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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (14)カルモナ、白い午後 -1-

セビリヤから30Kmほどバスに揺られて行くと、こじんまりとした美しい城下町カルモナに着きます。母がパラドールに泊まりたいと言ってはじめて行ったこの街は、後に旦那もすっかりファンになり、私は合計で三回訪れています。丘の上のお城を改造したパラドールに宿泊するのは決して安くはありませんが、とても素敵です。私たちは城下のもと修道院を改装したホテルに泊まり、朝食だけパラドールに行くようになりました。

この章も長く二回に分けての更新です。単なる酒飲みの仲間の旅行から、少しずつ関係が動き出しています。


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大道芸人たち Artistas callejeros
(14)カルモナ、白い午後  前編



 春先であっても、白い壁に反射する光は強かった。迷宮のように入り組む白い壁。開けられたいくつかの家の玄関からは、アラベスク模様のタイルが敷き詰められた涼しげな中庭が見えた。アンダルシアに残るイスラム世界の名残りは、訪れる人に異国情緒を与える。


 バルの表に出た椅子に腰掛けて、ヴィルは通りかかったドイツ人たちの会話を意識もせずに聞いていた。

「今夜はどのチームだ?」
「バイエル・レヴァークーゼンとSCフライブルグだよ」
「やめてよ。アンダルシアに来てまでなぜサッカーを見なきゃいけないわけ?」

 大方のドイツ男のサッカー好きは異常だと、大抵のドイツ女は思っている。そうであっても、サッカーのルールさえも知らないドイツ女はやはり珍しいに違いない。アウグスブルグの小さな劇団に所属して、一番最初にヴィルが戸惑ったのは、演技でも演出でもなく、このサッカーの話題についていけないことだった。ゴールにボールを入れる事ぐらいしか知らなかったからだ。

 ヴィルは他の子供たちと一緒に遊ぶ機会がないまま成人した。幼稚園の頃に始めさせられた音楽教育で多忙を極めたからだ。エッシェンドルフ教授の心はとうに離れていたが、母親のマルガレーテ・シュトルツはそれを認められなかった。息子を認知はしたものの、共に住む事も教育する事にも興味のない教授の目に留まるようにと、彼女は躍起になった。やがて、フルートとピアノの両方で天賦の才能を発揮しだしたヴィルに教授は興味を持ち、急に父親顔をしだしたので、マルガレーテは我が意を得たりと、さらに夢中になってヴィルを追い立てた。

 学校で同級生たちが母親の手作りのパイの話をしたり、家族でイタリアにキャンプに行ったという話をした時に、ヴィルは自分の家庭は他と違う事を認識した。両親にとって愛情とは音楽を教え込む事だった。優しく抱きしめられた記憶もなければ、サッカーの練習や釣りなどで笑い合いながら語ったこともなかった。クリスマスのガチョウを家族で囲んだ事もなかった。学校の成績が悪いと「エッシェンドルフの跡継ぎにふさわしくない」と怒られ、夏休みの子供キャンプに行きたいと言えば、「フルートのレッスンに差し支える」と却下された。

 父親は、そのうちにフルートのレッスンだけではなく、生活の全ての事に口を出すようになった。いずれは自分の跡継ぎとして社交界デビューをするために、上流社会のしきたりや振舞が完璧でなくてはならない。テーブルマナー、手紙の書き方、立ち居振る舞い、社交ダンス。教え込まなくてはならない事は山のようにある。あの低俗な母親には任せておけない。それが父親の考えだった。ヴィルにはほとんど自分の時間がなかった。母親と住むアウグスブルグと、父親のミュンヘンの館を移動する電車の中だけが、ヴィルに許された学校以外で音楽と父親の支配から離れられる時間だった。

 父親の厳しい指導の成果が上がり、フルートの技術は急激に向上した。父親がいい教師に変えさせてから、ピアノの技術もピアニスト志望の生徒を軽々と超えてしまった。

 だが、ヴィルは大きな問題を抱えていた。抑え続けられたために日常生活で感情を表現できなくなってしまったのだ。思春期の性の目覚めの時期にも、両親や音楽の教師たちは無頓着だった。彼の感情表現は奏でる音楽の中だけに集中した。それがますます音楽の才能を伸ばしたので、誰も彼の問題に真剣に取り組まなかった。

 十九歳の時、ヴィルはフルートのコンクールで優勝した。父親は、息子のデビューのために着々と準備を進めていた。大学に入学して以来、ヴィルは母親のフラットを出てWG(共同生活)で暮らし始めていたのだが、父親は契約を解除してミュンヘンのエッシェンドルフの館に遷れと命じた。

 ヴィルは、突然我慢が出来なくなった。遅い反抗期だったのかもしれない。フルートをやめると宣言した。父親も母親も許さなかった。自分はもう児童ではない、強制はできないはずだと言い切った。そして、前から興味のあった演劇の道に入った。

 劇団の雑用係を兼ねて演技指導をしてもらう所から始めた。人と上手く接する事が出来ないのは感情表現の問題だと思っていたので、その指導はフルート以上に役に立つはずだった。そして、確かにある意味では役に立った。ヴィルはあっという間に演技の技術も習得していった。子供の頃から厳しい指導に慣れていたので自己克己が並大抵ではなかった。加えて自己流の感情表現がほとんどなかったために、技術としてそれを表現する事に全く抵抗がなかった。しかし、職業としての演技は身に付いても、単に仮面が増えただけのことだった。自分の真の感情を適切に表現するのはかえって難しくなってしまった。

 恋も上手く出来なかった。本能としての性欲の対象として女性とつきあう事は出来ても、相手に対する恋情も愛情も生まれてこなかった。

 それでも劇団の仲間たちは次第にヴィルを受け入れてくれた。「変なヤツ」であることを前提に、一緒にビールを飲み、オクトーバーフェストに出かけ、サッカーのルールを丁寧に解説し、演劇の未来について自説を熱く語ってくれた。演技力を買って、準主役級の役をつけてくれる事もたびたびになってきた。だが、もちろん演劇だけでは食べられなかったので、ナイトクラブでピアノを弾いた。こちらの腕は言うまでもなく確かだったので、生活に困る事もなかった。

 その八年間に、父親は新しい生徒を見つけたようだった。たまに呼び出されて帰ると、母親の酒量が増えていた。父親が女の生徒に手を出すのはいつもの事じゃないかと言っても、母親はお前のせいだと責め立てた。お前がフルートを続けて、館に遷っていれば、あの女の出る幕はなかったはずだと言って。どうやら父親はその女を館に住まわせているらしかった。フルートの教えだけでなく、パートナーとしてありとあらゆる場所に連れていくらしい。

 やがて、婚約したので、未来の母親に会えと父親から連絡が来た。
「結婚するのはそっちの勝手だ。俺には関係ないだろう」
「馬鹿なことを言うな。フルートはやめても、お前がエッシェンドルフの跡継ぎである事は変わらない。家族の一員として、会うんだ」
その有無を言わせぬ言い方に腹が立った。

 マルガレーテは大きなショックを受けたらしかった。たとえ、教授が何人の女に手を出そうとも、最後に選ばれて妻になるのは彼女のはずであった。それを奪った女への憎しみが爆発した。
「絶対に許さない。姑息な牝犬め」

 シュナップスを飲み暴れる母親から、ヴィルはその瓶を取り上げてから帰った。みっともない姿に心からうんざりしていた。それが生きていた母親を見た最後だった。

 翌日、母親が死んだという報せを受けて、仕事を休んで飛んでいった。睡眠剤と酒の相乗効果だと医者に説明された。父親にそのことを報せようとミュンヘンの館に電話したら、ザルツブルグ音楽祭に行っていると言われた。連絡がとれ報せた時にも、大して興味はなさそうだった。

 ヴィル自身は混乱していた。亡くなった母親との関係は良好とは言えなかった。自分はずっと父親の氣を引くための道具のように感じていた。だが、だからといってまったく思い出がないわけではない。厳しい音楽の教育ばかりが押さえつけて来た記憶の隅々に、やはり息子を愛していたごく普通の母親としての顔があった。もっと優しくしてあげるべきだったかもしれない。もっと話をすべきだったかもしれない。あんな男にこだわるのはやめて、自分の人生を生きろと。だがすべてもう遅すぎた。一方で、少しだけほっとしている自分もいた。全く望みのない夢にこだわる愚かな女の妄執を、もう蔑まずに済むことをありがたく思っていた。そう感じる自分の冷たさにショックを感じてもいた。

 母親の葬儀を済ませて、事後処理をしていると、父親の秘書からすぐに来てほしいと連絡が入った。

「お父様が大変なショックを受けておられて、あなたを必要としています」
そう言われたのだ。行ってみると、婚約者が失踪して、完全に取り乱した父親がそこにいた。


「ドイツ人の同胞に惹かれるの?」

 蝶子が皮肉っぽく笑っていた。まぶしい光の中に、ヴィルは戻って来た。そこに座っているのは華奢な日本人。冷淡で奔放なのに、たぶん世界で一番近く感じる女だ。この女が誰なのかを知る前に、鋭く腹の立つ物言いと守る氣にまったくさせない強さを知る前に、ヴィルは彼女の奏でるフルートの音色を聴いていた。それが蝶子の印象を決めた。自分にとって感情の発露がフルートとピアノだったので、彼は他人の音色にも敏感だった。ヴィルは透明で美しい音色の奥底に痛みを感じた。理解してもらえなかった過去と折り合いをつけて生きているのがわかった。そして冷静な表面の奥には、隠せない情熱の炎が燃え盛っていた。

 稔の印象も三味線の音が決めた。明るく力強く愉快だが、その音は単純ではなく、深みの度に違う音色の層が重なっていた。そしてずっと底の方に危うさがある。リーダーとしての思いやりがあり、きちんとした周到さがあるかと思えば、無頓着でちゃらんぽらんな所もある。そのバランスが絶妙だった。実際、稔はグループのバランスを上手にとっていた。蝶子、レネ、ヴィルとあまりにも個性の違う三人だけだったなら、一週間と持たなかったかもしれない。稔はArtistas callejerosの要石だった。

 レネは、ヴィルにとってはじめて身近なフランス人だった。フランスは国境を接した隣国であるのに、ドイツ人にとってのフランス人は極東の日本人よりも遠い事がある。レネは典型的なフランス人だった。実際的ではなく、ロマンチストで、惚れっぽい。言う事が理論に則っておらず、さらに時間に正確ではない。けれど、ヴィルは最初の日にもう、この情けないフランス人が大好きになってしまった。ヴィルはこれほど柔らかく、感情を大切にする人間に会ったことがなかった。人に優しくて、人懐っこい。蝶子にいいようにあしらわれても、子犬のように尻尾を振っている。そして、その優しさと柔らかさの下に、静かな知性が光っている。図書館がそのひょろ長い肢体のどこかに詰まっているようだった。移動の度に新しい本を読んでいた。もちろん、荷物の量が限られているので、読み終わった本はどこかに行くのだが、一度読んだ本の内容は全て彼の内なる図書館に収められるらしかった。とくに詩の知識は豊富で、フランス語だけでなく、英語もドイツ語もイタリア語もすべて原語で暗記しているらしかった。けれど、その膨大な知識には全く嫌味がなかった。

 ドイツ人の同胞に惹かれるなんてとんでもない。そこにいるやつらはサッカーの話しかしない。

「サッカーには興味はない」

 蝶子は片眉を上げた。ヴィルがArtistas callejerosにいて心地のいい事の一つに、仲間たちの反応があった。ヴィルが必要最小限の事しか言わなくても、極わずかな表情しか見せなくても、彼らはそれを簡単に理解した。そして、それ以上を要求しなかった。

 レネが本屋に行き、稔が散髪に行っているのを待つ間、蝶子は、ティント・デ・ベラーノを傾けて園城真耶あての手紙を書いていた。稔と蝶子のパスポート更新のためには戸籍謄本が必要だった。二人とも家族には頼めないので、委任状を書いて代わりに取得してもらわなくてはならなかった。それを頼めるのは今の二人には真耶しかいなかった。

 ヴィルには蝶子を観察する時間がたっぷりあった。父親が会うようにと命じた婚約者。日本人だとは聞いていたので、見かけが予想と大きく離れていたわけではない。しかし、こんな生意氣な女にあの父親が夢中になったとはとても信じられない、ミラノではそう思った。威圧的で周りを支配しないではいられないハインリヒ・ラインハルト・フライヘル・フォン・エッシェンドルフが、この女に振り回されたのだ。

 だが一緒にいる間に、ヴィルは少しずつ理解するようになった。蝶子には魔性があった。怜悧な近寄りがたい横顔から一転して溢れる笑顔になる時がある。こちらの心を突き通すような魅惑的な目つきでかすかに微笑む事がある。そして厳しく挑むような表情で考え込んでいるときもある。レネのような初心な若者はもちろん、カルロスのような人生経験の豊かな男も、ロッコ氏のような広く浅くどのような女でも好む男も、蝶子の魅力に簡単に振り回される。そして、それはヴィルも例外ではなかった。

 ヴィルはどちらかというと女を見下してきたので、以前は女に振り回される男を軽蔑していた。蝶子を念入りに観察してきたのは、父親がなぜこの女に夢中になったのか知りたいためだったが、そんな事はすべきではなかった。自覚したのはバルセロナだった。自分の中に今まで一度も感じた事のない感情が芽生えていた。蝶子とアルゼンチン・タンゴを踊るカルロスに対するいわれのない嫌悪感、それは嫉妬だった。
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