【創作 語ろう】名作よりも
実は、『12ヶ月の店』の9月分を発表する予定でいたのですが、先週末に客に3泊もされて仕上げられませんでした。なので急遽こちらを先にアップします。
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名作よりも……
実は、このテーマを考えたときには、某文豪の作品にイチャモンをつけるつもりでいたんですよ。明治を代表する作家の一人の超有名作品で、国語の教科書に載っていたので、授業で読まされました。おそらく個人的な体験を作品にしたんではないかと言われています。文語調の文章を口語に訳す授業で、先生は淡々と授業を進めていましたが、私は一人称で語る主人公に子供ながらも「なんだこいつ」と思っておりました。女をもてあそんで捨てたというだけの話なのに、最終的に人のせいにしているぞ……と。
でも、その話題を書いても、他の方が反応しにくいかも……と思って、これから書く本日の話題の方を書くことにしました。
好きな映画を訊かれると、私はいつも口ごもります。とくに映画の好きな方にはこの質問はしてほしくないと思うのです。なぜなら、私が好きな作品はたいていB級大衆作品だからです。映画の好きな方には「え、それ?」という顔を必ずされてしまうタイプの作品が好きなんですよ。
たとえば『2001年宇宙の旅』という作品があります。スタンリー・キューブリックの製作・監督したSF映画の中では金字塔といわれる作品で、多くの映画ファンから高評価を得ています。そして、その続編という位置づけで『2010年』というピーター・ハイアムズ監督作品があって、そちらの方は『2001年宇宙の旅』ほどの評価は受けていないんですよ。ところが、私は圧倒的に『2010年』の方が好きなんです。
正直に言いましょう、『2001年』の方は、何が何だかわからなくて、さらにいうと私はホラー系が苦手なんです。つまり1度観て、2度と観たいとは思わなかったのです。でも、『2010年』の方はDVD買ってスイスまで持ってきていたりします。
実際の2010年にはApple IIcを使っている博士なんていないし、ソ連もないし、木星も恒星化したりはしませんでしたが、そんなことはどうでもいいのです。『2001年』と比較して芸術性という意味では著しく劣るということも、そうなんでしょうが、それも私にとってはどうでもいいのです。
要するに、私はメッセージ、物語などが明白で、何か希望の持てる結末のある、わかりやすい映画が好きなんですよね。『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』が好きなどといっている時点で、バレバレでしょうけれど。
今は映画をほとんど観なくなってしまったので、最近の作品ではあまり具体的な例は挙げられないのですけれど、子供の頃に大好きだった作品は『プロジェクトA』『スター・ウォーズ(IV新たなる希望)』『ルパン三世カリオストロの城』『(ジーン・ケリーの)雨に唄えば』といったわかりやすい映画ばかりでした。
芸術的な作品は、おそらく今でもあまり興味がないです。それに現代の技術で可能な素晴らしい映像とは全く違うのはわかっていますが、それでも私はかつて夢中になったタイプの作品の方がより琴線に触れるタイプのようです。『スター・ウォーズ』も近年公開された作品もいくつか観ましたが、やはり第1作(IV新たなる希望)が一番好きなんですよね。
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Heimweh(望郷の想い)

海外に住んでいると「日本に対してホームシックにならない?」とかなりの頻度で訊かれます。大体は「そうでもない」「インターネットも以前と比べて発達しているし」というような当たり障りのない返事をするのですけれど、その背景にはもっと違う事情が潜んでいます。でも、「きっとこの国の人に話しても簡単にはわかってもらえない」もしくは「説明が難しい」ので、あえてそんな回答をしているのです。
ドイツ語で「Heimweh」という言葉は、文字通りに訳すと「故郷への痛み」です。そして、私は時折そうした感情を持つことがあります。でも、それは、航空チケットを買ってひとっ飛びして現存している日本国に降りたっても癒やすことのできない痛みなのです。
例えばこんなことです。時代劇のテーマの動画を検索していたら『大岡越前のテーマ』動画に行き着きました。それを聴いていたら、居ても立ってもいられない想いにとらわれてしまいました。
前回の記事でも書いたように、私がより好んでいたタイプの時代劇は、『暴れん坊将軍』や『水戸黄門』『遠山の金さん』タイプで、『大岡越前』も好きでしたが、どちらかというと当時の私には大人向けのしっとりとした内容で、何が何でも観る番組ではなかったのです。
でも、母はかなり好きだったようで、一緒に並んでみていた記憶があります。冬だとこたつみかんで、1時間ほど一緒に座っていたと思います。その記憶そのものが、私に帰りたいけれど帰れない故郷を想起させたのでしょうね。
スイス人であるわが連れ合いは、大好きなアフリカで何ヶ月も旅をしている間に、たまたまラジオなどでアルプホルンを聴いただけで泣けてきたといいました。普段アルプホルンなどはどちらかというと小馬鹿にした感じのあるタイプであるにもかかわらずです。私は、もちろん、アルプホルンをどこで聴こうと泣きたい思いになどなることはありません。たぶん、この感覚が、私が『大岡越前のテーマ』に対して条件反射的に感じてしまった想いの正体なのだと思います。
ブラウン管のテレビ、和室、『大岡越前』一緒に見ていた母親、当時は特に帰るのが嬉しかったわけでもなかったあの家。どれもがもう存在しません。
いま、私が成田空港に降り立っても「あと2時間ほどすれば帰ることができる」と思う場所はどこにもありません。めまぐるしく変わる東京は知らない建物ばかりで、風景に懐かしさを感じることもありません。
きっと、どうやっても戻ることはできない、二度と目にすることのできないあの時代への想いが、私にとってのHeimwehなのでしょうね。
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【小説】Filigrana 金細工の心(22)書斎
前回、キャットファイトを期待されていた方々には驚かれてしまったアントニアですが、今回はさらに「あれれ」な行動に出ています。しかも、それが2度目だというのがこの章で明らかになります。
よく考えたら、この話もそろそろ終わりだなあ。次の連載の準備は、全く終わっていないんだけれど、どうなるのかしら……。
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Filigrana 金細工の心(22)書斎
アントニアは、ドラガォンの当主の書斎に座っていた。表向きは現在と同じ名を持つここの主が、彼女の弟ではなくて兄だった頃、彼女は同じようにこうして座っていたことがある。兄アルフォンソは、影のように控え立つアントニオ・メネゼスに「母上にサントス先生からの手紙を手渡してほしい」と告げた。
メネゼスは、一瞬の間を空けたが、特に何も言わずに手紙を受け取り頭を下げて部屋を出た。それは、手紙をマヌエラが読むときにほかの人に知られぬように配慮しろとの意にも受け取れたが、明らかに人払いであったと今のアントニアは思う。
アントニアはインファンタとして生きてきた。《監視人たち》に知られずには、何ひとつできないことをよく理解していた。それは細やかな心の襞ですら例外ではなかった。
アントニアは、当主ドン・アルフォンソが、自分の心を慮ってくれるなどみじんも期待していなかったので、彼の意図に思い至ったときには涙がこぼれた。それほどに、ドン・アルフォンソは、多くの決断と苦悩、そして、壊れそうな自らの体を奮い立たせる戦いの中で、周りに対する氣遣いを忘れなかった。それはアントニアに対する氣遣いだけではなく、耳にして黙っていることを役割上許されないメネゼスの心をも慮っての行動だっただろう。
サントス医師からの手紙は、『ボアヴィスタ通りの館』で療養中のライサ・モタの健康状態に対する最終報告だった。すなわち、彼女の精神状態は可能な限りの回復をし、これ以上の治療でも迅速な回復は見込めないため、今後のことは当主ドン・アルフォンソの決定に委ねられた。
ライサ・モタは、ドラガォンの掟に基づく1年間の拘束期間を終えていなかった。《青い星を持つ男》と一緒になった《赤い星を持つ女》は出産するか1年間の拘束期間を終了すれば、本人の意思で将来のことを決定することができた。だが、流産と精神疾患のために中断された期間は、その1年間に加算することはできない。当主が特に何も決定しなければ、彼女は掟により再び24の居住区に戻されて残りの拘束期間を過ごすことを強要される。アントニアがその場に呼ばれたのは、アルフォンソが最終決定の前に、直接ライサを身近で見ている妹の言葉を聞きたいからだろうと思っていた。
「サントス先生、それから『ボアヴィスタ通りの館』詰めのモラエスからも、おなじ報告が上がっている。お前もライサの健康状態に関する意見は相違ないか」
アントニアは頷いた。
「ええ。起きている間に錯乱することはもうないと思うわ。もちろん、この屋敷、とくにあそこでどう反応するかは、保証の限りではないけれど」
「心配するな。サントス先生の報告書にも、トラウマの元凶に近づけないことが大前提だとある。24の元に戻させる選択肢は、これで消すことができる」
「じゃあ、何が問題なの?」
「モラエスから《好ましくない兆し》の報告が上がっている」
アルフォンソは、淡々と口にした。アントニアは、視線をそらした。当然だ。しょっちゅう館を留守にするアントニアもわかるほどの変化を《監視人たち》中枢組織幹部であるモラエスが見逃すはずはない。
《監視人たち》の報告内容は《兆し》と呼ばれる事実観察を列挙することで成り立っている。特に重要なのは、《青い星を持つ男》とまだ選ばれていない《赤い星を持つ女》が、好意を持って近づいていくことを意味する《好ましい兆し》と、掟に背く方向に向かう《好ましくない兆し》の2つだ。『ボアヴィスタ通りの館』で話題になる《好ましくない兆し》とは、インファンテ322とすでに選ばれた《赤い星を持つ女》ライサ・モタの接近のことだ。
「心配は要らないと思うわ。ライサが預けられて以来、24時間体制の監視になっているじゃない」
アントニアは、言葉を選んだ。
「《好ましくない兆し》そのものについては、否定しないんだな」
アルフォンソの口調にはっとして、アントニアは兄の顔を見た。
「……しないわ」
「では、やはり早く対処した方がいいだろうな」
アルフォンソの言葉に、アントニアは首を振った。
「どうして。叔父様は、あの性格ですもの。間違いを犯したりはなさらないわ。それに、ライサはどんな男性にも触れることができないのよ」
アルフォンソはじっと妹の顔を見ていた。アントニアは、小さくつぶやいた。
「叔父様は、幸福なの。手は届かなくても、側に居て、同じ時間を過ごすだけでも、幸せなのよ。わかるでしょう、アルフォンソ」
「お前が、そう言うとはな」
アルフォンソはため息をついた。アントニアは、瞼を閉じた。
「しかたないじゃない。……私には、叔父様をあんな風に幸せにして差し上げられないのだから」
「アントニア。もちろん私も叔父上の幸せを願っている。父上があの方にしたことを償いたいという思いもお前と同じだ。同様に、ライサに対しても24とシステムによって引き起こされた間違いを償いたいと願っている。……だが、私は、当主だ。贖罪のためにシステムをゆがめるつもりはない。わかってくれ」
同じ場所に座って、アントニアは兄の言葉を考えていた。ドアが開き、弟のドン・アルフォンソが入ってきた。かつては後ろで1つに結んでいた髪を切り、兄と同じ上着を身につけるようになったとはいえ、23と呼ばれていた頃と変わらぬ足取りはアントニアをホッとさせる。
「すまない。待たせた」
「いいえ。忙しいのに無理して時間を作ってもらったのは私だもの。メネゼスは?」
アントニアは訝って訊いた。当主になって間もない弟と自分が2人きりで話をさせてもらえるとは思ってもいなかったからだ。
「24に呼ばれて行った。もっともすぐに戻って来るはずだから、急いだ方がいいぞ」
今度は偶然に味方してもらったのかと、アントニアは思った。
「聞かれても構わないと思って来たんだけれどね。ライサ・モタのことで話があるの。彼女に未だについている《監視人たち》から報告があったと思うんだけれど」
「ああ、『ボアヴィスタ通りの館』の外によく来ているらしいな。お前と話をしたと報告がきていたが、そのことか」
「ええ」
兄アルフォンソが、あえてした決断をもう一度考え直してもらうよう、アントニアはもう1人のドン・アルフォンソである23に請いに来たのだ。
「『ボアヴィスタ通りの館』のルシアがまもなく結婚するのは知っているでしょう。それで、後任の候補について提案したいことがあるの」
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時代劇音楽は殺陣シーンがベスト
すでに何度か冗談小説を書いたり、記事で公言しているのでご存じの方もあるかと思いますが、私は昭和の時代劇が大好きです。
昭和の時代劇のファンといっても、ざっくり分けると3タイプがあって、これを間違えると同じようにキャーキャー騒げないなと思っているんですけれど、それはこんな感じです。
- 『鬼平犯科帳』『大岡越前』系の重厚で荒唐無稽ではないタイプ
- あり得ない設定つきで楽しむ系
『暴れん坊将軍』『遠山の金さん』『水戸黄門』『3匹が斬る』など - 『必殺』
なぜ『必殺』を分けたかというと、どういうわけか「『必殺』以外は興味なし」というタイプのファンが一定数いるから。どんなお好みもその人次第ですし、それに対して説得をしようなどとは思いません。でも、私も『必殺』は好きでしたけれど、他のよりもずっと好きということはなかったな。
そして、おわかりのように、私にとっての「昭和の時代劇」には、NHK大河ドラマや、年末の定番『忠臣蔵』は入っていません。あれはあれで好きですけれど、私にとってはあれは言うなればジャズとボサノヴァくらいにジャンルの異なるエンターテーメントなので、今日の話題とは関係ないということで。
で、本題。私の好きな『昭和の時代劇』のほとんどは上の「2. あり得ない設定つきで楽しむ系」です。8代将軍が火消しのところで居候したり、天下の副将軍が全国行脚して悪代官を懲らしめて回るなんて、小学生の私だってあり得ないと知っていましたよ。それでも、あれはそういうものとして楽しめばいい、そういう世界です。で、一番大切なのが、だいたい40分くらいから始まる殺陣シーンなんですよ。「であえ、であえ!」のシーンですね。
そのシーンには、音楽もとても重要です。例えば、この曲なしに上様は立ち回れません。
この曲、わざわざiTunes Storeで購入しましたが「IIII-43(暴れん坊将軍)」なる素っ気ないタイトルがついています。もう1つ、購入した『三匹が斬る』の殺陣シーンも「5-M-05_B(三匹が斬る)」だそうで(笑)
時代劇というとオープニングの方が有名なのですけれど、殺陣シーンは個人的に氣分が上がる曲が多いです。 CDの時代は、「こんな細かいシーンのBGMまでは要らないよなあ」という理由で購入しなかった時代劇BGMですが、こうして1曲ずつ買えるようになったので、ときどき喜んで購入ダウンロードしています。
そして、購入したからには、以前から持っている『大江戸捜査網のテーマ』やら『鬼平犯科帳』のエンディングに使われたGipsy Kingsの「Inspiration」とともに「マイ時代劇プレイリスト」としてiPhoneに入れて時おり聴いております。
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【小説】Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -2-
屋敷の外でウロウロしていたライサと話すために『ボアヴィスタ通りの館』から出てきたアントニア。ライサの腕輪が外されて以来、はじめてのコンタクトになります。もちろんその間もライサはしっかりと監視はされていたわけですが……。
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Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -2-
アントニアは、モラエスに小さな声で頼んだ。
「どこか静かなところで話したいわ」
「かしこまりました。ミニャ・セニョーラ」
外部の者に聞かれたくない話をするには、このまま応接室に連れて行くのが一番早い。だが、腕輪を外されたライサは『ボアヴィスタ通りの館』に足を踏み入れることはできない。モラエスはすぐに小さなホテル・レストランの個室を手配し《監視人たち》中枢部から車を手配してくれた。助手席から降りてきたのはペドロ・ソアレスだ。アントニアは微笑みながら、怯えるライサの手を取り安心させた。
そのレストランを、すでにアントニアは何度も使ったことがあった。ソアレスは、いつも《監視人たち》中枢組織幹部がそうするように、個室の片隅に座った。そこは、個室の入り口に近く、誰か近づいてくればすぐにわかりアントニアに目配せをすることが出来る位置だ。そして、もちろんアントニアとライサの会話をしっかりと聞くこともできる。
「久しぶりね。ライサ」
コーヒーをかき混ぜながら、彼女は微笑んだ。動揺したままのライサは、コーヒーをスプーンでかき回すのもやっとの様子でいた。
「ミニャ・セニョーラ。もうしわけありません。お屋敷の周りをウロウロしたりして……」
「謝る必要はないわ。あなたは禁じられたことは何もしていないもの。もちろんあの通りを自由に歩いていいのよ。どこで止まるのも、あなたの自由だわ」
「でも……」
ライサは、困ったようにアントニアの顔を見た。ここに連れてこられたということは、問題視されているからだと思っている。実際は、中枢部ではこの行動についての議案はまだ1度も上がっていなかった。
報告がきたのは、むしろ妹マリア・モタの言動に関するいくつかの報告書で、若干問題視すべき発言がいくつか見られるものの、その内容を吟味すると、むしろライサ・モタが沈黙の誓約を遵守していることが明らかになり、《監視人たち》中枢部ももとくに行動を起こさないと決定していた。
アントニアは、いつもライサを安堵させる微笑みをみせたまま言った。
「心配しないで。ただ、あなたがあれからどうしているのか、せっかくだから聞きたかっただけなの。もう腕輪も外されたことだし、私たちとは2度と関わりたくないなら、はっきりそう言ってくれていいのよ。でも、あそこに来るということは、そういうわけでもないと思ったの」
ライサは、ほんの少しだけ警戒を緩めたようだった。しばらく俯きながら言葉を探していたが、やがて、小さな声を出した。
「腕輪……子供の頃から、あれがなければいいと、ずっと思っていました」
アントニアは、肯定も否定もせずに微笑んだ。ライサは左手首をそっと右手で触った。
「腕輪があるから、許されないことがたくさんあって、選択も狭まるんだと……。もし、《星のある子供たち》でなければ、好きなことをいくらでもできるんだと……。でも……」
「でも?」
「腕輪をしていることでできることは限られ、私はその範囲の狭い選択肢から何かを選んで生きることができました。いまは、何をしてもいいと言われて、あまりにも世界が広くて、何をしていいのかわからないんです。そして、ただ光のある方に走っていけばそれでよかった、あの夢の出口ばかりが思い出されるんです。セニョールの奏でるピアノやヴァイオリンのことを……」
アントニアは、思いやりのこもった瞳を向けて頷いた。
「わかるわ。叔父様の音が、あなたにとってどれほど大切な存在であるかも、また聴きたいと思うことも、とてもよくわかるわ。普段は、どうしているの?」
「あの船旅をさせていただいたあと、しばらくは、外にも出ずに部屋でじっとしていました。いまは、仕事を探そうと思っているんですが、その……面接が怖くて、まだ……」
アントニアは、ライサがまだ男性に対する恐怖を克服できていないのだろうと推測した。無理もない。
「無理して仕事を探さないでも、あのクレジットカードを自由に使っていいのよ。でも、それがイヤならば、私たちが、女性しかいない職場をオーガナイズすることもできるわ。あなたがどうしたいか次第よ」
「そうですね……したい仕事、したいこと、考えると堂々めぐりになってしまうんです。いつも同じ場所しか浮かばなくて……」
ライサは、しばらく口をつぐんでいたが、やがてぽつりと言った。
「腕輪をしたままならよかった……そんなことを思う日が来るなんて、思いもしませんでした」
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ジビエ料理を手作りで

スイスでは9月から狩猟シーズンです。まずは2週間ほど鹿などの大物の狩猟が許可されます。(もちろん許可証を持つ人のみ)それからお休みがあって、次にウサギなど小物を撃ってもいい期間があります。いろいろな規則があるのですけれど、我が家に狩人はいないので詳細はわかりません。
ともかく、待ち構えていた狩人たちは、休暇を取って狩りに励むのですが、鹿などは一家で食べられる量も限られていて、頼めば売ってくれるというわけです。もちろんスイスのことなので激安ということはないのですが、お肉のクオリティや安全性などを考えるといいお買い物だと思います。まあ、連れ合いが喜んで買ってしまうので、私は黙って調理するのみ。
というわけで、スーパーマーケットに行けば「温めるだけ」状態で売っている料理をすべて手作りしました。だから「インスタ映え」などしそうもないできばえの写真なわけです。
さて、今回作ったのはカモシカ肉のペッファーソース風。「風」とついているのは、「ペッファーソースってこんなんでいいんだっけ?」と思いつつ、調べずに作ってしまったから。玉ねぎ、ニンジン、セロリ、フェンネル、ニンニク、ローレル他ハーブと共に赤ワインに一晩漬けて、翌日焼き付けて焦がし小麦粉をまぶした肉をつけ汁や野菜、そしてトマトと共に圧力鍋で煮てから、肉以外は味をつけてミキサーでソースにし、エリンギと肉を戻しました。ペッファーソースなのでもちろんたくさん胡椒を入れて、クミンとシナモンも投入。かなりそれっぽい味になりました。
付け合わせのお約束は、まずは紫キャベツの煮たものに、バターカラメルソースで茹でた栗が必須です。そして、大家の洋ナシの木からもらってきた実が熟れていたのでコンポートを作り、自家製チェリージャムを添えています。この甘いセットもお約束なのです。
それから、スペッツリと呼ばれる卵麺の一種が見えますね。こちらは出来合のものを買ってきてバターで炒めて用意します。
これだけ手作りするとかなりの手間になりますが、この時期には、ペッファーソース、紫キャベツ、栗などもすべて出来合のものがありますので、組み合わせて用意することは可能です。今回作った紫キャベツと、ソースは量が多く、半分冷凍にしたので、またしばらくしたらもう1度少し楽をしてこのメニューを食卓に出そうと思っています。
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実は、水曜日なのに、更新(予約)をすっかり忘れていました。でも、まだギリギリセーフということで……。
『ボアヴィスタ通りの館』の中でグルグルしていたアントニアと、外でグルグルしていたライサ。ようやくその2人が再び顔を合わせます。
中途半端な長さだったので悩みましたが、2回にわけました。
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Filigrana 金細工の心(21)腕輪を外されて -1-
アントニアは、居間の前を通る時に、彼が窓辺に立っているのを見た。この1年、以前に増して見られるようになった姿だ。
ソアレスがやってきて、ライサが家に帰り、2度と24の許に戻れないように腕輪を外すドン・アルフォンソの決定を伝えた時、ライサ自身は純粋に安堵しているように見えた。彼女はいつも悪夢から自由になる事を望んでいた。ドラガォンと縁が切れること、2度と24に逢わずに済む事、その歓びはとても大きくて、それ以外の小さい事実に氣づく余裕はないように見えた。例えば、『ボアヴィスタ通りの館』にも2度と足を踏み入れられなくなる事もその1つだった。
アントニアは、その事実にすぐに氣がつき、己の愁思が薄らぐのを感じた。そして、同じ夕方に叔父のヴァイオリンを聴いて、心を痛めた。ずっと心を占めていた疑惑は、確信に変わった。ライサからの一方通行の想いではなく、叔父もまたライサの存在を必要としていたのだと。
だが、彼はいつもと変わらなかった。不満を表明したり、怒りを誰かにぶつける事もなかった。アントニアの母親、彼の永遠の恋人を失い、苦しみ、憎み、頑になったドラガォンでのあまりに長い時間の中で、彼は抵抗する事の無意味さを知ったのだろうか。それとも、心の中だけは誰にも邪魔されない事を悟り、沈黙の中に逃げ込んだのだろうか。
館の外に、ライサが度々現れて、切ない瞳で窓を見上げるようになってから、そして、それに氣づいてから、彼は午後に窓辺に佇むことが増えた。窓から外を見るのは、インファンテである彼の少年の頃からの習慣だった。アントニアの弟、今は当主として館の外に行く事が出来るようになった23も、子供の頃からの習慣でいつも窓の外を見ている。
だが、叔父の向かう窓は、今や1つだけになっていた。大通りの見渡せる居間の窓。木陰に隠れるように立つライサの姿を見る事の出来る場所。やがて彼は窓を開け放し、ヴァイオリンを奏でるかピアノを弾く。ライサがいる事をアントニアに告げる事もない。逢いたいと口にする事もない。だが、アントニアにはわかる。結ばれる事の出来る相手かどうか考えてから恋に落ちる事の出来る人などどこにもいない。逢えないとわかっているからと想いを断ち切る事などできないことも。
アントニアは、黙って居間の前を通り過ぎた。階段を降りているときに、彼がピアノを弾きだした。リストの『ため息』だ。数ヶ月前に同じ曲を奏でるピアノの横にライサが立っていた。彼があふれ出る感情を指先に込めて走らせると、ライサは至福を噛みしめるかのように立ちすくんでいた。マヌエラとの記憶を昇華させ、新しい愛の歓びがこの曲を彼にとって特別にしている。模範的インファンテとして決して見せることのない、彼の行き場のない想いでその旋律はこの館を満たし、あふれ出て外に佇む娘の元へと向かっている。
アントニアは大きく息をつくと階段を降り、それからモラエスにひと言声をかけると玄関に向かった。通りに出てみると、やはりライサがそこに立っていた。一緒に出てきたモラエスが、「どうぞ」といって門を開けた。その音で、はじめてライサは、アントニアの姿に目を留めた。
「ミニャ・セニョーラ……」
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【創作 語ろう】こんな話も書きました
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読者が少なかった頃に発表したけど好きな作品語り
こんな話も書きました
当ブログに置いてある作品は、右のツリーの「カテゴリ」にずらっと並んでおります。上の方からよく知られていて、コラボなどもよくしていただく作品の順に並べてあります。個人的に『大道芸人たち Artistas callejeros』『樋水龍神縁起』『森の詩 Cantum Silvae』『黄金の枷』の4シリーズが、この小説のメインワールドだと自負しているんですけれど、その他にも瓢箪から駒でけっこうな長期連載シリーズになってしまった『ニューヨークの異邦人たち』関係があったり、私の住んでいる村をモデルにしたカンポ・ルドゥンツ村界隈では1900年代から現代に至るまでけっこうな数のキャラが活躍していたりと、かなりのカオスになっています。
そんな中で、私個人としてはとても氣に入っているのだけれど、たぶん「そんなの知らんわ」と思われている作品もけっこうあって、それぞれもうじき10年前の作品になってしまう(一部はもっとですけれど)ので、紹介してみようと思います。(タイトルが作品へのリンクになっています)
- 夜想曲
- 羊のための鎮魂歌
- 明日の故郷
- 銀の舟に乗って - Homage to『名月』
- 第二ボタンにさくら咲く
- オーツくんのこと
- 人にはふさわしき贈り物を
- 「アイデンティティー・プロブレム」をテーマに書いた中編。もともとは最初の章だけの短編だったのが、そのままにできなくて中編に書き直しました。子供の時に憧れていたペルーへの郷愁を交えて書きました。
おそらく、海外在住で「アイデンティティー」について意識せざるを得ない環境に身を置いたから書けた作品です。
量的にも、まとまり方からも、とっつきやすいので、「長いのは躊躇するけれど、何かを読んでみたい」という方にダメ元で奨めてみる作品になっています。
- 「イギリス人オースティン氏と愛犬グルーバー」シリーズの第1作。作品の終わりに初出が書いてありますが1995年3月ですよ。「夜間飛行」というのは当時参加していた小説の同人誌です。(ワープロで活字にした原稿を郵便で提出してコピーという時代でした。電子メールのアドレスを持っている人もいなかったし、PDFもまだいまのような標準規格じゃなかったんです。さらにいうと通信費用も高かったし)活字にした時点を初出にしていますが、実際に書いて初めて人に見せたのは1991年だったと思います。
当時、私はイギリスが大好きで、必死にお金を貯めてロンドンの安宿に3週間滞在しました。そして、日帰りで湖水地方まで行ったんですよ。もちろん当時もケルト文明が大好きで、そちらもてんこ盛りにした作品です。
- この作品はアルファポリスの歴史大賞に出したので、無理して読んでくださった方もあるかも。もともとは『第3回目(となった)短編小説書いてみよう会』に出して、ブログで小説を読み合う企画に参加した最初の作品です。『ガリア戦記』に残る古代スイスで実際にあった事件を題材にして書きました。
この作品を書く前は、小説カテゴリーにしても小説を読んでくださる方がほとんどいなかったのですけれど、同じ志を持つ皆さんと知り合って、交流することで読んでいただくチャンスが増えたことを実感した思い出の作品です。例えば、山西左紀さんとは、この企画で出会い、いまだに仲良くしていただいていますよね。
- この作品は、たまーにやる「思いついた情景を一瞬で書く」の代表ですかね。もともとはTOM−Fさんの企画でリクエストに応えていただいたのですよ。その作品にインスパイアされて頼まれもしないのに書いてしまったんです。
きちんと構想を練ってコツコツ書く作品に思い入れがこもるのは当然なのですけれど、意外にこういう一瞬芸みたいな作品がずーっと心に残って「こういうのもあるんだけれどなあ」と思っていたりすることもあるんです。
- 自分ではそんなに昔の作品という印象がないのですけれど、2014年に書いたんですね。40,000Hit記念で栗栖紗那さんにいただいたお題「卒業」で書いた掌編です。
実は私本人には卒業の甘酸っぱい思い出のようなものは何もなく、書くときに悩みまくり、結局一般によくある卒業の小説とはずらした視点にしたのです。1度掌編を書くと勝手にキャラが続編的に再活躍を要求することが多い八少女 夕ワールドですが、この作品は今のところ一発屋で2度と登場する予定はないですね。
- 2013年に発表した『十二ヶ月の野菜』という短編集は、個人的に氣に入っていて、中から1つ選ぶのは大変だったのですけれど、こちらを。
通勤路の風景(麦畑)から作りだした作品。私小説ではないので具体的な体験は私個人とは結びついてはいませんが、核となる青春の後悔のような感情は私も経験済み……。
- 2014年に発表した『十二ヶ月のアクセサリー』の1作品。ある男性が祖母から受け継いだガーネットのブローチをめぐる小さな話なんですけれど、ちょっと皮肉な結末が氣に入った作品です。
『十二ヶ月のアクセサリー』もけっこう氣に入っている短編集なので、読んでいただけると嬉しいですね。
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【小説】Filigrana 金細工の心(20)音色
久しぶりに『ボアヴィスタ通りの館』側に戻ってきました。今回は、アントニアの視点です。23の子供時代や何をどう感じていたかは、本編や外伝で幾度か記述していますが、アントニアの子供時代の彼女視点の話はもしかすると初めてかもしれませんね。
彼女が22に固執するようになった過程はこんな感じでした。
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Filigrana 金細工の心(20)音色
記憶をたどると、彼はいつも彼女の視線の片隅に存在していた。なんと呼ばれる人なのかも知らず、タブーとして決して語られることのなかった存在だった頃から。午餐に出席を許されるようになった6歳の誕生日から、両親の座る席の向かいの、空いている席のことを不思議に思っていた。当主だった祖父ドン・ペドロを中心に、重々しい空氣をまとう午餐や礼拝は、普段の生活とは違い、子供の会話など一切許されなかった。何が起こっているのかの説明などもなかった。
祖父と両親は、誰かがその席に着くのをしばらく待つ。その人物は決して出てこない。しばらく経つと祖父の合図と共にその席に準備された食器は取り下げられ食事が始まる。それは祖父が他界して父親が当主となった後も変わらなかった。
食事に出てこないその人物は、しかし、確かに存在していた。居住区と呼ばれる格子の向こうに住み、特別な鍵で施錠された空間に住んでいる。年に3度、クリスマス、復活祭、そして、サン・ジョアンの祝日の礼拝は、普段の日曜日と異なり家族だけでなく全ての使用人が礼拝に集まる。家族が座る内陣の貴賓席ではなく2階の右側のギャラリーに、《監視人たち》幹部に付き添われてその人が座った。
8歳のクリスマスにそのことに氣がついたアントニアは、それから彼の姿を見ることのできる機会に、礼拝に集中することもなく彼の姿を観察するようになった。
金髪に近い明るい茶色の髪と青い瞳を持つ男は、アントニアの視線に氣付くと忌々しげに睨み返した。彼女は、じろじろと見たことを申し訳ないと思い眼をそらしたが、やはり好奇心に耐えられず彼を見てしまった。すらりと背が高く、彫刻のように端正な顔つき、そして、ギャラリーの左側、彼の正面にあるオルガンで奏者が讃美曲を奏でるときには、瞳を閉じて真剣に聴き入っている。その姿を彼女は絵画のように美しいと思った。
やがて、館の中によく響いているピアノやヴァイオリンの音色を奏でているのが彼だと知った。
その音は、彼女の心を締め付けた。胸の奥深くに、喉の裏側に、時に苦い痛みを滴らせ、またあるときは浮き上がるような柔らかい甘さをにじませた。居ても立ってもいられない感情に、彼女は戸惑った。それが何であるか、幼い彼女にはわからなかった。あの冷たい表情をした男がこれを弾いているとは、信じられなかった。
アントニアを見るときの冷たく憎しみの籠もった瞳と、情熱的で痛烈な想いを叫ぶ音色が全く重ならず、彼女は混乱した。それが彼女の好奇心をさらに刺激した。
あれは、12歳になる少し前のことだったろうか。復活祭の礼拝で、またギャラリーに立つ彼の姿を目で追った。いつものように醒めた様相で階下を眺めていると想像して見上げたのだが、その時だけは彼は全く違う表情をしていた。彼の視線を追うと、アントニアの母親マヌエラの姿があった。すぐ後ろから、父親のカルルシュが入ってきた。アントニアは再びギャラリーにいる彼を見上げた。いつもの冷たい表情に戻っていた。
彼女は、衝撃を受けた。まだ子供で、彼が一瞬垣間見せた表情の意味を理解する知識はなかったが、彼がわずかに見せた表情は奏でる音色と一致したのだ。
アントニアは、言葉ではなくもっと深い原始的な勘で、即座に理解した。家族との関わりを断固として拒否し、常に家族を憎み睨みつける姿は彼の本質ではないのだと。アントニアは、あの音を自分のものにしたいと思った。本当はその時に彼女はもう、愛の迷宮に紛れ込んでいたのだ。けれど、それを理解しないまま、彼女はピアノを彼に習いたいのだと思い込み、誰の意見も訊かずにそれを強要した。
彼女は、その日から彼を追い回し、纏わり付き、ピアノを教えることを了承させた。彼が一番雄弁に物語る、言語の代わりとなるものを習得したかった。23と交代に居住区から出され『ボアヴィスタ通りの館』に遷った後も、彼を追った。共に食事をし、さまざまな話題を取りあげ、お互いのことをよく知るようになった。
アントニアは、彼の唯一無二の理解者となった。彼が言葉にしなくても、彼の望むものを理解できるようになった。冷たく皮肉に満ちた言葉の裏に、彼自身も認めようとしない強い願いがあるのを、見て取ることができるようになった。
憎しみと怒りの作り出した氷に閉じ込められたまま、行き場を失った深い愛が強く燃え続けていることも知っていた。母の受けた宣告後も18年にわたり、彼は愛する女と簒奪者が幸せな家族を作る現場から逃れられなかった。離れることが許されなかったために、その憎悪を増幅させた。長いあいだアントニアは、自分を見る彼の瞳に簒奪者の血を受け継いだ者への嫌悪感を感じつづけた。目の前に簒奪者の娘がいて記憶を更新したために彼の燃え盛る想いを閉じ込める憎悪の氷はさらに厚くなった。彼は、『ボアヴィスタ通りの館』に遷ってからも、自由になれなかった。
アントニアは、彼にとって一番近い存在になることはできた。彼は、彼女を敵の娘としてではなく、共に暮らす家族として認めるようになった。その変化を感じたとき、どれほど彼女は嬉しかったことだろう。彼はアントニアを、彼女が望むような形では愛してくれない。だが、そうであっても、彼にとって近い存在なのだと感じることは無上の喜びだった。
それほど近いゆえに、アントニアが一番はじめに知った変化は、彼女にとってもっとも残酷なものだった。
彼を包む感情の氷を、外側から溶かし、核にいたる穴を開けて、燃えていた深い愛に外に出る機会を与えた光が生まれた。その光は内なる愛と混じり合い、色や形を変え新しい姿で燃えることができるようになった。
その光を与えることができたのは、氣の遠くなるほどの時間と忍耐を経てようやく彼の側に居ることを許されたアントニアではなかった。
驚くほど、彼の女神によく似た娘。深く傷ついた繊細な女。そして、彼を神のごとく慕う魂。
すべて理に適っている。アントニアは、悲しく笑った。
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