。だが、せめて一刻でもかまわない。私にできることをさせてくださいませ。萱は祈るように春昌を見つめた。

「媛巫女の真似事はそなたの本分ではない。その様なことを度々すれば、すぐに周りにこの世ならぬものが集い、身動きが取れなくなる。心を煩わさずに、そなたの定めを生きよ」
「そして、あなた様おひとりで、全ての苦しみを背負われるおつもりですか。せめて、ここにおられる間だけでも、重荷を下ろして楽におなりくださいませ」

 春昌は、月から視線を移し萱を見た。
「楽になどならなくていいのだ。ここで安らぎを得るのも過ちだ。私は赦しの道を探しているわけではないのだから」

 揺るぎのない強い光を放つ瞳を見て、彼女はこの男が彷徨いながら探しているものが何かを理解してしまった。嘆きせめぐその魂は、もはやなんの希望をも持っていなかった。

 萱は彼を救うことができない。彼の願いはひとつだけなのだ。呪われた身を横たえ二度と目覚めぬこと。罪に穢れた屍を受け入れてくれる土地神を探すこと。

「そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ」
絶望に打ちひしがれて、萱は伏した。

 彼は女の涙には揺るがなかった。一刻も早くここを去ろうとするのは、大きくなりすぎた萱との縁を断ち切るためなのだ。

「萱どの。そなたは、私と次郎に善く尽くしてくれた。その恩に報いることのできるものを私は何ひとつ持たぬ。だが、もし、私の力でそなたの恩に報いることができるのならば、どんなことでも願い出てほしい」

 萱はたったひとつの願い事をした。それが、春昌が果たしたという約定だった。

* * *


 萱は、紙に包まれた一房の髪を手に取った。別れ際に見た彼の髪にこれほど白いものは目立っていなかった。伊勢にたどり着くまでに、どれほどの新たな苦しみを抱いたのであろう。目の前の次郎もまた、少し歳をとった。だが、故郷へ戻る彼の氣焔には、以前よりも朗らかで暖かいものがにじみ出ている。

「次郎どの。春昌様のお言葉をお伝えくださり、誠にありがとう存じます。また、大切なご遺髪をお譲りいただき、謝するにふさわしき言葉もございません」

 次郎は、声を詰まらせながら、萱の心を慮った言葉を綴った。この春昌と媛巫女に忠実な侍者が、わざわざ伝えに来たのだから、春昌が我が身を忘れなかったのもまことであろうと思った。次郎や、他の者が思っているのとは違うとはいえ、確かに彼と萱は特別な縁で結ばれていた。

 そして、次郎もまた、この若狭で、長く苦しい旅に値する縁を見いだしたのだろう。
「次郎どの。あなた様と三根のこと、私に一切遠慮をなさらぬように。三根の恩義はもう十分に返してもらいました。どこへ行こうとあの者の心のままです」

 次郎は、萱に許しを願い出る時機を迷っていたのであろう。顔を真っ赤にして、また畳に何度も頭をこすりつけた。

 遠からず、次郎は新しい旅の道連れと、奥出雲への旅路に出るであろう。たち止まり根を張ることも、赦され安らかに生きることもない、終わりの見えなかった旅は終わろうとしている。誤って大切な媛巫女を死なせた苦しみは、彼の主人が全て背負い、伊勢の弔うものもない廃寺で朽ちていこうとしている。

 次郎が下がった後、萱はかの板間に座り、春昌の遺髪を今ひとたび見つめた。それはすでに魂なき物であった。青紫の氣焔も、若緑のそれも、もはや感じることはなかった。彼の願い、せめぎ苦しんでいた魂の渇望は、ようやく成就したのだ。萱が言霊で縛り付けた、長い苦しみの果てに。

 萱が彼に願ったのはたった一つだった。
「生き続けてくださいませ。決して自尽はなさらないでくださいませ」

 彼は、萱の残酷な願いを了承した。流行り病で命を落とすまで、彷徨い生き続けた。そして、いま萱は、彼のいない現し世に虚しくひとり立っている。

 忙しく働く使用人たちの声が耳に入る。萱は、遺髪の包まれた紙をそっと胸元にしまうと、立ち上がり表へと向かう。もう一度若狭の海を振り仰いでから襖戸を閉めた。

(初出:2021年3月 書き下ろし)

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月夜の語らいのイメージ曲は、萱のキャラクター紹介でも貼り付けたのですけれど、せっかくなのでもう一度。

上妻宏光 風林火山~月冴ゆ夜~

おまけです。次郎の帰りの旅のイメージソングを。「君」の意味がいくつかあったりして。

あの頃へ / 安全地帯
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