scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

scriviamo!


scriviamo!の第十二弾です。

大海彩洋さんは、『奇跡を売る店』シリーズの番外編で参加してくださいました。ありがとうございます!


大海彩洋さんの書いてくださった小説『しあわせについて~懺悔の値打ちもない~』

大海彩洋さんは、ライフワークである「真シリーズ」をはじめとして、精密かつ重厚な小説を書かれるブロガーさんです。私と同年代(プラスマイナス一歳ぐらいらしいですね)かつ、ずっと昔から書いていた、途中ブランクがあったというところまでとても似ているんですが、書く内容は「どうしてここまで違う」というものに。たぶん人生の重みと真剣さの違いが作品に出るんでしょうね。こればかりは一朝一夕では追いつけませんし、そんな野望も持っていません。無理無理。

『奇跡を売る店』は「真シリーズ」の別バージョンかつエッセイ「巨石紀行」でもおなじみの天然石の知識を存分に生かされた作品群です。今回は、主人公が勤めている京都のオカマショウパブ『ヴィーナスの溜息』を舞台に、あちらでのおなじみのキャラのみなさんが庚申講にひっかけた懺悔大会(?)と『幸福学』シンポジウムについて語っているのですが、そこにある男性の人生が語られ、うちの毎度食べて飲んでいるだけの二人も登場させていただきました。

この盛りだくさんな作品に、さらにうちの66666Hit記念の企画、お題の単語6個以上を使うという課題にまで挑戦してくださっていて、なんと35ワードコンプリートです。すごっ。本当にありがとうございます。

で、感心している場合ではなく。いやあ、もう慣れましたけれど、今年のscriviamo!のお約束のごとく涙目級超難解課題。ええ、こちらも本当に難しい。

今回は、うちの「生理学教授クリストフ・ヒルシュベルガー&その秘書ヤオトメ・ユウ」を京都にご招待くださりたくさんご馳走してくださったので、もう、そのままこの二人を出すことにしました。そして、彩洋さんの物語の中で語られた「しあわせについて」&「人生の選択」などで真面目にリターン(したつもり)。そして、二つの一見全く関係のない話を、接点もほとんどなく重ねてみました。同じテーマでも今度もやっぱり「私が書くとなぜこうなる」。ううう、彩洋さん、ごめんなさい。今ひとつハートフルラストに落とせないのは、もしかして私の人生観って……。


【参考】この二人のでてくる作品群です。あ、ヤオトメ・ユウは私とは別人キャラです、念のため。
教授の羨む優雅な午後
ヨコハマの奇妙な午後
パリ、イス、ウィーン、ニライカナイ、北海道、そして
君を知ろう、日本を知ろう


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グラスを傾けながら 〜 彼と彼女の幸福論 
——Special thanks to Oomi Sayo san



 いつも後にきっちりと結わえている髪を下ろした彼女の姿は柔らかで、研究室で見るよりずっと年若く見せた。黒い髪に、夜空を思わせる黒い瞳。アルミネは、話す時に少し斜め前を見るように伏し目になり、悲しそうに微笑んだ。

 彼は研究室では一番早く出勤するので、彼女が泣きながらファンデーションを塗っているのを見てしまった。目の周りの青あざ。研究室のすぐ側にある薬局ではそれを隠せるほどの濃いファンデーションを売っている。誰にも言わずに堪えている彼女が心配だった。

 アルミネは、主任教授の秘書だった。若い研究員である彼は、雑用を彼女と一緒にする機会が多く、彼女がアルメニア人であることを知っていた。といっても彼女自身がアルメニアから来たわけでなく、全アルメニア人の六割を占めると言われている「ディアスポラ」つまり迫害を避けて逃げだしてきた国外アルメニア人の出身だった。

 生まれた時からスイスに住んでいるので完璧なスイスドイツ語を話すが、美人が多く天才も多いと言うアルメニア評にふさわしく、美しく賢い、そして優しく穏やかな性格で、彼は好意を持っていた。と言っても、彼女にはパートナーがいることを知っていたので、口説くことはなかったが。

 その日は主任教授に頼まれた資料作成に手間取り、研究室を出るのは二人が最後だったので、彼は断られると予想しながらもアルミネを食事に誘った。けれど彼女は言った。
「ご一緒しようかしら。まっすぐ帰っても、今日は誰もいないし」

 食事をしながら、彼は朝はからずも見てしまった光景について謝った。すると彼女は、伏し目で笑いながら、夫に殴られたことを白状した。

「君が助けを必要とするなら、いつでも役に立ちたい」
彼の言葉に、彼女は首を振った。
「ありがとうございます。でも、いいんです。彼は、手が早いだけ。怒りが収まったら、きっとまた普通の日常に戻れると思います」

 他の友人や家族のバックアップがあるのかと訊くと、彼女は首を振った。彼女が恋に落ちたのはトルコ人だった。不倶戴天の敵といっていい民族の男との恋が、祝福されるはずはなかった。
「友人も家族も失って、彼といるしかいないんです」

「わからないな。君たちの聖なるアララト山を国境の向こうへと持っていったのは彼ではないし、例の大虐殺も彼がしたことではない。でも、痣がつくほど君を殴ったのは彼だろう? 君は、そんな男と幸せになれるのかい。家族にアルメニア共同体に戻れと言うんじゃない。ただ、君自身を大切にしてほしいんだ」

 アルミネは、優しい黒い瞳を少し潤ませて見つめた。
「アルメニアびとは悲しい民族なんです。たぶん、私もその運命から逃れられないんだと思います。そう思いませんか?」

「民族の問題と君の幸せは関係ないだろう? 君は、スイスで育った。スイスの教育を受けて、スイスのものの考え方を常としているはずだ」

「ええ。わかっています。頭では。両親が正しかったとは思いません。私は敵と恋に落ちたのではなく、ひとりの人間と恋愛をしたのだと今でも思っています。でも、私は、アルメニア人なの。頭では理路整然と問題に立ち向かうべきと思うのに、感情が我々は虐げられることに慣れているとため息をついているの。彼と一緒になって、家族と切り離されてから、それをずっと強く感じるようになったんです」


 食事の後に一緒に入った店では、ピアノ弾きが物悲しい曲を静かに弾いていた。それを耳にして彼女は、ひとすじ涙をこぼした。
「どうしたんだ?」
「この曲……アルメニア人の作曲家によるものなんです」
「……なんて言うんだい?」
「アルノ・ババジャニアンの『エレジー』です。ね、やっぱりそうでしょう? 私たちは悲しい民族なんです」

 彼は彼女をフロアに誘い、静かに踊った。僕が君を守ってあげたい、その言葉を言うべきか戸惑っていた。すぐにナイフを持ち出すような、導火線の短い異国の男と争ってでも、この女性の人生を受け止めるべきだろうかと。研究者としての未来に影を落とすことになるかもしれないとも思った。

 もし、この夜が最後になるとわかっていたら、彼はそんな風に躊躇しなかっただろう。彼女は二度と研究室に来ることはなかった。プレパラートに落とす一滴の薬が、細胞を一瞬で無に帰してしまうように、その夜ひとりの女性がいとも簡単に二度と目覚めぬ眠りについた。

 前の日に受けた暴力の影響が、翌晩にあらわれたのか。それとも、トルコ人は二晩続けて彼女を虐げたのか。他の男と食事に行ったことが、彼女に災いしたのか。それとも、彼が希望を与えなかったから、彼女の心が民族共通の悲しみに堪えられなかったのだろうか。

 彼は警察に呼ばれ、彼女から聞いた話を供述した。その間にトルコ人は逃げて、主任教授と彼女の両親が彼女の弔いと、その後の後始末を済ませた。それだけだった。新しい秘書が来て、日常が再開された。トルコ人が捕まったかどうかは、彼には知らされないままだった。

 アルミネの憂いに満ちた美しい幻影は、しばらく彼を苦しめた。だが、それもずいぶん昔のことになった。
 
* * *


「君がこんな洒落た店を知っているとは驚いたね」
クリストフ・ヒルシュベルガー教授は、落ち着いた店内を見回した。

「お褒めいただきありがとうございます。東京には昔住んでいましたからね。洒落たバーのひとつや二つ……って言いたいところですが、実は、適当に入っただけで前から知っていたわけではないんです」

 黒曜石で出来た壁には、星に見えるようにたくさんの小さな電球が埋め込まれていた。カウンターは、客たちの静かな語らいを邪魔しないように低い位置から電灯が照らしていた。

「そうか。たまたまでも、これだけ美味しいつまみの出てくるバーにあたるというのは、君がよほどラッキーなのか、それとも日本のグルメのレベルが高いからなのか」
「おそらく後者でしょう。でも、先生。京都であれだけ食べて、さらに新幹線でも駅弁三つの食べ競べをしたのに、まだそんなにおつまみ頼むんですか。よくお腹壊しませんね」

 ユウはつくづく呆れて、「トロトロ煮込んだビーフシチュー」を嬉々としてつつく教授に白い視線を浴びせたが、彼は全く意に介さなかった。

「ところで、先生。京都の出雲先生とのお話でおっしゃっていた『蚤の市で買った偽物を掘り出し物と信じていること』の件ですけれど、それって本当に幸福なんですか?」
「死ぬまで氣がつかなければね。たいていの人間は、薄々それがまがい物だと氣がついてしまう。それでも払った大金のことを考えると手放せないものなのだよ」

 ユウがそうかなと思って考えていると、教授はバーテンダーに合図して響17年をお替わりした。
「ひとつ例を挙げよう。往きの飛行機で一緒になってしまった、あのアメリカ人のご婦人はどうだね」

 ユウは、腹立たしい記憶を呼び起こされて、教授をひと睨みした。

 三人がけの一番奥に座っていたのは、同じシンポジウムに参加するためにサンフランシスコから来たという女性で、経済学を教える夫は大統領の顧問、本人は料理番組を持つ傍ら生活提案の著作に励み、下の女の子はこども美人コンテストの入賞者、上の子どもはスイスの寄宿学校に入っているという経歴をまくしたてた。

「日本に行く前に、息子に逢ってきたんですの。せっかくなので、半日でしたけれどサン・モリッツでスキーもしてきましたのよ」

 もしかして、これは世間話ではなくて自慢かとユウが訝りはじめた時には、教授は勝手に会話を中断して寝てしまったので、ユウはその女性の話をひとりでひたすら聴く羽目になったのだ。

 そのくせ食事のサービスが始まったらすぐに起きて。ユウがそれを思い出してムッとしていることに全くひるんだ氣配もなく教授は言った。
「フラウ・ヤオトメ。私は君の返事を待っているのだが」
なんなのよ、この人は。

「はあ。アメリカの典型的な勝ち組ですかね。シンポジウムでは『勝ち取る幸せ』ってテーマで最新の著作のアピールしていましたっけ」
「周りの失笑にも臆しないところは、大したものだったがね」

 忙しい日常の合間に、華やかなパーティに顔をだし、ジムに行って汗を流し、精神分析にも通う。新しいスポーツに挑戦するのも好きで、休暇の度にカヤックやロッククライミング、クロスカントリーなどを楽しむと語っていた。彼女は自分は「幸福の塊」であるとユウに断言した。

「そうですか。ご本人は幸せだとおっしゃっていましたから、それがまがい物だとは思っていないんじゃないですか?」
「そうかね。夫は三人目の愛人とのスキャンダルで裁判沙汰になっているし、本人の若いツバメは彼女の会社の経理を誤摩化して高飛び。息子をスイスの寄宿学校に送り込んだのは、少年刑務所送りになるのを避けるための苦肉の策らしいがね。その愛息が寄宿舎の裏庭に大麻を植えて騒ぎになったことも付け加えておこうかね」

「先生、どこからそんな下世話なゴシップを仕入れているんですか」
「言いたくてしかたのない人間というのは、どこにでもいるものだ。幸福に見えるものを他人が持っているのを許せずに、メッキを剥がしたがる輩もね。動じずに、己が幸福を信じ続けるのもかなり精神力が必要だな」

 ユウはちらりと教授を見た。
「先生は、動じないんですね」
「この私がないものをあると思い込むとでも?」

 ないと断言されちゃ……。
「じゃあ、先生は幸福でグリュックリッヒ はないのですか?」
グリュック で人生を計ってどうする。私は『幸福であるグリュックリッヒ 』ではなく『満足しているツーフリーデン 』という言葉を遣うのだよ」

 なるほどね。言葉遊びみたいだけれど、いかにもこの人らしい。

「私の意見では、手に入れられないものを追い続けることは幸せとも充足とも相反している。ところで、君はアンニをどう思うかね」

 アンニというのは、ヒルシュベルガー教授の姉だ。教授と同じ屋根の下の別住宅に住んでいて、ユウがチューリヒに泊らざるを得なくなる時は、いつもアンニの客間に泊めてもらっている。物怖じしない豪快な性格で、泣く子も黙る教授を洟垂れ小僧扱いする人間は、ユウの知る限りこの人ひとりだ。

 教授よりもひと回り以上歳上で、若くして両親をなくした教授の親代わりだったらしい。生涯独身になったのは本人の主義やめぐり合わせもあるかもしれないが、両親も財産もない弟が研究者として独り立ちするまで身を粉にして働き支えていたのも大きいように思えた。そのことが引け目となって、弟もまた独身を貫いているのかは、ユウには判断しかねたが。

「そうですね。彼女は、無駄に何かを追い求めたりしているようには見えません」
「私もそう思うよ。彼女は、例のアメリカ女性がまくしたてていたものは何一つ持っていない。だが、実に満ち足りているのだ。彼女にも悔いや手に入れたくても入れられなかったものはあるだろう。だが、それを思って眉間に皺を寄せるよりは、現在持っているものを実に愉快に楽しむことが出来る。彼女のあり方は、私には理想的に思えるね」

幸福グリュック より充足ツーフリーデンハイト ですか。なるほどねぇ」

あれ? ということは……。
「でも、先生、『幸福学シンポジウム』に出られるからには、このテーマに強い関心がおありだったのでは?」

 ユウの言葉に教授は首を振った。
「特にないが」
「え? だったらどうして……」

「日本とキョウトにはまた来たかったんでね。ウキョウとも久しぶりに逢えたし」
「逢えたしって、メインの目的は、ま、まさか、グルメと和菓子の食べ競べ……」
「何がいけないのかね。私は自分のしたいことは、はっきりわかっているのだよ。すくなくとも今ではね」

 そうやって話しているうちに、学生崩れと思われる青年が入ってきてグランドピアノの前に座り、憂いに満ちたワルツを弾きだした。

「おや、懐かしい曲を……まさか日本で聴く事になろうとは」
教授は、グラスを揺らしながら言った。

「はじめて聴きました。誰のなんて曲ですか?」
ユウが問うと「もの知らずな君らしいね」と口には出さないけれど明らかに語っている目つきで教授はちらっとユウを見た。

「アルメニアの作曲家ババジャニアンの『エレジー』というのだよ」
知る訳ないでしょう、そんなマニアックな。ユウは口の中でもぐもぐと弁解した。

「アルメニア……ですか。旧ソ連の国でしたっけ」
「ノアの方舟が辿りついたと言われるアララト山や、世界で最初にキリスト教を国教にしたことを誇りにしている古い伝統のある民族だが、迫害の歴史があってね。コーカサスには常に紛争があったから。今でも民族の六割は国外に避難したままだ。ソ連から独立した後も戦争に対する制裁がつづいたままで経済的に先行きが見えないので帰国が進まない悲劇の民族なんだよ」

 へえ。コーカサスか。ケフィアの故郷ってことぐらいしか知らないなあ。迫害されていた民族だなんて知らなかったな。
「じゃあ、スイスにもたくさんいるんですか?」
「ロシアやアメリカに較べたら、大した数はいないよ。スイスにいる日本人の10分の1ぐらいだろう。もっともスイス国籍を取得したアルメニア人を入れるともっと多いだろうがね」

「勉強になります。そういう民族だから、こういう悲しいトーンになるんでしょうかね。でも、美しい曲ですね。スイスにいるアルメニア人ですか。創作のネタになりそう。少し調べてみようかなあ」

 教授は「くだらない」と言いたげに、いつもの皮肉に満ちた目つきでユウを一瞥すると、黙ってウィスキーグラスを傾けた。


(初出:2016年2月 書き下ろし)


追記


作中に出てきたババジャニアンの「エレジー」はこんな曲です。


"ELEGY" - ARNO BABADJANIAN - A. NERSISSIAN /1995)
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