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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】そして、1000年後にも

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の○○』シリーズの新作『12か月の建築』1月分です。今年は、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめていくつもりです。

トップバッターは、今年もこのブログでもっとも馴染みのあるグルーブArtistas callejerosです。テーマの建築は、ポン・デュ・ガールです。南フランス、ガルドン川に架かるローマ時代の水道橋です。

このストーリーは本編とはまったく関係がないので、本編をご存じない方でも問題なく読めます。あえて説明するならヨーロッパを大道芸をしながら旅している4人組です。


短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む 短編小説集『12か月の建築』をまとめて読む

【参考】
「大道芸人たち Artistas callejeros」を読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結)
あらすじと登場人物

「大道芸人たち 第二部」をはじめから読む「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部
あらすじと登場人物




大道芸人たち・外伝
そして、1000年後にも


 陽光は柔らかく暖かいものの、弱々しい。ブドウの木はまだ眠っているようだし、地面の草の色もまだ生命の喜びを主張しては来ない。何よりも浮かれたバカンスを満喫する車とすれ違うことがまったくない。南仏の田舎道は、慎ましくひっそりとしている。

 だが、国道100号線を走るこちらの車の内側がシンと静まりかえっているかといえば、そんなことはない。今日ハンドルを握るのはヴィルだ。助手席にはフランス語の標識に即座に反応できるという理由でレネが座ったが、そもそも迷うほどの分岐はほとんどなかった。

 日本人2人組は、道を間違えてはならないという緊張もないためか、時に歌い、時に笑い、そうでなければ、ひきりなしに喋り続けていた。

「そういえば、今日のお昼に食べたあの料理、なんて名前だったかしら?」
レネの母親シュザンヌが作る料理は、素朴ながらどれも大変美味しいのだが、今日の昼食はいつもよりもさらに手がかかっていた。ひき肉を薄切り肉で包み、さらにベーコンでぐるりと取り巻いてからたこ糸で縛ってブイヨンで蒸し煮にしてあった。ワインにもよくあって、蝶子は氣に入ったらしい。

「メリー・ポピンズみたいな料理名だったよな?」
稔が適当なことを口にする。蝶子は呆れて軽く睨んだ。絶対に違うでしょう。

「ポーピエットですよ」
レネが振り返って言った。
「今日のは仔牛肉で作っていましたが、白身魚で包んだり、中身を野菜にしたり、いろいろなバリエーションがあるんですよ。煮るだけじゃなくて、焼いたり揚げたりすることもありますし」

「ああ、それそれ。美味かったよな。それに、あのチョコレートプリンも絶品だったよなあ」
普段あまり甘いものに興味を示さない稔がしみじみと言った。

 バルセロナのモンテス氏の店での仕事を終えて、イタリアへと移る隙間時間に、4人はアヴィニョンのレネの両親を訪ねた。例のごとく大量のご馳走で歓待され、レネの父親のピエールとかなりのワイン瓶を空にした。それで、4人は今夜も大量に飲むであろうパスティスやその他の酒瓶、それに食糧を仕入れに行くことにした。そして、ついでに『ポン・デュ・ガール』に足を伸ばすことにしたのだ。

 『ポン・デュ・ガール』は、ローマ時代に築かれたガルドン川に架かる水道橋だ。高さ49メートル、長さ275メートルのこの橋は、ローマ帝国の高度な土木技術が結集した名橋だ。レネの両親の家から30分少し車を走らせれば着くと聞いて、蝶子が買い出しのついでに行きたがったのだ。
 
 世界遺産にも登録されたためか、駐車場と備えたビジターセンターがあり、そこで入場料を払う仕組みになっていた。ミュージアムの入館料も含んでいるので、橋を渡るだけにしては若干高いが、歴史的建造物の維持に必要なことは理解できる。

 4人は、ミュージアムを観るかどうかは保留にして、とりあえず橋を見にいくことにした。センターを越えてしばらく歩くと行く手に橋が見えてくる。深い青空をバックに堂々と横たわるシルエットは思った以上に大きかった。

 さらに近づくとその大きさはこちらを圧倒するばかりになる。黄色い石灰岩の巨石1つ1つを正確に切り出して積み上げている。これを、クレーンもない時代に作ったことに驚きを隠せない。

「こんなに高くて立派な橋を作ることになったのはどうして?」

「今のニームにあったローマの都市で水が不足して、ユゼスから水を引くことになったんです。それで、この川を渡る必要ができたんだそうです」

 アヴィニョンの東にある水源地ユゼスから、ネマウスス、現在のニームまで水を引くためにはいくつもの難関があった。ユゼスとネマウススの間には高低差が12キロメートルしかなかったので、1キロメートルごとに平均34センチという傾斜を正確に計算し、時に地表を走らせ、時に地中を走らせつつも、幅1.2メートル、深さ1.8メートルの水路を全行程に統一させた。越えられぬ山を通すためにセルナックのトンネルが掘られた。そして、最大の難関がこの渓谷だった。ローマ人は、この難関を奇跡ともいえる建造物を使って克服したのだ。それが、ポン・デュ・ガールだった。

 その3層のアーチ構造は、強度を保ちながら少ない材料で橋を高くする合理的な設計だ。それぞれのアーチは同じサイズに揃えられ、部分の石の大きさも統一されている。プレハブで建物を作るように、同じ大きさの部品を大量に作り一氣に建築する方法によって、ポン・デュ・ガールはわずか5年で完成したという。

 3層構造と文字で読むと大したことがなく感じられても、実際に目にするとその大きさには圧倒される。49メートルとは、14階建てのビルに匹敵する高さなのだ。1つ6トンもの石を4万個も積み上げたのは、最上階を走る幅1メートルあまりの水路のためだが、その下を歩く人びとにも大きな助けとなり、ローマの土木技術の正確さと、当時の帝国の栄光を2000年経った今も伝えるのだ。

 4人を含める観光客が自由に歩き回れるのは、19世紀にナポレオン3世が修復し加えられた最下アーチ上の拡張部分だ。ごく普通の橋であれば、ずいぶん広くて堂々としていると感じるのであろうが、古代ローマ時代の大きく太い橋脚がそびえ立つので、小さな部分のように錯覚してしまう。

 水道のある上部は、予約をしたガイド付きツアーの客のみ上がれる。1日の人数制限もあり、思いついて行けるような所でもないらしい。

「子供の時に一度登りましたが、足がガクガクしました」
「ここも、高所恐怖症の人には十分怖いかもしれないわね」

 眼下を流れるガルドン川は、紺碧というのがふさわしい深い青の水だ。周りの白っぽい岩石とのコントラストが美しい。 

 常に穏やかな流れではないガルドン川は、時には大きな濁流となって地域を脅かすこともあった。ポン・デュ・ガールが、長い歴史の中で修復・補強されながらも、現在もこのように立派に経っていることには畏怖すら感じる。それは、大きな水圧にも耐えるよう計算し尽くされた古代ローマの土木技術の賜だ。

「他の地域に大きな被害をもたらした2002年のガルドン川の増水と氾濫でも、この橋はびくともしなかったんですよ」
レネは、説明する。

「水道としての役割はとっくになくなりましたが、橋としては今でも現役ですし、それに、夏には、ここでピクニックをする人がたくさんいるんですよ。2000年前の建造物ですが、人びとの生活や楽しみからかけ離れていない存在なんです」

 もちろん、1月はピクニックには寒く、河岸でたくさんの人が寛いでいるわけではなかった。

 駐車場方向に戻る途中に、古いオリーブの木が目に入った。レネが3人をそちらに連れて行った。

「ずいぶん古い木ね」
蝶子がいうと、レネは片目を瞑った。

「単なる古い木じゃありません。樹齢1000年を越えているんです」
「ええっ?」

 傍らに石碑がおいてある。その石碑自体が古くて半ば崩れたようになっているので、言われるまでそれが石碑だと氣がつかなかった。

Je suis né en l'an 908.
Je mesure 5 m de circonférence de tronc , 15 m de circonférence souche.
J'ai vécu, mon passé , jusqu'en 1985 dans une région aride et froide d'Espagne.
Le conseil général du Gard, passionné par mon âge et mon histoire m'a adopté avec deux de mes congénères.
J'ai été planté le 23 septembre 1988.
Je suis fier de participer au décor prestigieux et naturel du Pont du Gard.


「『私は908年に生まれました。幹周りは5m、株の周りは15mです。1985年までスペインの乾燥した寒い地方に住んでいました。私の年齢と経歴に魅了されたガールの総評議会は、私を2人の同胞とともに養子として迎え入れ、1988年9月23日にここに植樹しました。ポン・デュ・ガールの格調高い自然環境の一端を担えることを誇りに思います』」
レネが、碑文を訳した。

「908年って、日本だと平安時代かしら?」
「確かそうだろ。ほら、菅原道真が遣唐使を廃止したのが894年だったよな」
「ヤスったら、よくそんな年号覚えているわね」
「平安時代だと、『鳴くよウグイス』とそれ以外は何も覚えちゃいないけどな」

 4人はオリーブの木と、向こうに見えているポン・デュ・ガールを眺めた。

「こういうのからすると、俺たちの経験してきた数十年なんてのはほんの一瞬なんだろうなあ」
稔がしみじみと言った。

「そうね。人間というのは、ずいぶんとジタバタする生き物だって思っているかもしれないわね」
蝶子は、老木の周りを歩いて風にそよぐ枝を見上げた。

「新たな技術で何かを築き上げては、戦争をして壊しまくる。豊かになったり、貧しくなったり忙しいヤツらだと思うかもな」
ヴィルはポン・デュ・ガールの方を見て言った。

「僕が子供の頃と較べても観光客や地元民の様相は変わったけれど、この樹々とポン・デュ・ガールは全く変わらない。ただひたすら存在するって、それだけですごいことだと思いますよ」

 人間がそれほど長く生きられないことはわかっている。いま、自分たちが親しんでいるほとんどの物質や文化も、1000年後には姿形もなくなっていることだろう。

 それでも、何かは過去から残り、未来へと受け継がれていく。この古木やポン・デュ・ガールのように。

「1000年後のやつらも、同じようなことを思うのかなあ」
稔はポツリと言った。

「残っていたら、きっと思うわよ」
蝶子がいうと、レネは心配そうに言った。
「残りますかねぇ」

「俺は、現代の人類がよけいなことをしなければ、残ると思うな」
ヴィルは言った。

 4人は、彼らと同じ時間ならびにその後の時間を生きる人類が、素晴らしい過去の遺産や生命を尊重し続けるように心から願いながら、再びレネの実家に戻っていった。

(初出:2023年1月 書き下ろし)

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Pont du Gard, France - World Heritage Journeys
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Tag : 小説 読み切り小説

Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -17- バラライカ

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の楽器』の11月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだのは、ロシアの弦楽器バラライカです。舞台はおなじみ大手町のバー『Bacchus』です。

白状します。ロシアの楽器を選んだのはわざとではありません。楽器の名前のカクテル、バラライカしか見つからなかったのです。でも、少なくともこの店ではどんな世界情勢であっても皆が平和にお酒を飲んでいてほしいと思い、あえて火中の栗を拾うことにしました。


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【参考】
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バッカスからの招待状 -17- バラライカ

 開店直後にその女性が入ってきたとき、いつものように「いらっしゃいませ」と口にしながら、田中は通じるだろうかと懸念した。彼女は背が高く、金髪で青い目をしている。氷の彫像のように、まったく表情筋を動かさないので、田中には日本語が通じるのかどうかの判断ができなかった。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 今夜は水曜日、バーテンダーであり店主でもある田中が1人の日だ。東京駅から遠くないので、外国人の客が来ないわけではないが、立地が立地だけに誰にもつれられずに1人で入ってくることは珍しい。田中も簡単な英語は話せるが、流暢というほどではない。他の言語であれば全く話せない。

「もう開店していますか」
イントネーションは違うものの、普通の日本語だった。そうとう話せるようだ。

「はい。お好きな席にどうぞ」
田中は、カウンター席とテーブル席を示した。彼女は、カウンター席の真ん中に座った。

「どうぞ」
「ありがとう」
田中の差し出したおしぼりを、わずかに頭をかしげながら受け取る。

 カランと音をさせて、次の客が入ってきた。
「こんばんは。近藤さん」
「やあ、マスター。あれ、1番乗りじゃなかったか」

 モデルか女優のような金髪美女を見て、彼は一瞬固まった。常にイタリアのブランドとすぐにわかるスーツに個性的な色のネクタイをしている近藤は、この店の常連の中でもとくに言動がキザだ。いつもなら、近藤がよく座る席に腰掛けている一見客に、何かいわなくても良さそうなひと言を口にするのだが、今日は調子が出ないようだ。

「僕も、今日はカウンターにしようかな」
などと言いながら、女性の右横を1つ空けた席に腰掛けた。「今日は」もなにも、常にカウンターに腰掛けているのだからおかしな発言だが、慣れない外国人客がいて調子が狂っているのか、それとも女性に話しかけるきっかけなのかわからず、田中は様子を見ることにした。

「メニューをどうぞ」
田中が日本語だけで話しかけて、彼女が「ありがとう」と受け取ったのを見て、近藤は少しホッとしたようだった。

「近藤さんも、メニューをどうぞ」
「ああ、うん。いつものをまずもらおうかな。おつまみは、今日は何がいいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました。まずはこちらを」

 田中は、つきだし代わりにサーモンとイクラのディル和えをそっと近藤の前に置いた。そして、女性の前に置く前に訊いた。
「お魚は召し上がれますか」

 女性は、わずかに目を細めて答えた。
「ええ。もちろん。イクラは子供の頃から食べ慣れているもの」

「どちらのお国ですか?」
近藤がすかさず訊くと、女性は顔も向けずに「ロシアよ」と答えた。

 なるほど、と田中は心の中でつぶやいた。このご時世、とくに本人に咎はなくとも、出身国を口にするだけで不快な対応をされることもあるのだろうと。

 もっとも女性も、さすがにつっけんどんすぎると思ったのか、しっかりと顔を向けて言い直した。
「ヴォルガ河のほとり、ニジニ・ノヴゴロドから来たの」

 田中は、それが広いロシアのどこにあるのか知らなかったが、近藤にはそうではなかったらしい。
「聖都キーテジからですか?」

 これには、女性も驚いたらしい。それまで能面のようだった顔面が表情豊かになった。
「どうして知っているの? もちろんキーテジではないけれど、スヴェトロヤール湖の近くの出身なのよ」

 近藤の顔に、はっきりとした余裕が表れて、いつものように少しキザっぽい口調で答えた。
「たまたま最近、リムスキー=コルサコフのオペラの評論を書いたんでね。田中マスター、キーテジってのはね、ロシアに伝わる、伝説の見えない都市なんだよ」

「そうなんですか。そのオペラは、その都市が舞台なのですね」
田中が訊くと、2人は同時に頷いた。

「キーテジに関する伝説と、別のフェヴローニヤという聖女伝説を組み合わせて1つのオペラにしたの」
女性が説明すると、近藤が続ける。
「色彩的な素晴らしいオーケストレーションに、民族楽器のバラライカを組み合わせた傑作なんだ」

「バラライカ……ですか」
田中がなるほど、というようにつぶやいた。

「あれ。マスター、バラライカを知っているんだ。すごいねぇ。けっこうマイナーな楽器だけど」
近藤が少し驚いたというように黒縁眼鏡の奥の目を細めた。女性も頷いている。

 バラライカは、ロシアの民族楽器だ。三角錐形の共鳴胴を持つ弦楽器で、子供が抱えられるくらい小さな物から、大人の身長を超えるほど大きいものもある。カエデやトウヒを使った現代の楽器は澄んだ美しい音色を出す。

「いえ。楽器に詳しいのではなくて、その名前をもらったカクテルがあるんですよ」
田中は笑った。

「ああ、そうよね」
女性が笑う。

「へえ。どんなカクテル?」
近藤が訊く。

「サイドカーのバリエーションです。ベースがウォッカになっています」
田中が答える。

「久しぶりに飲んでみたいわ。それをお願いできる?」
女性が微笑んだ。

「かしこまりました」
田中はストリチナヤ・プレミアム・ウォッカの瓶を取り出した。高品質なピュアウォッカだ。ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクして作るバラライカは、さっぱりした味わいが肝なので、特に希望を言われない限りはピュアウォッカで作る。

「バラライカが、ロシアの代表的な楽器として重宝されるようになったのは、わりと最近だって知っていた?」
女性は頬杖をついて訊いた。

「いつ頃ですか」
しっかりとシェイクしながら、田中が訊く。

「19世紀。それまでは旅芸人たちが使い安価だったことから、価値のない楽器とみなされていて、喧嘩の時に殴るのに使われていることもあったらしいわ」
田中は驚きの表情を見せた。

 近藤が後を続けた。
「ペテルブルグの商人ワシーリー・アンドレーエフが楽器をもっと響くように改良して、オーケストラを編成し、その良さを知らしめることに成功したんだよね。それに、ニコライ・リムスキー=コルサコフが、『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で用いるなどして、あの済んだ美しい音が世界に知れ渡ったと」

 女性は、田中が「どうぞ」と前に置いた白いカクテルを見ながら言った。
「それに、なんといっても映画『ドクトル・ジバコ』ね」
「『ララのテーマ』! あれ抜きには語れないな」
近藤も同意する。

「このカクテルも、あの映画のヒットともに知られるようになったといわれています」
田中は、2人に微笑んだ。

「マスター、おすすめの肴は何かな。せっかくだから今晩はロシア繋がりで行きたいんだけど」
近藤が訊く。

「そうですね。塩漬けニシンをライ麦パンに載せたカナペ、角切り野菜をマヨネーズで和えたロシアンサラダなどでしょうか。ああ、そうだ、近藤さん、ビーツは召し上がれますか」
「うん。食べるよ」
「では、ピクルスを仕込んであるので、それをクリームチーズで和えたものはいかがですか」

 近藤は頷いた。
「どれもいいね。みんなもらおう。……ええと、あなたは? 田中さんの作る肴はどれも美味しいですよ。よかったらご馳走します」

 女性は、微笑んだ。
「聞いているだけでホームシックになりそう。じゃあ、喜んでご馳走になります」

 それから、田中と近藤の顔を交互に見て言った。
「こちらのお店、お客さんを名前で呼んでいるのね。いいわねぇ」

「田中マスターは、お名前を言うとすぐに覚えてくれますよ。僕、2回目に来たのは2か月くらい経ってからだったんだけど、覚えてくれていたんで感激したんだよね」
「恐れ入ります」

 女性はチャーミングに笑って言った。
「じゃあ、私もテストしようかしら。私、オルガ・バララエーヴァっていうの。次回、忘れずに呼んでね」

 近藤が少し口をとがらした。
「それ、それほど難しくないじゃないですか」

「どうして?」
「だって、いまバラライカの話題をしたばかりで……」
「ああ、そうよね」
3人は笑った。

 そうこうしているうちに、他の客も入ってきた。近藤とオルガに感化されたのか、その晩は、ウォッカ・ベースのカクテルを頼む客や、ロシア風のおつまみを見て珍しそうに注文する客が続き、なぜか「ロシア・ナイト」のようになってしまった。

 リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で題材にしたのは、異民族との戦いでこの世から姿を消してしまった中世の偉大な都市と、その犠牲になった人びとたちの物語だ。

 オペラは、現世での栄華や民族間の戦いの虚しさを伝えようとしている。オルガの生まれ育ったスヴェトロヤール湖畔に聖なる街キーテジは、今も存在すると伝えられている。なくなったのではなくて、ただ見えなくなったのだと。

 伝説によると、白い石の城壁、黄金の屋根を持ついくつもの教会や修道院、素晴らしい装飾を施したクニャージの宮殿、貴族たちの立派な屋敷や堅牢な丸太で作った家々もそのままに敵に襲われることができなくなるよう、罪深い人びとの目に見えなくなったという。

 戦いも悲しみも存在しなくなる最後の審判の日に、キーテジは再びその姿を現すようになるとヴォルガの人びとの間に伝えられている。

 静かな宵に湖畔に立てば水の中に見えざる街が映し出されることがあるという。そして、夜更けに愁いに満ちた鐘の音がかすかに聞こえてくるのだと。

 それは、バラライカの音色のように澄んでいるのだろうか。その幻影は、爽やかだけれども実は強いカクテルのように、すぐに人を酔わせるのだろうか。

 戦いも悲しみもまだ満ちているこの世で、少なくとも今宵この店の中では、どの客たちも平和を願いつつ楽しんで欲しいと、田中は願った。


バラライカ(Balalaika)
標準的なレシピ

ウォッカ - 30ml
ホワイト・キュラソー - 15ml
レモンジュース - 15ml

作り方
材料をシェイクしてカクテル・グラスに注ぐ。



(初出:2022年11月 書き下ろし)

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参考までに、リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』から。
全曲は3時間もあるので、組曲を貼り付けておきます。


Rimsky-Korsakov - The Legend of the Invisible City of Kitezh - Leningrad / Mravinsky
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Posted by 八少女 夕

【小説】チャロナラン

今日の小説は『12か月の楽器』の4月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の選んだ楽器は、ガムランの打楽器です。具体的にはウガールやガンサといった名前があるんですけれど、そう書いてもよくわからない方が多いかと思います。私もそうですし。

今回の実際の舞台は、バリ島ウブドのグヌン・ルバ寺院をイメージして書いています。ガムランにはいくつか種類があるのですけれど、今回はバリ島のガムラン、バリ島のヒンドゥー教に特化して書いたストーリーです。主人公の暮らす村についての具体的なモデルはありません。子供の頃に知ったバロン・ダンス、魔女ランダの伝説がいつもどこかに引っかかっていて、それをテーマに書いてみました。


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チャロナラン

 川のせせらぎが絶え間なく聞こえている。それよりも大きく主張しているのは虫の音、そして、風にそよぐ樹木の葉や蔓の微かな響き。祭祀に備えてガムランの演奏の練習をしているらしい。ウガールがガンサたちを引き連れて響きの綾を織りなしていく。そのどれからも発せられているという超高周波は、人の耳には聞こえなくとも肌から受け止められて、人をリラックスさせるのだという。

 そうだとしたら、この島は平和に満ちているはずだ。悪の権化、ランダの出る幕などないはずではないか。

「君の歌声にも、特別な超高周波が含まれているに違いないよ。だから、僕の心はこれほどまでに揺さぶられるんだ」
ジャスティンの言葉を思い出し、メラニは顔をしかめた。ニームの葉のように苦い。

 雨季は終わりかけている。4月のバリ島はまだ激しい雨が降ることも多い。だが、晴れ間の続く時間には湿氣がかなり減って、過ごしやすくなってきた。鬱蒼とバンヤンの木々に覆われた寺院。メラニは、7層の茅葺き屋根を持つメル塔を一瞥した。

 さまざまな色相の緑と、石材の灰色、そして黒い茅葺きが、金箔で飾られた飾り絵や彫刻を際立たせている。

 ガムラン合奏が少しずつ大きくなる。いったいどこで奏でているのだろう。メラニは見回した。

「この島には、目に見えぬ力が満ちている。大きな厄災が起こらぬように目を配り、もし起こってしまった場合は、その怒りを鎮めなくてはならない」

 メラニは、子供の頃に故郷の村の最高司祭プダンタ が語った言葉を思い浮かべた。周りの男たちよりも背は低く、髭も生えていない男だったが、目が大きく、力強いことばを使うプダンタは、みなの尊敬を集めていた。まだ2月だというのに3度目の交通事故があったとき、チャロナラン劇を開催すると決めたのもプダンタだった。

 観光地のアトラクションとして演じられることの多い『レゴン・ダンス』などとは違い、チャロナラン劇は、本来は死者の寺ブラ・ダラムで演じられる宗教儀式だ。

 かつて王妃であった魔女チャロナランが闇の権化ランダとなり、聖なるものの化身である聖獣バロンと化した聖者と戦う。だが、それは西欧によくある勧善懲悪の物語ではない。聖獣バロンが滅ぶことがないだけでなくランダもまた幾度でも蘇り、その戦いは永久に続く。ランダの面は、バロンの面と同じように丁重に寺院に安置される。

 ランダは、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーとも同一視されている。シヴァ神の妻で、神々の怒りの光から生まれ、アスラ神族を殲滅したとされる、戦いと破壊と血の女神だ。慈愛と美の化身であるパールヴァーティの裏面、恐怖・凶暴を顕す側面シャクティ とされている。

 子供の頃、メラニはなぜランダがシヴァ神の妻と同一視されるのかわからなかった。チャロナラン劇で見るランダは長い乱れた髪、舌と乳はだらんと垂れ下がり牙を見せる怪物のように醜い老婆の姿だ。邪悪な魔法を使い、子供を喰らい、村人を苦しめる存在が、ヒンドゥー教の最重要神の1人の妃とはとても思えなかったのだ。

 でも、今のメラニは、子供の頃とは違う、もう少し多面的なものの見方ができるようになっている。

 聖者ウンプー・バラダは、魔女チャロナランのとてつもない魔力にそのままでは対抗できないことを知り、息子にチャロナランの愛娘を誘惑するように命じた。娘婿に欺されて秘技を記した古文書ロンタールを奪われたチャロナランは怒り狂い聖者に戦いを挑んだ。ランダと化したチャロナランとバロンと化した聖者ウンプー・バラダの魔力は拮抗し、終わりのない激しい戦いがおこった。

 メラニは、90%の島民がバリ・ヒンドゥー教を信じるバリ島において数少ないキリスト教徒の家庭に生まれた。オランダから移住してきた祖父の血は、すでにその容貌にはあまり痕跡を残して折らず、オランダ語もまったくわからない。キリスト教徒といっても、ヒンドゥーのカーストに属していないというだけで、キリスト教を信奉しているというわけでもない。周りの子供たちと同じ学校に通い、司祭たちの言葉を聴き、相互扶助活動ゴトンロヨンにも参加し、村社会の管理組織バンジャールの一員として暮らす普通のバリ島民だ。

 でも、ジャスティンにとっては、ヒンドゥー教徒でないということは手っ取り早い存在だったのかもしれない。
「ガムランの高周波の影響について調べているんだ。調査に協力してほしい」
彼は、アメリカから来た神経心理学者で、超高周波の刺激と受容体としての皮膚について調べているといった。

 観光客と変わらぬ程度の認識と伝手しか持たない彼は、どうしても地元の協力者が必要だった。メラニは、「恋人」の研究に協力することにはやぶさかでなかった。

 聖なるチャロナラン劇によそ者を連れて行っただけなら、あれほどの非難を受けることにはならなかっただろう。でも、彼は研究に夢中になり、守らねばならぬ神への畏怖を怠った。神事である劇はダラム寺院の外庭ジャボ で行われる。さまざまな神像や板絵にマイクを設置することなど許されるはずはなかった。

 それだけでも村でのメラニへの風当たりは強くなったけれど、それだけならば供物を捧げて神の怒りをほどくことも可能だったかもしれない。でも、彼は最高司祭プダンタ のロンタールを持ち出したのだ。

 パルミラ椰子の葉を加工して、板状にしたものに古代インドから伝わるカカウィン文字で記すロンタールは、古代より写経やラーマヤナ神話などの写本として受け継がれてきた。村のロンタールには、チャロナラン劇の演奏に関する秘技が書かれている。それをどうしても入手して論文の1次資料にしようと考えたらしい。

 チャロナラン妃が絶望して悪の権化ランダに変貌したのは、娘婿が魔術秘技のロンタールを盗み出すのに最愛の娘が協力したからだという解釈がある。プダンタはロンタール盗難をこの故事と結びつけた。メラニは、許されざる悪事に手を貸して、村の平和の均衡を破った呪われた存在になった。

 破れた均衡を取り繕うためには、大きな犠牲と祭りが伴われなくてはならなかった。それは、21世紀に生きるアメリカ人には単なる迷信であり、馬鹿げた騒動だった。写真を撮った後に、借りたロンタールを返した。それで十分だと彼は考えた。法に触れることなど何もしていないし、言いがかりをつけるなら許さないとまで言い放ったのだ。
 
 彼が立ち去った後に、耐えがたい不調和だけが残った。メラニが村の非難の的となっていることを知りながら、彼は滞在を延ばす必要すら感じなかった。ほしいものは手に入れたのだ。録音と1次資料と。

「君の協力には感謝している。もし、ロスに遊びに来ることがあったら連絡してくれよ。観光案内くらいは喜んでするからさ」

 ウガールを激しく打ち据える響きが空氣を震わせる。大地を這う悪霊レヤックたちが聖なる寺に忍び込もうとするのを、手伝うかのようにバンヤンの氣根が蠢き震えている。空は垂れ込めた雲に覆われ、間もなくやってくる雨を不穏な湿氣が先触れとして伝えている。

「お前の引き込んだ不均衡は、多くの犠牲と共に正しい儀式によって穴埋めされねばならぬ。村におこる天変地異と不作は神々の怒りが原因なのだから」

「面倒ごとに、旅行者の僕を巻き込まないでほしいな。くだらない伝統に愛想を尽かしたなら、都会に出ればいいだろう? こんな小さな島で、理不尽に耐えることはないさ」

 サルンを揺らして供物を捧げていた娘たちも、スコールの氣配を察して消えていった。生ぬるい風がメラニの頬と髪を揺らす。ウガールの青銅の鍵盤が呼び起こす共鳴は、メラニの肌を通して身体の中を巡り、森に追われ、愛するものからも見捨てられてランダに変貌していったチャロナラン妃の絶望に共鳴した。

 ぽつり、ぽつりと、水滴がメラニの髪、肩、そして、サルンを濡らす。雨が降り出した。人びとは残っていた観光客たちも慌てて去って行く。メラニは、ランダとバロンの石絵の前に立ちすくみ、ゆっくりとサンヒャン・ドゥダリの型をとり踊りだした。子供の頃に、神がかり状態となって奉納した踊り。ジャスティンたち欧米の研究者に言わせると、超高周波が肌から吸収されることによっておこるトランス状態に、彼女はもう陥ってはいかない。彼女の肌を刺しているのはスコールの雨粒矢で、彼女の心を覆うのは神への畏敬ではなく、行き場のない悲しみだ。

 カーストの中にきちんと収まっていたわけではない。けれど、この島の世界観から完全に抜け出して、神々など存在しないと宣言することもできない。それはメラニ自身の存在をまき散らすほどの無理な否定だ。

 ウガールの、ガンサの、クンダンの、レヨンの、ゴングの、ガムランの楽器のリズムと響きは、この島の生活の中にある。そして、メラニにとって、それは空氣や水や食物と同じように、生きていくことと切り離せない。生活は、食べて寝て、仕事をすることだけでは完結しない。ジャスティンの国では、人はそれでも問題なく生きられるのかもしれない。でも、ここでは、それだけではない。風と緑と祈りと響きが、生活の周りと、そして身体の内側に同時に存在しなくてはならない。

 バンヤンの氣根がカーテンのように覆い被さり、聖なる寺院を暗いジャングルに変えてゆく。激しいスコールが街を、チャロナラン妃が追いやられた森に変えていく。その森では太古からの悪鬼が蠢く。その中で、メラニは踊っている。青銅の鍵盤の響きが彼女を突き刺し、激しい雨粒が彼女を叩くからだけではなく、彼女の内なる悲しみと恨みが内なるランダを呼び寄せるから。

 バンヤンの大木の奥に、なにかが動いていた。白く大きな動物のような影。スコールの壁で実際にそれが動物なのか、それとも他の何かなのかはわからない。メラニは、聖獣バロンがそこにいるように感じた。怒りに駆られた女がランダに変わるとき、バロンが現れて世界の均衡を取り戻すのなら、ここにバロンが現れるのは理にかなっている氣がする。それで自分が浄化されてこの世から消え失せていくならそれでもいいと思った。

 雨が止み、雲間より太陽が顔を出した。メラニは、踊りをやめて周りを見た。白い影を見た大木の方を見る。ランダに戦いを挑むバロンはそこにはいなかった。ガムランの練習も止んでいる。白い服を着た司祭が、そこに立っていた。
 
 メラニは、頭を下げた。ここが故郷の村であれば、彼女は乱心しランダに変わった魔女だと断定されてもしかたなかった。ここではまだ彼女が巻き込まれた厄介ごとは、知られていないだろうと思った。

「均衡は、取り戻された。そうであろう?」
その見知らぬ司祭は、唐突に言った。メラニは面食らいながらも、言われたことに想いを向けた。

 濡れながら踊っていたときの、どうすることもできない暗い想いは、消えていた。少なくとも、彼女は普通の人間の女であり、ランダに変貌したわけではなかった。そして、先ほど見た白い影もバロンではなくて、この司祭を雨越しに見たのであろう。

 ガムランの演奏は終わっていた。バンヤンから垂れ下がる氣根のカーテンからは、まだ、雨雫がしたたり落ちていたが、先ほどの不穏な暗さではなく、陽の光に照らされて輝いていた。

 メラニは、黙って司祭に頭を下げた。

 彼女にとっては、この島で起きる全てに意味がある。生活も、地形も、寺院も、バンヤンやガジュマルの絡まる遺跡も、スコールも、伝説も、ヒンドゥーの教えや伝統祭祀も、そして、踊りやガムランの響きも、切り離してそれだけを語ることなどできない。測定し、分析し、そして論文にして、電子書架におさめる、ジャスティンたちの「研究」では解き明かすことができない「秘儀」をメラニは丹田の奥に抱えている。

 メラニを覆っていた暗い雲が、晴れていく。ジャスティンがこの島を去り、彼がメラニを島から持ち出さなかったことで、そして、彼から切り離されることで、村の、そして島の均衡は取り戻されるのだ。スコールに洗い流されたのは浄化儀式ブタ・ヤドニャだったのだろうか。

 彼女は、村に帰るために、寺院を後にした。村に帰ったら、彼女をめぐる浄化儀式ブタ・ヤドニャがあるだろう。それを罰と捉えることはやめよう。私がまた、あの場にふさわしい存在に戻るプロセスなのだから。メラニは心を込めた供物を用意しようと思った。

(初出:2022年4月 書き下ろし)

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Sound Tracker - Gamelan (Indonesia)
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Posted by 八少女 夕

ちょっと早いけれど

リラ

見てください。今年はまだ4月だというのに、もうリラが満開なんです。林檎の花や、八重桜も見事に咲き誇っている、花のきれいな年です。

他の国や地域では、4月の頭に果樹の花が咲いてしまい、折しもやって来た記録的な寒波でかなりの被害を受けたようですが、このあたりは花が咲き出すのが遅かったおかげで、今のところ大丈夫のようです。

そして、私も見切り発車で野菜の苗をあれこれ植えてしまいました。

野菜の苗たち

写真は植える前。買ってきた苗です。パプリカ、ブロッコリー、キャベツ、コールラビですね。これに加えて、サラダ系の種は直まきしました。それと、まだ屋内に置いてありますが、ニンジンとズッキーニの種を植えて、ちょうど芽が出てきたところです。トマトは、去年収穫したトマトから勝手に芽が出てきたのをいくつか植えてある程度の大きさになっていたので、これまたもう植えてしまいました。このトマトの苗は結実するかちょっと怪しいので、もう少ししたら市販の苗を2つほど買ってこようと思っています。

5月半ばに「氷の聖人たち」と呼ばれる特異日があります。この時期には例年寒波が来るので、苗はその後に植え付けた方がいいという人もいるんですけれど。でもねぇ。それをやっていると短いスイスの夏はすぐに終わってしまうんですよ。まあ、さすがにもう氷点下10℃というような寒波は来ないでしょうから、ちょっと博打ですけれども、もう植え付けて野菜がたくさん収穫できるように育てたいんですよね。

さてさて、どうなることやら。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(1)署名 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第1回後編をお届けします。前作の主人公であるフルーヴルーウー辺境伯夫妻が夏の間、領地に戻ってしまうということを知った国王レオポルド。

どうやら自分も行きたいと思ったようです。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(1)署名 -2-


 首尾よくレオポルドの署名を手にすると、ラウラは長居をせずに意氣揚々と引き上げていった。

 国王はそのすぐ後に、フリッツ・ヘルマン大尉の居る詰所にズカズカと入っていった。平日ではあるが、2週ほど激務が続いたので、本日は全ての予定をとりやめて休むと言われていたので、護衛の部隊も2人の衛兵を除いて休日の代わりに詰所でワインを飲んでリラックスしていた。ところが、娼婦たちと遊んでいるはずの国王が突然やってきたので、皆はあわてて立ち上がった。

 レオポルドは片手で座っていいと示すと、ヘルマン大尉に言った。
「余はフルーヴルーウー金山の視察に行くぞ。適当に小規模の護衛兵を編成しろ」

 グランドロン王国の最南端に位置するフルーヴルーウー辺境伯領に囲まれるようにして金山がある。もともとは辺境伯領に属していた地域だが、金が発見されてから王国の直轄領となった。実質的には、長らくフルーヴルーウー辺境伯が金山の管理も代行していたが、辺境伯が不在となりその代官であるジロラモ・ゴーシュが権勢を誇りはじめたころから、先代伯爵夫人であったマリー=ルイーゼ王妹殿下の進言により再び完全な直轄管理に戻っている。

 しかし、もちろん国王その人がわざわざ視察に行くことはめったにない。

 ヘルマン大尉は、この手の国王の氣まぐれに慣れていたので、平然と言った。
「こちらはなんとでもなりますが、陛下ご自身は予定がいっぱいですので、しばらく王都ヴェルドンを離れるのは無理かと存じます」

「そこをなんとかするようにジジイたちに根回しをして来い」
ジジイたちというのは大臣や諮問機関である元老院のメンバーのことだ。親政を行っているとはいえ、亡き先王の時代から政治に関わってきた貴族たちをないがしろにすることはできない。

「無理です。私はただの護衛の責任者ですよ」
「そう言うな。マレーシャルやルーヴランに行く時には、なんとかしてくれただろう」 

「あれは、ご結婚が絡んでいたからですよ。大臣の皆様や元老院は『お世継ぎのため』『王太后さまからのたってのお願いで』と言えば大抵の予定をずらしてくださいますから。金山の視察のことならご自分で皆さまと交渉してください」

 レオポルドは、当年30歳になるがいまだに独身である。本来ならば10年以上前に結婚していなくてはならないのだが、あれやこれやがあり、いまだに王妃が決まっていない。「あれ」とは王太子時代の国王夫妻の意見不一致であり、「これ」とは即位後のレオポルド自身の多忙や王妃選定に対するこだわりであった。

 半年ほど前には、西の大国であるルーヴラン王国の世襲王女との婚姻が決まりかけたが、よりにもよってルーヴランとセンヴリ王国の奸計であることがわかり、あわや戦争になるところであった。

 そういった事情もあるので、国王が元老院や大臣たちに政治を任せきりにできずあらゆる政情を自分で判断したがることや、たんに家柄が釣り合うだけの王妃選定に慎重になっていることは理解されている。とはいえ、何もかもが思い通りになるわけではない。特に問題があるわけでもない金山視察を理由にフルーヴルーウー辺境伯爵領に遊びに行くなど言語道断だと却下されるに決まっている。

「ふむ、用事が嫁取りならいいのか。じゃあ、具体的な話を作れ」
「つ、作れって、どういうことですか!」
「あの辺りにも誰か居ただろう。そうだ、センヴリのトリネア候女はどうだ?」

 ヘルマン大尉は上目遣いでレオポルドを睨みつけた。
「4年前にトリネアのキアーラ会修道院長経由でお話がきた時に、小侯国の小娘に興味はないと、即座に却下なさったではないですか」

 それだけではない。国王レオポルドは「母上の縁者には近寄りたくない」と言い放ったのだ。だが、その件を口にするほどヘルマン大尉も迂闊ではない。

「そうだったか? だが、昨年、状況が変わったのはお前も知っているだろう。もう、あれもただの小娘ではなくて、トリネア候国の継承者になったんだからな。余も、トリネア港には興味がないわけではないぞ」

「フルーヴルーウー辺境伯領に近いからって、口からでまかせをおっしゃっていませんか」
「失礼な事を言うな。とにかく夏の避暑も兼ねて、近日中に出発できるように計らえ」
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

春が来た

ハッピーイースター! 1年ぶりの4連休。復活祭の時期です。

梨の花

今年は、3月に暖かい日があったものの、4月になってから冬に逆戻りしたので、このまま寒いイースターになるのかなと思っていたら、急に暖かくなりました。

イースターの時期には、お店にはたくさんのお花が並ぶんですけれど、それに負けないくらいに地植えの草や木が1度に花開きました。スイセン、タンポポ、レンギョウ、梨、アーモンド、木蓮、桜、そして、ついにはリラの花まで開きだしましたよ。

この金曜日に、私はけっこうな庭仕事をしました。

これまではトマトぐらいしか家庭菜園はしていなかったのですが、今年はもっとたくさんの野菜を植えることにしました。といっても大きめのプランター2つなので、庭を持っている人ほどではないですけれど。

金曜日に何をしたかというと、そのプランターの土を掘り起こして、根っこを取り除き、黒いビニール袋に入れて消毒を始めました。これを数日日光に当てて、それから去年トマトを作った土は、もう1つのプランターに戻して連作を避けるのです。そこにはキャベツやニンジン、玉ねぎなどを植える予定です。

そして、もう1つの土でトマトとコンパニオンプランツを育てる予定です。うまくいくかわかりませんが、最終的には夫婦で食べるくらいの野菜は自分で作れる方向に持って行きたいです。
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Posted by 八少女 夕

【小説】バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン

scriviamo!


今日の小説は「scriviamo! 2022」の第9弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマ「真シリーズ」の第一世代と第二世代が交錯する作品で参加してくださいました。ありがとうございます!

 大海彩洋さんの書いてくださった『あなたの止まり木に 』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一の凱旋コンサートにお出かけの方たちのお話を、当ブログの『バッカスからの招待状』の田中も行きつけているらしい喫茶店を舞台に語ってくださいました。

お返しどうしようか悩んだのですけれど、茜音は、『Bacchus』の常連になってくださっているということなので、素直にご来店お願いしました。たぶん、設定は壊していないはず。お酒、強いと踏んで書いちゃいました。まさか夏木たち下戸チームじゃないですよね? もしそうなら該当部分は書き直します……。(あ、『ゴッドファーザー』とかそれっぽい話が違う文脈だけれど入っているのはわざとです。私の好きな茜音の実のお父さんへのオマージュ)

そして、メインの話をどうしようか悩んだのですけれど、彩洋さんの今回のお話の大事なモチーフになっている「雨」と「借りた傘」をこちらでも使うことにしました。


「scriviamo! 2022」について
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「scriviamo! 2015」の作品を全部読む
「scriviamo! 2014」の作品を全部読む
「scriviamo! 2013」の作品を全部読む

【参考】
「バッカスからの招待状」をはじめから読む「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む




バッカスからの招待状 -16- エイプリル・レイン
——Special thanks to Oomi Sayo-san


「高階さん、いらっしゃいませ」
田中は、意外に思いながら、心を込めて挨拶した。20時を回っていた。いつも彼女が好んで座る入り口近くのカウンター席はすでに塞がっていた。

 そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。

 店主でありバーテンダーでもある田中は、奥のカウンター席に1人で座っている女性客に顔を向けた。
「井出さん、お隣、よろしいですか?」

「ええ。もちろん」
その快活な女性は、すでに彼女の鞄を隣の椅子から除いて自ら座る椅子の後ろにかけ直していた。

 高階槇子は、会釈して空けてもらった席に向かった。

「この時間にお見えになるのは珍しいですね」
田中はおしぼりを渡し、それから、メニューを手に取って槇子の反応を待った。今日は、いつもとは違う注文をするかもしれないと考えたからだ。

 槇子は、いつも開店直後にやって来て、1杯だけ『ゴッドマザー』を飲むとすぐに帰るのが常だった。よく来る客というわけでもない。年に4回も来れば多い方だ。だが、それが10年にも及んでいる。
「今日は、いかがなさいますか」

 槇子は、メニューを持つ田中に手を伸ばした。
「そうね。今日は、メニューを見せていただこうかしら。急ぐ必要もないから、おつまみも……」

 槇子の視線は、井出さんと呼ばれた若い女性の前にある生ハムとトマトの1皿に注がれた。

「あ。これ、美味しいですよ。このバルサミコ酢と絶妙にマッチして。私は次、桃モツァレラにしようかなあ」
井出茜音は、ウィンクした。

 会計を済ませて出ていったばかりの客が戻ってきた。
「悪い、もう少しいさせてもらっていいかな」

 その客のトレンチコートに雨の染みがいくつもついているのを見て、田中は訊いた。
「降ってきましたか?」
「ああ。今日降るって、予報だったっけ? まあ、でも、この調子だと、すぐに止むと思うんだ」

 茜音は、鞄の中を確認してから安心したように言った。
「今日は、ちゃんと折りたたみ傘、持ってきたのよね」

「よかったですね」
槇子が答えると、茜音は少し明るく笑った。

 ちょうど田中と目が合ったので、茜音はおどけるような口調を使った。
「たとえ持っていなくても、田中さんに置き傘を借りるのは? ほら、このあいだ会った、喫茶店でそんな話をしていたでしょう? 置き傘を貸すと、返すついでにまた来てくれるお客さんがいるって話」

 田中はわずかに微笑むような表情を見せた。
「もちろんお貸ししますけれど、そうでなくても井出さんはこうしてお越しくださっていますよね」

 向こうのカウンターで「あれぇ。よそで井出さんと会っているのかぁ?」などという茶化した声が上がるのを、田中は軽く流している。カウンターの常連たちが笑う声にはかまわずに、槇子が囁くように言った。

「傘は安易に借りない方がいいかもしれませんよ」

 その声は、茜音にしか聞こえなかった。田中と他の常連たちが他愛のない会話を繰り広げている中、茜音は、槇子の翳った表情を見てやはり囁くように訊き返した。
「どうしてですか?」
「それだけじゃ済まなくなるかもしれないから」
「え?」

 槇子は、にっこりと微笑んでから、田中に言った。
「私、この『エイプリル・レイン』をいただくわ。ちょうど今日にぴったりだもの。それから、まず、この方と同じトマトと生ハムをお願い」

 田中は「かしこまりました」と答えた。『エイプリル・レイン』もまた『ゴッドマザー』と同じくウォッカベースのカクテルだ。

「娘がね。下宿生活を始めたので、急いで帰らなくてもよくなったの」
「ああ。大学は遠方でいらっしゃるんですね。お寂しくなったでしょう」
「そうね。12年前と同じ、1人暮らしに戻っただけなんだけれど、変な感じだわ。私、前はほんとうに1人暮らしをしていたのかしらって」

 田中と話す槇子の会話をぼんやりと聞きながら、茜音は妙な顔をした。横目でそれを感じたのか、槇子は笑って話しかけた。
「勘定が合わない、でしょう?」

 茜音は、無理には訊かないという意味の微笑を浮かべていた。槇子は続けた。
「言ったでしょう? 安易に傘を借りたりするものじゃないって。代わりに女の子を育てることになってしまったの」

 茜音はますます、これ以上の事情を深く訊いていいのか戸惑った。彼女は職業上相手の話を引き出すことには長けているが、その卓越した能力をプライヴェートで使うことには慎重だ。

「あら。この曲……」
槇子は、そんな茜音をよそに店内でかかったボサノバ調の曲に耳を傾けた。

「ご存じの曲ですか?」
「ええ。アストラッド・ジルベルトの『The Gentle Rain』……。昔よく聴いたのよね。まるで、私と娘のことを歌っているようだったから」

私たちは2人ともこの世に迷い独りぼっち
優しい雨の中、一緒に歩きましょう
怖がらないで
あなたと手と手を取り合い
しばらくの間、あなたの愛する者になるから

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



「傘を貸してくれた人の娘だったの。返しに行った時に出会ったの。突然、親を失って、途方に暮れて泣いていたの。行政に連絡して、そのまま忘れることもできたんだけれど、そのバタバタの時にもたまたまこの曲を聴いてしまって……」

「それで、引き取って育てたってことですか?」
目を丸くする茜音に、槇子は頷いた。

「成り行きでいきなりシングルマザーになってしまったの。でも、我が子を産んだり、イヤイヤ期を体験したりって経験をもつ友人たちに比べたら、ずいぶん楽な子育てだったのよ」

 槇子は、『エイプリル・レイン』を置いた田中にも微笑みかけた。

「いつも『ゴッドマザー』をご注文なさっていたのは、それでだったのですか?」
「そうなの。初めてここのメニューであのカクテルを知って、私のためにあるような名前だなって、氣に入ってしまったの。もちろん美味しかったからだけれど」

「『ゴッドマザー』って、どんなカクテル?」
茜音が訊く。

「ウォツカとアマレットでつくります。スコッチウイスキーとアマレットで作る『ゴッドファーザー』のバリエーションの1つなんですが、ウォツカを使うことでアマレットの優しい甘みが生きるようになります」

「甘いの?」
「いいえ。甘めの薫りはしますが、味としてはすっきりとした味わいで、甘いお酒が苦手の方もよくお飲みになります」

「ちょっとアルコールが強いので、むしろ女性で手を出す人は少ないかもしれないわね」
槇子が言うと、田中も頷いた。
「井出さんなら問題はないかと思いますが」

 茜音は、槇子の前の『エイプリル・レイン』にも興味を示した。
「それも強いんですか?」
「ええ。でも、ライムジュースも入っているから、『ゴッドマザー』ほどじゃないかもね。とても爽やかでいいわね、これ」

 槇子が氣に入ったようなので、田中は微笑んだ。
「恐れ入ります」

 茜音は、頷いた。
「じゃあ、私も次はそれをお願いします。新しい味を開拓したいし、今日にぴったりだもの」
「かしこまりました」

 槇子は微笑んで、グラスを傾けた。新しい生活リズム、新しい味、新しい知りあい、そんな風に途切れずに続いていく生活。今までと違い、仕事帰りに好きなときにこの店を訪れることもできるのだという実感が押し寄せてくる。

 12年前に突然生活が180度変わってしまったあの日から、無我夢中で走ってきた。見知らぬ少女を引き取り、シングルマザーとしての自覚や自信を見つけたり失ったりしながら、お互いになんとか心から家族と思える関係を築いてきた。

 おかげで、色恋沙汰とは無縁な人生になってしまったが、その直前にあったことで若干懲りていたので、それも悪くなかったと思う。これで人生終わったわけでもないし、自分の時間を楽しむうちに何かがあればいいし、なくてもそれはそれで構わないと達観できるようになった。

 12年前、槇子は仕事の帰りにたまたま近くを通ったので、連絡をせずに恋人のアパートを訪れた。連絡をせずに立ち寄ることをひどく嫌うことはわかっていたが、彼が傘を何本も持っていないことを知っていたので、借りた傘を早く返したかったのだ。いなければ、アパートのドアにかけておけばいいと思った。

 でも、着いたらたくさんのパトカーがいて、彼の部屋に警察官が出入りしている。慌てて事情を訊きにいったら、部屋の中から子供の泣き声がするというので大家が通報したらしかった。

 昨夜、繁華街で車に乗った男女が事故を起こし、2人とも死亡していた。運転していたのは子供の母親で、後に槇子の恋人の別居中の妻だったとわかった。助手席に乗っていたのが子供の父親である槇子の恋人だった。

 子供をアパートに置いて、2人がどういう事情で事故を起こしたのか、明らかにはなっていない。2人が口論をしていたという目撃もあるが、意図的な無理心中なのか、単なる事故なのかも不明のままだ。

 警察に何度も事情を訊かれ、ようやくわかったことに、槇子はどうやら恋人に欺されていたらしい。すくなくとも独身と嘘をつかれていた。

 ショックや悔しさに泣いた。でも、怒りをぶつける相手がもうこの世にいない。それどころか、彼の娘のことを聞いたら、そちらの方がそれどころでは無い状態だった。引き取れる身寄りが無く、独りで生きられる年齢でもない。悲しみも不安も槇子どころではないだろう。

 彼女の心配をしてやる義理も義務もないのだと言ってくるお節介もたくさんいた。それまた真実だった。でも、槇子が愛した男と時間を過ごしたあのアパートで、泣いていた少女のことが頭から離れなかった。

あなたの涙が私の頬に落ちる
まるで優しい雨のように温かい
おいで小さな子
あなたには私がいる
愛はとても甘くて悲しい
まるで優しい雨のよう

Astrud Gilberto: Gentle Rain より
Written by: LUIZ BONFA, MATT DUBEY
意訳:八少女 夕



 彼の面影ではなく、愛娘として愛するようになるまで、思ったほどはかからなかった。むしろ、大人として巣立っていくのがこれほど寂しくなるとは、全く想像もしていなかった。

 4月の雨は、優しくて悲しい。きっとそうなのだろう。槇子は微笑みながらグラスを傾けた。


エイプリル・レイン(April Rain)
標準的なレシピ

ウォッカ - 60ml
ドライベルモット - 15ml
フレッシュ・ライムジュース - 15ml
ライムの皮 (飾り用)

作り方
氷を入れたカクテルシェーカーに、ドライベルモット、ウォッカ、ライムジュースを入れる。
勢いよくシェイクする。
冷やしたカクテルグラスに氷を半分ほど入れ、濾す。
ライムの皮を飾りとして添える。



(初出:2022年4月 書き下ろし)

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Astrud Gilberto: The Gentle Rain
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Posted by 八少女 夕

ルバーブクーヘン食べた

先日、カフェで食べたルバーブクーヘンについての話題です。

ルバーブクーヘン

これ、便宜上ルバーブクーヘンと書きましたが、本来はRhababerkuchen、ラバーバークーヘンに近い発音です。メイン食材が日本ではルバーブと発音するので、日本語では慣例上そうやって記載している方が多いのです。私も、それに倣いました。なら「ルバーブケーキと書けよ」といわれそうですが、それだとちょっと意味として引っかかるので、「クーヘン」はそのままです。

つまりですね。日本では全て「ケーキ」としてくくられているお菓子、ドイツ語圏では「クーヘン」と「トルテ」に分かれています。日本のショートケーキや、フランスで修行したパティシェが作り出す宝石みたいなクリームやら生のフルーツやらで飾られているのはトルテです。そして、パウンドケーキや、日本でいうタルトのようなタイプがクーヘンです。今は世界各国のいろいろなスイーツが出回っているので、「クーヘン」と「トルテ」の境界線には若干グレーゾーンもあるみたいですけれど、少なくとも昔ながらのお母さんが作るタイプに限っていえば「クーヘン」と「トルテ」ははっきりと分かれているみたいです。

閑話休題。で、ルバーブクーヘンは、クーヘンです。面白いのは、他のドイツ語圏の国や地域は知りませんが、少なくとも私の住むスイスグラウビュンデン州では、甘いクーヘンも主食にしちゃうんですよ。つまり、お昼かと思って出かけていったら突然おやつみたいなケーキが出てくることもありってことなんです。そういう場合に出てくるクーヘンは、アパレイユが甘いカスタード系だとしても、メインのフルーツに酸味のあることが多いです。たとえばプラムのクーヘンもそうですけれど、このルバーブもとても酸っぱい食材です。

ルバーブは、今では日本でも出回っているとのことですが、見た目は赤っぽいセロリのような植物で、その茎を食べます。今ぐらいから初夏までの季節限定で、見た目は完璧に野菜なんですけれど、作る食品の系統は基本的にお菓子という変わった食材です。

Rheum rhabarbarum leaves and shafts
Rheum rhabarbarum leaves and shafts by Dieter Weber (Wikimedia Commons)

スイスに暮らして20年が経っていますが、実は私の作る料理やお菓子のほとんどは日本語によるレシピを元にしたものです。で、そこにはルバーブクーヘンはありませんので、私はまだルバーブを買ったことがありません。まあ、1度作ったらそんなに敷居の高いものじゃないんでしょうけれど。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(1)署名 -1-

さて、本日から新連載です。『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』の第1回をお届けします。今作では、前作のサブキャラであったグランドロン国王レオポルド中心の話となりますが、前作の主人公たち(何もしないコンビ)も、あいかわらずメインとして登場します。中世ヨーロッパをモデルとした架空世界の設定は、全て前作のままです。

前作をご存じない方のためのネタバレ防止策などは一切していませんので、ご了承くださいませ。

トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(1)署名 -1-


 扉の向こうの嬌声を聞いて、彼女はノックをする手を止めた。ただの笑い声であれば、今さら躊躇などしなかったが、2人は居るらしい女たちの声は、ラウラが顔を赤らめるほど艶かしいものだった。

 下で「今はおやめになられた方が」と召使いが戸惑いながら進言した理由はよくわかった。時を改めた方がいいだろうか。だが、彼女は手元の羊皮紙を見て、首を振ると無粋を承知で大きくノックをした。先触れすらを断ったのは、またしても煙に巻かれぬためなのだから。

「何の用だ。邪魔をするなと言っただろう」
彼の声が聞こえた。まあ、不機嫌そうだこと、でも今は政務時間のはずでしょう。彼女は多少ムッとしながら、それが表れないように静かに言った。
「申しわけございません、陛下。フルーヴルーウー伯爵夫人でございます」

 途端にガタンという音がした。誰かが家具か何かを倒したようだ。
「きゃ~! 陛下!」
女たちの驚きの声が聞こえる。人払いのために戸口の側に立たされていた衛兵2人がぎょっとして、顔を見合わせた後「失礼!」と叫んでドアを開けた。それでラウラには図らずも中の様子が見えてしまった。

 レオポルドは床に足を投げ出していて、半身を起こしていた。そこに上半身裸の2人の女がかがみ込んでいた。レオポルドの後ろには倒れた椅子がある。どうやらバランスを崩して椅子が倒れたらしい。

「ご無事であられますか!」
衛兵が駆け寄ったが、レオポルドは彼らの助けを片手で断り言った。
「なんでもない。騒ぐな」

 それから戸口に立っているラウラの方を見てばつが悪そうな顔をし、何か弁解をしようとしたが、ラウラの若干冷たい視線に何を言っても無駄と悟ったのか、娼婦たちに言った。
「悪いが、今日は帰ってくれ」

「ええっ。こんなに早く帰ったら、陛下のご機嫌を損ねたのかとマダムに叱られますぅ」
「私も、もう少し陛下と遊びたいのにぃ」

 衛兵たちはことさら無表情を装い、ラウラは礼儀正しく立っていた。国王はため息をついた。
「ヴェロニカには余から言っておくから……とにかく服を着てだな……」

 ラウラは上目遣いで自分を見ているレオポルドに、無理矢理微笑みながら言った。
「陛下、お楽しみのところ申しわけございません。私は長くはお邪魔いたしません。お2人にはここにいらしていただいたままでも……」

 レオポルドは立ち上がると、精一杯の虚勢を張りながら娼婦たちにきつい口調で言った。
「とにかく、今すぐ服を着て退出してくれ。お前たちもだ。外に出ていろ」
と、衛兵たちに、ひらひらと手を振ってみせた。

 女たちは上着を着ると、ラウラの方を恨みがましく見ながら、衛兵たちに引っ立てられるようにして出て行った。彼らが再び扉を閉めたので、王の居室には、彼とラウラだけが残った。

「ラウラ、ゆっくりしてくれ、今、上着を着るので……」
女たちと違って、レオポルドは白いシュミーズと絹の下履きや長靴下は身に着けていたので、ラウラは目のやり場に困るというほどではなかった。

「陛下、上着をお召しになっていようが、いまいが、私にはどちらでも構わないのです。私としては、上着よりも羽ペンの方を手にしていただきたいのですが」
「あー、何の件だったか……」

 ラウラは再び無理矢理微笑んで、声に怒りが現れないように慎重に言った。
「ペレイラ嬢が、今週この書類を持って8回も陛下の署名をお願いしたことは、憶えていらっしゃいますでしょうか」
「あー、どの書類だったかな……後宮の広間の改修の件だったか……」

「洗濯場の、改修です」
ラウラの声のトーンが一段と低くなったので、レオポルドは慌てて椅子を立ててから、ラウラに薦め、彼女の差し出している羊皮紙を手にとった。

「それで、ハイデルベル夫人がそなたを送り込んだというわけか」
それから小さな声で「まったく余計な事を」と付け加えた。ラウラは奨められた椅子に座りながら答えた。
「ハイデルベル夫人ではありません。この件は、私の担当なのです。陛下の署名を本日いただけないと、洗濯担当の者たちは夏の間中、別棟の方の洗濯場を借りて恐縮しながら仕事をする事になってしまうのです」

「なぜ今日なのだ。明日でもいいではないか。書類は今日中に読んでおくから、明日とりにくるとよい。それよりも、久しぶりだから少しここで話そうではないか。宮廷奥取締の仕事には慣れたか、外国人ゆえ苦労も多いのではないか、氣になっていたのだ」
赤い部屋着と麻のブレー履を身につけて、ようやくひと心地ついたレオポルドは、今さらながら威厳のある態度を示しながら、ラウラの前に座った。

 ラウラは再び機械的な微笑みを追加した。
「おかげさまで、みなさまに大変よくしていただき、仕事にやり甲斐を感じております。お取り立てくださいました陛下のお顔に泥を塗らないように日々努力させていただいております。ところで、お忘れのようですが、私は明日は登城いたしません。明後日も、明々後日もです」

 レオポルドは驚いて身を乗り出した。
「なぜだ」

「主人が明日から伯爵領に参ると申し上げたはずですが」
「なんと! マックスだけでなく、そなたも行くのか? いつ戻る、来週か?」

 ラウラはこほんと咳をしてから答えた。
「収穫祭の前には」
「収穫祭? 3ヶ月も?」
「ですから、何が何でも、本日署名をお願いいたします」
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Posted by 八少女 夕

誤食に注意!

今日の話題は、田舎暮らしに潜むちょっぴり危険な話です。

猫と猫草

この写真は、安全とわかっていて植えている植物(手前は私の栽培した猫草で、後ろは西洋ヨモギ)ですけれども、そこら辺に生えている草の全てが安全というわけではありません。猫のゴーニィは私と違って野生の勘が発達しているのか、むやみにそこら辺の草を食べているようで危険な草には手も出しません。

心配なのは、むしろ私です。なんせ東京育ち、無知の塊です。東京にいたときも、オオバコ、ブタクサなどは見分けがつきましたが、基本的に野の草の名前には疎かった方です。

こちらに来て、まず物理的に危険な草はすぐに覚えました。たとえばイラクサ(Brennessel)です。ぱっと見は紫蘇のような葉っぱなのですけれど、とにかく痛い。茎や葉に小さな棘があって、触れるとそこから毒が入ってくるという仕組みです。「痛っ!」とすぐに手を離してもそこが被れてしばらくヒリヒリします。なのに、このイラクサときたら本当にどこにでもある雑草なのです。

じつは、このイラクサ、それなのに有用植物としての側面もあり、駆除されることはあまりありません。生では(痛くて)食べられませんが、血行促進や関節炎の改善にいいので乾燥させてハーブティーにしたり、栄養素としてはほぼ満点らしくほうれん草のように野菜として食べることこもあるそうです。私も、ときどき自作します。

一方で、氣をつけた方がいい危険な草もあちこちに自生しています。知っているので全く触らなかったものとしては、イヌサフラン(Herbstzeitlose)がありますけれど、実は最近、ちょっと危険なものに触ってしまったようです。

クサノオウ?

一見どこにでもある普通の草みたいなんですけれど、念のため調べてみたら、これ、クサノオウ(Schöllkraut)らしいのです。私は、iPhoneに植物の名前を調べるアプリを入れていまして、写真を撮って同定するんですね。そしたら「Chelidonium majus」だってでたのですよ。ウィキペディアによると「全草に約21種のアルカロイド成分を含み、その多くが人にとって有毒である」だそうです。えー、ちょっとかじってしまった! めっちゃ苦かった以外は別状ありませんでしたが、危なかった……。

野草もそんな感じですけれど、スイスの家庭が植えている庭の植物は毒草がいっぱいです。キョウチクトウ、スズラン、スイセン、チョウセンアサガオ、ジギタリス、トリカブト。そんな自慢の庭で、子供たちも普通に遊んでいますし、とくに見張っている様子もありません。事故が起きたという話もまず聞きませんし、まあ、そういうものなのかなと思います。むしろ実物を見せて、「これは危険なんだ」と教える方がいいのかもしれませんね。私には子供がいないので、本当のところはわかりませんけれど。少なくとも猫は、自分で判断しているようです。

むしろ危険なのは、子供じゃなくて私ですよ。本当に今後は氣をつけなくては。
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Posted by 八少女 夕

ブログが生まれ変わります

この記事は2022年のエイプリルフール記事です。

当ブログ、10周年記念企画「scriviamo!」も一応ひと息つくことができましたので、ここで大きな発表をしたいと思います。

イラスト by ムトウデザインさん

10年間、小説ブログを運営してきて、いろいろと思うことがありました。その1つが、辺境ブログとして、なかなか皆さんに読んでいただけないという悩みです。読者を呼び込む努力や、ブログの外見の問題などもありますが、おそらく一番の原因は、小説のジャンルが時代のニーズに合っていないということに尽きると思うんですよね。

というわけで、明日から、このブログは生まれ変わります。
……今をときめく「ライトノベル」ブログとして。

まずは明日から以下の看板小説群を順次ラノベ化していきます。もちろんタイトルも相応しいものに変更します。

第1弾は『大道芸人たち Artistas callejeros』改め……
『スネに傷を持つ4人組が集まったので、ヨーロッパで大道芸の旅に出てみました』
ラノベ風AC


第2弾は『Infante 323 黄金の枷 』改め……
『初恋のカレのいる謎のお屋敷で、あたし、今日からメイドになります』
ラノベ風I323


第3弾は『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』改め……
『魔法も使えないし決め技もないボクは、傍観者として森をさまよい歩くつもりです』
ラノベ風CS



第4弾は『樋水龍神縁起』改め……
『無敵の巫女だったワタシが現代に転生、ヤバいことに巻き込まれて焦るんですけど』
ラノベ風樋水


というわけで、現在はラノベっぽい文体にして、さらに1作品あたりの文字数を7000字ほどに削るべく、鋭意改稿中です。

そしてブログ名も現在の『scribo ergo sum』から

『ヤオトメ・ユウのラノベ♡ワールド!』

に変わる予定です。

今後ともどうぞよろしくお願いします。

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

read more


えーと。4月1日なので、ふざけただけです。

どう考えても無理ですね。ブログ名も、小説も全く変わりません。辺境ブログのまま続けるつもりですので、どうぞ今後ともご愛顧のほど、よろしくお願いします。

(ラノベっぽいイラストならびに背景は、こちらこちらからお借りしました)


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