マイエンフェルトでの貴重な体験

この日はとても内容の濃い1日でした。私なら3日でやるような内容を1日にまとめて経験しました。みなさん日本でもお忙しいので、全ての予定がぎゅっと詰まっていたのでしょうね。
プレッティガウの牧くだりは、14kmくらい離れていて、我が家からはマイエンフェルトの方がちょっと遠いのですが、牧くだりで駐車場の混み具合がわからなかったのと、会えなかったら大変だろうということで、マイエンフェルトのホテルに車を駐車させてもらいそこからメンバーとバスで行きました。
そして、マイエンフェルトに一緒に戻り、午後の予定もそのままくっついていろいろと見せていただきました。午後は、ハイジ村のディレクターが案内をしながら日本のアニメ『アルプスの少女ハイジ』に関する今後の展示についてのブレーンストーミングをしていたのですが、わたしはそこで即席の通訳みたいな事もしてきました。
マイエンフェルト自体はもちろん何度も言っていましたが、実はハイジ村は行ったことがなかったのです。このハイジ村、以前と比べて大がかりな拡張中だそうで、子供や海外からの観光客だけでなく、グラウビュンデンの18〜19世紀に興味のある人なら有料でも訪れる甲斐のある施設に生まれ変わっています。

アニメ『アルプスの少女ハイジ』の関係者は、グラウビュンデン州やマイエンフェルトにとってはもちろん超VIPです。世界中から観光客が押し寄せるのは、このアニメの存在があってこそですから。なので、ものすごく丁寧に案内してくださるのですが、それが私にとってはご想像の通り「ネタ」の宝庫でした。
例えば当時のマイエンフェルトの学校ではどうやって教えていたか、男の子は窓に近い方に座り、女の子は暗い方だったのはなぜか、教師はどこでどんな風に生活していたかなど、日本にいたらまず手の届かない情報を新たに得ました。また当時の脱穀の方法や臼で粉をひく実演も、田舎暮らしでもそうそう見られない貴重な体験でした。
それだけでも、早起きしていくだけの価値は十分にあったのですが、せっかく日本からのお客様がいらしたのだからと、ディレクターの方が伝手をつかい、一般人はまず目にすることのできない個人のお屋敷に入れていただきました。

スイスはヨーロッパの他の国のように王族や国家元首になるような貴族はいないのですが、それでも一般人とは違う人たちがいてひっそりと暮らしています。今回お邪魔したのはそのうちのおひとりで、マイエンフェルトに個人蔵としてはスイスで最大のライブラリーを持っていらっしゃいます。
お屋敷といっても、サイズは修道院くらいあるんですよ。その中に図書館のようになっている部分があるんですが、一番古い本は12世紀のもので、もちろんそれは手書きの写本です。そして、歴史、数学、物理、薬学などなどそれぞれの書架に豪華な装丁の本がぎっしりあるわあるわ……。
これだけの貴重な本を維持するだけでも大変だと思いますが、それが全て個人所蔵なんです。
基本的に田舎の底辺階層に紛れて暮らしている私が、こうしたすごい方とお知り合いになるチャンスはほとんどありません。今回貴重なライブラリーを見せていただいたのは、マイエンフェルトにとっての超VIPと行動を共にしていたから降ってきたラッキーでした。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(12)計画 -1-
フルーヴルーウー辺境伯領だけに伝わる奇祭『
ご機嫌な国王レオポルドは、王都から連れてきた護衛兵たちに「祭を見にいってもいいぞ」と言い出しました。ようやくこの作品の本題にたどり着きました。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(12)計画 -1-
「そなたも行きたいか」
国王に訊かれてフリッツは、首を振った。
「この城の皆も祭を楽しみたいんじゃないのか」
フリッツの疑わしげな視線を避けるように、レオポルドはマックスに話を振った。マックスもヘルマン大尉と似た微妙な表情をした。
家令モラは、困ったような顔でマックスを見た。
「そうおっしゃられましても、護衛兵の皆様がこの場を離れるのならば、城の警護の騎士の方でお守りしませんと……。もし、ご用事がとくにございませんでしたら、お言葉に甘えて料理人や召使い、侍女たちは交代で場を外させていただきますが……」
「僕たちの用事は就寝時間まで氣にしないでくれ。ラウラ、いいだろう?」
「もちろんですわ」
レオポルドは、たたみかけた。
「そなたたちが心配しないで済むよう、余たちはまとめて客間にこもっているから、騎士たちも交代で十分だぞ。安心して行ってこい」
結局、レオポルドの滞在する客間に、マックス、ラウラ、フリッツ、そして給仕たちの代わりに飲み物などの要望を聞くためにアニーが残り、扉の外に2人の騎士を残しただけで、他の皆は城内の持ち場に戻るか、交代で祭のために外出していった。
モラや騎士たちの足音が聞こえなくなり、かなり静かになると、マックスはレオポルドの方を向いた。
「何を企んでいらっしゃいますか」
「なんのことだ」
「体よく人払いをしたんでしょう」
「よくわかったな。じつは、そなたたちに話があるのだ」
レオポルドは、客間の中央にある円卓を目で促した。マックス、ラウラがまずその場に座り、まだ立っていたフリッツもレオポルドが椅子を引いて座るように示すと、肩をすくめて従った。レオポルドは、トーンを落として口を開いた。
「いまトリネアで福者マリアンナの列聖審査が進んでいるのを知っているな」
「はい」
「で、余は来月トリネアに行くと伝えてあるのだ」
つながりの見えないマックスは、首をかしげた。察したヘルマン大尉が補足した。
「来月の聖母の祝日に教皇庁からアンブロージア枢機卿が列聖審査でトリネアを訪問するのです。陛下は枢機卿と謁見したいので、その予定に合わせてトリネア候を訪問したいと打診したのです。候女様との縁談だけで訪問を打診すれば断られる可能性も高かったので、苦肉の策です」
「それほど信心深かったとは知りませんでした」
「信心深いとはいえんが、それなりにはな。だが、金まみれの坊主どもに平伏すつもりはないぞ。むしろ、勝手にはさせんと、折に触れて牽制しなくてはならない相手だ」
レオポルドは、杯を傾けつつ答えた。
「その件に関しては、私もなんとかしないと……」
マックスは、ため息をつく。
「どうしたのだ?」
マックスは、先日の市場の場所代の件と、ベッケム大司教との確執が起きかけていることを語った。
「ともかく、教会だけでなくベッケム家が後ろに控えているんで、押さえつけるだけだと、後々面倒なことになりかねないんですよ」
「ベッケム家か。ルーヴランのキツネだからなあ、あの家は」
「そうなんですよ。それに、へそを曲げられると聖バルバラの聖遺物の公開を取りやめるなどの嫌がらせもしてきそうなんですよね。でも、こちらにいるうちにある程度の合意点を見つけておかないと、こちらがいないのをいいことにますます増長するだろうしなあ」
すっかり領地の問題に没頭しているマックスに、レオポルドはトーンを変えて言い放った。
「その話は、いや、他の件も、さっさとカタをつけてくれ。できれば、今週中に」
「なぜですか?」
「トリネアの件で、そなたの力を借りたいのだ」
「でも、あちらに行くのは来月ですよね?」
「その前に少し時間がほしいのだ」
「どのくらいですか?」
「うむ。時と場合によってだが、謁見までの総ての時間を借りることになるやも……なんといっても戴冠して以来初めての休暇を取ったことだしな」
「なんですって?!」
一同は身を乗り出した。いままで静観していたフリッツ・ヘルマンもぎょっとして身を乗りだした。
レオポルドは、手をひらひらとさせて、落ち着くように促した。それからにやっと笑うと、杯を飲み干した。
「今回はわが国から持ち込んだ縁談なのだが、トリネア候国というのは微妙な国でな」
「とおっしゃると」
「センヴリ王国に属しているが、何代にもわたる血縁でカンタリア王国とのつながりがとても強いのだ。候妃は現カンタリア王の従妹だし、現に4年前に候女と余の縁談は母上の取り巻きの差し金だったはずだ」
「だから、話もよく聴かずにお断りになったんじゃないですか」
ヘルマン大尉が口を挟むと、レオポルドは肩をすくめた。
「当時は、トリネアの世継ぎじゃなかっただろう。余の得るものは何もなかったではないか」
「陛下は、このお話に慎重になりたいと、そういうことなのですか?」
マックスが訊いた。
「そうだ。実を言えばトリネア港は喉から手が出るほど欲しい。冬にも流氷の煩いのない港をグランドロンは持っていないからな」
《中央海》に面したトリネア港は古くから《真珠の港》と歌われている。風光明媚なだけでなく、その港の価値が特産物の真珠にたとえられるのだ。水深が充分にあるにもかかわらず波が起きにくい穏やかな湾に抱かれている。また、背後にある《ケールム・アルバ》が天然の要塞となっており、良港を望む各国からの侵略を防いでいる。
「とはいえ、それだけで話を進めるのは早計だ。トリネアが余が思っている以上にカンタリア寄りであると、グランドロンの宮廷に災いを呼ぶことになるかもしれん。余は、話を進める前によく見極めておきたいのだ。前回みたいに騙されるのも困るのでな」
マックスは、肩をすくめただけで何も言わなかった。本人の望みではなかったとは言え、ルーヴランの奸計の中心的役割を果たしたラウラがその場にいるからだ。
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牧下り

10月最初の土曜日と日曜日、プレッティガウ谷で『Prättigau Alp Spectacle』というイベントがありました。
プレッティガウ谷というのはスイスグラウビュンデン州の北部、ランドクオートからダヴォスへと向かう地域にある谷です。イベントそのものは2日間あったのですが、日本からの友人は牧下りを見たいということで、土曜日に出かけていきました。
「ハイジ展」関係で渡瑞したみなさんで、その日のお泊まりは関連の深いマイエンフェルト。現地で待ち合わせるとはぐれる可能性もあったので(このイベントに参加したのは私も初めてでした)、マイエンフェルトのホテルで合流しました。
牧下りというのは、夏の間、山の上(アルプ)で放牧されていた牛などの家畜たちが、秋になり村に降りてくる時に、牛たちを飾りつけた行列で祝う伝統行事です。秋にはスイスの各地で大きなものから目立たぬものまで行われています。フランス語の「ラ・デザルプ(La désalpe)」という言葉が有名ですが、ドイツ語圏では「アブツーク(Abzug)」、ロマンシュ語では「シュカルガダ(Scargada)」とそれぞれいいます。
大きなカウベルをつけた牛たちは花で飾られます。場所によっては「その年もっとたくさん乳を出した牛」がもっとも立派な花冠をつけて讃えられる事もあるようです。今回見学した牧下りでは、とくにそうした特定の牛の功績は語られていなかったようですが。
今回のイベントは、農家の行事である牧下りと、地域観光振興を組み合わせてあり、チーズやサラミなど名産品の屋台販売や、子供たちの牧農家体験コーナーなど牛の行列以外も楽しめるようになっていました。あちこちで弦楽器とアコーディオンによる民族音楽が演奏されていいました。
実はこの日の天氣予報は雨だったのですが、幸い私たちがイベントを見学している間は雨に降られず、それどころか牛たちの行列の時間は陽光がさしていたのです。日本からの皆さんはそれぞれに楽しんだようです。屋台のごはんもいろいろとありましたが、「ハイジ」つながりでやっぱり溶けたチーズでしょうと、ラクレットを食べました。私は車だったのでノンアルコールでしたが、彼らはグラウビュンデン州のワインも楽しんでいました。
私たち住民には、家畜や地元の名産品などは日々の生活で見慣れたものですが、都会からの見学者、とくに海外からの観光客であればこれだけの「ザ★スイス」のオンパレードを、しかも半日ではなかなか見ることができないと思います。これを読んでいる日本の皆さんも、機会があればぜひ予定に組み入れることをおすすめします。
実際のイベントの様子は、2017年のものですが開催者の動画があったので貼り付けておきます。
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フルーヴルーウー辺境伯領だけに伝わる奇祭『
マックスのご先祖さまである『男姫ジュリア』にちなみ、男装した女性たちが行列をなす特殊な祭。初めて領主として観るマックス、噂でしか観たことのなかった国王レオポルドは観覧席で見学中です。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(11)祭 -2-
旧ゴーシュ邸と大聖堂に面した広場に観覧席が儲けられていた。男装をした女性たちの行列はここから出発して、城下町の主要な通りを練り歩き再び戻ってくることになっている。
大聖堂前の広場には市場が立っているが、週に一度の市場とは違い、フルーヴルーウー辺境領の特産品、センヴリを通ってきた珍しい舶来品、それに王都ヴェルドンと違いこのあたりではまだ普及していない鉄製農具なども所狭しと並んでいた。旅芸人たちの賑やかな演奏、角ごとに立ち腕を競う吟遊詩人たち、竹馬靴で倍の身長になって街を練り歩く者どもが華やかさを添えている。
先日の騒ぎの後に、マックスが大司教側の場所代変更提案書を保留にしたため、市場の場所代は例年通りである。祝祭は、仕事に追われる人びとの息抜きであると同時に、城下町や各地から集まった商人や農民たちが、新しい技術を見聞し情報交換する場ともなっている。
行列の先頭は旗持ちの女たち。それに角笛と太古で祝祭歌『
「おや。あれはラウラの侍女の……」
レオポルドが、行列の前方、ラウラの近くに控える馬丁の服装をしたアニーを指した。
「ああ。アニーですね。あれは兄のマウロから借りてきたのでしょう」
フリッツ・ヘルマンが答えた。
レオポルドは、おや、という顔でフリッツを見た。
「なんですか。陛下」
「いや、そなたが侍女の名前を覚えるなんて珍しいなと」
レオポルドは子供の頃からフリッツをよく知っており、女性に対して無愛想と無関心が過ぎることをつねづね呆れていた。高位の女性の名前を取り違えるような失礼はかろうじてしないが、侍女や給女に至っては等しく壺や皿と変わらぬ物体に見ているに相違ないと思っている。
フリッツは、ムッとしたように答えた。
「そりゃ、覚えますよ。あんな跳ねっ返りは、めったにいませんからね」
横で聞いているマックスは、アニーがラウラの敵を討とうとレオポルド暗殺目的で王宮に忍び込もうとしたことを忘れていない。あの時は、ヘルマン大尉が尻拭いをしてくれたなと思い出した。
レオポルドが予想していた男装と違い、わざわざ用意された新品とおぼしき衣装を身につけている女たちはあまりいなかった。おそらくラウラと、高官や裕福な商人の妻たちぐらいで、たいていの女たちは夫や親兄弟に借りた着古しの服を身につけている。
だが、その身に馴染んだ服装が、祭の高揚に弾む女たちの勇ましさと相まって、本物の男姫で世界が埋まったかのような錯覚を覚えさせた。
「そなたの先祖に失礼だとは思うが、余はこんな女たちの尻に敷かれるのは遠慮したいな」
レオポルドがつぶやくと、マックスは吹き出した。
「同感です」
行列の女たち、そして沿道の男たちが、男姫の扮装をした新たな伯爵夫人に歓迎の声を上げている。マックスは、ようやく自分たちが領民から受け入れられているのだと安堵した氣持ちになった。
自分が辺境伯であることをずっと知らずに生きてきた。それを知ってからも、これまでは領地とは手紙を通して支配するだけで、領主となったという実感がなかった。
生まれてからずっと貴族としての生活を続けていれば、疑問や不安を持つようなことはなかったかもしれない。だが、彼は物心ついた頃には鍛冶屋の次男という支配される立場の人間になっていた。支配される者の悲哀や、支配する者の特権と傲慢さにも直面してきた。突然自分が国王に次ぐ身分の貴人だと言われても、心はまだかつての身の程を捨て去るほどには新しい環境に順応していない。
領地に着いてから、手探りながらもかつての放浪の経験や老師に授かった知識を駆使し、城の家来や城下町の人びとの意見に接しながら、自分なりの政を試みているが、これでいいのかどうかの確信は持てないでいた。
今日の祝祭では、普段混じることのない貴族と庶民が一堂に会し、共に笑顔で楽しんでいるのを見ることができた。女たちの方が強そうなのはひっかかるが、それでも人びとはそれなりに楽しく祭を祝っている。新しい領主夫妻がひどく不人気なら、行列の女たちや沿道に並ぶ男たちがあのようにラウラに親しげに笑いかけるはずもないであろう。
正しさにはほど遠いだろうが、少なくとも方角は間違っていないのだろう。マックスはわずかに緊張を解いて、差し出された盃を飲んだ。
レオポルドと、マックスが数杯の酒を飲み干した頃、女たちの行列が再び広場に戻ってきた。大聖堂の鐘が鳴り響き、男装した女たちは雄々しく歓声を上げた。
威勢よく杯を干す女たちの群れを離れ、ラウラら貴族の奥方と侍女たちは、城の方に戻っていく。レオポルドとマックスらも一緒に城に戻った。
城の窓からも城下で大いに楽しみ騒ぐ民らの声が聞こえている。彼らは、今宵は夜通し楽しむことになっているのだ。
祝いの午餐が終わった後も、城下の騒ぎの音はますます大きくなり、レオポルドの護衛兵たちは若干羨ましそうに窓の外を眺めていた。
「名に聞こえた奇祭を近しく見る機会だ。お前たち、この後は自由にするから行ってこい」
レオポルドは、上機嫌に話しかけた。
フリッツ・ヘルマン大尉は、眉をひそめた。
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ハイジ展と中島順三さんのこと

2022年7月9日(土)から9月11日(日)まで、静岡県浜松市、浜松市美術館にて「ハイジ展-あの子の足音がきこえる-」が開催されました。テレビアニメーション『アルプスの少女ハイジ』とヨハンナ・シュピーリによる原作『ハイジの修業時代と遍歴時代』の双方からアプローチした魅力あふれる、それにめったに見ることのできない貴重な資料を集めた展覧会でした。
今回渡瑞なさったチームは、作者シュピーリ自筆書簡や原作の挿絵をはじめとする日本初公開の貴重な資料を返還するためと、スイスやドイツで開催される『ハイジ』の展示に関する打ち合わせなど、超ハードスケジュールの日程でいらしたのです。
私は、部外者ながらもグラウビュンデン州においての(ほんのちょっぴりですが)協力者という立ち位置で、こうしたアニメ『アルプスの少女 ハイジ』関係の方がいらっしゃるときにはお目にかかる機会が多いのです。今回は、我が家ではなくて、プレッティガウの牧下り祭と、マイエンフェルトでの打ち合わせに参加させていただき、軽くご案内と通訳まがいのことをしてきました。って、一緒に遊んだというだけですけれど……。

いらっしゃるとわかって、わがままと知りつつ以前から欲しかった九谷焼の小皿とレンゲを購入して持ってきていただきました。これ、とっても可愛いですよね。展覧会の会場でも販売したそうです。
今回の「ハイジ展-あの子の足音がきこえる-」展は、上記にあるように日本初公開の貴重な資料、小田部羊一さんの描かれたお下げだった構想当時のハイジの絵や、48年前のロケハンの写真やメモ、アイデアスケッチ、本物のセルなどめったに見ることのできない貴重な資料が一堂に会したすごい展覧会だったのですが、関わった面子もすごくて今回ならびに以前スイスでお目にかかった日本のハイジ研究者がほとんど関わっておられる他、アニメ『アルプスの少女ハイジ』のプロデューサーだった中島順三さんと、キャラクターデザインを手がけた小田部羊一さんが企画段階から全面協力し、オープニングでも対談をなさっていました。
このお2人、我が家にもお見えになっていて、一緒にバーベキューをさせていただいています。
その中島順三さんが、8月14日に急逝されました。展覧会に水を差すことを氣になされたご家族のご意向で、このことは展覧会が終わるまで伏せられていました。ショックでしばらくなにもする氣がおきませんでした。
お目にかかったのは数回ですが、そのお人柄には毎回感服していました。『アルプスの少女ハイジ』以外にも『母をたずねて三千里』『あらいぐまラスカル』『フランダースの犬』などの誰でも知っているアニメ制作に関わられ、日本だけでなく世界に知られたアニメをたくさん送り出した大人物にも関わらず、いつも謙虚で周りの人のことを立てられる全く偉ぶらない素敵な方でした。
お目にかかる時に、どれほど偉大な方なのかをうちの連れ合いに説明はしましたが、日本的な敬意の示し方を全くわかっていない連れ合いが、友達のように氣易く話しかけてもニコニコなさって、連れ合いの家業であるオールドタイマー二輪車をいろいろと眺めながら楽しく話をなさっていたことも印象的でした。
お目にかかって感じたのは、「表現者としての哲学が作品を作る」ということでした。『アルプスの少女ハイジ』をメインとなって作ったのは、プロデューサーとしての中島順三さん、総監督の故高畑勲さん、キャラクターデザインの小田部羊一さんと、画面構成の宮崎駿さんでした。この4人は日本のアニメ界を長らく牽引してきた功労者であると同時に、みなさん強い哲学を持って作品に関わってこられた方だというのは、私がここで書かずともみなさんご存じだと思います。
子供たちにいい作品を届けたい、その想いが数々の名作を生み出してきましたが、実際に中島さんや小田部さんとお目にかかり創作当時のあれこれを伺って思うことは、創り手の心の中が作品にきちんと表れているのだということです。
現在の世にあふれた作品を見るとき、全てが好ましい作品であるとは思えません。少なくとも日曜日の夜に、小さな子供たちが楽しみにして見るような作品というのは、あまり多くないと思います。アマチュアの表現者ならば、「何を表現しようが勝手だろう」という意見もあると思います。プロとしても「表現の自由がある」「売れることも大切だ」という意見もあるかもしれません。
中島さんは、もちろんおひとりではありませんが、プロデューサーとしてあの作品を作られました。お目にかかって直接感じたあの方のまっすぐで優しい、そして心の中にしっかりと哲学をもたれた姿勢が、あの作品を作ったのだと感じました。
私自身も、完璧なアマチュアですが、自分は表現者の端くれだと思っています。そして、私の作品の中には、何をどう弁解しようとも、私という人間そのものが表れるものだと思うようになりました。作品と作者は全くの別物ではなく、それを送り出すことは、ある種の覚悟と世界に対する責任が必要なのだということを中島さんから学んだと思っています。
最後にお目にかかったのは2019年にスイスにいらした時に、小田部羊一さんと一緒に我が家にお越しいただきバーベキューをしたときです。80歳を超えているとはとても思えないお元氣さでした。仲良しの小田部さんと久しぶりのスイスを楽しまれているご様子が頼もしく、なんとなくこのまま100歳まででもこうしていらっしゃるんだろうなと思っていました。
コロナ禍が始まってからも、幸いお元氣だということを人づてに伺い安心していましたし、展覧会のオープニングにも小田部さんと登壇なさったと伺っていたので、まさかたったの1か月で急逝なさるとは夢にも思っていませんでした。
またお目にかかってお話がしたかったと思います。それから、もの知らずで失礼な私たち夫婦のことを笑って受け入れてくださったことに対してのお礼も言いたかったです。スイスにこんなに日本人がやって来て、その人たちがスイス人たちからも好意的に受け取られる大きな橋を架けたのは、間違いなくアニメ『アルプスの少女ハイジ』です。
数回お目にかかっただけの私でもこれだけショックなのですから、ご家族はもちろんのこと、半世紀にわたって親しくしてきた小田部さんや宮崎駿さん、そしてずっと『ハイジ』の研究に関わって親しくされてきた皆さんは、大きな喪失感と悲しみを抱えていらっしゃると想像します。
中島さんのご冥福をお祈りすると同時に、ご家族や関係者各位の悲しみが1日も早く癒やされることを遠くスイスからお祈りします。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(11)祭 -1-
「(3)辺境伯領 -1-」の回でも一度語られていますが、今回は、マックスの領地に伝わる祭の話です。
祝祭は単なる伝統やそもそもの目的に則ったものであるだけでなく、その時代を生きる人びとにとっての長くモノトーンな生活における息抜きであり、ガス抜きでもあります。いろいろな事情はあっても、こうした祝祭にケチをつけたり、廃止させたりするような圧力は短期的には目的を達成できても、長期的にはひずみを生みいい結果を呼ばないというのが、私の持論です。今回は、その想いを軽く作品に込めてみました。
ところで、このシリーズの話をはじめからご存じない方には、仰天するような型破りな姫君の話が出てきます。主人公のひとりマックスのご先祖さまです。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(11)祭 -1-
国王の滞在中に、フルーヴルーウーの城下町では『
異装をした人びとによる祭は、フルーヴルーウー辺境伯だけではなく、グランドロン王国中、いや、それ以外のさまざまな国で見られる。センヴリ王国の水の都イムメルジアでの色とりどりの仮面をつけた人びとによる謝肉祭の行列は冬の風物詩であるし、年末には牡牛の頭部の皮を被った男たちが練り歩くカンタリア王国のタロ・デル・ディアボロ祭がある。
フルーヴルーウーの『男姫祭』が奇祭と呼ばれる理由の1つは、他の多くの祭りと異なり中心的役割を果たすのが女性だということだ。
この祭の由来ともなっている
国王の座を争うことができるほど由緒あるバギュ・グリ侯爵家の姫君として生を受けながら、男装して市井に出入りしていたジュリアは、自らの馬丁であったハンス=レギナルドと恋に落ちたあげく、ジプシーに加わり出奔した。その後、ルーヴランのブランシュルーヴ王女の専用女官になって、王女のグランドロン王との婚姻の際にヴェルドンに共にやって来た。そして、既にグランドロン王レオポルド1世に取り立てられフルーヴルーウー辺境伯となっていたハンス=レギナルドと結ばれた。その数奇な人生を、ルーヴランでもグランドロンでも民衆はたいそう好み、名のある吟遊詩人たちがいくつもの歌を捧げた。
夏のフルーヴルーウー城下町で開催される『男姫祭』は、女性たちが領主夫人から賤民にいたるまでことごとく男装をすることで有名である。つまり男姫ジュリアの故事にちなむ祭であり、グランドロンの他の多くの祭と違い宗教的裏付けが全くない。それどころか代々の大司教は、この祭を嘆かわしい伝統として糾弾しており、領主に廃止の勧告を度々行っていたほどである。
教会が何よりも問題視したのは、女性たちが男装することではなく、その日に女たちが亭主にどんなわがままでも命じることが許されていて、亭主どもはそれを拒否できない習わしだ。
聖書には「あなたは夫に従い、彼はあなたを治めるであろう」と神の言葉が記されているのに、1日とはいえ女が夫に従わせるのは許しがたい、そう大司教は説いた。だが、年に1度の楽しみを取りあげられたら女房らがどのように怒り狂うかわかっているフルーヴルーウーの領主や男たちは、代々の大司教たちの言葉に耳を貸すことはなかった。
祭には初めて参加するラウラも、家令モラの助言を受けて代々のフルーヴルーウー伯爵夫人たちに倣った男装をしていた。
「おやおや。わが奥方は素晴らしく女性らしいと常々と思っていたけれど、今日はまるで男姫ジュリアもかくやという凜々しさだね」
マックスは、感心してラウラを上から下まで吟味した。男装とはいえ、品を失わないように上着には短いシュルコではなく、膝丈までしっかり隠れるペリソンを着用している。艶のある青灰色の生地は、強い主張はしないのに敬意を払わずにいられない高雅な佇まいを演出していた。
レオポルドは、男姫由来の祭があるとだけしか聞いておらず、ラウラや侍女たちが男装をしているのを見て驚いたようだった。
「『男姫祭』とは、そういう祭なのか?」
「はい。城下町すべての女たちが、それぞれ男性の衣装をまとい、行列をするんですよ」
マックスは、そう説明したが、もう1つの厄介な伝統については口にしなかった。この場にいる女性たちの中には、その伝統を忘れている者もいるかもしれない。余計なことを口にして彼女たちの夫に不利な状況をあえて作り出すこともないだろう。マックス自身もその夫たちのうちの1人に他ならない。
「奥方さま。そろそろお時間でございます」
モラが、呼びに来た。ラウラは、レオポルドとマックスに挨拶をしてから退出した。
「僕たちも、行きましょう」
マックスは、レオポルドや護衛兵と共に馬で城下町へ降りていった。
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クロックマダム作った

Tefal(日本ではT-fal)の「Snack Time」という電氣ホットサンドメーカーを愛用している話は、既に何度かしています。なぜ日本で売り出さないのか、わからないのですけれど、このシリーズならびに上位機種の「Snack collection」は、日本では販売されていません。
簡単に言うと、サンドイッチメーカーのプレート部分が取り外しできて、ホットサンドのみならず、ワッフル、パニーニ、ミニケーキ、ドーナツ、フレンチトーストなどを作ることのできる優れもの製品です。取り外したプレートは食洗機で丸洗いできるし、それ以外の部分の清掃も簡単なので、ズボラな私でも問題なく使えてほぼオーブンスースター代わりにして使っています。
さて。今日、この記事を書こうと思ったのは、ずっと作りたかったクロックマダムを作れたからです。ご存じのように、クロックマダムは、クロックムッシュに目玉焼きが載っているだけの違いなのですが、これを鶏卵で作るとちょっとやっかいなことになるのです。
つまり、半熟の卵黄にパンが溺れちゃうんですよ。
で、ずっと「これは鶉の卵サイズだといい感じになるのかもなあ」と思っていたのですが、最近、鶉の卵を入手できるチャンスが巡ってきたのですよ。隣人が有機食品の店を始めて、鶉を飼いだしたのです。で、いつも届けてもらう鶏卵と一緒に鶉の卵も買えることになったのです。
鶉の卵といったら八宝菜ですけれど、今回は12個買ったので、クロックマダムにも挑戦してみたのでした。
クロックムッシュ同様に、ハムチーズを挟んだホットサンドを作るのは同じです。でも、その前にプレートに鶉の卵を必要個数割り入れて加熱し、鶉の目玉焼きを作っておきます。鶏卵なら1度に1個しかできませんが、鶉は4個いっぺんにできました。白身が全部一緒になってしまったので、あとでカットする必要がありましたが、それ以外は問題なくできました。
出来上がったクロックムッシュに、ミニ目玉焼きを載せて、念願のクロックマダムが完成。
思った通り、鶉で作ると黄身の量が少ないのでパンがビシャビシャにはなりませんでした。おいしくて大満足でした。
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【小説】君を呼んでいる
今回の選んだのは、南米アンデス地方周辺で使われる弦楽器チャランゴです。最初、ケーナにしようかとも思ったのですけれど、舞台をボリビアにしたこと、それから使った曲のイメージからチャランゴの方が自然に感じたので、あえてこの小さな弦楽器にしました。
このストーリーの主題は、私がアンデスの人びとに感じるある種の「愁い」で、普段はペルーのフォルクローレなどによく感じるのですけれど、今回はあえてボリビアのポップス『Niña Camba(カンバの娘)』にスポットを当てて組み立てました。舞台に選んだのはチチカカ湖最大の島『太陽の島』です。

君を呼んでいる
アベルは、湖を見渡す段々畑の一角に座り、チャランゴを構えた。ギターと同じ祖先を持つであろう小さな弦楽器は、現代のギターよりはるかに小さく、南米アンデス地方の民族音楽に使われる。
ペルーとボリビアにまたがる湖チチカカ湖は、標高3810メートルという高地に存在する巨大湖というだけでなく、300万年以上前から存在する古代湖だ。このユニークな湖は、かのインカ帝国発祥地の伝説も持つが、おそらくそれ以前から聖地として地元の人の信仰対象となってきたと考えられている。
湖面にはトトラ葦の束を紐で縛って作ったバルサ舟が、観光客たちを乗せて滑っていく。古代から使われている伝統的な舟だが、初めて聞いた者は乗るのに若干躊躇するかもしれない。だが、同じトトラ葦で作った浮島にホテルが建ち人びとが暮らしているという情報を聞いた後は、たいてい安心して乗り込む。
アベルの住むこの島は、トトラによる浮島ではない。チチカカ湖最大の島である『太陽の島』だ。印象的な藍色の湖のほぼ中央にある。島の東側には港があり、カラフルな家屋と段々畑、そして、インカ時代の80近くの遺跡が残されている。
チャランゴの響きは、すぐ近くのオープンテラス・レストランに届き、観光客が首を伸ばして奏者を探している。アベルは、忙しく皿を運んでいるメルバも、この曲を耳にしたのだろうかと考えた。
それがどうしたというのだ。『カンバの娘』は、ボリビアの国民的フォルクローレだ。ありとあらゆるアーティストがこの曲を表現してきた。
Camba, yo sé que te llevo dentro
Porque mi canto y mis versos
Siempre te quieren nombrar
Niña, me llevo todos mis sueños
Me voy esta noche lejos
Donde te pueda olvidar
カンバのお嬢さん、君を心に閉じ込め運んでる
僕の歌と詩はいつだって君の名を呼んでいるのだから
お嬢さん、すべての夢を連れて
今夜、遠くへ行こう
どこか君を忘れられる場所へ
(César Espada『Niña Camba』 より 八少女 夕意訳)
『カンバ』は、アンデス高地に住む人びとを意味する『コージャ』に対して、低地に住む人びとを指す言葉だ。
典型的なコージャであるアベルとメルバは、一刻も早く所帯を持つよう周囲に期待されている。メルバは、真面目で働き者のいい娘だ。両親共に子供の頃からお互いによく知っている。鮮やかな民族衣装を纏い、仕事の後は家事手伝いだけでなく、現金収入のために刺繍や織物を作る。お互いの両親が持つ段々畑は、古代からの石垣に区切られて千年以上も変わらずに存在している。簡単には壊れない石垣は、この島の静かな堅牢さを象徴するかのようだ。
カンバの娘は、この土地で勤勉に働くことなどできはしない。彼らが怠惰だから(そうだと言い張る人もいるけれど)ではなくて、彼らは高地の暮らしには向かないのだ。
「きれいな湖ね」
緑の瞳を輝かせて、彼女はそう言った。フクシア色の都会的なワンピースを翻してチチカカ湖を振り返った。アベルは彼女が眩しかった。黒いピンヒールも、役に立たなそうに小さなハンドバッグも、彼の見慣れた島の人びと、よく来る観光客たちとも全く違って見えた。港に高そうなプライヴェートボートを乗り付けたのは、白いシャツ、白いパンツ、そして白い靴を履いたいけ好かない男で、馴れ馴れしく彼女の腰に手を回して何かを囁いていた。
彼女は、ひらりと身を躱し、秘密めいた笑みを見せてアベルに話しかけた。
「高台になっているレストランというのは近いの?」
それ以上の会話を交わしたわけではない。彼女は、白尽くめの男とメルバが給仕するレストランへ行った。2人が考えるレストランとは全く違ったようで、特に男の方が「キオスクかよ」と馬鹿にした発言をしたが、彼女のハイヒールで他のレストランまで行くのは無理と思ったのかとりあえずそこで食べたあげくチップも置かずに帰ったという。
もう1か月前のことだが、アベルの脳裏からはあの緑色の瞳が消えない。
チャランゴをかき鳴らすことが多くなった。他の曲を弾くこともあるが、氣がつくと『カンバの娘』の旋律に変わっていることが多い。農作業の合間のわずかな自由時間に何を弾こうが勝手だ。そして、それをメルバが耳にしていようがいまいが……。
輝く湖水が遮られたので顔を上げた。薄紫のスカートを着ているのは、予想通りメルバだった。黒目がちの瞳は、特に何もなくても常に悲しげだ。
「なんだ。今日の仕事は終わったのか」
アベルは、訊いた。
「ええ」
短く答えてから、メルバはもの言いたげに口を開いてはやめた。アベルは、若干イヤな心持ちになって、チャランゴをかき鳴らした。メルバは、結局何も言わなかった。
「メルバ。送っていくよ」
「どうして? あなたはまだ仕事中なんでしょう?」
「君の父さんに、高枝ハサミを貸してもらう約束なんだ」
「そう」
コムニダー・ユマニの村は、山へとひたすら登っていく石畳の道に沿って存在している。アベルはおそらく植民地時代とほとんど変わらない服装をしたメルバと共にやはりその時代と変わらぬ石畳を登っていった。
赤茶色の壁、乾いた道、赤道直下の太陽は照りつけるが、風は冷たい。村から眺める段々畑とチチカカ湖は広大で、揺るぎない。インカ帝国が興り、栄え、滅亡していった時間すらも変わらずにここに存在した光景だ。
人びとの服装はかつて盟主国に強制されてスペイン風のものになっても、飾りとして身につける民俗模様の織物、ベルトなどの小物に先祖たちの伝統が残る。
『太陽の島』はインカ帝国以前よりケチュア族ならびにアイマラ族の聖地だった。段々畑では通常この高度では到底栽培できないジャガイモやキヌア、トウモロコシが栽培可能だ。アルパカ、牛や豚、クイ(テンジクネズミの一種)も飼育されている。
「Ama Sua(盗むな)、Ama Llulla(嘘をつくな)、Ama Quella(怠けるな)」古来の戒めを守り、精を出して働く『コージャ』の民は、観光客たちが日帰りで立ち寄り、戯れに土産物を買い、また去って行く繰り返しを横目で眺めながら、数千年変わらぬ営みを続ける。
観光客が急いで選びやすいように、メルバやアベルたちが、仕事の合間に伝統色の濃い土産物を作成する。アルパカの毛織物やインカ柄の刺繍を施した雑貨、トトラ葦で小さなバルサ舟の模型も作る。
メルバは、自宅の扉を開けて「お父さん、いる?」と声をかけた。
「ああ。いるぞ」
「アベルが来たわ」
「ああ。いま行く。待っててもらってくれ」
暗い室内に目が慣れてきた。メルバは、アベルに座るように言い、台所の方へと消えた。アベルは、見るともなしに、織機にかかっている織りかけの布を見た。それから、ふと記憶をたぐり寄せた。以前、メルバが織っていたショールや、テーブルセンターなどと色合いが全く違う。
伝統的な織物はみなカラフルだ。赤、青、黄色、緑、紫、白、オレンジ、フクシア。それらの色を縞や模様にして鮮やかに織り上げる。そのカラフルさが当然となっているので、シンプルな色の組み合わせにむしろ目がいくほどだ。
メルバはかつて、ごく普通の鮮やかな色合いで織っていた。この家に来る度に、見慣れた色合いの布が常に織機にかかっていた。
いま目にしているのは、紫と黄色と白。向こうに積まれている布は青と白と赤。その色合いがおかしいわけではない。その組み合わせを見たことがないわけでもない。だが、メルバの心境の変化が氣になる。何かが……。
そして、氣がついた。緑とフクシアを避けているのだと。あのカンバの女を思いだすとき、彼はフクシア色のワンピースとあの印象的な緑の瞳を脳裏に描いている。そして、メルバが打ち消そうとしているのも、同じあの姿なのではないのかと。それとも、これは、カンバの娘に捉えられている僕の考えすぎなのか。そして、あの女にメルバが嫉妬を燃やしていると思いたがる僕の自意識過剰なのか……。
メルバがチチャモラーダを運んできた。トウモロコシ発酵飲料だが、ごく普通のチチャのようにアルコール分がない。おそらくこれから仕事に戻ると言ったからわざわざこれにしたのだろう。アベルは、グラスを受け取り、ほんのわずかを大地の女神に捧げるためにこぼしてから飲んだ。
「ありがとう。これ、織りだしたばかりか?」
できるだけ、さりげなく訊いたつもりだが、声に緊張が走っているのを上手く隠せなかった。メルバは、とくに氣にした様子もないように「ええ」とだけ言った。
「そうか。前に織っていたのと、色合いが変わったなと思って……」
なんのためにこんなことを言っているんだ、僕は。メルバは、そっと織機に触れて答えた。
「そうね。あなたが、そんなことに氣がつくとは思ってもいなかったわ」
メルバのお下げ髪が揺れているように感じた。
すぐに、メルバの父親が入ってきて、高枝ハサミを見せた。
「やあ、アベル。これでいいのかな」
「ありがとうございます。明日にはお返しできると思います」
「急がなくていいさ。次に必要になる時なんて、思い浮かばないしな。それより、コイツの方は、どうだ。あまり待たせると、織りまくる嫁入り道具で我が家が埋まっちまうんだが」
そう言って、明らかに前回来たときよりも増えている布の山を見せた。
アベルが、答えに詰まっているのを見て、メルバがイヤな顔をして答えた。
「お父さん、やめてよ。嫁入り道具にしようと織っているんじゃないわ。アベルだって土産物屋に売っているの知っているでしょう」
アベルは、急いで立ち上がると、高枝バサミを持って戸口に向かった。それから取って付けたように、もう1つの手に持っているチャランゴを見せながら、メルバとその父親に言った。
「遠からず、まともなセレナーデでも、練習してきます」
父親は、満足そうに笑った。メルバは、愁いを含んだ黒い瞳をそらし、なにも言わなかった。
アベルは、1人でもと来た道を畑に戻りながら、ため息をついた。アベルは、この島で数千年前の祖先たちと同じように生きていく。そうでない人たちと人生が絡み合うことはない。黒いハイヒールとフクシア色のワンピースを身につけた緑の瞳の娘も、プライヴェートボートを所有する白尽くめの男も、生涯にたった1度面白半分に訪れて、そして、青い湖面と遠い雪山に感嘆し、それから都会生活の面白さに戻りここを忘れていくだけだ。
アベルにもわかっている。あの緑の瞳が自分に向けられることはないことを。あの娘を想うことが何ひとつ生み出さないことを。それでも、チャランゴが奏でるのは同じメロディーで、アベルが彷徨うのは同じ幻影だ。忘れようとすれば、より想うことになる。湖に沈めようとすれば、犠牲になるのはあの娘のではなく、自らの心臓だ。
段々畑とチチカカ湖は広大で、揺るぎない。古代から変わらずに存在する奇跡の湖は、アベルの迷いやメルバの愁いを氣にも留めぬように、冷たく穏やかに広がっていた。
(初出:2022年10月 書き下ろし)
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野菜作りの実験結果

スイスは夏の後に、ほぼ秋抜きで初冬が来てしまったような日々です。日中でも10℃とか、普通に寒いですけれど、もう10月だからしかたないですよね。
今年、いつものトマトだけでなくいろいろな野菜を試しに植えて、私が作れる野菜とそうでない野菜を知ろうとしました。で、結果としてトマトの楽さ、安定ぶりを改めて感じたんですけれど、苦労しつつも他の野菜も「意外とできたじゃん」と感じることもありました。
日本にいたときは東京に住んでいて、普通に明るいうちには帰れない生活が普通だったので、いわゆる家庭菜園的なものとは無塩でした。ハーブくらいは栽培しましたけれど。
スイスの田舎暮らしというのは、そういう日本の都会暮らしとは全く違うリズムの中で生きるので、家庭祭する時間と余裕というものは十分にあります。会社から帰宅する途中につい吸い込まれてしまう本屋や、休日に行きたくなってしまう文化催事などもありません。仕事が終わって20分後には自宅に戻り、それから夏だと2時間くらいは明るいのです。そして、夏は爽やかで外にいるのも苦になりません。
種から芽が出るのを待った野菜と、苗を買ってきた野菜とがありましたが、もちろん苗からの方が楽でした。
トマトの半分は、去年のトマトから自然に出てきてしまったもの(3本)でした。日本の品種です。残りの3本は園芸店から狩ってきた「シベリア種」「ブラッククリム」「ベルナーローゼン」という種類でしたが、大きくておいしかったのは、日本のトマトの子孫、それから「ベルナーローゼン」でした。来年は、この2種にプチトマトを1つ植えてみようと思います。
今ごろになってようやくピーマンが実をつけだしています。赤パプリカになる予定なんですけれど、まだまだピーマンなんですよね。
人参は、写真のようにまあまあの出來のものになりましたが、時間がかかるのと苗1つから1本しかできないのでトマトなどと比べると若干効率が悪いなと思いました。同様にキャベツやコールラビも、虫との戦いの果てにできあがりは少ないなと感じました。ブロッコリーも同様ですね。
さて、芽の出てしまった野菜を植え付けてみたのが、ジャガイモとネギの類いです。家庭菜園の先輩が次々とチェックに来て「これは無理だよ」と言いました。ジャガイモはポットではできないというのです。そういうものなのかと思ったのですけれど、とりあえず枯れるまで放置しておきました。
実際に枯れた苗を引っ張ってみたら何もついてこなかったので「本当にダメだった」と肩を落としていたんですけれど、そのポットに他のものを植えようかと土をひっくり返したら、「あれれ?」新じゃががいっぱいでてきました。
大量のジャガイモではないですけれど、もともと芽の出たジャガイモは1つだったので、それがこれだけ増えたのは私にとっては大成功でした。この程度で良ければ、ポットでもジャガイモはできるのですね。
玉ねぎも芽の出てしまったものを捨てるくらいなら、ポットにつっこんでおけばしばらくするとちゃんとした野菜になって戻ってきます。
本当の自給自足をするには、絶対量が少ないのですけれど、私のような素人でもそこそこ野菜は育てられるのだとわかったのはよかったです。
これからは寒さに強い野菜と、室内でスプラウト系を作って冬の野菜不足に備えるつもりです。
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