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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(26)《トリネアの黒真珠》 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第26回『《トリネアの黒真珠》』をお届けします。今回も3回に分けています。

ようやく話はメインキャラたちのいる離宮へと戻ってきました。フリッツとフィリパが戻ってきました。ラウラもアニーの無事がわかりひと安心です。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(26)《トリネアの黒真珠》 -1-


「そう。無事なのね」
ラウラは、涙を浮かべて微笑んだ。アニーが川に流されて以来、水すら飲まずに祈り続けてきたが、フリッツとフィリパが朗報を持ってきてようやく顔に精氣が戻った。

「それで、なぜまた修道院に?」
マックスは、フリッツとフィリパだけが帰ってきたことに戸惑っていた一同の思いを代弁した。

「それが、やっかいなお方がアニーの側におりまして」
「それは?」
「ルーヴランの紋章伝令副長官ギース殿です」

「「なんだって?」」
レオポルドとマックスが同時に叫んだ。

 エマニュエル・ギースは、ルーヴの宮廷でマックスやラウラと親しく言葉を交わしたこともある。そして、それだけでなく、ノードランドの停戦交渉の場にもいたので、レオポルドの顔をもよく知っている。さすがにフリッツの素性まではわからないだろうが、顔を見知っている可能性はある。

 アニーの兄マウロの命を救い、フルーヴルーウー辺境伯領へと送る手助けをしてくれたのも当のエマニュエル・ギースだが、それはつまり、彼がラウラとマックスが現在はフルーヴルーウー辺境伯夫妻となっている裏事情をよく知っていることを意味する。それだけにいかにも軍人然としたフリッツが現れてアニーを引き取ったりしたら、すぐに何かがおかしいことに氣づくだろう。

「それでアニーは同行者などいないというフリをしたんだろう。溺れかけたそのあとでよく機転を利かせてくれたというほかはないが……困りましたね」
マックスは、どうしたらいいだろうかというようにレオポルドを見た。

「それで、マーテル・アニェーゼはなんと?」
レオポルドはフィリパに訊いた。

「あの尼さんも大したタヌキですね。アニー殿のこと、まるで初めて見た知らない娘みたいに振る舞っていましたよ。そのギースとかいうルーヴラン人の方は、アニー殿が心配で氣も狂わんばかりで、とにかく快復するまで滞在するって言い張っていました。で、マーテルがあたしを横に連れて行き、このお方が出立したら連絡をするのでそれまで待つようにと言い、この書状を姫さんに渡せって」

 レオポルドは、安堵して笑顔になった。
「なるほど。それが今のところ我々にとっても最善だな。ああ、フィリパ、悪いが、もう1つ頼みたいことがある」

「なんですかい?」
「もう1度修道院に行き、アニーに会い、我々から連絡があるまでそこで待てと伝えてほしい」
「そりゃあ、構いませんが、なんか忘れてませんか」

「なんだ。砂金なら先ほど渡したではないか」
「ヘルマン殿の代わりに尼さんところで黙って伝言係をやるなんてのも、予め言われた話にもなかったけれどやってきたんでね。そろそろ追加料をもらわないと」

 レオポルドは上を見てため息をつくと、マックスに目配せをした。マックスは笑いながら財布から再び砂金をとりだして与えた。

「こりゃ、どうも。ヘルマン殿との密偵ごっこの方もこっちに入れておきますね。あれはなかなか面白い体験だった。我々は、しばらく修道院脇で野営をしているから、またなんかあったらいつでもどうぞ」
そういうとフィリパは、悠々と出て行った。

 レオポルドは、フリッツの方に向いて訊いた。
「それで、密偵ごっこというのは、お前が報告したいと言っていた件か?」
「はい」
「よし話せ」

 フリッツからの報告を聞くと、レオポルドとマックスは、これはエレオノーラの耳にも入れる方がいい案件だと一致した。それで、全員ですぐにエレオノーラのいる東翼に向かった。

 マーテル・アニェーゼからの手紙を渡しがてら、レオポルドは「お耳に入れたいことが」といい、暗に使用人たちの人払いを頼んだ。エレオノーラは、頷くと場所を変え、書斎にレオポルド一行と隠り、手紙を開封した。

「あそこに運び込まれたなら、なぜフリッツ殿が行って直接アニー殿を連れ出さなかったんだ?」
マーテル・アニェーゼからの手紙には、アニーはしばらく修道院で静養させ、快復したら連絡すると書いてあった。

「修道院に連れて行った貴人が、もしかするとあなた様をご存じだといけないと思い、アニーは自分には連れはいなくて1人だと説明したようなのです。確かに、あの修道院にトゥリオ殿が匿われている事情や、あなた様が病に伏せっておられるのではないことが、その貴人を通じてほかの方々にわかると面倒ですし」
レオポルドは、予め考えてあった通りに話した。
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Tag : 小説 連載小説

Posted by 八少女 夕

納豆作った

「なければ作れの海外生活」の1つ、手作り納豆の話です。大豆さえあれば作れるんですよ。

自作納豆

日本にいたらまず自分で作らないものはいろいろあります。梅干し、味噌、蕎麦つゆなど、どこでも簡単に手に入りますものね。スイスの田舎では、まず手に入らないし、入ってもめちゃくちゃ高いので私は自作するようになりました。

スイス人の連れ合いが日本食に興味が無いうえ、もともと日本の実家がわりと洋風の食事が多かったこともあり、移住してから和食はほとんど作っていなかったのですが、健康のために和食の食材を探し始めて上に書いたあれこれを自作することになったわけですが、同じことをしている海外在住者はいるもので、いまはなんでもネットで作り方を調べることができます。

そして、納豆ですよ。これは調べもせずに無理だと思っていました。麦わらに特別な秘密の菌を入れて作るものだと思っていたので。ところが、調べてみたらその菌はまったく特別でもなんでもなく、世界中のそこらへんにあるというのです。草を枯れさせる枯草菌というのが納豆の元だというのです。

ヨーグルトメーカーを使うと確実らしいですが、我が家にはないので「シャトルシェフ」を使うやり方を試してみました。

作り方は簡単で、まず大豆カップ1くらいを指で潰せるくらいに茹でます。まだ熱いうちに、小さいタッパの底にそこら辺の草(ハーブなど食べられるものがいい)を敷き、茹で大豆の半分、また草を敷き、さらに残りの大豆、また草という感じで重ねます。私は増えて困っているセージや、パセリ、西洋ヨモギなどを利用して作っています。

軽く蓋をした状態で、シャトルシェフの内側の調理鍋に熱湯400mlと水200ml(つまり65℃〜70℃くらい)を入れてから、そっとタッパーを浮かします。外側の保温容器に入れて24時間保温します。だいたい12時間くらい経つと温度が下がっていると思うので、私は1度お湯を作り直しますね。温度が低すぎると失敗します。

これだけ。24時間経つと上の写真のようにバッチリ納豆化しているんですよ。ちなみに草だとできるか不安とか、面倒とか、イヤだという方は、粉納豆を使っても同じようにできます。海外だと入手が大変かもしれませんが。

さて、ここからが悩みどころでした。せっかくの糸引きが、翌日にはなくなっちゃうんですよ。味は納豆のままですからネバネバが嫌いな方はそれでいいかもしれませんが、健康のために作っているこちらとしては、ネバネバを維持したいじゃないですか。

調べてみたところ、お湯から出して冷蔵後も納豆菌はそのまま仕事を続行しているらしいのです。でも、食べるものがなくなっちゃうので、自分で作りだしたネバネバ成分を食べちゃうらしいのですね。それで、そのプロセスを止めるのが鍵だなと考えました。試しにひと晩冷凍してみたところ、ビンゴでした。解凍したあとは数日間経ってもネバネバは残っていました。賞味期限は1週間くらいだと思います。
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Posted by 八少女 夕

【小説】北の大天蓋の下で

今日の小説は『12か月の建築』11月分です。このシリーズは、建築をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今月のテーマは、北極圏に住むサーミ人の木造住宅ゴアティです。

子供の頃、『星のひとみ』という本を読んだ記憶があります。当時は「ラップランド」「ラップ人」という名称で紹介されていた北極圏に住む遊牧民族の民話を元にしたストーリーだったと思います。実は詳細はあまりよく憶えていないのですが、本来ならば死んでしまうような厳寒の中、放置された赤ん坊が数奇な運命に導かれて救われた所から始まる話でした。とはいえ、どう考えてもハッピーエンドではなくて、児童文学としては異色な作品だったので強く印象に残っています。

その印象が強かったので、今回のシリーズでもサーミ人のことを題材にすることを決めて調べはじめました。子供の頃に理解できなかったあの圧倒的に悲しい美しさについて、少しだけ理解が深まったような氣がします。


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北の大天蓋の下で

 シューラは、霜で覆われかかった下草を踏みしめた。彼女にとって幸いなことに、まだ雪が地域を覆い尽くす前で、数週間前に降ったのであろう雪の名残は、全く日の当たらない場所にのみ残っているだけだった。それは、ここが森の中であるからだった。平原は雪に覆われている。1日に数時間しか太陽の出ない11月の北極圏で、当てもなく歩き回るわけにはいかない。夕闇と共に氣温は急降下し、彼女の中で危険信号が点滅した。

 モスクワ発ムルマンスク行きのキエフ鉄道に乗ったのは3日前だ。いつも通りにスケジュールを優先するのであれば、空港に向かうべきだったし、たとえ自分の休暇を使うとしても本来ならばもう自宅に戻っていても、おかしくない時間だった。

 モスクワで大学を卒業し、順調にキャリアを重ねたアレクサンドラ・ダニーロヴナ・プーシキナは、ニッケルの買い付けで優位な条件を手にするためにミハエル・アルバキン氏と交渉を重ねた。ミーシャ、シューラと呼び合う信頼関係を手にしてようやくムルマンスクで会うことになったが、彼女は虫の知らせのように、どこかでアルバキン氏とは会えない予感がしていた。

 ムルマンスクは、ノルウェーとの国境に近い北極圏、コラ半島にある。シューラにとっては、母親から何度も聴かされた地名であったが、異国のロンドンやニューヨーク以上に遠い土地だった。祖父の生まれ故郷であるコラ半島に、1度も行ったことがなかったのは、考えれば奇妙なことだった。

 アルバキン氏が扱うニッケルは、ひどい環境災害を引き起こしたことで悪名高いノリリスク・ニッケルから調達しているという黒い噂があった。それでも他のどの会社よりも都合のいい見積もりは、シューラにとっては競合他社や社内のライバルたちとの戦いに勝つために魅力的だった。

 だが、もうアルバキン氏との交渉を考える必要も、環境問題に対して良心の呵責に堪えることもない。それ以前に明日の朝、シューラが生きている保証すらないのだ。

 モスクワの冬に慣れていたので、たまたま自分が乗るときに列車に何かが起こるなどと想像したこともなかった。突然の停車と、説明もない2時間の待機にシューラは苛立った。ブレーキの近くで凍結した氷柱が割れ、エンジンを傷つけたという情報はまわってきたものの、いつ回復するのかという説明はなかった。

 別の機関車が到着して、ようやく動き出した列車は次の駅で乗客を降ろしたものの、代替交通機関などの用意は無かった。白タクシーを手配して、先の駅まで行こうと交渉した。足下を見られないように、わざと高慢に振る舞ったのがよくなかったのかもしれない。

 途中で喫煙をしたいから、コーヒーでも飲める所で停めろと言ったら、運転手は何もない平原で急停車した。
「何よ。危ないじゃない」
「コーヒーの飲める所なんてねえよ。勝手に吸え」

 シューラは、煙草をくわえて火をつけようとしたら彼は怒り出した。
「ふざけんな。外で吸えよ」

 しかたなく、彼女は降りた。コートを着て、外に降り、寒いだろうとドアを閉めたところ、運転手は、急にアクセルを踏んで発進した。

 彼女は、あわてて罵声を飛ばしながら、そして、次に懇願しながら追いかけたが、車は戻ってこなかった。シューラの荷物をトランクに入れたまま、男は走り去ってしまった。

 はじめからシューラの荷物や金を狙っていたのかもしれない。身体に危害を加えられなかったのは幸いといえるのかもしれない。貴重品を入れたハンドバッグを持って車を降りたことも幸運だと思った。救援を呼ぼうとまずは警察に電話を試みたが、なんと圏外だった。

 しばらく歩けば駅や警察のある町にたどり着くだろうと甘い見通しでいたのも間違いだった。歩き出してからようやく、明るくなった広大な平原に1人でいることがわかった。2時間ほどでその日がもう傾きだしたが、その間、他の車どころか動物すらも側を通らなかった。

 あの男が警察に通報される心配もしなかったのはそのせいだった。町まで生きてたどり着くことはないと思ったのだろう。実際にそうなる可能性の方が高そうだ。

 このまま、何もない平原を歩くか、それとも暖を取るために森林へ進むかしばらく考えてから、シューラは森林を選んだ。ほんのわずかだが、女の歌声のようなものが聞こえていたからだ。

 深い緑の中を、こわごわ進むと、その歌声は少し大きくなった。言葉は全くわからないが、おそらくこのあたりに住むサーミ人のヨイク歌ではないかと思った。もし、ロシア語か英語が通じれば、近隣の村に連絡してもらい、助かるかもしれないと。

 シューラは、暗い木々の間を進み、突如として見えた光景に愕然とした。

 子供の頃、悪いことをすると母親はいつも脅した。
「ババ・ヤーガが迎えに来てあんたをバリバリ頭から食ってしまうよ!」

 その伝承の鬼婆は、鶏の足の上に載った木の小屋に住んでいると教えられた。今シューラが目にしているのは、まさにそんな小屋だった。4本の生えた木を柱として、その上に高床式の木の小屋が支えられている。柱となっている木の根が、まるで鶏の足そっくりだ。

 シューラが硬直しながら立っていると、その小屋の中から、誰かが出てきた。それは、ハバ・ヤーガのイメージの老婆ではなく、子供とはいえないが、大人ともいいがたい年齢の若い女性だった。

 黙って凝視しているシューラを見て、彼女も驚いたような表情を見せた。そして、何かわからない言葉を発した。

 これがさっき歌っていた人だと、シューラは思った。シューラに言葉がわかっていないのを見て取ると、彼女はノルウェー語で何かを言った。それも通じていないとわかると片言のロシア語で訊いた。
「あなたは誰? どうしてここにいるの?」

 シューラはホッとして、言った。
「わたしは、シューラ。犯罪にあって、放り出されたの。町へ行きたいの」

 少女は、少し考えてから首を振った。
「少なくとも、今夜は無理ね。ここには私しかいないし、この寒さであと30㎞は歩けないでしょう?」

「どこかに救援は呼べない?」
シューラがスマートフォンを取り出すと、少女は笑った。
「それ、まだ動くの?」

 そう言われて見ると、スマートフォンの電源は切れていた。氷点下の寒さと、圏外で見つからぬ電波を探す動作が電池を消耗させたのだろう。電池切れになっていたことに氣がついていなかった。

 シューラはそれでも食い下がった。
「あなたは携帯電話は持っていないの?」

 少女は首を振った。
「ここでは電化製品は役に立たないの」

 それから、手に持っていた革鞄を斜めがけにしてから高床式の家の扉を閉めると、梯子を伝わりながら降りてきた。そして、シューラの傍らに立った。
「今夜、町に行くのは無理よ。わたしはマリよ。ついていらっしゃい」

 シューラは、彼女の家には入れてくれないのかと思って落胆した。寒さに手足は強ばり、もうたくさんは歩けるとは思えなかった。マリは、ああという顔をしてから言った。
「心配しないで。すぐそこだから」

「ここは、あなたが寝泊まりする家じゃないの?」
「違うわ。これは倉庫なの。寝泊まりするのはゴアティよ」

 ゴアティが何を意味するのかはわからなかった。いつだったかテレビで見た、サーミ人が寝泊まりする布テントを想像した。その映像では、トナカイがソリを牽き、人びとは氷の上で焚き火をしていた記憶がある。ソリがあれば町まで連れて行ってもらえるかもしれない。

 木々の合間を少し歩くと、高さ4メートルほどの木の小屋が現れた。たくさんの丸太を円錐形に束ねてある。そして、隙間から緑色の苔や植物が顔を出していた。布テントでもなければ、人びともトナカイもいなかった。
「これが、ゴアティよ」

 マリは、丸太でできた扉を開けて、シューラに「どうぞ」と言った。

 近くで見ると丸太の骨組を土や木が覆っている。土にびっしりと苔が生えており、また覆った外側の木々から新芽が生えている。根のついた自然の木々や苔が絡み合い、補強と断熱効果があるようだ。

「ここで靴を脱いでちょうだい」
そう言うと、マリは毛皮でできたブーツを脱いだ。彼女は小さなフェルトの中履きを履いていて、シューラの薄いストッキング姿を見ると、奥から同じようなフェルトの履き物を持ってきて渡してくれた。

 中は15平方メートルくらいだろうか。中央に石の囲炉裏があり、炭が赤く熾っていた。奥の一部分にだけ、毛皮が敷かれているが、それ以外は非常に細い枝が敷き詰められていた。

 少女は、革鞄から薪を取り出すとそれを囲炉裏にくべて火を熾した。シューラは、待ち焦がれた火の暖かさに安堵の声を漏らした。

「座って」
マリは、囲炉裏の近くの場所を示した。シューラはコートのボタンを外し、肩から羽織るようにして火に当たった。それから、小屋の中を見回した。

 外側は生きている植物で覆われていたが、内側は滑らかに処理された丸太で組まれている。湾曲した大きな柱が2本、それをつなぐ太い丸太が全体を支える骨組みとなり、その骨組みに立てかけるように丸太が並べられている。丸太にはいくつかの枝が残されていて、それを骨組みに引っかけて全体がバラバラにならないようにしている。だから、縄や釘のようなものは一切見えないのに、しっかりと固定されている。

 不思議な小屋だ。中心に平たい石で組まれた炉と、鍋のようなものがあるだけで、棚やテーブル、椅子などの家具はない。かといって布テントほど簡易な作りではなく、外にあのように植物が育つのならば、新しい建物ではないだろう。
「古い建物なの?」

「そうね。たぶん200年くらいじゃないかしら。正確には知らないけれど」
「あなたはここに住んでいるの?」

「いいえ。でも、ここに来るときには使うわ。一族みんなのゴアティなの」
そういいながら、炉に鍋を掛けて湯を沸かした。

「サーミの人たちって、たくさんのトナカイを放牧したり、観光客たちに犬ぞりを見せて暮らしているんじゃないの?」

 無知な質問には、慣れているのだろう。苦笑しながら答えてくれた。
「たくさんトナカイを飼って放牧する人たちは山岳サーミっていうの。私たちはトナカイは飼うけれど小規模で主に森に住むので森林サーミって呼ばれている。ほかに湖や海岸に住む人たちもいて、彼らは漁業を営むのでトナカイは飼わないのよ。それに、今では都会に行って伝統とは関係のない仕事をしている人もたくさんいるわ」

 その話をしているうちに湯が沸いた。マリは手際よく、コーヒーを淹れ、パンを温め、それからトナカイの燻製肉を切り分けて渡してくれた。古い折りたたみナイフや食糧は、みな彼女の持ち歩いていた革鞄から出てくる。火の熾し方、トナカイの毛皮を敷き詰めて座り心地のよい場所も作る手際もいい。

「マリ、あなたはいくつなの?」
シューラはずっと疑問に思っていたことを訊いた。

「16歳よ」
印象は間違っていなかった。しかし、彼女の行動は、とても16歳のようには見えなかった。森の奥に1人で寝泊まりし、火を熾し、食べ物を用意し、寒さも孤独も怖れる様子がない。

「あなたたちの民族は、16歳でもこんな風に何でもできるの?」
シューラが訊くと、マリは不思議そうに見つめた。

「何でもできるわけじゃないわ。ひと晩くらい、問題なく過ごせるだけよ。子供の頃から、家族に習ってきたの。あなただって、あなたの家なら暖のとり方や、コーヒーの淹れ方に困ることはないでしょう?」
それはそうだ。

「こんなに人里離れたところに、1人でいるのって大変じゃない?」
そう訊くと、マリは少し笑った。
「1人になりたいから森にいるのよ。ずっと学校に通わなくてはいけなかった。ようやく1人で森に来られるようになったのよ」

 シューラは、心底驚いた。
「じゃあ、あなたはずっと1人でここにいるの?」

 マリは首を振った。
「残念ながらそうじゃないわ。普段は村で働いているの。2週間の休みで、森に来ているだけ。明日はもう少し南のゴアティに移る予定よ」

 つまり、マリは徒歩だけでこの森に来ているのだ。シューラは、彼女に出会えたことがとんでもない幸運だったことに今さらながら氣がついた。

「ずっと森にいられたらいいけれど、私たちの祖先のような暮らしは、難しいの。義務教育だの、税金だの、逃れられないことがたくさんあるから。納得がいかないことにも従わざるを得ないから」

「税金や社会保障費は、しかたないんじゃない? 安全を守るためであったり、病や老後に困らないためにひつようなことでしょう?」

 マリは、シューラをじっと見つめた。
「あなたは、ここで安全? 困っていない? 税金や社会保障費が、今あなたを助けてくれている? その仕組みここでは無効だけれど、私たちは、税金や社会保障費なんかなかった頃と同じことをして生きているわ。あなたたちの『保障』や『安全』が、ここには届かないのに、なぜそのための掛け金を払わなくちゃいけないの?」

 シューラは戸惑いながら言いつのった。
「でも、都会では、社会は全く違って機能しているのよ。警察は電話1つできてくれるし、病院にも近いの。暖かい家に住んで、珍しい美味しいものを食べられる。キャリアを重ねてお金を稼げば、最新流行のファッションに身を包んだり、海外旅行に行ったり……」

 マリは、首を振った。
「そうしたい人は、すればいいわ」

 それから、マリは焰を見ながら、ヨルクを歌い始めた。先ほど聴いたのと同じだ。意味はわからないが、何か特別な想いが込められているかのようだった。

 焰が揺らめき、火の粉と共に煙が上がっていく。小さな穴から煙は夜空に上っていく。冷たい北極圏の空がその煙を引き受けている。漆黒だと思ったのに、その穴からは緑色の光が揺らめいた。
「え?」

 マリは、立ち上がると身振りでシューラを外に誘った。コートを着て、ブーツを履いて急いで外に立つと、木々の切れ目に広がる空は、緑色のカーテンに覆われていた。オーロラだ。

 マリのヨルクに合わせるかのように、オーロラは波打ち煌めいた。風と、遠くを動く動物が揺らす木々の音が、ヨルクに絡みつきながら張り詰めた冷たさの中シューラの耳に届く。

 シューラは、震えた。真っ黒にそびえる森の木々と、風と、ゴアティから立ち上る煙は、マリのヨルクと同調して、北の大きな天蓋を讃美していた。横たわる世界は完璧で冷たく、シューラはどうしようもなく小さかった。

 順調に駆け上ったキャリアも、クリスマスシーズンの豪華な晩餐も、何もかもが儚く脆く虚飾に満ちていた。矮小で役に立たないのは、動かないスマートフォンや、駆けつけてくれない警察と同様、見下されないための傲慢な態度や、ニッケル調達をめぐる黒い噂に目を瞑る欺瞞を当然のことと思っていた自分自身だ。

 ゴアティの中に戻ってから、シューラはもう先ほどのように雄弁に都会生活の優位を主張できなかった。マリもまた、多くは語らなかった。

 用意してもらったトナカイの毛皮を敷き詰めた寝床に横たわりながら、暖かく燃える焚き火を見つめた。

 ババ・ヤーガの小屋のような倉庫にしまわれた薪や食糧、トナカイの皮や森の木々から作られた慎ましい調度、電氣も漆喰もないのに、まだ生きている植物に守られた暖かい夜。マリやその仲間たちが大切に思い、残したいと思っている暮らしのことを考えた。

 凍死する心配はなかったけれど、慣れないトナカイの毛皮の寝床では深くは眠れなかった。ずいぶんと時間が経ったように思ったが、北極圏の夜は長かった。すべての電子機器が動かないシューラには時刻を確かめる術はなかった。

 暗い中、マリが淹れてくれたコーヒーとともに朝食をとった。ボタン1つで出てくるカプセル式のコーヒーと違い、コーヒー豆を入れた小さな鍋が焚き火の上でコトコトと音を立てるのを待つ時間はとても長い。1週間前のシューラだったら、この時間は人生の無駄遣いに思えたことだろう。

 でも、今の彼女にはこの長い時間が必要だった。意味のわからないマリのヨルクも、トナカイに関する思い出話も、彼女の旅の拠点であるゴアティのある聞き慣れぬ地名の数々も、今のシューラには聴く時間がたっぷりあった。

「このカップ、素敵ね」
コーヒーの注がれた木製カップは手に馴染む形と、温かみのある木目がいい。

「ククサって言うの。白樺の木にできたコブで作るのよ。この大きさのコブができるまでには30年くらいかかるので、大量生産はできないの。だから、手に入ったら大切に使うのよ。たいていは贈り物ね」
マリは微笑んだ。シューラは「そう」と、改めて珍しそうに眺めた。

 マリによると、上手に移動していけば、3日後には町につけ、警察や電話といった彼女の必要な助けが得られるという。彼女は、それまで一緒にいて助けてくれると言ってくれた。シューラは、それで十分だと思っていた。アルバキン氏からのニッケルの買い付けは、もう望みがないだろうが、それがどうだというのだろう。社内での出世競争に遅れをとったことも、もう氣にならなかった。

 北極圏に広がるサーミたちが暮らす自然に支配された世界の大きさ、マリの助けを借りて生きて帰ることの奇跡を経験している意味の方がずっと重要だと感じる。

 天蓋に散らばる満天の星は、北極星の周りをゆっくりと動いていく。シューラはククサを両手で抱えて、コーヒーの香りを吸い込んだ。

(初出:2023年11月 書き下ろし)

この記事には追記があります。下のRead moreボタンで開閉します。

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ストーリーに出てきたサーミの伝統歌謡ヨイクは、単なる歌ではなく自然と交流する儀式の一部でもあるようです。今回のストーリーはロシアのコタ半島を舞台にしましたが、サーミ人を国境で○○人と区分することはナンセンスなのかも。

Mari Boine - Gula Gula (Hear the voices of the foremothers) by Jan Helmer Olsen

【追記2】ゴアティの情報が見つかりにくいみたいなので、私が参考にした動画を貼り付けておきます。

Arctic ancestral survivalism: on extreme weather Sami wisdom
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Posted by 八少女 夕

150,000Hit……過ぎてた

最近、桁が大きくなってあまり踏まないのですっかり見過ごしていました。

キリ番過ぎた

1000Hit、5000Hit、10000Hitなどは楽しく騒いでいたのですが、3年前の123456Hit以来ちょうどいいキリ番があまりに来ないので、カウンターを見るのをすっかり忘れておりました。

月曜日の深夜か火曜日の朝に、なんと150000Hitになっていたようです。「あれ」と思ったときは、すでに85も過ぎておりました。こんな辺境小説ブログに、懲りずに訪れてくださるみなさまに、改めて御礼申し上げます。

最近、このブログも比較的静かですし、あまり記念イベントというほどのことでもないのですが、せっかくですので、もし掌編小説のリクエストがありましたら承ります。来年になると、また「scriviamo!」が始まりますので、このリクエストは年内かな。

リクエスト内容(フリー)
  テーマ
  私のオリキャラ、もしくは作品世界の指定
  コラボ希望キャラクター(ご自分の、又は作者の了解をもらえる場合のみ)
  時代
  使わなくてはならないキーワード、小物など
  その他 ご自由に



ご遠慮なく、どうぞ〜。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -3-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』3回に分けたラストをお届けします。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、目立たぬように近くの屋敷の影に潜んでいたフリッツ。ちょうどその屋敷の使用人と、向こうからやって来た人物が密会をはじめたようです。フリッツは、それを盗み聞きすることになってしまいました。

まだ名前は出てきていませんが、この男が、おそらくこの作品群の最後に登場した主要サブキャラです。すでに外伝では登場させていますが、そっちは読まなくても大丈夫です。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
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森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -3-


 歩いてきた方はユダヤ人の服装をし肌色が非常に濃い男だ。屋敷から出てきた男は、その屋敷の召使いと思われる服装だ。だが、このような屋敷の使用人とユダヤ人が密会しているのはいかにも不自然だ。

 召使いの方は、聴き取りにくい小さな声で何かを囁いていた。それに対して、ユダヤ人の服装の男がカンタリア語で話しだした。
「では、例の男の口はまだ塞がれていないということか」

 フリッツの母親がレオポルドの乳母だったので、親子は子供の頃からレオポルドならびにカンタリア出身の母后の近くに侍ることが多く、グランドロン人としては珍しくカンタリア語を幼少期からたたき込まれている。

「はい。人狼であるという噂が立っているのをいいことに、うまく片付けるように仕向けておりましたが、邪魔が入りました」
屋敷の召使いの方は、カンタリア語は得意でないらしく、センヴリ語訛りで答えているが、カンタリア語とセンヴリ語はかなり近いので十分に会話が成立していた。フリッツにも何を言っているのかがよくわかった。

「邪魔? つまり、だれかがあの男を助けたと?」
「はい」
「あの男に味方がいるというのはよくない兆しだな。そちらも消さねばならぬとは思わぬのか?」

 フリッツは、話の内容に眉をひそめた。人狼というからには、例のトゥリオに違いない。カンタリアの人間が候女に近いトリネア人の殺害を示唆している。

「それが、どうも姫君の息のかかった者のようで」
「姫君? ああ、あの欠陥候女か」
「はい」

 浅黒い男は、わずかに考えていたが、ふっと笑った。
「そうか。それなら、むしろ好都合かもしれぬな」
「と、おっしゃいますと?」

「あの女は、孤立している。侯爵夫妻からも期待されておらず、どの有力貴族たちからもあざ笑われ、城内で頼る者もない。犯罪人を匿ったのが明るみに出れば廃嫡もあり得る大失態だ。そういって脅すことで、こちらに都合よく動く傀儡にすることも可能だ」
「なるほど、確かに」

「ともかくあの従僕の居場所を一刻も早く探って、あの女による隠匿である証拠を掴んでから消せ。あの候女が頼り匿っている者がいるなら、そちらも潰すいい機会だ」

「わかりました。それに、幸いトゥリオ自身がそう信じているように、姫君にも、ペネロペ殿はオルダーニ家に殺されたと思って動いていただければむしろ好都合です。万が一にも、こちらが計画したことと氣づかれれば、せっかく進んでいるそちらの殿下とのご縁談にも差し支えましょう」
「ふん。わが主にはまだ細かい事情を知らせるつもりはない。あの男は候女の前で馬鹿正直に思ったことを口にして、何もかも台無しにするだけだ」

 フリッツは仰天した。不穏な話題もだが、この男はカンタリア王子エルナンドの家来らしい。ということは、ユダヤ人などではなく変装だろう。この浅黒い顔はモロと通称されるタイファ諸国の褐色人のようにも見える。そのような男を王子が家来にしているのは奇妙だが、この件を主人レオポルドに報告すれば、いずれ候女エレオノーラ経由で何者なのかわかることだろう。

「まて。誰か来るぞ」
ユダヤ人の服装の男が声をひそめた。

 フリッツは自分の存在に氣づかれたかと思ったが、そうではなかった。かなり向こうからだが、この屋敷の方へ近づいてくる金属音がしている。フィリパに違いない。先ほども腰につけていたダガ剣とベルトが歩く度に音を立てていた。

「では、私はこれにて」
屋敷の召使いは、慌てて裏木戸を押した。彼が向きを変えたときに、その頬髭がつる性植物に引っかかりわずかに引っ張られた。それで、フリッツにその男の左頬の下にそれまで氣がつかなかった大きな黒子があるのが見えた。

「わかった。引き続きそちらからの情報を待つことにしよう」
浅黒い顔の男はあたりを見回してから、急ぎその場を離れ、召使い男はそそくさと屋敷に入った。

 見ていると、かなり先でその男とフィリパがすれ違い、彼女が胡散臭げに振り返っていた。モロである男は、目もくれずにすれ違ったが、しばらくしてふり返りフィリパと、そしておそらくこの屋敷を何か言いたげに見つめているのがわかった。

 フリッツは、もしかして忍んで話を聞いていたのを感づかれたのかと訝った。だが、男は、身を翻すと城下町の方へと去って行った。
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Posted by 八少女 夕

あわてて収穫

家庭菜園の話題、まだ続きます。

霜が降りた

10月は例年よりもずっと暖かかったのですが、11月は普通に寒くなりました。私の家庭菜園は、日本語の情報を参考にすることが多いのですが、動画にしろWEB上の記事にしろ、関東や関西あたりのお話だと、12月くらいまで畑が普通に稼働している感じなのですが、やはりその辺はスイスには当てはめられないようです。

今年は7月におかしな寒さが続いたせいか、時期を守って植えた一部の野菜はまだ思ったようには育たず、たとえばキャベツはまだまだ小ぶりです。とはいえもうこれ以上は大きくならないでしょうし、収穫する時期を考えています、霜が降りていますけれど。

ニンジン、ロマネスコ

そんなこんなで、畑にはまだまだいろいろな野菜が残っているのですが、諦めて収穫したものもあります。ロマネスコ3株と、ニンジンが大小合わせて10本ほど。

ニンジンはまだ放っておいてもいいかなとも思ったのですが、地面が凍ったら掘り出すのも大変になるだろうし判断して、引っこ抜きました。思ったよりもちゃんとできていて感激。そして、めちゃくちゃ味が濃くて美味しいです。見かけはいまいちですけれど、それは問題なし。葉ももったいないので、ふりかけにして食べましたよ。

ロマネスコを植えたのは生まれて初めてですが、ちゃんとフラクタルな形に出来上がっていて嬉しかったです。1度にこんなには食べられないので、固ゆでして冷凍しました。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -2-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』3回に分けた2回目をお届けします。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、目立たぬように近くの屋敷の影に潜んでいるフリッツ。やることもないのでグルグルどうでもいいことを考えています。フリッツって、本当に結婚やら男女交際に向いていない人なんだろうな。何が悪かったのか、本氣でわかっていませんね。こりゃ。

そして、最後の方にだけ、ちょっと本題が……。


トリネアの真珠このブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物


【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -2-


 インゲの方も、夫にスダリウム布の1つすら贈ろうとしなかった。レオポルドに従いノードランド戦に出征したときにすらだ。それについてフリッツは不満に思ったことはない。既に夫婦なのだからそんな甘ったるいことは不要だと考えていたからだ。

 それを知ったとき、副官のブロイアー中尉は驚愕し、周りにはそのことが一両日中に知れ渡った。レオポルドまでが呆れていた。
「そなた、インゲをそうとう怒らせているのではないか?」

「なぜですか」
「なぜって……。本物の戦に旅立つ夫にスダリウムを贈らない妻なんぞ、聞いたこともないぞ。それはつまり、『安全に帰ってこなくてもよい』という意思表示ではないか」
「まさか。そう思うのなら、はっきり口でそう言うでしょう」

 もちろんインゲはそうは言わなかったが、もしかしたら本当にそう思っていたのかもしれない。何も言わないから、生活に満足しているとは限らないのだとフリッツが学んだのは、インゲがドライス伯爵のもとに走ってからだった。

 表向きは、インゲはまだヘルマン大尉夫人だった。彼女は離縁を求めてこなかったし、フリッツもそうする必要は特に感じなかった。ほかにつきあいたい女性がいたわけでもなければ、そもそも誰かと知り合う機会も時間もなかった。まだ結婚している身であるという自覚と節操を持ち続けることが自分に合っているとも思っていた。

 エマニュエル・ギースとアニーの様子は、もうほとんど思い出さなくなっていた不快な感情を再び喚起した。去ったインゲが恋しいと思ったことはない。寂しさも感じなかった。それは失敗からくる苦さであり、何が間違っていたのかわからない事に対する苛立ちに近かった。

 そして、いま見た2人の様子に対する戸惑いは、宮廷でドライス伯爵とインゲを見かける時の感情とは少し違っていた。そもそもフリッツはレオポルドやフルーヴルーウー辺境伯夫妻ほどルーヴラン語に堪能ではないので、2人の会話の詳細まで理解したわけではない。だが、ギースがさまざまな言葉を尽くしてアニーの身を案じ、再会の喜びを表現していることはよくわかった。

 もし、あの男が現れず、フリッツが溺れかけたアニーと再会していたとしたら、彼はどんな態度を取っただろうかと考えた。

 川に落ち、溺れそうになった彼女を見て、役目もすべて忘れ飛び込み助けたいと思ったことを、彼は伝えただろうか。伝えないだろう。

 宝物を抱えるようにリネンに包みその胸に愛しげにかき抱いて馬を走らせたりするだろうか。しないだろう。もちろん風邪をひかないように布を用意してやることくらいはしたに違いない。そうして、いつものように一緒に馬に乗り、お互いの主の待つ場所へ戻る、それだけだ。

 あの娘はこの旅での『設定』とは異なり、彼の妻ではない。節度ない振る舞いをすれば彼女は拒み、いつものように生意氣な態度で抗議してくるに違いない。

 だが、あの男は、アニーにとってあのような振る舞いを許す存在のようだ。それが、フリッツをひどく苛つかせていた。様子を見にいかせたフィリパはいったいどうしたのだろう。あれからしばらく経つのに。

 辻の方を見ながら思いをめぐらせていると、反対側から誰かが近づいてくる音が聞こえた。フリッツは、人狼騒動のおりに近隣の村の者たちの恨みを買ったことを思いだした。何かあってもあの程度の男たちに負けるような腕前ではないが、エマニュエル・ギースがすぐ近くの修道院にいるのに、ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。見つからないように身を潜めた。

 すぐに、つる性植物の下でギィと音がして、そこが屋敷の裏木戸であることがわかった。中から男が顔を出し、やって来た男と顔を見合わせて頷いた。あたりの様子を慎重に確認している。どうやら見られたくないと思っているのはこちらだけではなさそうだ。
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Posted by 八少女 夕

リボベジ

「植物の生命力はすごい」という話。

サラダ菜

家庭菜園というと、種や苗を買ってきて植えるもの、きちんと時期を守って種まきや育苗をしなくてはならないと思ってしまいがちです。もちろん、そうしたプロセスやノウハウは大切なんですけれど、たまにそれから外れた、ちょっとズルにあたるやり方でもうまくいってしまうことがあります。

その1つがリボベジ、野菜のヘタや根っこ部分を使っての再生栽培です。捨ててしまう部分ではなく、保管している間に芽が出てしまってスカスカになってしまった玉ねぎ、芽の出てきたジャガイモ、サツマイモの端っこから作ったツルなど、今年のガーデニングに使って成功したリサイクル野菜もその1つだと思っています。

上の写真のサラダ菜は「トリオ・サラダ」として根がついたまま販売されていたものを一部の葉を残してプランターに植えたものです。春にサラダ菜の種を植えすぎて、一斉にサラダ菜ばかりという地獄を味わったのですが、新たな株を種から大きくするには時間がかかります。それで、特別安かった週に、野菜売り場にあった根付きのサラダを買ってきて栽培期間を短縮したのです。苗より安かったですし、このくらい育っている株は、どんどん新芽を出してくれて長期間楽しめることを、学習したので。普通は1週間ぐらいで食べきってしまうサラダが、こうすることで必要なときに収穫できるようになります。まだ窓の外にありますが、霜が降りるようになったら、中に入れてキッチンに置くつもりです。

リボベジ キャベツ

キャベツの芯も再生栽培できることで有名ですよね。苗を買って植えたキャベツもあるんですが、せっかくなのでリボベジもしてみました。結球するほど立派に育たなくても、サンドイッチの付け合わせになるくらいちょっとだけキャベツがほしい時に、キッチンで簡単に折り取れたら便利ですよね。冬の畑には野菜がない時期でも、こうした小さな野菜がキッチンにあったら便利だと思うのですよ。

ショウガ

こちらははじめて挑戦してみたショウガ。ショウガは普通に購入できるんですが、新生姜が手に入らないんですよね。以前、とても高いものを偶然購入できたことはあるんですが、最近は見かけません。買ってきたショウガに、芽みたいなのが顔を出しているのを見たら植えてみたくなってしまったのです。ほんの一かけに切って土に植えてみたら、バッチリ芽が出てきました。そろそろプランターに植え替える予定です。

時期は植え付けのセオリーに合っていませんが、どちらにしてもこちらの冬の寒さでは、屋外で育てるのは無理だと思うので、プランター栽培でまずは屋内で育てます。
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Posted by 八少女 夕

【小説】森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠(25)密会 -1-

『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』、第25回『密会』をお届けします。今回、本当は3回にわけるような長さじゃないのですが、2回だと切るところがおかしくなり、1つが長すぎることになります。で、3回にわけています。決して続きが遅れているから引き延ばしているわけでは……ないことはないか……。

さて、フィリパが修道院にアニーの様子を見にいってくれている間、役に立たない状態のフリッツは、近くの屋敷の近くに身を潜めて待っています。サブタイトル「密会」に関係してくるのは、分けた3回目だけなのですが、今回と次回は、わたしの小説によくあるキャラのグルグル思考をお楽しみください。このキャラのグルグルなんて、誰も待っていないとは思いますが。


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【参考】
「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」を読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠
(25)密会 -1-


 アニーと連絡をとるために修道院へ行ってくれたフィリパを待つ間、フリッツは辻の近くの屋敷の影に身を潜めていた。修道院ほどではないが、かなり立派な屋敷だ。

 建物の上部前面が柱で支えられた回廊様ポルティコになっており、その列柱の古代風装飾が優美で美しい。下部は塀に遮られて見えないが、門柱飾りは立派な松の実の装飾で、グランドロンでは見かけない香り高い白い花をつけたつる性植物がその塀を覆っていた。

 フリッツは、センブリ王国の建築様式などに関する知識はほとんどないが、少なくともかなり裕福な人物の持ち物であることは推測できた。おそらく名のある貴族の別宅だろう。

 もっとも、塀を覆う植物は少々生い茂りすぎている。修道院の塀にも蔦が這っていたが、下男たちが乱れぬ程度に剪定していた。この屋敷には、人手が足りないのか、もしくは長いあいだ主の目が届かぬ状態になっているのかもしれぬと考えていた。

 そのようなことを考えるのは、今のフリッツは為す術もなくここで女傭兵を待たなくてはならないからだった。普段の彼は、つねにレオポルドの行動に反応して、その安全に身を配っているので、このように何もせずにただ待つというようなことは記憶にあるかぎりしたことがなかった。

 今日は、何もかもが予想外のことばかりだった。アニーが川に投げ出され、すぐに助けに行きたいという思いと身に染みついた国王の警護優先に引き裂かれた。彼女の無事が確かめられたかと思えば、一行の正体を知る人物がその場にいた。

 そして、そのエマニュエル・ギースの態度振る舞いすら、彼の想定をはるかに超えていた。ルーヴラン人に多い、女にベタベタするタイプなのか、アニーに対しての距離感がおかしい。まるで熱愛する貴婦人に跪く騎士のような振る舞いだ。いったい何なんだ、あの優男は。

 フリッツは、小夜曲を奏でながら跪いて求愛するタイプの男が何よりも嫌いだ。皮肉なことに、彼の妻インゲがなびいて公然の愛人となってしまったのは、まさにそのタイプの男ドライス伯爵だった。

 インゲに夫ある身でほかの男と出歩くようなふしだらな振る舞いを慎むようにと言い渡したときに、彼の妻は慌てるどころか、フリッツをはなから馬鹿にした様子で言い放ったものだ。
「そんな態度で女を引き留めることができるなんて思わないことね」

「私があの方と出歩くだけだと思っているなら、おめでたいことだわ」
そう言って屋敷を後にしてから、インゲはもう戻らなかった。今ではヴェルドン宮廷の誰もが知っている。彼女はドライス伯爵の屋敷の1つに住み、舞踏会など社交の場にも堂々と伯爵とともに出てくるのだ。

 インゲとは、もともと恋愛感情があって結婚したわけではない。お互いに恥ずかしくない程度の家柄ということで、仲介者を通して知り合った。口数は少なく、家政をしっかりと切り盛りできるしっかり者だと判断したので結婚を申し込んだ。

 実際にインゲはきれい好きで整理整頓も得意だった。下男や下働きの娘の扱いだけでなく、自身もたまにする料理も下手ではないのだが、調理場を汚すような料理は作らない主義で、あっさりとしたあまり腹にはたまらない料理ばかりを作った。しかし、フリッツはそれに対して文句を言ったことはなかった。

 お互いに腹を割って話し合うようなことはしたことがない。もちろんドライス伯爵がお得意の、花を抱えて甘ったるい讃美の言葉を囁いたり、リュートで小夜曲を奏でたりするようなことは一切しなかった。
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