【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(10)傭兵団 -2-
フルーヴルーウー辺境伯に会わせろとノーアポでやって来た傭兵団たち。騎士ゴッドリーや護衛の兵たちとの間に緊張が走りますが、例の女傭兵の冷静な機転で雰囲氣が変わりました。この傭兵団たちの出番は、今回はここまでです。また後ほど登場します。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(10)傭兵団 -2-
マックスは、女兵士をじっと見た。紺に近い青のブレーズボンに黄土色の羊毛リブレー上着を着込んでいるので若干膨らんで見えるが、太っているのではなくむしろしっかりと筋肉がついているからのようだった。灰色の帽子からは白っぽい金髪が見えている。他の男たちと同様に、顔は薄汚れている。
その兵士は、武器を構えることもなくわずかに前に踏み出した。いつゴッドリーや兵士に斬りかかられてもおかしくないのに、すぐに応戦できる自信があるのか、まったく怯えた様子はない。むしろその眼光と氣迫に、門兵たちが飲まれている感があった。
「ほら。こいつらに武器をしまわせろよ」
ゴッドリーと門兵たちから目を離さずに、女兵士が言うと、団長ははっとして「おろせ」と男たちに命じた。
門兵たちの緊張が緩むのを見てから、女兵士がつついてブルーノをゴッドリーの横に来たマックスの前まで連れて行った。
「ほら。挨拶しろよ」
「わかったよ」
団長は、フードを脱ぐと粗雑な態度でマックスにお辞儀らしき動きをした。
「南シルヴァ傭兵団の首領ブルーノでやす。新しく伯爵様がおいでになると聞いて、挨拶にきやした。お見知りおきを」
ゴッドリーは、ホッとしている思いを見透かされないように、無理して偉そうに答えた。
「伯爵様と、こちらの兵の方々に武器を向けて、挨拶もへったくれもないであろう。今後は、このような失礼は許さんからな」
「へえ。それで……。おい、この後、なんて言うんだ?」
ブルーノが訊くと、女兵士が「しょうがないな」という顔をして前に進み出、片膝をついた。
「我らは、傭兵であり、平時には、主にフルーヴルーウー、サレア河流域をはじめとする南シルヴァで、商隊の護衛などをして生計を立てています」
「そうか。それで伯爵様をお呼び立てしてどういうつもりだ」
「フルーヴルーウー峠に正規軍を配置するという噂を聞きました」
「商人たちの荷を狙う追い剥ぎたちが後を絶たないからな。通行料を若干上げる代わりに、峠の安全を確保することを考えているのは確かだ」
「我々に皆が護衛を依頼してくれれば、そんな必要はないんですがね」
「なんだと」
やり取りを聞いていたマックスは、笑い出した。
「なるほど。君たちは失業の危機に瀕しているわけか。だが、フルーヴルーウー峠だけで仕事をしているわけではないんだろう?」
女はニヤリと笑った。
「いいえ。実のところ、ここ数年はずっとヴァリエラや、時にはセンヴリのヴォワーズ大司教領までも行って仕事をしておりました」
「なぜだ?」
「代官であられたゴーシュ様に我慢がならなかったからです」
「なるほど」
「あの方は、ご自身の宝物箱に入れる金勘定のことしか頭にないお方でしたからね。でも、そのゴーシュ様はいなくなり、新しく伯爵様が来られた。岩塩鉱の安全対策を変えたという噂を聞いて、この方なら我々の訴えでも聞いてもらえるかもしれないと、お待ちしていたというわけです」
マックスは、少し考えてから言った。
「実のところ、予算はあっても実際に配置する兵士そのものの数が足りているわけではないんだ。だから、すぐにその策が実現するとは限らない。君たちのような傭兵に委託する案についても検討中だ」
「本当ですか。でしたら、我々を雇っていただけないでしょうか」
「約束はできないが、少なくとも君たちの実力を見せてもらって考慮に入れることは可能だ。でも、君たちは、この金山で雇われているんだろう?」
「はい。ただ、契約が今月末までなのです。それで、こんな近くにおりながら、仕事の間はフルーヴルーウー城下町に売り込みにも行けません。その間に、正規軍配置の話を決められてしまうのではないかと、少々焦っているところに、急に陛下と伯爵様がお見えになりましたので、何がどうあってもお話しさせていただきたかったのです」
マウロは、馬小屋から感心しながら見ていた。マックスの話し方に相手をリラックスさせる氣さくな調子があることも大いに関係しているのかもしれぬが、女の身で伯爵相手に堂々と話す様子は、粗野な傭兵団の中でこの女ひとりに見られるものだった。
「なるほどね。言いたいことはわかった。ここで契約した仕事を無事に終えたら、城下町に来て、腕試しをしてもらおう。このゴッドリーが認めるだけの腕があれば、君たちの雇用を考慮することにしよう。ただし雇用開始はどんなに早くとも秋以降だ。それでいいかい?」
「おおいに結構です」
ゴッドリーとマックスは少し話し合い、空き家になっているゴーシュ邸の中庭で、翌々週の火曜日に彼らの腕試しを行うことになった。
「ところで、あのように汚いままでよろしいのですか」
ゴッドリーは眉をひそめる。かなりの悪臭もしている。
「そうだな。腕試しの前に公衆浴場に行ってもらおうか」
マックスが言う。
「我々が行けるのは早くても第一土曜日だし、そのつぎの金曜日までは、公衆浴場は無理だ。こっちは周辺民扱いなんでね」
ブルーノが憮然として言った。傭兵は、娼婦、逃亡者、旅芸人、乞食などと同様に周辺民と呼ばれ、社会的に差別排斥されている。公衆浴場は、一般民と周辺民の入れる日が分かれていた。
だが、金曜日まで待つのは都合が悪い。フルーヴルーウーではその週末に『
「公衆浴場まで行かずとも、城壁ぎわの熱泉で充分だ。お前らもそれでいいだろう」
女兵士が言うと、一団は「おお」と言った。
「じゃあ決まりだ。来月第一月曜日の午後に、武具を持って旧ゴーシュ邸に来てくれ」
マックスの言葉に、一同は頷き、安心してその場を去って行った。安心したのは、騎士ゴッドリーや、マウロも同様だった。
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ポルトガルののど飴

実は、今週はぶっ倒れていました。月曜日に発熱。夕方には子供の時以来なったことのない39℃を記録、ビビりました。その日は何も考えられなくてほぼ24時間ずっとベッドでグースカ寝ていました。
翌日にはずいぶんと下がって朝は38.7℃あったものの、夜には36.6℃とほぼ平熱近くまで降りてきました。それど同時に全身の痛みも消えてくれて助かりました。
そこまで下がると脳も働くようになり、これはアレかな、と調べてみたら本当かどうかはともかく簡易抗原テスト(去年タダでもらったものの残り)ではくっきり陽性。あちゃーと木曜日の日本語教師の仕事のキャンセルなどに追われました。
異論があることは百も承知ですが、私は病の時は自分の自然治癒力を最大限発揮できるようにする主義です。発熱しても(42℃を越えたりしたらそれはもうしかたないかもしれませんが)39℃では解熱剤は使いません。免疫戦士たちが頑張っているのを邪魔してどうする、というスタンスです。もう20年近く西洋の薬は服用していません。今回も2日目にホメオパシーのベラドンナ・レメディを摂り、あとは生姜紅茶をがぶ飲みして、食事も取らず爆睡だけしていました。そして、自分の免疫を下げるような注射もしていません。
水曜日からは、自宅からのオンラインで仕事に復帰しました。熱は下がり仕事をするのには全く問題ないのですけれど、もちろん5日間は職場には顔を出せません。そして、それだけでなく、私の場合どんな風邪でも同じなのですけれど、治りかけの数日間のひどい咳き込みが同僚を怯えさせるレベルなのです。
そんな時に引っ張り出してくるのが、ポルトガルで買ったのど飴です。Dr Bayard社の『Rebucados Peitorais』なるのど飴ですが、なかなかの優れもので、かつてポルトに通っていた時期はいつも自分用に買い込んでいました。パッケージや包装は、全然可愛くありません。でも、ポルトガル語がひと言もわからなくても、なんのための飴かひと目でわかります。
そして、スイスのポルトガル専門店でも置いてあることが多いように、どうやらこの飴は現地人にも有名な優秀な飴みたいです。そして、別にまずくもないし、格別効きそうな味でもないのに、舐めている間は咳の発作が起きないのですよ。
問題は、さすがに24時間舐め続けるわけにもいかないこと。なので、いまはどうしても咳の発作を起こしたくないというここぞというときにだけ舐めています。
ポルトガル、行きたいなあ。州都のポルトガル専門店が潰れてしまったのを横で眺めながら、ぼんやりと思っています。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(10)傭兵団 -1-
さて、直轄金山を視察に来た国王レオポルドとお付きのフルーヴルーウー辺境伯マックスは、管理者と周辺村落の接待を受けています。その間、馬丁マウロは外で仕事をしていたのですが……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(10)傭兵団 -1-
金山の精錬所管理者ゴムザーと周辺村落の代表者たちによる歓迎会が行われている最中、マウロは外で馬の世話をしていた。
大勢の歩く音と、武具のあたる金属音が聞こえたので振り向くと、先ほどの傭兵たちがこちらに向かって歩いてきた。
「なんだ。いま、管理人殿も他の方たちもお忙しいのだから、話は後にしてくれ」
精錬所の官吏たちは傭兵団を追い返そうとしている。
「いや、後にしたら国王陛下たちは帰ってしまうじゃないか。俺たちは、フルーヴルーウー伯爵のご一行に話があるんだ」
「無茶を言うな。俺が、そんな取り次ぎができるとでも思っているのか」
「そこをなんとか。お付きに来ていたお城の騎士ゴッドリー様かなんかに取り次いでくれよ」
押し問答が続き、やがて門を守っていた騎士のひとりが、中にいるゴッドリーを呼び出してみると言って中に入っていった。
マウロは、興味深くその様相を眺めていた。
よく見ると、この傭兵団には体格のいい男たちが揃っていた。中心に立っている団長と思われる男は平織りのフード付きフークを着て、布袋の他にクロスボー、大ぶりの剣、さらに鉄製の手首用盾を軽々と抱えている。多くの男たちの背丈はマウロよりも7、8インチは高い上、恰幅もいいので、本氣で向かってきたら護衛の兵士たちも無傷では済まないだろうなと思った。
しばらくすると、中から騎士ゴッドリーが出てきた。ゴッドリーは、フルーヴルーウー城にやって来た時に、マウロが最初に引き合わされたその人でもある。家令であるモラの信頼も厚いし、今回の伯爵夫妻の里帰りに際しても城内外の案内役の代表となっている。無骨だが、忠誠心に篤く熱心に勤めるので、マックスの信頼も勝ち得ていた。
「何の用か」
ゴッドリーは、武装した一団に臆することもなく訊いた。
「先ほど、国王陛下に命じられた整理整頓やっていたおかげで、ご同行の伯爵さまと話ができなかったんでね。終わったもんだから、こうしてやって来たってわけでさあ」
団長とおぼしき男が、太い声で横柄に言った。
「なぜ伯爵様が、お前と話をしなくてはならぬのだ」
「しちゃいけないのかよ」
「伯爵領に関することなら、いま、私がここにいるので、耳を傾けてやらないでもない。だが、正式な手続きも踏まず現れて、いますぐ伯爵様を呼び出せなんて無礼なことは許せん」
「なんだとぉ!」
団長は簡単に頭に血が上るらしく、もう大ぶりの剣の柄に手が行った。騎士ゴッドリーも、門番たちも即座に反応して身を硬くした。遠くから眺めているだけとはいえ、マウロもドキドキした。馬たちの手綱を引き、これからどうしようかと左右を見回した。
「慌てなくて大丈夫だ」
耳元で声がしたのでぎよっとして飛び上がり振り向くと、いつの間にかそこにマックスが立っていた。
「マックスの旦那! ……じゃなくて伯爵様。こんなとこで、なにをやっていらっしゃるんで」
マウロは声をひそめた。
「いや、子供たちの歌というのがひどく音痴でね。うんざりしていたところ、ゴッドリーだけが何か面白そうなことで呼び出されていたので、ちょっと裏から見に来たってわけさ。でも、あれはよくない雰囲氣だなあ」
なにをのんきなことを……。マウロは思ったが、とりあえず口に出すのはやめておいた。チャンバラ沙汰にならないといいけれどなあ。
「待ちな」
そのとき、一団の中から、落ち着いたよく通る声が聞こえた。後ろから男たちを搔き分けてブルーノの横に出てきたその兵士はあまり背が高くなかった。あの女兵士だ。
「何だよ」
団長は、わずかにトーンを落として訊いた。
「我らはフルーヴルーウー伯爵に話をするためにここまで来たんじゃないか! ここで騒ぎを起こしてどうすんだよ」
そういうと、団長は「あ」といって失敗したという表情を見せた。
女兵士は、マウロとマックスのいる馬小屋の方に顔を向けて、堂々とした声で言った。
「幸い、あそこにいらっしゃるお方が、伯爵様なんじゃないのか?」
ゴッドリーは驚いて、マックスに何をしていらっしゃるのですかと言いたげな表情を見せた。かつては平民として育てられたとはいえ、今のところ王位継承権第1位にあるような人物が、護衛もつけずに馬丁と一緒にコソコソしているというのは、非常によろしくない光景だ。
マックスは、肩をすくめてそちらに歩いていった。
「どうも、騒ぎが起こっているみたいだったのでね」
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テニス帝王の引退

Roger Federer, Winner, Centre Court, Wimbledon 2012 by wikimedia
スイスの人たちというのは、あまりミーハーではない国民性を持っていると、私は感じています。そこらへんでどこかの国王がスキーをしていても、往年の銀幕スターが村を歩いていても、大騒ぎしてサインをもらおうというような行動はほとんどしません。
ちょっと有名なタレントが国会議員に立候補しても、まともな政策も言えなければ相手にもしないくらい、冷静な物の見方をする人が普通ですし、冬季オリンピックでも、サッカーのワールドカップでもヨーロッパの他の国にに比べたら、興味のない人は誰がどこと対戦しているのかわからないくらい、人びともマスコミも抑えた盛り上がりをすると思います。
でも、私の印象では、たったひとり例外があって、それがロジャー・フェデラーです。少なくとも私がこの国に住み始めて20年間、ずっとそうでした。この人のことになるとマスコミも人びとも急に大騒ぎをして、少しでも批判しようものならムキになった反論が10倍くらい返ってくる、そんな印象です。
そう言えば、いつだったか世界中がサッカーのワールドカップで大騒ぎしていた最中に、スイスのスポーツ新聞だけフェデラーのニュースを優先していたことがありました。さすがだなあと思ったのを思い出します。
15日に彼が現役引退を表明したときも、帝王らしい大騒ぎになりました。スポーツ新聞だけでなく各紙こぞって1面トップですよ。普段お堅いことしか書かない新聞が何ページも特集。いや、昨日まで大騒ぎしていたエネルギー危機は、戦争はどこいったと、ツッコみたくなる騒ぎようです。
とはいえ、私も実はロジャー・フェデラーは好きです。強いだけでなく、性格もいいみたいです。実は、スーパーで会ったことあるんですよ。威張った感じもないし、有名選手ですという近寄りがたさもない、普通にいい方。どんな御殿に住んでいても、広告でどれほど稼いでいようと、反感を全く持たせないあの佇まいはたぶん天性のもので、皆に愛されるのも納得しています。
実績だけでいったら、彼よりもすごい現役選手は他にもいます。フェデラーの実績として語られるグランドスラム通算20勝という記録に対してナダルは22勝、ジョコビッチは21勝しています。最近の彼は故障に悩まされてコートの上よりも広告で見かけることの方が多かったのも事実です。
でも、そんなこと関係ないのです。彼こそが「テニスの帝王」で、好きなスポーツ選手と訊かれれば真っ先に思い浮かぶ、20年近くそういう存在であり続けたことは驚くべきことだと改めて思うのです。
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新キャラである傭兵団の1人である女兵士と馬丁マウロは顔見知りでした。今回は、その出会いについてマウロがマックスに説明します。
今回はかなり短いのですが、次の話と一緒にするとおかしな長さになるので、これだけです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(9)馬丁と女傭兵
精錬所に戻る道すがら、マックスはマウロにあの傭兵団とどこで知り合ったのかと訊いた。
「傭兵団ではなくて、あの女兵士と面識があるだけでございますよ」
マウロは言った。
「精錬所の管理の話では、《シルヴァ》南部を渡り歩いているわりと実力のある傭兵団だそうだね。フルーヴルーウーにやってくるのも不思議はないな」
そう言ってからレオポルドがマウロに先を促した。
「あれは、先月のことでございましたよ」
マウロは、正確に話そうと、考え考え言った。
「城壁の近くでの話です。荷をたくさん背負った馬を急かしている男がおりました」
マウロが世話をしているような大きく立派な乗用馬ではなく、小さく痩せて農耕にも大して役に立たないだろうと思われる栗毛の荷馬だった。背中の上にも、腹の左右にも多くの木材を括り付けられて、馬はゆっくりと進んでいた。
持ち主は「何をしているんだ。さっさと歩け」と、急かしている。マウロは、馬が持ち主から顔を背け、苛立ちを見せていることに氣がついた。懸命に荷を運んでいるのに、繰り返し急かされることに苛立っているのだ。
「この馬の後ろから、いたずら盛りの子供がひとり忍び寄ってきましたんで」
マウロは、説明した。
その子供は、馬の後ろからこっそり近づいてきて、左右に揺れている尾を面白がって掴もうとした。
「ご存じの通り、馬は背後から襲われることを何よりも嫌います。本能的に蹴って難を逃れようとします」
幸い、重荷が馬の機敏さを邪魔していたので、子供が蹴り殺されることはなかった。だが子供の叫び、持ち主の怒号などが、怯えた馬をさらに興奮させた。暴れた馬は城壁に荷の木材があたった反動で倒れ、持ち主が巻き添えになりともに倒れた。
「その男の足が、馬の荷である木材の下に嵌まりました。私は、すぐに助けに走りました。馬は、持ち主を傷つけるつもりはなくとも、立ち上がれないのと、興奮で暴れます。このままでは、持ち主の足が折れてしまう。私ひとりではどうにもなりません。その時にすぐに駆け寄ってくれたのが、あの女傭兵だったのです」
その女は、まったく怖れた様子もなく駆け寄ると、剣を木材の下に刺し、全身の力を込めて押し上げて、男の足にかかる重圧を軽減した。
マウロは、まず馬を落ち着かせるのが最優先だと、馬の耳に口を寄せて、グルグルと音を立てて囁いた。それは、母馬が仔馬を氣遣うときに出す嘶きに近い音で、馬は暴れるのをやめた。馬が落ち着いたので、マウロも女傭兵を手伝い、わずかな隙間を感じた持ち主が馬の下から抜け出した。
それから女傭兵や他の通行人の助けを得て、馬を立て起こすことができた。持ち主は、先ほどまでの傲慢さはどこへやら、すっかり恐縮してマウロと女傭兵に礼を言った。
「私は、その男に肩を貸して、家まで馬の手綱を引いて行き、その家でご馳走になったのですが、彼女は大したことはしていないと、その場で別れたので礼も受け取っていません。でも、彼女のとっさの助けがなかったら、あの男の足はとっくに折れていたでしょう。いくら傭兵といっても、女の身であの力を出すのは、本当に大変だったと思います」
「見ず知らずの男を助ける、君もとてつもなく親切な男だと思うよ、マウロ」
マックスは言った。
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餌の話

我が家は猫を飼おうとして飼ったわけではなく、向こうから選ばれて住みつかれてしまったので、猫飼いとしての心構えなどが何もなく、問題に直面してから付け焼き刃でネット検索をする、あまり好ましくないスタイルです。
与える餌にしても、はっきりとした哲学などなくて、「なんか買ってこなきゃ、スーパーいってキャットフード探してこよう」という感じで始めました。愛猫家の中には「手作りが一番。添加物はよくないし」とおっしゃる方がいることも知っていて、ちゃんとわかって作るならそれが一番だということもわかっています。
今のところ、私たちはスーパーで買ってきたキャットフードに加熱した肉を混ぜることもある、という感じで用意しています。猫にとって絶対に必要な栄養素や、人間にはよくても猫には毒になる食品もありますし、知らずにあれこれやって健康を損なうことは避けたいと思うからです。
ただ、同じキャットフードも、最初は「まあ安いのでいいかな、我が家は低所得層だし」と思っていたのですが、最近は内容を確認してちょっと高めのものもセールを活用して買うようにしています。
実は、連れ合いが「いつも同じで可哀想だな」とかいって無計画にお高いキャットフードを与えたら、選り好みするようになってしまったという事情もあります。煮干しの粉をかけたり、人間用の肉を取り分けて味をつけないで加熱したものを混ぜたりして食べさせているのです。
現在は2番目くらいに安い餌と、肉の割合の高い少しだけいい餌を混ぜるのを基本にしています。チキンスープを混ぜてもよく食べてくれます。さらにひと口の食べ残しがあるときは、うちの猫も目の色の変わるチューブ状のクリームをかけてスプーンで与えると嘘のようによく食べます。
また、サラミ風のおやつもときどき与えます。上の写真は、サラミを催促中。
ひと冬、寝るところもなくガリガリに痩せて彷徨っていたことを知ったので、「催促したらそこそこおいしいものが食べられる」くらいの生活は許してあげたいですよね。
最近は、スーパーの広告で一番にチェックするのが猫の餌のお買い得情報です。先日もわりといい餌が50%オフだったので、なくなる前にとあわてて、急いで買いに行きました。
大型犬などに比べたら食べる量も少ないですし、家計を圧迫するほどの値段ではありません。それに油断して、猫エンゲル係数はだんだん上がっていっています。
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【小説】水上名月
今回の選んだのは、月琴です。9月といったら月見の宴かなと思って。とはいえ、平安時代と中国の仙人のコラボ作品なので、若干イレギュラーな感じかも。現在の中国楽器としては
とくに読む必要はありませんが、今回の話に出てきた翠玉真人という(ワイヤーで空を飛ぶイメージの)仙人は、以前『秋深邂逅』という作品で書いた人です。

水上名月
弾きはじめに、ためらうごとくに長い間をとった指は、ひとたび弦をかき鳴らすと、えもいわれぬ速さで走る。姉や妹が嗜みとして弾いていた箏や琴の音色は、退屈とは言わぬまでも生氣なく空に消え入るようであったが、今宵の客人の奏でる異国の旋律は、湖水に波をおこし月影を激しく揺らす。
今宵、父の館では南の池に龍頭鷁首の舟を浮かべ月を愛でているはずだ。藤原中納言といえば、政の中心にいるとは言いがたいが、右大臣にも左大臣にも与することのない局外中立の風流人として争いに巻き込まれることを好まぬ小心の殿上人たちに慕われている。
三郞良泰は、方違いでひとり山科の館に来ることになったが、父に請われてここに滞在する客人をもてなすことになった。父藤原中納言が、この客人を都の屋敷にではなく山科の別邸に招き入れたのには理由がある。
この客人は青丹養者なる陰陽家であり、唐人である。陰陽家とは、官吏である陰陽師ではなく、私的需要を満たす技能者である。三郞は、父中納言より客人が異国の陰陽家と耳にして、言葉の通じぬ得体の知れぬ術士の相手などは難しいと慌てたが、実際に逢ってみて杞憂とわかった。言われなければ唐人であるとはわからぬほどこちらの言葉を話し、しかも三郞とさして代わらぬほど若い男であった。
父中納言が、なにゆえこの男を秘密裏に厚遇して迎え入れているかを、三郞は知らなかった。だが、兄太郎良兼が左大臣の三の姫と右大臣の四の姫と同時に艶事を起こし苦境に立たされた折、奇妙なほど穏当な措置を得たのはこの男の力によるものではないかといわれていることだけは知っていた。
今宵、客人は珍しく唐風の装いだ。
「青丹どの。貴殿がこのように風流なお手前をお持ちとは存じませんでした。これはなんという曲なのでしょうか」
「張九齢の『望月懐遠』につけられた曲のひとつだ。作曲者は知られていないが」
「それはどのような詩でございましょうか」
客人は、幼子を眺めるような微笑み方をしてから、月を振り仰ぎよく通る声で吟じた。
海上生明月 天涯共此時
情人怨遙夜 竟夕起相思
滅燭憐光満 披衣覚露滋
不堪盈手贈 還寝夢佳期張九齢『望月懐遠』
(意訳:
煌々と輝く月が海面より昇り、遠く離れた者が同じ月を共に仰ぎ見る
長き夜を恨めしく過ごし、ついには起きて互いに想う
灯を消してわずかな月光を愛でるが、着た衣は夜露に濡れている
月光を盃に満たし贈ることはできない、逢える日を夢見てまた寝よう)
三郞は、直垂の胸のあたりを握り、水上の月が歪むのを見つめていた。その様子を見て取ると、客人は切れ長の眼をさらに細め、怜悧な表情には似合わぬほどの情感を込めて弦をかき鳴らした。三郎の心は、その音色に誘われ嵯峨の小さな寺に泳いでいた。
黒方香で板間より天井までもが焚きしめられた小さな仏間。置かれた几帳の隙間より菊花の薫き物が漏れ出して、かの女の衣擦れが三郎を吸い寄せていた。到着するまではあれほど心急かされていたのに、その瞬、この禁を破れば取り返しのつかぬ事になるという予感におののいた。
だが、几帳の奥にいたその女を引き寄せ、黒く底の見えぬ瞳をのぞき込んだときに、三郎の逡巡は吹き飛び、そのまま朝まで寝乱れてしまった。
嵯峨の姫が、入内を控える身ということはわかっていた。だがあのたおやかな筆蹟と、心絞られる歌で誘われて三郎の分別は闇夜に紛れてしまった。
まだ、事は世間には広く知られていない。だが、政争に巻き込まれることを何よりも嫌う父中納言は、今宵三郎を方違いとして寂しき山科の館に押し込めた。
だが、父の裁決はまことに事を鎮めるのか。むしろ三郎の心に投げやりな思いと、執着の火を解き放っただけではないのか。
胸元に忍ばせた香袋には、紙に包まれた長い髪が入っている。あの夜に二たびの逢瀬が許されないのならばとお互いに交わしたものだ。
「青丹どの」
三郞は、客人に呼びかけた。
「何か、三郎どの」
「貴殿は、ただの陰陽家ではないと聞いています。私と変わらぬほど若く見えるが、そもそも奈良の都の古より年もとらずにおられるとも。貴殿が玄宗皇帝の頃に我が国に来られたというのはまことですか」
客人は、是とも否とも言わず、おかしそうに含み笑いをすると月琴を置いて二人の盃を満たした。
「それが貴殿の欲念と何か関わりがありましょうか」
「貴殿は、本当は青丹なる名ではないのでしょう? 唐からいらした異国びとであられることは間違いないのでしょう?」
三郎がなおも食い下がると、客人は口先だけで笑いながら盃を口に運んだ。
「さよう。本来の名は丁少秋と申します。が、かの地でもその名を知るものは少なく、往々にして翠玉と呼ばれました。その意味を知る、この地の誰かが青丹と呼び始めました。そして、晁衡大人に誘われ道を極める乾道として船に乗りこの地に降り立ったことはまことです」
三郎は、息を呑んだ。晁衡という名が阿倍仲麻呂に唐で与えられた名だということぐらいは、かろうじて知っている。だがそれがまことだとしたら、目の前にいるこの男は少なくとも齢二百五十を越えている。もちろん奈良の都などという馬鹿げた噂に乗じて、陰陽家の経歴に箔をつけんとしているのかもしれぬ。あるいは、くだらぬ問いに益体もない答えで返しただけやもしれぬ。だが……。
「では、貴殿は仙丹を手に入れたのですか、翠玉どの」
身を乗りだして訊く三郎に翠玉は皮肉な笑みを消した。
そして、再び盃を口に運ぶと静かに答えた。
「ひと粒、服用すれば、不老不死を得て天に昇る丸薬。それを手に入れて手早く仙境に達しようとは、秦の始皇帝以来、多くの権力者の願うところ。それがいまだに達せられておらぬのは、何故とお思いか」
「仙丹など存在しないということですか。それとも、かつての皇帝は不死には値しないということでしょうか」
三郎が問い返すと、翠玉は再び口元をほころばせた。
「さよう。丸薬ひとつでたどり着くような道ではござらぬ。また、権力を握ったままでその境地に達することはできませぬ。道は、手放すことによってのみ見つけられるのですから」
月は、高く昇っていた。三郎は、池の上に揺らぐ月影をじっと睨んでいたが、やがて翠玉に向き直り口を開いた。
「私には、惜しい物など何もありませぬ。藤原の家は兄上が継ぐでしょうし、私には大した官位も未来の展望もありませぬ。これまで学問も武芸も一心不乱に精進して参りましたが、それが報われることもなさそうです。それどころか、父上らの足を引っ張る厄介者として、月夜の宴にも招かれぬさま。できることなら浮世を離れ、不老不死の仙境にいたりたいものです」
翠玉は、目を細めて三郎を見た。
「道の道は、世の者がゆく道とは異なる。貴殿が期待するような好ましい状態とは限らぬぞ」
「そのようなことをおっしゃらないでください。この中秋の宵に、貴殿とこうして月を眺めながら酒を酌み交わしていることは、ただの偶然には思えません。不二の身となる機が己の生に再びあるとも思えませぬ。どうか、この私を貴殿の弟子とし、その道をお示しください」
翠玉は、手を不思議な具合に動かし、そのまま三郎の目のあたりで動かした。
それと同時に、空は雲で覆われ、池の上の月影は消えて暗闇が広がった。ちゃぽんと魚が飛び跳ねる音がしたと思うと、すぐ目の前を青銀色の鱗が通り過ぎた。なんだこれは。三郎が目をこすると、目の前は水の中にいるようにゆがみ、大きな銀の鯉の背に翠玉がまたがってこちらに手を差し伸べているのが見えた。
三郎は、これは翠玉の術なのだと理解して、迷わずその手を取り、巨大な鯉の背に、つまり翠玉の後ろにまたがった。
鯉はぐんぐんと上昇していく。上の方には明るい光が差し込んでおり、ますます上がっていくとそれは大きな丸い月であることがわかった。不思議なことには、水の中にいるというのに、全く息苦しいことはなく、その澄んだ水は遠くまでが見渡せた。下方には京の街並みが広がり、御所や止ん事無き方々の屋敷、尊い寺社や鎮守の森や川がよく見えた。
「おっ母! 見て。竜が飛んでる!」
下方からの声に三郎は驚いた。しがみついている銀の鱗の持ち主を改めて見ると、鯉にしては胴がずっと長くなっており、いつの間にか魚の顔つきが角を持つ竜に変わっている。
「違うでしょう。月にかかる雲がそう見えるのよ」
「じゃあ、あの音は何?」
「さあ。お館で月見の宴をなさっているのでしょう」
翠玉の奏でる『望月懐遠』の音色は、冷たい銀色の鱗のように京の町に降り注いでいる。青白い竜は、まっすぐに昇り、やがて子供と母親だけでなく、御所も寺社もまとめて小さな黒い塊になり山の合間に縮こまっていった。
「翠玉どの、どちらへ行かれるのですか」
「貴殿が、道を正しく見る事のできる高みに」
煌々と照らす月光と『望月懐遠』。遠き山の漆黒を見るだに、嵯峨の姫の黒髪を思い起こされ、胸が締め付けられる。胸元をかきむしると、香袋の氣配はしっかりと感じられた。
竜が近づいていくと、大きく輝かしい月は、大きな山の開口部であることがわかった。黄金のどろどろとした液体がぐつぐつと沸き返っていて煙が上がっている。これまで上に登っていると思っていたのが、山の火口に降りてきていたのだ。
見れば、その液体の際に浮かび酒盛りをしている人びとが見える。黄丹や深紫の直衣を纏った殿上人のようだ。あり得ぬほどにひどく酔い、盃を投げ合って笑い転げていた。そして、その弾みでひとりの着た深蘇芳の裾が灼熱火に触れた。
火はあっという間に燃え上がり、叫び声を上げる男を包んだまま灼熱火の中に引きずり込んだ。酒盛りをしている仲間らは、それを見てさもおかしそうに笑いながらさらに酒を注ぎ合った。
「これはよい。残った酒と肴は我らのもの。さあ、もっと飲もうぞ」
「なんてことだ。あれほどの尊き方々が、あのように浅ましい為業を」
三郎は、震えながら言った。翠玉は笑った。
竜は、さらに火口に近づき、あまりの熱さと明るさで三郎は思わず目を伏せて翠玉にしがみついた。
「おやめください。このままでは、私どももあの火に飲まれまする」
だが、翠玉は動じず、竜も速度を緩めなかった。地獄の灼熱火に包まれたと思った途端、ぐつぐつと煮えかえる音も、殿上人たちの笑い声も消え去り、静かな涼しい風が三郎に触れた。
恐る恐る顔を上げると、竜は海の上を滑っていた。真下には煌々と輝く月が映し出されている。
「ここは何処なのですか。先ほどまでいた京の都は、そして、あの火の山は……」
三郎が問うと、翠玉は答えた。
「貴殿は今ここにいる。先ほどまでどこにいたのかなどと思い悩む必要はない」
海原は恐ろしいほどに広く、月影以外はどこまでも続く凪いだ水面だけだった。見慣れた双岡や船岡山が、御所や護国寺の堂々たる緑釉瓦を抱いた屋根が、都のざわめきが、牛車のきしみが、扇を閉じる微かな音が、焚きしめた香の薫りが、全くどこにもなかった。
唐の盤領袍を着て、聴き慣れぬ旋律にて月琴を奏で、青白い竜にまたがる異邦人以外に頼みになる者がいないことに、三郎は戦慄した。
「道の道は、己を極めるのみ。己以外を頼みにしてはならぬ。長く生きれば、父母や友はもとより、我が子やその子すらも年老いて先に鬼籍に入ろう。身につけし衣冠は擦りきれ、屋敷田畑は狐狸の住処となる。それを怖れるならば、この道を求めることは叶わぬ」
三郎は、おのれの直衣を見た。色褪せすり切れて朽ちかけていた。震える手で香袋を取りだし、愛しき嵯峨の姫の髪を見て心を落ち着けようとした。だが、やはりすり切れた香袋の中から現れたのは長い白髪だった。
悲鳴を上げて香袋を取り落とした。白髪とともに破れた香袋は海へと落ちていった。振り返った道士はわずかに笑った。
竜は首を下げて海へと突き進んだ。風に飛ばされそうになった三郎は、瞼を固く閉じて翠玉の盤領袍にしがみついた。助けてくれ。どこでもいい、いつものどこかに帰りたい。屋敷でも、詰所でも、牛車の中でも、どこでもいい。
風がおさまったように感じたので、三郎は恐る恐る瞼を開けた。目の前に、翠玉が向かい合って座っている。彼と三郎は、龍頭鷁首の舟に乗っていた。見回すと、そこは山科の屋敷の池だった。先ほどまで座っていたはずの釣殿には、高坏と蔀が見え、灯明や肴もそのままになっている。
翠玉は何事もなかったのごとく『望月懐遠』を奏でている。三郎は、懐に手を当てた。香袋はそこにあった。直衣も香袋もすり切れてはおらず、すべてが三郎の慣れたこの世のものであった。
「私は……」
「道の道は、貴殿の考えているようなものではなかったであろう」
三郎は大きくため息をついた。
「不老不死の道を究めれば、殿上人も私を尊び、父も私を認め、そして姫との縁も道が開けると思っておりました」
翠玉は、それ以上何も言わなかった。だが、三郎には彼の言いたいことがわかった。この世の栄華を求めている者の進む道ではないのだと。
舟は静かに釣殿へと向かった。満ちた月は池の上を青白く照らしていた。
(初出:2022年9月 書き下ろし)
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それは簡単にはわからない

わりと最近、有名なモデルのカップルの離婚が話題になりました。よくあるような「不倫が原因」というのではなく、公表したコメントから類推するにどうも1人の性自認が原因だったようです。
これって、どんな他のカップルの破局とも同様に、本人たちの問題で外からどうこう言うことではないと思いますし、ましてや当の配偶者が納得しているのなら、それ以上話題にする必要もないと思います。
私がこの話題を取りあげようと思ったのは、実際に知っている人が似たようなことの当事者になっているからです。そのモデル・カップルのケースと同じかどうかは、もちろん私からは判断できませんが、今回は私の知りあいの女性(元男性)Aさんのことを中心に書こうと思います。
Aさんとは別に、私にとってはとても大切な日本の友人の中に、2人いわゆるLGBTQにカテゴライズされる存在の人たちがいます。Bさん、Cさんとしておきましょう。この2人はどちらも生まれたままの性を手術や役所の手続きによって変更することはしていません。
ただし、私は、2人ともに「あなたのジェンダー自認は具体的にはなんなのか」という質問をしたことはありません。恋愛対象が同性なのは知っていますが、自分の内面を生まれ持った性と違うと認識しているかどうかは、また別の問題です。私や他の親しい仲間たちの間でのカミングアウトはとても早くてもう何十年来それが普通だと受け入れていますが、日本という国では「誰かと同じ」であることに価値を見いだす人がまだ多いので、学校卒業後の人生で囲まれている人たちに100%公表するというのもしんどいのではないだろうかと考えています。
私がBさん、Cさんにもっと詳しいことを訊かないのは、それが私の好奇心を満足させる以外、なんの役にも立たないことだからです。その質問に傷つき敏感になっているかもしれないのに、訊いたらまずいだろうなと慎重になっている間に、私と2人の距離は1万メートル離れてしまいました。そして、この手の話は、メールでするようなものではないのです。(実は、チャンスがあったのに、私は戸惑いから無難な対応をしてしまいました。まだそのときのことは少し悔やんでいます)
さて。話はAさんに戻ります。Aさんはトランスジェンダーで、書類上も変更し、現在もホルモン療法を続けています。私がスイスで知り会ったときには既に女性でした。
Aさんは常にファッショナブルです。そして、それが彼女の人生における苦悩の始まりだったそうです。彼女は、インタビュー形式のドキュメンタリー本で、彼女の体験を明らかにしていてその本を貸してもらったので、普段なら到底訊けなかったような詳細まで、私が知ることができたのです。
子供の頃から、女装に興味があり、隠れて母親の服を着てみた、というのが彼女の男性としての違和感の始まりだったようです。そして、Aさんはそれを「罪」と捉えていたようです。その罪の意識から解放されるには、「自分は男性ではなくて、女性なのだ」という方向に進まなくてはならなかった。私はそう分析しています。
私は、「HENTAI大国」日本に慣れすぎているのかもしれません。「女装したければ、(そういう界隈で)すればよかったのに」とどこかで考えてしまうのです。
また、私が女性だからよけいそう感じるのかもしれません。私は男装をすることに罪の意識などカケラも持ちませんし、世間が後ろ指を指すこともないでしょう。反対には、もっといろいろな抵抗があることもわかっています。でも、男性ジェンダーの象徴であるあの器官をカットするほどの罪とはとても思えないのです。それに、女性であることで、男性よりも不利益を被ることもありますし、反対に女性に生まれたから得られるアドバンテージ(若くてきれいだとちやほやされるとか)を、現在のAさんがたやすく得られるとは思いません。
「罪の意識を感じずに、後ろ指も指されずに、女性の装いができること」。それはAさんにとっては夢にまで見た大切なアイデンティティーだと思うのですが、私がそれに全く価値を見いだしていないのは、私がおしゃれに全く興味が無いタイプだからだと思います。「女装/男装が好き/嫌い」という以前に、そもそも興味が無いんです。
清潔だけには氣をつけていますが、服装を考えるのが面倒なので特別なTPOがないときはほぼ常に同じ格好をしています。Tシャツとパンツかジーンズに、シャツかカーディガンかジャケット。Tシャツは選ぶのが面倒なので色違いを用意して順番に着ているだけです。石は好きなのでときどきアクセサリーはつけますが、おしゃれでつけているわけではありません。髪も時間がかからない楽なカットをずっと替えませんし、ほぼノーメークで、ネイルはしたこともありません。スイスという国にはノーメークやストッキングをはかない女に、あれこれ言うような人などいないのです。
でも、私はそのことで性自認に悩んだことはありません。恋情を感じる相手は常に男性でしたが、それで「性自認や恋愛指向がノーマル」だと思ったこともありません。たまたまその人たち以外に興味をもたなかっただけです。生まれ持ったジェンダーがアイデンティティー・プロブレムの要因になったこともないのです。女性差別に憤ることはあり、日本の女性の扱いにイラッとしたことはありますけれど。
だから、思うのです。女性らしいといわれる装いと、女性であることは同じではないのだと。もっといえば、「自分であること」とその服装は、あまり関係ないのだと。ファッションに何よりも興味がある人にとっては、「自分であること」イコール「自分らしい装い」でしょうが、それは万人に言えることではないのだと思います。
Aさんは、いつも素敵な服を着ています。会う度にきっちりメークをしていますし、2週間に1度はネイルサロンにも通っています。きっと彼女は、その度に幸せを感じていると思います。私はそのことを祝福しますし、よかったなとも思います。でも、彼女が常に戦い続けているパニック症候群や、ホルモン療法の副作用と思われるさまざまな不調、そして、人生でこれ以上はないというほどの愛だった元奥さんとの破局を思うと、複雑な思いに囚われるのです。Aさんが女性となってからも数年間は一緒にいてくれた元奥さんは、結局は別れを決意しました。
Bさん、Cさんの場合も、恋愛対象が同性だと自認・カミングアウトしても、その後望んだ恋愛相手と出会うことは容易ではなかったようです。少なくともCさんには家計を共にするパートナーはいません。探す界隈が変わればチャンスは増えますが同性ならば誰でもいいわけではない。これは異性同士にも言えることです。私の世代は、経済的に自立している女性が多いせいか、独身を選んでいる人が多いので、Cさんたちのケースが特殊だといいたいわけではありません。つまり、女性だから好きな男性すべてに愛されるわけでもないし、レズビアン女性だから好きな女性につねに愛されるわけでもないということなのでしょう。男性も然り。
そういえば、私が書く小説の中にはゲイのカップル(既にハッピーな状態)はいますが、同性同士の恋愛模様はほぼ書きません。自分の周りの当事者の繊細な苦しみを考えてしまうので、なかなか手を出せないのです。なぜなら、今回私が考察しているように、その苦しみを私自身が理解しているとはお世辞にも言えない状態だからです。男女間の普通の「ぐるぐる」は、自分なりに咀嚼しているものなので見てきたように書いていますが。
Aさんの場合は、少なくとも男性であった頃の恋愛対象は女性で、愛する人と結婚することもできました。彼女を失うことを怖れて、カミングアウトがとても遅くなったとインタビュー本には書かれていました。Aさんは元奥さんだけでなく、ご両親やお兄さん、そして職場の同僚の理解も得て、女性として受け入れてもらいました。誰もがとても驚いたことと思いますが、それでも精一杯の誠実さと優しさで決断を認めてくれたことはAさんにとっては大きな支えだったと思います。
現在のAさんは、奥さんのいなくなった家にひとり住み、女性としての人生を歩んでいます。大きな苦しみと決断との後に、彼女が得たものと失ったものは大きく、そして、それはもう元に戻せるものではありません。堂々と女性として装い、女性として生きることを選んだ決断について、彼女がどう感じているのかわたしにはわかりません。彼女自身にそれがわかっているのかも、わからないのです。
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