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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】主よみもとに

「十二ヶ月の歌」の十一月分です。十月分に続いてですが、「霧の彼方から」の最終章をはじめてしまうと十二月になってしまうので。

「十二ヶ月の歌」はそれぞれ対応する歌があり、それにインスパイアされた小説という形で書いています。十一月はBYU Vocal Pointの “Nearer, My God, to Thee” にインスパイアされて書いた作品です。作品中に出てくる賛美歌は世界中で歌われていますが、この歌もその一つです。一番よく歌われるのはお葬式という特殊な賛美歌です。

歌詞はむしろ喜びに満ちているような歌なのですが、トーンはどちらかというと悲壮です。このギャップに私はいつも引っかかっていました。これが、この話で伝えたかったことと重なりました。これは「悲壮な幸福」の話です。

今回のストーリーは、名前だけを変えてありますが、私小説です。私の話ではないのですけれど。

追記に動画と、歌詞、そして意味がわかるように私のつたない訳を添えました。


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主よみもとに
Inspired from “Nearer, My God, to Thee” by BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus

 私が海外に移住した時期と、シスター荻野が帰国したと母から聞いたのは、ほぼ同じ頃だったと思う。私の記憶の中のシスター荻野は、小柄なのにとてもエネルギッシュ、快活な女性だった。カトリックの小学校に通った私の身近には、白いくるぶしまである服を着て黒いベールを被ったシスターと呼ばれる修道女がたくさんいたので、彼女たちがどのような出来事をきっかけに修道の道に入ったのか、深く考えることがなかったように思う。

 純潔を保ち、神に仕える。ありとあらゆる私欲を、今の私にとっては決して罪ではない、例えば「欲しいものを好きなだけ所有する」「大笑いするためだけのエンターテーメントを観にいく」「誰かを好きになる」「同僚達と一緒にムカつく上司の噂を肴にして呑む」といったことのどれもができない生活に自ら志願して向かう、覚悟のある人たちの心持ちをほとんど考えていなかった。

 子供の頃の私にはわかっていなかった。たとえ善良な努力家であっても、世界に溢れる物質的または精神的な誘惑に抵抗し、世界とそこに生きる誰かのために己の人生を捧げることが、どれほど難しいことなのかを。

 シスター荻野は、そうした修道女の中でも格別で、驚くべき熱意と克己心を持ち、その人生を神に捧げる道を邁進し、行動に移した。ブラジルの貧民窟にある修道院に志願し赴任したのだ。

 子供の頃に考えていたほど、宗教の世界は徳と善良だけが支配する世界ではない。それは、他の宗教と同様にカトリックも例外とはならない。免罪符の販売に象徴された中世における腐敗とは違うかもしれないが、十三億もの信者を抱える大きな組織には、階級もあり、それに伴い莫大な資金の動きもある。権力争いもあれば、栄華もある。

 テレビに映り、みなに跪かれ、ジェット機で飛び回る有名な枢機卿もいれば、教会内での信者や他の聖職者を己の意のままにして満足する司祭もいる。また、オルガンの演奏者として名を成すもの、心ゆくまで学究にいそしむ学者型の聖職者もいる。学校の経営者として子供たちを厳しく導く修道女たちもいる。

 どの生き方が正しい、またはキリスト者として間違っていると、私が断じることはできない。真面目な信者とは口が裂けてもいえない俗物である私と違って、信仰と祈りによってその道に邁進している人たちは、それぞれに信念に従って正しいことをしているのだから。

 ただ、『選び取った苦難』の一点だけにこだわれば、現代においては、その道を選ぶキリスト者は少ない。

「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広く、その道は広々としており、そこを通って入る者は多いからだ。 命に至る門はなんと狭く、その道はなんと狭められていることか! それを見いだす者は少ない」(マタイによる福音7章13-14節)

 マタイの福音書で、有名な『山上の教え』の一つとしてイエス・キリストが語っている言葉を実践することは、非常に難しい。恵まれた世界に生を受けたにもかかわらず、自ら苦難に向かっていくことは非常な思い切りを必要とする。

 シスター荻野は、その道を選んだのだ。日本にいて、ごく普通の修道女として信仰に満ちた生活を送る事もできたのに、それでは自分にできる全てを差し出したことにはならないと、敢えて志願したのだ。

 彼女のことを思い出すとき、母が段ボールに詰めながら私に見せた古着やタオルのことが脳裏に蘇る。母は、シスターからの手紙を読み、支援物資を集め、教会を通してブラジルに送る担当を買って出た。
「こんなよれたバスタオルやTシャツは失礼かと思っていたんだけれど」

 私は目を丸くした。以前手伝った近所の教会バザーでは、新品に近い物以外は持ち寄ることはしない。売れないので結局主催者の邪魔になるからだ。その箱の中には、切って雑巾にでもした方がいいかと思うものもあった。
「色褪せた物どころか、穴の空いたものですら、有難いんですって」

 新品はおろか、こぎれいな中古品を買うことすらもできない人々が溢れているという事実は、どこか別の惑星の出来事のように、私の観念からシャットアウトされ続けてきた。けれど、その箱は、わずか一瞬ではあるが、その遠い世界のことを私に想起させた。貧しく誰かの支援なしには生きられない人たちの、出口のない苦しみをほんのわずかだけ想像して、氣の毒に思った。そして、その世界と日々向き合い、異国で神と人々に奉仕し続けるシスターについての尊敬の念を深くした。

 私にとっては、ほんのそれだけのことで、すぐに忘れ、いつもの飽食と怠惰な日々を過ごした。人生の全てを擲ち、貧しい異国の人々の救済のために捧げているシスター荻野のことは、それからしばらく忘れてしまっていた。

 そのシスター荻野が、帰国したと母から聞いたとき、はじめは休暇の帰国なのかと思った。
「まさか。自分の休暇のために使える飛行機代があったら、貧民街の方のために使ったでしょうね。上層部からほぼ命令に近い形で送り返されたんですって」
「どうして?」
「ずっと帰国していなかったし、健康状態がよくないので精密検査をしなさいってことだったみたい……」

「ご病氣なの?」
「ええ。検査の結果ドクター・ストップで、海外赴任は禁止されてしまったらしいわ。本来ならとっくに定年になってるお歳だし、あんなに尽くされたんだし、ゆっくり養生して楽に余生を送っていただきたいと思うけれど、ご本人はブラジルに戻りたいと本当に悔しそうで」

「それで、今どうしてらっしゃるの?」
私が訊くと母は「U市の祈りの家ですって」と答えた。それは、高齢の修道女だけが住んでいる家で、いわば修道女達の老人ホームのような位置づけの場所だった。

* * *


 次にシスター荻野の近況を耳にしたのは、週に一度していた母との国際電話でだった。鍼灸院に私の姉が行ったときに偶然出会ったというのだ。腰が曲がって歩くのもやっとだったらしい。

 それから、母は祈りの家にシスターを訪ね、歩くのもおぼつかないのに奉仕に加わろうとしていた様子を話してくれた。
「あんなに永いこと働きづめだったのだから、老後くらいはのんびりして欲しいと私たちは思うけれど、ご本人はまだ神様に尽くして働きたいのでしょうね」

「じゃあ、何か簡単な仕事をなさっているの?」
私が訊くと、母のトーンは暗くなった。今でも何かで奉仕したいと願うシスター荻野のことを、世話をしている若い修道女らが迷惑がってきつく当たっているようだと。

「意地悪をしているつもりではないんでしょうけれど、身体が動かないのに余計なことをするから仕事が増えると言わんばかりだったのよね。私たち古い信者や関係者は、シスターの素晴らしい働きのことを知っているけれど、若い人たちは昔のことなど知らないし、ご本人も謙遜して何もおっしゃらないみたいだったし」

 なんて悲しい老後なんだろうと私は思った。母もそう思ったらしく、時おり訪問して、話を聞いたり教えを受けていたようだ。次に私が日本に行くときは一緒に訪問しようかと話をしていたのだが、元氣だった母が急逝してしまい、その約束は果たされなかった。

* * *


 母の葬儀に際しては、急いで一週間だけ日本に帰国したので、シスター荻野の話題を姉としたのは、その次に日本に帰国したときだった。

「そういえば、お母さんと近いうちにシスター荻野の所に訪問したいって話したから、今から一人で行ってこようかしら」

 すると、姉は首を振った。
「行ってもわからないと思う。三ヶ月くらい前に、鍼灸院の先生に聞いたんだけれど、認知症が進んでしまって、誰のこともわからなくなってしまわれたんだって。それを聞いて私も訪問を諦めたの」

 どうして……。私は、シスター荻野の人生の苦難を思い、やりきれない心持ちになった。

 努力が必ず報われるわけではないことくらい知っている。でも、因果応報の法則から考えれば、あれほどまでに人のために尽くし、キリスト者としての理想的な生き方を続けてきた彼女には、笑顔と尊敬に囲まれた穏やかな老後が相応しいと思っていた。こんな人生の最終章は、あまりにも酷だ。

 亡くなった母の葬儀で聴いた「主よみもとに」の歌詞が心に響く。

主よ、みもとに 近づかん のぼるみちは 十字架に
ありともなど 悲しむべき  主よ、みもとに 近づかん

さすらうまに 日は暮れ   石のうえの かりねの
夢にもなおあめを望み 主よ、みもとに 近づかん

主のつかいは み空に  かようはし の うえより
招きぬれば いざ登りて  主よ、みもとに 近づかん

目覚めてのち まくらの  石をたてて めぐみを
いよよせつに 称えつつぞ  主よ、みもとに 近づかん

うつし世をば はなれて  あまがける日 きたらば
いよよちかく みもとにゆき  主のみかおを あおぎみん

(カトリック聖歌 658番 / 讃美歌 320番)


 葬儀では、たいてい歌うので、亡くなった人のための曲のように錯覚するが、これは生きている信者達がどのように生きて死を迎えるべきか思い新たにするための歌なのだ。

 キリスト教の、そしておそらくシスター荻野が考えていた幸福とは、おそらく私の感じる幸福とは違うのだと思う。現世での因果応報や、人々に認められて尊敬されることも、穏やかで健康な老後も、その他、私がそうだったらいいと願うよりよい人生の終わり方も、真のキリスト者の目指すべきものではないのだろう。

 幸福といえば、健康で衣食が満たされ、栄誉を授けられ、氣の合う仲間やお互いを大切に思う家族に恵まれるようなことをすぐに思い浮かべるが、キリスト教の教えではそれは真の幸福ではない。イエス・キリストが人類のために無実の罪で十字架の上で命を失ったように、使徒やそれに続く信者達が迫害に屈せず殉教したように、断固として教えの道に忠実に生きて命を捧げ、最後の審判で認められて天国に受け入れられることこそが幸福なのだ。

 もちろん過去から現在に至る多くの信者は、その様な生き方はできない。かなり善良な信者でも、良心に恥じない、つまり「盗まず」「殺さず」「姦淫せず」程度のさほど難しくない戒めを守り、時おり貧しい者を心にとめて慈善行為をしたり、時おり思い出したように祈りを唱えたりして、自らの至らなさに心を留めるのが精一杯だ。ついつい食べきれないほどの豪華な食事を食べてしまったり、恵まれた人たちを妬んでしまったり、嘘をついてしまったりと、小さな罪をも重ねつつ、それでもできることなら死んだら地獄には行きたくないと、都合のいい望みを抱く。

 そうした何億人もの「正しい信者になりたくてもなれない人びと」、聖書のいうところの広き門から入り楽に暮らす人々を見つつも、一線を画して真のキリスト者を目指すことは、厳しく孤独な道行きだ。生きているうちに尊敬され報われるのではなく、一人狭き門と険しい道を選び続け、惨めな生の終わりすらも神の国へ至る途上だと喜ぶのはなんと難しいことだろう。

 身体がボロボロになるまで働き、邪険に扱われ、お荷物と見なされていることを肌で感じ、働きたくても身体が動かなくなったことを嘆くシスターには、忘却は一つの救いなのかもしれない。一足先に旅立った母は言っていた。あの方こそ、神の国に迎えられるのに相応しいと。
 
 他の誰かが天国に行くのかは知らない。惜しまれて立派な葬儀で送り出された人のことも。けれども、ゆっくりと旅立とうとしているシスター荻野の行く先については、私は亡き母と同じ意見を持っている。

(初出:2019年11月 書き下ろし)


追記



Nearer, My God, to Thee | BYU Vocal Point ft. BYU Men's Chorus

歌詞と意訳

Nearer My God to Thee
主よ御許に近づかん

【ラテン語】
In articulo mortis
(死の瞬間には)
Caelitus mihi vires
(私の強さは天からもたらされる)
Deo adjuvante non timendum
(神は助けたまい、なんの怖れもない)
In perpetuum
(永遠に)
Dirige nos domine
(我らが主よ、導きたまえ)
Ad augusta per angusta
(狭き小径より至る いと高きところへ)
Sic itur ad astra
(そは星々へ至る道のごとし)
Excelsior
(さらなる高みへの)

Nearer, my God, to Thee, nearer to Thee!
(もっと近くへ、我が神よ、もっとあなたの近くへ)
E'en though it be a cross that raiseth me,
(たとえそれが私を十字架に架けるとも)
There let the way appear, steps unto Heav'n;
(天へと続く道と階段を現してください)
All that Thou sendest me, in mercy giv'n;
(全ては私に下され、天から与えられたもの)
Excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと 更に高く)
Still all my song shall be, nearer, my God, to Thee.
(それでも全ての我が歌は、我が神よ、あなたの御許に)
Nearer, my God, to Thee, nearer to Thee!
(あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Though like the wanderer, the sun gone down.
(さすらい人のごとく太陽は沈もうとも)
Darkness be over me, my rest a stone;
(暗闇が私を覆い、石の枕で休むこととなろうとも)
Excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと さらなる高みへ)
Angels to beckon me nearer, my God, to Thee.
(天の使いが私を誘う あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Nearer, my God to Thee, nearer to Thee.
(あなたの御許に、我が神よ、あなたの御許に)
Excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior excelsior
(もっと もっと もっと もっと さらなる高みへ)
Or, if on joyful wing cleaving the sky,
(さもなくば 歓びの翼に乗り空を駈けるなら)
Sun, moon, and stars forgot, upward I'll fly.
(太陽、月、そして星を後に残し、私はさらに上へと飛ぶだろう)
Excelsior!
(さらなる高みへ!)





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Tag : 小説 読み切り小説

Comment

says...
執筆、お疲れ様でした。

これは、ちょっと重くて深いお話ですね。いや、ほかのがそうでないとは言いませんけど。

シスター荻野は、神の国に召されるべきだ、と言うより、そうでも思わないと救いがない、と感じました。おそらくシスター自身は、そんなことのために働いていたわけではないのでしょうげど。というか、だからこそ、その門は「狭い」のでしょうね。自分への見返りを求めてすれば、どんな善行も、しょせん私利私欲。ちなみに私がたま~にする「善行」もどきも、その程度のレベルだったりします。まあ、やらないよりはマシ、ということで(笑)

シスターが認知症になったというのは、他人から見れば可哀そうなことになるのでしょうけど、本人からすれば(未経験なので想像ですが)たしかにおっしゃる通り幸せなことなのかもしれませんね。いずれにせよ、彼女の人生の終焉が、惨めであるのかそうでないのかは、他者が評価すべきことではないのでしょう。
2019.11.20 11:50 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

これ、本当に重すぎるかなと思ったのですけれど、まあ山内みたいなのばかり書いているのもアレなんで……。
エッセーとして発表すると、みなさん反応に困るでしょうし、作品として書くことにしました。

彼女の人生は、私の感覚では「あまりにも救いがない」なのですけれど、おっしゃるとおりそれを他の人間が判断する必要はないのでしょう。海外の小説に(例えば「ジェーン・エア」)「宣教のために苦痛の中で命を終える人」が出てきて、それをなんらかのラッキーで救済せずに「それでよし」と終えてしまう描写が出てくるのですけれど、この感覚もまた「正しいキリスト者なので、そう生きられてめでたいこと」という感覚があるのかなと思っています。

一方、私といえば、この話を発表した同じ日に、Twitterで、あんぱんに煩悩している自分をさらけ出してしまう体たらくです。

コメントありがとうございました。
2019.11.20 21:58 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
実際のところ「死」って、ただただなるように流れて、やがてそのまま流れなくなる・・・、電気のスイッチが切られるように、すべては消え、無になってしまう・・・ということなのでしょうが、人間にとって、特に残されたものにとって、それではあまりにも救いがない。だからこういう風に考える・・・というところなのでしょうか?
この物語、夕さんの経験をベースに書かれているようですが、とてもとても重たいテーマでしたし、シスターの思いについても随分考えさせられました。
認知症だって、自分の記憶やアイデンティティーが抜け落ちていくことを自覚したとき、恐怖を感じると思いますし・・・。
いったいどういう風に思われていたんでしょうね。絶対に知ることができないのはわかっているのですが、きっと宗教によって彼女の中では完結し、救われていたんだろうと信じたいです。
サキは俗物ですからこんなテーマについて考え始めるとドロドロです。
でもね、電気のスイッチが切られるように、すべては消え、無になってしまうんですから、なにも心配することは無いんですよね。
ああ、それもなんだか虚しいなぁ・・・。
この空虚を埋めるために宗教って存在するんでしょうね。
ちょっと混乱してます。
生意気言ってすみません。
2019.11.21 11:46 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

私自身は、「死」や「信仰」についてサキさんとは違う考え方をしていますが、でも、私は自分の信じるところを他の人も信じるべきだとは思っていないので、ここではこれ以上語りません。

シスターが人生の中でどのようなことを考えて、認知症が進んでいく中で何を思っていたか、私にはわかりません。彼女が生涯にわたってしてきた行いを本人の言動と幾人かの証言で知っているだけです。その行動そのものは、完膚なきまでにキリスト者としての生き様で素晴らしいことだと思います。その一方で、私は悲しさも抑えられないのですよ。

本当に現世で全く報われないまま、この世を去って行くことを「嬉しい」「素晴らしい」と思えるか、自分の事として考えると「ノー」なのですけれど、それは私がサキさんと違ってキリスト教徒としての信仰を持ちつつも、ダメなエセ信者だからだと思います。正しいキリスト者としては、その人生は讃え喜ぶべきもので、ちょうどこの歌の歌詞のようですが、心情としては悲しさとつらさを抑えられない。その感じがメロディと歌い方に重なるなと思って書いた掌編です。お付き合いいただきありがとうございました。

コメントありがとうございました。
2019.11.21 19:35 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ふうむ。
読んでいて、ナイチンゲールを思い浮かべましたが。
全然違いますね。

どちらかというと、マザーテレサの方が近いか。
・・・といっても。
マザーテレサの方はあまり知らないのですが。

医療系もですが。
死を見ると、罪悪感を持ってしまうものですからね。
まあ、それが仕事と言ってしまえばそこまでなんでしょうけど。
その辺はキリスト教や仏教的な考え方があるからでしょうけど。
その死と向き合うためにどうするかって考えたときに。
自分の行動や理念と照らし合わせることになりますし。
最後に、「還る」ということに帰結することでしょうが。。。

2019.11.22 01:49 | URL | #- [edit]
says...
最後は病気がちだったんですね…
でも誰かのために生きると幸せを感じやすい
という話を聞いたことがあるので
もしかすると幸せも多かったのかもとも思いました

でも神や地獄を本気で信じている(?)のに
怠けたりできる人の方が多数派なのはなんでなんだろ…
本気で信じてるならシスターのような生き方の方が
自然だし尊敬されるべきな気がするのだけど
2019.11.22 14:09 | URL | #- [edit]
says...
こちらにもありがとうございます。

そうですね、イメージが近いのはマザーテレサかもしれません。
大きく違うのは、彼女は活動のことが生前に認められてノーベル賞までもらっていますよね。
シスター荻野に代表される、まったく名前の知られていない人々は、本質的には同じ事をしているのに認められていないなあと、私などは感じてしまうのです。でも、本来のキリスト者としては、そういうこことに心を煩わせてはならない……のですよね。

自分がしてこなかったことと、手助けできなかったことと、まあ、いろいろと罪悪感を感じることもあるのですけれど、そのことはまた、今回のテーマとは別の話になるので敢えて触れませんでした。

自己弁護に近い想いかもしれませんが、やがて迎える彼女の最後が平和で心地よいものであって欲しいと願わずにいられません。

コメントありがとうございました。
2019.11.22 23:19 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。

おそらく長い間の無理がたたったのと、栄養状態が悪くて同じ年代の日本にいた方よりも体調を悪くなさったのだと思います。
ご自分の事に関しては不平不満をおっしゃらないので、ドクターストップがかかるほどに悪化してしまったのだと思います。

ご本人は、信念と信仰に恥じない立派な生き方を貫かれたので、これでいいと思っていらしたと信じます。
幸せだといいなあ。

さて、凡人の方は、何を信じていようとあれこれやらかしてしまいます。
肉まんとかケーキとか美味しいし、日曜日に遊びにも行きたくなっちゃうし、ドロドロとした想いも持ってしまったりするし。
好き好んで知らない国で貧しい人を助けながらいろいろと苦労する生活はちょっと……と思ってしまうのですよ。

困ったものです。

コメントありがとうございました。
2019.11.22 23:26 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
とても心にズンとのしかかり、いろいろ問いかけられる私小説でした。
歳を重ねるごとに、人のあり方って考えさせられるし、なぜ心優しい善き人がそれに見合った最期を迎えられないのかと疑問に思う事が多いです。
自然災害や非情な事件を聞くたびにそう思います。
そのシスターが奉仕と共にそれが至福の喜びとして彼女を満たし、いま恍惚の中で穏やかであってほしいと、願います。
それと同時に、自分の俗物加減を反省し、もう少しだけでも振り返って恥ずかしくない日々を送りたいな、なんて、真剣に思います。人の役には立たないまでも。
2019.11.23 03:09 | URL | #GCA3nAmE [edit]
says...
こんばんは。

普段は小説なのでここまで救いのないことは書かない(と思う……)のですが、これはほぼ現実そのままで、そう思うと現実は時おり残酷で、さらにいうと、その残酷さはものすごく稀というわけでもないようです。

私の書く物語では、「いい人が必ず報われる」というわけではないのですが、ろくでもないキャラクターは必ずどこかで「そうは問屋が卸さない」にすることが多いかもしれません。せめて小説の中くらいは……。

シスター荻野のモデルとなった方が、どんな事を思っていらしたのか、今となっては直接聞くことはできなくなってしまいましたが、少なくともこれ以上傷つかずに最後の日々を過ごしていただけるといいなと思っています。

自分は……そうですね。人の役に立つなどというレベルは無理としても、もう少し自分の良心に恥ずかしくない生き方をしたいですが、Twitterでもおわかりのように、煩悩に満ちた日々を過ごしすぎですね……。

コメントありがとうございました。
2019.11.23 22:51 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
コメントが遅くなって済みません(@_@)
最近、寝落ちが激しくて、仕事と学会業務以外でまともにPCに向かえません……読んですぐに感想書きたいときもあるのになぁというのが今回のお話でした。
う~ん、でもこのことは夕さんと直にじっくりお話ししたいわ。以前、夕さんと私が表したいものが、言葉では逆方向に思えるのに、本質的には同じだという話をしていたことがありましたよね。なんか、そのことを思い出しておりました。

救いがないかどうかって本人しか分からない、もしくは本人も分からないんでしょうね。個人個人で考え方や感じ方が違うし、立場や状況が変わればまた変わるし。このところ、父が2つの性質の違う病院を行ったり来たりしていたので、人って(特に人生の終焉にある人)環境でこんなに変わるのかと驚くことばかりでした。少しずつこちらのことは「どうでもよくなっていく」って、『戦争と平和』でアンドレイ公爵の死の場面にでてたなぁと(私の死に対する概念は、あの場面ですとんと腑に落ちたのでした)。

でも、人の人生って報われることってほんのわずかですよね。たぶん、全ての生き物がそうなんだろうな。生命があることは尊いことではあるけれど、大きな自然界の流れの中ではなんぼほどのもの、って最近思ってしまいます。仕事で死生学を勉強しなくちゃならなくなって、余計に変なところへ考えがいっているのかも。
でも誰かの人生を俯瞰してみたとき、そこから今まだ生きている人が何を感じ、何を得るのか、そこにはやっぱり大きな意味があると思います。神(あるいは自然=じねんの世界)は無情(一般的にいう「情がない」という言葉とは違って、まさに感情とは別次元の存在であるということ)ですものね。

あ、また長々と済みません。
2019.12.03 01:39 | URL | #nLQskDKw [edit]
says...
こんばんは。

めちゃくちゃお忙しい中、わざわざすみません!
お仕事も、お父様の看護も大変な中、某グループも「来年にしようっと」ができないのがつらいですよね。
どうぞご無理なきよう。

また、彩洋さんのお家で合宿しながら語り合いたいですよね。

普通に創作すると、どうしても「いい話」とか「そうは言っても」的にソフトな方へ着地させるんですけれど、この話に関してはそういうこざかしいことをしたくなくて、私小説で押し通しました。「キリスト教を突き詰めると現世での救いがなくなってしまうのか」という問題も、「幸せとは何か」という問題も、この話で結論づけることはできませんし、そんなことが可能とも思えないです。でも、こういうことにも、眼をそらしたくないって想いはありました。

この世は素晴らしい、あの世にはまだ行きたくないって思うのは、私自身が健康にもそれ以外のことにも恵まれていて、こちらにいるのが居心地いいからだと思うんですよね。その居心地の良さを知りつつ、つらいことを通してあの世での幸福を目指す覚悟は、凡人たる私にはないのですけれど、それでも、その道を選べたシスターを尊敬しています。

死生観については、本当にコメント欄で語れるようなことではなくて、それこそ合宿でも一ヶ月位しなくちゃと思うくらい。
いずれにしても、ここ十年くらいで私の死生観もずいぶんと変わったように思います。
それにやってくる死や老いつつ生きることが、自分の事として実感できるようになってきましたね。

なんかこの辺りについては、また別の機会にちゃんと書こうと思います。

コメントありがとうございました。

2019.12.03 21:00 | URL | #9yMhI49k [edit]

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