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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】大道芸人たち (16)マラガ、ハイビスカスの咲く丘

マラガには少なくとも四回行っています。といっても、観光らしい観光をしたのは一度だけ。ヨーロッパの主要都市にはたいていある二階建ての観光バスに乗って、有名観光地をまわりながら街の地理と歴史を頭に入れるのです。パラドールのある丘から街を眺めれば、強烈な日差しの中、青い海が目に痛いほどです。海を見るとほっとします。ああ、私はやっぱり海の在る国から来たんだなあと、いつも思うのです。

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大道芸人たち Artistas callejeros
(16)マラガ、ハイビスカスの咲く丘


「ようこそ、マラガへ」
カルロスのクリスマスパーティで会った、カデラス氏はたいそう愛想よく言った。

 マラガ市内海岸沿いの公園に面したコルティーナ・デ・ムエレ通りに新しく開店した最高級クラブ『Estrella del Mar』は、十九世紀のいかめしいビルディングの中にあるとは思えないほどモダンだった。黒く光る大理石の床や壁とワイン色の革のソファが落ち着いたアイレを醸し出している。店の一番奥にスタンウェイが置かれていて、暗い店内の中でそこには柔らかいスポットライトがあたるようになっていた。好奇心から、バーのメニューを開けてみた稔は、ワイン一本が最低でも八十ユーロしているのにあわててそっと閉じた。

 ここでの仕事は、面白いことは一切やらなくていいということだった。とにかく高級そうに、そしてお高く止まって仕事をしてほしいというのだった。

 実際に、その店には、面白いことを求めているような客はほとんどいなかった。どちらかというと上品に社交をしているか、堅苦しくビジネスについて語っているか、それともにらみ合うような真剣さで愛を語っているような客ばかりだった。

 レネはアンビシャスカードを演じる時に、普通のトランプではなくタロットカードを使った。その流れるような美しいカードさばきと、フィレンツェで買った高級なカードが手品の内容をさらに上品に見せて、年配の女性客に人氣だった。どういうわけだかわからないが、いつの間にか、レネはカードマジックを演じるよりも常連のドンナたちにタロット占いをする時間の方が多くなってしまった。しかし、それがカデラス氏を大いに喜ばせたので、他の三人は放っておいた。

 稔が出るときは、できるだけクラッシックな音楽を弾いた。最初はタレーガを弾いていたのだが、なぜかバッハによるリュート曲の方が受けがいいので、ひたすらバロック専門で弾くようになってしまった。

 カデラス氏が大いに期待するのはいつもヴィルと蝶子のアンサンブルだった。二人が何を演奏してもカデラス氏はベタ褒めした。もっとも他の雇用主と違って、カデラス氏は蝶子ではなくてヴィルをやたらと絶賛した。

「ありゃ、そっちのケがあるんだな」
稔が言うと、蝶子はにやりと笑った。ヴィルは無表情だったが、ありがたがっていないのは確かだった。

 カデラス氏はヒブラルファロの丘に別荘を所有しているので、そこで寝泊まりしてほしいと言った。パラドールが隣接しているヒブラルファロ城のすぐ側にあり、テラスからは夜景に輝くマラガ市と美しくライトアップされた闘牛場、そしてどこまでも続く海が見えた。仕事が終わった後の夜二時半頃、丘を歩いて登りながらさすがに静かになりかけているマラガの町を見渡すのが四人の日課となった。もちろんその後に酒宴を催すようなことはなく、たいてい全員九時頃まで起きだしてこなかった。

 いつも一番先に起きるのはヴィルだった。庭に出て、劇団時代からの習慣となった筋肉トレーニングをする。それからキッチンでコーヒーを淹れる。たとえ、寝床に向かうのが一番遅くても同じだった。次に起きてくるのは蝶子か稔で、レネはいつも最後だった。

 稔は眠りが浅い方で、たとえば夜行列車の中やドミトリーの部屋で、レネがいびきをかいたり、蝶子が寝言をいいながら寝返りを打ったりすると、真夜中でもすぐ目を醒ましてしまうのだが、その時に何度もヴィルがベッドに起き上がって窓の外を眺めているのを目にしていた。その後、稔はまたすぐに眠りに落ちるのだが、たぶんヴィルは長いことそうしているのだろうと想像していた。

 考えてみると、イタリアにいた頃は、そんなヴィルの姿を見た記憶はほとんどなかった。つまり、ヴィルが不眠ともいえる状態になったのは、スペインに来てからなのだろう。符合する。トカゲ女にはまったのと同時期だ。

 ヴィルについて稔は蝶子と同じように困惑していた。どうしても抜けられない壁の向こうにいるドイツ人を稔は理解すると同時にもどかしく思っていた。過去について口にすることができない。あふれる情熱を音楽以外で表現することもできない。細やかな優しさとひどい冷たさが共存している。どこかで受けた傷を癒せないのかもしれない。それともはじめから誰かを信用することを教えられないまま大人になってしまったのかもしれない。誰にも愛された記憶がないのかもしれない。だから愛を表現することもできないのかもしれないと。江戸っ子の稔にはヴィルのやっているようなまどろっこしいことはとてもできそうにもなかった。



「ここって、本当に南国なんだわ」
コーヒーを飲みながら蝶子が言った。

「海ですか?」
レネが問いかけた。

「庭から海が見えるんだけれどね、そこにハイビスカスが咲いているのよ。しかも温室でなくって地植えなの」
蝶子は嬉しそうに言った。

「へえ。あれってハワイみたいな常夏の国に咲いている花かと思った。四月のヨーロッパにも咲くんだな」
稔にも意外だった。

「コスタ・デル・ソル、太陽海岸っていうぐらいだ。アルプス以北のヨーロッパ人にとっては楽園みたいなものだな」
ヴィルは遠く濃紺に輝く海を見渡した。

「あとで、海岸に行ってみない?」
蝶子ははしゃいだ。海は大好きだった。

「OK。でも、先にギョロ目に電話してからだ。一ヶ月したら再びたかりに行くってな」
稔が言った。

 園城真耶に頼んだ書類は、そろそろコルタドの館に着いているはずだった。二人がバルセロナの領事館で更新手続きをするには、少なくとも二週間以上かかるはずだ。加えて、蝶子がカルロスにヴィザのことを上手く切り出して協力してもらうとしたら一ヶ月近く滞在する必要がある。稔はレネとヴィルの様子を横目で見た。

 レネは複雑な心境だった。既に恋愛感情はないとはいえ、大好きな蝶子とカルロスがやたらと親しくするのは面白くない。だが、イネスの作る料理と四時のおやつが恋しくてたまらないのも事実だった。アヴィニヨンの生家は別にして、あれほど居心地のいい空間はない。レネにとってイネスは第二の母親だった。

 ヴィルの方は、完全な無表情に潜り込んでいた。ということは、かなり深刻なわけだ。おととい稔が多数決にかけた長期バルセロナ滞在の案件にヴィルは賛成票を投じなかった。蝶子が健康保険の重要性を示唆してヴィザが欲しいのでカルロスの助けを求めたいのだと説得したので、レネが賛成に転じた。それで多数決が成立したが、最後までヴィルは黙っていた。ヴィルにしては正直な反応だと稔は思った。頼むから、滞在中あんまりギョロ目にべたべたしないでくれよ、トカゲ女。稔は願った。


 絵に描いたような海水浴場の風景だった。青い海、白い砂浜、縞模様のパラソル。しかし、人影はない。蝶子とレネははしゃいで素足になり、海に入った。

「コルシカでも、こうやって海に入ったのよ。でも、あのときは一人だったものねぇ」
「コルシカのどの海ですか?」
「ボニファチオの近く。誰も行かない隠れ家みたいなビーチがあったの。誰にも会いたくなかったし泣いてばかりいたのよ。でも、海に入って、足下を波に洗わせていたら、もういいかなって思えてきて、それでイタリアに移ることにしたの」

「僕は南には行かなかったから、あそこでは会えませんでしたね。でも、パピヨンが決めてくれてよかった。僕やヤスと同じフェリーに乗ることを」
「そうね。あれが始まりだったものねぇ」

 蝶子は感慨深げに言った。足下は同じように波に洗われている。でも、あの時とは全然違う。レネの両足もまた、すぐ近くで波に洗われている。

「おい、お前ら、何で足なんか見てんだよ」
しびれを切らした稔が遠くから叫んだ。二人は笑って海から上がると、裸足のまま靴を両手に持って稔とヴィルの元に戻った。

「夏になったら、どこかで海水浴しましょう」
「へ? いいよ。地中海沿いにはいくらでも海があるからな。それはそうと、そろそろ飯を食いに行こうぜ」
稔は言った。

 四人は近くのバルに入った。スペインではレストランに入るよりもバルで食事をすることの方が多かった。少しずつ好きなタパスを頼んでは一緒につつき、酒を飲む。稔はイベリコの生ハムに煩悩していた。こんな美味いものはない、そう思った。レネはいつもオリーブに飛びついた。ヴィルはイネスの料理のおかげで苦手だった魚介類を克服し、自らイカリングフライを注文することが多くなった。しかし、あっという間に蝶子と稔に奪われてしまうので、二皿目をすぐに注文せざるをえなくなった。

「こういう下世話な味って、時々無性に食べたくならない?」
蝶子は稔に言った。

「ああ、お祭りのイカ焼き、食いてえな」
稔は遠い目をした。

「なんですか、それは?」
もちろんレネとヴィルには通じなかった。

「日本のお祭りでね、屋台で売る定番の食べ物があるのよ。イカだけじゃなくて、焼きそばってヌードルとか、綿飴っていうザラメをつかった雲みたいな形のデザートとか。ものすごく美味しいかといわれると疑問なんだけれど、記憶とともにノスタルジアが喚起されるのよねぇ」

「俺さ、いつも三社祭で神輿を担いでいたんだよな。五月が近づくとなんか血が踊ってきたものさ。だけど、こっち来てから、踊らなくなったな」

「ヨーロッパにもそういうお祭りってあるでしょう?」
蝶子がレネとヴィルを見た。

「カーニバルですかね」
「そうだな。それから精霊降臨祭のパレード。ミュンヘンではオクトーバーフェスト……」

「私は結局一度も行かなかったのよ」
蝶子が言った。

「ミュンヘンに七年もいたのに?」
稔は驚いた顔をした。

「だって、あそこには一リットルのジョッキしかないんだもの。そんなに飲めないわ。一緒に行って騒ぐ友達もいなかったし」

「そういうものなんですか?」
レネが訊くと、ヴィルはだまって頷いた。

「テデスコは飲みまくったんだろうな」
稔はヴィルの手元のセルベッサを見て言った。

「一度離れると座る場所がなくなる。だから、座れたが最後、交代で用を足しに行く以外は一日中ずっと同じ場所で飲みまくることになるんだ」

 他の三人は顔を見合わせた。いくら酒が好きな三人でもそんなのは拷問に思える。

「それで、毎年行きたいって思うわけ?」
「毎年終わる頃には、もう二度と来るものかと思うんだ。だが、次の年になるとまたミュンヘンに向かっているな。そういうものだ」

「じゃあ、今年も行きたいと思う?」
蝶子が訊いた。ヴィルは首を振った。
「あの時期のドイツにいると行きたくなるが、今ここで考えるとなぜ行きたいと思うのか理解できない。わざわざ夜行に乗ってまで行く氣はしないな」

「まあ、そうだな。俺も飛行機に乗ってまで神輿を担ぎに行きたくないもんな」
稔が頷いた。

「でも、イカ焼きは食べたいんでしょ?」
「その話、すんなよ! マジで食いたくなるじゃないか」
稔は、がばっとすべてのイカリングを食べてしまった。仕方なくヴィルは三たび同じ注文をすることになった。


 そんな下世話なものがまだ腹でこなれていないのに、四人は再び『Estrella del Mar』で、スーツとドレスに着替え、開店を待つことになった。

「俺、イカ臭くないか?」
そういう稔に蝶子はクックと笑った。カデラス氏がコホンと咳をして、四人のアイレを変えようとした。それで、蝶子はカデラス氏のお氣に入りのヴィルに何かを弾かせてご機嫌を取ろうと画策した。

「ねえ、開店まで何か弾いてよ」
「何を」
「そうね、せっかくだからレクオーナの『アンダルシア』は」

 ヴィルは軽い感じで『アンダルシア』を弾き始めた。どちらかというと『そよ風と私』と言った方が近い演奏だった。海に入って波と戯れ、ハイビスカスに目を細め、それからイカリングを争っていた四人の軽く楽しい雰囲氣がまだ残っている演奏だった。開店までだから、それでもいいと他の三人もカデラス氏すらも思って聴いていた。ピアノを弾いているヴィル自身もそういう心持ちのまま弾き始めたのだ。

 だが、ピアノにもたれてティント・デ・ベラーノを傾けつつ聴いている蝶子の微笑みを見ているうちにヴィルの心境が変化した。

 彼は『アンダルシア』を弾き終えると、続けて同じ組曲の中の『マラゲーニャ』を弾きだした。

 蝶子は最初マラガにちなんで弾きだしたのだと思っていた。が、暗闇の中からくすぶる炎のようにうごめきだしたメロディを聴いているうちにその音色の違いに氣がついた。微笑みが消えた。離れて聴いていた稔とレネもその違いに氣がついてピアノの方を見た。蝶子が完全に引き込まれているのが見えた。

 静かな中間部に、ヴィルは平静心を取り戻したかのように弾いていたが、後半部になると再び激しく華麗な指の動きの中に、隠せない強い情念を込めて弾いた。あまりに情熱的な演奏に稔とレネは、なかば怯えるように顔を見合わせたが、蝶子は目をそらさずにずっと真正面からヴィルを見つめていた。

 カデラス氏は四人の雰囲氣が、彼の望む真剣なものに変わったことを喜ばしく思ったが、このたった一曲の演奏で彼らに何が起こったのかを理解することは全くできなかった。その晩、四人はお互いにほとんど口をきかなかった。
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