【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(14)鉄の犂
今回のテーマは農業です。王都ヴェルドン近郊の農地と、山岳地帯のフルーヴルーウー辺境伯の農地はかなり差があるもよう。現代社会ではトラクターや電動犂などが、どんな土地でもなどがしっかりと耕してくれますが、中世は立地によって先進農具が簡単に普及できる場所とそうでないところがあったようです。また、農地の規模も地域差があったのでしょうね。今でもスイスの農地はわりとこぢんまりとしています。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(14)鉄の犂
このまま森の中だけを進んで山頂まで行くのかと思っていた一行は、突如としてごく普通の農村にたどり着いたので一様に驚いた様相だった。
「なんだ。まだこんな平地だったのか」
レオポルドは、さっそく馬にまたがりマックスに話しかけた。
「ええ。そうです。フルーヴルーウー城下町から街道をそのまま通って進んでもここにたどり着きます。ほら、あの後ろに見えている非常に狭い渓谷を通ってくる道です」
マックスは後方を指さした。
「わざわざ傾斜の激しい森の道を選んだ理由もおありになるのでしょう?」
フリッツが訊くと、マックスは肩をすくめた。
「あの道は、たいていの人が使うんですよ。『
それを聞いて、一同は納得した。このあたりまでくると旅人はそう多くない。よほどのことがない限り顔を知るものとすれ違うことはなさそうだ。
王都ヴェルドンや、フルーヴルーウーまでの道すがら馬車の窓より見学したグランドロンの農地の数々と違い、農村はかなり狭く小規模に見える。それは、フルーヴルーウー辺境伯領やその他の《ケールム・アルバ》の麓にある村々は、渓谷地のわずかな空間に広がるからだ。
丘陵地に向かって農地は緩やかに傾斜している。果樹が植えられ家畜を放牧している地域が多い。家畜は下草を食んでは、果樹の木陰の下で休んでいるが、これが土地を休ませ新たな肥料を与えることになるのだ。
穀物、豆類や野菜、そして放牧による三圃農業は傾斜した山岳地方に合っていると聞いていたが、実際にそのさまを目にしてラウラはなるほどと思った。
「規模は小さいけれど、だいたいの作物は育つのですね」
ラウラが訪ねると、同じ馬の後ろに乗っているマックスは頷いた。
「このあたりはまだ小麦も育つんだ。もう少し高度が上がると、小麦は難しくなる。そうなると放牧が中心になる。フェーンという南からの風が多い地域では葡萄が栽培できて収入も増えるが、それは限られた例外だな」
アニーも、初めての光景にキョロキョロと見回していた。同乗しているフリッツが小さく言った。
「おい。転げ落ちるなよ」
「落ちるわけないでしょう!」
「どうだか」
「アニー」
「フリッツ」
ラウラとレオポルドが、ほぼ同時にたしなめたので、2人は黙った。
ずっと上流にあるためマール・アム・サレアなどで見るほどの大河ではないが、現在一行が遡っているのは間違いなくサレア河だ。
蛇行する川はよくその進路を変え、かつて川が流れていた土地には山からの肥沃な土砂が溜まり、そこを農民たちは耕していた。
泥の多い場所らしく、農民たちは馬ではなく牛につなげた木製の犂を使っている。
「ここでは今どき木製の犂を使っているのか?」
レオポルドが少し驚いたように言った。
温暖で肥沃なセンヴリ王国では、土が軽めなのでいまだに木製の犂を使っているというが、重く湿った土質の多いグランドロン王国では先代王の奨めた政策で、既に鉄製の重量犂が普及したと老師に教わっていたからだ。
「ええ。ここではまだ鉄製の重量犂は使っていないようですね。まあ、この規模を耕すのに高価な重量犂を購入する者はいないかもしれませんね」
マックスは考え深げに言った。
「それでも、鉄製の道具を使う利点はあるのでしょうか」
ラウラがそっと訊いた。
「そうだね。深く耕し、さらに草を混ぜてひっくり返すことであの沼地のような湿った土を乾かしてふかふかの耕地に変えられるはずだ。それによって疫病も減らせるだろうね」
マックスは、答えた。
農民を氣の毒そうに見やるラウラを見て、レオポルドはマックスに言った。
「そなた鉄製農具の共同使用やら普及に努めんのか」
「領主として鉄製重量犂を安く供給しろ、ですか。そうしたいところですが、財源を確保しないとなあ……」
マックスは、困ったようにあれこれと可能な財源を口にしたが、どれも決定的とは言えない。
「わかった、わかった。じゃあ、余も協力しよう」
「お。予算をくださいますか」
「他の領地からもよこせと言われるに決まっているので金はやれんが、鉄製農具を安く供給するなら課税を軽くする勅令ってのはどうだ」
既に先王の時代に鉄製農具を導入してしまった領地は、恩恵を受けないが少なくとも税が増えるわけではないので文句は言わないだろう。
「そうですね。それによってフルーヴルーウー辺境伯領全体の生産効率が増え、年貢も増えれば、結果的に王国としても減らした分の課税も取り返すことができると」
マックスは、鍛冶屋組合への鉄製重量犂の発注や地域ごとの共同購入のしくみ作りについて長いことレオポルドと話し合っていた。
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iOS16にアップデートした
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なぜトップ画像が猫なんだと思われるかもしれませんが、あとで説明しますのでご容赦を。
9月にiOS16のアップデートがリリースされたのですけれど、ずっと様子見をしていました。使っているのはiPhone SE 2020で、アップデートできるギリギリの古さのマシンなんですね。というのも私は携帯電話には大金をかけない主義で、型落ちの廉価品を買い取って使っているのです。その分、毎月の携帯通信料は激安のままです。(スイスでは、ですけれど)
でも、あまりにも「アップデートしろ」がうるさいので、「えいやっ」とアップデートしました。ダメなら元に戻せばいいやという判断です。そして、アップデートしてみたら、特に遅くなるなどの不都合はありませんでしたし、なにしろ新機能が素晴らしすぎてもう元に戻せません。
1つがフォーカス(集中)モードの進化です。これ、iOS14でもあったんですが、さほど使い勝手がよくなくて使っていませんでした。簡単に言うと、状況によって通知をコントロールする機能です。たとえば「仕事モード」の時は、LINEの通知やよけいなメッセージは来ないようにできます。もちろんフライトモードにすれば全く来ないんですけれど、そうではなくて「この人からは来て欲しいけれど、ほかの人は来て欲しくない」というような管理ができるんですね。
今回のアップデートでは、ロック画面をいくつも用意しておけるようになったのですが、そこにそれぞれのフォーカスモードを紐付けできるようになりました。これが地味に便利なのです。
私は、普段用のロック画面の他、仕事用、ドライブモードのフォーカスモードに紐つけされたロック画面を用意しました。そして、必要なときにそれを切り替えるだけで簡単にフォーカスモードに入れるようになりました。そして、これ、Apple Watchのフェイスも切り替えられるんですよ。これもとても便利で、iPhoneでドライブモードにすると、Apple Watchの画面も自動で運転の時にちょうどいいシンプルな文字盤に変わってくれるんです。そして、すごいのは運転をやめて車から降りるだけで普通の画面に戻ってくれるのです。

もう1つ、感動したのが写真で簡単に切り抜きができるようになったことです。トップの写真は、もともとはこの写真でした。ポーズが違うように見えますが、実はこの写真はLivePhotoという写真で、まるで動画のように前後の動きが記録されているんですね。
そして、今回のアップデートでできるようになった切り抜きとは、写真の上で対象物を長押しするだけで勝手に切り抜きしてくれるんですよ。後ろのカオスな背景を消して、素敵な光景や無地と合成することも簡単になったのですね。昔、Photoshopを駆使して必死で切り抜きした時代もあったのに、いまやこんなに簡単になってしまったとは、技術の進歩はすごいですね。クリックしてみてください。昔の私がした稚拙な切り抜きの記憶との違いに愕然としましたよ。これがタダで、長押し1つだなんてなんて……。
このすごい技術がサラリと使われているのが、前述のロック画面です。
たとえば、こういう自分の撮った写真をロック画面に指定するとき、これまでは猫の顔の部分が時刻にかかって見えなくなってしまったなんてこともあったのですが、今回のアップデートで猫の顔を前面に出すことも可能になったのです。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(13)森の道 -2-
さて。ついに5人での忍びの旅が始まりました。
前作では、こうした森を氣ままに旅していたのはマックス1人でした。その旅を通して、当時のさまざまな人びとの生活や、当時の制度についてがあれこれと見聞されるという形を取りましたが、今回も旅の間はそうしたあれこれがランダムに記述されます。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(13)森の道 -2-
フルーヴルーウー城を出てまだ半日ほどだったが、これまで経験したことのない多くにラウラはときめいていた。
ラウラはルーヴランの王都ルーヴで生まれ育った。生まれ育った貧民街であれ、バギュ・グリ侯爵家に引き取られて形だけ養女にされた後であれ、目にしてきたのは常に街の光景だった。
そして、王都からの旅の間に目にしたものも街道沿いの光景であり、たとえそれが森《シルヴァ》の一部であろうと、森林管理官の手が入り管理された「人の住む地」の一部だった。
いま、一行はその地から《シルヴァ》の奥に入っていこうとしているのだ。
爽やかな香りが風に乗って漂っている。ラウラは周りを見回した。すぐにレースのように広がる白く丸い花が視界に入った。
「これは、ニワトコかしら?」
アニーは頷いた。
「はい。ちょうど盛りですね」
ラウラはニワトコの花で薫りづけた発泡酒はよく知っていたが、実際に咲いているのを見るのは初めてだった。
アニーにとっては、子供の頃から馴染みぶかい花だ。有用なニワトコは村になくてはならない木だったからだ。
花の時期は夏の到来を知らせるだけでなく、香りのいいシロップは頭痛や発熱に効く薬湯として、葉の浸出液は炎症や打撲に効く家庭薬として使われていた。また、秋になって熟した黒い実がつくと、女たちは競ってこの実を集めてシロップを作った。濃い紫のシロップは流感や氣管支炎の予防または薬として用いられるのだ。
森のニワトコは、アニーの生まれた村にあったものよりも小ぶりで花も少ない。背の高い木々に覆われて、日の光があまり当たらないからだろう。
歩いていくうちに見かける足下の花も、王城や村で見かけるものよりも小さく見えた。おだまきも、山百合もよく見ないと見過ごしてしまうほどひっそりと花をつけていた。
「足下に氣をつけて」
マックスが、注意を促す。馬車が使う街道は遠回りなので、馬と徒歩用の道を行っているのだ。半刻ほど前から、一行は馬を降りて歩いていた。
それは川沿いに人びとによって踏み固められた道で、大きい石や張り巡った木の根で、自然の階段になっている。苔むして、慣れていないものには滑りやすい。
「このまま峠まで徒歩なのか?」
レオポルドが問うと、マックスは笑って頭を振った。
「まさか。あとしばらく行けば、あとはまた馬に乗れる平坦な道に出ます」
その時、目の前を大きな鳥が羽ばたいて横切った。一行が立ち止まると、右前方の茂みでガサリと音がした。誰かが蹲っている。
フリッツが身構える。レオポルドは片眉を上げて「早まるな」といいたげに制した。
茂みから男が出てきて何も言わずに反対側の茂みの中に歩み去った。右手には弓矢を持っているが、それが目立たないように身体で隠しているような歩き方だった。
「ここは、誰でも狩猟していいのか」
レオポルドは小さな声で訊いた。
「いえ。狩猟指定地にはなっていなくとも《シルヴァ》全体で、狩りには森林管理官の許可が必要という建前になっています。もちろん、あの弓で鳥を捕るくらいは、森林管理官の目の前でやらない限りは……」
森林管理官どころか、領主と国王の目の前なのだが……。2人は目を合わせて肩をすくめた。身分を隠して旅をしている以上、どうしようもない。
表向きは国王や領主に属するといっても、森で得られるさまざまな資源や生物なしに村落の人びとの生活が成り立たぬ事はレオポルドやマックスも理解している。貴族にとって狩猟は大きな楽しみだが、貧しい人びとは危険を承知で村落生活で欠落した生活の手立てを補いに来るのだ。
薪や木材、食べ物となる植物や小動物は森の奥に進めば進むほど無尽蔵に存在した。炭、皮革、蜜蝋、ある種の宝石なども、森の奥に眠っている。もちろん毒草や毒キノコを持ち帰ってしまうこともある。狼に襲われることもある。道に迷ったり、素人が木を切ることで下敷きとなって誰の助けも得られずに屍となって忘れ去られることもあった。
「今日は12使徒の祝日じゃないか。禁猟に決まっているだろう。まったく……」
レオホルドは、小さな声でブツブツ言った。
マックスは、だからだろうなと考えた。他の村民はこんな日にあえて狩りに出て捕まる危険は起こさないだろう。それはすなわち、誰にも会わずに獲物を手に入れられる機会が増えるということだ。あの男は、おそらくこういうことをし慣れているのだろう。
禁止と管理にも限りがある。マックスは、そのことを実感しながら歩いていた。おそらく後ろを歩く国王もそのことを考えているのではないかと思った。
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羊の話

この羊、我が家の近くの農家の誰かが、20年近く飼っている品種なのです。で、私はなんとなく英国またはスコットランド辺りの品種だと思い込んでいました。
昔、ひとり旅をして車窓から眺めた英国の湖水地方で、印象的な顔の黒い羊を見た記憶が強烈でした。後にアニメ『ひつじのショーン』で有名になったので、顔の黒い羊はどれも英国原産だと思い込んでいたのです。
実際には顔の黒い羊は有名なものでも何種類もあって、スコットランドには『Scottish Blackface』という品種で、顔だけでなく四肢も黒い『ひつじのショーン』のモデルは『Suffolk サフォーク』という種類でした。
そしてですね。今回、写真でお見せしている私に馴染みの深いこの羊は、スイス原産でした。『Walliser Schwarznasenschaf』または『Nez noir du Valais』といい、日本では英語読みの『Valais Blacknose ヴァレー・ブラックノーズ』と呼ばれています。なぜ原語が2種類あるのかというと、原産のヴァリス/ヴァレー州というのは公用語がドイツ語とフランス語の2つあるからです。
で、このシュヴルツナーゼ(私はドイツ語圏に住んでいるのでドイツ語で語りますね)は、少なくとも16世紀には文献に記録されているらしいですが、いつどのように誕生したかについてはよくわかっていないようです。
顔が真っ黒で、寒いスイスの氣候に対応すべく豊かな毛皮で覆われています。羊毛のためだけでなく、食用にも適しているそうですよ。寒い地域に適応するために皮下脂肪が増えるんだろうか。

ただ、『世界一かわいい羊』とも言われるように、とても愛らしいので、みていて「美味しいかも」という感想は全く浮かんできません。好奇心に満ちてあまり人間を怖れないので、カメラを向けるとゾロゾロと寄ってきます。
マイナス15℃になるこの地域の冬でも、外で放牧していることからもわかるように、寒さにはとても強い品種のようです。反対に夏は、大変でしょうね。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(13)森の道 -1-
レオポルドの計画にマックスも乗り、結局フリッツ、ラウラ、アニーの5人でトリネアまで身分を隠して旅をすることになりました。
今回からは、具体的な旅がしばらく続きます。一体いつになったらトリネアにつくんだろうか……。
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(13)森の道 -1-
マックスから旅立ちの話を聞かされたフルーヴルーウー城家令のモラは、いつもの冷静さを失うほどの驚きを見せた。ただの旅ではなく平民のなりをして馬や徒歩で《ケールム・アルバ》の険しい山道を行くというからだ。
フリッツに国王の計画を聞かされた護衛の兵士たちも、はじめは信じることができなかった。彼らは、国王がヘルマン家の馬車で身分を隠して旅してきただけでも酔狂だと思っており、よもやそれ以上のことを企んでいたとは夢にも思っていなかったのだ。
「よいか。そなたたちは、余がまだこの城にいるかのように振る舞っていればいい。誰かが訪ねてきたら、余とフルーヴルーウー伯爵夫妻は夏風邪で伏せっているとでも答えておけ」
周りの反対と心配をかわし、一行は出発の準備をした。国王、辺境伯夫妻としての豪華な衣装を脱ぎ、それぞれが用意させた平民の服を用意した。レオポルドは裕福な商人デュランとなり、その秘書マックス、護衛兼従者フリッツ、そして、それぞれの妻とともにトリネアへ買い付けに向かっているということにした。
フリッツとアニーは初めは夫婦の設定に難色を示した。
「いくら何でもこんな子供みたいな娘を妻というのは嘘っぽくありませんか」
「私は、ラウラさまの女中ってことにすればいいじゃないですか」
レオポルドは鼻で嗤った。
「自分で服も着られない高貴な奥方さまが、商人の秘書と結婚するわけないだろう。それに、お前もだフリッツ。うるさいことを言うなら、ここに残ってもいいんだぞ」
フリッツとアニーは顔を見合わせてから、仕方なくその役柄を受け入れた。
「陛下も、その口調をまず改めてください。余なんて言う商人はいませんからね」
マックスに言われて、レオポルドもしばらく商人らしい口調の練習をしていた。
そうして、ようやく商人デュランの一行は、旅に出発した。マウロは当然ながらレオポルドとマックスがいつもの愛馬を連れていくものと思っていたが、マックスは笑った。
「悪いが城下町で平民に買える手頃な馬を3頭調達してきてくれ。こんな立派な馬を連れていたら、いくら変装していても目につきすぎる。来月まで陛下の馬の世話は頼んだぞ。どっちにしても空の馬車とともにトリネアに来てもらうことになるしな」
護衛兼従者夫妻ということになっているフリッツとアニーが乗馬するのはおかしいのだが、荷物を運ばせるためにもう1頭いるといえば奇妙に思われることはないだろうとマックスは3頭で行くことを提案した。誰も見ていない行程では全員が乗っている方が速く進めるという利点もあった。
「この馬で、《ケールム・アルバ》を越えてトリネアまで行けるんですか?」
フリッツは、痩せて年老いた馬を見て首を傾げた。
「弱ってきたら、途中の村で払い下げてまた似たような馬を買って乗り継ぐんですよ」
マックスは、かつての旅でいつもそうしてきた。荷物も可能な限り少なくして、必要なものは旅の途上や目的地で買いそろえる。
ラウラが大量の服を持って行くと言い出さなかったのはさいわいだった。馬に背負わせるとはいえ、刺繍入りのビロード胴着などはひどく重いし、ヴェールやさまざまな装身具の類いも非常にかさばる。
ラウラはアニーに助言を求め、さっぱりとしたリネンの中着と汚れの目立たない長袖の上着を用意した。換えは1着のみで普段つけている左腕の覆いの代わりもスダリウム布だけにして他の用途にも使えるようにした。
マックスは、全員にしっかりとした毛織物のケープ付きの長衣も持って行くように言った。
「いまは十分暑く感じられますが、夏とはいえ山の上の朝晩はとてつもなく寒くなりますから、重ねて着られるように準備してください」
こうして、旅の準備を終えた一行は、心配そうに見送る家来たちにひとときの別れを告げて山へと足を向けた。
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動物たちは、もしかしたら……

私がスイスの田舎に住んでいることや、家畜や野生動物と非常に近い距離で暮らしていることは既におなじみかもしれませんね。
2020年から、それまでの自転車通勤がなくなったという理由で健康のために毎日30分以上の散歩を実施しているのですけれど、特に面白い店があるわけでなく、風景もいつもの見慣れたものなので、自然と動物たちに目がいくようになりました。
夏と違って我が家の猫ゴーニィは散歩についてくることが稀になったので(というか、そもそも散歩に猫がついてくる方が普通ではないのですけれど)、私はひとりで動物たちを見ながら歩いています。
それでですね。どうも動物たちにはテレパシーみたいなものを感じる能力があるんじゃないかと思うようになったのですよ。
いや、私にはそれを感じる能力は、今のところ全く開花していないです。でも、私が放牧されている羊や牛の方を見ながら「もうちょっと近くに来てくれるといいなあ」と思うと、何も口にしていなくてもふっとこっちを見て、とことこやってくる、というようなことが何回かあったのです。
上にも書きましたが、私の方は家畜たちの意思を理解できないので、それがどうしてなのかを確認できないですし、「ただの偶然だろ」といわれれば「そうかも」という程度の感触なのですが。
というわけで、最近はわざわざ顔を向けずに、脳内で語りかけてみたり、反対に特に何も望まないでずっと見つめたりとあれこれパターンを変えて実験をしています。
これ、100回以上実験を繰り返したら「やっぱりそうだった」とか「単なる偶然だった」とかいった報告ができると思うのですけれど、今のところは「何となくその手の偶然が続いて、あれ? と思っている」程度の与太話だと思ってください。
少なくとも、こういうことをやっていれば、何の変哲も無い田舎暮らしもそれなりに楽しいという話です。
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【小説】バッカスからの招待状 -17- バラライカ
今回の選んだのは、ロシアの弦楽器バラライカです。舞台はおなじみ大手町のバー『Bacchus』です。
白状します。ロシアの楽器を選んだのはわざとではありません。楽器の名前のカクテル、バラライカしか見つからなかったのです。でも、少なくともこの店ではどんな世界情勢であっても皆が平和にお酒を飲んでいてほしいと思い、あえて火中の栗を拾うことにしました。

【参考】
![]() | 「バッカスからの招待状」をはじめからまとめて読む |
バッカスからの招待状 -17- バラライカ
開店直後にその女性が入ってきたとき、いつものように「いらっしゃいませ」と口にしながら、田中は通じるだろうかと懸念した。彼女は背が高く、金髪で青い目をしている。氷の彫像のように、まったく表情筋を動かさないので、田中には日本語が通じるのかどうかの判断ができなかった。
そのバーは、大手町のビル街にひっそりと隠れるようにある。飲食街からは離れているので夜はほとんど人通りのないとあるビルの地下。知っている人でないと見過ごしてしまいそうな小さな濃い紫色の看板に白い字で小さく『Bacchus』と書かれている。
今夜は水曜日、バーテンダーであり店主でもある田中が1人の日だ。東京駅から遠くないので、外国人の客が来ないわけではないが、立地が立地だけに誰にもつれられずに1人で入ってくることは珍しい。田中も簡単な英語は話せるが、流暢というほどではない。他の言語であれば全く話せない。
「もう開店していますか」
イントネーションは違うものの、普通の日本語だった。そうとう話せるようだ。
「はい。お好きな席にどうぞ」
田中は、カウンター席とテーブル席を示した。彼女は、カウンター席の真ん中に座った。
「どうぞ」
「ありがとう」
田中の差し出したおしぼりを、わずかに頭をかしげながら受け取る。
カランと音をさせて、次の客が入ってきた。
「こんばんは。近藤さん」
「やあ、マスター。あれ、1番乗りじゃなかったか」
モデルか女優のような金髪美女を見て、彼は一瞬固まった。常にイタリアのブランドとすぐにわかるスーツに個性的な色のネクタイをしている近藤は、この店の常連の中でもとくに言動がキザだ。いつもなら、近藤がよく座る席に腰掛けている一見客に、何かいわなくても良さそうなひと言を口にするのだが、今日は調子が出ないようだ。
「僕も、今日はカウンターにしようかな」
などと言いながら、女性の右横を1つ空けた席に腰掛けた。「今日は」もなにも、常にカウンターに腰掛けているのだからおかしな発言だが、慣れない外国人客がいて調子が狂っているのか、それとも女性に話しかけるきっかけなのかわからず、田中は様子を見ることにした。
「メニューをどうぞ」
田中が日本語だけで話しかけて、彼女が「ありがとう」と受け取ったのを見て、近藤は少しホッとしたようだった。
「近藤さんも、メニューをどうぞ」
「ああ、うん。いつものをまずもらおうかな。おつまみは、今日は何がいいかな」
「サラトガ・クーラーですね。かしこまりました。まずはこちらを」
田中は、つきだし代わりにサーモンとイクラのディル和えをそっと近藤の前に置いた。そして、女性の前に置く前に訊いた。
「お魚は召し上がれますか」
女性は、わずかに目を細めて答えた。
「ええ。もちろん。イクラは子供の頃から食べ慣れているもの」
「どちらのお国ですか?」
近藤がすかさず訊くと、女性は顔も向けずに「ロシアよ」と答えた。
なるほど、と田中は心の中でつぶやいた。このご時世、とくに本人に咎はなくとも、出身国を口にするだけで不快な対応をされることもあるのだろうと。
もっとも女性も、さすがにつっけんどんすぎると思ったのか、しっかりと顔を向けて言い直した。
「ヴォルガ河のほとり、ニジニ・ノヴゴロドから来たの」
田中は、それが広いロシアのどこにあるのか知らなかったが、近藤にはそうではなかったらしい。
「聖都キーテジからですか?」
これには、女性も驚いたらしい。それまで能面のようだった顔面が表情豊かになった。
「どうして知っているの? もちろんキーテジではないけれど、スヴェトロヤール湖の近くの出身なのよ」
近藤の顔に、はっきりとした余裕が表れて、いつものように少しキザっぽい口調で答えた。
「たまたま最近、リムスキー=コルサコフのオペラの評論を書いたんでね。田中マスター、キーテジってのはね、ロシアに伝わる、伝説の見えない都市なんだよ」
「そうなんですか。そのオペラは、その都市が舞台なのですね」
田中が訊くと、2人は同時に頷いた。
「キーテジに関する伝説と、別のフェヴローニヤという聖女伝説を組み合わせて1つのオペラにしたの」
女性が説明すると、近藤が続ける。
「色彩的な素晴らしいオーケストレーションに、民族楽器のバラライカを組み合わせた傑作なんだ」
「バラライカ……ですか」
田中がなるほど、というようにつぶやいた。
「あれ。マスター、バラライカを知っているんだ。すごいねぇ。けっこうマイナーな楽器だけど」
近藤が少し驚いたというように黒縁眼鏡の奥の目を細めた。女性も頷いている。
バラライカは、ロシアの民族楽器だ。三角錐形の共鳴胴を持つ弦楽器で、子供が抱えられるくらい小さな物から、大人の身長を超えるほど大きいものもある。カエデやトウヒを使った現代の楽器は澄んだ美しい音色を出す。
「いえ。楽器に詳しいのではなくて、その名前をもらったカクテルがあるんですよ」
田中は笑った。
「ああ、そうよね」
女性が笑う。
「へえ。どんなカクテル?」
近藤が訊く。
「サイドカーのバリエーションです。ベースがウォッカになっています」
田中が答える。
「久しぶりに飲んでみたいわ。それをお願いできる?」
女性が微笑んだ。
「かしこまりました」
田中はストリチナヤ・プレミアム・ウォッカの瓶を取り出した。高品質なピュアウォッカだ。ホワイトキュラソーとレモンジュースをシェイクして作るバラライカは、さっぱりした味わいが肝なので、特に希望を言われない限りはピュアウォッカで作る。
「バラライカが、ロシアの代表的な楽器として重宝されるようになったのは、わりと最近だって知っていた?」
女性は頬杖をついて訊いた。
「いつ頃ですか」
しっかりとシェイクしながら、田中が訊く。
「19世紀。それまでは旅芸人たちが使い安価だったことから、価値のない楽器とみなされていて、喧嘩の時に殴るのに使われていることもあったらしいわ」
田中は驚きの表情を見せた。
近藤が後を続けた。
「ペテルブルグの商人ワシーリー・アンドレーエフが楽器をもっと響くように改良して、オーケストラを編成し、その良さを知らしめることに成功したんだよね。それに、ニコライ・リムスキー=コルサコフが、『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で用いるなどして、あの済んだ美しい音が世界に知れ渡ったと」
女性は、田中が「どうぞ」と前に置いた白いカクテルを見ながら言った。
「それに、なんといっても映画『ドクトル・ジバコ』ね」
「『ララのテーマ』! あれ抜きには語れないな」
近藤も同意する。
「このカクテルも、あの映画のヒットともに知られるようになったといわれています」
田中は、2人に微笑んだ。
「マスター、おすすめの肴は何かな。せっかくだから今晩はロシア繋がりで行きたいんだけど」
近藤が訊く。
「そうですね。塩漬けニシンをライ麦パンに載せたカナペ、角切り野菜をマヨネーズで和えたロシアンサラダなどでしょうか。ああ、そうだ、近藤さん、ビーツは召し上がれますか」
「うん。食べるよ」
「では、ピクルスを仕込んであるので、それをクリームチーズで和えたものはいかがですか」
近藤は頷いた。
「どれもいいね。みんなもらおう。……ええと、あなたは? 田中さんの作る肴はどれも美味しいですよ。よかったらご馳走します」
女性は、微笑んだ。
「聞いているだけでホームシックになりそう。じゃあ、喜んでご馳走になります」
それから、田中と近藤の顔を交互に見て言った。
「こちらのお店、お客さんを名前で呼んでいるのね。いいわねぇ」
「田中マスターは、お名前を言うとすぐに覚えてくれますよ。僕、2回目に来たのは2か月くらい経ってからだったんだけど、覚えてくれていたんで感激したんだよね」
「恐れ入ります」
女性はチャーミングに笑って言った。
「じゃあ、私もテストしようかしら。私、オルガ・バララエーヴァっていうの。次回、忘れずに呼んでね」
近藤が少し口をとがらした。
「それ、それほど難しくないじゃないですか」
「どうして?」
「だって、いまバラライカの話題をしたばかりで……」
「ああ、そうよね」
3人は笑った。
そうこうしているうちに、他の客も入ってきた。近藤とオルガに感化されたのか、その晩は、ウォッカ・ベースのカクテルを頼む客や、ロシア風のおつまみを見て珍しそうに注文する客が続き、なぜか「ロシア・ナイト」のようになってしまった。
リムスキー=コルサコフの『見えざる町キーテジと聖女フェヴローニャの物語』で題材にしたのは、異民族との戦いでこの世から姿を消してしまった中世の偉大な都市と、その犠牲になった人びとたちの物語だ。
オペラは、現世での栄華や民族間の戦いの虚しさを伝えようとしている。オルガの生まれ育ったスヴェトロヤール湖畔に聖なる街キーテジは、今も存在すると伝えられている。なくなったのではなくて、ただ見えなくなったのだと。
伝説によると、白い石の城壁、黄金の屋根を持ついくつもの教会や修道院、素晴らしい装飾を施した
戦いも悲しみも存在しなくなる最後の審判の日に、キーテジは再びその姿を現すようになるとヴォルガの人びとの間に伝えられている。
静かな宵に湖畔に立てば水の中に見えざる街が映し出されることがあるという。そして、夜更けに愁いに満ちた鐘の音がかすかに聞こえてくるのだと。
それは、バラライカの音色のように澄んでいるのだろうか。その幻影は、爽やかだけれども実は強いカクテルのように、すぐに人を酔わせるのだろうか。
戦いも悲しみもまだ満ちているこの世で、少なくとも今宵この店の中では、どの客たちも平和を願いつつ楽しんで欲しいと、田中は願った。
バラライカ(Balalaika)
標準的なレシピ
ウォッカ - 30ml
ホワイト・キュラソー - 15ml
レモンジュース - 15ml
作り方
材料をシェイクしてカクテル・グラスに注ぐ。
(初出:2022年11月 書き下ろし)
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食欲の秋

9月がものすごく寒くて盛り上がらなかったので、10月に入ってからは週末ごとにあちこちに行きました。10月のはじめには、日本の方がいらしてマイエンフェルトにも行ったのですが、1週間後の晴れた日に、またちょっと行ってきました。
ほんの1週間ですっかり秋色に色づいた葡萄畑。暖かくて絶好の散歩日和でした。

外のテラスで食事を楽しめるのもあと少し。この日はがっつりとお肉を食べたくてシュニッツェルを。でも、食べきれないと困るので、小さめサイズを注文しました。

そして、飲んだのがザウゼル。ワインになる前の発酵葡萄ジュースです。これも秋の味。

そして、我が家にあった日本の方にいただいた秋の味。果物は日本のものに限る! 特に梨はこちらでは洋梨ばかりなので、久しぶりの日本の梨に泣きそうになりました。
巨大な日本の葡萄。悪くならないように、粒ごとにカットしておいたのですが、こんな立派な葡萄を見なれていない連れ合いは、プラムだと思い込んで食べていました!
あ、浜松名物のうなぎパイもありますね! 美味しかったなあ。
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【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(12)計画 -2-
さて、人払いをして自分の婚活について話し出したレオポルド。まともな政治の話をしているようで、実はまたしても何かを企んでいました。
そして、『
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(12)計画 -2-
「ルーヴランの時もそうだったが、グランドロン王が行列をなしてやってきたら、向こうは当然取り繕ってよい面しか見せないようにするだろう? トリネア港や市場なども本来の姿を見るのは難しい。ましてや候や姫と家臣の関係などはまずわからない。加えてヴェールをして取り澄ました当の姫が、蓋を開けてみたらわが母上そっくりの高慢ちきだったりしたら最悪だ」
「おっしゃる通りですね」
レオポルドは身を乗り出した。
「そこでだ。余は一足先に行って、自らの目でトリネアをとくと見聞したいのだ」
一同、思わず驚きの声を漏らした。
フルーヴルーウーに到着するまでの旅だけではなく、またしても身分を隠しての旅を画策していたとは。しかも、このことを腹心であるフリッツ・ヘルマン大尉にまで隠していたらしい。もちろん予め口にしていたら、フリッツはこれほど早くここに来ることを全力で止めただろう。
マックスは言った。
「陛下。お氣持ちはわかりますが、そういう情報集めは配下の方におまかせになった方がいいのでは」
「誰に」
「例えば、ヘルマン大尉は信頼のおける部下ではないですか」
「私は陛下のお側を離れるわけには参りません。ただでさえいつもよりも護衛が少ないのですから」
フリッツは仏頂面で口を挟んだ。
レオポルドは「ほらみろ」と言わんばかりに頷いた。
「今回は人まかせにはしたくないのだ。ところで、余が道連れとして一番適任だと思うのはそなただ。そなたは平民としての旅に慣れている。一方、遍歴の教師としての資格を示せば、ある程度の貴族の家庭にも上手く入り込むことができる。さまざまな階級を少しずつこの目で見ることは余のかねてからの願いだったのだ。それに、どうだ。そなたもまた少し旅がしたいのではないか」
マックスは、そう言われると嫌とは言えない。フルーヴルーウー辺境伯としての扱いと仕事にはようやく慣れてきたが、自由に世界を旅して回った遍歴教師時代の暮らしが懐かしくてたまらないのも事実だ。この機会を逃せば次いつ旅が出来るかわからない。
「そうですね。陛下のたっての仰せを無下にするわけにはいきませんかね」
ヘルマン大尉は、よくも簡単に寝返ったなという顔をした。
マックスは抜け目なく続けた。
「枢機卿との面会に立ち会えれば、ベッケム大司教への牽制になりますよね。そもそも聖バルバラの聖遺物について教皇庁の見解を文書としていただければ、後々の問題にもならないだろうなあ。謁見の際に、陛下の信頼篤い廷臣として同席し、そちらの話題をお許しいただけるなら、平民としての旅のご指南くらいはいくらでも」
「そなたも、かなりの狐だな」
マックスまでがこのように行くと言い出してはもはやヘルマン大尉に止めることは不可能だった。
「では、私は部下たちに支度を……」
「待て。ゾロゾロ着いてこられるのは困る。やたらと護衛のいる平民一行なんてあるわけないだろう」
レオポルドが言うと、ヘルマン大尉はムキになって答えた。
「陛下が何とおっしゃろうと、私だけでもお伴いたします。これだけは譲れません」
「では、お前だけ来い。ただし、ひと言でも『陛下』などと言ったらその場に置いていくからな」
レオポルドは、諦めたように言った。
「私も一緒に参ります」
これまでずっと黙っていたラウラが突然言った。
男たちはぎょっとして彼女を見た。
「何だって?」
「私も、皆様と一緒に参ります。トリネアまで」
ラウラは、子供に言い聞かせるようにはっきりと、しかし、有無を言わせぬトーンで言った。
レオポルドはその声色をよく知っていた。書類に署名をもらうまでは後に引かぬと決意しているときの宮廷奥取締副官たるフルーヴルーウー辺境伯爵夫人はいつもこうだ。
夫であるフルーヴルーウー辺境伯の方は、ラウラにこのように迫られたことはあまりないのか、意外そうに驚きながら反対意見を述べ始めた。
「でも、ラウラ。僕たちは身分を隠していくんだ。貴族などは一顧だにしない安宿に泊まらなくてはならないし、馬車ではなくて馬に乗らなくてはならない。そんな旅は城の中で育った君にはつらいだろう。それに、僕は君の身に危険が及ばないかとても心配だ」
「旦那様。私は、ルーヴの貧しい肉屋で子供時代を過ごしたのですよ。安宿ぐらい何でもありませんわ」
ラウラはきっぱりと首を振った。
「でも、徒歩で《ケールム・アルバ》を越えていくんだよ。とてもきつい旅だ。トリネアを見たいのならば、どちらにしても陛下の訪問の行列を装った空の馬車が行くのだから、それと一緒に来た方がいい」
「今日が何の日かお忘れになっていませんか」
「え?」
「
マックスはぎょっとした顔をし、成り行きを見守っていたレオポルドは破顔して笑い出した。
「そなたの負けだ、マックス。奥方さまは何が何でも我々と一緒に旅をしたいらしい」
ラウラは微笑んだ。
「森を越えて、いつか遠くへ旅をしてみたい。あなたと同じようにいろいろな世界を見て回りたい。ずっと夢だったんですもの。どうぞ私もお連れください。お邪魔にならないようにいたしますから」
アニーが叫んだ。
「では、私も参ります! 殿方には、ラウラさまのお世話はできませんもの」
ヘルマン大尉は、ムッとしたようにアニーを見たが、貴婦人の世話は出来ないことは間違いなかったので反論しなかった。
「これ以上、同行者が増えると困るから早く話を進めよう。準備が整い次第、ここを発つぞ」
レオポルドは、ため息をついた。
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