【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(8)金山 -2-
王国直轄である金山の視察にきたレオポルドと、お付きでついてきたマックスら一行。視察用に万端に準備された鉱内や精錬所だけでなく、周辺の村落などを抜き打ちで見るようです。ここで、後々に絡んでくる新メンバーたちが登場します。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(8)金山 -2-
「私の方は、特に多くの変更をしたわけじゃありませんよ。3人1組の決まりを導入したぐらいですし」
マックスは肩をすくめた。
以前は、坑夫たちは2人ずつ組んで作業することになっていたが、鉱山内部で不慮の事態や傷病が起こった場合に、対応が遅れることがあった。マックスは、安全確保のために3人1組の方式に変更した。
実のところ、領主としては別の利点も見逃せなかった。鉱産物の隠匿に対する告発や坑夫同士の争いがあった場合、ほかに証言する者のいない2人の食い違った申し立てを裁くのは困難だった。3人1組にした方が不正は抑制され、騒乱件数の減少も見込めるのだ。
「そのお話は、トリネアにも伝わっていたようですよ」
話がそれに及ぶと、馬を引いていたマウロが言った。
「トリネア? ああ、君は聖キアーラ修道院長の推薦でここに勤めることになったのだったね」
マックスの言葉に、マウロは頷いた。
「はい。伯爵様が、岩塩坑で働く者の安全のために決まりを新たに作られたって、マーテルがおっしゃっていました。神の意にかなうお心を持ったお方に違いないと……」
「なんだ。そなたはトリネアにもいたのか」
レオポルドは興味を示した。
「はい。マツァリーノ枢機卿さまに名馬ニクサルバを贈呈するときに、お供を申しつかりました」
「そこで、僕たちの件について口封じされそうになり修道院長に逃がしていただいたんだよな」
マックスが補足し、マウロは頷いた。
「なんと。兄妹揃って受難だったな」
レオポルドはねぎらった。マウロがルーヴ王城で危難に遭ったマックスを救ったことや、ラウラの侍女アニーの兄であることは知っていたが、その件で命を狙われていたことは初耳だった。
「ところで、マーテル・アニェーゼというのはどんな尼僧だ? 以前に候女との縁談を持ち込んだのはその女なんだが、枢機卿や侯爵家とも深い繋がりがありそうか?」
レオポルドが訊く。
マウロは言葉を選びつつ答えた。
「個人的な恩があるから申し上げるわけじゃありませんが、立派なお心をお持ちの方のようにお見受けしました。修道院長としてはお若い方ですが、堂々としているし、薬草の造詣も深くて、その知識を民衆のためにもお使いのようです。それはそうと、候女様とは個人的にお親しいご様子でした」
「なんと。そうか」
レオポルドは、何かを考えているようだった。
マウロは、噂の候女にあったことがあるのだが、それを言うべきかどうか迷っていた。レオポルドにさらに訊かれたらいおうと思っていたところ、一行は周囲の異変に氣がついて騒然となった。
木が乱伐されていた。それまでは、日中でも暗くなるほど針葉樹が茂っていたのだが、その辺りには、切り株が乱立し、陽が射して明るくなっている。切り倒された木々のうち、そのまま放置された幹も多い。混沌とした光景に一同は眉をひそめた。
「なんだここは。森林管理官と樵職による伐採とは違うようだが」
レオポルドが言うと、マックスも「そうですね」と同意する。
「ああ、ここについてはモラ様がお話になっていたことがあります」
マウロは小さな声でマックスに言った。
野鳥と野ウサギ捕獲の自由が認められてから、次第に無許可の乱伐が始まり、いつのまにかこのような穴あき空間ができるようになったという。無計画な乱伐のため、数か月前には地滑りが起こった。
案内をしている管理人ゴムザーは、その辺りを報告していなかったので口ごもり汗を吹いている。
そこに、目に入ってきたのは野営をして焚き火を起こしている一団だ。武装をしているので坑夫ではないようだ。
一行が近づくと、その一団はこちらをチラリと見た。何人かの女たちがいて、煮炊きをしたり、洗濯物を干したりしている。武具の手入れをしている者もいる。焚き火にはスープの入った鍋と、何匹かのウサギの丸焼きが見える。どうやらまとめて一緒に食事を作っているらしい。
ゴムザーが文句を言う。
「おい。お前らはここで何をしているんだ」
「何って、仕事の合間に飯を食うんだよ」
「だが、こんなところで狩りをしたり、煮炊きをしてもいいという許可は出していないぞ」
「野鳥と野ウサギ捕獲の自由があるじゃないか」
「そもそもお前たちは、坑夫じゃないじゃないか。あの許可は坑夫に向けてだ」
「でも、こっちだって精錬所と坑夫たちの安全のためにここにいるんだ。あんたが俺たちを用心棒に雇ったんだろう? 飯を食わずに仕事をしろって言うのか」
「飢えろと言っているわけじゃない。持参するか、もしくは精錬所で購入して食べろといっただろう」
「あんな高いもの、腹一杯になるまで食ったら、稼いだ金がすべて飛んじまう」
一行は、傭兵団とゴムザーの言い争いを見ていたが、マウロが傭兵団の中にいる女兵士に氣づいて「あ」と声を上げた。女も、マウロに氣がついて「やあ」と手を挙げた。
「なんだ、知りあいか?」
レオポルドがマウロに訊いた。
「はい。素性を知っていたわけではありませんが、お城の側で、親切を受けたことがあります」
「ふむ。そうか」
レオポルドは、ゴムザーに声をかけ、これまで明確なルールがなかったのだから現在の野営については不問に処し、後でルールの設置するように告げた。また、傭兵団にこう告げた。
「不問に処す代わりに、この一帯を少しきれいに整頓するように」
傭兵団も、ゴムザーも、それぞれの面子を保ち、この話は一度おさまることになった。
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休暇でした

あまり意識していなかったのですが、今の会社では、6週間の休暇があります。正確には5週間の休暇と1週間の年末休業(残業時間消化)です。
で、8月後半に2週間の休暇を取り、3月、6月、10月に1週間、そしてクリスマスから年末までも休みます。3月と6月の休暇の間だけが少し空くのですが、イースターやキリスト昇天の祝日などで4連休や3連休が続く時期なのです。
というわけで、日本に比べると祝日は少ないのですけれど、それでもだいたい2か月に1度は休暇か、ちょっと長いお休みがあることになります。そのくらいのペースで働けるのはとてもありがたい。もちろん子供たちのように長期休暇があればもっといいけれど、まあ、無い物ねだりはやめましょう。
以前は、年に1度は海外旅行をしていましたが、コロナ禍以降、まだ泊まりの旅行には行っていません。もちろん「感染を怖れての自粛」じゃありませんよ。去年は、あちこちで面倒な制限があったので出かけにくかったのですが、この夏のヨーロッパにはその手の制限は何もないですし、COVID-19を怖れている人はもうまったくみかけません。
泊まりがけで出かけるとなると、猫の世話を誰かに頼まなくてはならないのですけれど、我が家の猫は放置に慣れていないのです。というわけで今回の休暇も泊まりには行きませんでした。
でも、けっこうドライブには行ったのですよ。
後半に天候に恵まれたので、アルプス以南に日帰りで何度も行きました。

これはメゾッコ谷の側谷であるカランカ谷に行ったときの写真です。私の住むグラウビュンデン州には150以上の谷があるといわれています。カランカ谷は、サン・ベルナルディーノからメゾッコ谷を走ると、ティツィーノ州に入る少し手前にあります。
主要道路のある本谷と違って、側谷は行き止まりであることが多いので、その谷に用事のある人しか入っていきません。そして、特に何かがあるというわけでもなく、小さな村がいくつかある素朴な山谷なのです。
暑すぎず、肌寒くもない絶好のドライブ日和、小さな滝の麓のアルベルゴ・リストランテでアイスクリームを堪能しました。
また別の日は、同じメゾッコ谷の馴染みの店でお昼ごはんを食べた後、ティツィーノ州まで行ってルクマニア峠経由ディセンティスというルートで帰ってきました。ディセンティスはビュンドナー高地にある修道院で有名な町です。いつもは通らない大回りのドライブは、嬉しかったですね。

そして、もう1日はスプリューゲン峠からイタリアに入り、イタリアでお昼ごはんを食べました。やはりスイスに比べるとレストランもリーズナブルでおいしい! スイスではなかなか食べられないビーフステーキを堪能してきました。
そして、数十分ほど走るとまたスイスです。ブレガリア谷はセガンティーニが愛したことで有名なイタリア語圏の渓谷です。プロモントーニョで一服した後、友人の家を訪ね、それから今度はエンガディンを通りアルブラ峠を越えて帰ってきました。
お泊まりは1日もしていないけれど、これだけあちこちを回ったので、かなり満足な休暇になりました。
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遊びに来たかっただけだろうと、読者の皆様からツッコミを入れられている国王レオポルド。とはいえ、いちおう表向きの理由である金山の視察は熱心にやっているようです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(8)金山 -1-
従来、鉱山採掘は有力な鉱山労働者に一任するのが一般的であった。採掘に従事する者たちは鉱産物に対する1/10税を納める以上の義務はなく、移動の自由も認められていた。すなわち、鉱山の枯渇の前兆があれば有能な坑夫たちが一斉に他の地域に移動してしまう傾向が見られる。それを食い止めるために、領主たちはかつては大きな譲歩を試みてきた。
たとえばルーヴラン王国に属するサン=モーリス銀山には放牧地や屠殺・パン焼きの機能を備え、小さい市場のようなものまで有する集落が併設している。鉱山労働者とは関係のない職業に属する者までが、こうした集落で租税を免除される特権を活用していることは、周辺の村落では不公平と不評だった。それが原因で
グランドロン王室がフルーヴルーウー金山の直轄領化をしたのは、こうした採掘者たちに金山が半私有化されるのを避けるためであり、慣例にはない管理体制を敷いていた。すなわち、精錬所や鉱山集落そのものを国有化してしまい、設備投資や鉱山の維持費を負担する代わりに、下請けや孫請けの坑夫たちを雇って中間搾取する「働かない鉱山労働者たち」を排除し、黄金や収益の流出を防ぐようにしたのである。
一方で、麓の村落と同様に、パン焼きや商業などについては支払い義務は一切免除せず、治外法権なども許可していない。このことについては、他国からやって来た坑夫たちには不評だった。
「彼らの要求に応えるために、例外的に背後の森林における野鳥と野ウサギ捕獲の自由を認めてきたのですよね」
マウロは、マックスに訊いた。
馬丁マウロは、グランドロン国王レオポルド2世の金山視察にフルーヴルーウー伯であるマックスとともに同行していた。さすがに国王に面と向かって質問する勇氣はないので、かつてルーヴで遍歴教師として親しく話したことのあるマックスにこっそりと訊いたのである。
だが、それを聞きつけたレオポルドが、直接答えた。
「その通りだ。締め付けるだけでは反発を生むからな。それに、質のいい労働者を確保するためには、若干の譲歩はやむを得ないだろう。この視察では、坑道や管理事務所などだけでなく、市場や周辺の村落も見ておきたいのだ。今後のさじ加減を知るためにな」
なるほど、それでか。マックスは心の中で頷いた。金山に到着し、予定通り精錬所や坑道の視察をした。管理人ゴムザーは、自分の落ち度を見つけられないよう、念入りに準備を重ねたらしく、どこも必要以上に整っていた。それはレオポルドも感じたのであろう、金の採掘の実際などを見た後は、あまり長居はしなかった。
ゴムザーは、ひと通りの案内が済むと精錬所の奥の応接間にレオポルドを案内しようとした。だが、国王は「飲み食いの前に、周辺の村落も見たい」と言って足を運ぼうとしなかった。
ゴムザーは、「お疲れでしょうから」とか「それはまた次の機会に」とか、明らかに狼狽えた様相を見せた。
「なにか困ることでもあるのか」
レオポルドが訊くと、彼は慌てて首を振った。
「いえ。その……子供たちが陛下を歓迎する歌を歌うために応接間に待機しておりまして……」
「なんだ。それならもうしばらくその辺で遊んでいろと、伝えればいいではないか」
そう言って、かなり強引に村落の方に足を向けたのだ。
準備の済んでいないところを視察する方が、より大きな発見がある。それはマックスも常々思っていることであった。ゴムザーの慌てぶりからすると、何か見られたくないものがあるのかもしれぬ。
マックスは、教師時代には金山の鉱山集落に足を踏み入れていなかった。直轄領ということもあり、面白そうだからといって立ち入ると、余計な詮索をされて足止めを喰らうからだ。
一方で、フルーヴルーウー辺境伯領に属する岩塩鉱山には教師時代にも立ち寄っていた。その時に見た、坑夫たちの労働環境がずっと氣になっていたので、領主となってから直に新しい決まりを導入したのだった。
「そなたはいいよなあ。前にはロクでもない代官だったから、ちょっと改善すれば喜ばれるだろう。余なんて、あちらを立てれば、こちらが反発し……」
ぼやくレオポルドに、一行は忍び笑いをした。
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夏が過ぎていく

漏れ聞く日本は相変わらずの猛暑らしいですが、こちらは申し訳ないほどの爽やかな8月です。一時期ヨーロッパが猛暑というニュースが日本にも伝わったので、多くの方に心配していただいたのですが、いかに猛暑でも日本の夏に比べたら全く大したことがありません。
小学生だった○十年前、東京も今ほどは暑くなくて家庭にエアコンがなくても普通に暮らせた時代、「朝の涼しいうちに宿題を済ませましょう」と口を揃えていわれました。そして、本当に朝はとても涼しかったのですよ。
今年の「猛暑」のスイスでは、たった1日「夜でもけっこう氣温あるかも」と思った日がありました。そして、その翌朝、窓を全開しても「あれ?そんなに涼しい風じゃない」と思ったんですが、たぶんその「暑すぎる朝」が、記憶にある小学生だった真夏の朝と同じぐらいでした。それ以外の日は、「猛暑」といっても夜に窓を開ければ快適な涼しい風を楽しめるし、36℃くらいある日中も北側の日の当たらない部屋にいれば25度くらいの快適な温度でした。もちろんエアコンなしで。
一方、水不足の夏でもあるので、あちこちで「山火事注意」の警報は出ています。上流のスイスはめったに水には困らないのですが、下流の国々では水不足が深刻になってきているようです。
去年は、COVID-19、COVID-19と大騒ぎをしていました。大きなイベントは中止になるし、海外旅行も高額な検査があったり飛行機のキャンセルが相次いだりしてバカンスにもなかなか行けない雰囲氣でした。さまざまな行動制限に加えて、心理的圧迫のせいで夏も楽しめませんでした。
今年は、その去年が嘘みたいで「コロナ禍なんかなかったことになっている」ように思います。2月に屋内での法的マスク強制が解除されてから一瞬で町ではマスクを見なくなりました。私も手作りしたたくさんの布マスクを掃除布にしておさらばしました。一時は毎日のように騒いでいたウクライナ問題についても、ニュースで耳にすることは稀になりました。
一方で、ガソリンの値段は上がったままですし、隣国ではエネルギー問題が人びとを不安にさせており、真冬に17度までしか暖房を入れられないとか、薪の購入での詐欺が横行したり、決して2019年までの「なんの心配もない夏」が戻ってきたわけではありません。
スイスは、どういうわけか食糧危機の兆しも感じられないし、マスク着用や望まぬ注射を強制されることもありません。なので、もっと晴れ晴れとした想いを持ってもいいと思うのですが、そうではない日々を送っています。
2019年までの日々には、もう戻れないのだと思います。疑問を持つこともなく、調べることもしなかったあの頃、世界は基本的に法と正義と善良さを中心に回っていて、平和でちょっぴり退屈ですらありました。真面目に働いていれば、少なくとも日々の生活は保障されて、老後も慎ましく暮らせば困らない場所のはずでした。
個人的には、あれから失業して、スイスの失業保険受給も体験しました。それから再び幸運に恵まれ、新しい職種と前の職種の両方の仕事ができるようになりました。各国の感染対策上も、私のお財布の中身も、理論的には以前と同じように年に3回国外旅行をしても問題はないようになりました。
でも、コロナ以降、私と連れ合いは全く海外旅行には行っていません。その間に猫が生活の中に入ってきてしまったということもあるのですけれど、それは本質的な問題ではなくて、たぶん世界が私の考えていたものと全く違ったので浮かれて楽しめなくなってしまったというのが一番の理由だと思います。
空を見ても、山を見ても、新聞やネットからあふれてくる文字を見ても、もう以前と同じようなまっすぐな受け止め方はできなくなってしまいました。私は「自由でもっとも恵まれた時代に生まれてきた、歴史上もっともたくさんの知識を得た霊長」の1人ではなくて、おそらくそれとは真逆の『青い錠剤』で宥められただけの愚かな羊だったんだなと。
それを受け止めるのは、とても困難でつらかったのですけれど、1度消化したらあとは生き延びるために、動き始めることもできるようになりました。
それに、これまでは教え込まれたことを考えもせずに受け入れていたのですが、ごく当たり前の自然現象や古い建築など、いつも身近にあった多くのことについて自分で観察し考えるようにもなりました。まだ世界の真実がわかったとは言えない、思考の入り口付近にいるのですけれど、多くの小さな物事について自分の仮説を立てたり、ネットで仮説に対する裏付けとなる知識を探したりしながら、思考を繰り返しています。
そんなわけで、旅行と創作のネタ探しばかりをしていた頃とは、ずいぶんと違う時間の使い方をするようになりました。
世界の不安は、終わったわけではなく、ますます不穏な方向に向かっています。次に何が来るのか、私にはわかりませんけれど、少なくとも警鐘がならされたものについては自分なりの準備はしています。それが充分かどうか、もしくは単なる杞憂なのかは、実際に問題が起こらないとわかりませんし、何が起ころうとまた起こらないままだろうと、それに順応して生き抜くべく歩き続けるしかありません。
この夏休みも、そんなあれこれを考えながら、たまに近場にツーリングと食事に行く程度の日々を過ごしています。あと1週間、のんびりと、少しは執筆も進めながら過ごすつもりです。
季節は緩やかに移ろい、既に朝晩は秋を感じるようになっています。足下にも枯れ葉が舞ってくるようになり、植えた野菜のほとんどは収穫時期を迎えています。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(7)国王の到着
もうお忘れかと思いますが、今回の作品の主人公はいちおう、国王レオポルドということになっています。主人公不在のままずっと話が続いていましたが、ようやく主人公が到着しました。ヒロインは、ええと、当分出てきません、悪しからず。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(7)国王の到着
領主夫妻の到着から遅れること1週間。慌ただしく準備に明け暮れたフルーヴルーウー辺境伯爵領に、いよいよ国王レオポルドⅡ世が到着する日となった。
家令パスカル・モラをはじめとして、城の使用人たちが玉顔を拝するのはもちろん初めてである。幸いなことに領主夫妻と王都から連れてきた使用人たちは全員国王と面識があり、「国王陛下は氣さくで、もてなしにあれこれ文句をつけたりはしないであろう」と力づけてくれた。
とはいえ、もちろん立派な王家の馬車でたくさんの護衛と共にやってくると思っていたので、先触れと思われる簡素な馬車がやって来た時に、まさか中から国王その人が出てくるとは、フルーヴルーウー辺境伯自身も予想していなかった。
幸い、兄であるマウロと話をするために外に出ていたアニーが、レオポルドとフリッツ・ヘルマン大尉の顔を見て思わず声を上げたので、モラはすぐに正しい挨拶をすることができ、主人を呼んでくることができた。
「いったいどういうことですか」
マックスは呆れて、従兄弟である国王に問いただした。
「ヘルマン家の馬車で来たのだ。うるさい奴らはみなヴェルドンに置いてきたので、普段泊まれない類いの宿にも滞在できたしな。なかなか面白い旅であったぞ」
「まさか、この人数でお越しなのですか?」
一行は、馬車1台。それに護衛の騎馬の騎士たちが4人ほどしかいない。ヘルマン派として知られている、家柄はあまり良くないが武術に秀でた若い騎士たちだ。そして、カンタリア派と呼ばれる母后の息のかかった者が1人もいないことにマックスは氣がついた。
「無名の大尉の馬車に物々しい護衛がついていたらおかしいだろう」
「危険にも程があります。お立場をわかっていらっしゃるのですか? お帰りの際は、私どもの騎士も護衛としてお連れください」
「ふむ。お前たちと一緒に帰ればいいではないか」
そんなに長くご滞在なさるおつもりですか。モラはもう少しのところで、その言葉を飲み込んだ。
「余が視察に行くとわかっていたら、金山の管理人も都合の悪いことを隠すかもしれぬではないか。下々の役人あたりが視察に来たとでも思わせるのが一番だ。ともあれ、そなたたちには世話になる」
「そんなに長くお城を空けて大丈夫なんですか?」
フリッツ・ヘルマン大尉の客室に水差しを運んできたアニーは、小さく囁いた。
そもそも、これはラウラ付きの侍女であるアニーの役目ではないのだが、事情を知りたい多くの者たちの利害が一致して、ヘルマン大尉にあけすけにものを訊けるアニーが派遣されたのだ。
「まったく大丈夫ではないが、トリネアに行く予定もあるので、金山だけを見てさっさと帰ると二度手間になるのだ」
フリッツは憮然として答えた。
「ああ、《ケールム・アルバ》の向こうの。トリネアって、センヴリ王国ですよね? こんな少人数で何しにいらっしゃるんですか?」
「表向きは別件だが、実質的には縁談のための訪問だ。おそらく、その時はフルーヴルーウー辺境伯の騎士や馬車をお借りすることになると思う」
アニーは、納得した。そういえば、マリア=ファリシア姫との縁談のときもレオポルドは使者と偽って突然公式訪問をし、どんな王女か確認しようとしたものだ。残念ながらその時は替え玉となったラウラを王太女殿下と勘違いして縁談を進め、もう少しで敵国に踏み込まれるところであった。
毎回つきあわされる部下は大変だなと思いながら、アニーはフリッツを見た。
フリッツ・ヘルマンを初めて見たのも、その国王のルーヴ訪問の時だった。それから偽物の王女としてヴェルドンに向かったラウラについてアニーもグランドロンに来たときに、この護衛隊長が位は高くないものの国王の幼なじみとして非常に信頼されていることを知った。さらに、ラウラが処刑されたと思い込んで復讐のためにレオポルド襲撃を企んだアニーは捕らえられたが、罪に問われることはなく秘密裏にラウラのもとに連れてこられてフルーヴルーウー伯爵夫人付き侍女として勤める温情を受けた。そのときにも、この無骨な大尉が大きな役目を果たしていた。
そんな事情で、国王の護衛隊長という立場のかなり年上の人にもかかわらず、アニーは氣易く口をきくようになってしまっていた。彼はそれを無礼と怒るでもなく、普通に対応している。
変わった主従なのだ。国王のレオポルドからして、幼少の頃に身分を隠して農村に出入りしては友だちを作っていたような人だ。フリッツは、さほど位の高くない貴族階級の出身だが、レオポルドの乳母の親族だったために、幼少期のレオポルドと一緒に遊んだ仲だそうで、臣下の中でもレオポルドにはっきり意見を言えるようだ。
アニーは、ルーヴの王城でさまざまなタイプの家臣を見てきた。国王の信頼が篤くなると、やがて私腹を肥やしたり、自分自身が権力者自身であるかのように振る舞う者も珍しくなかった。だから、ずっと国王レオポルドの信頼篤いフリッツが、自らの分をわきまえて役目を果たすことに揺るがないさまを当たり前のこととは思っていなかった。
フリッツ・ヘルマン大尉は、懐柔の難しい人物として知られている。国王の近くに勤める立場を利用しようと近づいてくる存在は、貴賤男女を問わず後を絶たないのだが、鼻薬を効かせることもできないし、美女の誘惑も役に立たない。弱みとなるような道楽も一切せず、休みの日も自宅で鍛錬をするような面白みのない人物と陰口をたかれても氣にする素振りすらない。
また、袖にされた女性たちは「妻からも逃げられたつまらない無骨者」と吹聴する。これはほぼ事実なのだが、国王や部下からの信頼は篤いために、一般にはむしろ振られた女性たちの負け惜しみであると、好意的に取られているのだとアニーは分析していた。
とはいえ、こうした性格ゆえ、国王に直接訊きただすには差し障りがあるような情報を、正確に手っ取り早く手にするにはフリッツに訊くのが一番早いというのが関係者の一致した見解になっているのだった。
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新しい冷凍庫が来た

先月、前触れもなく冷凍庫が故障しました。普通の冷蔵庫についている冷凍庫が壊れても困るのに、もっと大きい専用冷凍庫が壊れたので焦りましたよ。
あ、なんでそんなもんがあるのと、驚かれる方もあるかもしれませんね。日本の一般家庭と比較すると、スイスの冷凍庫保持率はけっこう高いと思います。いわゆるレンチンするタイプの冷凍食品はさほど充実していないスイスなので、入っているのはそうしたものではありません。
私の場合は、まとめて作った食品や1度では食べきれない野菜などを冷凍しています。例えば、ひき肉が40パーセント引きのお買い得になっているときなどに、喜んで購入するんですけれど、連れ合いと2人だけなのに1㎏は多いんですよ。で、すぐに食べない分は、ハンバーグにしたり、野菜入りひき肉炒めなどにして冷凍しておき、時間のない日にさっと温めたり追加で調味して出すというような使い方をしています。それに例えば人参も1袋1㎏入りを買ってきて、乱切りにしたものを冷凍しておき、こうしたいくつかの冷凍野菜をストウブ鍋に突っ込んで無水調理したりもしています。
家庭菜園をする家庭では、夏の間に収穫したものを下ゆでして冷凍保存することも多いですし、狩りや釣りの趣味を持つ人はシーズンに冷凍庫がパンパンになるのが普通です。我が家も秋に友人からゲームミートを1頭分買うことがあります。
そんなこんなで、冷蔵庫とは別に、100リットルくらいの容量のある冷凍庫を使っています。
先月、壊れた機械は、サーモスタットが故障したと思われます。結局修理するよりは新しいのを買うことにしました。よく行くスーパーの電化製品部門で購入したので、ポイントを使ってやたらと安く買えてしまいました。
容量は前のとほぼ同じで、ただ、前回のとは引き出しの数がひとつ少ないです。いずれにしても、以前の時から入っているものを探すのがちょっと困難なカオス状態だったので、買い換えを機にすこし整理方法を変えました。

ちにみに、こちらは冷蔵庫についている冷凍庫での整理方法です。この容器、 A5サイズの書類入れなんです。字が汚くてなんですけれど、白いマスキングテープに何が入っているのかを書いて入れています。
例えば一番手前にあるのは飴色玉ねぎが入っています。私はタマネギの食感が苦手なのでどんな料理に使うときも細かくして30分以上は炒めたものを入れます。毎回なんてやっていられないので、3か月に1度くらいの頻度で大量の玉ねぎを1度に調理して薄く冷凍しておき、割って使っています。

今回買った冷凍庫も、本当は同じファイルを買って整理するつもりでしたが、どういうわけか前回買ったファイルは手に入らなくなっていました。その代わりに購入したのが、やはりA5サイズの書類袋のセットです。あまり厚みはないので、背表紙にラベルを貼ることはできませんが、色で目星をつけることができるようにしました。そして、あえて口を開けてひと目で中身がわかるようにしました。
こうしたファイルに入れることの利点は、出してからまたしまうときに、隙間に押し込みやすいんです。そして、平らに積み重ねるのと違って、欲しいものが下に隠れることがないので、早く探し出せるんです。
写真でお見せするほどの見栄えではないんですが、口で説明するよりは早いですよね。

ついでに買ったのが、こちらの隙間家具。幅16センチしかない壁と冷蔵庫の隙間にギリギリ入るものを買いました。
実は、ここに置いているもの(ニンニクやエシャロット、それにジャガイモのポットなど)は、以前は冷凍庫の上にあったのです。でも、ここがいつもゴチャゴチャしていたので、今回掃除しやすさも兼ねて、キャスター付きの隙間ラックに大半を置くようにしました。
一番下の棚には床置きが氣になっていた延長コードと、あまりおいしくないから料理用にしてと連れ合いから押しつけられた赤ワインなどの瓶を載せることができました。
いくつかのゴチャゴチャが解消して、台所でのイライラがまた1つなくなって嬉しいです。
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【小説】山の高みより
今回の選んだのは、ティバです。ご存じないですよね。少し前まで私も知りませんでしたから。ティバというのはアルプホルンの原型になったといわれる楽器の1つで、スイスで中世から牧畜のために使われていた管楽器です。現在のアルプホルンは、2m以上もあるので、とてもヤギを追いながら高山に持って行って吹くことなどできませんが、ティバはずっと実用的な楽器だったようです。
ちなみに、この楽器を8月に持ってきたのは、スイスの建国記念日(8月1日)の影響で、私にとってのアルプホルン系の音は8月と結びついているからなのです。

山の高みより
遠くに灰色の塊がわずかに見えてから15分も経っていなかった。雷雲は恐るべき速度で遠くの山嶺に襲いかかっている。白いヴェールが瞬く間に山肌を覆う。早苗は「これは来るかな」と小さくつぶやいた。
先ほどすれ違ったハイカーたちは、花を摘みながらのんきに下っていったが、もしかするとずぶ濡れになるかもしれない。こちらも人ごとではない。だが、あと5分も歩けば山小屋に着くだろう。そうすれば、少なくとも雨宿りはできるだろう。運がよければ。これは、雨雲との競争だ。
轟きはティンパニーを思い起こさせる。ああ、これだったんだろうかと早苗は思った。ヨハネス・ブラームスの交響曲第1番の第4楽章の始まり。きっとあのティンパニーはいま耳にしているのと同じ雷鳴だ。
ブラームスがアルプに親しみを持つ日々を過ごしていたか早苗は知らない。ウィーンの社交界の中で作曲を続ける偉大な芸術家は、行ったとしても旅行者としてだろう。ハンネスはそうじゃなかった。彼は、この山を日々見上げて育った。この山にもよく登り、祖父や父親から引き継がれた、いま早苗が持っているティバを吹いていた。
早苗は、ハンネスの願いを叶えるために、ひとりでこの山に登っている。この山の頂からティバを吹き鳴らすこと。次のティバの祭典『ティバダ』には加わることができないであろう彼と、もうじき博物館入りするかもしれない楽器に最後の栄誉を与えるために。吹くメロディは決めている。ブラームスが交響曲に書き込んだ旋律だ。
「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう
(Hoch auf’m Berg, tief im Tal, grüss ich dich viel tausendmal!)」
ティバは、アルプホルンの原型と言われる楽器の1つだ。スイス、グラウビュンデン州に伝わっていて、かつては放牧中の家畜を鼓舞したり、麓の村人や他の嶺にいる仲間と意思疎通を図るために使った道具であった。
携帯電話を誰もが持ち、麓へも車で楽に往復できるこの時代には、かつての用途で用いられることはもうない。
現代では、アルプホルンは観光産業を象徴する国民的楽器となった。3.5メートルもある巨大な角笛ゆえ演奏することも持ち運ぶこともなかなか難しい特殊な存在になっている。一方で、その原型であったティバや、中央スイスのビューヘルなどは、存在すらも知られぬマイナーな楽器としてその地域で細々と生きながらえている。
ティバは「
かつて牧夫たちが使っていたティバは木製だったが、現在では錫製のものがほとんどで、早苗も錫製の1.2メートルの楽器を愛用している。今日持ってきたのは、さらに短い1メートルのものだ。ハンネスから預かってきた。
ティバの音色は、外国人にとってはスイスらしさの象徴であるアルプホルンと同じに聞こえるらしいが、都会から来た同国人は「郵便バスかよ」という。郵便配達を兼ねてスイス中に路線が張り巡らされている黄色いバスでは、見通しの悪い山道などでホルンに近い4音によるクラクションを鳴らす。これは、かつてヨーロッパ中で郵便配達が角笛を使って到着を知らせていた時代の名残だ。
山からこの楽器を吹き鳴らすと、谷では、音色がどこから聞こえてくるのかはっきりしない。が、演奏技術や事前に合意した音の並び方から、演奏者を推測することが可能だ。かつてはそうやって谷を越えた別の村に危機などを速やかに知らせることができた。
現在では、個人の楽しみで吹くのがメインだ。もっとも10年ほど前からいくつかの村をシグナルのリレーでつなぐティバの祭典『ティバダ』が開催されており、それが愛好家たちのモチベーションの維持に繋がっている。
かつてはその存在さえ知らなかった楽器だが、早苗は同僚だったハンネスに誘われて『ティバダ』を見にいってから、ティバをよく練習するようになった。日本では、中学も高校でも吹奏楽部に所属していたので、音を出すまでにさほど苦労はしなかった。
ハンネス。もうずいぶん長い付き合いになるよね。ずっとただの同僚だったのが、ティバをきっかけに仕事以外でもよく会うようになって。いろいろな話も聞いてもらった。この国に来て、友達も少なかったし、本当に嬉しかったんだよ。あなたのことを話してくれるようになったのは最近だけれど。
本名がヨハネスだということを知ったのも最近だ。ハンネスという今どき珍しい古風な通り名は、消えかけている伝統の継承をするのだという彼の意思表示なのかもしれない。そういえば、彼は恋に関しても今どきの若者にはあり得ないほど古風だ。早苗は初めて聞いたときに耳を疑った。ティーンエイジャーになれば親が避妊の心配をするようなこの国で、秘めた想いを伝えもせず10年以上も隠し通しているなんて。私も人のことは言えないけれど。
下草を踏み分け、曲がりくねった根でできた天然の階段をいくつか登り鬱蒼とした老木の間を通ると、急に視界が開けた。すぐそこに山小屋が見えている。助かった。雨雲はもう早苗に追いついていて、ポツリ、またポツリと頭や上着を雨粒が規則正しく打ち始めた。
走ってなんとか山小屋に駆け込む。小屋内部の屋根を打つ雨音の激しさにかえって驚く。もうこんなに降っていたのかと。
「まあ、最後の瞬間に駆け込めて幸運だったわね!」
黒いエプロンを着けた女性が言った。早苗は、頭を下げた。この山小屋で常時働いているのは夫婦と外国人スタッフだけと聞いていた。方言のなまり方からこの人はスイス人だ。つまり、この人がコリーナさんなんだろう。
「ステッターさんですか。私……」
そう言うと、彼女はみなまで言わせなかった。
「あら。あなたがサナエね。ハンネスから聞いているわ。私がコリーナよ。よく来てくれたわね。いま、ブルーノも呼んでくるわ」
奥から現れた男性は、熊のように大きく、口の周りにしっかりと髭を蓄えていた。農家によく見るチェックのリンネルシャツを着ている。夫婦共にハンネスよりもひとまわりは上そうだ。
「ようこそ。なんでもこの山でティバを吹くんだって?」
「はい。本当はハンネス自身が来たかったと思うんですけれど」
そういうと夫婦も沈んだ表情になった。
「病院に入っているんだって?」
「はい。今年の『ティバダ』の参加は取り下げたんです。先週、お見舞いに行ったときにそう言っていました。ものすごく残念がっていて、それで成り行きで頼まれて、ここに来ました」
2人は頷いた。そして、早苗にテーブル席に座るように促し、何が飲みたいかと訊いた。ハンネスからの依頼でご馳走することになっていると。早苗は感謝してコーヒーを頼んだ。
外はひどい雷雨になっていた。閉じた雨戸の隙間からも稲光のフラッシュが山小屋に入ってくる。屋根を川のように水が流れ落ちていくのを感じる。突如、激しい音が加わる。屋根を打ち付ける小石のような音。雹だ。
「おやおや。これは外にいたら大変だったな」
雷雨に離れているのか、夫婦はさほど慌てていない。コーヒーを運ぶと、ブルーノは自分用にはビールの小瓶を持って早苗の前の席に座った。
「ハンネスはさ、小さな子供の頃から親父さんに連れられてここに来ていたよ。ティーンになってからはひとりでもよく来たなあ」
ブルーノは、感慨深げに言った。コリーナも頷いた。
「そうね。短いティバを持ってね」
「これですか?」
早苗はリュックの後ろに下げていたティバを見せた。
「そうね、そんな色とサイズだったのは間違いないわ。もっとも私たち、違うのを見せられても、わからないけれど」
早苗は頷いた。そうか、コリーナさんたちは、ティバには疎いんだ。それに、ハンネスの秘めた願いにもきっと氣がつくことはないのかもしれない。
見舞いに行ったとき、ハンネスは、唐突にこう言った。
「君は、クラシック音楽を聴くんだったね。ブラームスも?」
「そうね。シンフォニー1番は大好きよ」
そういうと、彼は、ぐっと身を乗りだしてきた。
「あの曲について、言われていることも、知っている?」
早苗は、一般的な知識を答えた。第4楽章の主題がアルプホルン由来であることや、有名なメロディーが敬愛するクララ・シューマンへの想いを込めたものと言われていることなどだ。
「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」
クララ・シューマンの誕生日に、ブラームスはそう歌詞をつけてこの主題を贈った。
ハンネスは、考え込むように頷き、それから意を決して、早苗にこう言った。
「僕も、クララ・シューマンに挨拶したいんだ。山の高みから」
ここまで歩いてくる道すがら、早苗は以前にハンネスが打ち明けてくれた秘密の恋について考えていた。ずっと若い時から続いている想いがあると。その女性はとっくに結婚していて、自分の願いが叶う見込みはまったくないと。
わざわざブラームスと、クララ・シューマンに言及したのは、そういうことではないだろうか。14歳上のクララに対して、ブラームスが恋愛感情を抱いていたのではないかという話は有名だ。だが、彼はロベルト・シューマンに対しても深い尊敬を抱いており、ロベルトの死後も節度を守り続けたとされている。
「お。おさまったみたいだな」
ブルーノが言う。コリーナは立ち上がって、雨戸を開けた。強い日の光が差し込んできた。いつの間にか外は、快晴になっていた。
山の上に清冽な風が吹いている。雨雫を受けた針葉樹が太陽の光を受けて輝いている。早苗はティバを持ち、小屋の外に出た。山小屋の建つ草原の先は崖のように切り立った急斜面で、谷底までが一望の下だ。ハンネスの入院する病院はたぶんあのあたり。早苗は地形を見ながら考えた。
山の上からは、アルプス連峰が見渡せた。2000メートルを越すあたりから、山には樹木が生えなくなる。草原と灰色の岩石、夏でもわずかに残る雪とが稜線をくっきりと際立たせる。宇宙へと続く深い青空に大きな羊雲が悠々と渡っていく。
鋭い鳴き声をあげながら、鷹が旋回していく。高く登っていくその姿はまるで点のように小さい。見えている町の家々も、それなりの川幅だったはずのライン河も、大きく立派な大聖堂も、この山々や大空に比べれば、とても小さい。
ブラームスの交響曲第1番の第4楽章が、脳裏に蘇る。早苗はティバを構えて吹いた。澄み渡った空氣の中、音は谷に響き渡る。何百年もまえの牧夫たちがそうしたのと同じように、身体から漲る力が、音符やルールといった細かい決まり事から解放されて羽ばたいていく。
ハンネスは、ここに再び登り、彼を縛り付けるすべてから解放するこの響きを吹き鳴らしたいと願っているのかもしれない。
ブラームスがアルプホルンから着想して表現しようとしたものも、もしかするとこの開放感、この世界への讃美なのかもしれない。
実際のブラームスとクララの関係も、それどころかヨハネス・ブラームスがクララを本当に愛していたのかも、本当のところは、誰にもわかりはしない。それを興味本位で暴くことが必要だとは思わない。そして、ハンネスの願いの本質について、あれこれ詮索することも。
日本で交響曲を聴いていたとき、早苗はあれを楽器が作り出す芸術作品として捉えていた。それは東京で普段見かける日常生活の光景とはあまりにもかけ離れていて、コンサートホールまたはスピーカーの置かれた部屋の中で完結している抽象的な存在だった。
でも、今、早苗が目にしている世界は、ブラームスがオーケストラに表現させ、それを耳にする者の心に沸き起こる感情と一致する。彼は、この場にいたのだ。正確にこの地点という意味ではなく、アルプスのどこかで世界を見渡し、その崇高さに頭を下げたのだ。そして、この清冽な風の中で、敬愛する人に心の中で語りかけずにはいられなかったのだ。
「山の高みより、谷の深きより、君に何千回も挨拶を送ろう」
私たちの命は儚い。私たちの存在はとても小さい。それは、世の中の不公平な格差すら豆粒のように小さく遠いものにする。忙しい生活も、果たせぬ野望も、うまくいかぬ人間関係も、この壮大さ、崇高さの中では、取るにとりないことだと笑うことを可能にする。
ハンネス。私は、あなたのためにここにいるよ。
早苗は、この山から麓の病院にいる彼に聞こえることを願いながら彼女なりにティバを吹く。彼が、再び自らの足でここまで来ることができる力になることを祈りながら、彼女なりのシグナルを吹き鳴らす。
先ほどまでの雨雲はもうどこにもなく、天の青き深みと雨雫の輝く山肌に、ティバの奏でる挨拶が風に乗って羽ばたいていくのがわかった。
(初出:2022年8月 書き下ろし)
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建国記念日と終わりゆく夏の日々

8月1日はスイスの建国記念日です。1291年8月1日に初期3州がリュトリで同盟の誓いを立てたのが、現在のスイス連邦の始まりです。そしてこの日は、普通は花火や焚き火、それに子供たちの提灯行列などで祝うのが普通ですが、今年は静かでした。猛暑と極度の乾燥から、全国に山火事警報が発令中で、花火も焚き火も厳禁だったからです。
それでも、あちこちで国旗が掲げられ、夏らしい晴れた1日を各所で楽しんでいました。コロナ禍で大騒ぎしていた頃は出来なかった、人びととふれあい楽しく食事をすることが、再びできるようになり、人びとは笑顔で日常を楽しむことを大切にしているように思います。
私たち夫婦は、バイクでアルブラ峠を越えて、ポスキアボに行ってきました。もちろん日帰りの半日の旅でしたが、暑すぎず寒くもない爽やかな1日で、バイク旅行には最適の日でした。

それから1週間。8月に入ると明らかに日の入りも早くなってきます。まだ日差しは強いですが、雨のあとには冷え込むことも。平日の誕生日だった4日に、ニュースではロカルノ映画祭が始まったといっていました。
毎年、この映画祭が終わると、毎年秋が訪れます。
でも、私のお楽しみは、もう少し続きます。8月の半ばから2週間の休暇なのです。どこにも行かないでしょうが、それでも休暇には心躍りますよね。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(6)市場 -2-
騎士ゴッドリーの案内で市場の視察をしているマックスとラウラ。奥で露店の売り子と僧服の男が争っている場面に遭遇しました。場所代が突然2倍になったというのが大司教の右腕の僧の言い分の模様。マックスは、口を出すことに決めました。
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【参考】
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(6)市場 -2-
「これはゴッドリー様。ご機嫌よろしゅう」
ボーナムは頭を下げた。マックスとは面識がないので、ゴッドリーの案内している貴人が誰なのかうかがっている様子だ。
「いま、聞き捨てならぬ話が聞こえてきたが、場所代が2倍になったという公告が出たというのは本当か」
ボーナムは、わずかに顔をゆがめた。勝手に決めた上でわかりにくいところに公告し、領主に知られずに取り分を増やそうとしていたのだろう。
「私は署名した憶えがないが」
マックスが歩み出て言った。
「こちらはフルーヴルーウー伯爵様だ」
ゴッドリーが告げると、ボーナムも露店の男も青くなって頭を下げた。
ボーナムはしどろもどろになって言った。
「大司教さまは、さきの代官ゴーシュ様からこの件に関する裁量権を頂いております。近年の物価上昇などを鑑みまして、やむなく場所代を変更しました。伯爵様には、近日中にご報告に伺う予定でございました」
マックスは、憮然として答えた。
「ゴーシュの失脚に伴い、すべての裁量権は私に戻っている。それを知らなかったとはいわせない。今回の出店費用に関しては、前回と同じにせよ。今後の金額については詳細な提案書とともにフルーヴルーウー城に問い合わせよ」
周りでハラハラしながら見守っていた出店者たちが思わず歓声を上げた。ボーナムは、怒りで震えていたが、どうすることもできなかった。
足早に大司教館の方へと去って行ったボーナムの後ろ姿を見ながら、マックスはため息をついた。
「余計な敵を作ってしまったかもしれないな」
ゴッドリーは肩をすくめた。
「私どもとしては、ようやくという心持ちでございます」
「というのは?」
「市場の場所代は、そもそもお城の歳入となるはずですが、実質すべてがゴーシュ様の私財になっていました。聖遺物への巡礼の道を整えた時に私財を立て替えたので返却させているという建前でしたが、建て替え分などとっくに終わってもお構いなしでした。大司教様はゴーシュ様ととても仲がよく、同じように詭弁を用いては何かと領民から巻き上げようとばかりなさると、みな苦々しく思っておりました」
ラウラは、つい先ほど大聖堂で挨拶してきたベッケム大司教のことを考えた。立派な法衣を身につけ、非常によく肥えた小柄な男で、ルーヴランの言葉を思わせるアクセントで話をした。《聖バルバラの枝》を納めた黄金の聖遺物箱の前でやたらと長い時間をかけて蕩々と説明を続けていた。
「聖女バルバラ様が地下牢で水をやり、殉教の日に冬だというのに花開いた桜の枝でございます。3世紀にニコメディアにございましたこちらの聖遺物が、いくつもの鉱山を抱く《ケールム・アルバ》を守るために、フルーヴルーウー大聖堂に運ばれましたことは、まさに神のご威光でございましょう」
聖バルバラは鉱山の守護聖人である。聖遺物が大聖堂に置かれ、巡礼路が整備されてから、近隣の鉱山で働く坑夫たちがフルーヴルーウー城下町にわざわざ逗留することが増え、それがフルーヴルーウー辺境伯をさらに富ませることになっているのは間違いない。
「ベッケム家はルーヴラン寄りだと、老師が警戒されていたな。まさか自分の領地で当主不在を利用して私腹を肥やしていたとは……」
マックスは、頭を振った。
ラウラは、領主の不在がもたらす害悪について納得した。もちろん、ほとんどの主だった貴族たちはここと同じように代官を置き、王都で生活している。王城にて役職に就いていればなおさらのことだ。しかし、フルーヴルーウー辺境伯領のように、領主が20年以上も行方不明のままであることはほとんどない。
たまたま前領主夫人が先王の王妹殿下であったため、たとえ伯爵自身が行方不明でもその機に乗じて領地を簒奪したり、反対に王国直轄領に組み入れられたりすることもなく、2代にわたる国王がその領地の保護に心を砕いてきた。それでも、代官ゴーシュ子爵や、ベッケム大司教は問題にならないように充分に心を配りながらも彼らの都合のいいように動いてきたのだろう。簡単には噂も届かぬほど王都から遠いことも、彼らには幸いしたに違いない。
「下手に強く出ても、教会を敵に回すだけだしな。これはうまく立ち回らないと危険だな」
マックスは珍しく額に皺を寄せてつぶやいていた。
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