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Posted by 八少女 夕

【小説】Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』-3-

『Filigrana 金細工の心』の5回目『グラン・パルティータ』の最終回です。ライサの回想シーンは、ここまでです。

第1作『Infante 323 黄金の枷 』の「(20)船旅」で、妹のマリア視点で語られているように、充分に回復したライサは家に戻り、3か月の世界旅行に招待されました。今回の後半部分は、その船旅が終わってすでにPの街に戻ってきてからです。



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Filigrana 金細工の心(5)『グラン・パルティータ』 -3-

 その苦悩を、今の彼は感じさせなかった。自嘲的に口の端をゆがめただけで、得ることのできない喝采も、演奏することのできなかった曲への執着をも手放し、録音されたものを観客として聴くことを受け入れていた。

 特に『グラン・パルティータ』は、彼のお氣に入りらしく、日を改めて何度もかけていた。第3曲のアダージオを聴くときに、決まって瞼を閉じてアームチェアの背にもたれかかった。その口元に優しい微笑が浮かび上がっている。ああ、本当にこの曲がお好きなんだわ……。ライサは、その彼の様子をじっと眺めた。

 レースカーテンがそよ風に揺れている。優しい木漏れ陽がアダージオに合わせたかのように、サロンに入ってきた。世界にはほかに誰もいない、2人だけでいるかのように感じた。つらいことも、苦しみも、境遇の差も、そして、過去も未来も何もない、平和で美しい時間が流れていた。

 永遠に思われた悪夢の時間を経験したからこそ、ライサにとってその至福は、なにものにも代えがたかった。愛されていると思いこみ有頂天になったかつてのライサは、相手が何を愛しどんな時間を好むかなど考えたこともなかった。相手を見つめて物言わずに座っているだけの、泣きたくなるような愛しい時間が、どれほど心を温かくするのか、ライサは生まれて初めて知った。

* * *


 ライサは、暗闇の中で窓からわずかに差し込む月光を眺めていた。彼女が目覚めてもピアノの音が響くことはもうない。サロンで、彼とドンナ・アントニアの息の合った演奏に耳を傾けることも、彼と2人でともにCDを聴くこともなかった。『ボアヴィスタ通りの館』で繰り返される、使用人たちにまるで貴婦人のように扱われた生活も、もう夢のように遠かった。

 生まれてからずっと彼女を縛り続けていた黄金の腕輪が外され、『ドラガォンの館』に勤める前まで住んでいた家に送り届けられた。《星のある子供たち》の存在も知らない、養父母とその娘マリアの住む家に。過去にあったすべてのことを口にしない新しい誓約だけが、彼女を苦しめたすべてとの訣別を約束し、かつ、わずかな名残そのものでもあった。

 ドラガォンからペドロ・ソアレスがやって来て、ドン・アルフォンソの決定を伝えたあの日、彼女はそれが何を意味するのかよく把握していなかった。養父母やマリアと再び会えるとは考えていなかったので、とても驚くと同時に嬉しかった。『ドラガォンの館』で起こったことに対する、当主ドン・アルフォンソの謝罪やそれに伴う特別措置についても、人ごとのように聞いていた。

 やがて、自分はいつまでもここにはいられないのだということに思い至った。セニョール322や、ドンナ・アントニアと違い、自分にはここで召使いに傅かれるべき理由は何もなく、充分に回復したなら出ていかなくてはならないのだと、いや、本来の職務、つまり『ドラガォンの館』の召使いとして雇われた本分を果たさねばならなかったのかと。

「本来ならば生涯外されることのない星2つの腕輪を、ドン・アルフォンソは例外として外されることを決定しました。これにより、ドラガォンとの雇用契約はもちろん、《星のある子供たち》としてのすべての制限からもあなたは自由になります。ただし、沈黙の誓約だけは生涯にわたり厳守いただきます」 

 ライサは、戸惑いながら頷いた。目の前に座るペドロ・ソアレスもまた男性であり、近くにいるだけで強い緊張ををもたらした。話を1秒でも早く終えてほしかった。養父母の家に戻る日程も、それからのことも、まるでエコーがかかったかのように遠くで響き、自分自身の人生に大きな変化が訪れていることをうまく認識できなかった。

 車に乗せられるときの優しいアントニアの抱擁も、シンチアとルシア、それにディニス・モラエスが遠くから微笑みながら別れを告げてくれた姿も記憶に残っているのに、セニョール322との別れのあいさつが思い出せない。

 開け放たれた窓から、白いレースカーテンが揺れて見えた。ヴァイオリンの音色が遠く響いた。ライサは、彼が窓辺に立ってくれることを強く望み、車窓からわずかに身を乗り出した。

 車は静かに走り出し、門が閉められた。『ボアヴィスタ通りの館』の水色の外壁が遠くなり、やがて視界から消えた。風が最後まで届けていてくれたヴァイオリンの音色も、やがて途切れた。

 養父母の家に車が乗り付けられ、妹のマリアが飛び出してきて抱きついたときも、ライサの心はまだこちら側の世界に戻ってきていなかった。朝の目覚めでピアノの響きを求め、午後のひとときや夕べの憩いにここにいるはずのない人びととの語らいを求めていた。

 それから半年近く経っても、彼女の心はまだどこかにたゆたっている。左手首の違和感はまだ消えない。もう存在しない黄金の腕輪のあった場所が、忘れ物を思い出させようとするかのように、主張している。目が覚める度に、聞こえるはずのないピアノに耳を傾け続けている。

 ライサは、月の光が戯れる窓辺を眺め、腕を交差して自らを抱きしめてベッドに座っていた。
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Tag : 小説 連載小説

Comment

says...
更新、お疲れ様です。

ライサ、まだ完全に回復したわけじゃないですね。特別措置でドラガォンの呪縛から解放されたと言っても、この分じゃ将来いろいろと困りそう。船旅も、楽しんだのはマリアの方だったし。ブラックカードや豪華な旅行やらではどうにもならない傷なんでしょうね。
そして、何か月たっても館での生活を引きずっているライサ、ほんとうの癒しはもはや22やアントニアと一緒にいた時間だけだったのでしょうね。

グランパルティ―タを聴いているときの描写、そして館を離れるときの描写、とても素敵でした。

次話からは、アントニアのお話になるんでしょうか。ここからどういう展開になっていくのか、すごく楽しみです。
2020.10.07 14:11 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

そうなんです。
そう簡単には全快しません。それに、もともとシャキシャキした人じゃないですし。
ライサは、養女です。マリアが騒いだところをみると、養父母は《監視人たち》ではないようです。
そして、自分の素性や、養女に出された経緯を知らず、《星のある子供たち》ゆえの数ある挫折からアイデンティティー・プロブレムも抱えているようです。その上で、自分と同じ腕輪をした人たちのいる場所でトラウマを受け、世間に突如として放流されてしまい、戸惑っています。

今回まではライサ視点ですので、彼女の感じた22の印象が描かれています。
つまりめっちゃ大人で美化された存在になっています。
描写を褒めていただき、ありがとうございます。嬉しいな〜。

次回は、本編で初めての22視点です。お楽しみに! あ、でも、ちょっと別の作品が来るかも。

コメントありがとうございました。
2020.10.07 19:12 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
ライサ、とても不安定な精神状態のままいるんですね。
22はライサの関係がどういうものなのか、サキには上手くわかりませんが、二人で過ごす時間が彼女の精神を安定させるのにとても役立ったというのはわかります。
たゆたっている・・・そう、そんな感じ、わかるような気がします。
もう暫くは精神をゆっくりと休める必要があるということなのでしょう。豪華な船旅もその感覚のまま過ごしたでしょうから、フワッとした記憶でしか残っていないんだろうな・・・。
ああ、もったいない(また、俗なことを・・・by 先)
まだ普通の人として社会に復帰することは無理そうですが、ライサに気力がよみがえってくることを祈っています。

さて、ここで一段落したようですが、次はアントニア登場?新しい展開を楽しみに待っています。
ライサのその後も知りたいんだけれども・・・。
2020.10.09 12:18 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

そうです。そんな簡単に全快はしません。
しかも、もう誰もサポートしてくれないし、守ってもくれないんです。
思うがままにあったことを話すこともできませんし。

ただ、彼女はおそらくその状態を自ら冷静に分析することもまだできていないようです。
もやがかかった精神状態は、おそらく彼女が自衛のためにそうせざるを得なかったものなのかもしれません。

そして、22の存在の話ですが、彼女にとっては、悪夢を打ち消すように目覚めの時に聞こえていたピアノと、22のいた世界が、ものすごく特別な存在として刻まれているのですね。

船旅とその後のこともちゃんと出てきますので、ご安心ください。

次回は、本編初の22視点です。その前にいくつか別の作品が入りますが……。

コメントありがとうございました。
2020.10.09 19:08 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
色々なことを含めて、余韻、という言葉を想起させる。
そんなお話だったような気がします。
思い出、ということもあるんでしょうけど、
音の残渣が聴こえるような、そんな文章でした。

私もピアノをやっていた頃は、そんな感じだったな。
私は他人に聴かせるということに興味がなかったので、
練習で一人でやっているときが好きでしたね。
その練習が終わった後の余韻は他には代えがたいモノでしたね。
それだけでもピアノをやっていた甲斐はあったかな。
2020.10.17 12:53 | URL | #- [edit]
says...
こちらにもありがとうございます。

そうですね。
このシーンは、もう館を出てきてしまったライサが過去を回想していますので
その余韻のような感じを目指しています。

お1人で弾くのがお好きだったら、きっと今でもときどき弾かれたらいいのではないでしょうか。
お時間のある時に、ご自分のペースで練習することができますよね、きっと。

コメントありがとうございました。
2020.10.17 17:05 | URL | #9yMhI49k [edit]

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