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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち 2 (9)ミュンヘン、『Éxtasís』

前回のコメント欄で、「次はスペインです」なんて書いていましたが、すみません、その前に一度ミュンヘンに戻っています。第一部と違ってシーンごとに時間が飛び飛びなので、「何日後にここへ行った」というわけではなく、『事務局』の設立からずいぶんの時が経っています。次回のスペインは、もう『La fiesta de los artistas callejeros』の本番です。

でも、その本番の前に、このシーンを挟んだ方がいいと判断し、急遽、章の順番を入れ替えました。独立したシーンなので、どこへ入れても良かったんですけれど……。


「大道芸人たち 第二部」をはじめから読むこのブログではじめからまとめて読む
あらすじと登場人物




大道芸人たち Artistas callejeros 第二部
(9)ミュンヘン、『Éxtasís』


「お。これ、一度弾いてみたいと思っていた曲があるぞ。かけてもいいか?」
エッシェンドルフの館のサロンでCDの並ぶ棚をあさっていた稔が、言った。

 月に一度、数日間ではあるがミュンヘンに戻る生活に四人は慣れてきた。

 この館にいる間、ヴィルはほとんどの時間を秘書のマイヤーホフの打ち合わせで過ごし、蝶子は執事のミュラーや家政婦のマリアンと館の家政について話すことになった。その間、稔とレネは、『La fiesta de los artistas callejeros』の事務手続きのことに集中した。

 夕食後には、サロンに集まり、曲を合わせたり、今後のことを相談したり、もしくは今晩のようにただワインを傾けながら百科事典を広げたり好きな曲をかけて寛ぐのだった。

 人の蔵書やCDの棚というのは面白い。自分ではなかなか手の出ないジャンルや作者または演奏家の作品を発見し、新たな興味の対象になることがある。レネはと稔は最近、エッシェンドルフ教授の様々なコレクションにちょくちょくと手を出していた。

「今さら訊くまでもないでしょ。どうぞ」
そちらを見もしないで蝶子が言うと、早速、稔はCDを取り出してプレーヤーに収めた。

「何の曲ですか?」
レネが覗き込む。稔は「これ」と、ケースをぽんと渡した。

「ああ、ピアソラ。タンゴですね。ああ、思い出しますねぇ、バレンシア」
レネは嬉しそうに言った。初めて一緒にバレンシアに滞在した時に、稔がレネのリクエストでピアソラをリクエストした。ヴィルが蝶子とタンゴを踊り、それまで隠していた素性を明かすきっかけになったのだ。

 稔は、プレーヤーを操作しながら曲を探していた。
「『Éxtasís』は、ああ、これか。これをアレンジしたデュオの曲があってさ。ギターとフルートで演奏したいなと思っているんだけれど、その前に原曲をちゃんと聴いてみたいと思ってさ」

「バンドネオンと……ヴァイオリンですね。ギターとフルート? どんなアレンジになっているんだろう」
レネはケースの曲目リストを見ながら言った。それからほかの二人が静かなことに氣がついて目を移した。

 ヴィルは、蝶子の方を見ていた。曲が始まると体を強張らせて俯いていた彼女の表情は険しくなっていった。まるで拷問を受けているかのようだった。
「蝶子? どうした」

 稔もその様子に目を留めて言った。
「やめようか」

 彼女は鋭く答えた。いつもよりさらにきつい調子で。
「そのままにしておいて!」

 蝶子は立ち上がると、ヴィルの所ヘ行き、その手を引っ張った。強引とも言えるほどの激しさで。
「踊って」

「え?」
「いますぐ私と踊って。上書きしなくちゃいけないの」

 上書き。その蝶子の言い回しを三人は久しく耳にしていなかった。思い出したくない記憶を、別の記憶で上書きする。かつて彼女が上書きしていたのは、エッシェンドルフ教授に刻まれた愛憎に満ちた日々のことだ。
 
 蝶子にアルゼンチン・タンゴを教えたのも、エッシェンドルフ教授だった。長い時間をかけてただのダンスではなく、人生の悦びや愛の苦悩が表現できるほどに、教え込んだ。この館の、このフロアで。

 そして、この曲は他の曲とは違っていた。

 あの頃の蝶子は教授の誘う肉体的快楽の世界に溺れていたが、まだそれでも心の中は醒めていた。彼は、蝶子に必要な存在、彼女が何よりも望んだフルートを続けさせてくれる、それも彼女が必要としていた高みへと連れて行ってくれる最高の教師だった。婚約した後だったが、彼が多くの女性と浮名を流してきた存在であることも、蝶子にはどうでも良かった。彼の真心も期待していなかった。

 けれども、この曲を教え、踊りながら彼が見せた情熱は、それまでとは違っていた。

 それまでほとんど言わなかった愛の言葉を、彼は耳元で繰り返した。それは蝶子には突き刺すような痛い言葉だった。契約でも、躯の欲望の解消でもなく、一人の男が全情熱をかけて彼女の魂を欲している。それは、冷たい結婚を決意した愛のない蝶子にはつらく重すぎる想いだった。

 もしかしたら、彼女がこの館から逃げ出したのは、亡くなったヴィルの母親マルガレーテのためでもなく、自由でいたいからだけでもなく、ハインリヒのあの想いから逃れたかったかもしれない。

『Éxtasís』が流れる度に、彼の言葉が甦る。もうこの世にいなくなってしまったハインリヒの、彼女が利用して、逃げだし、多くの人の前で拒絶した男に対する罪悪感が彼女を締め付ける。

 彼は、父親の愛を知らなかった蝶子に、父親として、教師として、そして男としてありとあらゆる愛を注いでくれた。それは確かに心地よかったのだ。愛することは出来ず、憎みすらした男だったが、死んでほしいと願っていたわけではなかった。

 蝶子の「記憶の上書き」は上手くいかなかった。ヴィルはそんな蝶子の心の内が全てわかったわけではない。だが大方の予想はついた。彼女はいつものように虚勢を張っていた。

「蝶子、我慢するな。俺に遠慮せずに泣いていいんだ」
その言葉を聞いて、彼女は踊るのをやめた。それからヴィルの胸に顔を埋めて、震えだした。彼は黙って彼女を抱きしめた。

 稔とレネは、黙って二人を見つめていた。

追記



Astor Piazzolla - Extasis
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Tag : 小説 連載小説

Comment

says...
更新、お疲れ様です。

なごやかなシーンと思いきや、一気に緊迫した場面になりましたね。
で、動画の蝶子の台詞がずっと気にかかっていたんですけど、ここできましたか。
カイザー髭教授、蝶子にとっては心身にわたって、ほんとうに大きな存在だったんですね。だからこそ、あんな『上書き』が必要だったのでしょうけど、まだ完全には上書き消去しきれていなかったのか。急な死別だったし、その後は、よりによってエッシェンドルフの館ですごしているわけですから、古傷というか熾火が燻ってもしかたないか。
でも、これでもう大丈夫なのかな? はやく上書きできてしまうと、いいですね。
2018.09.12 10:41 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

このシーン、最初はもう少し後に置いてあったのですが、移動しました。

蝶子は可愛くない性格なので弱った所は滅多に見せないのですけれど、さすがに「本当に何も感じない」ほどの鋼鉄の神経の持ち主でもありません。逃げ出して以来、存在も全く感じられないほど遠くにいればいいんですけれど、結婚相手は息子だわ、ちゃっかりお館には出入りするわ、最後にあった記憶はああだわ、滅入る要因は山積みですよね。

この件は、たぶん生涯完全な上書きは出来ないと思われます。それを覚悟して生きていくしかないという感じでしょうか。
この辺りは、第二部の主要なテーマになっていて、今回は蝶子のことですが、四人とも単純に楽しく無責任に旅して楽しんでいるわけにはいかなくなるというのが第二部のコンセプトですし、さらにいうと今回のように「自分のやったことに対して相応のカウンターアタックも来る」というのも盛り込んであります。

とはいえ、それなりに皆楽しみもありつつ話は進んでいきますので、ご安心ください。

コメントありがとうございました。
2018.09.12 22:29 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
あ、上書きって蝶子が以前言ってましたよね。
面白い表現だなぁと思って印象に残っていたのですが、久しぶりの登場です。
稔、思わぬところで蝶子のトラウマを呼び出したようです。
とても複雑な大人の事情なので、お子ちゃまのサキにはちょっと理解しかねる部分もあるのですが、教授、蝶子、ヴィルの奇妙な三角関係はとっても興味深いです。
そして、あの強烈な印象からして、蝶子はいくら上書きをしても、このハインリヒの呪縛から完全に逃れることはできないのでしょうか?
そう、ヴィルにしても複雑なものがあるでしょうしね。
サキはこの怪しげな、そして情熱的な旋律に耳を傾けながら妄想を膨らませています。

ここでこの章が出てきたのにはちょっとだけ唐突感がありますが、これからの展開に当たって、これは頭に入れておいて欲しい、というメッセージなのかな?
2018.09.13 13:26 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

そうなんですよ。第一部では「上書き」と称して蝶子は外泊を繰り返していました。
今回は外泊ではなくてダンスですけれど、本人にとっては、精神的な上書きだから同じことなんですね。
ま、上手くいっていませんが。

まあ、どんなに経験豊富な方でも、父親と息子の両方というケースは稀だと思いますので(笑)

そして、蝶子が抱えていかなくてはいけない問題であると同時に、ヴィルにとっても一種の十字架になります。
だから、そういうことはしない方がいい、っていいたいわけではないのですが。

ピアソラという作曲家は、アルゼンチンタンゴの世界では伝説的な存在でとても才能のある作曲家ですが、私生活は褒められたモノではなかったようです。こうした情念を扱う芸術というものは、おそらく品行方正な振る舞いをする人からは生まれてこないのでしょうね。自分の身内にこういう人がいるとかなり迷惑ですが、聴く方としてはお行儀の良い音楽よりも、こうした強い情念を感じる曲に惹かれます。

> ここでこの章が出てきたのにはちょっとだけ唐突感がありますが、これからの展開に当たって、これは頭に入れておいて欲しい、というメッセージなのかな?

そうですね、あえて言えば若干「みんなハッピーで上手くいっているね」的な話ではないので、少しその路線に引き戻す役割はしているかもしれませんね。もっとも、どちらかというと、次の話からしばらく時系列的に途切れない展開になるので、その前に収まりのいい所に移した、という方が正しいかなあ。

コメントありがとうございました。
2018.09.13 20:36 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
私室の棚って、その人の性格とか生活や趣味が分かりますよね。
私の棚は・・・マンガばっか。
あとはファンタジーの資料が多いかな。
綺麗・汚いで言えば、汚いほうだなあ。。。
(--〆)

まあ、それなりにスペースはあるから大丈夫ですけど。
夕さんの私室の棚とかも見てみたいですね。
(∩´∀`)∩
2018.09.14 08:44 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

そうなんですよ。本棚やCDの棚って、雄弁ですよね。
私のところは、本が少なくてびっくりなさると思いますよ。
一応、一つの本棚は私の本が占めていますけれど。
ちなみにマンガは、スイスに移住する時にほとんど処分しました。
どうしても処分できなかった児童書は持ってきたんですけれどね。

コメントありがとうございました。
2018.09.14 22:41 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
上書き!
久々に聞いた言葉にドキっとするとともに、
『La fiesta de los artistas callejeros』の本番へ向けて
四人それぞれの現在の問題が出揃った感じがしました。
稔とマリサの一見うまくいってる関係の裏にある、稔のもやもやもそうですし、
みんな変化を受け入れつつ、第一部以前からみんなが抱え持っていた問題は
実は「はい解決!」って終わっていたわけじゃなくて、実は地続きで続いていたんだな、って足を引き戻された感じがしました。

動画の伏線はこの回のことだったのですね。
エピソード的には独立しているものの、とても重要な回というか、
心に刺さる回だなと思いました。

それから、蝶子さん、淡々と振舞っていたので忘れがられがちなのですが、
思えば彼女はこの館で長い時間過ごしたのですよね。
当然教授の思い出も染み付いているはず。
上書き作業はきっと生涯うまくいかず、ヴィル様にとっても十字架になるとのことでしたが、人の好き嫌い、生き死にというのは簡単に割り切れるものじゃなくて、「嫌い」だからといって簡単に押し流せるものでもなくて、「嫌い」の中に身を潜めていた隠し味がふとしたときに浮上してくるのかな、って思いました。
蝶子さんの教授に対する複雑な気持ちがよく分かって「そうだよな、簡単に割り切れないよな」って
思ってしまいました。

これまでが割となんだかんだ、うまくいってるエピソードが続いていたので今回のお話はちょっとほろ苦い感じがしましたね。
音楽もやっぱりほろ苦い感じがして、新しい記事でもお書きになられてましたが、
夕さんがいかに音楽というものをご自身の創作に活かされているかとても分かる気がします。
小説以外のことがおもいのほか小説創作に味わいを与えてくれるものなのですよね。

ヴィル様は気持ちよく胸を貸してくれたけど、その心中はいかに、
ともちょっと思ってしまいました。
2018.09.17 12:40 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

そうですね。今週の水曜日に発表する回だけだと、なんだかとてもノーテンキなんですよ。
実際にそういう部分も彼らの中にはあるんですけれど、さすがにそれだけではないというのが、今回の章を挟むことで少し浮き彫りになるかなと思ったんです。

人生や人間関係って、「こっちは善」「あっちは悪」「こいつは味方」「あれは悪役」というようには簡単に割り切れないと思うんですよ。
最終的にはその決断を選んだけれど、それが誰にとっても最良の選択だったというように言い切れればいいでしょうけれど、実際には、自分が幸福になるに当たって誰かが傷ついたとか、喧嘩別れをしたことが後悔に繋がっているとか、過去のあれこれの積み重ねで人生は続いていくわけで、ゲームのようにまっさらにリセットは出来ないですしね。

動画で使った台詞が二つ出てきていますね。

蝶子は、もともと空威張りのトカゲ女ですし、ヴィルも無表情で胸の内はあまり明かさない。
特にこの問題はかなり微妙なトピックですので、モヤモヤしたままだと思います。
ましてや片方がああいう形で亡くなっているので、解決のしようもないですし。

それに、これは今後もはっきりとは触れないんですけれど、ヴィルは教授の実の息子ですから、これから年をとるにつれてどんどん似てくるんですよ。それを見越して納得済みで恋に落ちたわけではないので、まあ、どうしようもないんですけれどね。

さて、この音楽は、第一部でも重要な役割を果たしていたピアソラの曲で、第一部の時からどこかで使おうと決めていました。
ピアソラは、アルゼンチンタンゴの作曲家の中では、ちょっと別格に有名ですが、褒められない私生活もしていたようで、その理性では御しきれない何かが音楽の中にも表れるのかなと思います。家族にこういう人がいたら嫌ですけれど、作曲家としては凄いなといつも思います。

この重ーい世界から一転して、次回は四人ともノーテンキですよ。

コメントありがとうございました。
2018.09.17 22:08 | URL | #9yMhI49k [edit]

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