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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-1-

『Filigrana 金細工の心』の5回目です。

まだ「(2)悪夢」で始まったライサの回想シーン、まだ続いています。最初の構想では、このライサの回想は、もっと後に出すつもりだったのですが、むしろこの方が事情がはっきりするのと、前作とのつながりが強いのでこうなりました。長いので切ったんですけれど、サブタイトルの曲、モーツァルトの『グラン・パルティータ』は、まだ出てきませんね。



『Filigrana 金細工の心』を読む「Filigrana 金細工の心」をはじめから読む
あらすじと登場人物





Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -1-

 1ヶ月ほどの間に、彼女は、ドアを離れて彼が奨めるソファに座ることができるようになった。食事の時にも、怯えてカトラリーを取り落とすこともなくなった。彼は彼女が1つひとつの段階を経ていくのに満足し、まずは皮肉に満ちた微笑を、それから少しずつ優しい笑顔を見せるようになった。その表情の変化は、ライサの彼に対する忠誠と思慕に拍車をかけた。

 逃げ惑いながら、ピアノの音を目指して走る目覚め以外に、まるで夢を見ていなかったかのように心地よく目覚めることもあった。そんな時でも、音色は常に彼女を光に導いてくれた。彼は、朝食前には練習中の曲ではなく完成し弾き慣れた曲だけを演奏する習慣があった。数日前に耳にして、彼女が特に好きだと口にした曲を、改めて弾いてくれることもあった。

 そんな時に、彼女は急いで起き上がり、シンチアたちの助けを借りずに洗面所へ向かい、急いで身支度をした。朝食の席に行き、彼とドンナ・アントニアのいる、明るい窓辺の席に座ることを思うと心が躍るのだ。

 まだ、うまく自分を表現することができず、俯きがちながらも、ライサの表情から怯えや恐怖が薄れ、信頼と安堵が戻ってきていることをアントニアは喜んだ。彼女は、ライサを刺激しないように、『ドラガォンの館』の話は一切しなかった。聞きたくない男のこと、思い出させるあの場所のことを、ライサは聞かずに済んだ。

 過去にあったすべてと、ライサは切り離されていた。それ以外の人生などなかったかのように、『ボアヴィスタ通りの館』の暮らしだけが、彼女を包んでいた。

 アントニアは、朝食が終わるとどこかに行くことが多かった。そんな時は、彼女は快活に言った。
「また後で会いましょう、ライサ」

 同じ言葉と笑顔が、彼女を安心させた。午前中は、シンチアやルシアの仕事を見ながら過ごしたり、アントニアが用意してくれた本などを読んで過ごすことが多かった。アントニアが戻らないときは、彼と2人で昼食を取る。彼は口数が少なく、アントニアのようにライサの答えやすい話題を振るような努力はしなかった。けれど、ワインの好みを訊いたり、アントニアの渡した本の内容に触れたり、ごく自然に会話をするようになった。

「メウ・セニョール。今朝の曲について教えてくださいませんか」
ライサの問いに、彼はわずかに笑って答えた。
「あれはモーツァルトだよ。ピアノソナタ ハ長調K545 だ。おそらくクラッシック音楽に全く興味がなくても1度はどこかできいたことがあるだろうな」

 その通りで、コンサートなどに行ったことがないライサでも、珍しくよく知っている曲だった。
「K545って、何を表す番号ですか?」

「ああ、ケッヘル番号といってね。モーツァルトの作品を、作曲された順に整理してつけた認識番号だ。19世紀のオーストリア生まれの音楽学者ケッヘルが作品の散逸を防ぐために整理したんだ。当時は、作曲者が自分で通し番号をつけるという概念そのものがなくてね。寡作な作曲者なら演奏記録などで後からでも調べられるだろうが、モーツァルトは多作だったから、後少しでも遅ければ、目録作りは不可能だったろうね」

「じゃあ、あの曲は545曲目なんですね」
「いや、そうではないだろうな。後の研究によってケッヘル番号は何度か改訂されていてね。たとえば最初のK1とした作品の前に後ほど4曲ほどみつかったので、K1a,、K1b、という具合に補助アルファベットをつけて表示することになった。それに、後から偽作だったことが分かった曲もみつかったので、ケッヘル番号だけで何曲目と判断することは難しいだろうな」

 それから、口の端だけで微かに笑うと言った。
「同じことを訊くんだな」

「え?」
ライサは、彼がどこか遠くを見るような目つきをしていることに氣がついた。だが、それは一瞬のことで、すぐに彼はそばに控えているモラエスに合図をした。

「はい。メウ・セニョール」
「今日のコーヒーは、サロンの方に運んでくれ」
「かしこまりました。デザートもそちらにお持ちしますか」
「いや。それはここでいい」

 モラエスは、ルシアに合図をし、彼女は2つのナタス・ド・セウを運んできた。
「ええと、確かこちらが……」
そういいながら、自信なさげにルシアは1つのグラスをライサの前に置いた。もう1つのグラスを前に、彼はルシアにいつものように礼を言った。同じデザートなのに、なぜルシアはあんなことを言ったのだろう。ライサは不思議に思った。

 ひと口スプーンを口に入れて、ライサは驚いた。この館で出されるデザートはいつもとても美味しいのだが、今日のデザートは衝撃的に甘かった。砂糖の量を間違えたのかと思うほどだ。思わず、彼の方を見ると、若干不思議そうにグラスを眺めていたが、何も言わずにそのままデザートを食べていた。

 ライサは、ルシアが置くべきデザートをとり違えたのだと思った。おそらく彼が食べるデザートだけが、通常のものより甘いのだ。彼女は、なんとか最後までそのデザートを食べ終えた。普段よりもずっとコーヒーが恋しかった。

「サロンに来なさい。コーヒーを飲みながら、モーツァルトを聴こう」
彼は立ち上がった。ライサは、コーヒーと聞いて迷わずそれに従った。
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Tag : 小説 連載小説

Comment

says...
更新、お疲れさまでした。

ケッヘル番号、モーツァルト聴きには必須のナンバリングですよね。
ただ、いつもクラシックを聴きながら思うんですけど、なんで各曲にタイトルをつけなかったんでしょうね。タイトルがついている方が、断然、親しみが湧くんですけどね。
ポピュラーだって、『誰それ作曲の歌謡曲第3番』なんてやられたら、味気ないことこのうえないですよね。

と、本筋に関係ないことはこのへんにして。

ほうほう、ライサはついに、22と普通に会話ができるまでになりましたか。
トラウマからの回復という点ではもちろんいいことですが、それを見守る22の表情の変化が、二人の関係の変化を感じさせますね。
そしてひょんなことから、22の秘密(あれってアントニアも知ってるんですかね?)を知ることになったライサ。事情はともかく、こういうことって、お互いの距離感を近づけますよね。
この変化が、どんなふうに物語を動かしていくのか、楽しみです。
2020.09.23 12:45 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

プロの方はK545などと言われて、即わかるんでしょうけれど、私はわかりませんね。
ベートーヴェン以降のように、やはりタイトルがついている方が、わかりやすいです。『皇帝』とか、『月光』とか。もちろん、本人が付けたのではない、というような場合もありますけれど。

この違いは、モーツァルトの時代は、まだパトロンの依頼によって作るタイプの音楽で、自分の芸術作品とは思っていなかったことと関係があるのかもしれませんよね。

なんてことはさておき。
時間を巻いて巻いて表現しているので、あっという間ですが、ライサは日中は錯乱などもしないようになり、普通に会話もできるようになりました。もっとも、まだはっきり出てきていませんが、「握手も含めて男性との接触ができない」問題だけが残っています。それでも、彼女にとって22は特別ですので、むしろ自分から近づいている状態です。

22の秘密は……過去のこと? それとも極甘党のこと? (こちらは秘密もへったくれもないか)
いずれにしても、カルルシュとの確執のことは、アントニア、それからアルフォンソ、23、24もばっちり知っています。
極甘党に関しては、後ほどシーンが裂いてありますが、これはアントニアが発見したことなのです(笑)

まだしばらくこのアントニアを置いてけぼりにした展開が続いていきますが、もう少々お付き合いくださいませ。
(いったい、誰のストーリーなんだか)

コメントありがとうございました。


2020.09.23 21:36 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ライサは順調に回復しているようですね。部屋に入れて座れるなんて、相当の進歩です。回想シーンですから、もっともっと回復することはわかっているのですが、完全に元に戻ることは無いのかもしれませんね。
そして22、ライサの存在は彼の心に何か良い影響を与えているようですね。硬く硬く閉じた彼の心が少しずつ解れてきているようで、読んでいてなんだか嬉しいです。彼のそっけない言葉の中や行動にそれを感じています。
「おじさま」もきっと嬉しいし、ライサに頼られるのもきっと嬉しいんですよ。

アントニアはなんだか精神カウンセラーみたいになっていますね。『ボアヴィスタ通りの館』はドラガォンシステムの厄介ごとの避難場所、ケア施設みたいです。でも、彼女には結構向いていたりして・・・。
カウンセラーをしながら忙しく外出しているし、マイア、彼女の代わりは大変だぞ。

この物語は一気読みをしていないせいか、過去のエピソードが飛んでしまっていることが良くあります。同じことを訊いたのは誰だったっけ?22って超甘党だったっけ?
デザートの出し方や、何も言わずに食べる22の態度も気になります。
このエピソードからどのように展開していくのかわかりませんが、物語を少し遡って点検しておこうと思います。
2020.09.24 11:26 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

そうですね。
かなり順調に回復しています。だから、家に帰れたわけですけれど。
完全な回復というのは、難しいかもしれませんね。そもそも人間の心と体は、「これをもって正常」と断言できるようなものでもないですし、「だいたい大丈夫で、自分では正常だと思っている」で生きている人が大半かもしれませんよね。私も含めて。

22は、どちらかというと、これまでは自分が「腫れ物」状態だったわけなのですよ。周りにしてみたら、あの件以来、彼が意固地になって引きこもった事情をどうすることもできない以上、「面倒なお方」的に距離を持って仕えているわけです。で、本人もそれを感じてよけい意固地になっていたのですけれど、今回初めて、自分がケアする側にまわったわけですよね。しかも、彼女が被害にあった事情は、彼と同じく「ドラガォンの掟」に起因しているわけですから、めずらしく協力的に世話をした、ということもあるのかもしれません。さらにいうと、マヌエラの若い頃にやたらと似ているし。で、その行動が、彼自身を変えていくことになったわけです。

アントニアは、自分も問題を抱えていますが、それでも兄弟たちと違って、全く問題なく育ちました。カルルシュやアルフォンソの虚弱体質も持たなかったし、インファンテたちのように精神的にこじれたりもしなかったですし。同じ両親から生まれても、インファンタにはもっと自由があり、与えられた仕事である意味自己実現をすることもできる、男子たちよりも恵まれているのかもしれません。マイア……ま、この人は、同じようにやるのは無理でしょう。カルルシュ&マヌエラの時と違って、23がしっかりしているし、周りもいいサポートがいるから、なんとかなるでしょう、きっと。

さて、サキさんが引っかかっていらっしゃる「同じことを訊いた」具体的なエピソードは特にありません。
これは前作を読んでいる人なら、誰のことか想像できるだろうなと思ったので、あえて書きませんでした。
あまり細かいエピソードを重ねすぎると、どんどん無意味に長くなるので。

甘党の話は、「約束の花火」という外伝で出してはいますが、きちんとしたエピソードで触れるのは『Filigrana 金細工の心』の本編で、ずっと後になります。というか、そのずっと後のエピソードを、私がかなり前に書いていたので、「約束の花火」にそれを入れて遊んでいたのです。

基本的に、ものすごく重要なことについては、わざわざ読み直さなくてもわかるように近くに書くか、後ではっきりと触れる内容ですので、「これ憶えていないけれど、説明が書いていない」ということは大して重要ではないと思っていいですよ。とはいえ、いまさら「黄金の腕輪ってなんのこと?」といわれても困りますけれど(笑)

コメントありがとうございました。
2020.09.24 21:10 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは(*^_^*)
ここのところ、咳はとまらないわ、実家との往復回数が半端なくて、さらに会議やら何やらパソコンを見ることが多くて、目がしんどくて、ブログ更新のままならない私ですが、なんとか生きております。新車になって約6か月なのに、もう1万キロが近づいてきているこの頃、先日は、父がデイサービスにいっている間に、母を連れ出して志明院まで行ってきましたよ~。鐘楼、直っていました。夕さんにもよろしくお伝え下さい、とのことでした(*^_^*)

と、個人的な話はともかくとして。
この話はどこへ向かうのかしらと妙なところでドキドキしてます。えっと、アントニアがヒロインだっけ? じゃなくて22がひねくれているって話だっけ? あれ? ライサの話だっけ? 
ただ、マイアのお話では掟のマイナスポイント?を感じさせるのは23が慌てて宣言したあたりでちらりと感じられただけに留まっていたように思いましたが、今回は掟の非情なところが先にバンバン出てきているので、いつも夕さんがおっしゃっておられるように、その枠組みの中で人がどう生きているか、というテーマが色濃く出そうだなぁと感じます。

22もライサを無視できるほどにはひねくれていなかったと言うことで、安心しました。マヌエラやカルルシュへのわだかまりは消えないにしても、アントニアを遠ざけないし、ライサが似ていてもいやがっているようでもないし。まぁでも、夕さんがここで終らせるわけもなさそうだから、まだひねくれエピソードが隠れているのかも?
「同じことを訊くんだな」がいささか気になりました。懐かしがっているみたいな言葉だけれど。心の中、穏やかではなさそう。

K545、ピアノ再開時に40年ぶりに弾いてみたら、インテンポで弾けなくてうろたえました。年を取ると見事に指が回りません。モーツァルトって、楽譜の面構えは簡単そうなのに、指定されたテンポで弾くのはとても難しい。でも、モーツァルトが意外に22に似合いそうな気がして、むろん、モーツァルトの表向きの顔とは違う部分も含めて。
なにせ、京都に住んでいたころに時々行っていた喫茶店(たしかモーツァルトだったかアマデウスだったか)のザッハトルテが異様に甘くて(甘いものだけれど)、22の甘党と重なっちゃったんですね~

また続きを楽しみにお待ちしています。
2020.09.27 16:08 | URL | #nLQskDKw [edit]
says...
そういえば、他人のピアノを聴く機会は全くなくなったな。
・・・ということを、小説を読んでいて思った。
いつも余談ばかりのコメントですいません。。。

ピアノを聴くことで色々考えることはできるだろうな。
ってことは、よく感じます。
人生について考えることもあるだろうし、
仕事の意義を考えることもあるだろうし。
またクラッシックのコンサートとか言ってみたいなって思いました。
2020.09.28 12:03 | URL | #- [edit]
says...
こんにちは。

お返事遅くなってごめんなさい。
うわ。彩洋さん、あいかわらずすごい生活が続いていますね。釈迦に説法だとは思いますが、ご無理なさらないでくださいね。
ああ、でも志明院さん、鐘楼直ったたのですね! 嬉しいニュースです。ご住職やみなさまの熱意と、それに加えて、神聖なるものの回復力を感じます。どうぞよろしくお伝えくださいね。

さて、この話も「誰がヒロインだよ」みたいなことになっていますが、すいません。ライサの件はストーリーの要だったりします。でも、再来週で1度引っ込みます。

第1作は、いくらマイアや23がグルグルしようと、わかりやすい解決策(しかもハッピーエンド)があって読者も「そろそろ氣付けば」と突っ込むだけで済む話でしたが、こちらはそうはいかない話です。同じインファンテでも、実は23ほどラッキーな人はいなくて、大半のインファンテはそうではない中でやはり『運命との和解』を探していくことになるのかな、というところが出発点になっています。

22の意固地な態度は、この館に遷ってきてからかなり軟化しています。かつての彼だったら、ライサがどうなろうがガン無視していたと思います。「ドラガォンの問題なんだから、ドラガォンでなんとかしろ。私は関係ない」的に。前作の1件から、彼が現在に至るまでの変化が、このストーリーの要でもあります。

22は、けっこう雑食家というのか、モーツァルトもベートーヴェンもショパンもラフマニノフも何でも弾いていますね。ただし、本当の意味のプロとは違うので、自分の好きな曲ばかり選んで弾いています。金はあり暇を持て余した人の趣味と言うことで。

東京の私の実家のあった駅のとなりに『モーツァルト』というウィーン風喫茶店がありました。同じ系列のお店かな。あの店の、というか本格的なウィーン風のお菓子って、どれもメチャクチャ甘くて重いんですよね。マジパンなんて、そんなにたくさん食べられないってば、といいたくなるようなお菓子が多いです。うん、22なら、あれは喜びそうです。

あと2回の更新で、ライサの回想、おしまいです。また読んでくださると嬉しいです。


2020.09.29 10:51 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こちらにもありがとうございます。

ピアノの楽しみって、もちろん弾くことにもあるのでしょうけれど、弾けない私は聴く楽しみを満喫していますね。

普段は、わりとオーケストラの曲を中心に聴いているので、ピアノのソロのCDは限られているのですが、高校の時の憧れの先輩が、プロのピアニストになったので、彼のCDの中で好きな曲を作品中に登場させることが多いかもしれません。ストーリー的に、独奏か室内楽くらいの規模の方が話を膨らませやすいので。今はコロナで限られていますが、そんなわけでぴあのの演奏会を聴きに行くときは、ネタ探しをしたりしています(笑)

コメントありがとうございました。
2020.09.29 22:13 | URL | #9yMhI49k [edit]

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