【小説】漆喰が乾かぬうちに
今月のテーマは、スイス・エンガディン地方の典型的な壁面装飾スグラフィットです。本文でも説明がありますが、もっと詳しく知りたい方は追記をご覧ください。
あまり説明臭くなるので書きませんでしたが、スイスの若者は進路がだいたい16歳前後で別れます。大学進学を目指す限られた子供たちをのぞき、義務教育を終えた子供たちは職業訓練を始めます。週に数日働いて少なめのお給料をもらうと同時に、週の残りの日は学校に行くというスタイルを数年続けると、職業訓練終了の証書がもらえて一人前の働き手として就職できるというしくみになっています。

漆喰が乾かぬうちに
ウルスラは、誰と帰路についたのだろう。テオは砂と石灰をかき混ぜながら考えた。3月も終わりに近づいたとはいえ、高地エンガディンの屋外は肌寒い。
だが、作業をするには適した日だ。数日にわたり晴れていなければならない。けれど、夏のように日差しが強すぎれば、漆喰は早く乾きすぎる。スグラフィットの外壁は、現在では高価な贅沢であり、失敗は許されない。職人見習いであるテオに、「今日は休みたい」と、申し出ることなど許されるはずはない。
昨夜は、村の若者たちが集まって過ごした。それは、テオにとっては、楽しかった子供時代のフィナーレのようなものだった。
3月1日には、伝統的な祭『チャランダマルツ』がある。かつての新年であった3月1日に、子供たちが首から提げたカウベルを鳴らしながら、冬の悪魔を追い払いつつ村を練り歩く。
現在では成人とは18歳と法律で決まっているけれど、かつては堅信式を境に子供時代が終わり、長ズボンをはいて大人の仲間入りをした。その伝統は、今でも残っていて、例えば飲酒や運転免許の取得などは法律上の成人を待つけれど、祭の参加での「大人」と「子供」の境は、堅信式を行う16歳前後に置かれている。
それは皆が一緒に通った村の学校を卒業して、それぞれの職業訓練を始める時期とも一致している。
去年の8月からスグラフィット塗装者としての職業訓練を始めたテオにとって、今年の『チャランダマルツ』は、最年長者、すなわち「参加する子供たち」として最後の年だった。
テオと同い年の8人が子供たちの代表として、村役場と打ち合わせを重ね、馬車を手配し、行列のルートを下見し、打ち上げ会場の準備もした。祭の最中は、小さい子供たちの面倒を見るのも上級生の役割だ。行列に遅れていないか、カウベルのベルトを上手くはめられない子供はいないか、合唱のときにきちんと並ベているか、確認して手伝ってやる。
祭が終わった後は、小学校の講堂を使ってダンスパーティーもした。テオは、音響係として、楽しいダンスで子供たちが楽しむのを見届けた。
昨夜は、8人の代表たちが集まって、打ち上げをした。それぞれが、はじめて夜遅くまで外出することを許され、14歳から許可されているビールで乾杯した。ハンスやチャッチェンは金曜日だからとベロベロになるまで飲んでいたが、テオは2杯ほどしか飲まなかった。今日、朝から働かなくてはならなかったからだ。
それで、11時には1人で家に帰った。本当はウルスラを送って行きたかった。
音響係だった3月1日のパーティーでは、ダンスに誘いたくてもできなかったから、せめて昨夜の打ち上げでは近くに座って、今より親密になりたいと思った。けれど、それも上手くいかなかった。酔っ払ったハンスとチャッチェンが大声でがなり立てるので、静かに話をすることなど不可能だったのだ。
ウルスラのことが氣になりだしたのは、去年の春だった。それまでは、ただの幼なじみで、子供の頃からいつも同じクラスにいた1人の少女に過ぎなかった。
テオは、1つ上の学年にいたゾエにずっと夢中だった。ゾエは華やかな少女で、タレントのクラウディア・シフによく似ていて、化粧やファッションも近かった。卒業後は村を離れて州都に行ってしまった。モデルとしてカレンダーで水着姿を披露するんだと噂が広がり、小さな村では大騒ぎになった。
テオは、スグラフィット塗装者としての職業訓練を始めるか、それとも他のもっと一般的な手工業を修行するために、州都に行くか迷っていた。ゾエが村を離れるとわかったときに、心の天秤は大きく州都に傾いた。
スグラフィットは16世紀ルネサンス期のイタリアで、そして後にドイツなどでも流行した壁の装飾技法で、2層の対照的な色の漆喰を塗り重ね、表面の方の層が完全に乾く前に掻き落として絵柄を浮き出す。スイスではグラウビュンデン州のエンガディン地方を中心に17世紀の半ば頃よりこの技法による壁面装飾を施した家が作られるようになった。
アルプス山脈の狭い谷の奥、今でこそ世界中の富豪たちがこぞって別荘をもつようになった地域も、かつてはヨーロッパの中でも富の集中が起こりにくい、比較的貧しい地域だった。
ヨーロッパの多くの都市部で建てられた石材を豪華に彫り込んだ装飾などは、この地域ではあまり見られない。それでも、素っ氣ない単色の壁ではなく、立体的に見える飾りを施したのだ。
角に凹凸のある意思を配置したかのように見える装飾、幾何学紋様と植物を組み合わせた窓枠、または立派な紋章や神話的世界を表現した絵巻風の飾りなど、それぞれが工夫を凝らした美しい家が建てられた。
モチーフは違っても、2層の色が共通しているので村全体のバランスが取れていて美しい。ペンキによる壁画と違い、スグラフィットで描かれた壁面装飾は、200年、時には300年も劣化することなく持つ。
だが、この装飾はフレスコ画と同じで、現場で職人が作業することによってしか生まれない。工場での大量生産はできないし、天候や氣温にも左右される、職人たちの経験と勘が物を言う世界だ。どの業界でも同じだが手工業の世界は常に後継者問題に悩まされている。
テオは、子供の頃から見慣れていたこの美しい技法の継承者としてこの谷で生きるか、それとも若者らしい自由を満喫できる他の仕事を探すかで揺れていた。最終的には、親方やスグラフィットの未来を案じる村の大人たちが半ば説得するような形で、彼の決意を固めさせた。州都に行ったゾエがよくない仲間と交際して学校をやめたらしいという噂もテオの心境に変化をもたらした。
スグラフィット塗装者としての職業訓練が決まった後、同級生の間では少しずつ親密さに変化が出てきた。テオはずっと村に残る。ハンスやチャッチェンは、サンモリッツで職業訓練を受けることが決まり、アンナは州立高校に進学する。
同級生の中で、一番目立たない地味な存在だったウルスラは、村のホテルで職業訓練をすることが決まり、週に2日の学校の日はテオと一緒に隣の村に行く。ほとんど話をすることもなかったのだが、それをきっかけに『チャランダマルツ』の準備でもよく話をするようになった。口数は少ないけれど、頼んだことは必ずしてくれるし、どんなに面倒なことを頼んでも文句を言うことがなかった。
3月1日の『チャランダマルツ』が終わってから、1か月近くテオは奇妙な感覚を感じていた。忙しくて煩わしかったはずの『チャランダマルツ』の準備が終わり、同級生たちと会うことがなくなった。仕事と学校だけの日々。時に親方に叱られながらも、漆喰の準備や工房で引っ掻く技法の訓練をしていた。
学校に行く日は、なんとなくウルスラの姿を探した。でも、先々週、彼女は風邪をひいて学校を休んだし、その後は学校が1週間の休暇になった。その間に、彼は落胆している自分を見つけて、驚いた。
だから、打ち上げで彼女に会うのが楽しみだった。ウルスラは、元氣になってそこにいたけれど、アンナやバルバラと話をしていて、またはテオがほかの人に話しかけられていてほとんど話ができなかった。
明日が早いからと、彼だけ帰るときに、ウルスラが何かを言いたそうにしていたのをテオは見たように思った。もしかしたら自分の思い過ごしかもしれないけれど……。テオは、少し落ち込んでいた。
「おい、テオ。聞いているのか」
親方が、呼んでいた。
「えっ。すみません」
テオは、親方が見ている手元を自分も見た。
「お前、配分間違えていないか。いくら何でも色が濃すぎるぞ」
確かにそれはほとんど真っ黒だった。
「すみません」
「昨夜は遅くまで飲んでいたのか」
親方は訊いた。小さい村のことだ。同級生が打ち上げをする話は、簡単に大人たちに伝わってしまう。
「いえ。11時には帰りました」
でも、このざまだ。テオはうなだれた。
「まあ、まだ塗っていないんだから、取り返しはつくさ。だがな。こういうときのやり直しには、長年の勘が必要なんだ。まだお前には無理だな。どけ」
そう言って、親方は石灰の粉を持ってテオが作っていた塗装混合物の色調整を始めた。
石灰と砂、そして樽で保存されている秘伝の石灰クリームが適切な割合で混ざり、完璧な硬さの下地が用意されていく。
「さあ、行くぞ」
親方は、大きいバケツを持って村の中心へと向かった。泉のある広場の近くに今日の現場はある。壁面全部ではなくて、門構えの修復だ。
不要な部分に漆喰がかからないように、プラスチックのフォイルとマスキングテープで保護をしていく。それから、バケツに入っている濃い灰色の漆喰を丁寧に塗っていく。
午前中は瞬く間に過ぎた。幸い、漆喰は時間内にきれいに塗られた。午後の太陽が、かなり濃い灰色をゆっくりと乾かしていくだろう。今日と明日は雨が降らないだろうから、理想の色合いになるはずだ。
「さあ、少し遅くなったが飯の時間だ。帰っていいぞ」
バケツや塗装道具を工房に運び込んだところで、親方が言った。親方の自宅は工房の上で、女将さんが用意したスープの香りが漂っている。
「あ。今日は、うちには誰もいないんで……」
テオはパン屋でサンドイッチでも買うつもりで来た。
「なんだ。この時間にはもうサンドイッチは残っていないかもしれないぞ。うちで食っていくか?」
「いえ。だったらそこら辺で何かを食べます」
テオは、頭を下げて工房から出た。もう1度村の中心部に戻ると、意を決してホテルのレストランに入っていった。
「あら。テオ!」
声に振り向くと、そうだったらいいなと想像していたとおり、ウルスラがいた。
「やあ。君も今日、出勤だったんだね」
彼が訊くと、ウルスラは頷いた。
「土日休みの仕事じゃないし……。でも、幸い今日は遅番だったの。テオは昼休み?」
ウルスラは不思議そうに訊いた。ランチタイムにテオがここに来たのは初めてだったから。
「うん。今日は、母さんが家にいないから、パン屋でサンドイッチを買うつもりだったんだけど、ちょっと遅くなっちゃったんだ。……スープかなんか、あるかな?」
スープなら、さほど高くないだろう。そう思ってテオはテーブルに座った。ウルスラは、メニューを持ってきた。
「今日のスープは、春ネギのクリームスープよ。あと、お昼ごはん代わりなら、グラウビュンデン風大麦スープかしら?」
テオは頷いて、メニューをウルスラに返した。
「腹持ちがいいからね。じゃあ、大麦スープを頼むよ。あと、ビールは……仕事中だからダメだな」
「じゃあ、リヴェラ?」
そう訊くウルスラに、彼は嬉しそうに頷いた。乳清から作られたノンアルコールドリンク、リヴェラはスイスではポピュラーだけれど、同級生の多くはコカコーラを好んだ。でも、テオがコーラではなくてリヴェラをいつも頼むことを彼女は憶えていたのだ。
柔らかい春の陽光が差し込む窓辺に立つ彼女の栗色の髪の毛は艶やかに光っていた。民族衣装風のユニフォームも控えめなウルスラにはよく似合う。彼女は、リヴェラと、それからスープにつけるには少し多めのパンを運んできてくれた。
「昨夜は、遅かったのかい?」
テオが訊いた。
「12時ぐらいだったわ。みんなは、もう1軒行くって言ったけれど、私は帰ったの」
ウルスラは笑った。
「誰かに送ってもらった?」
すこしドキドキしながら訊くと、彼女は首を振った。
「まさか。男の子たち、あの調子で飲み続けて、自分面倒も見られなさそうだったわよ」
「そうか。じゃあ、僕がもう少し残って、送ってあげればよかったな」
そういうと、ウルスラは笑った。
「こんなに近いし、こんな田舎の村に危険があるわけないでしょう。……でも、そうね、次があったら送ってもらうわ。テオは、ひどく酔っ払ったりしないから安心だもの」
ウルスラは、他の客たちの給仕があり、長居をせずに去って行った。それでもテオは幸福になって、大麦スープが運ばれてくるのを待った。
テオは、先ほど塗ったばかりの塗装のことを考えた。下地の灰色が乾いたら、上から真っ白の漆喰を塗り重ねる。その漆喰が完全に乾く前に、金属で引っ掻くことで灰色の紋様が浮かび上がる。そうして出来上がるスグラフィットは、地味だけれども何世紀もの風雨に耐える美しい装飾になる。
チューリヒや、ベルリンやミラノ、パリにあるような面白いことは何も起こらない村の日々は、退屈かもしれない。でも、スイスの他の州では見られない特別な風景と伝統を過去から受け継いで未来に受け渡す役目は、そうした大都会ではできないだろう。
ウルスラが、スープを運んできた。素朴な田舎料理の湯氣が柔らかく彼女の周りを漂っている。村に残って、ここで生きていくことを選んだのは大正解みたいだ。
テオは、今日塗った漆喰が乾く前に、彼女をデートに誘おうと決意した。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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また買っちゃった

スウェーデン刺繍のキット、「コースター5枚セット」と、「ポーチ」をそこそこ満足いく具合に完成させて、「これは軽ーく趣味として続けられそうだぞ」と思ったので、日本にしかない専用布を買って送ってもらうことにしました。
個人的な今の目標は、そろそろボロボロになってきたランチョンマットを作ることです。そして、ついでに小さいコースターもときどき作るくらいの小さな楽しみにしたいなと。
以前の記事で書きましたが、刺繍糸のたくさん入ったセットを購入したのですけれど、私が使いたい緑系の糸が少し少ないなと思っていたのですよ。そして、布を抑えるのにこれまではまち針を使っていたのですけれど、使い勝手を考えてクリップを購入することにしました。その時に、ついでにこの緑の刺繍糸セットが目に入ったので買っちゃいました。
これは、翌日見たらもうなくなってしまっていたので、おそらく最後の1つを買えたのだと思います。
ついでに、刺繍糸を整理するための箱がほしかったので、それも注文することにしました。はじめてみてわかったのですけれど、刺繍って、だんだん使った糸の糸巻きが増えて、カオスになってくるのです。写真にあるような、透明で使いたい糸がどこにあるのか一目でわかる箱がほしくなったのですね。
探してみたら、空の箱よりも刺繍糸が入っている方が安いという謎の現象があったので、刺繍糸入りを買ってしまいました。
結局、刺繍糸が多すぎるというようなことになってしまったのですけれど、まあ、それはおいおい刺繍していけばいいかと思うことにしました。それに、刺繍だけではなくて、繕い物にも使う予定なので、いいですよね。
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【小説】ウサギの郵便
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第10弾、ラストの作品です。大海彩洋さんは、大河ドラマの第二世代である「ピアニスト慎一」シリーズの作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
大海彩洋さんの書いてくださった『【ピアニスト慎一シリーズ】光ある方へ 』
大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。いろいろなことに造詣が深いのは、みなさんご存じの通りです。今回は大河小説「真シリーズ」のメインキャラの1人、ピアニストでもある相川慎一のお話を別の人物の視点から語ってくださいました。私も大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第3番をメインモチーフに書いてくださった重厚な作品です。
お返しどうしようか悩んだのですけれど、今回は彩洋さんの作品とも、ラフマニノフはもちろんのことクラシック音楽とも関係のない作品にしてみました。いや、ラフマニノフの2番をメインモチーフに作品書いた、めちゃくちゃチャラいピアニストとか出している場合じゃないだろうと思ったんですよ。
かすっているのは「亡くなった人からの手紙」だけです。あまりにも遠いので、どこが彩洋さんの作品へのお返しなのかとお思いでしょうが、個人的に、私の今の心情的に、これがお返しです。
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ウサギの郵便
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
家具が全てなくなり、がらんとした窓の向こうに、まだ眠っている庭が見えた。施設の中で割り振られたこの部屋は、偶然にも外に小さな薔薇園とハーブ園があって、生涯にわたって庭仕事を愛してきた母親の最後の住処としてはこれ以上望めない僥倖だと喜んだのが昨日のことのようだ。
彼女は、この部屋に2年半住んだ。たった1週間前には、カリンはここをこんな風に片付けるとは思いもしなかった。このように空っぽの部屋を見るのは2度目で、その時は、誰か親族が一定の期間住んだ痕跡を消し去る作業をしたことを想うことはなかった。思ったよりも早く施設に空き室が出たことを単純に喜んだだけだ。
父親が亡くなってから10年以上住んだ4部屋もあるフラットでの1人暮らしが難しくなり、2年ほど訪問看護の世話になった後、母親は自らの意思で老人施設に入ることを決めた。トイレとシャワーのついた部屋は、キッチンや冷蔵庫・洗濯機などはないものの、備え付きのベッドとテーブルや椅子・ウォークインクロゼットの他に、小さな家具や装飾品などを運び込むことが許されていて、それぞれが小さいながらも自分のプライベートな生活を楽しむことができた。
とはいえ、それまでの暮らしで持っていたたくさんの家具や衣装、寝具、家電などの多くを処分することになった。カリンと、遠くで暮らす姉や弟が受け継いだものもあるが、亡くなった父の遺品を始め多くの品物をその時点で処分することになった。
カリンが受け取ったのは、高価な食器や花瓶などの日用品が大半で、カリン自身が子供の頃に使っていたものなどの大半は処分してもらった。
「これは? 持っていきたいんじゃないの?」
カリンは、その記憶をたどる。その時に母親が見せてきたのは大きいウサギのぬいぐるみだった。郵便屋の制服を着てバッグを斜めがけにしているもので、子供のときの一番のお氣に入りだった。
「やだ。こんなの、まだとってあったの?」
「だって、あなたがとても大切にしていたんだもの。捨てられないわ」
「それは子供の頃だもの。心置きなく捨てちゃっていいわよ。それとも、私がセカンドハンドショップに持っていく?」
そういうと、母親は残念そうに眺めていたがこう言った。
「喜ぶかもしれない女の子を知っているから、要るか訊いてみるわ」
カリンは、それを覚えていたらいいけど、という言葉を飲み込んだ。足腰だけでなく、記憶力が衰え始めたために1人暮らしが困難になって施設に入ることになったのだが、それを指摘するのは残酷すぎる。それに、カリン自身の忙しい生活の中で、徒歩で10分以内の距離とはいえ常に観察し続けることは不可能だったので、ようやく施設に行くことを決意してくれてホッとしていたことへの後ろめたさもあった。
ほぼ毎日のように様子を見にいっていた1人暮らしの頃と比較して、施設に入ってからはずっと楽になった。それでも、毎週、必ず訪問しているのは自分だけで、年に2回ほどしか訪問しない姉と弟についてズルいという想いを持つときもあったし、記憶を失って同じ言葉を繰り返す母親に苛つきぎみに返答してしまうことに落ち込むこともあった。
たった1週間ほど前まで、それは終わりの見えない日常だった。それが突然に亡くなり、そんな風に解放されることは望んでいなかったと枕を涙で濡らす日々だ。
思い出すのは、ここ数週間に交わした会話のあれこれだ。
「もうじき春が来るといいわ」
彼女は、訪れる度に同じことを口にした。そう言ったことを、20分後には憶えていなかった。
昔は春が近づくと「もうじきカリンちゃんのお誕生日ね」と言っていた母親。成人してからはカリン自体が4月に楽しみにするのは復活祭の連休であって自分の誕生日には興味を示さなくなった。それでも、毎年祝っていてくれた母親が、物忘れがひどくなってからはそれも言わなくなった。
彼女が春を待つ理由はなんだろう。私の誕生日は憶えていないし、でも復活祭は待っているのかしら。
「もうじき春が来るといいわ」
何度もそう告げる母親に、カリンはうんざりしたように答えた。
「そもそも冬なんか来なかったようなものじゃない」
今年の冬はとても暖かかったので、1月にはヘーゼルナッツの花が咲いてしまったし、ダフネの花もクリスマスの頃からずっとダラダラと咲いていた。
それでも母親は、窓の外を見ながら言った。
「でも、まだ外で散歩するには早いもの。春になったら……」
カリンは、それで申しわけのない心持ちになって少し柔らかい言葉を使わなくてはと思った。
母親がかつてのように外を出歩けないのは、寒い冬のせいではなくて、歩くのがおぼつかなくなっていたからだ。足がむくみ、それを改善するためにと、施設のケアマネージャーの指示で足には強めに圧力バンドが巻き付けられ、それの痛みと暑さで、彼女は以前にも増して室内で座って過ごすようになっていた。
本を読み、編み物をする。施設の中で与えられた部屋の空間は十分すぎるほどに広いし、彼女はまったく不満を漏らさないけれど、だからといって彼女が幸せの絶頂にいると勝手に判断するべきではなかった。
カリンはそれらの、たった2週間ほど前に心の中にあった逡巡を思い出して涙を流した。母親を大切に思う氣持ちと、苛立ちとを何度も行き来していたあの日々に、母親はその場に、この世界にカリンと共にいたのだ。
今は、こんなに春めいている午後に、それをひたすら待っていた母親のいない部屋に立っている。
家具を自宅の屋根裏へ運び、残っていた衣類や小さな電化製品などをセカンドハンドショップに引き取ってもらい、ほぼ何もなくなった部屋は、掃除をしてゴミと残りの小さな私物を運び出して、ケアマネジャーと確認するだけになっている。
庭に通じるガラス戸を開けると、まだ眠っている庭の脇に、母親が鳥用に吊していたボール状の餌が見えた。そして、その横に小さなプラスチックの卵がつるしてあった。イースターエッグを吊すにはまだ早かったのにね。カリンは、また少し涙ぐんだ。イースターを待っていたんだね。
ノックが聞こえたので、カリンは目許を拭って振り向いた。そこには、ケアスタッフのユニフォームを着た女性が立っていた。
「リエン……」
カリンは、その女性を知っていた。かつて母親の住んでいたフラットの隣人だったベトナム人だ。
「心からお悔やみ申し上げます。一昨日ベトナムから帰ってきて、昨日出勤したらマルグリットが亡くなったって聞いて、私ショックで」
リエンは、涙ぐんでいた。
「どうもありがとう。あなた、ここで働いていたのね。知らなかったわ」
カリンが言うと、リエンは頷いた。
「マイが学校に入ったので、去年の秋から働き始めたんです」
カリンは頷いた。それから、不思議そうにリエンが手に抱えている袋からのぞいているものを見た。リエンは、頷いて中からウサギのぬいぐるみを取りだした。
「これ、マルグリットが、ここに入るときにマイにくれたぬいぐるみなんですけれど……」
「ええ。これ、昔は私のものだったの。母は、あのとき誰かにあげたいと言っていたけれど、マイのことだったのね」
「そうだったんですね。その、それで……」
リエンは袋からウサギのぬいぐるみを出すと、ウサギがしている郵便鞄のボタンを外して中を見せた。
「あ……」
そこには小さな封筒が入っていた。リエンは、それを取りだしてカリンに渡した。
「ごめんなさい。これに氣がついたのは、2か月前なんです。でも、ウサギをもらってから2年も経っているし、次に出勤するときにマルグリットに返せばいいかと思って、そのままベトナムに帰省しました。でも、昨日訃報を聞いて……。これはマイに宛てた手紙じゃないので、お返しした方がいいと思いました」
カリンは震える手で封筒を開けて、手紙を読んだ。
カリンちゃん、7歳のお誕生日おめでとう。
あなたの健やかな成長と幸せを祈って、このウサギを贈ります。
ウサギのように元氣よく飛び回ってください。
好奇心いっぱいに世界を嗅ぎまわってください。
たくさん食べて、ぐっすり眠ってください。
そして、悲しいことや辛いことがあっても、次の朝にはすっかり消えてしまいますように。パパとママより
カリンは、リエンの前だということも忘れて泣いた。母親は、ぬいぐるみの鞄にこの手紙を入れたままにしていることを忘れて、ウサギをマイにあげたのだろう。
カリン自身はこの手紙の存在は全く憶えていなかった。子供の頃は意味がよくわからなかっただろうし、わかっていたとしても今ほどの重みは感じなかっただろう。
リエンは、号泣するカリンの背中をしばらく撫でていたが、やがて言った。
「このカードだけじゃなくて、もしかしたらこのウサギも、今のあなたに必要なんじゃないかと思って、持ってきました」
「だって、マイが悲しむんじゃないかしら?」
「いいえ。マイはほかにもたくさんぬいぐるみを持っていますから、大丈夫です」
カリンは、礼を言ってウサギを受け取った。リエンが去った後、しばらく部屋の中で座っていた。
自分の子供が成人するような年齢になって、大きなぬいぐるみを抱えることになるとは思わなかったけれど、今はたしかにこの温もりが必要だった。
ぬいぐるみに顔を埋めると、長いこと忘れていた今はない実家の絨毯に転がったときと同じ香りがした。まだ子供で、自分も両親もこの世からいなくなるようなことが、まったく脳裏になかった幸福な時代。
大切な人がいなくなり、何もなくなったがらんどうの部屋に、ウサギの郵便屋が遅くなった郵便を届けに来た。
想いも絆も消えていない。ただ、遠く離れただけだ。これから幾度の春を、あなたなしで迎えることになるのだろう。その度に、私はこの手紙を読んではウサギを抱きしめるのだろう。
カリンは、葬儀の日にうたった賛美歌を口ずさみながら、部屋の中に夕陽が入ってくるのを眺めていた。
また会あう日まで、
また会あう日まで、
神の守り
汝が身を離れざれ。「賛美歌 405 かみとともにいまして」より
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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空見 2023

ギリギリになっちゃったけれど、今日中にアップしておきます。
今日は、もぐらさん主催の「空見の日」。スイスで青い空を眺めました。
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春です

スイスはすっかり春めいてきました。この冬はアメリカやヨーロッパの他の国と違い、スイスの私の住む地域はものすごい暖冬でした。12月の初めに雪が降って、それっきりで、3月に入ってから1度だけ降ったのですが、すぐに溶けてしまいました。
問題は、今後の水不足ですが、幸いここのところ八家に雨が降ることが多いので、少しでも水不足が解消することを祈っておきます。
普段よりも暖かかったので、春の花は軒並み開花しています。普段なら4月に入ってから咲くような野の花がどんどん咲いていますし、去年植えた西洋ヨモギやレモンバーム、それに薔薇の葉なども次々と芽吹いてきています。
さて、昨年は5月くらいまで何もしなかった庭仕事ですが、今年は既に最初のステップを踏み出しました。
昨年は連れ合いの工場にある大きめのプランターだけで仮にさまざまな野菜を育てたのですが、そのプランターの枯れ枝などを取り除き、土を梳いてもう少し暖かくなるのを待つことにしました。3月なので、冷涼なスイスではまだ植えられるものが限られているのですが、土にコンポストを混ぜ込んだ里などの作業は早めにしておくに限ります。見ると、もう立派なミミズなども活動していました。

そして、今年は隣人の好意で畑の一部を借りられることになりました。上の写真では手前に移っている部分です。ほんの小さなスペースとはいえ、去年の野菜類を作ったプランターの面積と比較すると、たぶん6倍くらいの量を植えることができます。
ここに、まずはサラダ類と大根の種とのらぼう菜の小さな苗を植えてみました。4月以降に、もう少し別の作物も順次植えてみます。あと今年は豆類やサツマイモも本格的に作ってみたいなあ。
工場脇のプランターの方は、かなり深さのいるゴボウや、屋根が必須のトマトなどを植えていこうと思っています。
去年は笑っちゃうくらいのわずかな収穫で、自作野菜が食卓に上ったこと自体を喜ぶ程度でしたが、今年の目標は野菜の購入が半分くらいになるくらいでしょうか。頑張ります。
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【小説】藤林家の事情
今週の小説は、「scriviamo! 2023」の第9弾です。
山西 左紀さんは、もう1つ掌編でご参加くださいました。ありがとうございます!
山西左紀さんの書いてくださった「ドットビズ 隣の天使」
今年2本目の作品は、「隣の天使」シリーズの1つです。といっても過去の作品とは直接関係がないようです。賭け事が大好きで世間的に見ると若干問題があるような行動の兄ちゃんと、世間の評価なんて全く意に介さない自分軸のはっきりした女の子の風変わりな関係が面白い作品でした。
この作品に直接絡む要素はなさそうでしたので、今回は単純に「周りが見ている関係は、本人たちにはどうでもいい」をテーマにちょっとあり得ない世界を書いてみました。
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藤林家の事情
——Special thanks to Yamanishi Saki-san
暖かくなると、女たちも噂話の度に凍えなくて済む。今日のようにポカポカしているとなおさらだ。
「見てみて。山田さんのところの……」
「あ。本当だ、いい目の保養になるわねぇ」
彼女たちが眺めているのは、半年ほど前に7階に越してきた若い男性だ。こざっぱりとした身なりで、すらりと背が高く、非常に整った顔立ちをしている。
「俳優なんですって」
「ああ、そういう感じね~。テレビには出ていなさそうだけど……」
「まあ、テレビでよく見るくらい売れていたら、ああいう方とは住まないわよね」
意地の悪いクスクス笑い。それが半分やっかみだとわかっていても、彼女たちは山田淑子へ辛辣な評価をしてしまうのだった。彼らが引っ越してきた当初、同じマンションの住人たちの多くは2人が親子、まはた祖母と孫なのだと勘違いしていた。
それを確認する、婉曲表現を交えた挨拶に、淑子はにこやかに答えたのだ。
「いいえ。ヒロキは私のパートナーですのよ」
噂は瞬く間にマンション中に広まった。7階はもっとも広く日当たりのいい部屋のある階で、値段も高い。そこを建設中に2軒購入し、壁を取り去って大きな1軒にした人がいた。投資目的で買ったのか、しばらくは誰も入居しなかった。そこに入居してきたのが、そんな曰く付きカップルだったので、なおさら噂話の格好の餌食となったのだ。
買い物の袋を持っているのは、常に「売れない俳優」ヒロキだ。淑子だけで外出する姿はあまり目撃されない。たいていヒロキが一歩下がって付き添っている。
淑子の服装は、同年代の女性を考えると派手めだというのが、近所の女たちの評価だ。趣味が悪いというわけではない。だが、例えば紫だと薄紫などよりもはっきりとした京紫を使うし、柄も小花柄などは好まず、市松やウロコ柄、麻の葉といった幾何学紋様をアレンジしたものが多い。
「いやぁね、自分を客観視できないって。それに、あんなに若くて素敵な男性がお金目当て以外の理由で自分を選ぶとでも思っているのかしら」
「ほんっとよね。さっきも外でね、あの人、ちょっと派手めのお姉さんに因縁つけて追い返していたわよ」
「ああ、あれ、イケメンくんが連絡先きかれていたからよ。そりゃあ、真っ青になって追い払うでしょうね。おかしいわぁ」
「坊。何度申し上げたらわかるんですか。今年の減点はすでに6点ですよ。平均点がこのざまだと、来年も本家には戻れませんが、それでいいんですか」
部屋に戻ると、淑子は詰問をはじめた。
「ごめんよ、篠山。先週現れたばかりだし、またくノ一で接触してくるとは思わず油断しちゃったんだよ」
この青年、山田ヒロキとは、世を欺く仮の名で、本名は藤林光之助という。忍法藤林家の跡取りであり、当主弦一郎の長男である。
藤林家のしきたりとして、跡取りは都で一定期間の修行をしてはじめて認められることとなっている。修行期間中には、見聞を広め、当主にふさわしい知見を得ると同時に、仮想敵からの接触に正しく対処し、『三十三の宝』といわれる仮の宝物を1つでも多く守り抜くことが期待されている。
つまり、やがて当主となる人物の修行と、全国の一族郎党に跡取りが当主としてふさわしい才覚の持ち主であることを明らかにするためのシステムである。『三十三の宝』を1つ1つ自力で取得した後に、それを修行期間中守り抜く事が要求される。
一方、全国の一族郎党にとっては、修行中の跡取りが手にした『三十三の宝』を奪取することで、個人としての才能が認められ本家での要職につく絶好の機会であり、腕に覚えのある忍びが次々に跡取りの周囲に集まってくる。
顔だけはいいものの、かなりぼんくら若様である光之助は、物理的攻撃だけでなく、すでに数回のハニートラップに引っかかっており、修行を始めて2年のうちに『三十三の宝』の9品を失っていた。
また、年間の平均減点が10点を下回ることがなく、このままでは跡取りとして本家に戻れる可能性が限りなくゼロに近いと思われたので、急遽今年からお付きが変更となり、分家の篠山がサポートにつくことになったのだ。
篠山を引っ張り出したということは、すなわち実権を握る前当主俊之丞が孫息子に対して絶望的な見解を持っていることを意味している。
俊之丞は、忍び界では藤林家きっての名当主として知られていた。
40年ほど前の跡取り修行期間は最低限の2年のみ、失点はたったの2点だった。歴代当主の総合失点がおおむね10点前後であることを鑑みると、それだけでも有能なことは証明されているが、『三十三の宝』も奪われたのはたったの1品だった。
そして、奪ったのは他ならぬ篠山だった。
藤林で篠山に何かを命じることできるのは、前当主俊之丞とその妻の壱子だけだと言われている。『鬼の篠山』と言われた亡き夫ですら、彼女の納得しない事を強制することは不可能だった。現当主である光之助の父親、弦一郎も篠山に連絡をするときは書状のみ、失礼だというので電話をかけることはしない。
「明日は、合羽橋に行きます。手順は、おわかりですね」
篠山は、光之助が冷蔵庫にしまおうとした薄切り肉のパックを目にも留まらぬ速さで奪った。ぼうっと顔を見てくる若者をじろりと睨むと、卵を取りだし、調理台の方に移動した。
「ええっと、なんか小刀を受け取るんだったっけ?」
光之助は、父親弦一郎から送られてきた指示の巻物を広げながら、ところで合羽橋ってどこだっけなどと情けないことを考えていた。
「韮山の雪割れ花入れ、です。なんのことだかおわかりですよね」
まず、炒り卵、それから甘辛く味をつけた薄切り肉にさっと火を入れて、絹さや、甘酢生姜とともに丼にしたものを食卓に運ぶ。
ぼーっと座っている光之助は、首を傾げた。
「花入れってことは、陶器かな?」
篠山が、さっと何かを投げた。頬杖をついている光之助の右手1センチのところで風を切って曲がると、それは回転して箸置きの上にきちんとおさまった。竹の箸だ。
「怖っ。怪我したらどうすんだよ」
「これっぽっちを避けられずに当主になれるとお思いですか。それに何度言ったらわかるんですか。ボーッと座っていないで、食膳を用意なさい」
光之助は、とりあえず頭を下げた。
「すみません」
子供の頃から甘やかされた彼は、いまだに怠惰な行動を取ってしまうが、これまでのお付きと違い篠山に楯突くと後でどれほどキツく指導されるかこの半年で十分に学習していた。
手早く用意されたお吸い物も食卓に運び、自分も座ると篠山は冷たく光之助の無知を指摘した。
「韮山の雪割れといったら竹に決まっているんですよ。明日、行っていただくのは竹製品の専門店です」
「そんなもんまで『三十三の宝』に入っているんだ。竹の花入れなんてゴミみたいなもんじゃん」
「ゴミ……。千利休の愛用品ですが」
「えっ?」
「とにかく今回の品は小さくて奪いやすいので、十分に注意してください。受け取りに時間をかけすぎないこと。また、前回みたいに必要以上にキョロキョロしないことをおすすめします」
光之助は、前回の失敗を反省しているようには見えなかった。篠山はため息をつきながら青年を見た。惚れ惚れするような美しい所作で吸い物の椀を手にしている。忍びとしては入門したての7歳児よりも使えない男だが、役者としての資質は十分すぎるほどにある。本人をよく知らなければ、「ものすごくできる男」「信じられないほどの切れ者」と勘違いさせるだけの立ち居振る舞いはできるのだ。
これまでのお付きや身の回りの世話をしてきた者たちが、教育に失敗してきたのは、ひとえにこの青年の外見と中身のギャップに慣れることができず、結局は甘やかすことになったからだった。
残念ながら、藤林家の当主たるものは、台本を覚えて堂々と振る舞えればいいというものではないので、俊之丞は篠山に頭を下げることになった。
表向きは、跡取り修行中の光之助の世話をする老女という体裁を取っているが、実際には外で行動するときの警護ならびに任務のサポートに加えて、屋内では忍びとしての再訓練も行っていた。
合羽橋は浅草と上野の中間に位置する問屋街の通称であり、さまざまな調理器具、食器、食品サンプルなど料理に関するものはなんでも購入できると評判で観光客にも人氣がある。専門店の数は170を超えると言われる。中には江戸時代からの老舗もあり、さらにその中の一部は藤林の系列一族が経営していた。
竹製品専門店「林田竹製品総合店」の店主である林田もまた藤林の出身である。隣の食料サンプル店のポップな店構えに押されて、小さな竹製品専門店があることすら氣づかれないことが多いが、高齢の店主と地味な従業員ならびにパートの女性だけで回すのは難しそうなほど、店は奥に深く大量の商品を扱っている。
光之助は指示書の通り、クレーマーを装って店主の林田と直接話すことになっていた。だが、パートの女性がやたらとにこやかに対応するので、うまく店主を呼び出すところまでたどりつかない。
しかたなく篠山は店の影から吹き矢を使い、竹製の楊枝を光之助の尻めがけて拭いた。
「いででっ!」
篠山の睨みに氣がついた光之助は、しかたなく再びクレーマーらしく振る舞い始めた。
「なんだよ。こんなところに楊枝が刺さったぞ。怪我するじゃないか。店主を呼んでこい」
パートに呼ばれて奥から出てきた林田は、光之助の様子を見て、いかにも実直な老店主のように振る舞っていたが、そばに立っている篠山を見てぎょっとした。跡取り光之助が韮山の雪割れ花入れを受け取りに来ることは知っていたが、だれが付き人となっているかを知らなかったのだ。林田は、篠山の顔を知っている数少ない忍びの1人で、当然ながらすべての失態が当主に伝わることも即座に予測できた。
急に用心深く奥に案内すると、従業員とパートにわざわざ用事を言いつけて奥に来られないようにした。篠山は、林田と光之助の入った部屋と、店の中間位置に立ち、花入れの受け渡しに邪魔が入らないように見張った。
「今後、氣をつけてくれよ!」
クレーマーの負け惜しみのような捨て台詞を言って光之助が出てきた。林田は光之助ではなく、篠山の顔を見ながらヘコヘコとお辞儀をして見送った。
店を出る直前に、例のパート女性がにこやかに近づいてきた。
「またどうぞお越しくださいませぇ」
その手が不自然に光之助の鞄に近づくのを察知して、篠山は再び吹き矢で楊枝を飛ばした。
「うっ」
光之助は、もうここに奪取者が待っていたことに驚愕したようだが、篠山に目で促され、しかたなく店の外に出た。
マンションに戻るまで、サラリーマン風の忍び2人と、女子大生を装ったくノ一を撃退せねばならなかった。光之助のあまりの警戒心のなさに呆れつつ、篠山はその夜再びこんこんと説教した。あいかわらず反省した様子は見られない。
「篠山って、若い頃からお祖父ちゃんと仲良かったの?」
光之助は前々からの疑問をぶつけた。
「俊ちゃんとは、入門以来ずっと一緒に訓練してきましたよ」
「へえ。その頃から、お祖父ちゃんは無双だったの? あれ、それとも篠山の亡くなった旦那さんの方が強かったんだっけ?」
それを聞くと、篠山はふんっと鼻で嗤った。
「一番強かったのは、俊ちゃんでも、篠山でもありませんでしたよ。私が2番、2人はその下でした、常に」
「ええっ。そんな話、初めて聞いたよ。で、誰がもっとも強かったの?」
光之助は、身を乗りだした。
「壱ちゃんですよ」
あたりまえでしょうと言わんばかりに篠山は答えた。
「お祖母ちゃん?! まさか。だって、あの人、箸より重いものは持てないみたいな風情じゃないか」
光之助は腰を抜かさんばかりに驚いた。
「壱ちゃんは、どうしても俊ちゃんと結婚したかったので、俊ちゃんの好みに合わせた振る舞いをしているだけで、本当はわが一族で一番強いんですよ。俊ちゃんも、壱ちゃんが化けていることは重々承知で、当主として一族をまとめるのに壱ちゃんの協力がどうしても必要だったから騙されたフリをしていたんだと思いますよ」
光之助は、少し口を尖らせていった。
「なーんだ。じゃあ、僕だってこんなに苦労して修行しなくても、できるお嫁さんをもらって、何とかしてもらう方がよくない?」
篠山は、頭を抱えた。
「いいですか。くノ一は裏方にされることに慣れています。それは男の忍びも同じで、表だった成功は必ずしも求めません。でも、その分仕える相手に対してはシビアなんですよ。顔だけよくてもあなたみたいな無能に、壱ちゃんクラスのくノ一が惚れ込むわけないでしょう」
光之助は、わずかに目を宙に泳がせた。周りにいくらでもいるくノ一たちは、そういえば誰も彼に惚れてくれなかった。近づいてくるのはハニートラップばかり。ま、でも、もしかしたら全国のどこかには、そういう物好きもいるかも知れないよなあ。
坊は明らかにわかっていないようだと目の端で捉えた篠山は、今後を思って深いため息をついた。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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トルテの午後

これまであまりしていなかったのに、わりと最近よくすることがあります。それが連れ合いとケーキを食べにいくこと。
もともと彼は買い物に一緒に行くようなことを一切しない人でした。スイスの男性配偶者というのは、わりと買い物にも同行して、お金を払い荷物を持つというようなタイプの人が多いのですけれど、かれはそのどちらにも無関心タイプ(笑)
でも、なぜ最近急に同行が多くなったかというと、自分がジンやらトニックやらのボトルが欲しい時に、ちょうど妻が 車で買い物に行くというようなタイミングが重なり「なら乗せてって」と頼むことが多くなったからです。自動車免許は持っていない彼は、夏はバイクで勝手に行くのですが、冬になると乗せてもらう相手を探すことになるのです。
義母が亡くなってから、あれこれ作業があって私が車を出して一緒に行くことも多く、そのついでにお店に行くこともありました。以前は私の買い物を待てなかったのですが、これも慣れで最近はさほど嫌がらない模様。
ということで、一緒に街に出かけるとついでに「ケーキでも」ということになります。
スイス(や他のヨーロッパの多くの国)では、ケーキはパン屋が作って売ることが多いのです。私たちがケーキを食べにいくお店は、パンについては私たちの好みに合わないのですが、なぜかトルテの類いは絶品。ヨーロッパに多いめちゃくちゃ甘いケーキと違って、甘みが抑えられた美味しいケーキを作ります。
ここの私のお気に入りが「Weisswäldertorte」というケーキです。「黒い森のケーキ」を意味する「Schwarzwäldertorte」の外側をホワイトチョコで覆ったもので「白い森のトルテ」という感じでしょうか。あれば必ず注文します。
写真はまさにそれなんですけれど、上にココアを振りかけているので普通のチョコトルテに見えますよね。
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【小説】モンマルトルに帰りて
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第8弾です。TOM-Fさんは、『花心一会』の外伝的な作品で参加してくださいました。ありがとうございます!
TOM-Fさんの書いてくださった 『ソリチュード ~La Route semée d’étoiles~』
TOM-Fさんは、胸キュンのツイッター小説、日本古代史からハイファンタジーまで 幅広い小説を書かれるブログのお友だちです。現在メインで連載なさっているのは、古事記と日本書紀に見える衣通姫伝説を下敷きにした古代ミステリー『挿頭の花 -衣通姫伝説外伝- 』。もともとの記紀にある人物がみなさんアレなので、もちろんものすごい展開なのですが、そのシチュエーションの中で胸キュンの純愛を織り込むという離れ業に感心しながらドキドキ読ませていただいています。そんなTOM−Fさんは、「scriviamo!」も皆勤、いつも全力で剛速球を投げてくださり、必死で打ち返しております。
さて、『花心一会』ワールドの若い(むしろ若すぎる)家元誕生の成り行きが明かされた今回のお話、ストーリーからいったら当然のことながら華道に対する知識がとても大切なポイントになっているのですよ。お返しを書き始めて困ったのがこれでした。私、全然わかっていない……。
なのにあえて火中の栗を拾いにいってしまいました。以前ヒロインの方のお家元がたった1人のために生ける『花心一会』をなさる様子を勝手に書かせていただいたことがあるのですが、今回はお母様にも無理やりです。ああ、玉砕しそうな予感。でも、レネがメインだから、逃げ切れるかな……。うう、ごめんなさい。
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【参考】
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第一部(完結) あらすじと登場人物 |
![]() | 「大道芸人たち Artistas callejeros」第二部 あらすじと登場人物 |
大道芸人たち・外伝
大道芸人たち・外伝
モンマルトルに帰りて
——Special thanks to TOM−F-san
「やっぱり迷惑なんじゃないかなあ……」
「いや、連絡したときにはそんな感じじゃなかったって」
ここに来るまでに、3回は繰り返した問答を、レネと稔はもう1度した。稔は、つい1週間ほど前に訪れたアトリエの呼び鈴を鳴らした。
中から現れた
今日の装いは落ち着いた紫の絞り小紋に、蒲公英の柄が微笑ましい濃い緑の名古屋帯。この色の組み合わせは早蕨襲、春を感じさせる。そうか。もう3月になったんだっけ。
「お忙しいのに、無理なお願いを聞き遂げてくださり感謝します。彼が、電話で話したレネ・ロウレンヴィルです」
「マダム・ミナセ、はじめまして。どうぞよろしく」
「どうぞよろしく。そんなに恐縮しないでくださいね」
そこは、パリの真ん中にあるというのに、東京以上に日本を感じさせる空間だ。
日本ブームがヨーロッパに広がってから、各地でそれらしい和室を目にしてきたが、畳が正方形だったり、障子の桟が白く塗られた合板だったりと、どこか「なんちゃって」感を否めない和室が多かった。そうした和室は、スーパーで売られる「SUSHI」と同じ香りがした。サーモンとアボカド、またはやけに鮮やかなトビコの安っぽさを眺める度に、「日本はそこまで近くはない」と感じ、かつ自分の方が日本を知っているのだとつまらない自負心を満足させるのだ。
だが、このアトリエには、稔が逆立ちしても叶わない日本文化の真髄が感じられた。
小上がりの座敷には、きちんとした炉が切られている。窓はわざわざ円窓にしてある。
この部屋を維持するのがいかに大変か、稔はよく知っている。日本にいれば電話一本で畳屋が来てくれるし、障子が破けてもホームセンターに行けば簡単に新しい障子紙を購入できる。梅や桃、桜や椿などもさほど苦労せずに入手できるだろう。極上の茶や主菓子も同様だ。
だが、ヨーロッパで、これだけの完璧な日本を維持するのは、並大抵のことではない。もちろんパリは大都会なので、日本人のネットワークを使えばそれは可能だろう。でも、この人は、日本人会などで同国人と固まっているタイプには見えない。まあ、俺には関係ないけれど……。
煎茶とともに小ぶりの大福餅が出てきた。和菓子の大好きなレネの顔が喜びに輝いたのを見て、稔は「本題を忘れるなよ」の意味を込めて肘で小さくつついた。
「それで、私に作ってほしいというのは?」
本題は、彼女の方から切り出してくれた。
「先日、ここにお伺いした日に、水無瀬さんのことを特別な人のための特別な花を生けるプロだって説明したんです。そしたら、彼が花をお願いできないかって……。ただ、俺はうまく訳せなくて英語でフラワーアレンジメントって言ってしまったので、生け花との違いも説明していただけると助かります」
そう言って稔は、レネに顔で続きを促した。
「ある女性のためにブーケかアレンジメントを作っていただけませんか」
レネが頼んだとき、愛里紗の顔にはなんとも微妙な表情が浮かんだ。おそらくそれは、この異国で先入観と無知に彼女の華道がフラワーアレンジメントと混同されたときの一瞬の抵抗なのかもしれないと、稔は思った。
愛里紗は、けれど、レネの頼みを簡単に断るようなことはしなかった。
「大切な女性への花なのかしら?」
「はい」
稔は「ふうん」という顔をした。ヤスミンはここに来ていないとはいえ、義理堅く一途なブラン・ベックがわざわざ特別な花をねぇ。
「承るかどうかを決める前に、どんな目的なのかを訊いても差し支えないかしら?」
愛里紗は、英語で話し続けている。レネとだったらフランス語で会話した方が早いだろうに、稔が同席しているのでそうしているのだろう。
「もちろんです。僕はここにいるヤスたちと出会って大道芸人として暮らし出す前は、ここパリで暮らしていました。その時に出会った女性です」
レネはゆっくりと語り出した。
レネにとって、パリの日々にはつらい記憶が多い。手品師の専門学校を終えて希望を持って花の都に上がってきたものの、ショーの花型になるどころかまともな稼ぎを得ることすら難しかった。
モンマルトル界隈のナイトクラブを転々として、はじめはホールスタッフと変わらぬ扱いを受けた。ようやく前座としてマジックショーを披露できるようになるまでは数年かかり、その間にもいろいろな人に利用されたり出し抜かれたりしながら、いつかは手品だけで食べていける日を夢見て暮らしていた。
恋もした。もともとはホールスタッフとして勤めだしたジョセフィーヌが、レネのアシスタントとして一緒にショーに出演することになってからは、彼女に夢中になった。
ええっ。その女かよ。稔は話を聞きながらぎょっとした。そいつ、ライバルに寝取られた同棲相手だろ?
「お花を贈りたいのは、その方?」
愛里紗が、口をはさむと、レネは首を振った。
「違います。彼女に、僕は夢中だったけれど、ジョセフィーヌはこの街で僕の味方になってくれた人ではなかった。それはエマだけだったと、今になって思うんです」
「エマ?」
稔は思わず訊いた。一度も聞いたことのない名前だったから。
レネは、頷いて彼のパリでの物語を続けた。
ムーラン・ルージュをはさんで、レネの勤めるナイトクラブとちょうど反対ぐらいの距離に小さい煙草屋があった。そこには店の染みのような小さな老婆がいて、いつもなにかに対して文句を言っていた。
「この頃の政治家ってのはなってないね。きれいな顔をして偽善的なことを口にすればまた当選するとでも思っているのかね」
「あんたの横柄な態度になぜこのあたしが我慢しなくちゃいけないのさ。嫌なら2度とこの店に足を踏み入れなければ良いだろ」
「あんたは母国がサッカーに負けたからって、周り中に当たり散らす権利なんかないんだよ」
「禁煙がトレンドだって? ひとの商売の衰退をわざわざ告げに来るとはいいご身分だね」
それがエマだった。
レネは煙草の類いは何も嗜まないので、この店に入るときはチョコレートを買うときだけだった。他の店にはない故郷プロヴァンスの小さな工場で作っている銘柄がこの店にはあったのだ。
レネにとって忘れられない思い出がある。
それは、パリを去った夏のことだ。ナイトクラブからクビを言い渡されたレネは、とぼとぼと帰り道を歩きながら、故郷の懐かしいチョコレートで心を慰めようとエマの煙草屋に入った。
レネは、思わず涙をこぼした。今日の午後、買い物から帰ってアパルトマンのドアを開けたら、なぜか同じナイトクラブで働くラウールが、ジョセフィーヌとベッドの上にいた。それだけでもショックなのに、出勤した途端にオーナーから彼のマジックショーは、今後ラウールとジョセフィーヌがやるのでお前はもう来なくてもいいと宣告されてしまったのだ。
自分の要領がよくないことはわかっていた。ラウールが優れた容姿で客たちから人氣があることもわかっていた。でも、真面目に精一杯生きてきたのに、こんな風に何もかも取りあげられたのかと思うと、やるせなくて涙が止まらない。
エマは「商売の邪魔になるから泣くな」などとはいわなかった。レネが落ち着くまで待って、話を聞いてくれた。今になって思えば、この街で、レネが自分の弱さや悲しみを吐露できたのは、これが初めてだった。
「あの雌狐なら、そのくらいのことをしても不思議じゃないと思うね。だから何度もいっただろ。あの娘には温かい血が流れていないって。あんたがこのチョコを勧めたとき、小馬鹿にしてそっちの大量生産のチョコをわざわざ買ったことがあったよね。人の思い出を踏みにじるようなヤツは、どんなに見かけがよくても中身は爬虫類と一緒だ」
レネは、それを聞いてよけい強く泣いた。ジョセフィーヌが、彼の故郷のあらゆる物を馬鹿にしていたことを思いだした。見下されていたのは彼の生まれ故郷ではなくて、彼自身でもあったのだと思うと情けなくて逃げたしたかった。
「仕事も恋人もなくなって、僕はどうしたらいいんだろう」
また1からこの街で手品をやらせてくれる場を探すかと思うと、レネは心から途方に暮れた。
エマは冷徹にも思える調子で言い放った。
「そもそもこの街はあんたみたいな弱くて純なヤツには向いていないんだよ。ここを離れるのが一番だ」
レネは言葉を失った。ようやくパリに慣れてきたと思ったのに。少し間を置くと、おずおずと言った。
「でも、どこにいったら……?」
エマは、少し温かく思える調子に変えてゆっくりと言った。
「南へお行き。あんたの故郷のプロヴァンスでも、もっと南の地中海でも、どこでもいい。ただし、ニースみたいなスノッブでおかしな人間の集まるところに行っちゃダメだ。広くて、大地に足をつけて人びとが助け合いながら生きている土地に行くんだ。最初にいったところにはいなくても、どこかには必ずいる。それを探すんだね。あんたの正直で優しい心持ちを大切にしてくれる輩がね。それを見つけたら、それがあんたのいるべき土地さ」
稔は、思わずレネの顔を見た。レネは、稔の目を見返して、はにかみながら笑った。
「その通りになったのね」
愛里紗が問う。
「はい。僕は、コルシカでこのヤスに会いました。それから、他の生涯の友達にも」
エマの直接的でお節介なアドバイスが、あの時レネをコルシカ島に向かわせた。悲しみに押し潰れることなく、新しい人生を探すための必要な背中のひと押しをしてくれたのは、店の染みのような小さな老婆だった。
「わかったわ。その方へ捧げるお花、ぜひ私に作らせてちょうだい」
愛里紗が微笑んだ。
「ありがとうございます、マダム」
レネが前のめりで礼を言う。
「でも、1つだけ確認したいの。西洋で作るいわゆるフラワーアレンジメントは、全方向から見られることを意識して作るものだけれど、日本の生け花というのは、たった一つの方向から見ることを想定してデザインするものなの。その方がどのように受け取るかのシチュエーションは決まっていたら教えてほしいわ」
愛里紗が訊くと、レネははっとして、1度下を見てからふたたび愛里紗の目を見据えた。
「正面は……どういえばいいのか。墓石の上に載せるので……。彼女はモンマルトル墓地に眠っているそうですから」
その言葉に、稔と愛里紗が同時に息を飲んだ。
「エマ・マリー・プレボワ ここに眠る」
小さな墓石は、必死で探さないと見過ごしてしまいそうだった。エドガー・ドガ、モーリス・ユトリロ、エミール・ゾラ、アレクサンドル・デュマといった錚々たる有名人の墓は大きく立派だが、そのモンマルトル墓地には、地域の一般人も埋葬される。
まだ、春といっても早いので、陽光は弱く柔らかい。周りの木々には膨らんだ芽はあるが若葉が現れるにはまだしばらくかかるだろう。
「お。来た来た」
稔が手を振ると、かなり向こうから蝶子とヴィルがこちらに向かってくる。
「ごめん。私たちが先につくぐらいだと思ったのに」
「探していた墓は、見つかったのか? ランパルだっけ?」
「ええ。せっかくここに来るんなら、お詣りしたくてね」
フルートの名手であったジャン・ピエール・ランパルも、モンマルトル墓地に眠っている。そういえば、ブラン・ベックはハイネの墓の場所を探していたから、後でそこに行くんだろうな、と思った。
「それが、例の日本人に作ってもらった花か」
ヴィルが珍しく明らかに感銘を受けたとわかる顔つきで訊いたので、稔はそうだろうなと思った。
レネは頷いた。手にしているのは半球型に盛られた、花かごだった。といっても花器として使われている籠は苔山で覆われほとんど見えない工夫がしてあり、まるで何もないところに偶然にも木や草花が育ったかのように見える。
1度左に向かってから弓なりに右に向かう盆栽のような枝振りの木はミモザだ。黄色い花が力強く明るく咲いている。そして、根元に絶妙なバランスでいけられたのは、フランス人のこよなく愛する『
レネがその籠を墓石の上に置くと、まるで彼女の墓から草花が遅い春を待てずに萌えだしたかに見えた。
「すごいわね。ここまでフランスっぽい素材だけを使っているのに、これはフラワーアレンジメントじゃなくって華道だってわかるように作れるものなのね……」
蝶子が感心してつぶやいた。
亡き人を悼む草花は弱い風にそよいでいる。
レネは、眼鏡を取ると涙を拭った。エマの声が蘇ってくる。
「くよくよするんじゃないよ。あんたが悪いんじゃない。今のめぐり合わせとの相性が悪いだけさ。あんたにふさわしい居場所はきっとあるからね」
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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11周年と「scriviamo!」

11周年の節目ということで、まずはいつも足繁く通ってくださる常連の皆様、小説を読んでくださったり記事に興味を持ってくださる方に、心からの御礼を申し上げます。
私は、つまらないことにはすぐに興味を失うタチなので、開設当初のような閑古鳥のままだったらとっくにブログをたたんでいたと思います。小説自体を書くことはやめないと思いますが、毎週アップロードする手間は、おもしろくなかったらかけません。でも、ここまで続いたというのは、それだけみなさんとの交流が面白くてやみつきになったことの証なのです。
「scriviamo!」はなおさらです。ご存じない方のために説明すると、この企画は毎年年初に開催しています。参加者の方がなにか(小説や詩やエッセイ、記事など)を提示してくださり、私がそれにお返しを主に掌編でします。毎年みなさんに盛り上げていただいています。詳しくはこの記事をどうぞ。
で、この「scriviamo!」ですが……。めちゃくちゃ大変なんですよ。
考えてみてください。この2か月にいただいたお題が9本(お返しが済んでいない作品が2本)で、基本的にいただいてから1週間くらいでお返しを発表しているんです。いただいてから参加者の方の作品を読み、対策を練って、執筆という作業をするのですが、月曜日と火曜日と木曜日は仕事を2つしているので何もできません。つまりこの作業を4日間でやっているのです。もちろんその間に仕事と家事の他、猫と戯れたりもしています。
毎年やっているので慣れてきて楽になったんじゃないだろうかとか、実は大して労力かからないんじゃないだろうかとか思われているかもしれませんが、そんなことはありません。はじめの頃と変わらずにずっと大変です(笑)それに、常連のみなさんは年々容赦の無い剛速球だの変速球だので「へへへ、これでどうだ!」的に投げてこられるようになっているので、楽になるはずなんかありません。まあ、一時に較べて参加者が減っているので、時間的な余裕は前よりはあります。
では、なぜ大変なのに毎年この企画をやるのかという話です。これは義務じゃありません。誰かに頼まれてやっているわけでもありません。
正直、去年の10周年の節目でやめようかとも考えたんですよ。でも、やめるメリット(2か月間楽になる)がデメリットにくらべて小さかったので続けることにしたのです。デメリットは、みなさんとの交流が減ることです。
私のブログにいらしてコメントなどを残してくださる方の大半はご自分のブログを持っていらっしゃいます。そして私以上に積極的に発信していらっしゃる方と、ほとんど記事の更新がない方にだいたい二分されます。
このブログの性格上、仲良くしてくださっている方々は創作系ブログの方が多いのですけれど、中には1年ちかくほぼ作品を発表されない方もいらっしゃいます。これって良い悪いの話ではないんですよ。書き方のスタイルも、私生活の事情も、何もかもが違うので、「自分はこうしている」ということとの比較はできないのです。ブログではなくて別の媒体に活躍の場を移された方もいらっしゃいますし、もちろん生活の変化とともに創作どころではなくなったという方もいらっしゃいます。
FC2ブログのアカウントを持っていらっしゃったり、Twitterアカウントでフォローしてくださったりすると、「ああ、読んでくださったのか」ということはわかりますし、感想をいただくこともとても嬉しいです。でも、私にとって楽しいブログでの交流って、私の作品だけを読んでくれればそれでいいというものではなくて、相手の方の作品の方でも盛り上がりたいんですよ。「あの作品、私の好きなあのキャラはいつ出てきてくれるのかなあ」などと思いつつも、なかなかつつけないもどかしさ。「ずーっと、ブログ動いていないけど、お元氣なのかなあ」と思うこともあります。
そこで「scriviamo!」なのです。「ずっと休んでいたけれど、この企画のためにまた書き出した」とおっしゃってくださる方もいれば、あいかわらずの剛速球で安心させてくださる方もいます。それに、みなさんだいたいお氣に入りのキャラで参加されることが多いので、しばらく会えなかった推しのキャラの話を読ませてもらえるという利点もあるのです。
それに多くの方が結構な力作を書いてくださるのですけれど、もちろん私のためだけということではないのはわかっていますけれど、とにかくこの企画に向けて書き下ろしてくださるわけです。世の中のオタ活をしている人たちならわかってくださると思いますが、こういうのって本当に嬉しいものなのです。
でも、たぶん喜んでいるのって私だけではないと思うんですよ。私の作品自体はどうでもいいけれど、この企画に集まってくるみなさんの渾身の作品を楽しみにしているブログのお友だちはかなり多いと思うのです。だからこそちょっと大変でも、皆勤参加してくださる方も多いんじゃないかなあ。
この企画をきっかけに、うちのブログにいらしていた方が参加者の方のブログにも行くようになって、新しい交流が始まるのも嬉しいことですよね。
私はリアルライフでも、なかなかサロン的な役割のできない引っ込み思案な人間ですが(私の連れ合いは超サロン型人間なので実感)、ブログの良いところは私が細かく面倒をみなくてもみなさんが勝手にお互いに仲良くしているのがわかることです。
そんなあれこれを鑑みて、自分の小説の瞬発力を鍛えるためにも、年に1度の「scriviamo!」を続けるのは悪くないと思っています。
今年はすでに締め切りましたが、まだお返しの済んでいない作品は順次発表していきますので、少々お待ちくださいね。これを読んで「しまった。今年は声を上げそびれた」と思われた方は、ぜひまた来年お声がけしてください。
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【小説】仙女の弟子と八宝茶
今日の小説は、「scriviamo! 2023」の第7弾です。津路 志士朗さんは、オリジナル掌編で参加してくださいました。ありがとうございます!
志士朗さんが書いてくださった「女神の登場はアールグレイの香りと共に。」
志士朗さんは、オリジナル小説と庭とご家族との微笑ましい日々を綴られる創作系ブロガーさんです。代表作の『エミオ神社の子獅子さん』がつい先日完結したばかりです。派生した郵便屋さんのシリーズで何度かあそばせていただいていますよね。
今回書いてくださった作品は、スーパーダーリンならぬスーパーハニーをテーマにしたハードボイルド。とても楽しい作品で一氣に読んでしまいました。
お返しですが、あちらの作品には絡めそうもないので、全く別の作品を書いてみました。テーマは志士朗さんの作品同様スーパーハニーです。ただし、中国のお話、お茶ももちろん中国のもの。下敷きにした怪談は「聊斎志異」からとってあります。
「scriviamo! 2023」について
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【参考】
今回の作品とは直接関係はないのですが、今回登場した紅榴を含む空飛ぶ仙人たちの登場する話はこちらです。
秋深邂逅
水上名月
仙女の弟子と八宝茶
——Special thanks to Shishiro-san
朱洪然は福健のある村に住む若者で、童試の準備をしているが、後ろ盾もなく、また際だった頭脳もないため受かる見込みはない。妻の陳昭花は家事、畑仕事に加えて、近所の道士の手伝いまでして朱を支えていた。
いつものように朱が昼から酒などを飲みながら、桃の花を眺めて唸っていた。
「桃の灼灼たる其の華……」
陳氏は部屋をきれいに拭きながらその声を耳にしたので、通り過ぎるときに訂正した。
「桃の夭夭たる 灼灼たり其の華 之の子于き帰ぐ 其の室家に宜し」
それを聞くと、朱は顔を真っ赤にして怒り、盃を投げ捨てると「こんな邪魔の入るところで勉強はできない」と叫び、出て行ってしまった。妻の陳氏の方が優秀だという近所の噂に苛ついていたからである。
田舎ゆえ、近所に知られずに昼から酒などを嗜める店はない。やむを得ず、どこかで茶でも飲もうと道をずんずんと進んだ。
しばらく行くと村のはずれにこれまで見かけなかった茶屋があった。新しい幟がはためいているが、誰も入っていないようだ。朱は中を覗いた。
「おいでなさいませ」
出てきたのは、皺だらけの老婆で、あけすけなニヤニヤ笑いをしている。
「ここは茶屋か。何か飲ませろ」
横柄に朱が命じると、婆はもみ手をしてから茶を持ってきた。
それは、水の出入りのない沼のようなドロドロの黒緑色をしており、生臭い。朱は、茶碗を投げ捨てると、つばを吐きかけて地団駄を踏んだ。
「こんなひどい茶が飲めるか。なんのつもりだ!」
婆が、茶碗を拾ってブツブツ言っていると、奥から衣擦れがして女が出てきた。立ち去りかけていた朱は、思わず立ち止まってそちらを見た。
それは沈魚落雁または閉月羞花とはかくやと思われる美女だった。烏の濡れ羽のような漆黒の髪を長くたなびかせ、すらりとした優雅な柳腰をくねらせて茶を運んできた。
「このお茶をお飲みになりませんか。とても喉が渇いているんでしょう? あたくしが、手ずから飲ませてさし上げましてよ」
婆の持ってきた茶とほとんど変わらないものだったにもかかわらず、朱は女に飲ませてもらえるのが嬉しくて、座って頷いた。
「この茶は
女は嬉しそうに笑うと、なんのことかわからないでいる朱の口にまずくて苦い茶を流し込んだ。
女は、代金も取らずに朱を送り出した。ぼうっとしたまま家に戻った朱は、玄関でそのまま倒れてしまった。
「
妻の陳氏が、あわてて出てきた。
「なんだかわからんが、水莽茶とやらを飲んでから、具合が悪い」
そういうと、そのまま息を引き取ってしまった。
陳氏は、朱と違い水莽草が何を意味するのか知っていたので驚いた。
この毒草を食べて死ぬと水莽鬼という幽霊になってしまい、他の水莽鬼が現れないと成仏できない。それで、水莽鬼は生きている人に水莽草を食べさせようと手を尽くすのである。
陳氏は、急ぎ夫の亡骸を寝かせると、鬼にならないように御札を貼り、急ぎ馴染みの道士の元に急いだ。
「どうした、小昭花」
慌てて入ってきた陳氏を見て、道士は訊いた。
かなり赤みの強い髪をしたこの人物は、数年前からこの庵に住み修行をしていることになっている。身の回りの世話に通う陳昭花の他には付き合いもないので知られていないが、実は単なる道士ではなく天仙女である。
「紅榴師、どうぞお助けくださいませ。夫が水莽鬼にされてしまいます」
紅榴は、片眉を上げた。
「村はずれの水莽鬼に化かされたのか。お前のような立派な妻がいるのに、全くなっていないな、あの者は。もう、見限ってもよいのではないか」
「そうおっしゃいますが、それでもわが夫でございます。なんとかお助けいただけないでしょうか」
昭花は床に額をこすりつけて願った。
「しかたない。あの男を助けてやりたいとはみじんも思わぬが、お前が氣の毒ゆえ助けてやろう」
そう告げると紅榴は陳昭花に墨書きの札をいくつか授けた。深く抱拳揖礼をしてから札を受け取った昭花は、そのまま夫の元に戻ろうと戸口を出ようとした。
「待ちなさい。これも持っていくとよい。あちらが茶で人を取り込むのならば、こちらも茶で対抗せねばな」
紅榴は、笑うと最新の愛弟子に包みを授けた。
陳昭花が家に戻ると、そこは瘴氣で満ちていた。見ると家の中には夫の亡骸だけではなく、老婆と若い女の幽鬼がいる。殺した男を水莽鬼に変えようと長い爪で朱の亡骸の上を引っ掻いていた。
見れば、昭花が貼った鬼除け札はほとんど剥がされている。紫の顔をした夫も、胸をかきむしり御札を剥がそうとしていた。
「悪鬼ども。わが夫より離れよ」
昭花は剣を構え、鬼女たちに斬りかかる。
「こざかしい女め。人間の分際で我らに敵うと思うのか」
老女は、白髪を逆立て、血走った目に蛇のような舌をちらつかせて長い爪で昭花の喉を切り裂こうと飛びかかってきた。
昭花は、紅榴元君の元で何年も修行しただけあり、軽々とそれを避けて後ろに飛び上がった。
師が授けた封印の札を投げつけると、それは若い鬼女の口を塞ぎ、瘴氣が漏れてこなくなった。瘴氣は鬼女自身にも仇をなす毒を持つらしく、若い鬼女の動きが止まった。
昭花は、老女にも御札を投げつけたが、こちらは長い爪でビリビリに裂いてしまった。老婆は高らかに笑うと、昭花に向かって飛びかかってきた。
「ぎぇ!」
瞬時に振り下ろされた昭花の剣が鬼婆の長い爪を切り取った。それこそがこの幽鬼の瘴氣の源であったので、瞬く間に老婆は干からびて、干し魚に変化して床に落ちた、
「おのれ、母上に何をする!」
ようやく御札を取り去って自由になった若い美女だった鬼が、姿を変えた。漆黒の髪は束になって持ち上がり、それぞれが毒蛇に変わった。口は耳まで広がり、獣のような牙がいくつも剥き出しになった。
見るも恐ろしい鬼女だったが、昭花は臆さずに剣を構え、襲いかかってくる毒蛇を一匹ずつ切り落としていった。
最後の蛇が落ちると、鬼女も断末魔のうめきをあげながら足下に倒れ、そのまま薄氣味悪い染みを残して消え去った。
昭花が夫を見ると、紫色の顔をした水莽鬼として蘇った朱は、ガタガタと震えながら妻を見ていた。
「
昭花が訊くと、朱は首を横に何度も振った。
「美しい女だと思ったのに、あんなバケモノはごめんだ。助けてくれ。そんな物騒なもので、俺を斬らないでくれ」
「さようでございますか。では、私の淹れるお茶を飲んでくださいますか」
昭花は、水莽鬼としての瘴氣すら醸し出せぬ夫に詰め寄った。
「先ほどの茶みたいな、まずいものは飲みたくない」
朱はうそぶいた。
夫の言い分には全く耳を貸さず、昭花は紅榴にもらった包みを開けて中の茶をとりだした。湯の中に入れると、それは白い菊のような花、龍眼、クコの実のほか、貴重な薬草を惜しげなく使った八宝茶だった。
昭花に助けられて、その茶を飲んだ朱は、激しい咳をした。そして、水莽草の塊が口から飛び出してきた。蛇のように蠢くそれを、昭花は剣ですかさず斬った。
しばらくすると、朱の顔色は普通の肌色に戻ってきて、そのまま彼は失神してしまった。直に大きないびきをかきだしたので、昭花には夫が人として息を吹き返したことがわかった。
悪鬼どもの屍体や水莽草の残骸を片付け、部屋を浄めていると、どこからともなく紅榴が入って来た。
大いびきをかいて寝ている朱を呆れたように眺めると、ため息をついていった。
「小昭花。そろそろこの男に愛想を尽かしてもいいのではないか。妾は間もなく泰山に戻る心づもりだ。そなたが望むなら連れて行くぞ。向こうで心ゆくまで修行して化仙するとよい」
昭花は、師の言葉を噛みしめていたが、やがて言った。
「たいへん心惹かれるお言葉ですが、今しばらく夫に従うつもりでございます。また次にこのようなことがございましたら、その時は私も人としての契に縁がなかったと諦め、修行に励みたいと存じます」
紅榴は頷いた。
「ならばしかたない。では、次にこの男が問題を起こしたら、潔く捨てて妾のもとに来るのだぞ。お前には見どころがあるからな」
そのことがあってから数ヶ月は、朱が柄にもなく試験の準備に心を入れたと噂になった。だが、その後、酒に酔って村長の妻に言い寄ったためにひどく打ち据えられてから牢に入れられた。
朱が半年後に牢から出てきたときには、家に妻の陳氏はいなかった。きれいに浄められた家には女が住んでいた痕跡は残っていなかった。朱の物を持ちだした様子はなく、金目のものも一切なくなっていなかった。
卓の上には、いま淹れたばかりのような熱い八宝茶があった。陳氏の行方を知るものはいない。
(初出:2023年3月 書き下ろし)
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