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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(2)窓の向こう、四季の移ろい


クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の二作目です。

第二曲は『Mado Kara Mieru』使われている言語は日本語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(2)窓の向こう、四季の移ろい
 related to “Mado Kara Mieru”


 前書きでも触れたように、クリストファー・ティンのアルバム『Calling All Dawns』を知ったきっかけは、南アフリカのラジオ放送局でかけた、第二曲『Mado Kara Mieru』だった。

 きちんとした日本語に聞こえたので調べてみたら、日本の歌手が数人参加して歌っている。声優としても活躍している方のようで、少女のように歌ったり、成年女性のように歌ったりと、表現の幅がとても広い。四季の移ろいと人生を重ねて、俳句から選んだ歌詞は馴染みがあると同時に、ある種の驚きもあった。

 俳句は海外でも広く紹介され、欧米の言語で俳句を作る試みもある。もちろん本来の五七五・十七文字で表現することは、ヨーロッパの言語では不可能だと思う。ここまで簡素でありながら、かほど多くを表現できることが、驚きと共に受け入れられているのだが、おそらくそれは同様に欧米でもある種のブームになっている禅思想との共通点を感じさせるからではないかと考えている。

 題名であり歌詞にも繰り返し現れる「窓から見える」という言葉は、おそらく普通の窓のことではないだろう。もちろん、普通の窓からも四季折々の光景は見える。けれど、外国の人がわざわざ言及するとしたら、たぶん日本家屋の障子窓や雪見窓、もしくは禅寺の「悟りの窓」のような丸窓を意識しているだろう。それこそ、日本の観光旅行パンフレットにあるように。

 調度のほとんどない部屋に窓がある。外には自然そのままにみえて計算し尽くされた庭がある。春は桜の花片が静かに舞い、夏は眩しい新緑が萌える。秋は紅葉に照らされ、冬は雪の静寂を聴く。窓から覗く世界の美しさは、同時に哲学的だ。

 私は小説『樋水龍神縁起』を四部に分けて、それぞれを季節と四神相応に対応させて書いたのだが、この作品をつなぐテーマが般若心経の私的解釈だった。

 般若心経すなわち魔訶般若波羅蜜多心経は、禅の思想の中心にあるといってもいい。サンスクリット語の音訳である題名そのものが示すように、『彼岸に至る大いなる叡智』に関する教えを説いているが、それはつまり、意味もわからずに唱えることを想定したものではない。教えを理解してこそ意味がある。

 話は少しそれるが、キリスト教でかつてはラテン語だけが使われていた典礼を各国語で行うことも同じ意味があると思う。世界にあるどの信仰であっても、この世のクラブへの参加や何とか会員権の購入とは違う。共同体に属しているかどうか、決められた行為を繰り返すかだけではなく、対峙する心が重要なのだと思う。

 話を戻すが、禅または般若心経を理解するのは決して容易ではない。つまりまるで言葉の遊びのように感じるではないか。「色即是空 空即是色」有名なこの八文字ですら、理解がとても難しい。解釈の一例として「形のあるものは常に移ろい消えゆくものだが、その移ろいやすく消えやすいものもまた確かな存在なのだ」と言うものがある。「空=0」「色=1」と考えてしまうと数式(0=1)として間違いになる。けれど、たとえば人間の身体に喩えてみれば真だとわかる。私の細胞は常に死滅と誕生を繰り返し、子供の頃からずっと存在し続けている全く同じ私ではない(空)が、それでも私は子供の頃から一人の同じ確固たる存在(色)だと感じ続けている。

 では、私とはなんだろうか。脳細胞シナプス信号の見せている幻覚だろうか。では、私がコンビュータの0と1だけを本人が意識しないままに書き綴り公開している小説も、幻覚の余波だろうか。では、それを読んでいる人が書いてくれる感想も? 私はそんなことは思わない。私は存在し、私の思考と小説も存在し、読者も存在する。日々入れ替わる細胞の見せている幻覚などではない。

 そして私が対峙している世界とはなんであろうか。朝に降った雪は、もう消えている。そして、次に降る雪とは同じ物ではない。去年降った雪とも。けれど、それは雪であり、冬だ。移ろい消えていく物でも、確かに再び同じ(そして決して同じではない)形態で再び現れる。

 わたしが『窓から見える』という言葉から連想するのは、禅宗の『悟りの窓』から眺める世界で、おそらくこうした景色だ。それは美しいだけでなく、時に厳しく、時に慰めとなる景色だ。

 この曲『Mado Kara Mieru」には印象的なリフレインが挿入されている。

余命 いくばくかある
今宵はかなし 命短し



 単なる四季を歌ったものではなく、時の移ろい、すなわち人の一生を追った選歌になっているようだ。もちろん、冬の歌として選ばれた正岡子規は老衰で亡くなったのではないが、歌詞と季節から想起されるのは、老いて死んでいく人の一生だ。

 若く健康で青春を満喫している人には、たとえぱ十代だった頃の私には、このフレーズは他人事だ。知らなかったわけではないし、むしろ憧れていた節もあるが、それはすなわち自分がそれとは対極の位置にいることを知っていたからだろう。今風に言えば「厨二病」とでも表現する感覚だろうか。明日の命もしれぬ儚いヒロインのイメージは、それほどまでに当時の私とはかけ離れていた。

 いま私は相変わらず儚い美女とはかけ離れているものの、「余命いくばくかある」は他人事ではなくて実感に近い言葉になっている。もちろん明日や明後日だとは思いたくないし、なんらかの健康問題を抱えているわけでもないので、正岡子規らの心持ちとは違うし「命短し恋せよ乙女」の「命短し」とも意味合いは違う。

 とはいえ、人生を春夏秋冬に喩えたなら、どうジタバタしても夏までは通り過ぎて秋には到達してしまった身だ。さらにジャネーの法則(「生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢に反比例する」)に対して激しく頭を振って肯定したいくらい、ここ十年ほど時間のスピードが加速しているので、これからどれほど長生きできても、それはきっと一瞬のように感じるに違いないと思う。

 本当に般若心経の説く「悟り」の境地に達していれば、余命がどれほどであろうと心安らかにいられるであろうが、こちらはまだ十分に迷っている未熟者。どちらかというと「全く宿題に手をつけないまま、現在が八月二十日過ぎであることを突如認識した小学生」のような焦りを抱えている。

 そんな中途半端な状態ではあるが、たとえば日本旅行の折に、典型的な庭園を望むお寺の一室に座るような機会があると、四季折々の光景に人生を重ね合わせて想いを馳せている自分にも氣付く。これはきっと日本の伝統的な思考回路であり、更にいうと何世紀も前から日本に住む年齢を重ねた人々が感じてきたことなのではないかと思う。

 なぜそんなことを考えるかというと、スイスで二十年近く見慣れた秋や冬の光景を見ても、日本のそれほど人生の春秋と重ね合わせることがないからだ。これは奇妙なことだ。めぐる月日も、自然の移ろいも国に関係ないからだ。感覚を日本の文化に重ね合わせるときだけ、人生のあれこれが想起される。

 だからこそ、日本人ではなく中華系アメリカ人であるクリストファー・ティンが、このアルバムで二曲目に選んだ言語と思想の組み合わせに感心する。

 禅の思想も、多くの日本人が抱える四季に関するノスタルジーも、俳句の組み立ても、他の言語と文化で育った者が理解するのは非常に難しいと思う。それらは、翻訳では理解できないし、言葉の意味がわかる人に説明するのも非常に難しい。

 世界の多くの文化では、空間をひたすら細かく埋め豪奢に飾り立てるほど価値が増すと考える傾向がある。ユネスコ世界遺産に指定された多くの建造物は、大きく豪華で、さらに隙間なく飾り立てられている。アルハンブラ宮殿しかり、アンコールワットしかり、ベルサイユ宮殿しかり。だが、禅寺の「悟りの窓」のあるような空間は、それとはありかたのベクトルが正反対だ。畳と窓。装飾は皆無と言えるまでに抑えられ、窓の向こうに見える自然だけが鮮やかに何かを訴えかけている。驚異と威厳を永久に留めようとはせず、反対に「諸行無常」であることを見せつけるのだ。

 私の知り合いのスイス人は、写真で見た日本の八重桜に憧れて庭に植えたが、花びらがやたらと散ることに我慢がならず数年で伐ってしまった。桜の醍醐味は「散ること」だと考えていた私には斬新な発想だったが、散り際に大きな意味を見いだしている民族の方が特異なことはいうまでもない。

 散る桜に儚さを感じ、霞みかかる月を見上げる。そこで感じる無量の想いは、過去の誰かが積み重ねてきた歴史や文学にも影響を受けている。ある君主が辞世の句に詠んだ故事や、百人一首で親しんだ有名な歌、ティーンエイジャーのころに熱中していた上代を題材としたマンガに描かれていた情緒。その積み重ねが、同じ自然現象に違う感情を抱かせている、私はそう思う。

 もう一つ例を挙げる。柳は日本だけでなく、ヨーロッパにもある。しかし、柳の下でどことなく落ち着かない想いをするのは、日本だけなのだ。ごく普通の柳の下に、幽霊がいないことを私は知っている。それは、日本であろうとヨーロッパであろうと関係ないことも。にもかかわらず、日本で柳の下にいるときだけ、なんともいえぬおちつかなさを感じるのは、やはりあの水墨画のおそろしい幽霊図を見慣れてしまったからではないかと思う。

 スイスやヨーロッパの多くの国で、美しい紅葉があり、春の素晴らしい花の光景がある。それぞれの風景に感動し、何度も訪れたいと思う一方で、いつも不思議に思うことがある。美しい日本の春の光景、秋の光景を眺めるときと、心に押し寄せる感情の種類が違うのだ。それは夏に蝉時雨を聞きながら緑の中を歩くときや、冬の雪景色を見るときも同様だ。日本の光景は、私の心につよい郷愁を呼び起こす。

 一番近い端的な表現は『哀しみ』かもしれない。それとも『悼み』だろうか。

 それらの感情は、私の経験に基づくものとは思えない。人生の三分の一以上の経験を、日本以外でしてきているのだ。明らかに、光彩を通して物理的にではなく、日本または日本文化という心理フィルターを通して、光景を見ている……つまり『窓から見て』いるのだろう。

 日本の四季を日本人としての『窓』から覗いて見るときにあらわれる特別な感情は、時代と世代を超えて私の中に息づくものだ。明らかに私ではない過去の誰かの哀しみや悼みを感じ、もはや存在していない細胞のシグナルの続きを受信し発信し続ける『色即是空』の世界。たとえ私の余命がわずかでも、窓から見える世界は永遠なのだと思う。
 
(初出:2020年2月 書き下ろし)

追記


『Calling All Dawns』(2)Mado Kara Mieruの歌詞



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Category : エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ
Tag : エッセイ

Comment

says...
執筆、お疲れさまでした。

あの歌を聞いた第一印象は、「日本の四季を歌っているのに、なんで窓ごしなんだろう」でした。今回の随筆を読んで、なるほどなぁと納得しました。

般若心経、私は冒頭の一節『照見五蘊皆空 度一切苦厄』の部分が好きなのですが、教えられていることはシンプルなのに、自身の価値観することのなんと難しいことか。意味は分かっても、腑に落ちないというか身につかないというか……。「色」にとらわれることが多すぎて、年に一度の除夜の鐘なんぞではとてもとても。最期は賽の河原かアケローンの岸辺に、不法投棄していくしかなさそうです(笑)

さて。江戸時代くらいまでの日本人にとって、自然は生活(人生)と一体となってあるものであり、また畏敬の対象でもあったのでしょうね。自然は移ろいゆくものだから、人生観や価値観の醸成に大きな影響を与えたのだと思います。
そういう感性は遺伝するわけでもないのに、現代を生きる我々にも受け継がれていて、西洋風の華美な装飾も美しいと感じますが、落ち着くのはやはり茶室のような空間なんですよね。
ただ、日々自然の移ろいに無常を感じるような感性は、普段の生活からは急速に失われているように感じます。快適で便利になり、物や情報があふれる現代の日本では、それらはむしろ花見や紅葉狩りや京都への観光といった、特別なときにしか感じないものになりつつあります。だから、あの歌の「窓から見える」が、すぐにピンとこなかったのかもしれません。これはじつに寂しい限りです。

自然の美をそのまま見るのではなく、その情景から精神的な美を抽出するという作業を、無意識にしている。それは諸行無常という精神の働きによって、現実の情景が補完され美化されている。そういう意味の「窓」なんでしょうね。

今回の随筆も、読み応えがあり、あれこれと考えさせられました。
2020.02.24 08:24 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

「窓から見える」が何度も繰り返されるんですけれど、もともとの俳句にはそういう言葉はない、つまりこれはクリストファー・ティン氏自身がこだわっているポイントみたいなものだと思うんですよね。

ということは、ただのサッシ窓のようなものであるはずはないなと。

まあ、本来の意図に自信があるわけではないのですが、このエッセイ集は、私自身の精神世界に強引に結びつけて書いているので、やはり「禅&般若心経」と「樋水龍神縁起」だよなあと。

TOM−Fさんのおっしゃる以上に、私がもっと煩悩まみれなので、いくら般若心経ワールドに入れあげていても、本人がその生き方を実践しているわけではないところがポイントです(笑)

しかし、煩悩の不法投棄があったら、きっと三途の川も渡し守なんかいらないほどあふれているでしょうねぇ。

私は東京育ちだったので、現在日々接しているほど身近に自然があったわけではないのですよ。なので、日本で共に育った光景にノスタルジーを感じているわけではないのですよね。J●東海のコマーシャルであるとか、写真集、ドキュメンタリー、それに古典だの絵画だの漫画だの、あれこれのインプットが、私の中の日本の四季を形作っているのかも。

人間の脳内の不思議みたいなものも含めて、今回のことをいろいろと考えていました。

コメントありがとうございました。
2020.02.24 21:38 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
う~~む。
やはり夕さんは懐が深い文章を書かれますね。
俳句に関しては、確かに短い文章で色々なことをイメージとして引き起こしますね。
日本だと当たり前ですけど、海外でも関心がある方はいらっしゃるのですね。

窓から見える。
・・・というのも考えてみると深い意味は沢山あると思いますね。
私個人でも考えると、職場の窓から見える光景というのは
患者さんの立場とか考えて、色々感慨深いものがあります。
「患者さんは窓の外にどんな夢をみているだろうなあ。」
「窓の外に出てみたいだろうなあ」
・・・などなど。
いつも見る「窓から見える」光景。
そこから見えてくるものは沢山ありますよね。
とても勉強になりました。
2020.02.27 11:03 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

俳句は少なくとも二十年くらい前には、こんな田舎でもドイツ語で俳句を作る会、みたいな話を聞きましたのでかなり関心は高いのだと思います。禅などはもっとポピュラーで、こちらに瞑想のクラスを持っている禅僧(白人)の方もいらっしゃるのですよ。

さて、LandMさん のおっしゃるような、患者さんが見る窓からの景色は、特別な景色ですよね。
ちょうど正岡子規の眺めていたものと同じとはいいきれませんけれど、健康な人が「今からでようと思えばすぐに出て行ける場所」の光景を眺めるのとは違うんですよね。

光彩を通して見ているものは同じでも、見るものの状態や心持ちで、光景は違ってくるのでしょうね。

コメントありがとうございました。
2020.02.27 22:44 | URL | #9yMhI49k [edit]

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