【小説】それもまた奇跡
今週は「十二ヶ月のアクセサリー」六月分を発表します。六月のテーマは「メダイ」です。「なんだそれ」と思われる方もあるかと思います。カトリックで使われるお守りのようなメダルのことです。
宗教的なもの、とくに「奇跡を起こすメダル」の話をするとアレルギー反応を示される方もあります。特に私がカトリックを公言しているので警戒なさる方もあるかもしれませんが、今回の話はとくに信仰心や奇跡とは関係のない話ですのでご安心ください。むしろどちらかというと「塞翁が馬」的なストーリーですね。
全く必要のない情報ですが、出てくる男性が勤めている「健康食品の会社」の社長は「郷愁の丘」のヒロインの兄、マッテオ・ダンジェロだという設定です。でも、この作品には出てきませんし、これはただの読み切りです(笑)

それもまた奇跡
ケイトは、行ったばかりのデパート、ボン・マルシェの方に戻った。その近くにある『奇跡のメダイのノートルダム教会』に寄ってくるように、トレイシーに懇願されていたことを思い出したのだ。
彼女自身はカトリックではなく真面目なキリスト教徒とはお世辞にも言えなかったし、聖母出現だの、奇跡を起こすメダルなどというものはナンセンスだと思っていたが、それを信じて待っている人間のために、デパートの帰り道に寄るくらいのことを断るほど偏狭ではなかった。でも、くだらないと思っていたせいか、もう少しで忘れるところだった。
「何それ?」
パリに行くと話した時に、トレイシーがおずおずと口にした願いを耳にしたケイトは、何を買ってくればいいのか全く理解できなかったので問い直した。
「奇跡を起こすメダルよ。楕円形でね。表に聖母マリア像と『原罪無くして宿り給いし聖マリア、御身に寄り頼み奉るわれらのために祈り給え』って意味のフランス語が、裏には十字架とM、それにジーザスと聖母マリアの心臓が打出されているの。パリの教会で買う事ができるの」
「一つの教会でしか買えないの?」
「他のカトリックの教会で置いているところもあるかもしれないけれど、似ていて違うものとあなたは見分けがつかないでしょう? 道端で売っているものや、通販などだと偽物がほとんどよ。そもそも転売は禁止されているの。だから、本家の教会で買って来てほしいの」
トレイシーは、現在入院中でパリに自ら行くことはできない。奇跡が必要なほどの重病でもないので、わざわざ家族が行くこともない。要するに親友が行くついでに欲しいと言ってみたのだろう。ケイトは、「わかったわ」と頷いた。
「ところで、その教会にそのメダイとやらは一種類しかないの?」
「いいえ。銀色だったり、ブルーだったり、いろいろとあるみたいだけれど、その教会で売っていればどれも本物だわ。このお金で買えるものを買ってきて。おつりはあなたにあげるから、好きなものを買ってね」
彼女の手渡してくれたドル紙幣は、とっくにユーロに両替した。これで買って行かなかったら詐欺になってしまう。六月の日差しは刺すように強い。今日はとても暑い。何も考えずにタンクトップできてしまったけれど、その教会にこの格好で入れるかなあ。ケイトは先ほど暑くてしまったスカーフをカバンから取り出して、申しわけ程度に肩から羽織った。
白い教会の門は、先ほど通り過ぎたところだった。中に入り、きょろきょろと見回した。熱心な信者なら教会で祈ってからメダイを買いに行くのだろうが、ケイトはそれを省略して売店に直行した。ボン・マルシェでの買い物にはあれほど時間をかけたのに、しかも、この後にスケジュールが詰まっているわけでもないのに、ひどい態度だ。敬虔なカトリックだった亡き祖母が知ったら、さぞ憤慨したことだろう。
メダイはどこにありますかと訊く必要もなかった。壁際にたくさんぶら下がっていて、人びとが次々と買い求めていた。ケイトは近づいて見て驚いだ。一つ一つを結構な値段で売っているのかと思ったのだが、多いものは50個ほどがビニール袋にどさっと入っている。それでいて15ユーロほどの値段だから、ほぼ材料費だろう。最もいいものも一つ六ユーロなので、商売として売っているのではないようだ。
ふーん。よくわからないけれど、とにかく買って帰ろう。
トレイシーが身につけるように、一番高い一つ入りのものを一つ、それから彼女が他の人にプレゼントできるように大入袋を一つ買った。それに、信じていないのにどうかと思うが、試しに十個入りのものを自分用に買った。これはトレイシーから預かった金額ではなく、自分のお財布から出したつもりで。
こんな踏んだり蹴ったりの旅は生まれて初めて。ケイトは心底腹を立ててシャルルドゴール空港のベンチにうずくまった。ケチがつき始めたのは、ボン・マルシェに行った水曜日からだ。
ホテルに戻るとフロントの感じの悪い男に「さっさとチェックアウトしろ」と言われた。金曜日まで六泊する予約だから今日チェックアウトするはずはないと答えると、予約は三泊だけで昨夜までだという。
そんなはずがあるかと予約確認書を見たら、どういうわけか本当に三泊分だけだった。慌ててインターネットで探してなんとか残りの三泊分の宿を確保したが、少し郊外で足の便が悪かった。そのせいで帰りの空港行きバスに乗り遅れた。
次のバスで空港に向かうと、飛行機には乗れないという。まだチェックインは締め切っていないのになぜと問いただすと、ダブルブッキングでもう席がないという。次の便に代わりの席を用意してくれるというが、それでは乗り継ぎ便に間に合わなくなり、最終的には八時間も遅れることになった。
「はあ。本当に腹がたつ。こっちで八時間遅れるなら、まだパリ観光ができるのに」
ケイトは、使い切ろうと買い物をしてしまったために残り少ないユーロで、バゲットサンドイッチとオレンジジュースを買い、ゲート前のベンチで食べた。
財布の中は、わずかなコインと、水曜日に買って財布に突っ込んだ『奇跡を起こすメダイ』だけが虚しい音を立てていた。
「そういえば、これを買いに行ったっけ。奇跡が起こるって言われたけれど、反対じゃない。礼拝堂に行かずにこれだけ買いに行ったのがいけなかったのかしら」
サンドイッチをかじりながら、ケイトはメダイをながめて首をかしげた。
「失礼。この席は空いていますか」
その声に振り向くと、スーツを着た小柄な男が立っていた。周りを見回すと、確かにもう空いているベンチはほとんどなく、ケイトは隣の席に置いていた彼女の手荷物を足ものとに置き直して「どうぞ」と言った。
男は「ありがとう」と言って腰かけた。それからケイトの手元のメダイを見て話しかけた。
「カトリックですか」
「え。いいえ。母方の祖母はカトリックでしたが、私はプロテスタントで洗礼を受けています。もっとも、大人になってからは冠婚葬祭以外では一度も教会に行っていないかも。これは、友人に頼まれて買いに行ったついでに、つい自分用に買ってしまっただけ」
「どこで?」
「『奇跡のメダイのノートルダム教会』よ。他にもあるの?」
男は身を乗り出してきた。
「ええ。同じデザインのものはあちこちの教会で売っています。けれど、いわゆる『奇跡を起こすメダイ』は、その教会で買ったものだけなんです。通信販売などはなく、しかもプレゼントは構わないが転売は禁止されていて、インターネットなどで売っているものでは奇跡は期待できないんです。では、あなたは本物を買われたんですね。羨ましい」
「あなたはカトリック? これを買いそびれたの?」
そうケイトが訊くと、男は頷いた。
「ええ。こちらにはビジネスで来て、昨日、やっと時間が空いたので買いに行ったんですが、教会が見つからなくて探している間に売店が閉まってしまったんですよ。闘病している母に頼まれたんですが、買えなくて残念です」
ケイトは、それを聞くとカバンからビニール袋を取り出した。十個もいらないと思っていたところだったから。中から五個とりだすと、男に渡した。「どうぞ」
「え。そんなつもりではなかったんですが、本当にいいんですか? お支払いしますが、おいくらでしょうか」
「転売すると効果がなくなるんでしょう? 大した値段じゃなかったし、プレゼントするわ。お母さん、早く治るといいわね」
男は、「ありがとう」と言って頭を下げた。
「お礼にご馳走させていただけませんか。目的地はニューヨークですか? それともどこかへ乗り継ぎですか?」
「ロサンゼルスまで行かなくちゃいけないの。実は、前の便にオーバーブッキングで乗れなくて、ニューヨークで四時間も待たなくちゃいけないの」
「でしたら、空港の近くのおいしいレストランにご案内しましょう。空港内よりもおいしいものが食べられますし」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」
「僕は、ブライアン・スミスと言います」
「私は、ケイト・アンダーソンよ。よろしく」
搭乗の案内が始まった。ファーストクラスとビジネスクラスから先にと言われ、ケイトはブライアンが立ち上がったのを座ったまま見送った。
「エコノミーなんですか?」
「ええ」
「ちょっと待ってください」
ブライアンは、カウンターに行くと何かを係員と話してからケイトに来るように合図した。なんだろう?
ケイトがカウンターに行くと、係員が彼女の搭乗券の提示を求めた。
「こちらのスミスさまのマイレージで、ビジネスクラスにアップグレードをいたしますね」
「え? そんな、悪いです」
「いいんですよ。どっちにしても、マイレージは使い切れないんですから」
係員の計らいで、ブライアンの隣の席にしてもらい、ニューヨークまでのフライトで彼とずっと話すことになった。話は面白いし、感じのいい人だ。
話しているうちに、彼は健康食品の販売で有名な会社の重役であることがわかった。ふ~ん。道理でマイレージを捨てちゃってもなんでもないわけだ。ケイトはちらりと彼の上質なスーツを眺めた。若いのにすごいなあ。エリートってやつかあ。パリに遊びに行くのに五年も旅費を貯めなくてはならないケイトとは、随分と違う世界に住んでいる。
「ロサンゼルス市内にお住まいなんですか? 実は、今度の土曜日にロスの母の家に行く予定なんですよ。もしお時間があったら一緒にいかがですか。メダイを譲ってくれたご本人に母は会いたがるはずですから」
ブライアンはニコニコと笑いかけた。
ええっ。これっきり二度と会わないはずだと思っていたけれど、この人そうじゃないの? いやいや、失礼な想像をしちゃダメよね。こんなにお金持ちで有能そうで性格も良さげな人は、放っておいても女性が群がるだろうし。まあ、ものすごくかっこいいってわけじゃないけれど……。
「ええと。その日は、私もトレイシーに会ってメダイを渡す予定なんです。彼女は今月いっぱいUCLAのリハビリ科にいて、そこなら我が家からそんなに遠くないし、それに彼女はこれを待っていると思うので……」
その後でもいいなら、という前にブライアンは身を乗り出してきた。
「UCLAメディカル・センター? トレイシーさんはそこに入院しているんですね。なんて奇遇なんだろう」
あ。トレイシーのお見舞いにも行くのね。ま、そうだろうなぁ。それじゃ、きっと彼女に夢中になるな。男性は、みんなトレイシーみたいな美人が好きだし、ましてや入院中の儚い感じは破壊力抜群だもん。よけいな期待しないでよかった。うんうん。
ケイトは、変に安心して、自分の幸運の取り分を大いに楽しむことにした。すなわち、このビジネスクラスのフライトと、ニューヨークのレストランでの豪勢なランチだ。五個全て足しても五ユーロに満たないメダルと引き換えのラッキーとしては、奇跡とまではいかないけれど十分お釣りがくるだろう。ホテルを追い出されたことやフライトの遅れを差し引いても。
ブライアンが連れて行ってくれたのは、予想に反して高価そうに見えないイタリア・レストランだったが、何もかも信じられないくらいおいしかった。食事がまずいことで有名な空港界隈にこんなにおいしいレストランがあるなんて。さほど値もはりそうになかったので、ケイトは安心して食べたいものをオーダーした。おいしいワインに、もちろん終わりのドルチェまで。もっともその食事で一番よかったのは、ブライアンとの楽しくて興味深い会話だった。
「ケイト! 奇跡をありがとう」
土曜日に、約束通りにメディカル・センターへ行くと、トレイシーが待ち構えていた。
「トレイシー。私があれをちゃんと買えたって、どうしてわかるのよ」
ケイトは笑いながら、『奇跡を起こすメダイ』を鞄から取り出してトレイシーの透き通るように白い手のひらに置いた。
「だって、スミスさんが全部話してくれたもの。そしてね。私たち、おかげで婚約したの!」
トレイシーの発言に、ケイトはずっこけた。いくらなんでも展開が早すぎる。
「え? も、もう?」
「ふふ。私たち、ずっとお互いにいいなって思っていたのよ。でも、ケイトの冒険のおかげで、月曜日からずっと個人的に話をすることになって……」
えっ、月曜日? ケイトは首を傾げた。
「ミスター・スミスったら、そんなにすぐにここに来たの?」
トレイシーは、きょとんとしてから、笑い出した。
「ごめんなさい。説明不足だったわね。私の言っているのは、あなたが出会ったブライアン・スミスさんの弟のダニーのことよ。ここで療法士をしているの。そもそも、あの『奇跡を起こすメダイ』のことを教えてくれたのもダニーなの。あなたとお兄さんがバリで知り合って、しかもメダイを譲ってもらったと聞いて、翌日に興奮して話に来たのよ。それがきっかけで、私たち、お互いにいいなと思っていたことがわかって」
ケイトは、なるほど、と思った。婚約したのは弟さんか。ケイトはうっとりするトレイシーのますます綺麗な横顔を眺めた。
「今週に入ってから、私の回復のめざましさに、先生たちも驚いているわよ。やはり『奇跡を起こすメダイ』なのね。ケイト、本当にありがとう」
いや、それはメダイのおかげというか、愛の力なんじゃ……。そういう無粋なことは、この際言わないほうがいいのかな。
「で。ミスター・ブライアン・スミスは、お見舞いに来たの?」
「いいえ。でも、昨日ダニーがあなたの来る時間を訊いてきたの。きっとブライアンはもうじき来るでしょうね。あなたにしては、妙に首尾よく彼を夢中にさせちゃったのね、ケイト」
ええっ? なんの冗談?
「それはないと思うわよ。もう二度と会わないと思って、ガサツに食べて飲んじゃったし」
トレイシーはウィンクをした。
「ダニーによると、彼はあなたのことを周りに全然いなかったナチュラルなタイプで、とても氣になるって言っていたんですって。そもそもあなた、新しい出会いなんて全然ないってこぼしていたじゃない。これもメダイの奇跡かもしれないわよ」
あんなに真面目に祈っている人たちの信じているメダルで起こる奇跡が、こんなどうでもいいことのわけないじゃない! まあ、でもラッキーというのはどんな形でもうれしいけれど。
病室の外でコツコツと靴音が近づいてきた。ノックの音が聞こえて、ケイトは、真っ赤になった。
(初出:2017年6月 書き下ろし)
追記
この小説で扱っている『奇跡を起こすメダイ』はこういうメダルです。(画像はWikimedia Commonsより)

By Xhienne (Own work) [GFDL, CC-BY-SA-3.0 or CC BY-SA 2.5-2.0-1.0], via Wikimedia Commons
Medal of the Immaculate Conception (aka Miraculous Medal), a medal created by Saint Catherine Labouré in response to a request from the Blessed Virgin Mary who allegedly appeared rue du Bac, Paris, in 1830. The message on the recto reads: "O Mary, conceived without sin, pray for us who have recourse to thee — 1830".
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