【小説】命のパン
scriviamo!の第八弾です。canariaさんは、楽しい四コママンガで参加してくださいました。
canariaさんの『「scriviamo! 2016」参加作品 』
canariaさんは、Nympheさんというもう一つのお名前で独特の世界観と研ぎすまされた美意識の結晶を小説・イラスト・動画などで総合芸術を創作なさるブロガーさんです。以前、fc2でお持ちになっていたブログの頃からのお付き合いで、最初のscriviamo!でもご参加いただいたことがあります。お返ししたのはcanariaさんの「侵蝕恋愛」にトリビュートするソネットでしたが、scriviamo!のお返しで一番たくさん拍手をいただき、たぶん私の作る日本語ソネットでこれを超えるものはないだろうという作品。それだけcanariaさんの物語の世界観が高みにあるからだと思うのです。
今回の作品は、私の「森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架」の登場人物とcanariaさんの手作りパンの共演なのですよ! 私も食べたことのない尊いパンを、なぜザッカがもらうと嫉妬剥き出しの私です(笑)
で、どうしようかな〜と悩んだ結果、このありがたいシチュエーションをそのまま外伝に書いてしまうことにしました。こういう機会でもないと、ザッカの話なんて書くことないし。ザッカのイメージは、動画記事で発表した公式(おっさん)のものでも、canariaさんの描いてくださった長髪美青年でもお好きな方で(笑)長髪美青年の方が萌える?
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森の詩 Cantum Silvae - 外伝
命のパン
——Special thanks to canaria san
石壁に置かれた牛脂灯の焔が揺れた。わずかに黒い煙を吐き出して、焦げた臭いが漂った。イグナーツ・ザッカは、外で監視を命じられた兵士が交代の時に「ひどく冷えるな」と弱音を吐くのを耳にした。
彼は笑みを漏らした。宰相としての役目を解かれ、全財産を没収され、罪人としてこの西の塔に幽閉されて半年近くなるが、その待遇は悪くはなかった。彼はこの塔から出ることはできないが、拷問をされることもなければ餓えることもなかった。この部屋は、王侯貴族からしてみれば酷い待遇の監獄なのかもしれないが、彼がかつて暮らしていた修道院の生活と大して違わなかったし、ましてや貧民街とは較べるまでもなかった。
ルーヴラン王国が、グランドロン王国に対する奸計の咎を全て彼に負わせて事態を収束させたものの、そのまま彼を殺さなかった上に、そこそこの待遇を保っている理由は一つだった。彼らにはまだザッカが必要だったのだ。
宰相時代の副官であったジュリアン・ブリエは、現在は親政をしている国王エクトール二世の名代として時おり慰問にやってくる。それはただの口実で、彼らはザッカの助言を必要としていた。ザッカの築き上げて来た政策の大半はまだそのまま残っていた。多くの貴族たちは財政緊縮のために廃止された特権を元に戻してもらうことを望んだが、グランドロンに賠償として差し出した直轄領からの収入が途絶えた今、国にそのような余裕はなかった。
ザッカの宰相時代に恩恵を受けた親類縁者がいれば、そこから没収することも出来たかもしれない。だが、外国人であり、さらにどの貴族とも血縁関係のないザッカには資産はほとんどなかった。彼の得ていた少なからぬ報酬の多くは、治水事業と貧しい者への施しに使われていた。既に多くの国費も使われている治水事業を取りやめれば、国の未来に絶望が待っていることは凡庸な国王や欲の張った臣下たちにもわかっていたので、それも続行せざるを得なかった。
ザッカは囚われの身のままで、王侯貴族たちのそしりを受けつつ、いまだにルーヴラン王国のために日々心を砕かざるを得なかった。
何のために。彼は自問する。私の企ては失敗した。念入りに立てた計画の全てが無に帰したのだ。神になど頼らぬ、わが意志で世界を変えると決めた。そして、この国であれば、私の思う結果が出せると信じた。だが、神は思わぬ駒を進めた。役目を解かれた私が、今さら心を砕いて何になる。私はこの塔の外には出られぬ。私の施しを待ち、終油の秘蹟を求めるあの貧しい者たちのところへももう足を運ぶことは叶わない。何百人もの《マルコ》たち。私は負けたのだ。
小さいノックが聞こえた。彼に食事を運ぶ召使いや、ブリエの先導をしてここに入ってくる兵士たちはノックなどしない。訝って扉ヘ行くと、外ら中をのぞくための小さい窓が開けられ、フードを目深に被った人物が立っているのが見えた。
「何者だ」
「名を申すことはできませぬが、お氣の毒に思う者でございます。秘密裡に参りました。このような囚われの御身、さぞおつらいこととお察し申し上げます」
「ご心配はありがたいが、危険を冒してお越しいただくほどの苦境にはござらぬ」
「少しでもお力になりたく、これを持参いたしました。お体を大切になさり、どうぞ好機をお待ちくださいませ。我々が必ずや……」
そう言うと、彼の手に何かの塊を押し付けて、返事も待たずに立ち去った。
小窓がカタンと閉まり、揺れていた。彼は、それをしばらく見ていたが、やがて受け取った包みに目を落とした。草木で染められた布を開くと、焼いたばかりと思われるパンが現れた。丁寧に挽いた小麦粉から作られ、干しぶどうの入った高価なパンだった。彼は、しばし呆然とし、想いを少年時代に馳せた。
少年イグナツィオは、ふらつく体を壁に押し付けて、修道院の廊下を進んだ。看病をしていた修道士パウロが、院長と話があると言って席を外したので、チャンスだと思った。
彼が倒れてから一週間が経っていた。全身の痛みと一度も経験したことのない高熱で、他のことなど考えられなかったが、状態が良くなってきてから心配でたまらなくなった。一週間も「あそこ」に行っていなかった。彼の持っていく食糧だけしか食べるもののない小さな少年は、どのような思いで自分を待っているのだろう。イグナツィオは、食事の時に食べずにとっておいたパンを懐にしまうと、なんとか外套を身に着け裏庭へと向かった。不浄なもの用に設けられて普段は使われていない出口からそっと修道院の外に出た。
修道院から子供の足でも半刻もあれば辿りつくほどの近さに、貧民街はあった。そこへ初めて行ったのは、パウロと一緒だった。院長に託された施しの食糧を抱えて行ったが、それは全く足りていなかった。子供たちは何人かいたが、走れて大人たちの隙をついて食糧に手を伸ばせたものだけが少しのパンや果物を手にすることができた。
イグナツィオは、その時にマルコと知り合ったのだ。マルコは、イグナツィオと二つしか違わなかったが、痩せこけて小さく、まるで五つも歳下のように見えた。一番最初に近づいてきて手を伸ばしたけれど、食糧には届かず、大きな男に横取りされてしまった。イグナツィオが差し出したリンゴを手にしたのに、他の少年にもぎ取られてしまった。結局お腹をすかせたまま涙をにじませて、彼はイグナツィオの持っていた籠に顔を埋めた。パン屑を少しでも舐めようとして。
イグナツィオは、その様子に心を痛め、次の日に自分の食事のパンを一つ残しておいた。修道院で用意される食事は決して多くなく、パンを一つ失うのはお腹がすいてつらかった。それでも、彼はパンを隠し持ち、こっそりと抜け出して、マルコにパンを持っていってやったのだ。
それから、彼は矛盾に苦しむことになった。倒れるほどにお腹をすかしているのはマルコだけではなく、彼は時折マルコを失望させても他の弱い子供にパンをやらなくてはならなかった。マルコは、イグナツィオの行為に恨みがましいことは言わなかった。イグナツィオは、少なくともマルコを一番目にかけていたから。
マルコは、だが、少しずつ弱っていった。パウロとともに正式の施しに食糧を持ってくる時に、走ってくることはできなくなった。イグナツィオは、走ることのできない人間たちが、餓えて病に陥り、やがて「終油の秘蹟」を必要とする段階へと進むことも理解した。パウロも、他の修道士たちも、神父たちも、多くのことはできなかった。
イグナツィオは、まだ残る熱でふらつきながらも、貧民街へと走った。マルコは、もう一週間も何も食べていない。
彼は、貧民街の入り口で既に嫌な臭いを嗅いだ。また死人が出たのだ。マルコの住む小屋の近くらしい。マルコがいつも踞っている小屋の裏手に回ると、ものすごい腐臭がして、黒く蠢く何かがあった。彼が入ってきた振動で、それはわっと動き、たかっていたハエの大群だったことがわかった。
目にしたものにショックを受けて、イグナツィオは、すぐに来た道を戻った。
わずかに見えた手はマルコのサイズだった。いつも身に付けていたボロ着もすぐにそれとわかった。何日あの状態だったかはわからない。だが、幼い少年は「終油の秘蹟」を受けることもなく、イグナツィオに別れを告げることもなく、この世から姿を消した。
悔しさと悲しさに涙がにじむ。自分が無力な子供であることや、修道院で日々教えられている教えと現実との矛盾に怒りを感じた。だが、彼に神の慈悲と偉大さをを教える院長やパウロたちが善良で努力を惜しまない立派な大人であることも、彼の苦しみを増した。怒りの行き場がどこにもなかったから。
部屋に戻る前に修道院長の部屋の前を通る。院長とパウロの声が聞こえて、彼は思わず動きを止めた。
「本当に医者を呼ぶ必要はないのかね」
「いいえ。ここでは院長様やそれに準じるような方が酷い病になった時以外、お医者様を呼ぶことなどないではないですか」
「だが、あの子は……」
「院長。あの子は、私がここへお世話になることになったたまたま同じ日にこの修道院の前に捨てられていた孤児。お忘れにならないでください」
「……。わかっている。だが、医者を呼ばなかったために、取り返しのつかないことになる可能性も……」
「院長。私にあの子を託した方は、『殺せ』とお命じになったのですよ」
「なんと!」
イグナツィオは、びくっと身を震わせた。それから戸口から漏れてくる弱い光をじっと見つめた。
「あの方は、ご自分の利益のためにそうおっしゃったのではありません。もしあの女性の産んだのが男児で、その子が生き延びていることが今わかれば、国は二つに分かれ恐るべき争いになるでしょう。すでに荒廃している土地がさらに戦火にさらされ、多くの民が今よりも酷い苦しみに晒されることとなる。あの子供は争いの種なのです。あの方はこうなることがわかっていたので私に命令を下されたのです」
「だが、パウロ。そなたは神に命を捧げた身ではないか」
「はい。ですから、私にはどうしてもあの方の命令を実行することができませんでした。いえ、幼子の無垢な寝顔を前にして、どうすることもできなかったのです」
「だから、ここへあの子を連れてきたのか。では、なおさら医者を」
「院長。私にはわからないのです。私のしたことは正しかったのか。あの子を生かそうとしたのは神の御心に適っていることだと思っていました。だが、あの子は年々あの方に似てきています。同年齢の子たちよりもずっと聡く、政や世の理不尽に対しての感受性も強い。このまま育てば、あるいはいずれあの方の心配なさった事態が起こるかもしれません。それを本当に神も望まれているのか」
「我々が神を御心を知ることはできないのだよ、パウロ」
「ええ。でも、私は神のご意志に従いたいと思います。もし、今あの子が病で命を落とすのならば、それが神のお答えだと納得することができます。そして、あの子が生き延びるのならば、これまでと同じようにあの子を、誰も頼る者のない孤児であるあの子の支えとなっていくつもりです」
少年は、静かにその場を離れた。震えているのは、熱のせいだけではなかった。部屋に戻ると扉を閉じた。しばしその場に踞っていたが、やがて、のっそり立ち上がって外套を脱ぎ元のように鉤に掛けた。膨らんだポケットから固くなったパンを取り出した。
なす術もなく死んでいったマルコの姿が浮かんだ。あれが神の意思だというのか。私も、あんな風に朽ちていくべきだというのか。嫌だ。そんな言葉で、納得するものか。
吐きそうになるのを堪えて、彼はパンを食べた。パンの味が乾いた喉から空腹で疲れた胎内に沁みていく。食べてもう一度健康になる。医者を呼んでもらえなくても、マルコみたいに弱っていったりするものか。彼は、ひと口ごとにパンを噛み締めた。
あれから四十年近くが経った。故郷を離れ、名前を変えて、神の家とも袂を分かった。だが、彼の前にはいつも無念さを表現することもできずに消えていった何百人もの《マルコ》たちがいた。彼は世界を変えるために政治家になった。彼の存在意義のためでもなく、豪奢な生活や王侯貴族の名誉のためでもなかった。そして、実現可能であるならば生まれ育ったセンヴリでも、ルーヴランでもかまわなかった。
人生が終わりに近づいた今、ようやく目的に近づけるかと思ったが、叶わなかった。この石塀に囲まれた西の塔で彼を苦しめていたのは、寒さでも誇りの喪失でもなかった。まだ何も変えられていない焦燥と虚しさだった。世界は重く、日々は苦かった。
彼は、渡されたパンの意味を考えた。
柔らかい上等なパンを口に入れた。わずかな甘味が口の中に広がっていく。あの時と同じだ。餓えた魂に、力がみなぎっていく。
「諦めるなというのか……。私の道はまだ半ばなのだと」
彼は、笑うと次のひとかけらを手でちぎった。
(初出:2016年2月 書き下ろし)
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