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Posted by 八少女 夕

【創作 語ろう】物置の片隅に埋もれた作品

だいたい10周年企画「創作 語ろう」の記事です。今回は「黒歴史」の話題を。

創作してきた年数だけが無駄に長い私は、びっくりするほどの人前に出せない作品の残骸を抱えています。この話題はこのブログでももう何度か書いているんですけれどね。せっかくの機会なので笑って供養してしまうのも一興なんですが、『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』のようにリライトでまさかの復活をしてしまうこともありますので、そうなりそうな作品については慎重に行きたいと思います。で、今回は、文章にすることはないだろうと思われる黒歴史ストーリーについてご紹介しようと思います。



Parliamo 創作語ろう「「10周年企画・「創作 語ろう」をはじめから読む




物置の片隅に埋もれた作品

いつどのように創作を始めたかの話題は、後日改めて語りますが、残る形として何かを書き出したのは小学生の高学年でした。当時はショウワのノートに鉛筆でマンガを描き殴っていました。ちゃんとその道を究められる方は、絵を上達させるのと平行してコマ割りをして、ペン入れやスクリーントーンなども使って……という具合にグレードアップしていくのですが、私はそうした努力をまったくしないまま、自分の下手なマンガでは表現したいことがまったく表現できないことに疲れてしまいました。

そして、文章の方に転向したのが高校生の終わりぐらいから、浪人時代、そして大学入学後だったと思います。一時期は、両方を書いて(描いて)いましたが、デジタル化してからは文章オンリーです。

その転換期に書いていた作品の1つは、完結しないまま放り出してしまったのですけれど、これは正真正銘の黒歴史です。名前からして書くのも嫌。でも、黒歴史の記事なので書きます。『スクランブル・レボリューション』。意味があれば、厚顔無恥の私は、恥ずかしくもなんともないと思うはずですが、この題名は本当に「なんとなく」つけただけの「かっこいい感じの響き」の題名なんです。完成するつもりがあれば、もちろん改題しますが、中身も同じくらいにどうでもいいので、解体してキャラ名や設定の使い回しにしています。

というわけで、キャラとストーリーも公開してしまいます。痛いですが、若気の至りですので……ははははは。

【主要登場人物】
早瀬曄子……医者。数年前にボランティアとしてケニアに渡っている。
尾関航……フリーカメラマン。曄子の高校の同級生。
戸田雪彦……ハリウッドで活躍する俳優。曄子の高校の同級生。
アンソニー・ギルバート……医者。曄子の同僚。
ニマウ……アフリカで古代に勢力を持ったウズ族の最高権力者ハユの少年王

【あらすじ】
世界戦争勃発の危機の中、曄子に会うため航は単身ケニアに向かう。(行動の動機は意味不明)ようやくたどり着いた難民キャンプで曄子はすでにウズ族に誘拐されていて、同僚のアンソニーとアメリカから来ていた(こちらの登場も意味不明)雪彦が救出作戦に合流する。実は、曄子は誘拐されたのではなく、体内に住むもう1人の人格、ハユの王妃マレカが覚醒して姿を隠していた。航・雪彦・アンソニーは、少年王ニマウとマレカの統治する新しい王国を米ソなどの侵略から守るために戦うことになる。



ずいぶんと忘れていたので、この記事のために放置していた原稿を持ち出してきて読んだのですが、設定だけでもあまりの稚拙さにクラクラしてきた……。いくら何でも、このメンバーで米ソを含む国家機関に戦闘挑むか。しかも動機も謎。

原稿

このブログで私の作品を読んでくださった方は「おや?」と思ったかもしれません。戸田雪彦は、名前も職業もすべてそのまま、時折書く『ヴァルキュリアの恋人たち』シリーズの登場人物に流用しています。また、女1人、男3人であれこれ話が続いていく構成は『大道芸人たち Artistas callejeros』にも取り入れられています。

この作品、ハードボイルドっぽい描写がちゃんと書けなくて、途中まで書いて、戦闘シーンの構想段階で空中分解したんですよね。はじめから最期まで構想してから書き出せば、こんなに長く無駄な字数を原稿用紙に書かずに済んだのになあ。まあ、完成できたとしても、根本の設定が痛いのは同じだから、どっちにしてもさっさと投げ出してよかったのか。いい勉強になりました。

これに比べると、例えば『大道芸人たち Artistas callejeros』や『「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』は、一緒に旅に出るそれぞれの動機も、キャラクターたちができることの設定も、かなり納得できるようになっています。やはり少しは上達したのかな。それに、自分には書けない題材というものも実感しましたしね。
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Tag : エッセイ

Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(24)会見 -1-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「会見」をお送りします。

23もといドン・アルフォンソは、22のもとを訪れて彼の意思を訊きました。そして、今度はライサと逢おうとしています。そして、ライサは、予定がバッティングしておりました……。間が悪いですね。

舞台に使ったホテルは同名のホテルをモデルにしています。

今回も2回に分けています。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(24)会見 -1-

 どうしてここを選んだのだろう。ライサは、周りを見回した。指定されたホテルは、カステル・サン・ジョアン・バティスタの裏手にあった。旧市街の中心にある『ドラガォンの館』からも、『ボアヴィスタ通りの館』からも歩くには遠い。これが既に答えなのかと思い心は沈むが、大きなヤシの木やクリーム色の外壁は暖かく、ライサを否定しているようには見えなかった。19世紀に建てられたこのホテルには、古き良き時代に人びとが避暑に来て賑わったはずだ。何よりも名前が彼女には親しみ深かった。『ホテル ボアヴィスタ』。

 木目調の床、明るい茶色で統一されたロビーには黒いソファが置かれていて、到着を告げると彼女はしばらくそこで待つようにいわれた。2分もしないうちに、彼女はレストランの一番奥の席へ案内された。

 チコは、どうしているだろう。マリアは彼女を待っている彼を見つけただろうか。約束を反故にしたことを、彼は腹立たしく思うだろう。昨夜、彼から電話がかかってきた時には、もちろん彼と会うつもりだったのだ。もし、先ほどのモラエスからの電話があと10分遅ければ、彼女はチコに逢うためにサン・ベント駅に向かっていたはずだ。これで彼との友情や交流は途絶えてしまうかもしれない。でも、モラエスの声を聞き、ドン・アルフォンソから面会を打診されたその瞬間に、ライサの心はこちらに飛んでいた。ボアヴィスタ通りに住む人たちの側に。

「何かお飲物は」
黒服の男が恭しく訊いた。ホテルのマネジャーのようだが、その服装が彼女に《監視人たち》中枢組織幹部を連想させて、縮こまりながら水を注文した。

 白い服を着たウェイターが、瓶詰めのミネラルウォーターとグラスを運んできた。ライサに興味を持ったのか、肝心の水を注ぐ時に彼女を見ていて、グラスから少しこぼれてしまった。平謝りする青年に「大丈夫です」と答えながら、彼女は、かつて『ドラガォンの館』で給仕をしていた時に、何度もワインを注ぐのに失敗したときの事を思い出した。2度と失敗するなときつく叱られた後に、それが呪縛のようになって、またしてもこぼしてしまったが、口もきいたことのなかったインファンテ323がかばってくれた。「すまない。俺が急に動いた」と言って。

 とても昔の事のように感じた。ライサが、厳格で冷たく思えるドラガォンの中で、人びとが優しくしようとしてくれる事を感じた最初の出来事だった。それから、彼女を教育していたジョアナや、感情などを持たないように思える執事メネゼス、美しく品のあるドンナ・マヌエラ、紫かがった顔をした当主ドン・アルフォンソ、彼らがやはりシステムに抵触しない限り示してくれる暖かさや優しさを少しずつ感じだしたのだ。

 けれど、ライサの瞳は濁っていて、明るく優しい美青年の虚像が放つ光に目をくらまされてしまった。地獄の日々の中で、ドラガォンの他の全ての僅かな優しさは掻き消え、彼女には思い出される事もなかった。彼女の救いと想いは、その地獄の中から再び光の中へと導いてくれた『ボアヴィスタ通りの館』に住む人へと流れ込み、『ドラガォンの館』の日々はただの悪夢としてだけ彼女の中に残った。

 グラスの下のテーブルクロスが濡れているのを眺めながら、彼女は、本当にこちらに戻ってきたのだと感じた。歪んで霞んでしまった精神がかつてのような状態に近づき、ようやく物事を単純な記憶として把握できるようになったのだと。それでも、『ドラガォンの館』に近づく事はまだできないと思った。

 左の手首を見る。かつてはあった黄金の腕輪がなくなっている。これは、絶対的な安全の保証のはずだった。2度と、あの館には入れない。だから、あそこへと連れて行かれずに済む、彼女の目に見える安心のはずだった。それなのに、彼女は、当主ドン・アルフォンソに逢って、もう1度腕輪を付けてほしいと頼もうとしているのだ。

「お見えになりました」
その声にはっとして顔を上げる。扉の向こうから、先ほどのマネジャーに案内されて、黒い服を来た男性が入ってきた。

 ライサは、自分の目を疑った。それは、彼女が逢うつもりでいたドン・アルフォンソ、紫の顔をして辛そうに歩く太った当主ではなかった。かつては長くて後ろで縛っていた巻き毛は短くなり、館にいた時は1度も見たことのない黒いジャケットを着ていたが、それ以外はあの頃と全く変わらない青年。あの館からは絶対に出られないインファンテ、ライサたちが23と呼んでいた男がそこにいた。

「メウ・セニョール……」
意味する事は1つだった。彼女の知っていたドン・アルフォンソは亡くなったのだ。そして、妹マリアの友達と結婚したのは、新しく当主となったこの青年だったのだ。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

お尻に火がついて

物書きイメージ

この1週間は休暇でした。

私は、現在、プログラマの仕事と日本語教師の2足わらじを履いているのですが、どちらも休みにして仕事をしない1週間でした。

2019年までは仕事をシャットアウトするために旅行に行ったものですが、そういうわけにはいかず、ずっと家にいました。でも、家にいて何もしなくてもどんどん時間だけが過ぎてしまうことがわかっていたので、この1週間は執筆またはその準備をメインにするぞと誓っておりました。

まあ、毎日、執筆できたわけではないのですけれど、何も計画しなかったよりは頑張りましたよ。

というのは、現在発表中の連載小説が終わりそうなんですけれど、その後の連載が全く準備できていないのですよ。場合によっては来年はしばらく毎週の連載というのはお休みすることになるかも、というくらい全然用意できていないんです。

次の連載にしようとしているのは、『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』です。ええ、もちろん、骨格はあるんですよ。でも、全然肉付けが終わっていなくて、この休みの半分は読書をしていました。中世に関する本を8冊くらい並べて、あれこれとうなっていたのです。

これがある程度形になったら、週末ごとにまとめて書いていけるかもしれませんが、今のところまだまだという感じですね。ううむ。本当にまずいな。ま、アマチュアなので、まずいもへったくれもないんですけれどね。
関連記事 (Category: もの書き全般)
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Posted by 八少女 夕

【小説】わたしの設定

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の店』の10月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は、東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』です。語り手以外は、いつものメンバー、涼子と、半分従業員化している源蔵、そしていつも飲んだくれている西城と橋本。

私が生まれて初めて1人で入ったバーは一人旅をした金沢のホテルでした。涼子のモデルになったような綺麗な和服マダムが美味しい料理を出してくれました。今では海外のバーでも普通には入れるようになりましたが、あの初めてのドキドキ、思い出すなあ。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね




わたしの設定

 あの店から神田駅までは、徒歩で8分……のはずだった。帰宅前に、趣味の古本屋巡りをしたことは間違っていないけれど、自分の地理的な勘を信じたのは大きな誤りだ。

 真知子は、方向音痴だ。それを自覚しているのに、今日はいつもと逆の順序で古本屋を巡ってしまった。それが敗因だ。いつもは最後に入る『流泉堂』の向かいにゲームやファンタジーの好きな読者をターゲットにした店があったと思ったからだ。

 真知子は、中学の養護教諭だ。今日の午後、2年生の佐藤裕太が、麦粒腫、脂腺の急性化膿性炎症でまぶたの一部が腫れる、俗に言うものもらいの相談に来た。応急処置として涙の成分に近い点眼液を差そうとして、首をかしげた。

「その右目……よね?」
少年の右目に上まぶたが腫れている。
「はい。これです」

「じゃあ、どうして左目に眼帯をしているの? そちらも、ものもらい?」
左目をあまり見ない黒い眼帯が覆っている。

「いや、こっちは何でもないっす」
少年は視線をそらした。

「じゃあ、点眼するから、そっちの眼帯は取って」
「あ。はあ。……でも、その……」
口ごもってから、彼は渋々と眼帯を外した。日焼けのあとが見える。外したがらなかった理由は、これか。真知子は納得した。黙々と点眼して、それから白い新しい眼帯を持ってきて右目につけようとした。

「あ。それ、しないとだめっすか?」
「触ったりすると、治らなくなるよ。明日になってまだ痛かったら、眼科に行った方がいいと思う」

 佐藤少年は困ったように、黒い眼帯を見ていた。
「そっちは、なんでもないんだから必要ないでしょう? なぜ、眼帯しているの?」
「えっと。魔眼が……」

 真知子は、理解した。厨二病か! そういう子が居るという話は、教諭仲間や、同業者のコミュニティーで聞いたことはあるけれど、本当にいるんだ。この子は、左目が魔眼だという設定で眼帯をしているのだろう。

 真知子は、声を潜めてささやいた。
「もしかして、隠さなくちゃ危険なわけ?」
「うん。普通の色の時は無害だけれど、魔眼がうずくと赤くなって、それで世界を焼き尽くすんだ」

「ああ、魔眼のバロールみたいな……」
真知子はつぶやいた。
「先生、知ってるの? それって、ええと……」

「学生時代に読んだケルト神話に出てきたのよ。佐藤君、もしかして、入学してからずっとその黒い眼帯していたの?」
「ううん。2年になってから。うちの親も、担任の石川っちも、もう取れって言わなくなったよ。今さら取るのはなあ」

 真知子は、全く危険のなさそうなごく普通の左目を見ながら、こんなことをしていると視力が落ちるぞと思った。かといって頭ごなしに叱り、登校拒否になったりするのも問題だ。
「とりあえず、魔眼は右側に移ったという設定にして、ものもらいが治るまでは右目を保護してちょうだい。触っちゃダメ」

 案外おとなしく右側に眼帯をされているので、もうひと押しと、ささやいた。
「佐々木先生がおっしゃっていたけれど、去年卒業した山口君の悪魔の力の宿った左手も、推薦入試の面接の時だけはやめた方がいいって話になって、その日だけは左手首に包帯巻くのはやめて左膝って設定にして行ったみたいよ」
「ほ、本当に?」

 同じ厨二病の先輩も、フレキシブルに設定を変えたという情報で、若干柔軟な対応を受け入れるつもりになったなら結構。
「手首の包帯くらいなら、とくに問題はないと思うけれど、私は魔眼じゃない方が視力のためにはいいと思うけれどなあ。一度、設定を見直してみてね」

 生徒の心に寄り添い、困ったときの逃げ場になるのも、養護教師、いわゆる『保健室の先生』の大切な仕事の1つだ。何かあったときに、相談しやすい役割であり続ける必要がある。「それは厨二病だから、さっさと現実を見なさい」と断定する役割は、他の指導教員が十分やってくれているはずだ。

 佐藤少年が、またやってきたときに、うまく話ができるように、昔読んだっきりのケルト系の知識を更新しておきたい、それが件の店から回ろうとしたきっかけだった。でも、慣れない道から帰宅しようとしたせいで案の定迷ってしまった。さらにいうと、そういう時に裏道を通ったりしてはいけないと知っているにもかかわらず、つい近道になるかもしれないと横道にそれてしまった。

 さて、ここはどこなんだろう。

 先ほどまでは、古本屋が建ち並んでいる界隈だったが、このあたりはどちらかというと飲食店が多い。といっても、たくさん立ち並んでいるわけではなく、細い小道を曲がる度にぽつぽつと見かける程度だ。

 路地の角を曲がると、白木の引き戸が目についた。のれんと同じ京紫に近い色をした小さめの看板に『でおにゅそす』と書いてある。奥から少人数の話し声と、出汁のいい香りが漏れてきて、真知子は足を止めた。

 赤提灯の店や騒がしい居酒屋には興味はなかった。でも、静かな小料理屋などには以前から入ってみたいと思っている。

 真知子は、20代の終わりかけだが、学生時代の友人たちとの飲み会以外でお酒を飲みに行ったことはない。興味はあるのだけれど、1人で入って歓迎されるのか、どうやって注文したらいいのか、今ひとつわからなくて入りにくいのだ。

 1度は通り過ぎたけれど、もう一度立ち止まった。佐藤君だって、『魔眼のバロール』として日々中学校に通っているっていうのに、いい歳した大人の私が興味のある飲食店にも入れないのってどんなものかしら。恥をかいたって、もう2度と来なければいいだけなんだし、入ってみよう。小さな店みたいだし、満席の可能性だってあるんだし。

 引き戸を開けてすぐに目についたのは、活けてあるコスモス。それから白木のカウンターの中に立つ芥子色の小紋の女性。2坪ほどの小さな店で、奥に2人の男性が座っていたが一斉にこちらを見た。

「いらっしゃいませ」
着物の女性が、心地よい笑顔で言った。客のうち、赤い顔をした男性が大きく手を振った。
「お。お姉さん、おいでおいで」

 真知子は、これは踵を返して出て行けないなと覚悟を決めた。こうなったら、私も、小料理屋なんて週に1度は入っていますという顔をした方がいいかなと、心の中で考えた。
「あの、1人ですけれど……」

「どうぞ、どこでもお好きな席で」
狭い店なので、空いている席はあと3つほどしかない。真知子は扉を閉めて入り口に近い席に座った。女性は、真知子が落ち着くのを待ってからおしぼりを手渡してくれた。

「お姉さん、ここは初めてかい? ここいい店だよ」
先ほども声をかけた、かなりできあがっている方の客が親しげに声をかけてきた。

「西城さん、びびらせちゃ、ダメだよ」
もう1人の男性がたしなめている。

「あ、いいえ」
真知子は、居酒屋に入って酔客に話しかけられるのは慣れているという設定で、何かしゃれたことを言おうとしたが、結局何も出てこなかった。

「何になさいますか」
女性は、小さめのメニューを手渡した。A5サイズの表紙は看板と同じ京紫で、『でおにゅそす』にあわせてワインカラーなのかなと、思った。日本酒やビールなどと並んでワインもあったが、真知子は好きな酒を見つけて微笑んだ。

「梅酒をお願いします。ロックにしていただいていいですか」
「ええ。お待ちくださいね」
「あと……」
真知子は、料理のページも見た。よかった、思ったほど高くない。これなら、晩ご飯として食べていけそう。とてもいい匂いでお腹すいちゃったし。

 梅酒ロックと、ごぼうのごま和えが出てきた。あ、お通しだ。真知子は心の中で頷いた。そうか、これは自動で出てくるのね。

「何か、お魚を……」
迷いながら真知子が言うと、女性は答えた。
「召し上がれないものはありますか?」
「特にないですけれど、でも、青魚より白身の魚が好きかなあ」

「そうですか。季節のお魚ですとさよりと、サンマと戻り鰹ですけれど、どれも青魚ね……」

「あれは? 源さんの穴子の煮おろし!」
もう1人の客がいうと、西城も頷いた。
「ああ、ハッシー、あれ大好きだよねぇ。あれは他にはちょっとない美味さだから当然かあ」

 真知子は穴子が好きなので、目を輝かせた。
「そうなんですか。じゃあ、ぜひ。それと、お豆腐のサラダに、最近お野菜が足りていないから、この季節野菜の盛り合わせを」

「かしこまりました。源さん、穴子の煮おろし、お願いしていい?」
女性が、少し奥を見ると、向こうから入ってきた高齢の男性がカウンターに入ってきた。

 ごぼうを口に入れたとき、ああ、このお店は当たりだと思った。素朴だけれど、絶妙な味付けのごま和えで、もうひと口食べたいと思わせる絶妙な量だ。豆腐のサラダも水菜とじゃこにほどよい柚の香の醤油がかかっていて上品だ。
「おいしい……」

「まあ、嬉しいわ」
女性は微笑んだ。受け答えが自然で素敵な人だなと真知子は思った。着物がよく似合う。子供の頃は、歳さえとれば大人になれると思っていたけれど、この人の年齢になっても自分はこんな大人の女性にはなれなっこない。「小料理屋にしょっちゅう入っている設定」なんぞをしている時点で論外だろう。

「な。いい店だろう? 何よりも素敵な涼子ママの店だしさ」
赤ら顔の客が話しかけてきた。持ち上げたグラスが揺れて、ビールが飛び出した。

「西城さん、ほら、また粗相して、涼子ママを困らせるなよ」
「おっと、これは、失礼」
2人はおしぼりでカウンターに飛び散ったビールを拭おうとする。

「いいのよ、私がするから。西城さんも、橋本さんも、そのままで」
涼子は大して慌てずに、西城の前の皿やグラスを片付けてから濡れたカウンターを拭った。小紋の袖を手で押さえながら、決して大きな音は立てずに動かす手の動きは優雅だ。おそらくこの西城という客が酔って粗相をするのは初めてではないのだろう。とはいえ、慌てることも、いらだちを見せることもなく、あっという間に場を綺麗に納めてしまうのは、なかなかできることではない。

 涼子に見とれていると、無口に調理をしていた男性がそっと真知子の前に五寸ほどの鉢を置いた。穴子がみぞれ煮のように大根おろしとともに出汁に浮かんでいる。三つ葉が目に鮮やかだ。
「あ。いただきます」

 ひと口含むと、ふわりとしたみぞれ大根に包まれていた穴子がなんとも言えないしっかりとした味わいで主張してきた。
「美味しい……。穴子の煮物って淡泊にしかならないんだと思っていました」

 涼子が微笑んだ。
「源さんのこだわりでね。先にしっかりと味をつけてから大根を入れるの。こういう味は、私には作れないのよね」

「僕ねぇ、実は穴子の煮おろしって、ここで初めて食べたんだよ。穴子はお寿司でしか食べたことなくて、煮物だって聞いて最初は要らないって言っちゃってさ。この西城さんが横で美味しそうに食べるのを見て、失敗したと思ったんだよねぇ」
橋本が、幸せそうに食べる真知子に話しかけてきた。

「そんなことあったっけ? すっかり忘れちゃったなあ」
西城は相変わらず上機嫌でビールを飲んでいる。

 カウンターの中の2人も、客の2人も、みな自然体でいる。真知子は、小料理屋に慣れている設定で振る舞うなどということが馬鹿らしく思えてきた。

「私、こういうお店に入るの初めてで、とても迷ったんですが、勇気出して入ってきてよかったです」

「おう。そうか! 初めてがここだなんて、ラッキーだよなあ」
西城が赤い顔をほころばせると橋本も頷きながら訊いた。
「本屋さんの帰りかい?」

 真知子の置いた荷物から本が何冊か覗いている。
「ええ。古本屋を巡るのが趣味で。でも、方向音痴で駅がどこかわからなくなってしまって」

「おや。じゃあ、涼子ママ、この店の場所を書いたカードをあげておかないと」
「そうね。是非またきていただきたいもの」

 看板と同じ京紫のカードに店名、住所とともに「伊藤涼子」と書いてあった。それをもらえたことがとても嬉しい。もちろん、また来るつもり。設定じゃなくて、本当にこの店に来慣れている客になろう。真知子は、カードを大切に財布にしまった。

(初出:2021年10月 書き下ろし)

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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】わたしの設定

今日の小説は『12か月の店』の10月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は、東京神田の路地裏にひっそり佇む小さな飲み屋『でおにゅそす』です。語り手以外は、いつものメンバー、涼子と、半分従業員化している源蔵、そしていつも飲んだくれている西城と橋本。

私が生まれて初めて1人で入ったバーは一人旅をした金沢のホテルでした。涼子のモデルになったような綺麗な和服マダムが美味しい料理を出してくれました。今では海外のバーでも普通には入れるようになりましたが、あの初めてのドキドキ、思い出すなあ。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「いつかは寄ってね」をはじめから読むいつかは寄ってね




わたしの設定

 あの店から神田駅までは、徒歩で8分……のはずだった。帰宅前に、趣味の古本屋巡りをしたことは間違っていないけれど、自分の地理的な勘を信じたのは大きな誤りだ。

 真知子は、方向音痴だ。それを自覚しているのに、今日はいつもと逆の順序で古本屋を巡ってしまった。それが敗因だ。いつもは最後に入る『流泉堂』の向かいにゲームやファンタジーの好きな読者をターゲットにした店があったと思ったからだ。

 真知子は、中学の養護教諭だ。今日の午後、2年生の佐藤裕太が、麦粒腫、脂腺の急性化膿性炎症でまぶたの一部が腫れる、俗に言うものもらいの相談に来た。応急処置として涙の成分に近い点眼液を差そうとして、首をかしげた。

「その右目……よね?」
少年の右目に上まぶたが腫れている。
「はい。これです」

「じゃあ、どうして左目に眼帯をしているの? そちらも、ものもらい?」
左目をあまり見ない黒い眼帯が覆っている。

「いや、こっちは何でもないっす」
少年は視線をそらした。

「じゃあ、点眼するから、そっちの眼帯は取って」
「あ。はあ。……でも、その……」
口ごもってから、彼は渋々と眼帯を外した。日焼けのあとが見える。外したがらなかった理由は、これか。真知子は納得した。黙々と点眼して、それから白い新しい眼帯を持ってきて右目につけようとした。

「あ。それ、しないとだめっすか?」
「触ったりすると、治らなくなるよ。明日になってまだ痛かったら、眼科に行った方がいいと思う」

 佐藤少年は困ったように、黒い眼帯を見ていた。
「そっちは、なんでもないんだから必要ないでしょう? なぜ、眼帯しているの?」
「えっと。魔眼が……」

 真知子は、理解した。厨二病か! そういう子が居るという話は、教諭仲間や、同業者のコミュニティーで聞いたことはあるけれど、本当にいるんだ。この子は、左目が魔眼だという設定で眼帯をしているのだろう。

 真知子は、声を潜めてささやいた。
「もしかして、隠さなくちゃ危険なわけ?」
「うん。普通の色の時は無害だけれど、魔眼がうずくと赤くなって、それで世界を焼き尽くすんだ」

「ああ、魔眼のバロールみたいな……」
真知子はつぶやいた。
「先生、知ってるの? それって、ええと……」

「学生時代に読んだケルト神話に出てきたのよ。佐藤君、もしかして、入学してからずっとその黒い眼帯していたの?」
「ううん。2年になってから。うちの親も、担任の石川っちも、もう取れって言わなくなったよ。今さら取るのはなあ」

 真知子は、全く危険のなさそうなごく普通の左目を見ながら、こんなことをしていると視力が落ちるぞと思った。かといって頭ごなしに叱り、登校拒否になったりするのも問題だ。
「とりあえず、魔眼は右側に移ったという設定にして、ものもらいが治るまでは右目を保護してちょうだい。触っちゃダメ」

 案外おとなしく右側に眼帯をされているので、もうひと押しと、ささやいた。
「佐々木先生がおっしゃっていたけれど、去年卒業した山口君の悪魔の力の宿った左手も、推薦入試の面接の時だけはやめた方がいいって話になって、その日だけは左手首に包帯巻くのはやめて左膝って設定にして行ったみたいよ」
「ほ、本当に?」

 同じ厨二病の先輩も、フレキシブルに設定を変えたという情報で、若干柔軟な対応を受け入れるつもりになったなら結構。
「手首の包帯くらいなら、とくに問題はないと思うけれど、私は魔眼じゃない方が視力のためにはいいと思うけれどなあ。一度、設定を見直してみてね」

 生徒の心に寄り添い、困ったときの逃げ場になるのも、養護教師、いわゆる『保健室の先生』の大切な仕事の1つだ。何かあったときに、相談しやすい役割であり続ける必要がある。「それは厨二病だから、さっさと現実を見なさい」と断定する役割は、他の指導教員が十分やってくれているはずだ。

 佐藤少年が、またやってきたときに、うまく話ができるように、昔読んだっきりのケルト系の知識を更新しておきたい、それが件の店から回ろうとしたきっかけだった。でも、慣れない道から帰宅しようとしたせいで案の定迷ってしまった。さらにいうと、そういう時に裏道を通ったりしてはいけないと知っているにもかかわらず、つい近道になるかもしれないと横道にそれてしまった。

 さて、ここはどこなんだろう。

 先ほどまでは、古本屋が建ち並んでいる界隈だったが、このあたりはどちらかというと飲食店が多い。といっても、たくさん立ち並んでいるわけではなく、細い小道を曲がる度にぽつぽつと見かける程度だ。

 路地の角を曲がると、白木の引き戸が目についた。のれんと同じ京紫に近い色をした小さめの看板に『でおにゅそす』と書いてある。奥から少人数の話し声と、出汁のいい香りが漏れてきて、真知子は足を止めた。

 赤提灯の店や騒がしい居酒屋には興味はなかった。でも、静かな小料理屋などには以前から入ってみたいと思っている。

 真知子は、20代の終わりかけだが、学生時代の友人たちとの飲み会以外でお酒を飲みに行ったことはない。興味はあるのだけれど、1人で入って歓迎されるのか、どうやって注文したらいいのか、今ひとつわからなくて入りにくいのだ。

 1度は通り過ぎたけれど、もう一度立ち止まった。佐藤君だって、『魔眼のバロール』として日々中学校に通っているっていうのに、いい歳した大人の私が興味のある飲食店にも入れないのってどんなものかしら。恥をかいたって、もう2度と来なければいいだけなんだし、入ってみよう。小さな店みたいだし、満席の可能性だってあるんだし。

 引き戸を開けてすぐに目についたのは、活けてあるコスモス。それから白木のカウンターの中に立つ芥子色の小紋の女性。2坪ほどの小さな店で、奥に2人の男性が座っていたが一斉にこちらを見た。

「いらっしゃいませ」
着物の女性が、心地よい笑顔で言った。客のうち、赤い顔をした男性が大きく手を振った。
「お。お姉さん、おいでおいで」

 真知子は、これは踵を返して出て行けないなと覚悟を決めた。こうなったら、私も、小料理屋なんて週に1度は入っていますという顔をした方がいいかなと、心の中で考えた。
「あの、1人ですけれど……」

「どうぞ、どこでもお好きな席で」
狭い店なので、空いている席はあと3つほどしかない。真知子は扉を閉めて入り口に近い席に座った。女性は、真知子が落ち着くのを待ってからおしぼりを手渡してくれた。

「お姉さん、ここは初めてかい? ここいい店だよ」
先ほども声をかけた、かなりできあがっている方の客が親しげに声をかけてきた。

「西城さん、びびらせちゃ、ダメだよ」
もう1人の男性がたしなめている。

「あ、いいえ」
真知子は、居酒屋に入って酔客に話しかけられるのは慣れているという設定で、何かしゃれたことを言おうとしたが、結局何も出てこなかった。

「何になさいますか」
女性は、小さめのメニューを手渡した。A5サイズの表紙は看板と同じ京紫で、『でおにゅそす』にあわせてワインカラーなのかなと、思った。日本酒やビールなどと並んでワインもあったが、真知子は好きな酒を見つけて微笑んだ。

「梅酒をお願いします。ロックにしていただいていいですか」
「ええ。お待ちくださいね」
「あと……」
真知子は、料理のページも見た。よかった、思ったほど高くない。これなら、晩ご飯として食べていけそう。とてもいい匂いでお腹すいちゃったし。

 梅酒ロックと、ごぼうのごま和えが出てきた。あ、お通しだ。真知子は心の中で頷いた。そうか、これは自動で出てくるのね。

「何か、お魚を……」
迷いながら真知子が言うと、女性は答えた。
「召し上がれないものはありますか?」
「特にないですけれど、でも、青魚より白身の魚が好きかなあ」

「そうですか。季節のお魚ですとさよりと、サンマと戻り鰹ですけれど、どれも青魚ね……」

「あれは? 源さんの穴子の煮おろし!」
もう1人の客がいうと、西城も頷いた。
「ああ、ハッシー、あれ大好きだよねぇ。あれは他にはちょっとない美味さだから当然かあ」

 真知子は穴子が好きなので、目を輝かせた。
「そうなんですか。じゃあ、ぜひ。それと、お豆腐のサラダに、最近お野菜が足りていないから、この季節野菜の盛り合わせを」

「かしこまりました。源さん、穴子の煮おろし、お願いしていい?」
女性が、少し奥を見ると、向こうから入ってきた高齢の男性がカウンターに入ってきた。

 ごぼうを口に入れたとき、ああ、このお店は当たりだと思った。素朴だけれど、絶妙な味付けのごま和えで、もうひと口食べたいと思わせる絶妙な量だ。豆腐のサラダも水菜とじゃこにほどよい柚の香の醤油がかかっていて上品だ。
「おいしい……」

「まあ、嬉しいわ」
女性は微笑んだ。受け答えが自然で素敵な人だなと真知子は思った。着物がよく似合う。子供の頃は、歳さえとれば大人になれると思っていたけれど、この人の年齢になっても自分はこんな大人の女性にはなれなっこない。「小料理屋にしょっちゅう入っている設定」なんぞをしている時点で論外だろう。

「な。いい店だろう? 何よりも素敵な涼子ママの店だしさ」
赤ら顔の客が話しかけてきた。持ち上げたグラスが揺れて、ビールが飛び出した。

「西城さん、ほら、また粗相して、涼子ママを困らせるなよ」
「おっと、これは、失礼」
2人はおしぼりでカウンターに飛び散ったビールを拭おうとする。

「いいのよ、私がするから。西城さんも、橋本さんも、そのままで」
涼子は大して慌てずに、西城の前の皿やグラスを片付けてから濡れたカウンターを拭った。小紋の袖を手で押さえながら、決して大きな音は立てずに動かす手の動きは優雅だ。おそらくこの西城という客が酔って粗相をするのは初めてではないのだろう。とはいえ、慌てることも、いらだちを見せることもなく、あっという間に場を綺麗に納めてしまうのは、なかなかできることではない。

 涼子に見とれていると、無口に調理をしていた男性がそっと真知子の前に五寸ほどの鉢を置いた。穴子がみぞれ煮のように大根おろしとともに出汁に浮かんでいる。三つ葉が目に鮮やかだ。
「あ。いただきます」

 ひと口含むと、ふわりとしたみぞれ大根に包まれていた穴子がなんとも言えないしっかりとした味わいで主張してきた。
「美味しい……。穴子の煮物って淡泊にしかならないんだと思っていました」

 涼子が微笑んだ。
「源さんのこだわりでね。先にしっかりと味をつけてから大根を入れるの。こういう味は、私には作れないのよね」

「僕ねぇ、実は穴子の煮おろしって、ここで初めて食べたんだよ。穴子はお寿司でしか食べたことなくて、煮物だって聞いて最初は要らないって言っちゃってさ。この西城さんが横で美味しそうに食べるのを見て、失敗したと思ったんだよねぇ」
橋本が、幸せそうに食べる真知子に話しかけてきた。

「そんなことあったっけ? すっかり忘れちゃったなあ」
西城は相変わらず上機嫌でビールを飲んでいる。

 カウンターの中の2人も、客の2人も、みな自然体でいる。真知子は、小料理屋に慣れている設定で振る舞うなどということが馬鹿らしく思えてきた。

「私、こういうお店に入るの初めてで、とても迷ったんですが、勇気出して入ってきてよかったです」

「おう。そうか! 初めてがここだなんて、ラッキーだよなあ」
西城が赤い顔をほころばせると橋本も頷きながら訊いた。
「本屋さんの帰りかい?」

 真知子の置いた荷物から本が何冊か覗いている。
「ええ。古本屋を巡るのが趣味で。でも、方向音痴で駅がどこかわからなくなってしまって」

「おや。じゃあ、涼子ママ、この店の場所を書いたカードをあげておかないと」
「そうね。是非またきていただきたいもの」

 看板と同じ京紫のカードに店名、住所とともに「伊藤涼子」と書いてあった。それをもらえたことがとても嬉しい。もちろん、また来るつもり。設定じゃなくて、本当にこの店に来慣れている客になろう。真知子は、カードを大切に財布にしまった。

(初出:2021年10月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

肉まんの季節

あいかわらずの食いしん坊の話題です。

肉まん

急激に寒くなったのです。出勤時に手袋がなくて「失敗した」と思うくらいに。1℃なんて日もザラです。

こうなると食べたくなるのが肉まんですけれど、もちろんコンビニで簡単に買うというわけにはいきません。そもそもコンビニもないし。

で、作りました。

肉まんは、以前にも作っていますけれど、その時々に出来が違いました。わざわざ作るからには「作って良かった」というレベルにしたいじゃないですか。なので、以前「なくてもいいか」とはしょった物をはしょらずに、自分にできる最大限の努力をして作りました。

まず皮はベーキングパウダーではなくドライイーストで。それも、金サフという日本でわざわざ買ったドライイーストを使いました。皮はウーウェン氏のレシピです。皮に砂糖や油が入っているところが、簡易レシピとの違いです。

そして、肉餡は周富徳氏のレシピ。合い挽き肉だけでなく海老や青菜も入っています。そして、個人的に前回省略したために「いまいち」と感じた原因だと思ったタケノコと椎茸も調達してたっぷり入れました。調味料にはちゃんとオイスターソースも入れました。

そうやってできあがった肉まんは、見た目は前回と作った物と大して変わりませんでしたが、中身は全然違って「うわ。中華街の味!」と感動できる味わいでした。

写真にあるように蒸籠で蒸したのですけれど、やはり肉まんだけは普通のお鍋よりも蒸籠の方が氣分が上がりますよね。断捨離したくてもこれはまだ無理だなと思ってしまう調理器具の1つです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -15- ブランデー・エッグノッグ

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の店』の12月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

『12か月の店』のラストを飾る舞台は、『Bacchus』です。うちのブログで飲食店といったら、やはりここかなと思い12月まで待ちました。店主の田中はもちろん、常連3人組も登場です。なぜ下戸ばかりが……。

短編小説集『12か月の店』をまとめて読む 短編小説集『12か月の店』をまとめて読む

【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -15- ブランデー・エッグノッグ

 店の奥に背の高い棚がある。小さな脚立に載って箱をいくつかとりだした。普段使わない季節の飾りは箱に詰めてしまってある。今年もカウンターにクリスマスツリーを飾る季節がやって来た。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにあった。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と記してある。

 バーテンダーでもある田中佑二がほぼ1人で切り盛りするこの店には、目立たない立地ゆえ、クリスマスだと浮かれて入ってくるタイプの客はまずいない。だが、老若男女の常連たちは、店の装飾が変わることを歳時記のように捉えて話を弾ませる。

 田中は、ハロウィンが終わるやいなや街がクリスマスの飾り付けだらけになるのを静観し、自分の店は12月に入ってから飾りつけることを常としていた。

 カウンターの一番入り口に近い場所にツリーを据える。金と赤の2種類の小さい飾り玉をバランスよく吊していく。赤い飾り玉には、虹のような光沢がある。カウンターの角とテーブル席には小さいポインセチアを飾る。

 最後の鉢を奥の席に置いているときに、ドアが開いた。落ち着いたオーバーコート姿の年配男性が伺うように立っている。

「いらっしゃいませ」
「まだ準備中かな」
「いいえ、開店しております。どうぞお入りください」

「1人なんだが、いいかね?」
「もちろんです。テーブルとカウンターと、どちらがよろしいでしょうか」
「カウンターにしようかな、ここ、いいかね?」
 彼は、入り口に近い端の席を見ていた。初めての客がよく選ぶ席だ。コート掛けや出入口に近くて落ち着くのだろう。田中は頷いた。
「どうぞおかけください」

 田中は、彼がコートをハンガーに掛けて、カウンターの下に紙袋をしまい、座って落ち着くのを待ってからおしぼりとメニューを手渡した。
「どうぞ」

「ありがとう。……その、僕はこの手の店に入ったことがなくてね。勝手がわからないんだが」

 謙虚で率直な物言いには好感が持てる。
「そうですか。特別なルールはございません。お好きなお飲み物や肴をお選びください。また、こんな飲み物がほしいといったご要望をおっしゃっていただければ、お奨めのカクテルなどを提案させていただきます」
「そうか。じゃあ、ちょっとメニューを見せてもらうよ」
「どうぞごゆっくり」

 また入り口が開く音がした。朗らかな声がした。
「こんばんは」

「ああ、久保さん。いらっしゃいませ。今晩はお早いですね」
「そうなの。残業を頼まれる前に逃げ出してきちゃった。あ、夏木さんと近藤さんも、来たみたい」

 久保すみれの言葉通り、いつもの常連仲間が階段を降りてきた。この下戸3人組は、火曜日にはたいてい早くからここに集う。
「いらっしゃいませ。夏木さん、近藤さん」

「こんばんは。田中さん、皆さん。お、久保さんに負けたか」
夏木は、慣れた様子でコートを脱いでからカウンター席の奥、すみれが手招きするいつもの椅子に向かった。

「こんばんは、田中さん。ああ、ここの飾り付けが始まったか。クリスマスが近いもんなあ」 
近藤は、少し大仰な動きで中折れ帽を脱ぎ、コート掛の上に置いた。コートの下は相変わらずのイタリアブランドのしゃれたスーツを着こなしている。好んで座るほぼ真ん中のカウンター席に座ると、勿体ぶった様子で眼鏡を持ち上げた。

 すみれは、わずかに聞こえる程度に、クリスマスの定番ソングをハミングしながらメニューをめくった。
「あ。これにしようかなあ。『青い珊瑚礁』。クリスマスの飾り付けが始まるまで我慢していたし……」

 隣の夏木が「どれどれ」とのぞき込んだ。
「ああ、なるほど、きれいなクリスマスカラーだね」

 緑のペパーミントリキュール、赤いマラスキーノチェリーがカクテルグラスに沈み、まるで逆さクリスマスツリーだ。ジンベースなので、アルコール度数は高めだ。田中は静かに言った。
「お2人とも、そちらをいつものようにお作りしますか?」

 2人とも、ぱっと顔を上げて嬉しそうに頷いた。「いつものように」というのは、アルコールにあまり強くないすみれには、規定よりもずっと少ない量のジンを使い、1滴のアルコールも飲めない夏木用にはノンアルコールで作るということだ。

 近藤は笑いながら言った。
「じゃあ、僕は久保さんと同じバージョンで」

 近藤もまた、強いアルコールを受け付けない体質だ。田中は「かしこまりました」と頷いた。

 入り口近くに座る年配客は、若い常連客たちが楽しそうにカクテルを注文する様子をじっと見ていた。

「お決まりですか?」
田中が訊くと、彼は首を振った。
「いや、洋酒の名前はさっぱりわからなくてねぇ。さっきも行ったように、ここみたいなお店に無縁で生きてきたもんだから」

「私も、1年くらい前まではこういうお店、怖くては入れなかったんですよ。田中さんが親切なので、何でも質問できるようになって、すっかり図太くなりましたけれど」
すみれが話しかけた。

「僕も、アルコールが飲めないので、こういう店は敬遠していた口ですけれど、ここは居心地がよくて通っています」
夏木が続けた。

 年配の客は笑い返した。
「私が若かった頃、こういう店に入ることに、その……なんというか変に浮ついていてイヤだという想いがあって、頼まれても入ろうとしなかったんだよね。バブルが弾けてからは、こちらも経済的に苦しくてそれどころじゃなかったし、結局、来そびれたままこの歳になってしまってね」

「今日、ここに足を運んだのはどうしてですか?」
近藤の質問は、他の3人も訊いてみたいことだった。

「何だろうねえ。ああ、東京駅でクリスマスの買い物をして、昔のことを思いだしたんだよな。バブル時代につきあっていた女性が、クリスマスくらいバーでカクテルを飲むようなデートをしたいと言い出して、喧嘩して別れたんだよなあ。そんなことを考えながら歩いていたら、ここの看板が目に入ってね」

「僕は、反対の方向に肩肘張って失敗しましたよ。でも、今では、ここでだけはほっとひと息しながら寛げているなあ。ね、お2人さん?」
近藤が、それでもまだ十分にキザっぽいもの言いで問うと、慣れているすみれと夏木は頷いた。

「なぜ、あれっぽっちのことで意地になったんだろうなあ。まあ、それから彼女も誰かと結婚して幸せになったらしいですし、こちらも今ではそこそこの隠退生活にたどり着けましたからねえ。そんなわけで、過去にできなかったことや、しなかったことを、1つずつやり直しているんですよ」

 田中は先ほどこの客が百貨店の紙袋を大切そうに持っていたことを思い出した。
「クリスマスのお買い物にいらしたのですね」

「ああ。田舎に住む姉の孫がね、なんだかアニメのキャラクターに夢中らしくてね。東京駅の地下にあるショップで買ってきてほしいと頼まれたんだよ」

「あ、知っています。東京キャラクターストリートですよね」
スミレが頷いた。

「何だ、そりゃ?」
夏木が訊く。

「アニメやマンガの公式ショップがずらっと並んでいる商店街みたいなところなの」
「へえ? 知らなかったな。そういうものは、秋葉原にあるのかと思っていた。東京駅にねぇ」

「おや、この近くに勤めているのにあれを知らないのかい? ずいぶん前からあるよ」
近藤が若干からかうような調子で訊いた。夏木は口を尖らせる。
「僕は、日本橋駅を使うから、東京駅は新幹線に乗るときぐらいしか行かないし」

 年配客が、取りなすように行った。
「僕も全然知りませんでしたよ。丸の内側の地下は行ったことがあったんですが、八重洲側があんな風になっていたのには仰天しました。そもそも八重洲側に来ることはほとんどなくて」

 田中は言った。
「東京のことは、地方の方が案外よくご存じですよね」

「そうだな。姉は、僕を乗せるのが昔からうまくてね、田舎でもよくお使いに出されたものだけれど、その度に珍しい店などを知るきっかけになったよなあ。そういえば、ここもそうか。八重洲側に来なければ通らなかった道だし」
彼は、嬉しそうに言うとメニューを閉じ、田中を見て言った。
「ここはひとつ、姉にちなんだお酒でも見繕ってもらおうかな」

「それはいい。田中さんのお任せカクテルは、美味しいですよ。ま、僕のはノンアルコールだけれど」
夏木が笑う。

「何かお姉さまの思い出か、格別お好きなお味はありますか?」
田中は、少し身を乗りだして訊いた。

 年配客は、少し首をひねってから、はたと思いついたように顔を上げた。
「そうそう、寒い日は、風邪をひいたわけでもないのに予防よ、なんて言って卵酒を作ってくれたなあ。僕はあれが好きでね。卵をつかったお酒なんてありますか?」

 田中は頷いた。
「エッグノックという飲み物がございます。欧米では卵酒と同じように、寒い日や眠れない夜、それにクリスマスのマーケットなどで身体を温めるために飲まれているドリンクですが、ブランデーやラムなど各種のスピリッツを入れたカクテルとしてもよく飲まれています。お好みよっては、マデイラ酒やシェリーといった酒精強化ワインを使う場合もあれば、アドヴォカートという卵のリキュールで作る場合もございます」

 年配客は、頭をかいた。
「ブランデーやラムはわかるけれど、あとはよくわからないな。強くてもいいけれど、甘すぎない感じの、よくある感じで作ってもらおうかな」

「かしこまりました。それではブランデー・エッグノックをお作りしましょう」
田中はいくつかのブランデーをブレンドして作る、野性味が強くコクのあるアルマニャックの瓶を手に取った。

 ノン・アルコールの、または非常に弱いジンのカクテルグラスを持ち上げて、若い3人は「乾杯」と言った。

「今年も、何もしないまま1年通り過ぎちゃった感じね」
「健康で、この店に通えただけでも、大した偉業じゃないかい?」
「それは、言えるな」

 年配客は、カクテルを待つ間に、若者たちの様相を眺めていた。グループではなく、ここでよく会う常連客らしい。他の客を無視して騒ぐこともなく、かといって立ち入る様子もない。居酒屋などで見慣れたグループ客たちとも違うし、彼が毛嫌いしていたバブル時代によく見たスノッブなバーの常連客のイメージとも全く違う。

 カウンターでこの落ち着いたバーテンダーを囲みながら過ごす時間は、確かに心地よさそうだ。

「お待たせいたしました。ブランデー・エッグノックでございます」
淡黄色のタンブラーがすっと置かれる。これまでの彼なら「女コドモの好きそうな色だな」と言いそうなパステルカラーだが、姉に作ってもらった卵酒を思い出したので、妙に懐かしく心も躍った。

「あれ、暖かい」
カクテルというのは冷たいものだと思っていたので、思わず声が出た。

「冷たいブランデー・エッグノックをお出しすることが多いのですが、今回はお姉さまの思い出にちなみ、ホットでお作りしました。いかがでしょうか」

 湯氣にわずかにスモーキーで芳醇なブランデーの香りがする。会社勤めの頃、接待をした時にホテルで飲んだ高いブランデーのことを思い出した。無理してストレートで飲んだけれど、馴染みのない味と行き慣れない場に緊張して楽しむこともなかったな。

 だが、卵とホットミルクに包まれたこのブランデーの香りは、なかなかいい。我が家に居るときの懐かしさや温かさとは違うが、落ち着く。あえて言うなら、接待で飲んだブランデーは高層ビルで夜景を眺めるような場違いさを伴っていたが、このホットカクテルに隠れているブランデーは、古い民家で暖炉に暖まりながら座るような落ち着きをもたらす。

 ひと口、含むと見た目ほどの甘さはなく、ふんわりとした味わいに包まれながら、ブランデーのわずかな焰が喉を通過していく。
「これは、美味いね。卵酒は甘さが強く、大人になってから飲もうと思ったことはなかったし、ブランデーはストレートがさほど美味しいと思っていなかったから、これが最初で最後のつもりで注文したんだが、これなら冬はいつでも行けそうだ」 

 田中は「恐れ入ります」と微笑み、3人の客はわっと喜んだ。

「じゃあ、僕も次はそれにしてもらおうかな」
近藤が言うと、残りの2人も続く。

 バブルっぽの浮かれた客や小洒落た店が嫌いか。十分に洒落たバーのカウンターで、いまだにバブル期を継続している感のある言動の近藤を横で見ながら、年配客は心の中で笑った。そんなに毛嫌いする理由はどこにもなかったな。

 クリスマスに洒落たバーに行きたいと主張する昔の恋人は、レッテルに縛られた可哀想な女だと思っていた。だが、レッテルに縛られていたのは自分もそうだったのだ。楽しそうな若者を横目で見ながら思う。

 この冬は、ときどきここに来て、エッグノックで温まるのも悪くない。

ブランデー・エッグノッグ(brandy eggnog)
標準的なレシピ

ブランデー - 45ml
(うち15ml分をダーク・ラムにすることもあり)
シロップ - 1tsp
卵黄 - 1個
牛乳 - 適量
ナツメグ

作り方
1. 牛乳以外の材料をしっかりとシェイクする。
2. 氷を入れたタンブラーグラスに注ぎ、牛乳を加えてステアする。
3. ナツメグを使うときは仕上げに振る。



(初出:2021年12月 書き下ろし)

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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(23)決断 -2-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「決断」の後編をお送りします。

23もといドン・アルフォンソが、異例ながら自分の決断の前に当事者である22を訪問しています。普段は、今回のようにストーリーの根幹となるシーンはだいたい最初に執筆に取りかかるのですが、どういうわけかこのシーンはかなりギリギリまで書きませんでした。どういう書き方がいいのか、結構悩んだ部分でもあります。

そういえば、今日も予約投稿に失敗しましたね。最近多いなあ、疲れているのかしら。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(23)決断 -2-

「先日、アントニアがライサ自身に彼女の近況と意向を訊きました。家に戻って以来、問題がないか、彼女がなぜここに戻ってきているのか」
「会ったことは、アントニアがその日のうちに告げてくれた。家族との問題はなさそうだ。生活もお前たちが保証するなら困窮することはないだろう」

「ライサは、就職を希望していますが、一番働きたい場所は、ここだと口にしました。それについて、アントニアはあなたに報告しましたか」
「いや。その話はしなかった。当然だろう、腕輪を外された以上、ここで働くことは不可能だ」

 かつて目の前の男の兄である当主が、回復途上のライサの腕輪を外し、早々に家に戻した理由を彼は理解していた。

「外した腕輪を本人の希望で再びつけることには問題はありません。ルシアの代わりにここで働くことも問題はありません。もちろん、その場合にはかつてのように24時間体制の監視になりますが、それについてさえご理解いただければ……」

 彼は頭を振って遮った。
「お前は、もうドラガォンの運営の要であり、蚊帳の外のインファンテではない。《好ましくない兆し》について報告を受けているはずだが」
「はい。受けています。けれど、この屋敷では、まだ1度もレベル2以上の行動が見られたことがないことも知っています」

「そして、お前はそれを起こさせて、私が再び格子の中に押し込められるのを見たいのか?」
「まさか。私は、あなたがどんな方か存じています。あなたは、信じられぬほどの克己心でご自身を律し、私自身のインファンテとしての生き方の指針となってくださった。私は、ライサが再びあなたの側に来たとしても、何か憂慮すべき事態が起こるとは全く思っていません」

 彼は従甥の顔を見て口をつぐんだ。23が皮肉でも牽制でもなく、むしろナイーヴすぎるほどの信頼を込めて彼を見つめているのをしばらく観察した。彼は、崩れ落ちそうになる鎧を改めて着重ねなければならなかった。
「私は新しい世界でのライサの幸福を心から祈っている」

「叔父上。私は、あなたを自由にすることも、名前を差し上げることも、結婚を許可することもできません。だが、少なくとも、愛する人と同じ空間で年月を重ねるための手助けはできます。あなたが幸福になるためにできる限りのことをしたいと真剣に願っています」

「お前は、それが何を意味するのか、わかっているのか」
大きく表情を変えることもなかった。彼は、当主となったかつてのインファンテである青年を一瞥した。

「わかっているつもりです」
「だったら、私にそれは不可能であることがわかるだろう」

 口を一文字に結んでこちらを見る23の表情を見ながら、彼はこの男は似ていてもカルルシュとは違うなと改めて思った。それとも憎み続けたことで、彼はカルルシュの彼に向けた真摯な想いをなきものにしてしまったのかと思い返した。

 マヌエラ、お前は正しかったのかもしれない。お前はカルルシュを選び、次の世代を生み出した。この青年は、この澄んだ魂を持つ当主は、おそらくドラガォンにふさわしいのだろう。彼は瞳を閉じた。

 ライサの可憐で弱々しい笑顔がよぎった。共にソファに腰掛けて『グラン・パルティータ』を聴いたときの、暖かくくすぐったい想いが甦った。リストの『ため息』を微笑んで聴くマヌエラの姿が浮かび、その笑顔はライサとなってから消えていった。

 その向こうに、ずっと遠くに1人の女が立っている。肩をふるわせ、死刑宣告を待つように、憂いに満ちた瞳を見開いて、それでも目を背けずに彼を見ている。

「お前の姉は……」
彼は、再び瞼を開き、はっきりと口にした。
「私の大切なアントニアは……私を底のない孤独から救い出してくれた。ここに来て、私に寄り添い、共に奏で、わがままを言うことを教え、語り合う歓びを与えてくれた。私を絶望の檻から解放してくれたんだ」

「叔父上」
「お前は私に、そのアントニアの魂を私がかつていた地獄につきおとせというのか。あれほど長い時間を過ごさざるを得なかった、妬みと憎しみと孤独しかない檻の中に、私のこの手で押し込めろというのか。否、絶対に!」

 彼は、従甥が大きく息をして視線をそらすのを見つめた。これで終わりだ、ライサ。私はお前に至る綱を断ち切ってしまった。

「では……本当にそれでいいのですね」
黒い巻き毛が揺れた。彼はまだ苦しんでいるようだった。当主というのも辛い立場だなと、彼は心の中で笑った。

「23、いや、『ドン・アルフォンソ』」
彼は、毅然と語りかけた。
「はい」

「当主『ドン・アルフォンソ』は、すでにこの件について決断を下した。ライサ・モタの腕輪を外し、この館から遠ざけた。既に1度青い星を持つ男に選ばれた赤い星を持つ女が、間違いを犯すことがないように。決定はもう下したんだ。2度同じことに迷う必要はない、わかるか」

 亡くなった兄は、インファンテであった弟がこの決定で悩み苦しむことを知っていたに違いない。だから、はっきりとした決定を下してから逝ったのだ。新しい当主『ドン・アルフォンソ』となった青年は、22の言葉に青ざめて頷いた。

「あなたの人生を、苦しめてばかりの私たち親子について、心から陳謝します」
立ち上がった青年は、苦しげに呟いた。彼は、いつもの冷ややかな笑いを取り戻して答えた。

「ふん。そうとは限らないぞ。お前の祖父の言葉を借りるなら『勝負はまだついていない。油断するな』というところだな」
「叔父上?」
「お前の妻は身籠ったそうだが、男子が生まれるとは限らないし、《碧い星を5つ持つ者》を生ませることができるのはお前と24だけではないからな」
「……」

 当主は、太い眉をわずかに歪ませて、黒い瞳で彼を見つめた。驚きと感謝、それに同情と悲しみも混じっている複雑な表情だった。

 固い握手を交わして、若い青年は居間を出た。彼は、扉が閉められ、モラエスが当主を送って玄関へと向かうのを耳にした。会話が耳に入った。

「急ですまないが、この館の監視体制を再び24時間に変えなくてはならない」
「とおっしゃいますと、ライサ・モタが戻ってくることになったのですか?」

 それ以上の会話は聴こえなかったが、彼には会話の続きが想像できた。

「いいや。ライサ・モタが戻ってくることはない。監視対象は、インファンテ322とインファンタ・アントニアだ」
それを耳にするモラエスは、さぞ驚くに違いないが、喜ぶのだろう。とどのつまり、あの男も《監視人たち》中枢組織に属しているのだから。
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Posted by 八少女 夕

お腹を凹ます話

今日は、ダイエット系の話題。いや、加齢の話題か? ま、どっちでも。

いらすとや 

私は、強引に2つに分けるならば「痩せ型」体型です。知人に「ダイエット系」の話題をすると、ほぼ必ず「必要ないでしょう」というリアクションをもらいます。自分でもずっと必要ないと思っていました。ある年齢に達するまでは。

でも、お若い方はまだわからないと思いますが、ある年齢になると突然体型がおかしくなってくるのですよ。

人生で何回か体重の増減を繰り返しましたが、その度に胸が減り、お腹が増えました。ええ、胸は絶対に増えないのですよ。元から貧乳でしたけれど。そして、氣がつくと、みごとな洋梨体型に。加えて「お腹を締め付けるのは血行に悪い」という自分に都合のいい情報だけを実践していたため、お腹周りに余裕を持つ衣類ばかり着ていたら、その空間を埋める勢いでたるんでしまいました。

昨年から自転車通勤がなくなり、代わりに毎日30分歩いていたのですけれど、その楽すぎる運動も筋肉を減らして太る原因に。今年の6月にフランス語圏で美味しいものを食べたら、どんなに頑張っても体重がここ数年の平均を1キロ以上も上まる状態になってしまい、一念発起してトレーニングすることにしました。

ネットで情報を探した結果、お腹周りの筋トレとストレッチを一緒に揺るのが効果的という話が多く、動画なども探して、結局、下の動画を実践することにしました。



そして、数日で妊婦のようだったぽっこりお腹に筋が見えてきました。さらに、お通じが劇的に良くなり、10日くらい続けたら、目標だったマイナス1.5キロを達成。シックスバックというには微妙な筋肉ですけれど、少なくとも信楽焼の狸のようなお腹ではなくなりました。

大してキツいトレーニングではないのに、効果はかなりあったので、このまま続けようと思っています。
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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(23)決断 -1-

今日は『Filigrana 金細工の心』の「決断」をお送りします。

今回は、姉に無理難題を相談されてしまった新当主、もと23がぐるぐるしています。でも、彼は決断を下す立場にあるのです。はっきりいって、インファンテのままでいた方が楽だったかもしれません。どちらにしても自分で決断できることなどほとんどなかったのですから。

今回は、2回に分けました。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物




Filigrana 金細工の心(23)決断 -1-

 使い込まれた黒檀のデスクの上に、黒革の皿がある。その上に置かれた黒い万年筆は、当主の書斎であるこの部屋で、彼が居住区に閉じ込められたインファンテだった頃から使っていた唯一の物だ。この部屋に居るべき者として、彼はようやく違和感を感じなくなってきた。

 厳格な祖父ドン・ペドロが当主だった頃は、子供たちがこの部屋に足を踏み入れるなど、想像すらできなかった。父ドン・カルルシュが当主になってから、彼が居住区に閉じ込められるまでの5年ほどの間に、数回ほど足を踏み入れたことがあるが、ここに座る父は、いつもと異なり威圧感を醸し出しているように感じた。

 代々の当主が、その責務の重さに耐えながら数々の決して親切とは言えぬ決定を下してきたのがこの部屋のこの黒檀のデスクなのだ。

 彼は、当主として理想的とは言えぬであろう決定をすべきかどうかについて、考えをめぐらせている。

 ライサに、腕輪を再び付けて、『ボアヴィスタ通りの館』の使用人として雇う事自体は、いかなるドラガォンの掟にも反していない。彼の一存でそれは可能だ。だが、その後に何が起きるかを彼は容易に想像できた。

 彼女は既に24に選ばれた。お互いにどれほど想い合っていても《監視人たち》は、2人が一緒になる事を許さない。自制心の塊である誇り高き彼の叔父は、《監視人たち》に阻止されずとも、理性で衝動を押さえつけるだろう。それがどれほどの苦悩を叔父に強いるかを彼はわかっていた。

 亡くなった彼の兄が、ライサの腕輪を外したのも、おそらく同じ理由だったに違いない。

 今になってアントニアが、彼の幸福のためにライサの願いを彼に伝えてくるとは思っていなかった。姉は、長い時間をかけて手にした居場所を脅かす存在が取り除かれたことに安堵しているのだと思っていた。

 決して受け入れようとしない男の側に居るために、アントニアがありとあらゆる努力を続けてきたことを彼は知っている。親世代の因縁が絡む絶望的な場所に産み落とされてしまった自らの運命に、彼女は抗い戦い続けてきた。誰ひとりとして手助けできず、固唾を呑んで見守る中、彼女は少しずつ叔父の凍てついた心を溶かし信頼関係を築いてきた。女としての恋情の代わりに姪としての親愛を勝ち取り、彼の一番親しい者の椅子をようやく温めることができるようになった。

 それなのに、アントニアは自らその座を明け渡そうというのだ。ただ愛する男を喜ばせるためだけに。

 彼は、メネゼスに自ら2人と話をすると伝えた。叔父と、それからライサと。『ボアヴィスタ通りの館』にいるインファンテ322と話すことはともかく、当主自ら《星のある子供たち》でも《監視人たち》中枢組織幹部でもない者と会合を持つことは異例だ。だが、メネゼスは反対意見を口にすることはなく、スケジュールや場所の設定などをすぐに始めてくれた。

 自分が要注意人物であるインファンテではなく、すでに当主として扱われていることに、彼自身がわずかに戸惑った。メネゼスは、万全のバックアップ体制で彼を支えてくれる。その信頼が彼の甘さ、非情な当主としての責務よりも身内への優しい対応を願う想いに冷水を浴びかける。

 彼は、既に当主だった。彼の代わりに名もなき者として冷たい石の下に眠る兄に託された責務を果たさなくてはならない。

 彼の弟に恐怖のどん底に落とされて心身共に傷ついた娘の望みを許してやりたい。インファンテとしての苦悩を知る身として、そして、父親と母親の結婚で絶望の底につき落とされた叔父の人生最後になるであろうロマンスを、叶えてやりたい。彼にとって大切な理解者であり愛する姉である女を苦しめたくない。願えば願うほど、誰もが幸福になる解決策などない。

 彼は、迷ったまま『ボアヴィスタ通りの館』で叔父と面会することになった。

「お久しぶりです。叔父上」
「結婚式以来だ。さほど久しいというわけでもないだろう」

 父カルルシュは、この館に彼を訪れたことはなかった。亡くなったアルフォンソもだ。

「わざわざ、当主みずからが足を運ぶとは、めずらしい。何の用だ。世間話に来たわけではないだろう」
「いいえ。伺ったのは、ライサ・モタの件で叔父上のご意向を知りたいからです。腕輪を外され、《星のある子供たち》の義務から自由になったにもかかわらず、たびたびこの屋敷の前の通りに足を運ぶのが報告されています。叔父上もおそらくご存じかと思います」

 ライサの名前を聞いただけで、なぜこれほどに心が騒ぐのだ。彼は、心の中で毒づいた。目の前の従甥に動揺を悟られるのは絶対に嫌だった。
「窓から何回か見た。問題行動をしているのは見たことはないが、そうならばお前たちが勝手に処理すればいいだろう、いつものごとく」

 従甥は、「処理」という言葉を耳にすると、わずかに眼をそらし、それからしっかりと彼の方を見た。
「いいえ。これは叔父上のお心に関わることです。前々当主ドン・ペドロ、前当主ドン・カルルシュ、そして当代『ドン・アルフォンソ』と3世代によって翻弄されてきたあなたの人生とお心を、これ以上無視して掟遂行のためになにかを『処理』することを、私はしたくありません」

「大袈裟だな。さっさと話せ」
彼は、ため息をついた。
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Posted by 八少女 夕

【小説】樋水龍神縁起 東国放浪記 夕餉

今日の小説は『12か月の店』の9月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。

今回の舞台は、さらにイレギュラーで、そもそもレストランではありません。若狭小浜にて従者次郎が病に倒れてしまい、たまたま面識のあった萱に救われ長期滞在することになりましたが、今回の舞台はその濱醤醢醸造元『室菱』です。平安時代の食生活をいろいろと調べて盛り込んでエピソードにしてみました。だからなんだというわけではないのですけれど。

というわけで、『樋水龍神縁起 東国放浪記』とはいえ、今回、主人公の春昌は出てきません。次郎回です。

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【参考】
「樋水龍神縁起 東国放浪記」をまとめて読む 「樋水龍神縁起 東国放浪記」


樋水龍神縁起 東国放浪記
夕餉


 庇の向こうに桜の赤く染まった葉が風に舞っていった。まだ早すぎると思ってから、そうでもないと思い直した。暦の上ではとうに秋だが、陽の高いうちはわずかに動き回っても汗ばむ日が続いている。三根は盆に夕餉を載せて、次郎の小部屋に向かった。

 夏の始まりにこの地に足を向けた貴人とその従者は、これほど長く逗留するつもりではなかったらしい。だが、従者である次郎が瘧疾わらわやみ に罹り、とても主の世話をしながらあてのない旅をすることができなかったのだ。

 奥出雲で生まれ育った次郎は、瘧疾に罹るのは初めてだという。数日おきに高熱が出るこの病は、若狭国ではありふれたもので、子供の頃から幾度も罹っている三根はひと月半も寝込むようなことはもうない。次郎の主である安達春昌も、摂津国で生まれ育ったといい、瘧疾にはやはり子供の頃に幾度か罹っていたそうだ。なかなか治らぬ己の病で主を足止めしているだけでなく、見ず知らずの主従を客としてもてなすことになった『室菱』の若き女主人萱の迷惑を思い、次郎は事あるごとに床に頭を擦りつけて詫びた。

「そんなに、平伏しなくてもいいのよ、次郎さん」
三根は、次郎の看病役を務めてきたので、すっかり次郎と心やすくなっている。はじめは「次郎様」と呼んでいたのが、最近はふたりの時には敬語も忘れがちだ。

「萱様、樋水で媛巫女様にお目通りしたときに、なんだかすごい物をいただいたんですって。だから、媛巫女様のご縁の方の面倒を看るのは当たり前だっておっしゃっていたわよ」
「あれは、こちらが例祭で必要な姫川の御神酒をお譲りくださったお礼で……」

 そういいながら、次郎はかつての主人であった媛巫女瑠璃と萱の不可思議な邂逅について思いを巡らせ口ごもった。

 都からの使者や大社の神職とも滅多に会おうとしない媛巫女が、若狭からの平民である娘の来訪に心騒がせ、打診もされなかったのに神域の奥深く龍王神の住まう池前まで呼び寄せたのだ。そして、しばらく几帳の向こうで語らい、その時に神酒献上への返礼とは別に内々に玻璃珠を下賜をしたことを知っていた。

 媛巫女付の従者となってよりそのようなことはただの一度もなかったので、次郎は若狭『室菱』の女のことは忘れていなかった。

 次郎は、亡き媛巫女の最期の命に従い、安達春昌に命の終わるときまで付き従うこととなった。まさか自らが病に倒れるとは思いもしなかったが、その時に手を差し伸べてくれたのが他ならぬ萱だったことは亡き媛巫女の導きだろう。この間に萱は父の後を継ぎ元締めとなっていた。

 彷徨の間、貧しい家に露しのぎを請うことも多く、主人と同じ部屋の片隅にうずくまるを常としてきたので、小さいとはいえ自分だけに与えられた部屋でゆっくりと休むことが、許されざる贅沢に感じられる。一方で、客として遇される主人が彷徨の疲れを癒やす刻を持てたことを、次郎は媛巫女の采配と感じ、ありがたく受け止めてもいた。

 三根は、日に三度膳を運んでくれる。熱の出ない日には、次郎は起き上がり、春昌や馬の世話をしようとしたが、弱った体が言うことをきかない上、諸々の用事は『室菱』の家人たちが万事済ませてくれたので、諦めて熱はなくとも褥に横たわり、何かと世話を受けるままでいた。

 旅の間はまともな食事にありつけぬ事も多く、腹一杯食べられることは多くなかった。だが、三根の運んでくる膳の上には、病のために食が細っているのが無念なほど、十分な量が載っていた。ようやく起き上がり、余すことなく食べられるようになった。粥ではなく歯ごたえのある姫飯、根菜汁、小魚が二尾ほど、山菜などが並ぶ。それどころか、三根が酒の酌までしてくれるのだ。

「この姫飯には、白米ましらけのよね が入っているようだけれど、私ごときにそんな高価な飯を……」
次郎は、氣になっていたことを口にした。故郷の樋水龍王神社では、宮司とそのほか数人の上位神官のみが丁寧に杵つきした白米を食することができ、郎党だった次郎はヒエと粟、または固い玄米以外は口にしたことがなかった。献上品となる濱醤醢はまひしお の元締めたる醸造元とはいえ『室菱』で皆が米を食べているとは思えない。

「特別よ。なんてね、私たち使用人も病に伏せるときやお正月に食べさせてもらうの。萱様ご自身も、お正月以外は召し上がらないのに。萱様って、そういうお方なの」

 次郎は頷いた。萱は仕事には厳しいが、三根たちにとって優しい心根のいい主人であることをすでに感じていた。

 小皿に載った塩と醤醢を山菜に混ぜて姫飯に載せた。小さな茸がコリッと音を立て、そのあとに口の中になんとも言えぬ華やかな味わいが残る。なぜこのように美味なのだろう。無心に味わう次郎を見て、三根は誇らしげに笑いかけた。
「美味しいでしょう」

「ああ。これって何という名の山菜なのか? 格別な味がするんだが」
「蕨と蟒蛇うわばみ 草にワケ茸かな。でも、美味しく感じる秘密はその醤醢よ。天子様が絶対に切らさない若狭の濱醤醢の味、素晴らしいと思わない?」

 次郎は腰を抜かすかと思った。同じ大きさの壺に入った砂金ほどの価値があると言われている献上品だ。
「なんだって? それ程貴重な醢を私なんかに?!」

「心配しないで。献上品ではなくて、樽の底に残った滓をためて作ったものだから。でも、捨てるなんてもったいない味でしょう? 山菜や茸と組み合わせるとさらに美味しくなると見いだしたのは岩次爺さんなんですって」
「ワケ茸も、蟒蛇草もいくらでも食べたことがあるが、醤醢と組み合わせると上手くなるなんて不思議だな。こんなに美味くなるのならば、殿上人が欲しがるのも無理はないな」

 三根は不思議そうに次郎を見つめた。
「樋水の媛巫女様は、天子様の覚えめでたいお方だったんでしょ? 殿上人みたいなものを召し上がっていたんだと思ってたわ」

 次郎は首を振った。
「宮司様たちは、都の貴族と同じような立派な御膳を召し上がっていたけれどね。媛巫女様は、それをお断りになったんだ」
「まあ。わざと?」

 次郎は、好奇心丸出しな三根の問いに少し笑いつつ答えた。
「ああ。下賤のお生まれで舌が受け付けぬのでは、などと口さがなきことを言う者もあったけれど、媛巫女様は召し上がるものに、私どもとは違う何かを感じていらしたようだ。強飯に使われる白米ましらけのよね は、氣が途絶えているとおっしゃったんだ」
「氣?」

「やんごとなきお方たちの召し上がる白米ましらけのよねは、固い殻や糠を杵と臼を使って丁寧に取り除くだろう? 媛巫女様は、それを米の抜け殻とおっしゃっていた。私たちの食べるヒエや粟の雑穀に玄米を混ぜて姫飯にしたものには、それぞれの氣があふれているとおっしゃってね。それ以外は召し上がろうとなさらなかったんだ」

 三根は、目を見開いた。
「それって、もしかして、私たちの食べているものの方が、尊いかもしれないって事?」

 より尊いと言えるだろうか。宮司たちのために用意された御膳を見て、垂涎の思いをしたことは幾度もあった。貴重な濱醤醢を日々惜しげなく使っているだろうやんごとなきお方たちの食はさらに豊かで尊いだろう。

「まあ、そう一概には言えないけれどね。でも、例えば、媛巫女様は冬に咳逆しはぶき に罹られたこともなかったし、齲歯痛かめはのいたき に苦しまれたことも一度もなかった。宮司様たちは、繰り返しそうした不調に悩まされていて、媛巫女様が氣を整えて差し上げねばならぬ事も度々だった。だから、媛巫女様があえて望まれた御膳には、私にはわからない、何かの理があるのだと思う」

 三根は、考え深そうに頷いた。次郎は、面白い娘だと思った。

 かなり膨よかだ。食べることが好きなのであろう。だが、こまめに立ち回り仕事に骨を惜しまぬので、たくさん食べる必要もあるだろう。少領の屋敷から逃げ出してきたところを匿ってくれた萱に深い恩義を感じているとはいえ、普段の仕事にも加えて見ず知らずの病人の世話をするのは、骨の折れることに違いない。それでも迷惑さなどみじんも見せぬのは、決して当たり前のことではない。

「ねえ、次郎さん。あなたのご主人の安達様って何者なの?」
三根は、そろそろ訊いてもいいでしょう、という風情を醸し出した。

「萱様からの問いかい?」
次郎は用心深く問い返した。普段なら、旅先では常に春昌が宿主と話すときに同席するが、今滞在では、ほぼ常にここでひとり寝ているため、春昌が萱に何を話しているかを知らなかったのだ。

「いいえ。萱様は安達様の夕餉のお相手をしていらっしゃるから、知りたければご自分でお伺いすると思うわ。でも、そういうことを私たち使用人に話したりなさらない方だもの。でも、私だって知りたいのよ。あの方、絶対にやんごとない方でしょう、なぜ次郎さんと彷徨っていらっしゃるのかしら」

 次郎は、あけすけな好奇心に半ば呆れ、半ばその正直さに感心して三根を見つめた。
「やんごとないとも。殿上も許されたお方なんだ。でも、ここで言うことはできないけれど、ある事情で全てを捨てられたんだ」

「それって、樋水の媛巫女様と関係のあること?」
三根の核心に迫った問いに、主はもしや自分が病に伏している間にほぼ全てを語ってしまわれたのかと、次郎は訝った。これまでどのような旅先でも、主はそのような話はしなかったというのに。

「君は知りたがりだなあ。いつもそうなのかい?」
次郎が用心深くいうので、三根は口をとがらせた。
「そういうわけじゃないけれど……。ほら、安達様って素敵な方だし、萱様ととてもお似合いだと思うのよね。でも、ほら、どんな方かわからないを婿殿としてどうですかって、お薦めできないし」

「春昌様は……!」
媛巫女様の背の君だから、そんな不遜なことを言うな。そう言いかけて次郎は口をつぐんだ。

 その定めを選ばれたお二人を、宮司様の命令に従い引き裂こうとし、結果として命よりも大切に思っていた媛巫女様を殺めてしまった身の上だ。春昌様は、その己れの罪科を代わりに背負いながら彷徨い生きておられる。改めてそれを思い至り、大きくも苦しき悔の念が身を締め付ける。

「ちょいと、次郎さん、どうしたの? 大丈夫? ねえ、そんなにつらいこと訊いてしまったの? もう訊かないから、しっかりしてよ」
氣がつくと、頭を抱えてうずくまる次郎の背を、三根が当惑してさすっていた。

「す、すまない。つい動転してしまって……」
「何か、つらい事情があるのね。ごめんなさいね。私、すぐに思ったことを口にしてしまうの。それで、萱様にもよく叱られるの。でも、悪氣はまったくないのよ」
「ああ、わかっている。君はとても親切だし、主人の萱様のことをとても大切に思っているのもわかっているよ」

「次郎さん、ほら、もう少し食べて飲みなさいよ。早く元気になって、安達様に元通りお仕えするんでしょ」

 濱醤醢が醸し出す旨味は、全ての幸いを捨てたはずの次郎にも、舌から悦びを思い出させ、小さい杯に注がれる酒は五臓六腑に染みていくようだった。そして、目の前に座り酒を勧める三根は、朗らかだった。生まれ育った奥出雲の神域を出て初めて、次郎は居心地がいいと感じた。

(初出:2021年10月 書き下ろし)

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この作品は平安時代を舞台にしているのですが、基本は、本文だけで理解できる、もしくは「たぶんこんなもの」と想像できるようにと工夫して書いているつもりです。ただ、今回は聞き慣れないと思われる言葉がかなりあるので、ここにメモしておきます。

瘧疾わらわやみ
マラリア。マラリア原虫に感染した蚊が湿地で繁殖するため、特定の地域で猛威を振るう。日本でも奈良時代より流行の記録がある。『源氏物語』で光源氏が罹った病でもある。全国で発生していたが、とくに滋賀県、福井県あたりでは非常に患者が多かったとのこと。というわけで、若狭チームや摂津出身の春昌が何度も罹っていた一方、次郎が初めての罹患でダウンしてしまったという設定に好都合だった。

咳逆しはぶき
流行性感冒の一種。当時は「風邪」という言葉は、現在と違い中風や痛風などの神経性疾患を指していたとのこと。なので、季節性インフルエンザをイメージしてこちらの言葉を使ってみた。

齲歯痛かめはのいたき
虫歯のこと。糖質をたくさん食べていた貴族ほど虫歯に悩まされていたとのこと。お歯黒として知られる鉄漿には、虫歯を目立たせなくするだけでなく、虫歯の進行と痛みを止める効果もあったそう。『樋水龍神縁起』では、当時の成人女性の印であった鉄漿を神の域に居るとされた媛巫女瑠璃はしていなかったという設定なのだが、虫歯だらけでは困るので、1本もなかった設定にした。

◆醤醢
当時は、まだ醤油と味噌がなかったので、味付けは塩・酢・砂糖、そして穀物(醤になる)や肉類・魚類(醢になる)でつくった醤醢ひしおをまぜてつけていたとのこと。人間が感じる味は、動物性と植物性の旨味成分が合わさることでより強く感じられる。醤醢は旨味の塊。この作品の創作である醸造元『室菱』の濱醤醢は、新鮮な小鯛をつかって作る最高級の魚醬(塩辛のようなものを熟成させて濾過した調味料)。

◆姫飯
いまでいう「ご飯」。強飯は蒸篭でお米を蒸したおこわにちかいもので、姫飯は釜でご飯を炊いたもの。ただし、精米した白米を食べることができたのは貴族だけ。「貴族の食事の再現」に出てくる高く盛り付けたご飯は「強飯」で、精米しないとあれほど高くは盛り付けられない。なので貴族専用。平民は雑穀・玄米などを姫飯にするか、量を増やすために粥にして食べていたとのこと。

蟒蛇うわばみ
イラクサ科の多年草、タキナ、ミズナともいわれ、山菜として珍重される。

◆ワケ茸
ウスヒラタケのこと。世界中で食べられているヒラタケの一種で、薄めで小型、春から秋にかけて収穫できる。
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