FC2ブログ

scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】《ザンジバル》

「十二ヶ月の歌」の八月分です。今年も三分の二も終わりって……嘘だ。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。八月はフランスのシンガーソングライター、ディディエ・シュストラックの”ザンジバル”という歌にインスパイアされて書いた作品です。

私がこの曲を知った経緯はそのままこの小説に書いてあります。そして、1996年のアフリカ一人旅でも、本当にザンジバル島を訪れています。そして、ここを訪れたことが、現在、アフリカとは全く関係のないこの国に移住することになった小さなきっかけの一つになっているのです。だから、私の中でこの島は今でもものすごく特別な場所です。

観念的でこれといったオチのない話です。よかったら、先に(または同時に)曲を聴いてお読みください。なお、小説を飛ばして動画だけご覧になるのもいいかと思います。素晴らしい光景ですけれど、これ、いいところだけを上手に切り取った系の風景ではなく、本当にこういう島です。


短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む 短編小説集「十二ヶ月の歌 2」をまとめて読む



《ザンジバル》
Inspired from "Zanzibar" by Didier Sustrac

 明るいエメラルドグリーンの海がどこまでも広がっていた。白い砂浜には陽光が反射している。こんなに完璧なビーチだというのに、観光客の姿が少ない。いないわけではない。だが、八月と言えば世界中から夏の休暇で観光客が押し寄せるハイシーズンのはずだ。例えば、カナリア諸島やギリシャの島ではパラソルやビーチタオルが隙なく広げられて、砂浜も見えないほどだ。それなのにここでは、背景に自分たち以外は映っていない、まるで無人島のような写真を撮ることも簡単なほどわずかな観光客しかいないのだ。

 ようやくここにやって来た。初めてこの島のことを知ってから八年が経っていた。渋谷のCDショップで何げなく試聴したフランス語のアルバム。ディディエ・シュストラック。聞いたこともないアーティストだったけれど、心地よい声とリズムに心惹かれて、歌詞の意味もわからずに買い求めた。その最後に入っていた曲がアルバムのタイトルにもなっていた「Zanzibar」だった。

 日本語対訳を読みながら、この歌が実在のザンジバル島のことを歌いながら、同時に遠い憧れを語っていることを知った。でも、よく理解できない言葉がいくつかあった。「貿易風はささやく、”ランボー”と……」「わずかなアビシニアの魅力と、”アルチュール”の言葉」。何のことだろう? フランスの詩人ランボーのこと?

 それで、調べてみた。ザンジバルと関係のあるランボーのことを。それは本当に詩人アルチュール・ランボーの事だった。彼は、なくなる前年までの十年間を、アラビアのアデンと、アビシニア(現在のエチオピア)のハラルを往復して過ごした。そこからフランスの家族にあてた手紙で「ザンジバルへ行くつもりだ」と告げていたのだ。けれど、彼は実際には一度もザンジバル島に足を踏み入れなかった。

 彼は、アデンでフランス商人に雇われ、やがてハラールで武器商人となって暮らした。骨肉腫で右足を切断することになり、フランスに戻り亡くなった。

「あなたは、中国人?」
私は、驚いて手に持っていたカメラを取り落とすところだった。

 振り向くと、褐色肌のすらりとした女性が立っていた。アーモンド形の綺麗な瞳、化粧ではなくて自然のままに見えるのにまるで二日目の月のごとく完璧な形の眉。すらりとした鼻筋と口角の上がった厚めの唇。低めにまとめたストレートの黒髪は、とても長いのだろう大きなシニヨンとして艶やかに首の後ろを飾っている。鮮やかなセルリアンブルーの布を巻き付けたように見えるワンピースドレスが褐色の肌の美しさを引き立てていた。

 ここまで彫りが深くて目鼻立ちの整った女性は、『アフリカの角』の出身だろう。かの『シバの女王』やランボーの愛した《アビシニアの女》と同じく。

 ランボーは、アデンに住んでいた一時、アビシニア出身の恋人と住んでいた。手紙で金を無心していたフランスの母親にはひた隠しにしていたその女の存在は、雇い主の家政婦であったフランス人女性によってある程度詳しく証言されている。美しいキリスト教徒の娘と彼は睦まじく過ごしていたと。

「あなたは、中国人なの? それとも?」
現実の方の女性は、英語の質問を繰り返した。

「いいえ、私は日本人です」
私は、答えた。

「まあ、そうなの。日本にはいずれ行ってみたいと思っているのよ、素敵な国だって聞いているわ」
彼女は、微笑んだ。真っ白い歯ののぞく肉感的な唇には、女である私すらもドキドキする。

 私は自分の服装を見下ろして、情けなくなった。近所のコンビニに行くのすらもはばかられる格好だ。大学生時代からの習慣で、バックパックで安宿を泊まり歩くスタイル。捨てて帰る予定のヨレヨレのTシャツと、色のあせたジーンズ、それに履き古したスニーカーと折りたためるのが利点のベージュの帽子。タンザニアの空港では、さほど場違いだとは思わなかったし、スリや置き引きなどに狙われないためには、貧乏に見えた方がいいと思っていたが、この美しい海浜には全くそぐわない。

 彼女の装いは対照的だ。波のきらめきのように様々なトーンの青が混じり合う薄物のドレスは、ファッション誌の巻頭グラビアか、それともリゾートのパンフレットを飾るモデルのように、ビーチを完璧に変えている。もともとの美貌を選び抜いた服装で神々しいまでに昇華しているのだ。美を保つとは、どれほどの努力を必要とするのだろう。そして、それを厭わなかったわずかな人が、こうして「美こそが究極の善である」印象を世界に誇示することが出来るのだ。

「ザンジバルは、初めて?」
「はい。こんなに綺麗な海なのに、ほぼ独り占めってすごいことだなって感心していたところなんです」
「そうね。確かに観光客が押し寄せることは少ないわね。イエローカードが必要だからかしら」

 ザンジバル島は、タンザニアの一部だ。そしてタンザニアに入国するためには黄熱病の予防接種が必須だ。一週間程度のバカンスを頼むのに、わざわざ保健所を訪れて予防接種をしたがる観光客はあまりいないかもしれない。

「あの注射、死ぬほど痛かった。私も予約する前に知っていたら、来るのを考え直したかも。……あなたも予防接種をしてきたんですか?」
私が訊くと彼女は笑った。
「ここに来るためにする必要はないわ、もともとしているもの。私はエチオピアから来たのよ」
ああ、この女性は、本当に『アビシニアからきた麗人』だったのだ。

「あなたは、ここに来たのは初めてなのね。どうして来ようと思ったの?」
その質問に、私ははっとした。言われてみれば、それは少し珍しい選択だったのかもしれない。

 会社を辞めて、次の就職活動をするまでの一ヶ月に旅をしようと思ったのは、それほど珍しくはないだろう。学生時代にはユーレイルパスを利用して、ヨーロッパ横断の旅をしたし、オーストラリアにワーキングホリデーに行った友人もいる。サラリーマンの短い有休では決して行けない旅先でよく聞くのは、マチュピチュなどインカの遺跡を巡る旅、イースター島やナスカの地上絵やウユニ湖など少し遠いけれど有名なところだ。もしくは中国やアジアの多くの国を巡ったり、アメリカ横断、さらには資金問題はあるとはいえ世界一周も悪くない。

 ザンジバルに行くと言って、親や友人たちに口を揃えたように言われたのは「それはどこにある国?」だった。熱帯の島と答えれば、どうしてハワイやグアムではないのか、もしくは新婚旅行で有名なセイシェルやニューカレドニアならツアーがあると逆に提案もされた。

 この島に行きたいという思いを、日本の家族や友人に理解してもらえなかったのは、知名度から言って当然だと受け止めていたけれど、アフリカ出身のこの女性から見ても、極東からここを訪れるのは不思議なことらしい。

 私にとっては、いつの日かこの島を訪れるのは、当たり前のことだった。あの曲が、私の人生に囁きかけてからずっと。《ザンジバル》という名は、私にとって《シャングリラ》《ガンダーラ》《エルドラド》などと同じどこかにある理想郷になっていた。

「ある歌で、ここへの憧れを歌っていたんです。それに、詩人のアルチュール・ランボーも憧れていたと聞いて、一度来てみたいと思っていました」

 ランボーの名前を口にしたときに、彼女の表情にわずかな変化があった。あのエピソードを知っているのだろうと感じた。彼女から、かの《アビシニアの女》の子孫だと告白されるとしても、私は驚かないだろう。もちろん、彼女はそんなことを言い出したりはしなかった。

 その代わりに私の心が、アルチュール・ランボーがマルセイユで短い一生を終えた十九世紀末、まだ私自身が影も形もなかった頃に飛んでいた。ちょうどこの美しい女性のように、かの《アビシニアの女》が、この場に佇んでいたという幻覚、勝手な想像に心を遊ばせた。こんな風に。

「ザンジバル島に行きたいんだ。それから、船に乗って、もっと東へね。とにかく、何よりも大切なのは行くって意思だよ」

 でも、ザンジバルにこうして立っているのは、彼ではなくて私。
「どこでも、好きなところへ行ってしまえ。もう、僕はお前とは関係ないからな」
そう言われて、旅の半ばで放り出された、この私。

 彼は、「はみ出しもの」だとよく自嘲していた。若き日に、恩師との恋愛沙汰と発砲事件がスキャンダルになり、国での出世の見込みは絶たれたと言っていた。母親が心から望んだ、国内のきちんとした職場でコツコツと働くことが出来ず、ギリシャやカイロへ出稼ぎに行ってしまうのだと。

 アデンで一緒に暮らしていた頃、彼は時おりこんなことを口にした。
「フランスにお前を連れ帰ることはできないよ。結婚許可証をもらえる見込みはないしね」
「うちの母親や彼女の住んでいる村は、びっくりするほど旧弊で、お前を連れ帰ったりしたら大変なスキャンダルになるだろうよ」

 なぜそんなことを口にするのだろうと、私はいつも不思議に思った。遠く帰る必要もない国の許可証なんて、何の意味があるのだろう。ましてや、私は彼の国に行くつもりなんてこれっぽっちもなかったのに。

 今ならば、少しだけわかる。

 彼自身が、まっぴらだと言っていた彼の国と、その「常識的な生き方」から自由になっていなかったのだと。彼は、どこかで「まともな女と」「ちゃんとした家庭をもち」「いずれは国に帰る」と思っていたのだろう。

 ザンジバルへ行き、それから、どこだかよくわからない東の国へと向かうことなど、本当は「できない」と思っていたのだろう。

「お前は女だから」
「お前は教育も受けていないから」
「お前は海の風土に耐えられないだろうから」

 彼が、私をザンジバルにも、彼の故郷にも連れて行けない言い訳のように使った全てのフレーズは、彼自身が海の果ての未知の国へと行けないと思い込んだ理由だったのだ。彼は、十分に勇猛でなく、知識や経験が足りず、湿度や高温に耐えられない貧弱な身体であると、恥じていたのかもしれない。

 私は肌の色や、話す言葉の違いなどにはこだわらない。行きたいところにどんな風土病があるかや、そこの人々が自分を受け入れてくれるだろうかなどを怖れたりなどはしない。どこにいても病にかかることはあるし、生まれ故郷でいつも歓迎されていたわけではない。

 小さな舟を乗りついで、私はこの島へやって来た。鮮やかな花と、珍しい果物の溢れる島。遠浅の美しい海が守る島。ほんの少し前まで、かのムスリム商人たちが、大陸から欺して連れてきた人々を、遠い国に奴隷として売り払っていた港。

 私は「ヒッパロスの風」に乗り、アラビアへ、そしてもっと東へと進むだろう。私は風のように自由だ。何よりも彼と違うのは……私は生きているのだ。



「あなたは、アルチュールの夢見たユートピアを探しにここへ来たのね」
青いドレスの麗人が優しく囁いた。私は、現実に引き戻され、はっとしながら彼女を見た。謎めいた瞳には、どこか哀れみに似た光が灯っていた。

 突然、私は悟った。たどり着いたこの地について、はっきりと認識したのだ。

 遠浅の白い砂浜。エメラルドグリーンの海。バニラ、カルダモン、胡椒、グローブ、コーヒー、カカオ、オクラ。島の中程に南国のスパイスを宝物のごとく栽培する島。イランイランやブーゲンビリアの花が咲き乱れ、イスラム世界を思わせる装飾の扉で迎えるエキゾティックな家並み。夕日に映える椰子の林や、枝を天に広げるバオバブの大木。想像していた以上に美しく、観光客ずれもしていない、奇跡のような美しい島。

 けれど、ここは私の《ザンジバル》ではなかった。アルチュール・ランボーが生涯足を踏み入れなかった憧憬の島でもなかったし、ディディエ・シュストラックが誘い願った「物語の終わり」の地でもなかった。

 それは、この島が期待はずれであったからではなく、単純に、私がこんなに簡単にたどり着いてしまったからだ。飛行機を予約し、わずかな金額を振り込み、たった二度の乗り換えで二十四時間もかけずにこの地に降り立ってしまった。悩みも、苦しみも、別離も、挫折も経ずに、なんとなく心惹かれるという理由で、ここに来てしまったから。ユートピア、憧憬の島は、そんな形ではたどり着くことはできないのだ。

「確かにこの島に一度は来たかったし、それにとても素晴らしい島ですけれど……。でも、ユートピアではないですよね」

 彼女は、私の答えに共感したようだった。
「ユートピアは、辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所なのかもしれないわね」

 それから、私の後ろの方を見て、続けた。
「夫が来たわ。私たち、午後の便で帰るの。そろそろ空港に行かなくては。島を楽しんでね」

 会釈をして別れた彼女が向かう先には、レンタカーで待つ白人男性の姿があった。たぶん、移動の手段も、人種の違う二人の結婚も、アルチュール・ランボーの時代とは何もかも違うのだろう。愛の意味も、夢のあり方も。

 この美しい島は、もしかしたら私の想像したように《アビシニアの女》を目撃したかもしれない。そして、私を目撃し、何世紀も後に同じように夢の島を探して彷徨う誰かを目撃するだろう。

 私の《ザンジバル》を求める旅も続く。物語に終わりはないのだ。

(初出:2019年8月 書き下ろし)

追記



Didier Sustrac "Zanzibar"

この曲についてはあった方がいいかなと思うので歌詞と意訳をしばらく掲載します。
ただし、歌詞カードにあったものを丸写しは出来ないので、私自身が訳したものです。

Zanzibar
(D.Sustrac)

Il y a
L'azalée au mur
Et l'azur indigo
L'alizé qui murmure
Rimbaud

Rien qu'un zeste
D'Abyssinie
Et d'Arthur les mots
Ces voyelles à lire
Incognito

Viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Parfois
Ces parfums d'épices
A fleur de peau
Nous laissent le mystère d'une miss Afro

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé quelque part
Un rêve, une île
Le bout d' histoire

Allez, viens, allons-nous-en
Au Zanzibar
Viens on a tous laissé au hassard
Un bonheur qui ressemble
Au Zanzibar

ザンジバル

アザレアの生け垣と紺碧
貿易風は囁く
詩人ランボーの名前を

わずかなアビシニアの魅力と
アルチュールの言葉
そっと読むべき母音

行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っている

時にはスパイスの香りがする
肌の華は
僕たちにミス・アフロの謎を残していく

さあ行こう、ザンジバルへ
行こう、人はみな
夢や島や物語の終わりを
どこかに置き去っていく

さあ行こう、ザンジバルへ
一緒に行こう、誰でもザンジバルみたいな
幸福を置き忘れているんだ

関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の歌 2)
  0 trackback
Category : 短編小説集・十二ヶ月の歌 2
Tag : 小説 読み切り小説

Comment

says...
執筆、お疲れさまでした。

夏の終わりに相応しい、シーブリーズを感じる一篇です。
PVも拝見しましたが、インド洋の島々って、ほんといいですよね。歌の雰囲気にも、すごく合ってていい心持になりました。
私にも、こういう南海の島への憧れがあって、久しぶりに旅情が掻き立てられました。くうぅ、行ってみたいぜ。

「私」はずっと前から、「ここではないどこか」への憧憬を抱き続けていたんでしょうね。それがたまたまCDショップでこの曲に出会い、具体的で到達可能な場所として具現化した。
でもそれは、美しい勘違いであったと同時に、自らユートピアをリゾートに引きずり降ろしてしまったということだった。
作中のエキゾチックな美女が言うとおり、ユートピアはたどり着いてしまうべきところではなく、向かうべきところなんだろうなと思います。物理的にも精神的にも、たどり着いた瞬間に、そこはユートピアではなくなるんでしょうね。
ザンジバルに行って、いや、行けてしまって、それに気づいた「私」。こんどこそ、ほんとうのユートピアを目指して歩き始めた、そんなラストに惹かれました。
2019.08.28 08:02 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
これは…主人公の「私」は夕さん自身?

昔は人生をかけて行くぐらいだったんでしょうね
詳しいことも何も調べられないだろうし
現代の人の憧れとは次元が違ったのかな…
そうやって考えるとあっさり到着できるぐらい
便利になるのも寂しい感じがあります

さらに今だと住民もみんなスマホを見てる
なんてこともありそう><

あっでも現代の人には現代の人の《ザンジバル》が
あるはずですよね
2019.08.29 14:00 | URL | #- [edit]
says...
こんにちは。イタリアめっちゃ夏です。ホテルでだれて、美味しいもの食べ過ぎて危険な休暇旅行。

さて、貼り付けた動画はネットで見つけたどなたかのですが、本当にこういう島でした。あらゆるスパイスがあって、静かで、エキゾチックないい島でした。

グアムやサイパン、ケアンズ、沖縄にも行ったのですが、パンフレットと同じなわけはなくて、必ず素敵な海は人でワラワラとするものですが、ザンジバルは、そうではなかったのですよね。

でも、もちろん、ユートピアのはずもないのですよね。

あれから20年近く経って、いろいろと理解して、ようやくこんな小さな話にしました。ユートピアは、存在しないのではなくて、単にたどり着くことができないのかなと。だから、旅をやめる必要もないし、訪れた場所を楽しむのも大事かなと。

必要もなく出した美女ですが、アビシニア美人ってすごいのです。女の私でもゾクゾクする美しさ。で、登場させました。またどこか出したいですね。

コメントありがとうございました。
2019.08.29 16:29 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんにちは。

きっかけや描写の多くは、本人の体験を元に書いていますね。

でも、アルチュール・ランボーとの関わりについてちゃんと調べたのは最近で、20年前は、よくわかっていませんでした。それに、美女にもここではあっていないし。

ランボーの時代は、あれほどの有名人でも何年か働いてお金を貯めないと行けないところだったようです。

今は、調べるのも簡単だし、日本から行くのもさほど難しくないので、憧れるのも難しくなったのかもしれません。

どこに行ってもWi-Fi探して、インスタ映えばかり考えるような時代には、ユートピア探しはもっと高度なミッションになったのかもしれません。

コメントありがとうございました。
2019.08.29 16:48 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
イタリア、暑かったでしょうね~(スイスからですものね。避暑じゃなくて逆?)。でも、ホテルでだれて楽しく過ごすなんて、最高の旅ではありませんか! 今年はどう考えても旅行はお預けの私は、羨ましい限りです(@_@) でも、まだまだお忙しさが続く模様。人のこと言えないけれど、お身体、お気をつけて!

このお話、なんだか、私の中のノスタルジックな気持ちにぴったり当てはまりました。何がと言うのでもないのですけれど、ランボーもヴェルレーヌも、リルケやロルカも、私の学生時代の愛読書だったので、何かが琴線に触れたのかも。特に、物語の途中にある「私」の幻覚(想像)コーナーは、そのまま唄になってもいいような気がしました。
ザンジバル、確かに、不思議な響きですね。土地の名前って、固有名詞なのか一般名詞?なのか分からないときがあるなぁと思いました。その単語が脳のヒダのどこかに引っかかって離れないというのはもう、ある意味、運命かもですね。
夕さんにとってのザンジバルにあたるような場所、私にはあったかなぁ? 強いて言えば、トゥスカニア。イタリアの小さな田舎町だけれど、観光案内書にもなくて地図の上だけで探して行った場所。映画のワンシーンに憧れてまさかその場所に自分が立つとは思っていなかったけれど、行ってしまえたら、確かに「ここだったのかなぁ?」って。あの場所はあの映画の中にしかなかったんだって、そういう感じだったかも。もちろん、私は大満足でしたけれど、でも立ちたかった場所とは少し違っていたかもなぁ、そんなあれこれを感じながら拝読しました。
とにかく、懐かしい雰囲気があちこちに漂っていて、こういうの、すごく好きかも。落ちがあるとかないとかじゃなくて、空気感といいますか。

ランボーは「見つけだぞ。何を。永遠を。それは太陽とつがった海だ。」と詠ったけれど、実はたどり着けていなかったのでしょうね。だって、太陽とつがった海には、やっぱり永遠に届かないですもの。このお話を読んで、妙に納得しました。
2019.09.02 12:51 | URL | #nLQskDKw [edit]
says...
こんばんは。

イタリア、暑かったとはいえ、やはり湿度が日本の比ではないので、「いい夏!」という感じでした。
「この辺りは湿度が高くて……」と地元の人はこぼし、連れ合いも「湿度があるな」とかいうのですが、東京の湿度を知っている私には「これしき(笑)」でして。でも、久しぶりに蚊に襲われました(笑)
バイクに乗って山の中を行き、あとは食べているだけ。ご飯が毎回二時間半って、どんな一日(笑)
帰ってきてからは、打って変わってバタバタ走り回っています。とにかく明日さえ終われば!

さて。
ランボー(ランボオって書く方もいらっしゃいますよね)も、リルケも、もちろん私は日本語訳でしか読んだことがないのですけれど、ノスタルジックな響きがありますよね。今だって読めないことはないのに、なぜだろう、バタバタした日常で読むようなものではないのか、それとも「汚れちまった」あとで読むのが申し訳ないのか、「いつか落ち着いて読もう」とは思っても、それから●十年……みたいな。

海岸の美しさやエキゾティックな風土は、なぜもっと有名にならないんだろうと不思議なくらいだし、フレディ・マーキュリーの故郷でもある島なんですけれど、それもまったく謳わずにひっそりと存在しているのですよね。ランボーが憧れた島そのものみたいな感じでいつまでも存在して欲しいと、勝手な願いを持ったりも。

ここ、連れ合いも行ったことがなく、「次にどこ行くの、へえー、ザンジバル? 行ったことないからハガキ欲しいな」みたいなやり取りから住所を交換することになり、それが自分の海外移住に繋がったのですよ。だから「なんかあっさり着いちゃったなあ」ではあるのですが、実は新しい旅立ちの出発点だったのかも。

彩洋さんのトゥスカニアもそうですけれど、その場所は間違いなくそこで、(例えば太秦映画村とは違う)別に欺されたわけでもないし、招待されたのではなくて自分で勝手に行ったので首をかしげることもない。なのに、やはり、夢見ていた旅先とは少し違うのだろうなあと思いました。

私の作品、時々、こういう「オチなし」「意味なし」なものがあります。もしくは特に救いがないか、単純にシーンを切り取っただけというか。でも、この作品の場合、出会った女性と何かエピソードをこじつけて起承転結を作ってしまうよりも、単純にあの歌のようなフレンチ・ボサノバっぽい「軽い空虚」で終わらせてみたかったのですよね。

ランボーは、若い天才で、生き急いでしまった感があります。それに、もちろん私の想像に過ぎないけれど、何よりも欲しかったものに手が届かなかったんじゃないかなと思います。彼はフランスで亡くなったけれど、もう一度アフリカに戻りたかったんじゃないかなと。帰れば帰ったで腹立たしいとか、風土がフランスより厳しいとか、いろいろとあったでしょうけれど、本当に永遠をもつかめそうな、強烈な光と影が彼を放さなかったように思います。

上手く書けなくてもどかしい想いをした話でしたが、くみ取っていただきありがとうございました。
2019.09.02 21:36 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
あ~~、確かに小さい島とかは、なんだか風情があるというか。
それはそれで面白いですよね。
私も日本国内でいいから、小さい島の旅行とかしてみようかな。
それぐらいだったら、出来そうですし。。。
とても読んでいて、旅行をしている気分になれるのが
夕さんの小説の良いところです。
(*'▽')
2019.09.03 11:27 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

ああ、日本には、北は北海道から、南は沖縄まで、いろいろな風情の島がありますよね。
石垣島もよかったし、屋久島も素晴らしかったなあ。
もしくは、「そんな島、あったんだ」的なご当地では有名な島を訪れるのもいいかもしれませんね。

コメントありがとうございました。
2019.09.04 20:52 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
“私”が辿り着いたこの島はまるで夢で見たかのような世界です。
声をかけてきた『アビシニアからきた麗人』も、現実世界の人には思えません。
物語が進むに従って徐々に現実世界に引き戻されていきますが、まるで白昼夢のような作中作は実は現実的で、登場する女の強さと彼女の思い出の中に残された男の弱さ・・・”ザンジバル”をBGMにモノクロの映像で見てみたいです。
でもここはユートピアではなかったのですね。
そうか、ユートピアは辿りつくところではなくて、夢見て旅を続けるために存在する場所・・・か、なるほどユートピアって想像の中にしか存在しないのかもしれません。
ユートピアのように思えた島も『アビシニアからきた麗人』も現実に帰り、日常生活に戻るのでしょう。
命尽きるまで旅は終わらないのです。
2019.09.07 13:24 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

どちらが現実だか迷うというのは、ある意味真実をついているのかもしれません。
ザンジバルは、例えばそこへ行くために飛び立ってきたはずのタンザニアと比較しても、どこかそこだけ異質な感じのする島です。
タンザニアは、ごく普通の東アフリカの国、ちょうどジョルジアが経験したケニアに近い感じの国なのですが、ザンジバルはこの掌編の書き出しや動画のような感じの場所なのです。

そして、若干強引に登場させたこの女性、エチオピア美人のとんでもなさを書きたくて、「私」の妄想だけでは足りなかったので出してみました。世界一の美女と言われるのがよくわかる美しさを持った人がたくさんいる国なのです。しかし、その美しさもまた、非現実的かもしれません。現実は小説よりも奇なり。ランボーが心を打ち抜かれてしまった女性もまた、ものすごく綺麗だったのではないでしょうか。これは想像ですけれど。

どれほど美しくて、問題がないところでも、やはりユートピアではあり得ないのですよね。
なぜなら、現実になった途端、それは「手の届かないところ」ではなくなってしまうから。
実際に、ザンジバルも、ジパングと呼ばれた日本も、そこに住んでいる人たちや、やって来た人にとっては、ユートピアではなくて現実の島。

とはいえ、ユートピアを目指す旅そのものをやめる必要もないし、たどり着いたことが間違いだったわけでもない、そんなところでしょうか。
エチオピアの女性も、「私」も、(当たり前ながら)日常生活へと戻り、別々の物語を紡いでいくことでしょうね。

オチのない掌編にお付き合いくださり、コメントもありがとうございました。

2019.09.07 20:28 | URL | #9yMhI49k [edit]

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:https://yaotomeyu.blog.fc2.com/tb.php/1726-84ad50c8