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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(3)弱者、神仙をおもう

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の三作目です。

第三曲は『『Dao Zai Fan Ye』使われている言語は中国語です。


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心の黎明をめぐるあれこれ
(3)弱者、神仙をおもう
 related to “Dao Zai Fan Ye”


 第三曲は、中国語。『老子道徳経』、四十章からの引用だ。作曲者クリストファー・ティンはアメリカ人だがバックグラウンドは中国にあるので、この曲を作曲するときには他の曲に勝る思い入れがあったのではないかと想像している。女性が淡々と歌う構成は、第二曲『Mado Kara Mieru』と対照的だが、その思想の深さを思うと、歌い方やメロディとの組み合わせに納得する。

 日本の四季と禅の思想を重ね合わせて書いた前回のエッセイと、この第三曲に関して私が感じることには共通点がある。道教の思想と、サンスクリットの教えに基づく禅の教えにも共通するものがあるのかもしれない。

反者道之動。
弱者道之用。
天下萬物生於有、有生於無。

反者は道の動なり。
弱き者は道の用なり。
天下万物は有より生じ、有は無より生ず。



 前半の話はこのエッセイの後半に譲るとして、まずは後半に注目しよう。「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」という言葉は、「色即是空」と同じように矛盾に感じる。慣れてしまった西欧的科学法則から考えると、納得がいかない。

 しかし、西欧科学にしても、突き詰めて考えるとやはり同じ問題にぶつかる。「宇宙の始まりはビッグバンだった」と私は教わった。その前はなかったと。もし現在ある原子や分子からしか、何かが生まれないならば、始まりの前にも存在していたことになる。しかし、だとしたらその瞬間は「始まり」ではあり得ない。世界の始まりにどうにかして無から有が生まれたのだ。

 生命も同じだ。生命が生命からしか生まれないならば、最初の生物はどう生まれたのか。始めは生ではなかったものが、生命に変わった瞬間があるはずだ。でもどうやって?

 考えても答えは出ない。しかし、間違っていると思った『老子道徳経』の言葉は、やはり正しいのだ。

 一般に世界で役に立つとされているのは、前向きなマインド、屈強で健康な身体だ。けれど、老子の言葉は、これにも反している。はっきりと意見をいい、自分が正しいと主張する。たくさんの友人を持ち、スケジュール帳を予定で埋める。仕事も趣味も充実させて、恋人も支持者も多ければ多いほどよいと。

 この傾向は、西欧社会には強い。私の住むスイスは、もともと山岳に住む民族なので、若干その傾向は少ないが、それでも私にとってはポジティヴな傾向を持つ人が多い。

 『老子道徳経』の説くタオ では、そのプラス思考讃美を否定している。従うべき唯一の存在や、強固な力に、そして権力などに「道」を知った神仙は背を向けるものなのだと。

 ここまで格調高く「道」などと書いてきたが、ここから話は小市民である「私」のことに移る。ティーンエイジャーの頃、私は四川州に憧れていた。理由は単純で、「パンダと神仙の両方がいるから」である。ジャイアントパンダは実在だが、神仙はどうだろう。過去に存在していたとしても、私のイメージするような(外国人がニンジャに抱く幻想と変わらない)神仙はいなかっただろうし、ジャイアントパンダ同様に四川州限定で生息していたはずはないだろう。とはいえ、未だに私にとって四川州は特別な郷愁を呼び起こす憧れの土地である。

 そもそも、どこから神仙に憧れたか語るのも恥ずかしいのだが、とある香港映画を観たからである。ツイ・ハーク監督作品『蜀山』という。ここでは初めて観た第一回東京国際映画祭での邦題で書いているが、その後に別の題で公開されたときの邦題の方がもっと知られているかもしれない。そちらも観にいったが、日本語字幕や主人公の名前などがとてもイタい感じに変更されていて非常に悲しかった。

 ユン・ピョウ主演の香港映画である。ワイヤーワークで空を飛ぶタイプの武侠アクション映画。隠さずに言おう。私は、耽美系や芸術作品よりもコテコテのエンターテーメントに惹かれるのである。『2001年宇宙の旅』よりも『2010年』が好きといって映画好きに嘆息される。そもそも最初に夢中になった映画が『プロジェクトA』と『STAR WARS』だ。もちろん「ご趣味は」と訊かれて「映画鑑賞」とだけは答えてはいけないと自覚している。

 という話はさておき、『蜀山』に描かれていた中国神仙の世界に魅せられた私は、それから「神仙とはなんぞや」と興味を持ち、『聊斎志異』の和訳を買って喜んでいたりした青春時代を過ごした。当時にブログをやっていれば、そういう話の好きな人と語り合えただろうが、もちろんインターネットに一般人が繋がっているはずのない時代で、ひとりでニヤニヤしていただけだ。

 当時書いていた作品には、『蜀山』の影響をもろに受けた四人の神仙(というよりはカンフーのまねごとをして怪異と戦うキャラクター)がいて、今から考えたら設定からして黒歴史以外の何物でもないのだが、それでも私の中には、『森の詩 Cantum Silvae』や『黄金の枷』ワールドに匹敵するひとつの世界観として今でも存在している。

 というわけで、韓流ドラマに夢中になった方が韓国にある種の特別な憧憬を持つように、またはとある歴史ドラマからある方がロシアやフランスに特別な思い入れを持つように、私にとって中国や神仙たちのメッカとも言える峨眉山を頂く四川州は、ある種の憧れの地になったまま現在に至っている。

 私の場合、その手の憧れの地が四川州だけでなく、中南米だったり、アフリカだったり、イースター島だったり、中近東だったり、あちこちに分散しているのだが、それはまた別の話である。

 中国の神仙思想は、紀元前三世紀頃から広まっていた原始的アニミズムの一種で、不老不死の神仙が存在し、修行または仙丹という薬によって人は神仙になれると信じられていた。『老子道徳経』に出てくる『タオ 』とは、そもそも神仙に至る道のことだ。
 
 しかし、現代社会において心の指標にしようと『老子道徳経』を繙くひとは、ワイヤーワークのごとく空を飛び霞を食べて生きる神仙になろうと思っているわけではないだろう。私もそうだ。いくら永遠の『厨二病』の氣があるといっても、さすがに修行すればその手の存在になれると信じるほどおめでたくはない。だが、初めて『老子道徳経』の存在を知った頃に較べて、それなりの年月を人間として暮らしてきて、その教えが別の意味で心の琴線に触れるようになってきている。

 それに、なんというのか、その昔に夢中になっていた往年のアイドルが何十年かぶりに復帰して回想録を出版したら買いに走ってしまうように、『老子道徳経』と言われると脊髄反射的に「お」と意識が向いてしまうのだ。

 さて、この第三曲に用いられている『老子道徳経』の四十章、前半が非常に難解である。

 読み下しても、意味はほとんどわからない。インターネットで探せばいくつかの解釈があるけれど、いろいろな解釈があって意味はかなりかけ離れている。とくに前半の解釈がバラバラだ。どれが正しいかなんて、教養のない私にわかろうか、いや、わかるはずはない。(漢文の授業風)

 仕方ないので、クリストファー・ティンが発表している公式の英訳から、彼の意図している意味を考えてみた。

The motion of the Way is to return;
The use of the Way is to accept;
Things under the sky/heavens,
Are born of being, are born of non-being/death.



「道の動きとは戻るもの。道の働きは受け入れるもの。天下の全ては存在するものより生じ、存在しないもの(死)から生じる」やはり前半の言いたいことが今ひとつわからない。でも、「弱者」というのが、単なる「弱い存在」ではないらしいということはわかった。

同じ老子道徳経』の七十八章に、有名な一説がある。

天下莫柔弱於水。
而攻堅強者、莫之能勝。
以其無以易之。

天下に水より柔弱なるは莫し
而も堅強を攻むる者、これに能く勝る莫し。



 天下に水ほど柔らかく弱いものはないが、それでいて堅く強いものを打ち破るのに水に勝るものもない。ダイアモンドのように硬いものも割ることはできるけれど、弱い水を折ることができないし、岩ですら水で穿つことができる。「 正言若反( 正しい言葉は普通とは逆に聞こえる)」と続くこの章は、わかりにくい四十章の理解に役立つように思う。

 結局は、前回取りあげた般若心経の「色即是空」と同じように、一見反して見えるものが決して相容れない存在ではなく、「弱さ」「無」「死」というものが「強さ」「有」「生」と表裏一体なのだということを伝えているのだと思う。

 タオ の目指す神仙とは、ワイヤーワークのごとく空飛ぶ超能力者ではなく、いわばゴータマ・シッタールダのごとく解脱して道を悟り彼岸に至った存在、超人であり、そんな存在に至るには、鍛えて鍛えて強くなるプラスのベクトルだけを求めていては到達できないのだ、そんなことをいいたいのではないかと、ぼんやりと思う。

 こちらは、神仙どころか通常の社会的勝者になる街道からもとっくに脱落している身だ。だから、「ぼんやりと思う」などど人ごとのように思っている。とはいえ、「こんなに頑張っているのに、なぜ勝者になれない?!」と苦しんでいる人から見れば、自らの弱さを受け入れて生きていることが、生きやすさにつながっているのではないかと思う。
 

 (初出:2019年3月 書き下ろし) 

追記


『Calling All Dawns』(3)Dao Zai Fan Ye
関連記事 (Category: エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ)
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Category : エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ
Tag : エッセイ

Comment

says...
執筆、お疲れさまでした。
今回も、深い……。

老子の言葉、なんだかよくわかりませんね。
人になにかを教えようとしているとは思えないほどに、曖昧で不親切で……。たぶん、余計なものを削ぎ落としていった結果なのだろうとは思いますが、省略しすぎて何を言っているのか、さっぱりわからなくなっている。そんな気がします。

宇宙のはじまりや、生命のはじまりに関しては、思うところはあるのですが、たぶんそれはこのエッセイの本質じゃなさそうなので。

八少女夕さんのお考えのように、おそらく万物の表裏は一体、というようなことではないのかなと思います。道教の太極図みたいに。
強みは弱みにもなるし、逆に弱みが強みになることもある。強みの中に弱みがあり、弱みの中に強みがある。
そういうことなのかな、などと浅はかな考えに至りました。
2020.03.09 12:55 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

考えちゃいましたよ。なんでわざわざここを選んだのかなあ、クリストファー・ティンって。
これって中国語のわかる方には簡単なんですかねぇ。
って、英訳されてもイマイチわからない(言葉の意味がではなく、いいたいことが?)

教えっていうより奥義書ってつもりで書いたんでしょうかね。高度に修行を積んだものだけが理解できる、的な。
どうしても仙人の修行というイメージから逃れられないのですけれど、「そんなに簡単にみんなに神仙になられてたまるか」と思っていたのかしらとか。

宇宙や生命の始まりについては、TOM−Fさんは本書けるくらい考えていらっしゃるのでは。ほら、綾乃に語らせる台詞とかあるじゃないですか。幸いうちのキャラたちはみな小市民なので、そんな難しいことは作者も考えずに済んで助かっているのです。でも、いつかTOM−Fさんの宇宙論、語ってくれると嬉しいなあ(ちらっ)

道教の世界観もとても深くて、大好きなんですけれど、これをモチーフに作品を書くとなるとハマるように思います。ええ、「森の詩 Cantum Silvae」と「樋水龍神縁起」で痛い目に遭っているので、これ以上は広げられない! ブログ引退デモしたら、のんびりライフワーク的に書くのもいいかもなあ。誰からもツッコまれないぼっち執筆で。

コメントありがとうございました。
2020.03.09 22:16 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
西洋哲学にしろ、仏教にしろ、老子の言葉を重んずる道教にしろ、いっちゃなんだが現代科学にしろ、たかだか人間程度に「その意識が向いている対象の十全な認識」なんてできるわけがないので、どれも「一面的な解釈」にすぎない、と発言すると、どうやら怒られるらしいことがわかった今日この頃であります。

「一面的な解釈」ということでは、音楽の感想だろうが詩の評価だろうが、歴史的事実の追認だろうが科学的事実の探求だろうが、人間の認識には変わりないから基本的に等価ですな、と発言したらさらに怒られるらしいこともわかったであります。

結局のところ当たり前のことを発言したら、当たり前すぎるがゆえに人は小馬鹿にされたように感じるのかもしれません。

神でも悟りでも道でも物理法則でも、なんでもいいからなんらかの「不動にして神聖な存在」をどこかに持ってたほうが、「神」も「悟り」も「道」も「帰納法」も畢竟のところフィクションでしかないと考えるよりも生きやすいんでしょうね。神聖な存在を持っていた方が人間として自然ですからな。神聖な存在が完全に欠如した宇宙でなおも意味を求めて哲学なんか考えているほうが悪いんでしょう。

などと考えてやさぐれていたりします。たぶん一週間は鬱でしょう(笑)。愚痴でした。すみません。
2020.03.10 12:46 | URL | #0MyT0dLg [edit]
says...
こんばんは。

そうですねぇ。ポールさんのおっしゃること、ごもっともなのに、なぜ怒る人がいるんでしょうねぇ。
とはいえ哲学、というか「真面目に考える」だけでもいいのですけれど、考えれば考えるほど深みにはまり、さらにいうとポールさんの言葉をお借りすれば「理性でもって自分の魂を救うことができるか」を突き詰めていこうとすると、絶望して鬱に嵌まっていく……。のであれば、まあ、その手のことは全く考えないという選択の方が、人間を幸せにする、もしくは、不幸にしないのかもしれませんね。

まじめに老子のいいたいことを理解するよりも、ワイヤーワークで飛んでる仙人もどきに夢中になっているほうが、明らかにハッピーだよなと、私自身も思います。

コメントありがとうございました。
2020.03.10 21:29 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ごめんなさい。昨夜はちょっと飲みすぎてました。

反省。(といっても日本酒1合であった。お連れ合いのようなスイスの男には水だろう(笑))
2020.03.11 14:40 | URL | #0MyT0dLg [edit]
says...
こんばんは。

あれ、酔ってのコメントだったんですか? すごっ!

連れ合いは飲むし強い方だと思いますが、日本酒は苦手のようです。
日本のビールやウィスキーは大ファンなんですけれどねぇ。

私はビールより断然日本酒派です。 (訊いていないって?)

コメントありがとうございました。
2020.03.11 22:02 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
まあ。そうですよね。
私もビッグバンから始まったと教わったクチですね。
無から有が生まれるというのがあんまり納得がいかなかったところがあります。
その辺は哲学の本を読み漁っていたのが、高校生時代でした(笑)。

進化論も本当なのかなあ~~。
っと思うところもあったりなかったり。
まあ、本当なんでしょうけど。
それでも今を生きている私たちにとっては、
進化論は遠い長い年月をかけて変わっていった・・・。。。
・・・というおとぎ話にしか聞こえないんですよね。。。
( 一一)
2020.03.12 09:13 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

おお、LandMさん も高校生時代には哲学の本を! 優秀な方はやはり違うんだなあ。
哲学は難しくて『ソフィーの世界』止まりでしたよ。

進化論もどうなんでしょうね。
本当のようにも思うけれど、でも、それを具体的に証明するのは難しいんじゃないかなと思います。
ほら、ポケモンのように目の前で進化するわけじゃないですしね。

人間、それに人類の経験する時間はとても短いのですよね。

コメントありがとうございました。
2020.03.12 21:39 | URL | #9yMhI49k [edit]

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