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Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (6)ミュンヘン、鍵盤 -1-

「大道芸人たち Artistas callejeros 第2部」のチャプター1だけを先行公開することにしましたが、これがその最後の部分になります。残りの部分については、おそらく来年以降の公開になります。ひとまず落ち着くところに落ち着いて、四人は新たな環境の中で彼ららしさを模索して行くことになります。

今回も二つに分けました。今回はヴィルの子供時代のことですね。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(6)ミュンヘン、鍵盤 -1-


 グランド・ピアノのふたを開けて、ヴィルは軽く鍵盤に触れた。いまやそれは彼のピアノだった。はじめてこのピアノに触れた時の事をヴィルは憶えていた。まだ十歳になっていなかった。

 母親の小さなアパートメントにまったく不似合いないかめしい髭の男がやってきたのは、その一週間前の事だった。

 男がやってきた時に、母親はヴィルにフルートを吹かせ、それから居間の小さなアップライト・ピアノで数曲弾かせた。それまですぐにでも立ち去りそうにしていた男は、演奏を聴くと態度を改めた。

「フルートを吹くのは好きか」
男は、威厳ある様子で訊いた。ヴィルは小さく頷いた。
「はい」
「毎日どのくらい練習しているのか」

「二時間ずつ、レッスンさせていますが、それ以外にも暇さえあれば、自分で勝手に練習していますわ」
母親が横から口を出した。髭の男は母親を冷たく一瞥したが、特に何も言わずに、再びヴィルに話しかけた。
「ピアノを弾くのも好きか」

「はい。ピアノでいろいろな音が出せるのが面白いです」
ヴィルは素直に言った。

 髭の男はじろりと見たが口元の厳しさはなくなっていた。子供っぽい甘えた様子をまったく見せないヴィルを教授は好ましく思ったようだった。
「来週から、土曜日には私の館でレッスンをさせよう。朝の九時にトーマスに車で迎えに来させる」

 母親は勝ち誇ったような顔になり、頬を紅潮させた。
「私も一緒に……」

 髭の男はじろりと母親を見て冷たく答えた。
「トーマスは信頼できる運転手だ。お前がついてくる必要はない」

 その夜、母親はシュナップスで酔いながら言った。
「あれが、お前のお父さんよ。十年も会っていないのよ。少しは私を見てくれてもいいのに」

 ヴィルはあれが父親だと言われてもぴんとこなかった。マルクスのお父さんはいつも楽しそうに笑っている。グイドーはお父さんと毎週山歩きに出かける。あんな立派な洋服は着ていないけれど、ずっと親しみがある。

 お母さんは音楽のことと、どれだけお父さんが立派ですごい人だったかしか話さない。学校の皆のいくサッカークラブにも参加させてくれないし、だから友達もなかなか出来ない。暇さえあれば勝手にフルートを練習しているというけれど、他に何をすればいいんだ。学校の勉強?

 土曜日に立派な黒塗りの車が貧相なアパートメントの入り口に横付けされた。マルクスやグイドーが遠巻きに見ている中、ヴィルはスーツを着た運転手のトーマスに連れられて、車でミュンヘンに向かった。連れて行かれたのはおとぎ話のお城かと思うような大きな家で、貧しいアパートメントでは見た事もない豪華な調度と広い空間に半ば怯えながら、迎えでた召使いのミュラーに連れられてサロンへと向かった。そこでヴィルは新しいピカピカのフルートをもらい、それから大きなベーゼンドルファーのグランド・ピアノにはじめて触れたのだ。

 普段弾いている家のピアノはもちろん、母親に連れて行かれるピアノ教室のグランド・ピアノともまったく違う音がした。深くて複雑な響きだった。父親と言われた髭の男にはまったく会いたくなかったが、このピアノを毎週弾けるのは嬉しかった。

 もらったフルートも、それまでのフルートとはまったく違った。髭の男の指導は厳しかったが、言う通りに吹くように努力すると、楽器はいままでヴィルの出せた音とはまったく違う音を約束してくれた。

 父親が二時間のレッスンし、それから大きな食堂でヴィルがいままでほとんど食べた事のないおいしい食事を食べた。父親は眉をしかめてヴィルのテーブルマナーをたしなめた。ヴィルの喜びは半減した。

 午後は、フロリナ先生がサロンにやってきてピアノを二時間指導した。いままでの先生よりも厳しかったが、明らかに上手で指導もわかりやすかった。一週間分のフルートとピアノの課題をもらうと、ひとりで二時間ほどサロンで練習し、それからトーマスに連れられてアウグスブルグに戻った。

 トーマスの送迎はそれから三年ほど続いた。その後は、自分で電車に乗ってミュンヘンに通った。黒塗りの車の運転手や、取り澄ましたテーブルマナー、父親の用意したまともな洋服などが、ヴィルの無口な様子と相まってお高くとまっている嫌な子供とやっかまれ、大人たちがヴィルを避けるようになった。

 それに影響されて、マルクスやグイドーもほとんど口もきかなくなった。学校でも行事を欠席させられる事が多かったため、孤立していった。大人とも子供とも話す事がなくなり、家でも音楽のことしか話せなくなり、さらにミュンヘンから渡される膨大な課題に取り組むために、ヴィルはひたすら音楽に没頭するしかなくなっていった。

 フルートを奏でるとき、ミュンヘンのベーゼンドルファーの音色を生み出すとき、ヴィルは数少ない歓びを感じた。それは孤独の中の慰めだった。それが孤独である事にもその時のヴィルは氣づいていなかった。

 はじめてピアノに触れる時に、ヴィルはいつも息をのむ。期待と恐れの混じった感情。それは、大人になってからも同じだった。大学のレッスン室で、生活のために働きだしたアウグスブルグの小さなバーで、稔の聴くに堪えない演奏に代わって弾くことになったヴェローナのバーで、コモのロッコ氏のレストランで、コルタドの館で、真耶の家で、奥出雲の神社の中で、ヴィルははじめて女の子の手を握るティーンエイジャーのように、ためらいながらはじめての音を出した。レネの両親の調律のよく出来ていないアップライト・ピアノに触れた時もそうだった。

 初めの音が出ると、ようやく口をきいた女のように、そのピアノの性格がわかる。強引に弾くべきピアノか、繊細に歌わせるべきピアノか、どう扱っても大差ない粗野なピアノかがわかる。

 それでも、このエッシェンドルフの館のベーゼンドルファーは、初恋の女のようにヴィルを惹き付けた。このピアノは、いま彼のものだった。ヴィルは椅子に腰掛けると、ゆっくりとツェルニーの練習曲を弾きだした。

「懐かしいものを弾くのね」
いつの間にか入ってきていた蝶子が静かに言った。

「あんたもこれで練習したのか」
弾きながらヴィルは蝶子に話しかけた。

「こんなすごいピアノじゃなかったけれどね」
「俺も最初はしょうもないアップライトだった」

「ピエールの所みたいな?」
「あれよりはマシだったな。出雲くらいのだった」

「ああ、瑠水さんのピアノね。私のもあのぐらいだったわ。もっともピアノの違いなんか、あの頃は知らなかった。あの時は親も反対していなかったし、ただ弾けるのが嬉しくてしかたなかったわ」

「これで弾くか?」
「私は、フルートを合わせるわ。そのまま弾いていて」

 蝶子は即興で優しいメロディをつけた。

 稔とレネもサロンに入ってきた。
「へえ。ツェルニーでこんな変奏曲ができるとはね」

 邦楽の稔にとっては、ツェルニーの練習曲は音大受験のためのつらい義務のはじまりだった。ヴィルと蝶子が自由に奏でている変奏曲はそんな思い出を吹き飛ばすような楽しげな演奏だった。

 ヴィルにとっても、この部屋はもはや窮屈で冷たい父親のレッスン室ではなく、四人で楽しげに話しながら音楽を奏でられる場になっていたのだった。
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Comment

says...
更新、お疲れ様でした。

なんだろう、と思ったら、ヴィルの回想でしたか。子どもらしい遊びもなしで、音楽漬けだったんですね。そんな「教育」のおかげで、真面目で堅物なヴィルが出来上がったのかぁ。

でもなぜかピアノに対しては、ずいぶんと色っぽい感情を持っているようですね。とくに、エッシェンドルフ家のピアノに対しては、思い入れが強いようで。
ベーゼンドルファーって何ってなってググってみたら、有名なピアノメーカーだったんですね。スタインウェイくらいしか知りませんでした。うむむ~。
それに、音大受験にはピアノは必須ですか。知らないことが多いぞ…。

ヴィルと蝶子に子どもができたら、才能があるにせよないにせよ、どういうふうに育てていくのか、ちょっと気になりました。
あ、そういう話じゃないか(笑)
2016.10.27 16:05 | URL | #- [edit]
says...
ピアノか。。。
今では私も置物になっていますねえ。
数年来弾いてないですね。
とりあえず、教養としてピアノは持っているんですけどね。
いや、10年以上もやっていたんですけど。
ピアノはやはり自宅にあるのが一番馴染みますね。
・・・とやり続けていて思っていたことです。
コンサートのピアノは初めてさわるので緊張した記憶がありますね。
2016.10.28 10:07 | URL | #- [edit]
says...
ヴィルのピアノ(楽器)に対する感情(愛情?)がほんの少し理解できたような気がします。ピアノですらそうなのですからフルートに対してもそれぞれに相応しい愛情を持って演奏を始めるのでしょうね。
蝶子とのデュエット、きっと素晴らしい演奏だったんでしょう。
2人の持つ才能の豊かさを感じます。
TOM-Fさんと同じように、この2人の間に生まれる子供がどんな才能を持って生まれてくるのか・・・やっぱり気になりました。
2016.10.28 14:29 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

ヴィルの過去に関する回想って、第一部のカルモナの章とここの二度、それにその他にもチョロチョロ出てきて、実は四人のうちでは一番多い? 書いた本人がちょっと驚いていたりして。

音楽がやりたくて仕方なかった蝶子と違って、ヴィルは強制的でかつ他によりどころがなかったので、音楽に関する感情も複雑かもしれません。

ベーゼンドルファーはあまり知られていませんが、ほら、私もずっと車のマイバッハの存在知りませんでしたから。キャデラックとかマセラッティくらいまでは知っていたんですけれど。

稔がほんのちょっとだけピアノが弾けるのは、第一部の初めの方に出てきますが、それも受験でやらなくちゃいけなかったから、という設定です。
音大にも色々あって必ずしも必修じゃないんですが、稔や蝶子は某国立の大学出身という裏設定がありまして。

ヴィルと蝶子の子どもの話は、あはは、機密事項なので笑ってごまかそう。
いや、隠すほどの機密でもないけれど。

コメントありがとうございました。
2016.10.28 15:56 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

そうでした。蓮さんはピアノも嗜まれるんでした:
教養として、聴かれるというのは割と普通ですが、弾かれるというのはさすがですね。

楽器もそれぞれの性格がありますから、やはりご自分が弾き慣れたものが一番なのでしょうね。
もちろんプロともなると、そうは言っていられないのでしょうが。

コメントありがとうございました。
2016.10.28 16:17 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

音楽に関する感情も、楽器に対する思いもこの人の場合少し複雑です。
特にフルートは、反発した父親の意思と直結していたため、ピアノほど純粋に愛情を持てなかった、その一方で人生のほとんど連れ添ってきたようなものなので、反対に捨てることもできなかったようです。

父親がいなくなったことで、ようやく音楽と楽器は純粋に愛するものになったのでしょうかね。
しかも蝶子や他の二人との結びつきにもなっていますからね。

二人の子供の話は、ええと。
ま、そのうちにおいおい。
早くその辺の事情の話を書かねば。

コメントありがとうございました。
2016.10.28 16:29 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ヴィルは、こんな風にしてあの父親と出会い付き合うようになったんですね~。
ヴィルの物言いや、性格の一旦はこのころの影響がかなり大きいような気がします。
音楽教育はヴィルにとってかけがえのないものになったみたいですが、さて人間形成にはちょっと変わった癖を入れてしまったかもしれませんねw

初めて触れるピアノへの感覚。
これ凄くわかるような気がします。
初めて会う女性のような……。

ヴィルのそう言う感覚や過去をのぞくと、更に親しみやすくなった気がします^^
2016.10.29 02:53 | URL | #GCA3nAmE [edit]
says...
こんばんは。

そうなんですよ。
「俺には父親というより厳しい教師でしかなかった」ってどこかで言っていますが、一緒に暮らしていなかったから余計そう感じたんですよね。だから、愛情も希薄です。独特の変な人付き合いは、こういう環境から生まれました。

彼にとってのピアノは、もしかしたら人間の女性よりも尊敬と恐れを抱かせる存在だったのかも。
昔は、(もしかすると今も)ちょっと男尊女卑なところのあるヴィル。でも、ピアノにはもう少し優しいかも(笑)
でも、こんな奴だと、わかって接すれば「ま、いいか」と思っていただけるかな。

コメントありがとうございました。
2016.10.29 15:45 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
グランドピアノって音の響きも打鍵の感覚も違うんですよね。
コンクール会場等に置いてある(多分)有名所の
グランドピアノは打鍵の感覚が頭一つ違っててわたしは
却って使いにくかった記憶があります。……とピアノを習っていた過去を
思い出しました。

ヴィルは、物心ついたときから既に無口で感情を表に出さない性格だったのですね。
元からのものもあったのでしょうが、お母さんとのアパートメントの暮らしに
それとなく感じるところがあったのでしょうね。
お父さんとの邂逅シーンですが、湿っぽさとはあくまで無縁で。
改めて二人の父子としての関係の希薄さを感じさせられました。

第一部で蝶子さんの手を握ったあのシーン。
今回のお話を読んでいると、なぜ二人が心を一瞬のうちに通じ合わせることができたのか改めてわかった気がしました。
この孤独を孤独とも感じない孤独……これは、稔やレネには(恐らく)経験の
ない感情で、そして蝶子さんは知っていたんですよね。

ピアノに対する思い入れも複雑であるならば、ヴィルの複雑な想いをすべて受け止めてくれるのもピアノだったんじゃないかと。

今はピアノもそうですが、仲間や、そして何より蝶子さんが受け止めてくれる。
なんか前半と後半の差に泣けちゃいました。
2016.10.31 11:52 | URL | #- [edit]
says...
おはようございます。

そうなんです。ピアノ自身にも差がありますが、やはりアップライトとグランドピアノはえらく違いますよね。
それに置いてある場所や聴く場所によっても違うので、まあ、普通の家庭ならグランドピアノを置いても、ねえ。

canariaさんはピアノも習っていらっしゃったのですね。うおう。多才だ。


ヴィルはこういう環境で育ったので、あんな変人になってしまいました。しかも自分コミュニケーションに問題があると自覚したまではいいものの、演劇で何とかしようとしたため、さらにあんな事に(笑)

蝶子と理解し合えたのは、まさにおっしゃる通りで、お互いにずっと音楽しかなかったからなのですよね。

四人、お互いに分かり合えてはいますが、それぞれの問題はやはり少し別のところにある。これも作品のテーマのひとつだったりします。


コメントありがとうございました。
2016.10.31 23:55 | URL | #9yMhI49k [edit]

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