FC2ブログ

scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(9)楔と鎧

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の9作目です。

第9曲は『Hayom Kadosh』使われている言語はヘブライ語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(9)楔と鎧
 related to 'Hayom Kadosh'


 さて、第9曲は、ヘブライ語、つまりユダヤ民族の言葉で歌われる。

今日はあなたの神である主にとって聖なる日
嘆き悲しんだり泣いたりしてはならない。
静かにしなさい。この日は神聖だから、
憂えてはならない。


 歴史を振り返ると、ユダヤ人と迫害は、切っても切り離せない。第2次世界大戦時に、ナチス・ドイツの行った大虐殺は有名だが、その前にも多くの人々が犠牲になった。

 国土と民族がほぼ一致している日本人にはなかなかわかりにくいのだが、「ユダヤ人」というのは「とある言葉を話し、形質的な特徴を持つ人」や「イスラエルのパスポートを持っている人」のことではない。しかし、たとえば「仏教徒」でイメージされるような「特定の宗教を信じている人」のくくりでもない。つまり「イスラエルのパスポートも持っていなければ、ユダヤ教も(あまり)信じていないし、見かけもゲルマン系」というようなユダヤ人もいるのだ。

 その中に、国籍はどうあれ、きっちりと戒律を守り、全身黒い衣服と帽子、もみあげの所にカールした髪を垂らしている「正統派ユダヤ人」と呼ばれる人たちがいる。服装だけでなく、暮らし方、生き方のすべてにおいて律法にしたがって生きる人たちだ。

 世界中に散らばる、DNAも生き方も全く異なる人びとを「ユダヤ人」の4文字で片付けるのは難しい。そもそも私は、ユダヤ教のことを、よく理解できていないので、たくさん語れる立場にはない。だから、この文で語ることはすべて私見である。

 ヨーロッパにおいて、長い歴史の中で特定の文化背景を持つ人たちが嫌われて迫害を受けてきたことについては、決して許されることではないと、昔から思っていたし、今でもそれは変わらない。その一方で、なぜ彼らがその憂き目に遭ったのかについては、日本にいたときよりは理解できるようになった。

 もちろん「冷血漢の高利貸し、選民思想に凝り固まり、キリスト教徒に害をなす」ユダヤ人像は極端なレッテル貼りにすぎない。高利かどうかは別として、銀行業を営むユダヤ人がいたのは事実だ。中世ヨーロッパではキリスト教徒は利息をつけてお金を貸すことが禁じられていたのだが、銀行は必要だったので、キリスト教徒に対する銀行業を禁じられていなかったユダヤ人が従事したのだ。

 単純に、彼らは目立ったのだと思う。ヨーロッパでは何度も民族移動が起こり、民族は交雑していった。その中でユダヤ教を信じる人々は律法遵守の姿勢とその選民思想ゆえに、頑なに交雑を避けアイデンティティを守り続けた。だから、国土がなくても彼らは消えないまま残ったのだ。

 その中で、現代社会においても独特の行動をする人たちがいる。ある種の社会マナーを無視し、自分たちの中にある規範(もしくは思想)を優先して我を通すタイプの人たちだ。皆が辛抱強く並んでいる列に割り込む。ゴミを散らかす。札束をひけらかして多くの人が買いたいものを買い占める。弱い立場の人を怒鳴りつける。その国の法律で用意できない物を要求し断るとレイシストだと大騒ぎする。

 そうした人たちは、全体の(いや、正統派に限っても)ユダヤ人の中では多数派とは言えないのだが、それが目立つためにまた「ユダヤ人」が嫌われてしまう。さらにいえば、同じ国土の中にいる異教徒にかつて歴史で起きた迫害にも負けないような攻撃をしてしまうところも、「だからあいつらはロクでもないんだ」と、差別主義者に言わせる口実になってしまう。

 日本でも、ネトウヨといわれる人たちや、モンスタークレーマーといわれる困った存在がいる。私だってそういう人たちは好きではない。彼らのせいで「だから日本人は全滅させてもいい」と判断されて殺されることには納得がいかない。ユダヤ人差別も同じだと思う。

 さて、欧米では今でも独特の立場にいるユダヤ人だが、今回の歌詞で使われたのは旧約聖書のネヘミヤ記からの引用だ。紀元前586年に新バビロニアに破れ、ユダ王国のユダヤ人たちはバビロンに移される。その後紀元前539年、アケメネス朝ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民はエルサレムへの帰還が許される。しかし、独立国としてではなく属州の住民としてである。ネヘミヤ記には、総督として派遣されたユダヤ人であるネヘミヤが、神殿を修復すると同時に、宗教上や社会上の改革に努めたことが記されている。

 この時の改革で厳しく決められたことの中でとても重要なのが、安息日の厳格な決まりと異教徒との結婚の禁止だ。

 ネヘミヤ記では、今回の歌詞とされた言葉がほぼ同じ形で3回繰り返される。なぜ民が泣いているのかというと「すべての民が律法の言葉を聞いて泣いたからである(ネヘミヤ記8-9)」

 バビロンの捕囚をはじめとする民族の危機もつらかったが、課された律法もひどく重かったらしい。有名な「モーセの十戒」のようなものなら、泣くほどのこともないだろうと思っていたので調べてみた。ユダヤ教における律法というのは旧約聖書の最初の5書、つまり創世記から申命記までをいう。試しに読んでみたが、けれど、600にも及ぶという細かい規定を読んでいくと、確かにこれを守り抜くのはなかなか厳しい。

 安息日の厳守、10分の1税、各種の捧げ物、食べていいものといけないもの、恩赦、結婚・離婚、裁判、職業選択、それに奴隷の扱いなど、ありとあらゆることに決まりがある。

 現代でも厳格なユダヤ教の生活を守っている人たちは、たとえば安息日である土曜日には、労働にいってはいけないだけではない。自宅で棚を作ったり、お茶を淹れるためにやかんに火をつけることすら許されていないのだ。そして、結婚するのならば、相手はユダヤ教徒であるか少なくとも改宗しなくてはならない。

 氣になったことはいくつかある。たとえばレビ記にある「レプラ」と呼ばれる病にかかった者の扱いだ。当時の医学的な知識に基づいて定められたので、ハンセン病患者とそれ以外の重い皮膚病が一緒くたに記述されていることがわかっている。そして症状によって患者は「穢れた者」とされてしまう。

 治療法のなかった当時は、隔離することで病が他の人に広がることを防ぐ、必要な定めだったのだということはわかる。それは、人に感染しやすい寄生虫や細菌の温床となっている豚の食用を禁止した法にも言えることで、制定当時は合理的な理由があったのだ。

 しかし、もし、現在もまた、この旧約聖書の内容を忠実に実行することが正しいと信じる人々がいるのならば、治療すれば治る病にかかった人を「穢れた者」扱いし不当に差別することになってしまう。

 またモーセの十戒には、「人を殺してはならない」とあるが、その「人」の中に異邦人は入っていないらしい。別の箇所で、戦争で勝った場合、敵に対し「つるぎをもってそのうちの男をみな撃ち殺さなければならない(20-13)」とも書いてある。

 これに忠実であろうとするなら、他民族との平和な共存は無理だし、弱者も切り捨てられてしまうだろう。

 律法が非現実的であるという指摘は、この2500年のあいだ当のユダヤ民族の中から何度も上がった。もっとも有名なのがナザレのイエスだろう。彼が同胞のユダヤ人たちに憎まれて十字架刑にされたのは、主にそのせいだった。

 同じ神への信仰を持ちながら、律法に縛られないイエスの新しい教えとして始まったキリスト教だが、2000年たった今、当時のユダヤ人たちと同じように聖書の一字一句に固執するキリスト教徒もいて、歴史が繰り返しているのだなと思うこともある。イエスの死後500年以上経ってからあらわれた預言者ムハンマドの教えを信じるムスリムの人々も、信じている神は同じだ。その3つの宗教を信じる人々が、それぞれの聖典に書かれた文を拠り所に、互いに争い続けているという図式も、どうにかならないものかと思う。

 同じ聖典と神を旗印に、お互いに相手を嫌うことを正当化するレッテルを貼り合って、憎しみのボールを投げ合っている。これでは「嘆き悲しむ」要因はなくならないだろう。

 ネヘミヤ記、ひいてはこの歌詞で繰り返される「嘆いてはならない」という言葉からは、彼らは禁じられてもなお嘆きたくなる苦しみを受けたことが浮かび上がる。

 作曲者クリストファー・ティンは中国系アメリカ人だ。中国人、もしくは華僑と呼ばれる人たちも、ユダヤ人と同様に、異国であまりその国に馴染まずにもともとの生活様式を守って生きる傾向があるように思う。

 同化しないことで目だち、差別の対象ともなることを、彼が全く意識しないはずはない。だからこそ、彼はこの作品を多様な民族のバッチワークにして、注意深く言葉を選んだのだろう。

 日本にいて、多数派を占める民族の一員であった頃、差別による被害は私にとって他人ごとだった。それは許されないことだと知っていても、自分自身が痛みを覚えた事柄ではなかった。

 スイスに住むようになり、私はどちらかというと差別される方になった。もちろん、現代の成熟した社会では、あからさまな差別を受けることはめったにない。まともな教育を受けていれば、その加害者となることは恥ずべきことだと知っているからだ。

 それでも、人は時おり意識せずに差別的な言動をしてしまうことがある。私はそのことで深く傷ついたりすることはない。世の中にはもっとひどい屈辱に耐えている人がたくさんいるだろう。実害を受けいてる人もたくさんいるのだ。笑える程度の差別なんて大したことはない。

 優しくなるためには、想像力さえあれば十分だという人もあるかもしれない。それに、この世界のすべてを体験することなど実質的には不可能だ。体験だけが人の心を動かすのならば、創作の存在意義すらも疑われる。

 それでも、この立場になることは、たぶん私には必要だった。私は、直接的な加害者になってはならないのだと、他人ごとのごとく知っていただけで、それ以上ではなかった。岐路に立たされたときにどう振る舞うべきか、たとえばテストの場での正解を考えるように差別のことを捉えていたが、そうではなく、もっと生活と人生全般にわたる、区別も難しい、正解も見つけにくい複雑な問題だった。

 心ない言葉受けた心の痛みや、他の人とあからさまに差をつけられた現実的な不利益は、笑顔を消し、氣力を奪い、卑屈で歪んだ思想の種を植え付けていく。跳ね返す能力のある者は、その方法で前に進むが、それと同時に鎧を身につけざるを得なくなり、周囲との間に楔が打たれる。

 あいつらは、ああだから嫌われるんだ……。その判断は、まるで鶏と卵のようだ。嫌われるからこそ、人は変わっていく。そのことに氣づけたのは、私が高みの見物をしていられず、哀しみも、憂いも、鎧も、すべて自分の事として受け止めるようになったからだ。

 偉大といわれる宗教家たちが何千年ものあいだ善くあろうと努力してもいまだに消えていない問題を、小市民である私がそれを解決できるなどとはもちろん思っていない。

 それでも少なくとも私は、ほんのわずかでも、嘆き悲しむ人たちの心に寄り添いたいと思う。そんなことを思いながら、今日もまた地味な小説に思いを託している。

 私はシミュレーションゲームのように、多くの軍勢を右や左に走らせて神と同じ権能を手にした者のように振る舞いたくない。楔は俯瞰する下方ではなく、私の目の前に打たれている。鎧は目の前の誰かが、もしくは自分自身が身につけている。世界は評論すべき下界にではなく、自ら歩き、道を選び、つまずき、また立ち上がっていく同じ目線の場にあるのだ。

(初出:2020年9月 書き下ろし)

追記




'Hayom Kadosh'
関連記事 (Category: エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ)
  0 trackback
Category : エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ
Tag : エッセイ

Comment

says...
執筆、お疲れさまでした。

今回も、ずしりとくる内容でした。
拙作にもユダヤ人の青年を登場させましたが、付け焼刃的な知識で描いたので、これを読んでなるほどと感心したり、そうだったのかと啓蒙されたりしています。ヨーロッパは難儀だなぁ。
私にとってユダヤ人は、頭が良くて、商売が上手くて、ずっと迫害されている気の毒な民族、というイメージでした。『アンネの日記』や『シンドラーのリスト』や『ライフ・イズ・ビューティフル』や『ヴェニスの商人』ですね。アインシュタインやロスチャイルドをはじめ、有名人にも枚挙にいとまがない。
まあそんな程度の認識でしたが、なるほど、いろいろと奥が深いのですね。
はじまりはどうであれ、差別的な感情や態度が、被差別者のありかたも変えていくというのは、あるかもしれません。
日本にも差別はありますが、自身がそれを肌で感じることはないので、やはり実感はないのですが、書かれているようなことは心に留めておかなければならないと思います。私たちが生きている間に差別がなくなることは、残念ながらないでしょうから。
2020.09.02 11:38 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

ユダヤ人と言っても、定義がいろいろあるので「ユダヤ人なのに○○はありえない」みたいなことはないんですよ。もちろん正統派ユダヤ教の人が、たとえばそこらへんの馬の骨日本女に結婚を申し込む……みたいなことはあり得ないわけですが、その一方で「ベーコン好きだし、ワインも最高」というローゼンシュタイン氏がいても不思議はないのですね。

ただ、映画などはどのロールでもプロバガンダが入っているので、絶対的被害者かヒールかにくっきりと分けられています。その辺はプロデューサーやスポンサーがユダヤ人かどうかでも違ってくると思います。

私は作品にユダヤ人を出すことはほとんどありません。同じ差別された人々というテーマを担わせたければ、他のタイプの人たちを使います。だって、面倒なんですもの。まあ、こんな日本語の辺境ブログにまでやって来て、騒がれることもないかなとは思いますが。

同じテーマを扱った例としては『森の詩 Cantum Silvae - 貴婦人の十字架』の『(8)水車小屋と不実な粉ひきの妻』があります。誰もが「粉ひきが真っ当な奴らのはずはない」と考えている世界では、わりと公平な価値観を持つ主人公ですら色眼鏡で見ていた、実際に正直者でもなかった……というストーリーですね。

たぶんこのストーリーは、私が日本にいたままだったら出てこなかったかもしれません。そういう意味では、経験が間接的に作品に影響を及ぼしているといえるのかも。

しばらく3大一神教に関するトピックが続いたので、「このままの路線でいくんだろうか」と思っていたのですが、来月はいきなり方向転換しています。クリストファー・ティン、策士だわ……。

来月もまた読んでいただけると嬉しいです。

コメントありがとうございました。
2020.09.02 19:31 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ユダヤ人か。
日本にずっといると考えたこともなかったな。
ユダヤ人であることだけで、差別することは勿論許されることではないのでしょうが。
差別に関しては、感情論な部分もあるから、
結構難しい問題もありますが、理性によって秩序を保たないといけない部分もある。


アメリカの黒人差別と通ずるものがあるんでしょうね。
って読んでいて思ったりしたんですが。
白人は黒人に対して優越感を抱いたりしているんでしょうかね。
日本人から見れば、黒人も白人も同じ外国人なのですが。
ってことなんでしょうけど。
2020.09.04 09:31 | URL | #- [edit]
says...
こちらにもありがとうございます。

日本にはユダヤ人そのものが珍しいので、ほとんど意識しないですよね。
その一方で日本にも、他民族への差別も、同民族内での差別も、性別による差別もあります。

アメリカで起こっているような有色人種の差別とは違いますが、日本にも白人と有色人種に対する態度を変える人たちもいます。
たとえば名前がヨーロッパ風でも、実はアジア人というような人がいますが、その人たちの顔を見た途端に差別したり
白人系にはヘラヘラへりくだるのに、有色人種やアジア系には尊大な態度を取る日本人もいます。

問題はそれのどこが悪いのかわかっていない人が結構いるということなんですよね。
無知や無意識であることもまた罪なのかも。

周りに軋轢がないということは、幸せではあるのでしょうが、実際に問題に直面したときにどう対処していいのかわからないという問題も出てくるかもしれませんね。

なかなか難しい問題です。

コメントありがとうございました。
2020.09.04 21:21 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
とても考えさせられ、そしてとても為になる記事でした。
個人的にはYahooにでも寄稿してほしくて堪らない気持ちです。
(でも、あそこに載ってもきっと響いてほしいひとはスルーしちゃうんでしょうね。かなしい)
自分のユダヤ人の知識は、これを読んで浅かったなあと感じました。国籍、人種等は関係なく、ユダヤ教を頑なに信じて戒律を守る人たちだと思っていたのですが、必ずしもそうではないのですね。
宗教がもたらす戒律や生活様式、考え方の違いによって、分断や争いが起きた事も事実でしょう。だからといって現代に生きるものが他民族の宗教観や生き方を否定するのも違うし、ましてや差別、迫害などもってのほか。
と、口にするのはたやすいのですが、所詮自分は日本人で。きっとまだ浅い観念しかないのでしょう。
日本に住み、宗教や人種的な差別に鈍感なまま育った身としては、こういう問題に向き合うのが遅すぎた感が否めません。恥ずかしながら、本気で向き合ったのは本当にここ数年ですもの。
夕さんのように、早くにアウェイに身を置き、外から世界や日本を眺めた方の気持ちをこうやって聞けるのは有難いし、ボンヤリ生きてちゃだめだと改めて感じます。
(話は少しズレちゃいますが、今日もSNSで、堂々と人種差別的発言をする日本のタレントのツイートや、それに賛同する人たちのリプをみました。日本人の無意識の差別に嫌気がさしています。日本に人種差別は無いと多くの人は言いますが、決してそんなことはないのですよね。なんとも歯がゆくてたまりません)
やはり夕さんの小説には、夕さんのそう言う憤りが込められているのですよね。信念というか、気迫というか、そう言うものが端々に感じられます。
もっと多くの目に触れる場所で、夕さんのこういうエッセイや小説が公開されればいいな、と、いつも思うのですが、うーん、それは夕さんが決める事ですもんね。(いや……でも本当に、エッセイは別のところでも載せてほしいな><)
とにかく、今の段階でこうやって、貴重な手記を読む事が出来て、幸せです。
2020.09.08 10:27 | URL | #GCA3nAmE [edit]
says...
こんばんは。

民族と、語族と、国籍と本人の認識、そして他人からの認識って、本当に難しい問題なのですよね。
日本には(全員ではないけれど)それらが全部一致している人が多いので、それ以外のことを許容できないどころか想像すらできない人が多いように思います。

たとえば、最近では人種の偏見に対してきちんと意見を表明した大坂なおみさんに対して「黒人ってことは日本人じゃないんだな」と無知をさらけ出した投稿者がいたようです。

日本人とは何かという問題を考えるとき、たとえば、「日本国籍を持ち、日本文化について深い造詣を持つ人」という意味では、たとえばドナルド・キーン氏は私よりも2000倍日本人らしい日本人でしたけれど、それでも見た目と生まれのことを根拠に「ガイジンさんだ」という人はいたわけです。

スイスには、そもそも「スイスらしい外見」「スイスらしい言語」「スイスらしい文化」という基準がないので、「あいつはスイス人じゃない」と断定するのはものすごく難しいのです。それでも、やはり差別はあります。あるけれども、誰がどんな場でそれを豪語してしまうのか、ということを考えると、やはり日本にはナイーヴな人が多いのだと思いますね。

「ユダヤ人とは何か」は、「日本人とは何か」よりもさらに難しい問題を含んでいます。
たとえば、本人はキリスト教徒で、イスラエルとは何の関係もないし、両親ともにユダヤ人ではなく、見かけも大してそこらへんの欧米人と変わらないのに、苗字や名前がユダヤ由来のものであるだけで「ユダヤ人」と認識されてしまう人もいるのです。一方で、たとえばフェリックス・メンデルスゾーン=バルトロディのように、親がキリスト教徒に改宗して、ユダヤ教と手を切ったにもかかわらず、本人の心持ちは祖父と同じ「ベン・メンデル」だったというように、「気持ちの上でのユダヤ人」というのも存在するのです。

キリスト教徒が国家ぐるみでユダヤ教徒を迫害したのは事実ですし、現在のイスラエルが国家ぐるみでパレスチナ人たちにやっていることも迫害だと思います。ムスリムとの争い、同じ宗教観の宗派の違いによる争いも同じです。バルカン半島で、トルコで、その他世界の多くの場所で起こっている、国家による弾圧や虐殺の多くは、異なる宗教を信じる民族の間での軋轢が引き金になっていますよね。ただ、それは単なる宗教観の違いに起因するのかというと、それだけではないのですよね。問題が複雑であるからこそ、解決の糸口も見えていないのでしょうね。そこで「迫害は悪いことだ」「○○は悪人だ」だけでそれ以上の意見がでてこないのは、やはりかなりナイーヴだといわれてもしかたないのかもしれません。

このエッセイ集は、私の精神的な成長(厨二病遍歴ともいう)に特化したかなり私的な内容なので、わざわざ多くの方に読んでもらうようなものではないと思いますけれど、小説に選んでいるテーマに関しては、もう少し普遍的で、誰にとってもどこかは琴線に触れるようなものでありたいと思っています。技術がああなので、難しいかもしれませんけれど。いつかは、もう少し人目に触れるような工夫もいるのかなあと思いつつも、「いつか」なんて日は来ないのかも……。limeさんに読んでいただける野岳でも幸せですよ〜。

コメントありがとうございました。
2020.09.08 23:01 | URL | #9yMhI49k [edit]

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:https://yaotomeyu.blog.fc2.com/tb.php/1837-d8934ee9