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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】魔法少女、はじめることになりました

scriviamo!


今日の小説「scriviamo! 2022」の第3弾です。あんこさんは今年も、プランBでご参加くださいました。プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

あんこさん(たらこさん)は、四コママンガでひまわりシティーという架空の世界で起きる壮大な事件をいろいろと表現なさっていらっしゃる創作ブロガーさんで、「ひまわりシティーへようこそ!」を改稿連載中です。「scriviamo!」にもよくご参加くださり、素敵なイラストなども描いてくださっています。

さて、今回もB、しかも先週のお申し出だったので、少々慌てて用意しました。なんせ締め切りまであと1か月ですからね。突貫工事でしたが、こんな感じの話になりました。主人公の兄には既視感があるかもしれません。『アプリコット色の猫』で登場したあの人です。でも、この話とは関係ないので別に読まなくてもいいです。


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魔法少女、はじめることになりました
——Special thanks to Anko-san


 広香は、若干いら立った様相で狭い会議室を見回した。いったい、いつまで待たせるのよ。今日はタイムセールの時間にはミツバスーパーに入りたいんだけれどなあ。和牛の切り落としが40%オフになるのは、次はいつだかわからないもの。

 広香は、小さな会社で経理を担当する、ギリギリ20代の事務員だ。地味で上等。堅実に生きていると言ってほしい。流行にはさほど左右されないタイプの黒っぽいスーツを愛用し、低めのヒールで商店街を闊歩している。要は、オシャレとも都会とも無縁。

 こんな都心のテレビ局に来るのは初めてだし、今後もきっと来ないだろう。今日だって、兄さんに押しつけられなかったら来たくなかった。

 広香の兄は、しょうもない男だ。仕事はすぐに辞めるし、その割にキャバクラ通いはやめないし、子供の頃から約束を守ったためしがないのに、競馬の予定だけは忘れることなく出かけていく。

 広香が中学生だった頃、もらったお年玉をせっせと貯金していたのだが、勝手に解約して有馬記念につぎ込んだことがあった。見事にすべてをハズレ馬券にしてしまい、親戚中の非難を浴びた。一念発起して皐月賞で万馬券を当てたのだが、「他にも返すところがあるから」などと言って、7割ほどしか返してくれなかった。それでも「ちゃんと取り返した」と思い出をすり替えて吹聴している。

 細かい性格の広香の方はまだ忘れていないが、兄はその後もあれこれ迷惑をかけすぎていて、いちいち詳細は記憶していないらしい。

 今日、テレビ局にやって来たのも、その兄が勝手にエキストラに応募したからだ。ギャラが破格だったので応募したが、よく見たら女性限定だという。しかたなく広香の写真と適当なプロフィールで応募したら、なんと書類審査に合格してしまったんだそうな。頼み倒されて、しかたなく面接にだけは行くことにした。

 待合室にされている会議室には、何人もの若い女性がいた。女性というよりは女の子といった方がいい。成人と思える年齢の子は見なかった。もしかして応募要項にティーンって書いてあったんじゃないの? どうして書類で落としてくれなかったんだろう。

 少女たちは1人ずつ呼ばれて、面接室に入っていったが、皆出てくるとそのまま帰って行った。最後に残ったのは広香だけで、呼ばれてしかたなく面接官の待つ部屋に入っていった。

 一礼して見ると、3人の男たちが顔を見合わせている。こっちが年増で場違いなのは書類の段階で知っていたでしょう。なんなのよ。

「ほう」
真ん中のえらそうな男が、まじまじと見つめた。

「これは、決まりですかね」
「大手プロから、横やりが入りませんかね」
「いや、これだけ似ていれば、誰も文句は言われないだろう」

 広香は、何の話だろうと訝った。

「君、会社勤めということだけれど、来月からの撮影は大丈夫かね?」
「撮影ですか。1日くらいなら有休で何とかしますけれど、でも、さっきの子たちの方が適任なのでは? エキストラといっても、私は未経験ですよ」
広香は、落としてくれる方がありがたいと思って口にした。

「エキストラ? いやいや、レギュラーだよ。準主役みたいなもんだ」
「なんですって?」
「履歴書を見てすぐに君のマネジャーにも連絡しただろう? エキストラじゃなくて、メインキャストとしてオーディションを受けてほしいって」

 マネジャーというのは、兄さんのことかしら。メインキャストって、なんの?
「すみません。その話は、初耳です。そもそも何の番組なんですか?」

 3人は、顔を見合わせた。まさかここまでやる氣の無い応募者だとは思わなかったのだろう。でも、怒られたって構わない。別に芸能界デビューしたいわけじゃないし。

 右側のへなへなした感じの男が口を開いた。
「そうか。じゃ、説明しますよ。君は、ほしの美亞を知っていますよね」

 広香は天井を見上げて、必死に記憶をたどった。ああ、確かあれ。アイドルグループの……。
「なんでしたっけ。ラクシュミー8とかいうグループのセンターの人?」

 3人は、露骨に嫌な顔をした。左のぞんざいな感じの男が口をとがらす。
「サラスヴァーティ8だよ。それに去年いっぱいで卒業して、いまは女優だ」
「はあ。すみません」

「『2650年に1人の美少女』って呼ばれているんだ」
なんでそんな半端な数なんだろう?

「『マカリトオル以来はじめての国民的アイドル』とも呼ばれているんだぞ」
じゃあ、2650年に1人じゃないじゃない。

「とにかく、ほしの美亞のソロデビュー後はじめての主演番組なんだ。これが台本。ま、少し直しはあると思うけれど」
そういっていきなり手渡された分厚い冊子には、『らりるれ♡マジカルフェアリーズ』と書いてあった。

「あ~、これは、どういう……」
「まあ、魔法少女ものだね。5人の女の子がマジカルフェアリーズに変身して、悪の組織と戦うわけ。美亞が『愛のフェアリー♡ピンキーラブ』だ。2番手の『海のフェアリー♡オーシャンパール』には声優界のアイドル新城あやが出演して話題性も抜群。他にも『ひまわり69』出身の町田エミリが『森のフェアリー♡フォレスティ』、お笑い担当として太めの子役の山口小丸が『ミカンのフェアリー♡マンダリーノ』として出演することも決まっている」

 そのメンバーで魔法少女の実写版ですか。まあ、好きに作ってくれていいんだけれど、それと私とどういう関係が……。広香は戸惑いながら3人の顔を眺めた。

「そしてだね。君には『雪のフェアリー♡ブラマンジェ』をやってもらいたいんだよ」
「は?」

 広香は、思わず立ち上がった。冗談にしては手が込んでいる。でも、それはないだろう。
「話に上がっていたアイドルの子たち、みなティーンでしょ? 私はそんなに若くないし、そもそも芸能人じゃありませんし、なぜそんなおかしな発想になるんですか?」

 真ん中のえらそうな小太り眼鏡が、両手を顎の下で組んで広香をじっと見て言った。
「スポンサーの要望でね。まあ、君が要望そのものってわけではないんだけれど、我々としては、他に選択肢がなくてねぇ」

「どういうことですか?」
「吉原澄乃を知っているね」

 もちろん。私がリアルタイムで知っているのは、任侠ものの姐さん役で再ブレイクした後だけれど、私の両親の世代には清純派正統女優として絶大な人氣を誇った昭和の大女優だ。実は、小学生の頃の私のあだ名は「姐さん」だった。顔立ちや雰囲氣が吉原澄乃に似ているという理由でだ。

「一番の大口スポンサーの会長が、吉原澄乃の大ファンでね。どうしてもメインキャストとして出せといってきかないんだ。だが、いくら美人女優でも80歳に魔法少女はやらせられない。だが、ヒロインの祖母役などは絶対に受け入れられないと言うんだ」

「はあ」
「それで、無理に設定を作った。吉原澄乃が正義のマジカルフェアリーズの女王で、自分の後継者を探している。そして自らも魔法少女に変身して候補者たちの近くで選考に関わろうってわけだ。もちろん最終的に次期女王は美亞になるわけだが、吉原澄乃が化けている設定の魔法少女が必要になってね。会長お望みのミニスカ・シーンも作らなくちゃいけないし」

 へなへなした男が続ける。
「君の、その昭和の教育ママ風の黒縁眼鏡姿の写真を見たときに、天の救いだと思ったンですよ。『二十四の瞳』を演じたときの吉原澄乃に瓜二つ! よく言われません?」

「まあ、それは言われることありますけれど」
この眼鏡は、女優に似せることを狙ったわけではなく、キャンペーンでこれだけ5割引になっていたから買ったんだけど。

「もしかして、エキストラ募集に、吉原澄乃似は優遇とかなんとか書きました?」
「募集では書かなかったけれど、君の履歴書見てからマネジャーさんに事情を話して、オーディション受けて出演に持ち込んでくれるならと、前金振り込んだよね? 」

 あのクソ兄貴め〜。広香は、怒りでその場に倒れそうだった。よくも妹を売ったな。

 ともかく返事を保留して会場の外に出て、すぐに兄に電話した。
「どういうことよ! いくら受け取ったのよ、さっさと返却しなさいよ」

「ああ、大丈夫。桜花賞にモチが出るんだ。あれと、ブラックキギョウ、まあ、かなりの大穴だけれど、当たれば各方面への借金完済だからさ。その賞金からお前にもきれいに返せるよ」
「全然大丈夫じゃないわよ! またするだけでしょ。キャバクラと競馬に、妹を売ったお金で通ってんじゃないわよ」

 あまりのパワーワードに、道行く人たちがぎょっとしてこちらを見ている。広香は、少し声をひそめた。

「いい? もうじき三十路のいい歳して魔法少女になってミニスカ履いていたら、我が家の恥さらしは兄さんじゃなくって私になっちゃうでしょ! とにかく今すぐ帰るから、お金は耳を揃えて用意しておくこと!」

 だが、広香は現金が残っていることはあまり期待していなかった。少なくとも間もなくあの兄とは30年の付き合いになるのだ。まとまった万札が手に入ったら、定期預金にしておくようなタイプではない。

 でも、これからどうしよう。20代の終わりに魔法少女としてミニスカを履くようなトホホ案件にぶち当たるなんて、なんの罰ゲームだろう。

 それが、年増の魔法少女『雪のフェアリー♡ブラマンジェ』誕生日だった。

(初出:2022年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】存在しないはずの緑

scriviamo!


今日の小説「scriviamo! 2022」の第2弾です。山西 左紀さんも、プランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。

山西左紀さんは、SFを得意としていらっしゃる創作ブロガーさん。お付き合いのもっとも長いブログのお友だちの一人で、このscriviamo!も皆勤してくださっています。

今年は、私が先行ということで、何を書こうか悩んだのですが、サキさんに敬意を表して何かメカ系、またはSFっぽい作品が書けないかなと熟考しました。で、昨年書いた作品、慣れないのに頑張ってパイロットものを書いたので、その人物を再登場させることにしました。

とはいえ、昨年のストーリーとは、全く関係ないので、わざわざ読み返す必要はありません。今回の話、トンデモSFのように書いてありますが、一応すべて現実にあったとされている(真偽のほどは別として)話を元に書いています。その後の構想などはまるでない、書きっぱなしですけれど……


【参考】
私が書いた『忘れられた運び屋』

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存在しないはずの緑
——Special thanks to Yamanishi Saki-san


 まったく。ロベルト・クレイのやつ、とんでもない仕事を紹介してくれたわね。ティーネはムカムカする思いを押さえ込みながら、計器をチェックした。

 普段の仕事、セスナ172Bでリューデリッツから国内の地方農場へ堆積グアノを輸送するのは、大した緊張感も必要としない。かつて空軍で初の白人女性パイロットとして飛んでいたときと違い、半分寝ていても墜落はしないだろう。

 だが、今日のフライトは、それとはわけが違う。キングエア300の航続仕様時の航続距離は3672 km。ニュージーランドのインバーカーギルから、南極のマクマード基地までの飛行距離は3499kmだ。そして、リューデリッツでポンコツ車を運転するときと違い、途中にも近隣にも「ガソリンスタンド」はない。

 磁極に近すぎる飛行経路では磁気コンパスは使用できないので、計器飛行方式をとるしかない。一匹狼として自由に飛ぶことを好むティーネでも、背に腹は代えられない。長時間にわたる計器と目視、さらには運航情報官との絶え間ない通信で神経をすり減らしている。

 それなのに、2人の乗客が次から次へと要求を振りかざし、無視するティーネとの板挟みになった乗務員がしつこく話しかけてくるのだった。

「観光は、現地に着いてからにするんですね」
「でも、航路の変更じゃなくて少し高度を下げるだけですよ。ここは鯨の群れが見える海域だと、お客様のご要望なんです」
「下げたら燃費が悪くなるんですよ。目的地に着く前にガス欠になってもいいの? あの客だけじゃなくて、あなたも海の藻屑だけど」

 乗務員は、ムッとして大富豪とその愛人に説明するために後ろに戻っていった。

「聞いた通り愛想がないねえ。エルネスティーネ・クラインベック」
横に座る【グリーンマン】がせせら笑った。

 ティーネは、ふんと鼻を鳴らした。どういうわけか【グリーンマン】と呼ばれているこの男は、ロベルト・クレイが紹介してきた自称冒険家だ。

 海外における傷害未遂事件を起こして軍をクビになったティーネは、生活のためにペンギンの糞を輸送する仕事に甘んじている。その彼女に、復讐を兼ねた情報供与の話を持ち込んだのが、フリージャーナリストのクレイだ。彼女は、結局その話に乗った。すぐにも生活が変わるかと思っていたのに、クレイはのらりくらりと話をかわし、どういうわけか先にこのフライトを受けてくれないかと言ってきた。

 後ろに乗せているのはウィリアムズなる初老の大富豪と、その娘といってもおかしくない年齢の愛人。ありきたりの旅には飽きたので、南極に行きたいが、のんびりと観光船なんかには乗りたくない。それで、このキングエアをチャーターして、直接マクマード基地まで飛べというわけだ。

 伝書鳩みたいな役割しか果たさない客室乗務員の他に、乗務員はティーネとこの【グリーンマン】だけだ。ロベルト・クレイの説明と書類上では、操縦士並びに整備士の資格を備えているのだが、先ほどから隣で話しているのを聞くと、どうも怪しい。もしかすると書類はねつ造なのかもしれない。

「あなたも鯨の観察をしたいっていうんじゃないでしょうね」
ティーネは皮肉で応戦した。

「いや。鯨になんか興味は無いさ」
「興味があるのは、支払い請求書ってこと? いくらピンハネしたのかしらないけれど」

 男は、ちらりとティーネをみた。
「いや、君がいくらでこの仕事を受けたのか知らないけれど、ピンハネしたとしたら、ロベルト・クレイだろう。俺は、現金にはさほど興味が無くてね。どこでも使えるってもんではないからね。この飛行機に乗り込むまでに必要なだけしか受け取らなかったぜ」

 ティーネは、何時間も計器と前方だけを見つめていた顔をまともに向けて【グリーンマン】を見つめた。この男、本当にイカれているのかしら。

「冒険にもお金は必要でしょう?」
「ああ、もちろん。だから、いつもそれなりに稼いださ。目的地に到達して、探しているものが見つからなければ、またゼロから稼ぐ、その繰り返しだ。君はちがうのか、エルネスティーネ・クラインベック」

「都会の遊覧飛行ならまだしも、こんな仕事をタダ同然で引き受けるなんてよほどの事情がなければね。それとも南極にどうしても行きたかったとか?」
ティーネは、半分冗談のつもりで言ったが、【グリーンマン】は驚いたように、彼女を見た。

「鋭いね。その通りだよ。それも、ロス島に行きたかったんだ。個人チャーター機でね。千載一遇のチャンスだ」
「なんですって?」

 その時、後ろからウィリアムズの若い愛人がひょっこりと顔を出した。
「へえ。本当に女操縦士だわぁ。カッコいいわねぇ」

「客席に戻ってシートベルトをお締めください」
ティーネは、氷のように冷たい声音を使ったが、女は肉感的な唇をわずかにすぼめただけで、怯える様子も、指示に従うつもりも全くないらしかった。

「だってぇ。鯨も見られないなら、操縦を見るくらいしかやることないでしょ? あと2時間も海と空だけ見ているなんて退屈だもん」
「退屈でも、生きて帰れることの方が嬉しいでしょう。あなたも、あなたの大切な方も」
「帰る? ああ、そうか。まあ、彼はそうでしょうね」

 ティーネは、計器から目を離して女の顔を見た。氣味が悪いほど整った顔立ちに過剰なほどの化粧をしている。口調や行動は軽薄な尻軽女のそれだが、赤みかがったグレーブラウンの瞳に得体の知れない強い輝きがある。

「長旅がいやなら、チリからフレイ基地に飛べばよかったのよ。あっちなら同じ南極でも2時間でつくのに」
ティーネは、計器に顔を戻して言った。
「そんな簡単な問題じゃないのよ。ロス島近辺を飛んでもらわなくちゃ困るんだもの」
彼女の言葉に、ティーネは片眉を上げた。おかしい。【グリーンマン】といい、この女といい。

「おっさんを放って置いていいのか? ジャシンタ」
【グリーンマン】が女に話しかけた。

 ファーストネームで呼ばれても特別氣を悪くした様子もなく、女は笑った。
「いいのよ。いま、あのフライトアテンダントが必死で品を作っている最中。いいんじゃない? あの退屈なエビのDNAの話を笑って聞いていれば、高級レストランも、ダイヤの指輪も、毛皮のコートも手に入るんだし」

「エビのDNAですって?」
ティーネには話の行方が見えない。

「うふふ。ウィリアムズはね。博士号がほしいのよ。本人は金持ちの道楽じゃなくて、学問の世界にちゃんと名前を残したいんですって。だから、あたし、南極のエレバス山の近くの洞窟で、新種の生物のDNAがたくさん見つかったことを教えてあげたの。貧乏な研究者は、どんなに望んでもロス島には行けない。金だけは十分にある彼にとっては願ってもないチャンスでしょ」

 ティーネは、好奇心に逆らえず、質問した。
「あなたが、それを彼に提案したのは、あなた自身がエレバス山に行きたいからってこと?」
「そうよ」

「あなたもなの? 【グリーンマン】」
「そうだ」

「ってことは、あなたたちは、もともと知りあいで、ここに来るために大富豪や、ジャーナリストに近づいてこの飛行をオーガナイズしたの?」

 ジャシンタは、ティーネの耳元に真っ赤な唇を寄せて「その通り」と囁いた。

 それから【グリーンマン】とジャシンタは目配せをした。【グリーンマン】がティーネに言った。
「南極旅行と言えばクルーズ船によるツアーばかりだ。なぜだと思う?」

「ニュージーランド航空の事故で航空会社と関係当局の安全姿勢が批判に晒されたからでしょう」
ティーネは眉1つ動かさずに言った。

 いまから40年以上前の1979年、ニュージーランド航空のDC-10型機がエレバス山の山腹に墜落して、乗客と乗員合わせて250人以上の全員が死亡した。南極は白い大地と雲の下の散乱光によってホワイトアウトが起こりやすい。同じ事故はティーネの操縦するこのキングエアでも起こりうるのだ。

「それもあるが、それだけじゃない。ホイホイ極地を飛んでほしくない、他の理由もあるんだ。とくに、今のような誰もがスマートフォンで写真を撮ってはその場で全世界に披露してしまうような時代にはね」

「事故の日は、偶然ながら、アメリカの軍人リチャード・バードが人類初の南極点上空飛行に成功した50周年の記念日だったのだよ。そのバード少将は、他のことでも有名なのは知っているよね」

 ティーネは、嫌な顔をした。
「私をからかうつもり? 地球空洞説の与太話ならお断りよ」

 リチャード・バードは、人類初の北極点ならびに南極点に到達する偉業を成し遂げた英雄とされているが、奇妙な体験をし、地球の内部にある別世界に足を踏み入れたとオカルト界隈では信じられている人物だ。北極および南極におけるハイジャンプ作戦の最中に、あるはずのない緑地のある場所に迷い込んだとされている。それは、じつは空洞である地球内部であり、空には見慣れたものとは違う暗い太陽が輝く赤っぽい世界で、その折りに撮影したという写真も出回っている。

「南極や北極には、地底世界への門がある……。だから、バード少将は、北極からも、南極からも、あちら側に到達できた。ロマンのある話じゃない?」
ジャシンタは、笑いながら口をはさんだ。

 【グリーンマン】は、ティーネが信じないことは織り込み済みという顔で口の端をゆがめると、こう付け加えた。

「じゃあ、与太話ついでに、こんなことを聞いたことはないか。12世紀のイギリスの話だ。洞窟の中から突然子供たちが現れた。その子供たちは、土地の言葉を全く理解することもできず、土地の食べ物も知らなかった。そして、何よりも奇妙なことは、頭から足の先まで、緑色をしていたというんだ」
「緑?」

「ああ、緑だ。その子供たちが数年して土地の言葉を覚えて語ったところによると、彼らがそれまでいた土地には、暮れることのない暗い太陽があり、朝焼けと夕焼けのような時間だけがずっと続いていたという」

 ジャシンタが後を続けた。
「ほとんど同じような話が19世紀のスペインにもあるのよ。緑の肌の子供たちは、次第に周りの人間たちと同じような肌の色に変わったそうよ。こちら側の太陽の下で長く暮らしたから」

 【グリーンマン】は、囁くような声になった。
「バード少将の体験したという話と、子供たちの証言に共通することがある。まるで夕焼けの中にいるような異世界。その中心で輝き続ける暗い太陽。そして、その世界とこの世を行き来するときに必ず通るのが、急な霧だ」

 ティーネは、嫌な予感の中でその囁きを聞いた。報告では晴天のはずだった目的地一帯は、雲に覆われている。海の見えるうちに高度を下げて視界を確保しなくてはならない。雲に突入すればそれは霧の中にいるのと同じ状態になる。

 マクマード基地と通信する。運行通信官の意見はティーネと一致していた。雲の薄い今のうちに高度を下げて雲の下に出る必要がある。ロス島はこの1時間ほどで完全な曇天に変わっていた。
「降下を開始します。座席に戻ってシートベルトを締めてください」

 ジャシンタは、ニヤリと笑うとウィリアムズと客室乗務員にティーネの伝言を伝えるために後方座席に戻っていった。

 隣に座る【グリーンマン】は、形だけでも副操縦士の責務を果たすつもりがあるのか、前方を見て座った。

 降下が始まると、視界は乳白色に包まれた。ティーネがこれまで何度も経験した白い世界だ。幸い揺れの程度はライトマイナスで、大したことはない。空間識失調が起こるので、姿勢計を凝視して確認し続ける。2分もすれば雲の下に出るはずだ。

 だが、乳白色の世界は、一向に晴れてくる様子がない。氷の粒が機体に激しく打ち付け、時おり雷鳴のような光が見える。

 ティーネが望んでいたのは、海面の青と相まって、水色っぽく変わってくる雲の色だったが、周りの白い霧はどちらかというと薄桃色に変わってきた。
「え?」

 思わず隣にいる【グリーンマン】の方を見た。

 先ほどまでの、小馬鹿にするような様相はすっかり失せて、彼の瞳は下方に向けて爛々と輝いていた。

 やがて、霧が晴れていくのがわかる。思ったよりもかかったが、無事に雲の下に出たのだとティーネは思った。だが、はっきりしていく眼下の様相に声にならない悲鳴を上げた。

 下に見えているのは、海ではなかった。そして、ティーネが怖れていた40年以上前にDC-10型機が追突したエレバス山を抱く純白の大地でもなかった。まるで夕暮れのような赤い光に照らされた茶色い土地、濃い緑の森と川。南極の地にあるはずのない光景だった。

「ジャシンタ! 成功したぞ!」
【グリーンマン】が、大きな声を出した。

 後ろから、客室乗務員の叫び声を無視して、ジャシンタが座席を離れて前方にやってきた。
「ついに、帰ってきたのね!」

 ティーネは、震えながらも墜落しないように必死で操縦桿を掴んでいた。
「ここは、いったいどこなの? どうして南極に森があるの?」

「心配しなくていい、エルネスティーネ・クラインベック。君たちの身に危険は無いし、こちらの世界の技術なら、君たちをこの機体ごとマクマード基地に送り届けるのは造作も無いことだ」

 急に、機体が一切の操作を受け付けなくなった。
「え? どうして!」

「落ち着いて。この飛行機の操縦は、この世界の、あなたたちの言葉でいうところの管制官が、引き継いだの。このまま、空港基地に自動で収納されるから、何も心配しなくていいのよ」
ジャシンタは、ティーネの耳元で囁いた。

「あなたたちは、いったい、何者なの?」
ティーネは、2人を代わる代わる見つめた。【グリーンマン】の濃い髭のせいで、今まで氣づいていなかったが、よく見ると2人は非常によく似た顔立ちをしている。アーモンドの形をしたグレーブラウンの瞳を抱く目、整った高い鼻梁、20代の初めのように見える肌なのに、何十年も世を渡ってきたかのような不遜な笑い方。

「さっき言ったでしょう? 19世紀にスペインで緑色の肌をした子供たちが、突然洞窟から現れたって。その子たちはね。間違えてあなたたちの世界に運ばれてしまったの。でも、その当時の原始的な技術では、簡単にここに帰ることはできなかったの。私たちは、チャンスを待ち続けるしかなかったのよ」
ジャシンタが、笑った。

「?!」
この2人は、それが自分たちだと言いたいのだろうか。でも、今は、21世紀だ。

「うん。そうなんだ。科学技術だけでなく、俺たちの寿命も、君たちとはずいぶんと違うみたいでね。これからのことは、心配しなくていい。無事に俺たちを送り届けてくれたんだから、君たちのことは丁重に歓迎するさ。こっちは、侵入者をことごとく敵視する君たちみたいに野蛮な姿勢を持たないんでね」

 ティーネは、下唇を噛んだ。

 ロベルト・クレイのヤツ。よくもこんな騒動に巻き込んでくれたわね。【グリーンマン】の言うことを100%信じるべき根拠は何もなかった。かといって、ティーネには、こんな異常事態に対応できる特殊能力は備わっていない。ついでにいうと他人の身の安全を守る余裕も全くないが、その辺を後部座席の2人が理解してくれるといいと願った。

 このあと何が起こるにせよ、どうにかして生還するチャンスをうかがうしかない。

 そう思った途端、グアノを輸送する退屈な日々がとても懐かしく脳裏に浮かんできた。人間とは実に勝手な生き物だと、ティーネはぼんやりと思った。

(初出:2022年1月 書き下ろし)
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

無理やりタブ譜

今日の話題は、まだ続けているギターと、IT関係の複合。ちゃんとした楽譜が読めない私の苦肉の策の話です。

クラシックギター

一向に上達していないギターですが、まだ続けています。もともとちゃんと弾けるようになりたいというよりも、脳の訓練、つまり右手と左手を別々に動かすことが認知症予防になるからというきっかけでやっているので、人様に聴かせられなくても一向に構わないというスタンスです。

独学なので自分のペースを守りすぎているというのもあるんですけれど、私にとっては執筆のペースや仕事の準備、それに家事をする方が優先順位が高いので、ギターに関してはちゃんと習うのは先のことになりそう。

時間が捻出できないという以上に、私がギターを習いに行くのを足踏みする理由の1つに、楽譜が読めないということがあります。

これ、「やればできる」といわれても無理です。子供の頃から何度もトライしたんですから。ご存じの方もいらっしゃいますが、私は両親がクラシック音楽家という家庭で育ちました。なので、幼少の頃からピアノや、弦楽器をいろいろと習わされたのです。

両親はもちろん楽譜が読める人で、まさかそんなところで我が子が躓くとは思いもしなかったようですが、とにかく私はぱっと見て楽譜が読めないのです。もちろん1つ1つ数えればそれがどこの位置にあるかはわかります。「ドレミファ」だけでなく、幼少期から「ツェー、デー、エフ、ゲー」とドイツ語の音で理解もできていました。でも、ぱっと見てそのまま音を理解することができませんでした。当時、どうやって乗り切っていたかというと、すべて暗譜して、それからレッスンに臨んでいたわけです。なので、譜面を見てレッスンの後、「じゃあ次は暗譜で」といわれるとそこだけ早い。なんせ初めから暗譜でやっているわけですから。

とはいえ、そのうちに「初見」といって楽譜を見てそのまま弾くというレッスンが出てくるのです。それが乗り越えられなくてやめてしまったのです。

さて、数年前に、○十年ぶりにクラシックギターに手をつけようと決意したとき、もちろん「もう大人なんだしできるだろう」と楽譜に再チャレンジしたのです。でも、ダメでした。どの音符も似たようなオタマジャクシに見えてすぐには読めないんです。これは私が乱視のせいもあるかもしれませんし、何らかの認知の部分がおかしいのかもしれません。でも、らちがあかないのです。

ギターにはタブ譜というものがあります。五線譜にオタマジャクシが書いてある普通の楽譜と違い、6本のギター弦と同じ線の上に、どこの位置を抑えるのか数字で書いてある譜面です。これだと私でもけっこう譜面を追えるのです。なので、私はずっとこのタブ譜を使った練習曲だけをしてきました。

さて、世の中には、いろいろな曲があるのですけれど、すべての楽譜にタブ譜があるわけではないのです。友人が奨めてくれた素敵な練習曲を演奏してみたかったのですけれど、それは普通の五線譜でした。とにかくそれで弾けるか頑張ってみたのですけれど、やはり最初の数小節で嫌になってしまいます。

そこでネット上を徘徊して、何とか五線譜をタブ譜に変えられないか方法を探ってみました。努力を技術でカバーするつもりです。

結果として、ついに見つけました。五線譜のPDFをタブ譜にする方法です。しかも無料でできました。以下は、その覚え書きです。

まず、MuseScoreという楽譜作成ソフトをインストールします。無料なのですけれど、ものすごく高機能のソフトウエアです。ご自分で作曲される方などはお持ちかもしれませんね。

そして、そのメニューの「ファイル」から「PDFのインポート」という項目を選ぶと、musescoreの公式サイトに飛び、楽譜をアップロードするとmusescoreファイル形式に変換してくれるのです。それをダウンロードして開くと、musescoreで編集できるようになります。

まず五線譜を選択して「譜表/パートのプロパティ」を選択します。そして、楽器を「Voice Oohs」から「撥弦楽器→クラシックギター」に変更します。「OK」で楽器はクラシックギターになりました。

今度は、「ファイル」→「楽器」(またはキーボードで「i」)で「楽器メニュー」を開きます。「譜表1」を選択した状態にして、上の「リンク譜表の追加」ボタンを押します。出てきた「譜表2」の右端を「標準」から「タブ譜6弦完全」などに変えます。OKで閉じると、楽譜の下にタブ譜ができています。

まあ、これで一応完成なのですが、私が弾くには、これはオクターブ高くて難しいので、強引にオクターブ下げます。
やり方は五線譜の小節を選択した後「すべてを選択(⌘+A)」してから「⌘+↓」すればOKでした。

そうやって無理やり作ったタブ譜の一例がこれです。

タブ譜つくった
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Posted by 八少女 夕

【小説】ある邂逅

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の楽器』1月分です。今年は、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、このブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの楽器は、三味線なんだか、ギターなんだか……。どちらかに絞ることのできない稔の話なので、どっちでもいいですよね。時間軸が2つあって、ひとつは第2部で扱っている「現在」で、もう1つはArtistas callejerosを結成する4年も前、稔が失踪した年です。

また、三味線にお詳しい方々からのツッコミを受けそうな話ですが、素人が調べて書く限界ということでお許しください。


短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む 短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む



大道芸人たち・外伝
ある邂逅


 バルセロナで過ごすいつものクリスマスシーズンは間もなく終わり、移動の時期が近づいている。仕事の合間に飲み騒ぐだけでなく、新しいレパートリーを準備する4人を見て、「そろそろこんな時期か」と思い出したカルロスとイネスは顔を見合わせて頷き、邪魔をしないようにそっとサロンの扉を閉めた。

 コモ湖でまもなく始まるショーでは、南米の曲を中心にプログラムを組んでほしいとオーダーが来ていた。すでに何度かプログラムに入れたことのあるピアソラ、レネが歌うルンバ風にアレンジした『Abrazame』など慣れたレパートリーはあるが、せっかくだから新しい曲にも挑戦したいと一同の意見が一致した。

 現在、稔が練習している『ブラジル風バッハ』は、20世紀ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボスの代表作だ。ブラジルの民俗音楽素材に基づき変奏や対位法的処理が行われる、楽器編成や演奏形態の異なる9つの楽曲集で、1930年から1945年までの間に書かれた。邦題としては『ブラジル風バッハ』で通用しているが、正確には『バッハ風でブラジル風の組曲(Bachianas Brasileiras)』という意味だ。 
 
「第5番ね。そもそもギターとフルートの曲じゃなかったわよね?」
象眼細工のテーブルにおかれた楽譜をめくりながら蝶子が訊ねた。横からヴィルが答えた。
「ソプラノ独唱と8つのチェロのための作品だな。もっともギターとフルート用のアレンジは前に聴いたことがある」
「そう。じゃあ、これはあなたが吹く?」

「第4番のピアノアレンジの楽譜が、ここにあるんだけどな」
稔が遠くから聞きつけて口をはさんだ。ヴィルは肩をすくめて楽譜を受け取るためにそちらへと歩いて行った。

「わかったわよ」
蝶子は観念して、楽譜を読むために窓辺に向かった。レネは既におなじヴィラ=ロボスによる『感傷的なメロディ』を練習するために寝室にこもっていた。ソプラノのラブソングだがテノールで演奏されることもあるのだ。

 稔にとってヴィラ=ロボスは、特別な存在だった。彼の優れたギター曲に昔から馴染みがあったことは当然だが、それ以上にパリ滞在が彼の作曲に大きな影響を及ぼしたことにも、ある種の強い共感を感じていた。

 ブラジルから大志を抱いてパリにやって来た若きヴィラ=ロボスは、当時のサロンの重鎮であったジャン・コクトーに彼の音楽は「ドビュッシーやラヴェルのスタイルの物真似」であると決めつけられた。ヴィラ=ロボスからしてみれば、異国に憧れたフランス人作曲家の方が現代の言葉でいうところの「文化の盗用」だっただろう。だが、当時のパリでは、コクトーだけでなく聴衆もまた無名のブラジル人作曲などに、興味を示すことはなかった。さらには、当時のパリではシェーンベルクやストラヴィンスキーなどがクラシック界に激震を呼び起こし、ジャズやラクダイムが新しい物好きの聴衆を熱狂させていた。

 そんな中、ヴィラ=ロボスは、どれほどの自負があってもこのままでは自分の音楽がヨーロッパで認められることは難しいと自覚しでブラジルに戻る。そして、若い頃から親しんだブラジルの民族音楽「ショーロ」をモチーフに『ショーロス』を完成させる。

 原生林や、巨大な植物、華やかな鳥類や花と果実、荒々しく妖しい世界。パリの聴衆はその野性味に圧倒された。ヴィラ=ロボスは、洗練されたヨーロッパの技法に、パリの聴衆が求める異国的で野性的なブラジルの熱狂を織り込むことで、フランス人には表現できない南国の薫風を戦略的にヨーロッパに送り込んだ。彼は、パリで受けた冷たい歓待をバネに、自分の音楽のアイデンティティーの一面を表現したのだ。

 ギターで弾く『ショーロス』の第1番は、稔のレパートリーに早くから入っている。穏やかで聴きやすい曲だ。だが、たとえばオーケストラで演奏される第10番などは、まさに『ブラジルの野生』という言葉がふさわしい荒々しさを伴っている。

 一方、『ブラジル風バッハ』は、パリで世界的名声を得ると同時に、その強調しすぎたエキゾチックさゆえに故国ブラジルの現実から乖離していく音楽を、より自分の目指す音楽に回帰させていった作品だ。名声を手にして、奇をてらってパリの聴衆の氣を引くことよりも、自らの音を表現していった。そして、結局それが彼の代表作となった。

 稔にとってパリは厳しい思い出の残る町だ。旅行を終えて日本に帰るはずだった彼が、帰りの航空チケットを破り捨てて放浪の生活をはじめてから、彼は不安と後悔に苛まれるばかりだった。大道芸人としての収入は多くなかったが、それをも切り詰めに切り詰めて可能な限りの余剰金を日本に送った。欺すつもりで受け取ったわけではなかったが返せずにいた300万円を、1日でも早く婚約者となっていた幼なじみに返さなくてはと思っていた。だが、そのめどは全く立たず、たった1人で苛立っていた。道行く人びとはことさら冷たく感じられ、腹一杯食べられることもぐっすりと眠れることもほとんどなかった。

 自由を楽しむ余裕はほとんどなかった。何のために逃げたしたのかも、これからどうすべきかも、日銭稼ぎに追われて見えなくなっていた。人はみな独りであることを、この時ほど強く感じ続けたことはない。

 稔は、パリである種の奇跡がおこったあの日のことを思い出しながらギターを弾いていた。

* * *


 稔は、2日ほど前から問題を抱えていた。唯一の財産であり、生計を立てる手立てである三味線の皮が破けたのだ。

 皮がいつかは破けることを全く想定していなかったわけではない。日本では湿氣の多い夏に皮が破けることが多かった。破けないようにゆるく張るといい音が出ないので、数年に一度張り替えるのは避けられない宿命のようなものだった。だが、持ってきていたのは練習用の犬皮三味線で、猫皮よりも強いものだったし、湿氣のはるかに少ないヨーロッパで、こんなに早く破れるとは想定していなかった。

 弦が切れただけなら、他の弦楽器の弦をで代用するなどして何とかすることができたかもしれない。だが、皮を張るのは素人の自分には不可能だ。

 浅草の実家にいるときとは違う。楽器屋に行っても張り替えを依頼することなどほぼ無理だろう。失踪し、浮浪者同然の生活をしている稔に、楽器を修理したり新しい別の楽器を買うような金はなかった。

 数ヶ月前に、粉々に引き裂いてしまったのは帰りの航空券だけではなくて、楽器の張り替えや弦の替えを用意してくれた三味線を家業とする実家との繋がりそのものだった。稔は、行き倒れても飢え死にに向かおうとも、実家や友人に助けを求める権利を持たない存在になっていた。

 修理ができないか試みたり、他の動物の皮が入手できないかうろついてみたりしたが、もちろんすべて徒労に終わった。三味線以外の方法で道行く人の氣を引こうとトライしたが、相手にもされなかった。今後も三味線がなければまともに稼ぐことはできないだろう。

 空腹と不安で、じきにまともに立ち上がれなくなった。それまでも、十分に食べていたわけではなかったが、氣力で生き抜いていたようなものだった。それが失せて、彼は世界から切り離され、見放されたゴミの塊のようにしぼんでいった。

 目の前を人びとが通り過ぎる。誰も彼に目を留めず、視界から消し去っていた。

 わずかなにわか雨が降る。濡れて意識も遠くなりながら、それでも彼は習慣に従い、使い物にもならない楽器を濡らさないように身体を折って守っていた。

「何をしている」
同じように何度か聞こえた音が、自分にかけられた声だと認識するまでにしばらくかかった。稔は、うつろな瞳をようやく上げて、自分のすぐ近くに黒ずくめの誰かが立っていることを認識した。

「何も」
答えた稔の声は、まともな音量にはなっていなかったが、目の前の人物はそのようなことには頓着しないようだった。

「日本人か」
「そうだよ」

 黒衣の男は、頷いた。それからわずかに間をおいてから言った。
「このまま、ここで寝てはならぬ。死ぬぞ」
「そうかもな。でも、他にどうしようもないんだ」
「なぜ」
「三味線の皮が破れちまったから」

 そこまで言ってから、稔はこの説明でわかるわけがないだろうと思った。だが、きちんと説明する氣力はなかったし、それを可能にする語学力も不足していた。少なくともそれはフランス語ではなくて英語だったので、相手の言うことはだいたい間違いなくわかった。

「それがお前の問題なら、私と一緒に来なさい」
黒衣の男は言った。

 普段の稔なら、こんな奇妙な相手にホイホイと着いていったりはしない。だが、今は万策尽きていたし、警察に連行されることですら今よりもマシだと考えていたので、ふらつきながらも立ち上がった。

 黒衣の男は、たくさんは語らなかった。まるで稔などいないかのように歩いたが、稔が遅れると歩みを止めて待った。彼は、石畳の道をつつき進み、小さく暗い裏通りをいくつも曲がった。それから、小さなガラスドアのついている建物の前で止まった。

 稔は、そのガラスドアの横に小さな木の表札がついているのを見た。達筆で読めないが、それはどう考えても漢字の崩し字だった。日本語か中国語かまではわからなかったが。

 黒衣の男は、ガラスドアを押して中に入り、稔を通してからドアを閉めた。中には、陰氣な顔つきをしたベトナム人のような服装をした老人が座っていて、黒衣の男とフランス語で何かのやり取りをしている。黒衣の男は、店主に500ユーロ札を何枚か渡した。

 稔が困惑していると、黒衣の男は振り向いて言った。
「楽器は、この男に任せなさい。数日かかるそうだ。この店の3階に小さな部屋があるので、修理が済むまでそこで休むといい」

「それは、願ってもないですが、俺は一文無しです」
「それはわかっている。いま前金は払ったし、お前が満足する修理が済んだら残りを払う約束をしているので、心配ない」
「でも、そんな大金を返せるアテは当分ないのですが」
「返してもらうのは金ではない」

 なんだなんだ。魂とか言い出すんじゃないだろうな。まさかね。犯罪の片棒担ぎかな。稔は不安な面持ちで黒衣の男の顔を見た。

 先ほどからずっと一緒にいるのに、そういえば顔をまともに見ていなかったと思った。それは、浅黒い肌に顎髭を蓄えたアラブ系か南欧人のような顔つきの男だった。
「何をお返しすればいいんですか」
「人助けのつもりなので、無理に返してもらおうとは思わぬが、もし、何かを私のためにしたいと思うなら、個人的な手助けをして欲しい」

「具体的には?」
「私は、読めない手紙を持っている。日本人が書いたものだ。プライバシーに関することなので、翻訳会社や私を知っている日本人には頼みたくない。その意味を英語に訳してもらえればありがたい」

* * *


 狐につままれたような話だった。妖しげなベトナム人店主は、稔の破れた三味線をどこかへ持って行った。稔が滞在した3日間まったく同じような陰氣な顔つきのまま、会話を試みることも経過報告も全くしなかった。3度の食事だけはトレーに載せて部屋に運び込んでくれた。そして、最初の夕飯に添えて、黒衣の男の言っていた手紙のコピーがおかれていた。

 それはありきたりで、どうということのないラブレターだった。それも、差出人も受取人も普通の日本人のようだ。何か深い意味があるのか、全くわからないが、これで三味線が直るのならどうでもいいと思いつつ翻訳した。

 3日目の夜に、店主は食事と共に三味線の袋を持ってきた。食事もそっちのけで中を見るときちんと修理されていた。弾いてみると前よりもよく響く。期待していなかったが、ちゃんとした修理師がやってくれたようだ。
 店主がフランス語で何かを短く言った。「カンガルー」という言葉しかわからなかった。猫でも犬でもなく、カンガルーの皮を張ったととうことなのかもしれない。稔は礼を言って、翻訳の終わった手紙を見せた。店主は初めて笑顔に近い表情を見せると、嬉々として手紙を受け取った。この翻訳と引き換えに相当な金銭が約束されているのかもしれない。

 そして、それだけだった。稔は、翌日その店を引き払い、再び大道芸の生活に戻った。黒衣の男と会うことは二度となかった。

 4年後にコルシカ島で蝶子とレネに出逢い、Artistas callejerosを結成した。ヴィルとも出逢い、4人でドミトリーに泊まりながら、楽しく稼ぐようになった。300万円も完済し、生きる意味を疑うほどに切り詰めて暮らす必要がなくなった。音は、小銭を得るための手段から、心の糧となる音楽になって戻ってきた。ずっと触れることもなかったクラシックギターが再び手元にやってきた。

 稔にとって、パリは、本当に特別な街だった。日本に帰ることを拒否して旅をはじめた街。大道芸人としてのどん底を経験し、不思議な邂逅に救われた街。そのパリに対する愛憎が、ヴィラ=ロボスに対する共感を呼び起こす。

 だから、稔はいつかはこの作品をレパートリーに取り入れたいと思い続けてきたのだ。第5番の『アリア』は、ヴィラ=ロボスの代表作と見なされることが多い。

 あのパリのどん底生活をしていた頃、知らずに近くのクラブで勤めていたらしいレネ。ドイツでフルートと自由を望む心の葛藤に身を焼いていたらしい蝶子。そして、親の横暴から身を隠しながら演劇を道を目指していたヴィル。その3人がいま一緒に旅をしている。

 現在使っているギターは、カルロスから譲り受けた名匠ドミンゴ・エステソ作だ。かつて稔が触ることすら夢見られなかった名品。

 稔は、今年も、これからも、この生活が続くことを願いながら、練習を続けた。

(初出:2022年1月 書き下ろし)

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Villa-Lobos Bachianas Brasileiras No.5 (flute & guitar)
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【小説】ある邂逅

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の楽器』1月分です。今年は、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、このブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの楽器は、三味線なんだか、ギターなんだか……。どちらかに絞ることのできない稔の話なので、どっちでもいいですよね。時間軸が2つあって、ひとつは第2部で扱っている「現在」で、もう1つはArtistas callejerosを結成する4年も前、稔が失踪した年です。

また、三味線にお詳しい方々からのツッコミを受けそうな話ですが、素人が調べて書く限界ということでお許しください。


短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む 短編小説集『12か月の楽器』をまとめて読む



大道芸人たち・外伝
ある邂逅


 バルセロナで過ごすいつものクリスマスシーズンは間もなく終わり、移動の時期が近づいている。仕事の合間に飲み騒ぐだけでなく、新しいレパートリーを準備する4人を見て、「そろそろこんな時期か」と思い出したカルロスとイネスは顔を見合わせて頷き、邪魔をしないようにそっとサロンの扉を閉めた。

 コモ湖でまもなく始まるショーでは、南米の曲を中心にプログラムを組んでほしいとオーダーが来ていた。すでに何度かプログラムに入れたことのあるピアソラ、レネが歌うルンバ風にアレンジした『Abrazame』など慣れたレパートリーはあるが、せっかくだから新しい曲にも挑戦したいと一同の意見が一致した。

 現在、稔が練習している『ブラジル風バッハ』は、20世紀ブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボスの代表作だ。ブラジルの民俗音楽素材に基づき変奏や対位法的処理が行われる、楽器編成や演奏形態の異なる9つの楽曲集で、1930年から1945年までの間に書かれた。邦題としては『ブラジル風バッハ』で通用しているが、正確には『バッハ風でブラジル風の組曲(Bachianas Brasileiras)』という意味だ。 
 
「第5番ね。そもそもギターとフルートの曲じゃなかったわよね?」
象眼細工のテーブルにおかれた楽譜をめくりながら蝶子が訊ねた。横からヴィルが答えた。
「ソプラノ独唱と8つのチェロのための作品だな。もっともギターとフルート用のアレンジは前に聴いたことがある」
「そう。じゃあ、これはあなたが吹く?」

「第4番のピアノアレンジの楽譜が、ここにあるんだけどな」
稔が遠くから聞きつけて口をはさんだ。ヴィルは肩をすくめて楽譜を受け取るためにそちらへと歩いて行った。

「わかったわよ」
蝶子は観念して、楽譜を読むために窓辺に向かった。レネは既におなじヴィラ=ロボスによる『感傷的なメロディ』を練習するために寝室にこもっていた。ソプラノのラブソングだがテノールで演奏されることもあるのだ。

 稔にとってヴィラ=ロボスは、特別な存在だった。彼の優れたギター曲に昔から馴染みがあったことは当然だが、それ以上にパリ滞在が彼の作曲に大きな影響を及ぼしたことにも、ある種の強い共感を感じていた。

 ブラジルから大志を抱いてパリにやって来た若きヴィラ=ロボスは、当時のサロンの重鎮であったジャン・コクトーに彼の音楽は「ドビュッシーやラヴェルのスタイルの物真似」であると決めつけられた。ヴィラ=ロボスからしてみれば、異国に憧れたフランス人作曲家の方が現代の言葉でいうところの「文化の盗用」だっただろう。だが、当時のパリでは、コクトーだけでなく聴衆もまた無名のブラジル人作曲などに、興味を示すことはなかった。さらには、当時のパリではシェーンベルクやストラヴィンスキーなどがクラシック界に激震を呼び起こし、ジャズやラクダイムが新しい物好きの聴衆を熱狂させていた。

 そんな中、ヴィラ=ロボスは、どれほどの自負があってもこのままでは自分の音楽がヨーロッパで認められることは難しいと自覚しでブラジルに戻る。そして、若い頃から親しんだブラジルの民族音楽「ショーロ」をモチーフに『ショーロス』を完成させる。

 原生林や、巨大な植物、華やかな鳥類や花と果実、荒々しく妖しい世界。パリの聴衆はその野性味に圧倒された。ヴィラ=ロボスは、洗練されたヨーロッパの技法に、パリの聴衆が求める異国的で野性的なブラジルの熱狂を織り込むことで、フランス人には表現できない南国の薫風を戦略的にヨーロッパに送り込んだ。彼は、パリで受けた冷たい歓待をバネに、自分の音楽のアイデンティティーの一面を表現したのだ。

 ギターで弾く『ショーロス』の第1番は、稔のレパートリーに早くから入っている。穏やかで聴きやすい曲だ。だが、たとえばオーケストラで演奏される第10番などは、まさに『ブラジルの野生』という言葉がふさわしい荒々しさを伴っている。

 一方、『ブラジル風バッハ』は、パリで世界的名声を得ると同時に、その強調しすぎたエキゾチックさゆえに故国ブラジルの現実から乖離していく音楽を、より自分の目指す音楽に回帰させていった作品だ。名声を手にして、奇をてらってパリの聴衆の氣を引くことよりも、自らの音を表現していった。そして、結局それが彼の代表作となった。

 稔にとってパリは厳しい思い出の残る町だ。旅行を終えて日本に帰るはずだった彼が、帰りの航空チケットを破り捨てて放浪の生活をはじめてから、彼は不安と後悔に苛まれるばかりだった。大道芸人としての収入は多くなかったが、それをも切り詰めに切り詰めて可能な限りの余剰金を日本に送った。欺すつもりで受け取ったわけではなかったが返せずにいた300万円を、1日でも早く婚約者となっていた幼なじみに返さなくてはと思っていた。だが、そのめどは全く立たず、たった1人で苛立っていた。道行く人びとはことさら冷たく感じられ、腹一杯食べられることもぐっすりと眠れることもほとんどなかった。

 自由を楽しむ余裕はほとんどなかった。何のために逃げたしたのかも、これからどうすべきかも、日銭稼ぎに追われて見えなくなっていた。人はみな独りであることを、この時ほど強く感じ続けたことはない。

 稔は、パリである種の奇跡がおこったあの日のことを思い出しながらギターを弾いていた。

* * *


 稔は、2日ほど前から問題を抱えていた。唯一の財産であり、生計を立てる手立てである三味線の皮が破けたのだ。

 皮がいつかは破けることを全く想定していなかったわけではない。日本では湿氣の多い夏に皮が破けることが多かった。破けないようにゆるく張るといい音が出ないので、数年に一度張り替えるのは避けられない宿命のようなものだった。だが、持ってきていたのは練習用の犬皮三味線で、猫皮よりも強いものだったし、湿氣のはるかに少ないヨーロッパで、こんなに早く破れるとは想定していなかった。

 弦が切れただけなら、他の弦楽器の弦をで代用するなどして何とかすることができたかもしれない。だが、皮を張るのは素人の自分には不可能だ。

 浅草の実家にいるときとは違う。楽器屋に行っても張り替えを依頼することなどほぼ無理だろう。失踪し、浮浪者同然の生活をしている稔に、楽器を修理したり新しい別の楽器を買うような金はなかった。

 数ヶ月前に、粉々に引き裂いてしまったのは帰りの航空券だけではなくて、楽器の張り替えや弦の替えを用意してくれた三味線を家業とする実家との繋がりそのものだった。稔は、行き倒れても飢え死にに向かおうとも、実家や友人に助けを求める権利を持たない存在になっていた。

 修理ができないか試みたり、他の動物の皮が入手できないかうろついてみたりしたが、もちろんすべて徒労に終わった。三味線以外の方法で道行く人の氣を引こうとトライしたが、相手にもされなかった。今後も三味線がなければまともに稼ぐことはできないだろう。

 空腹と不安で、じきにまともに立ち上がれなくなった。それまでも、十分に食べていたわけではなかったが、氣力で生き抜いていたようなものだった。それが失せて、彼は世界から切り離され、見放されたゴミの塊のようにしぼんでいった。

 目の前を人びとが通り過ぎる。誰も彼に目を留めず、視界から消し去っていた。

 わずかなにわか雨が降る。濡れて意識も遠くなりながら、それでも彼は習慣に従い、使い物にもならない楽器を濡らさないように身体を折って守っていた。

「何をしている」
同じように何度か聞こえた音が、自分にかけられた声だと認識するまでにしばらくかかった。稔は、うつろな瞳をようやく上げて、自分のすぐ近くに黒ずくめの誰かが立っていることを認識した。

「何も」
答えた稔の声は、まともな音量にはなっていなかったが、目の前の人物はそのようなことには頓着しないようだった。

「日本人か」
「そうだよ」

 黒衣の男は、頷いた。それからわずかに間をおいてから言った。
「このまま、ここで寝てはならぬ。死ぬぞ」
「そうかもな。でも、他にどうしようもないんだ」
「なぜ」
「三味線の皮が破れちまったから」

 そこまで言ってから、稔はこの説明でわかるわけがないだろうと思った。だが、きちんと説明する氣力はなかったし、それを可能にする語学力も不足していた。少なくともそれはフランス語ではなくて英語だったので、相手の言うことはだいたい間違いなくわかった。

「それがお前の問題なら、私と一緒に来なさい」
黒衣の男は言った。

 普段の稔なら、こんな奇妙な相手にホイホイと着いていったりはしない。だが、今は万策尽きていたし、警察に連行されることですら今よりもマシだと考えていたので、ふらつきながらも立ち上がった。

 黒衣の男は、たくさんは語らなかった。まるで稔などいないかのように歩いたが、稔が遅れると歩みを止めて待った。彼は、石畳の道をつつき進み、小さく暗い裏通りをいくつも曲がった。それから、小さなガラスドアのついている建物の前で止まった。

 稔は、そのガラスドアの横に小さな木の表札がついているのを見た。達筆で読めないが、それはどう考えても漢字の崩し字だった。日本語か中国語かまではわからなかったが。

 黒衣の男は、ガラスドアを押して中に入り、稔を通してからドアを閉めた。中には、陰氣な顔つきをしたベトナム人のような服装をした老人が座っていて、黒衣の男とフランス語で何かのやり取りをしている。黒衣の男は、店主に500ユーロ札を何枚か渡した。

 稔が困惑していると、黒衣の男は振り向いて言った。
「楽器は、この男に任せなさい。数日かかるそうだ。この店の3階に小さな部屋があるので、修理が済むまでそこで休むといい」

「それは、願ってもないですが、俺は一文無しです」
「それはわかっている。いま前金は払ったし、お前が満足する修理が済んだら残りを払う約束をしているので、心配ない」
「でも、そんな大金を返せるアテは当分ないのですが」
「返してもらうのは金ではない」

 なんだなんだ。魂とか言い出すんじゃないだろうな。まさかね。犯罪の片棒担ぎかな。稔は不安な面持ちで黒衣の男の顔を見た。

 先ほどからずっと一緒にいるのに、そういえば顔をまともに見ていなかったと思った。それは、浅黒い肌に顎髭を蓄えたアラブ系か南欧人のような顔つきの男だった。
「何をお返しすればいいんですか」
「人助けのつもりなので、無理に返してもらおうとは思わぬが、もし、何かを私のためにしたいと思うなら、個人的な手助けをして欲しい」

「具体的には?」
「私は、読めない手紙を持っている。日本人が書いたものだ。プライバシーに関することなので、翻訳会社や私を知っている日本人には頼みたくない。その意味を英語に訳してもらえればありがたい」

* * *


 狐につままれたような話だった。妖しげなベトナム人店主は、稔の破れた三味線をどこかへ持って行った。稔が滞在した3日間まったく同じような陰氣な顔つきのまま、会話を試みることも経過報告も全くしなかった。3度の食事だけはトレーに載せて部屋に運び込んでくれた。そして、最初の夕飯に添えて、黒衣の男の言っていた手紙のコピーがおかれていた。

 それはありきたりで、どうということのないラブレターだった。それも、差出人も受取人も普通の日本人のようだ。何か深い意味があるのか、全くわからないが、これで三味線が直るのならどうでもいいと思いつつ翻訳した。

 3日目の夜に、店主は食事と共に三味線の袋を持ってきた。食事もそっちのけで中を見るときちんと修理されていた。弾いてみると前よりもよく響く。期待していなかったが、ちゃんとした修理師がやってくれたようだ。
 店主がフランス語で何かを短く言った。「カンガルー」という言葉しかわからなかった。猫でも犬でもなく、カンガルーの皮を張ったととうことなのかもしれない。稔は礼を言って、翻訳の終わった手紙を見せた。店主は初めて笑顔に近い表情を見せると、嬉々として手紙を受け取った。この翻訳と引き換えに相当な金銭が約束されているのかもしれない。

 そして、それだけだった。稔は、翌日その店を引き払い、再び大道芸の生活に戻った。黒衣の男と会うことは二度となかった。

 4年後にコルシカ島で蝶子とレネに出逢い、Artistas callejerosを結成した。ヴィルとも出逢い、4人でドミトリーに泊まりながら、楽しく稼ぐようになった。300万円も完済し、生きる意味を疑うほどに切り詰めて暮らす必要がなくなった。音は、小銭を得るための手段から、心の糧となる音楽になって戻ってきた。ずっと触れることもなかったクラシックギターが再び手元にやってきた。

 稔にとって、パリは、本当に特別な街だった。日本に帰ることを拒否して旅をはじめた街。大道芸人としてのどん底を経験し、不思議な邂逅に救われた街。そのパリに対する愛憎が、ヴィラ=ロボスに対する共感を呼び起こす。

 だから、稔はいつかはこの作品をレパートリーに取り入れたいと思い続けてきたのだ。第5番の『アリア』は、ヴィラ=ロボスの代表作と見なされることが多い。

 あのパリのどん底生活をしていた頃、知らずに近くのクラブで勤めていたらしいレネ。ドイツでフルートと自由を望む心の葛藤に身を焼いていたらしい蝶子。そして、親の横暴から身を隠しながら演劇を道を目指していたヴィル。その3人がいま一緒に旅をしている。

 現在使っているギターは、カルロスから譲り受けた名匠ドミンゴ・エステソ作だ。かつて稔が触ることすら夢見られなかった名品。

 稔は、今年も、これからも、この生活が続くことを願いながら、練習を続けた。

(初出:2022年1月 書き下ろし)

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Villa-Lobos Bachianas Brasileiras No.5 (flute & guitar)
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Posted by 八少女 夕

スマート体重計を買った

今日の話題は、健康関連なのか、それともIT関連なのか、はたまた面倒くさがりの話なのか……。

新・体重計

新しい体重計が到着しました。実は、2015年からほぼ欠かさず体重を記録しているのです。それまでは、別に努力しなくてもいつも通りに生活しているだけで体重は安定していたのですけれど、やはりこの年齢になってくると、ちょっと目を離すととんでもないことになるのですよ。

で、20年近く持っていた体重計なのですが、昨年の秋に一度電池が切れました。その前は10年近く一度も電池交換しなくても済んだのに、やけに早いなと思って交換しました。ところが昨年の冬にまた電池切れして、今度は1か月持たなかったのです。これはついに何かが壊れたなと思い、せっかくなので以前からほしかったスマート体重計を購入することに決めました。

ただ、前の体重計がボタン電池のタイプで切れると次のを買ってくるまで体重が量れなくなったので、今度のは電池交換のストレスが少ない物にすると決めていました。一番の希望は太陽発電のものだったのですが、そのタイプにスマート体重計が見つからず(ここは日本ではないので)、結局、AAA(単4)電池2つで動くタイプを発見して購入しました。

さて、使ってみて何が楽かというと、BluetoothでiPhoneの専用アプリと連動できて、アプリを起動してから載るだけで記録が済んでしまうことなのです。

以前は、手動で記録していましたが、ちゃんと計ったのに記録を忘れることもあって、記入が楽なアプリを使っていたにもかかわらずかなりストレスでした。

専用アプリは、もちろんiOSのヘルスと連動しているので、たとえこの体重計が壊れて別のアプリを使うことになっても長期間の記録はずっと残ります。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第9弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマ「真シリーズ」の第一世代と第二世代が交錯する作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『あなたの止まり木に 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一の凱旋コンサートにお出かけの方たちのお話を、当ブログの『バッカスからの招待状』の田中も行きつけているらしい喫茶店を舞台に語ってくださいました。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、茜音は、『Bacchus』の常連になってくださっているということなので、素直にご来店お願いしました。たぶん、設定は壊していないはず。お酒、強いと踏んで書いちゃいました。まさか夏木たち下戸チームじゃないですよね? もしそうなら該当部分は書き直します……。(あ、『ゴッドファーザー』とかそれっぽい話が違う文脈だけれど入っているのはわざとです。私の好きな茜音の実のお父さんへのオマージュ)

そして、メインの話をどうしようか悩んだのですけれど、彩洋さんの今回のお話の大事なモチーフになっている「雨」と「借りた傘」をこちらでも使うことにしました。


「scriviamo! 2022」について
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【参考】
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バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
——Special thanks to Oomi Sayo-san


「高階さん、いらっしゃいませ」
田中は、意外に思いながら、心を込めて挨拶した。20時を回っていた。いつも彼女が好んで座る入り口近くのカウンター席はすでに塞がっていた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 店主でありバーテンダーでもある田中は、奥のカウンター席に1人で座っている女性客に顔を向けた。
「井出さん、お隣、よろしいですか?」

「ええ。もちろん」
その快活な女性は、すでに彼女の鞄を隣の椅子から除いて自ら座る椅子の後ろにかけ直していた。

 高階槇子は、会釈して空けてもらった席に向かった。

「この時間にお見えになるのは珍しいですね」
田中はおしぼりを渡し、それから、メニューを手に取って槇子の反応を待った。今日は、いつもとは違う注文をするかもしれないと考えたからだ。

 槇子は、いつも開店直後にやって来て、1杯だけ『ゴッドマザー』を飲むとすぐに帰るのが常だった。よく来る客というわけでもない。年に4回も来れば多い方だ。だが、それが10年にも及んでいる。
「今日は、いかがなさいますか」

 槇子は、メニューを持つ田中に手を伸ばした。
「そうね。今日は、メニューを見せていただこうかしら。急ぐ必要もないから、おつまみも……」

 槇子の視線は、井出さんと呼ばれた若い女性の前にある生ハムとトマトの1皿に注がれた。

「あ。これ、美味しいですよ。このバルサミコ酢と絶妙にマッチして。私は次、桃モツァレラにしようかなあ」
井出茜音は、ウィンクした。

 会計を済ませて出ていったばかりの客が戻ってきた。
「悪い、もう少しいさせてもらっていいかな」

 その客のトレンチコートに雨の染みがいくつもついているのを見て、田中は訊いた。
「降ってきましたか?」
「ああ。今日降るって、予報だったっけ? まあ、でも、この調子だと、すぐに止むと思うんだ」

 茜音は、鞄の中を確認してから安心したように言った。
「今日は、ちゃんと折りたたみ傘、持ってきたのよね」

「よかったですね」
槇子が答えると、茜音は少し明るく笑った。

 ちょうど田中と目が合ったので、茜音はおどけるような口調を使った。
「たとえ持っていなくても、田中さんに置き傘を借りるのは? ほら、このあいだ会った、喫茶店でそんな話をしていたでしょう? 置き傘を貸すと、返すついでにまた来てくれるお客さんがいるって話」

 田中はわずかに微笑むような表情を見せた。
「もちろんお貸ししますけれど、そうでなくても井出さんはこうしてお越しくださっていますよね」

 向こうのカウンターで「あれぇ。よそで井出さんと会っているのかぁ?」などという茶化した声が上がるのを、田中は軽く流している。カウンターの常連たちが笑う声にはかまわずに、槇子が囁くように言った。

「傘は安易に借りない方がいいかもしれませんよ」

 その声は、茜音にしか聞こえなかった。田中と他の常連たちが他愛のない会話を繰り広げている中、茜音は、槇子の翳った表情を見てやはり囁くように訊き返した。
「どうしてですか?」
「それだけじゃ済まなくなるかもしれないから」
「え?」

 槇子は、にっこりと微笑んでから、田中に言った。
「私、この『エイプリル・レイン』をいただくわ。ちょうど今日にぴったりだもの。それから、まず、この方と同じトマトと生ハムをお願い」

 田中は「かしこまりました」と答えた。『エイプリル・レイン』もまた『ゴッドマザー』と同じくウォッカベースのカクテルだ。

「娘がね。下宿生活を始めたので、急いで帰らなくてもよくなったの」
「ああ。大学は遠方でいらっしゃるんですね。お寂しくなったでしょう」
「そうね。12年前と同じ、1人暮らしに戻っただけなんだけれど、変な感じだわ。私、前はほんとうに1人暮らしをしていたのかしらって」

 田中と話す槇子の会話をぼんやりと聞きながら、茜音は妙な顔をした。横目でそれを感じたのか、槇子は笑って話しかけた。
「勘定が合わない、でしょう?」

 茜音は、無理には訊かないという意味の微笑を浮かべていた。槇子は続けた。
「言ったでしょう? 安易に傘を借りたりするものじゃないって。代わりに女の子を育てることになってしまったの」

 茜音はますます、これ以上の事情を深く訊いていいのか戸惑った。彼女は職業上相手の話を引き出すことには長けているが、その卓越した能力をプライヴェートで使うことには慎重だ。

「あら。この曲……」
槇子は、そんな茜音をよそに店内でかかったボサノバ調の曲に耳を傾けた。

「ご存じの曲ですか?」
「ええ。アストラッド・ジルベルトの『The Gentle Rain』……。昔よく聴いたのよね。まるで、私と娘のことを歌っているようだったから」

私たちは2人ともこの世に迷い独りぼっち
優しい雨の中、一緒に歩きましょう
怖がらないで
あなたと手と手を取り合い
しばらくの間、あなたの愛する者になるから

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



「傘を貸してくれた人の娘だったの。返しに行った時に出会ったの。突然、親を失って、途方に暮れて泣いていたの。行政に連絡して、そのまま忘れることもできたんだけれど、そのバタバタの時にもたまたまこの曲を聴いてしまって……」

「それで、引き取って育てたってことですか?」
目を丸くする茜音に、槇子は頷いた。

「成り行きでいきなりシングルマザーになってしまったの。でも、我が子を産んだり、イヤイヤ期を体験したりって経験をもつ友人たちに比べたら、ずいぶん楽な子育てだったのよ」

 槇子は、『エイプリル・レイン』を置いた田中にも微笑みかけた。

「いつも『ゴッドマザー』をご注文なさっていたのは、それでだったのですか?」
「そうなの。初めてここのメニューであのカクテルを知って、私のためにあるような名前だなって、氣に入ってしまったの。もちろん美味しかったからだけれど」

「『ゴッドマザー』って、どんなカクテル?」
茜音が訊く。

「ウォツカとアマレットでつくります。スコッチウイスキーとアマレットで作る『ゴッドファーザー』のバリエーションの1つなんですが、ウォツカを使うことでアマレットの優しい甘みが生きるようになります」

「甘いの?」
「いいえ。甘めの薫りはしますが、味としてはすっきりとした味わいで、甘いお酒が苦手の方もよくお飲みになります」

「ちょっとアルコールが強いので、むしろ女性で手を出す人は少ないかもしれないわね」
槇子が言うと、田中も頷いた。
「井出さんなら問題はないかと思いますが」

 茜音は、槇子の前の『エイプリル・レイン』にも興味を示した。
「それも強いんですか?」
「ええ。でも、ライムジュースも入っているから、『ゴッドマザー』ほどじゃないかもね。とても爽やかでいいわね、これ」

 槇子が氣に入ったようなので、田中は微笑んだ。
「恐れ入ります」

 茜音は、頷いた。
「じゃあ、私も次はそれをお願いします。新しい味を開拓したいし、今日にぴったりだもの」
「かしこまりました」

 槇子は微笑んで、グラスを傾けた。新しい生活リズム、新しい味、新しい知りあい、そんな風に途切れずに続いていく生活。今までと違い、仕事帰りに好きなときにこの店を訪れることもできるのだという実感が押し寄せてくる。

 12年前に突然生活が180度変わってしまったあの日から、無我夢中で走ってきた。見知らぬ少女を引き取り、シングルマザーとしての自覚や自信を見つけたり失ったりしながら、お互いになんとか心から家族と思える関係を築いてきた。

 おかげで、色恋沙汰とは無縁な人生になってしまったが、その直前にあったことで若干懲りていたので、それも悪くなかったと思う。これで人生終わったわけでもないし、自分の時間を楽しむうちに何かがあればいいし、なくてもそれはそれで構わないと達観できるようになった。

 12年前、槇子は仕事の帰りにたまたま近くを通ったので、連絡をせずに恋人のアパートを訪れた。連絡をせずに立ち寄ることをひどく嫌うことはわかっていたが、彼が傘を何本も持っていないことを知っていたので、借りた傘を早く返したかったのだ。いなければ、アパートのドアにかけておけばいいと思った。

 でも、着いたらたくさんのパトカーがいて、彼の部屋に警察官が出入りしている。慌てて事情を訊きにいったら、部屋の中から子供の泣き声がするというので大家が通報したらしかった。

 昨夜、繁華街で車に乗った男女が事故を起こし、2人とも死亡していた。運転していたのは子供の母親で、後に槇子の恋人の別居中の妻だったとわかった。助手席に乗っていたのが子供の父親である槇子の恋人だった。

 子供をアパートに置いて、2人がどういう事情で事故を起こしたのか、明らかにはなっていない。2人が口論をしていたという目撃もあるが、意図的な無理心中なのか、単なる事故なのかも不明のままだ。

 警察に何度も事情を訊かれ、ようやくわかったことに、槇子はどうやら恋人に欺されていたらしい。すくなくとも独身と嘘をつかれていた。

 ショックや悔しさに泣いた。でも、怒りをぶつける相手がもうこの世にいない。それどころか、彼の娘のことを聞いたら、そちらの方がそれどころでは無い状態だった。引き取れる身寄りが無く、独りで生きられる年齢でもない。悲しみも不安も槇子どころではないだろう。

 彼女の心配をしてやる義理も義務もないのだと言ってくるお節介もたくさんいた。それまた真実だった。でも、槇子が愛した男と時間を過ごしたあのアパートで、泣いていた少女のことが頭から離れなかった。

あなたの涙が私の頬に落ちる
まるで優しい雨のように温かい
おいで小さな子
あなたには私がいる
愛はとても甘くて悲しい
まるで優しい雨のよう

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



 彼の面影ではなく、愛娘として愛するようになるまで、思ったほどはかからなかった。むしろ、大人として巣立っていくのがこれほど寂しくなるとは、全く想像もしていなかった。

 4月の雨は、優しくて悲しい。きっとそうなのだろう。槇子は微笑みながらグラスを傾けた。


エイプリル・レイン(April Rain)
標準的なレシピ

ウォッカ - 60ml
ドライベルモット - 15ml
フレッシュ・ライムジュース - 15ml
ライムの皮 (飾り用)

作り方
氷を入れたカクテルシェーカーに、ドライベルモット、ウォッカ、ライムジュースを入れる。
勢いよくシェイクする。
冷やしたカクテルグラスに氷を半分ほど入れ、濾す。
ライムの皮を飾りとして添える。



(初出:2022年4月 書き下ろし)


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Astrud Gilberto: The Gentle Rain
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Tag : 小説 読み切り小説 コラボ

Posted by 八少女 夕

【小説】やっかいなことになる予感

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2022」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。あ、ダメ子さん、アーちゃんもつーちゃんも、フルネームはどうぞご自由につけてくださいね。

今回は、ムツリくんのヒミツ(?)に肉薄してみました。ほら、意外と経験豊富っていう、アレです。つーちゃんは、単なる耳年増系で経験は全く豊富でないので役不足かもしれないけれど、適当にグルグルさせてみました。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』

私の作品は新しいカテゴリーでまとめ読みできるようにしてみました。
『バレンタイン大作戦 - Featuring「ダメ子の鬱」』シリーズ


「scriviamo! 2022」について
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やっかいなことになる予感 - Featuring「ダメ子の鬱」
——Special thanks to Dameko-san


 困ったなあ。私は、アーちゃんに持ち込まれた新たな問題に頭を抱えている。

 1つ上の学年に、モテ先輩というめちゃくちゃモテる人がいる。カッコいいのは間違いないけれど、私もアーちゃんも、モテ先輩ファンクラブ(そんなものがあるのかどうかも知らないけれど)に入っているわけではないし、ましてや彼女になりたいとか狙うような野望はない。

 私は、2.5次元のおもに北方系の美男子モデルへのオタ活が忙しいし、アーちゃんは、モテ先輩と同じクラスのチャラ先輩にずっと片想いをしているのだ。

 でも、問題は、そのチャラ先輩が絶望的に鈍くて、アーちゃんの必死のアプローチをわかってくれないこと。それどころか、あがり症のアーちゃんがようやく手渡せたバレンタインのチョコを、なぜかモテくん宛だと思い込んでいることなのよね。

 そのせいで、先輩のクラスやバスケ部では、アーちゃんが年下のくせに抜け駆けして、チャラ先輩まで使ってモテ先輩にすり寄っていると思っている女の先輩もいるとか。そんなこと、言われてもねぇ。

 ここは、例によってムツリ先輩に相談して、クラブやクラスでのモテ先輩好きの方々の誤解を上手く解いてもらうしかないかな。って、なぜ私がこんなことばかりしているんだろう。アーちゃん、本人が言えばいいんだけれど、あの子はあがり症で、誰ともまともに会話できていないしなあ。

 私は、クラブが終わりそうな時間を見計らって、帰宅するムツリ先輩を待ち伏せすることにした。いや、私は別に口実作って、ほぼ毎日ムツリ先輩に会おうとしているわけじゃないから。本当だってば。

 まあ、ムツリ先輩、けっこうしっかりしているし、昨日渡したどうでもいいお礼も思いのほか喜んでくれたし、いい人なのは確かなのよね。

 そう言えばあの時「俺も金髪に染めようかな」なんて言われて、びっくりだったな。「金髪が似合うのはあっちの美少年だけ」って話に持って行ってしまってちょっと傷つけちゃった感があるのよね。

 全否定しちゃったのはまずかったかなあ。美少年ってジャンルじゃないのは確かだけれど、でも、カッコよくないっていう意味で言ったんじゃないし……。いや、私は、一体だれに言い訳しているのかしら。

 あ、来た。アーちゃんのバレンタイン騒動以来、週に何度もムツリ先輩と会っているので、けっこう遠くからでも歩き方やシルエットがわかるようになったのが驚き。これは、ちょっと由々しき問題じゃない? 

 私が、声をかけようとしたとき、ずっと前方にいた女の人が、驚いた声を出した。
「あら! コクルの弟くん……えっと、兵くんだったよね。久しぶり~。私のこと、覚えているよね?」

「あ。はあ、もちろん……ご無沙汰しています」
ムツリ先輩が、立ち止まって軽く頭を下げている。

「イヤだあ。そんなかしこまって。タメ語で話してくれてもいいのよ。ほら、私たち、その……他人行儀にすべき仲ってわけでもないし、ねっ」
「いや。そういうわけには……」

 聞き捨てならない会話が続くので、つい聞き耳を立ててしまう。台詞から考えると、あのひと 、たぶん先輩のお姉さんの友だちよね。でも、ちょっと変。先輩の肩や前髪を触ったり、媚び媚びの声色になったり。

 私は、電柱の影に隠れて2人の会話を聞いていた。2人は、こっちの方に歩いてきて、ひとつ手前の角で曲がって視界から消えた。2人一緒に歩いているというのか、あの女の人が、ムツリ先輩にまとわり付いていた感じだけれど、でも、先輩もまんざらでもないのか迷惑そうな感じではなかった。

 私がいたことには氣づいていなかったと信じたいけれど……。いや、別に私は後ろめたいことがあるわけじゃないし、氣づかれてもいいんだよ。

 肝心なムツリ先輩が女の人と一緒に帰ってしまったので、私は相談をあきらめて帰ることにした。

 なんだかなあ……。アーちゃんの問題も棚上げだし、今日は、推しの記事が出ていると思われる雑誌をチェックしに書店に行く予定だったけれど、その氣も削がれちゃったなあ。

 っていうか、どうして私は、こんなにガッカリしているのかな。ちょっとこれは、厄介なことになる予感がする。問題があるのはアーちゃんだけで、私はオブザーバーのはずだったんだけれどなあ。

(初出:2022年1月 書き下ろし)

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ダメ子さんがお返し作品を書いてくださいました!

ダメ子さんの描いてくださった 「疑惑」

電柱で挙動不審なつーちゃん by ダメ子さん
このイラストの著作権はダメ子さんにあります。無断使用は固くお断りします。
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Posted by 八少女 夕

【小説】やっかいなことになる予感

scriviamo!


今年最初の小説は、「scriviamo! 2022」の第1弾です。ダメ子さんは、今年もプランBでご参加くださいました。ありがとうございます! プランBは、まず先に私が書き、それに対して参加者のブロガーさんが創作作品や記事などを書いてくださる参加方法です。お返しを考える時間も必要でしょうから、とりあえず早急にアップさせていただきました。

ダメ子さんは、かわいらしい絵柄と様々な登場人物たち、それに短いセリフで胸のど真ん中を突くストーリーの、ネガティブな高校生ダメ子さんを中心に繰り広げられる日常を描く人氣マンガ「ダメ子の鬱」でおなじみです。

さて、「scriviamo!」では恒例化しているこのシリーズ、もともとはダメ子さんのところに出てくる、「チャラくんにチョコレートを渡せない後輩ちゃん」をネタに書かせていただいたものです。後輩ちゃんを勝手に名付けてしまったアーちゃんだけでなく、付き添いで勝手に出したつーちゃんまでも、いつの間にかダメ子さんの「ダメ鬱」のキャラクターに昇格させていただいています。あ、ダメ子さん、アーちゃんもつーちゃんも、フルネームはどうぞご自由につけてくださいね。

今回は、ムツリくんのヒミツ(?)に肉薄してみました。ほら、意外と経験豊富っていう、アレです。つーちゃんは、単なる耳年増系で経験は全く豊富でないので役不足かもしれないけれど、適当にグルグルさせてみました。


【参考】
私が書いた『今年こそは~バレンタイン大作戦』
ダメ子さんの描いてくださった『チョコレート』
ダメ子さんの描いてくださった『バレンタイン翌日』
私が書いた『恋のゆくえは大混戦』
ダメ子さんの「四角関係』
私が書いた『悩めるつーちゃん』
ダメ子さんの『お返し』
私が書いた『合同デート』
私が書いた『つーちゃん、プレゼントに悩む』
ダメ子さんの『お返しのお返し』

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 困ったなあ。私は、アーちゃんに持ち込まれた新たな問題に頭を抱えている。

 1つ上の学年に、モテ先輩というめちゃくちゃモテる人がいる。カッコいいのは間違いないけれど、私もアーちゃんも、モテ先輩ファンクラブ(そんなものがあるのかどうかも知らないけれど)に入っているわけではないし、ましてや彼女になりたいとか狙うような野望はない。

 私は、2.5次元のおもに北方系の美男子モデルへのオタ活が忙しいし、アーちゃんは、モテ先輩と同じクラスのチャラ先輩にずっと片想いをしているのだ。

 でも、問題は、そのチャラ先輩が絶望的に鈍くて、アーちゃんの必死のアプローチをわかってくれないこと。それどころか、あがり症のアーちゃんがようやく手渡せたバレンタインのチョコを、なぜかモテ先輩宛だと思い込んでいることなのよね。

 そのせいで、先輩のクラスやバスケ部では、アーちゃんが年下のくせに抜け駆けして、チャラ先輩まで使ってモテ先輩にすり寄っていると思っている女の先輩もいるとか。そんなこと、言われてもねぇ。

 ここは、例によってムツリ先輩に相談して、クラブやクラスでのモテ先輩好きの方々の誤解を上手く解いてもらうしかないかな。って、なぜ私がこんなことばかりしているんだろう。アーちゃん、本人が言えばいいんだけれど、あの子はあがり症で、誰ともまともに会話できていないしなあ。

 私は、クラブが終わりそうな時間を見計らって、帰宅するムツリ先輩を待ち伏せすることにした。いや、私は別に口実作って、ほぼ毎日ムツリ先輩に会おうとしているわけじゃないから。本当だってば。

 まあ、ムツリ先輩、けっこうしっかりしているし、昨日渡したどうでもいいお礼も思いのほか喜んでくれたし、いい人なのは確かなのよね。

 そう言えばあの時「俺も金髪に染めようかな」なんて言われて、びっくりだったな。「金髪が似合うのはあっちの美少年だけ」って話に持って行ってしまってちょっと傷つけちゃった感があるのよね。

 全否定しちゃったのはまずかったかなあ。美少年ってジャンルじゃないのは確かだけれど、でも、カッコよくないっていう意味で言ったんじゃないし……。いや、私は、一体だれに言い訳しているのかしら。

 あ、来た。アーちゃんのバレンタイン騒動以来、週に何度もムツリ先輩と会っているので、けっこう遠くからでも歩き方やシルエットがわかるようになったのが驚き。これは、ちょっと由々しき問題じゃない? 

 私が、声をかけようとしたとき、ずっと前方にいた女の人が、驚いた声を出した。
「あら! コクルの弟くん……えっと、兵くんだったよね。久しぶり~。私のこと、覚えているよね?」

「あ。はあ、もちろん……ご無沙汰しています」
ムツリ先輩が、立ち止まって軽く頭を下げている。

「イヤだあ。そんなかしこまって。タメ語で話してくれてもいいのよ。ほら、私たち、その……他人行儀にすべき仲ってわけでもないし、ねっ」
「いや。そういうわけには……」

 聞き捨てならない会話が続くので、つい聞き耳を立ててしまう。台詞から考えると、あのひと 、たぶん先輩のお姉さんの友だちよね。でも、ちょっと変。先輩の肩や前髪を触ったり、媚び媚びの声色になったり。

 私は、電柱の影に隠れて2人の会話を聞いていた。2人は、こっちの方に歩いてきて、ひとつ手前の角で曲がって視界から消えた。2人一緒に歩いているというのか、あの女の人が、ムツリ先輩にまとわり付いていた感じだけれど、でも、先輩もまんざらでもないのか迷惑そうな感じではなかった。

 私がいたことには氣づいていなかったと信じたいけれど……。いや、別に私は後ろめたいことがあるわけじゃないし、氣づかれてもいいんだよ。

 肝心なムツリ先輩が女の人と一緒に帰ってしまったので、私は相談をあきらめて帰ることにした。

 なんだかなあ……。アーちゃんの問題も棚上げだし、今日は、推しの記事が出ていると思われる雑誌をチェックしに書店に行く予定だったけれど、その氣も削がれちゃったなあ。

 っていうか、どうして私は、こんなにガッカリしているのかな。ちょっとこれは、厄介なことになる予感がする。問題があるのはアーちゃんだけで、私はオブザーバーのはずだったんだけれどなあ。

(初出:2022年1月 書き下ろし)

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ダメ子さんがお返し作品を書いてくださいました!

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Posted by 八少女 夕

最近変えたことあれこれ

今日は、最近変えた生活のルーティンについて語ってみようと思います。

入浴イメージ

昨年、スイスに移住して20周年を迎えました。最初は何もかも目新しくて試行錯誤していたことも、ずっと生活を続けるうちに凝り固まっていたことがいくつかありました。

でも、ここ数年の個人的な(加えて世界的な)激動で、ついでにそうした生活のあれこれについて考え直すきっかけがいくつもあったのです。で、実際にここ1年で変えてよかったと思うことがいくつかあったので、まとめて語ってみます。

1. 勤務時間を変えたこと
レイオフされるまで17年間勤めた会社では、90%という働き方をしていました。スイスには日本でいう「正規雇用」でも契約によって短時間労働ができるような仕組みがあります。週5日の午前と午後を働くのを100%として、半日単位で働く量を決められるのです。90%で働いていた頃、私は木曜日の午後がオフでした。

去年の6月にいまの会社に雇用されてから、半年間だけ60%勤務で木曜日の午後から週末という、めちゃくちゃだらけた生活をしていたのですけれど、今年からは80%に戻しています。水曜日の午後がフリーで、金曜日の午後からもう週末です。月曜日と火曜日の夜に日本語教師の仕事をしているので、収入は100%ですし、月火だけ少し大変なのですが、金曜日の午後にもうお休みになるのはこたえられません。それに週の真ん中の水曜日が半日だけ頑張ればあとは自由なのも嬉しい。このリズムがないと、1週間が長すぎるのですよね。

2. お風呂に入る時間を変えたこと
生まれてから去年の秋までずっと、私は寝る直前にお風呂に入っていました。特に冬は足が冷えていると寝付けないという悩みがあったので、頑固にそのやり方を続けていました。でも、実は数年前から「入浴は睡眠の1時間半前までに済ませた方がいい」という話をあちこちで聞いて、聞かないフリをしていたのです。

「直前に入るならシャワーにしろ」とか「睡眠直前はぬるいお風呂にしろ」とか、いろいろと追加の情報が入っていたのですが、やはりシャワーやぬるいお風呂だと寒いんですよ。私は他に贅沢はほとんどしないタイプなので、お風呂ぐらいは好きなようにゆったり入りたいんです。

それで、21時半頃までに入浴するように変えてみたのです。そうしたら、いろいろといいことがありました。第1に入浴が遅くなったせいで寝るのが0時を過ぎるということがなくなりました。第2に、睡眠の質がよくなりました。以前は熱いお風呂にしっかり浸かると寝付きが悪くなることもありましたが、いまはしっかり暖まっても寝る頃までには体内の温度は下がっているらしく問題はありませんし、睡眠のことを氣にせずに心ゆくまでお湯を楽しめるのは極楽です。

3. お湯に浸かる時間を短くしたこと
上の項目と重なる部分もあるのですけれど、実は以前は入浴時間が遅かっただけでなく、1時間以上もお湯に浸かっていました。お風呂の中でSNSなどをゆっくりと読んでいるとあっという間です。

でも、前はそんなでもなかったのですがここしばらく、あまり長くお湯に浸かっていると鼓腸の症状が起こりやすくなったのです。お腹が張るんですね。最初は何か悪いものを食べたのかなと思っていましたが、どうも入浴時間が長いときにはいつもそうなるようだと氣がついたので、バスタブにはiPhoneを持ち込まないようにして20分くらいで出るようにしました。

鼓腸が起こらなくなったのが一番の利点ですけれど、それ以外にも時間が前よりも有効に使えるようになりました。SNSはあまり見ない方がいいのですよね……。

4. 癒やしタイムをケチらないようにした
以前の私は、たとえば猫をひたすらなでているなんて、時間の無駄とまではいわないものの、私にはそんな時間は無いと感じていました。でも、実際に猫に膝に乗っかられて30分くらい居座られても、全然問題ないのです。一緒に散歩をしても猫はすぐに寄り道をするので前よりも時間がかかります。でも短い足で必死に追いかけてきてくれたりすると、やっぱり一緒に行きたいんです。毛繕いをして幸せそうにゴロゴロ言われるのもものすごく嬉しい。猫に時間をとられているのではなくて、こちらが癒やされているのですよね。

そういう時間をとるのは人生には必要なことだと思うのです。実際に、こうした時間の使い方をしても生活に時間が足りなくなったと感じることはあまりありません。たぶん、かつてはネット巡回か、料理か、昼寝に使っていたような時間が、猫タイムになっただけのように思います。

最近は、猫をなでている間に癒やし系の音楽をかけていたりします。
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Posted by 八少女 夕

【創作 語ろう】活字になるヨロコビ

だいたい10周年企画「創作 語ろう」の記事です。今回は「創作の環境紹介」の話題を。それから、私の創作の大きな転換点となった「作品の活字化・デジタル化」についても触れたいと思います。


Parliamo 創作語ろう「「10周年企画・「創作 語ろう」をはじめから読む




活字になるヨロコビ

キーボード


どんな環境で創作をしているのかについては、このブログで既に何度も語っているので、ここではサラッと触れるだけにしますね。

まずPCはMac。構想は脳内で、だいたいのあらすじ(妄想ともいう)が脳内に収まらなくなってくると、Scrivenerというアプリで専用ファイルを作ります。このアプリは小説や論文用のエディターなのですが、各種の資料(画像もテキストもPDFなども)をまとめて一緒に放り込んでおける優れものなのです。ここからテキストにしたり、ePub形式にエクスポートしたりも可能です。

ブログにアップするときには、ここからコピーして記事に貼り付けるわけです。

かつては、縦書きPDFを作成するときには、エクスポートした物をAdobe InDesignに流し込んで作っていましたが、サブスク化に抵抗して使い続けたAdobe CS5.5が使えなくなる日に備えて購入したegword Universal 2で作るようになりました。そういえばしばらくこの作業していませんね。

基本は、数千円以内の買い切りソフトだけで何とかしています。そして、何とかなるモノなのですね。ま、私の場合はほとんど文章だけなので、ならなかったらそれこそおかしいのですけれど。

というわけで、環境の話はこれでおしまい。

* * *


今回、もう少し話したかったのは、私の小説と活字化(デジタル化)の関係です。

前回も少し触れましたが、私はずいぶん長いこと親にも隠してコソコソと手書きのノートで創作をしてきました。内容もロクでもないという認識はあったのですけれど、どこか自分の中に「素人の自分にまともなものが書けるはずはない」という開き直りがあったと思うのですよ。あ、現在が「まともだ」と言っているわけではなく、すくなくとも「人に見せられるようなモノを書こう」と努力する心構えが必要だという話なんです。

そして、そのかつての「人に見せられるモノとは1億倍の差があるに決まっている」の根拠の1つに、作品を見る度に目に入る私の悪筆なんですよ。文豪だって悪筆はいるけれど、あれは内容が素晴らしいからいいんです。私のはどちらもダメダメなので、自分でうんざりしていたのです。

ところがです。大学で卒業論文を書くときに、ワープロ(ワードプロセッサー)を購入したんですよ。

今の若い方にはわけがわからないかと思いますが、かつては一般人の家庭には、自分の文章をキーボードで打ち込んでデジタル化することのできる機械はないのが普通だったんです。そして、ちょうど私が大学生になったころには、まだWindowsもない時代で、Macはありましたが学生なんかに購入できるような値段でもなく、たかだか文を打ち込むためにPCを購入する人はまだいませんでした。

でも、日本語というのは、ヨーロッパのようにタイプライターで打てるような文字の種類ではないので、まずはワードプロセッサーという機械が普及したのです。文字を変換して、文章を打ち込み、印刷するための機械です。漢字変換のできるタイプライターみたいなものですね。初期のワープロは、ディスプレーに表示できるのが4行とか8行とか、そんなかわいいもので、もちろんカラーの画面なんてありませんでしたし、印刷はリボンで転写するタイプでしたね。

そんなわけで、私が購入したEPSONのワープロも当時の私にとってはバイト代の大半が吹っ飛ぶお買い物でしたが、今の子供用スマホがへそでお茶を沸かすような機能の機械でした。でも、それを使って自分の文章を初めて印刷してみて、天地がひっくり返るような衝撃を感じたのです。

私の書いた文章が、活字になってでてきた、それだけです。でも、それだけで300%増しくらい立派に見えるんですよ。びっくりです。

卒論そっちのけで、自分の作品をいくつか打ち込んでみました。ホチキスと厚紙で製本して同人誌みたいに綴じてみました。なんと! やけにちゃんとした作品みたいに感じるじゃないですか。

そこからです。自分の作品に対する「こんなの」感が、なぜか薄まってしまったのは。

作品を見せたことはなくても、書いていることだけは打ち明けたことのある友人に誘われて、同人誌に初投稿することにしたのも、その少し後でした。もちろん人の目にさらすからには、もう少し取り繕いたいと欲も出てきました。

たぶん、私が執筆に「向上」を心がけるようになったのは、この頃からです。

今でも、向上すべき所はいくらでもあると思いますが、その一方で厚顔無恥な私は、ここ10年にこのブログで発表してきた作品のほとんどを「消し去りたい」とか「書き直したい」と思うことがありません。異論はたくさんあると思いますけれど、個人的には(ダメな部分も含めて)けっこう氣に入っているのです。

もっとも、そのおかしな愛着の2割くらいは、自分の作品が手書きではなくて活字で目に入ってくる、それに対するヨロコビを感じているのではないか、そんな風に疑ってもいるのです。

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