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Posted by 八少女 夕

心の黎明をめぐるあれこれ(10)殻より抜けでる鳥

本日は、クリストファー・ティンの『Calling All Dawns』というアルバムにちなんだエッセイ連作『心の黎明をめぐるあれこれ』の10作目です。

第10曲は『Hamsáfá』使われている言語はペルシア語です。


『心の黎明をめぐるあれこれ』を読む
『心の黎明をめぐるあれこれ』を始めから読む




心の黎明をめぐるあれこれ
(10)殻より抜けでる鳥
 related to 'Hamsáfár'


 第10曲の歌詞は、ウマル・ハイヤームの『ルバイヤート』から、3つの詩を選んで組み合わせてある。『ルバイヤート』というのは『4行詩集』という意味の普通名詞なのだが、この作品があまりにも有名なので、一般に『ルバイヤート』といえばウマル・ハイヤームの作品を指すことが多い。

 これまで散々一神教の聖典からの言葉を並べてきておきながら、ここにきてペルシア語の言葉として選んだのがウマル・ハイヤームとは、クリストファー・ティンはかなり老獪なタイプかもしれない。少なくとも、それに氣がついたときに、私はかなり脱力した。

 この作品は11世紀のペルシアのウマル・ハイヤームの死後に発表された。数学、天文学、史学などで著名な学者だったウマル・ハイヤームの作品なのか、同名異人の作品なのかはいまだに意見が分かれているという。いずれにしても、この作品を生前に発表するのはかなり難しかったと思う。名誉の剥奪どころか死罪にされてもおかしくない内容だからだ。

 イスラム教のことにさほど詳しくない人でも、禁酒のことは知っていると思う。21世紀の現在においても、たとえばイスラム教の大本山メッカのあるアラブ首長国連邦はおろか、かなり辺境のモロッコあたりでも、ビールにありつくのですら難しいほどだ。11世紀のペルシアで、飲酒を褒め称えるのはかなり勇氣が必要だったはずだ。

 ところがこの『ルバイヤート』、読むとほとんどが飲酒礼賛なのだ。しかも、「あるかどうかもわからない天国に行くために酒を飲めないなら、こっちで楽しむ方がいいや」という態度すら見せてしまっているのだ。宗教的権威は、やっかいである。社会がその権威に依存している場合は、話がさらに複雑になる。法が人々の思考と行動を制限するようになるからだ。

おれは天国の住人なのか、それとも
地獄に落ちる身なのか、わからぬ。
草の上の盃と花の乙女と長琴さえあれば、
この現物と引き替えに天国は君にやるよ。
(オマル・ハイヤーム 『ルバイヤート』 小川亮作訳 青空文庫 より)

法官ムフテイ よ、マギイの酒にこれほど酔っても
おれの心はなおたしかだよ、君よりも。
君は人の血、おれは葡萄の血汐ちしお を吸う、
吸血の罪はどちらか、裁けよ。
(同上)


 単なる飲酒礼賛だけでなく、体制側を侮辱したと言われても言い逃れのない詩だ。

 引用した詩集を読んでいくと「ケイコスロー」「ジャムシード」それに「マギイ」といった言葉が表れる。ケイコスローは現在では一般に「カイ・ホスロー」と書かれるペルシアの伝説の王、ジャムシード王とともにイラン最大の民族叙事詩『シャー・ナーメ』に登場する。「マギイ」または「マギ」はゾロアスター教の神官で、日本で言えば、神道の神職、もしくは陰陽寮の天文博士などにあたる人々だ。だが、後にゾロアスター教が、3大宗教からことごとく異教とされたために、魔術者とみなされるようになり、マジックの語源ともなった。

 つまり、『ルバイヤート』で出てくるこれらの単語は、イスラム教の高職者からみると邪しまで許されざる害悪の象徴だ。彼は、それらを礼賛しているのだから、挑発以外のなにものでもない。

 大学生の頃、私はイランの伝説や民族神話について調べていた。現在ならば、日本語でもいくらでも文献があるが、当時はその類いの書籍は限られていた。インターネットも発達していなかった当時、情報を得るのは大変な苦労があったのだ。海外旅行の時に、わざわざロンドンに行ってまで、中近東の民族伝承の本を探していた。ペルシア語の文献を当たらなかったのは読めないことがはっきりしていたからだ。私の英語力で専門書は読めないだろうと思ったので、ティーン向けの中近東の神話伝説に関する本を購入して持ち帰った。重かった。

 英雄《白髪のザール》と、育て親である怪鳥スィームルグの伝説、ザールの息子であるロスタムの英雄伝などに心躍らせていた一方、ゾロアスター教とインド神話の関係にもひどく興味を覚えた。

 ともに古代アーリア人の系譜をもつ2つの神話の世界では、善と悪の神が入れ替わっているのだ。ペルシア神話の善神《アフラ》はインド神話では《アスラ》(阿修羅)になる。一方で悪神《ダエーワ》は、インド神話では善神《デーヴァ》となる。

 この関係は、日本神話でいうと天つ神と国つ神の関係に近いのかもしれない。天孫降臨をしてきたという触れ込みで「この地域の支配権はもらうから」と宣言してきた天つ神に、1度は抵抗したものの結局国を譲ったとされる国つ神。これらは、おそらく2つのことなる政治勢力間で起こった争いの記憶であろうというのが、一般的な見方だ。

 おそらく古代アーリアでも、同じようなことがあり、それが宗教の中に善神悪神という形で残っているのだろう。

 古代ペルシアには、ゾロアスター教の主神である《アフラ・マズダー》、それ以前から広く信仰されていた《ミトラ》、豊穣の女神《イシュタル》、時間の神《ズルワーン》など深く信仰を集めた神々がいたが、インドで悪神と見なされただけでなく、ユダヤ教やキリスト教、そしてその流れをくむイスラム教でも異教として目の敵とされることとなる。

 たとえば《ズルワーン》は、ヨーロッパでは息子を食らうサトゥルヌス神になり、女神《イシュタル》は、「バビロンの大淫婦」とまでいわれるようになる。しかし、民間レベルで広がっていた信仰は、簡単に撲滅することはできず、ミトラ神の祭日で大きく祝われていた冬至は「イエス・キリストの誕生日」という名目で最大の祝祭になり、サトゥルヌス神の12月の祝日の風習であった贈り物の習慣はサンタ・クロースという形で残っている。女性神への信仰が固く禁止されたキリスト教では、母なる豊穣神への深い信仰は、聖母マリアへの帰依と形を変えて現在まで続いている。

 もちろん現代ヨーロッパでは、誰がどんな対象に精神的な支えを求めようと、大して問題になることはない。だが、それはつい数十年前まではあたりまえのことではなかった。私がもっとも精神的に影響を受けた作家ヘルマン・ヘッセは、この葛藤について生涯を通して書き綴った。中でも私が一番強く感銘を受けた作品は、『デミアン』である。この中で主人公シンクレールが、キリスト教では異教的とされた特別な精神世界を持つための大きな契機として登場する神の名が《アプラクサス》だ。

 この神は、ミトラ教にまで遡る古い名前を持ち、グノーシス主義で大きな役割を持ち、『デミアン』では「神であり悪魔であり、明るい世界と暗い世界を内に蔵している(ヘルマン・ヘッセ『デミアン』高橋健二訳 新潮文庫)」と記述されている。作品中では、卵の殻を破り生まれ出でる鳥の姿として幾度も登場する。道徳と因習に縛られた「普通で正しい」とされる世界からはみ出て苦しんでいたシンクレールにとって、それに縛られずに立つ青年デミアンを彷彿とさせる存在だったのではないか。

 この小説で語られる精神世界のあり方、そして、このエッセイでいく度か語っている『般若心経』の教えは、ほぼ同じものを指していて、この2つにほぼ同時期に出会った私は、シンクレールと同様に新しい世界のとらえ方をするようになった。《アプラクサス》、または《アブラクサス》は、オリエント由来の神だが、若い日に夢中になったオリエント神話にこうして戻ってきたことに思い至ったとき、不思議な因縁を感じた。

 さて、話は『ルバイヤート』にもどる。イスラムの世界でも目の敵にされていた、オリエント由来の思想や風物に、人々は禁止されてもやはり立ち戻っていったことがこの詩から読み取ることができる。ウマル・ハイヤーム1人が酒を愛し、女と音楽を愛で、宗教や道徳上の締め付けに異議を唱えていたのだとは到底考えられない。もしそうだとしたら、これほどたくさんの普通名詞や固有名詞が人々に理解可能な形で残るはずはないからだ。つまり、大っぴらには言えないけれど、ムスリムでもワインを飲んで、それでも自分はうるさい坊さんよりもいいヤツだと思っていた人は、そこそこいたということだろう。

 私自身は、例えば酒に酔ってホストクラブ通いをしたいとは思っていない。もちろん、それを望む人がすることにはなんの異議もないが、私自身にとって、それはやりたいことではない。けれども、長いあいだ「こんなことを考えていいのだろうか」と葛藤していたことからの解放という意味では、ウマル・ハイヤームの訴えに同調できる。物心ついたときから一神教の教えで育った私が、「どの宗教を信じていても善いことは善い」と確信を持つには、ある種の勇氣が必要だったのだ。

 私は、いまでも宗教そのものに異議があるわけではない。無神論者とはそこが徹底的に違う。ただ、誰かの書いた一字一句に縛られて、もっと大切なものを見失いたくなかった。「豚肉を食べることはしないが、異教徒は殺す」のが、「チャーシューは好きだし、外国に友だちがたくさんいる」ことよりも素晴らしいこととは思えない。それを迷わずに口にすることができるようになるには、ずいぶんと時間が必要だった。もちろん、日本人にそれを言うのは簡単だ。まず誰ひとり反論しないだろう。けれども、世界には、それを口にすることに勇氣を伴う場所もあるのだ。

 それを口に出し、権威に寄りかからずに生きることを決めるとき、社会からの非難も身に受ける覚悟が必要だ。その殻を破り生まれ変わる《アプラクサス》のように。20世紀前半のキリスト教社会を生きたヘッセが『デミアン』で描いた物語は、私の心を大きく揺さぶり、それからの生き方の指針となった。

 どの宗教を信じ、どの位階にいるからより天国に近いわけではない。人間が作り出した威光を必要以上にありがたがる必要はない。同様に、自分自身についても慢心をしてはならない。洗礼などの儀式を経たからといって、天国への切符を発行してもらったわけではなく、日々の行いの免罪符になるわけでもないと。

 殻を破り、外に出た雛は、もうその殻に守ってもらうことはできない。自由は、同時に、保護を手放すことだ。私は、これまでにいくつの殻を失ってきたことだろう。そして、これからも、いくつもの心地よく、権威に守られた楽な居場所を失うことだろう。『ルバイヤート』を書きながら、ウマル・ハイヤームも同じことを考えたかもしれない。彼はこう高らかに歌った。

あしたこの古びた修道院を出て行ったら、
七千年前の旅人と道伴れになろう
(オマル・ハイヤーム 『ルバイヤート』 小川亮作訳 青空文庫 より)


(初出:2020年9月 書き下ろし)




追記


Hamsafar (feat. Sussan Deyhim)


【歌詞はこんな意味です】

砲塔は朝日の筋に捕らわれた
カイホスロウ王は聖杯を空にした
暁の先触れが鳴り響き
飲み物の名声は、時とともに消えた


共に旅しよう!

さあ、一緒にあすの日の悲しみを忘れよう、
ただ一瞬ひとときのこの人生をとらえよう
あしたこの古びた修道院を出て行ったら、
七千年前の旅人と道伴れになろう

とまどうわれらをのせてめぐる宇宙は、
たとえてみれば幻の走馬燈だ
日の燈火を中にしてめぐるは空の輪台、
われらはその上を走りすぎる影絵だ


(註)緑色の訳文は下記の本より転用しています。(ペルシャ語からの翻訳)
ルバイヤート RUBA'IYAT
オマル・ハイヤーム 'Umar Khaiyam
小川亮作訳 (青空文庫)
 

青色の文は上記の本には収められていなかったので、下記の原文を英訳してくれているサイトを参考に意訳したものです。
خورشید کمند صبح بر بام افکند
کیخسرو روز باده در جام افکند
می خور که منادی سحرگه خیزان
آوازه ی اشربوا در ایام افکند

関連記事 (Category: エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ)
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Category : エッセイ・心の黎明をめぐるあれこれ
Tag : エッセイ

Comment

says...
執筆、お疲れさまでした。

うん、これまた情報量の多さがすごい。
八少女夕さん、かなり広範に民俗とか宗教とか神話とか、そういう知識を習得なさっていますね。これはほんと、驚くばかりです。

思うに、政教一体だった時代では、被征服地の民衆をうまく洗脳しないと、統治が難しかったのでしょうね。だから、そこの宗教の行事なんかは無理に禁止せず、寛容なところをみせつつ、神話や教義では悪神にして時間をかけて刷り込んでいく、みたいなことを考えたのかもしれません。
日本はなんでもかんでも取り込んで、混在させることが平気な民族性で、もはやDNAレベルで日本人の資質になっちゃってるような気がします。が、これはむしろ特異なことで、そうでないほうが多い。そういった社会やら権威やらから、外に一歩を踏み出すのは、相当な勇気が必要なんですね。

ーー殻を破り、外に出た雛は、もうその殻に守ってもらうことはできない。自由は、同時に、保護を手放すことだーー

これ、心に響くフレーズですね。
実感することはなかなかないけど、理解はできます。
今回も読み応えのあるエッセイでした。次回も楽しみにしています。
2020.10.21 08:02 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

いやいやいや、元々、こういうことが大好き少女だった時代があるのですよ。でも、言い訳ですけれど、あの当時は今ほど情報が簡単に手に入らなかったので、薄っぺらいままで終わってしまったんです、残念ながら。知識、知っている方からしたら「なんだこいつ」級の浅すぎで赤面ものです。その一方で、全く書かないで例えば「スィームルグ」と固有名詞を投入しても、ご存じない方には通じないですし、一方で同じ固有名詞でも、例えばゲームなどで使われている名前だと説明をしないと誤解されてしまうので、なんだかうるさい記述になってしまったなと。

子供の頃、ものすごく不思議に思っていたことの1つに、例えば映画などで「邪教を信じる愚かな民」っていうのが出てくるじゃないですか。なんであんなものに入信するんだろうって。でも、あれって別の宗教(たとえばユダヤ教)視点における別の宗教を信じる人たちのことで、べつに悪魔崇拝をしていた人たちではなかったんですよね。

この間読み終わったジョン・ウイリアムズの「アウグストゥス」でもローマの宗教を信じているアウグストゥスは、一神教に懐疑的であるというような記述があったのですが、ローマ帝国で時間とともにキリスト教を導入していくにしても「えー、この祭りはどうすんの、ないのってどうよ」みたいな抵抗感が支配側にも被支配側にもあって、それを取り込むようにしないと何らかの抵抗があったんじゃないかなと思うんですよね。たとえば、日本でいうと「え。お正月とお盆、今年からなくなるのってどうよ」みたいな。

日本人は、文化や宗教の混在(チャンポン)には抵抗がない方が多いのですが、その一方で社会的慣習に固執してほかの人にもその枠からはみ出るのを許さない気質もあるようにおもいます。
たとえば、みなが働いているのに自分だけ定時で帰れないとか、マスクをしていないと人の目が痛いとか。
「私は神も仏もいないと思う」と断言することは大して勇気を必要としないかもしれませんが、別に仕事が忙しくもない時期でも「今年の有休を使い切りたいので、ここで休みます」というのは非常に難しいなんてことも。
もしかしたら、そういった社会的慣習に抵抗し、「みんなそうだから」という殻に守ってもらえなくなることが、日本人にとっての《アプラクサス》的な行為なのかなと思ったりもします。

このエッセイ集も、あと2回残すばかりになりました。
また読んでいただけると嬉しいです。

コメントありがとうございました。
2020.10.21 21:40 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
すごい情報量
覚えたいけど覚えきれそうになかったです

当たり前だけど昔から疑い深くて信じてない人もいたんですね
逆にこんなに情報のある現代でも
熱心な信者(宗教に限らず)もたくさんいるし…

私はルバイヤートのような作品を書くほど頑張れないし
かと言って信じてるふりをして周りに合わせる演技力もないので
昔に生まれていたらきっともっと大変でした><
2020.10.24 14:53 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。

あはは、これでも意味が通る最低限に抑えるために,あれこれ削ったんですけれどね……。

いまは、無神論や、信仰の自由という観念があって、たとえば日本では別に何も信じなくても身の危険はないですけれど
それがヤバい世界や時代もけっこうありましたし
この詩集を生前は発表できなかったというのは納得ですね。

まあ、信じても,信じなくても,
人に合わせてビクビク生きるのって大変だし
人に合わせずに思うがままに物を言うのも大変です。

少なくともいまの方がマシっていうのはたしかみたいです。

コメントありがとうございました。
2020.10.24 22:19 | URL | #9yMhI49k [edit]

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