心の黎明をめぐるあれこれ(11)流転と成長と
第11曲は『Sukla-Krsne』使われている言語はサンスクリット語です。
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心の黎明をめぐるあれこれ
(11)流転と成長と related to 'Sukla-Krsne'
昔、道を歩いていたときに見知らぬ人に呼び止められて分厚い本を手渡された。レモンイエローの表紙のペーパーバックで、日本語の本なのに横書きだった。それはサンスクリットの聖典『バガヴァッド・ギーター 』で、クリシュナ意識国際協会という団体による翻訳本だったようだ。
その人は多くを語らなかったので、どんな意図で私にそれを渡してくれたのか、いまだにわからない。自分でほしくて入手したものでなく、本の体裁もいかにも新興宗教の勧誘っぽい怪しさに満ちていたせいで、私はその本をきちんと読むことはなく、どこかにやってしまった。ただ、その時に『バガヴァッド・ギーター』という言葉が脳に刻まれた。
もともと私はインド神話に興味がなかったわけではない。クリシュナ神という名前についても知っていたし、高校の世界史の授業で聞きかじったインド二大叙事詩の1つ『マハーバーラタ』についても、どちらかというともっと知りたいと思っていた。
韻文詩の形を取った『バガヴァッド・ギーター』が、『マハーバーラタ』の一部として収められていることを知ったのは、かなり後になってからである。簡単な内容を調べると「戦争に向かう王子が、親族・友人と戦うことに迷いを感じていると師であるクリシュナに相談すると、躊躇せずに義務(殺害)を遂行せよと諭される」と、書かれていて「なんて攻撃的な聖典だ」と、またしても興味を失ってしまった。
しかし、どうやらこのインドの聖典が伝えたいことは、たんなる古代インドの政局の話ではなく、宗教と哲学の話であるらしい。かのマハトマ・ガンジーも「悪徳と戦う高尚な精神の寓意である」と注釈をつけているとのことだ。
ともあれ、第11曲でクリストファー・ティンが選んだのは、『バガヴァッド・ギーター』の8章からの引用である。彼が用意した英訳は、調べてみるとかなりの意訳のようで、最初に読んだときには意味がわからなかった。それで、他の訳を求めてネットサーフィンを繰り返していたら、どうやら私がかつて手渡されたものと同じ、A・C・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダによる翻訳の和訳『バガヴァッド・ギーター あるがままの詩』が公開されているサイトに行き着いてしまった。
クリシュナへの帰依に対する私の意見や、この団体がカルト教団であるかどうかはここでは置いておいて、少なくともこの翻訳は、他にも見つけた英訳同様に意図するところが明確でわかりやすかったので、歌われている8章の内容についてはクリストファー・ティンの載せた英訳よりもこちらを参考に筆を進めたい。
8章には、こんな内容が綴られている。「この世を去った者がたどる道は2通りある。明るい道と暗い道である。明るい道を行く者は至高の存在と一体化し2度と戻らないが、暗い道を行く者は再び転生する。適切な時期、真理を知ってこの世を去れば、戻ってこずに済むのだから、うろたえずに献身に励め」
さて、ここで語られている「転生」である。マンガやラノベ(ライトノベル)でおなじみの言葉だが、そもそもの東洋思想での概念は、似て非なるもののようだ。
古代インドにおける「転生」とは「サンサーラ(輪廻)」のことで、生まれ変わりを流転として捉える。生物は永遠にその
一方で、「リインカーネーション」と呼ばれる転生は、19世紀フランスで生まれ欧米に広まった考え方で、転生を繰り返すことで霊的な進化をもたらす、魂の成長物語のように肯定的な考え方だ。
実は、私はずっと古代インドの思想とニューエイジ系の思想を混同していた。つまり、「輪廻」と「リインカーネーション」を同じものだと思い、「輪廻」を魂の成長の過程だと思っていた。
それ以前でも日本では、神道的死生観と仏教的死生観が混在していたので、やはり古代インドの転生の考え方とは違うものが信じられていたようだ。祖霊集団からの生まれ変わりが信じられたり、仏教的な因果応報を説明する輪廻転生が説かれたりした。
子供時代に私が知った輪廻転生論は、日本独特の思想にフランス生まれのニューエイジ思想も混じった、漫画的な考え方だったらしい。私が最初に作品として描いたマンガも、じつは輪廻転生ものだった。タイムマシンで過去に行く主人公が行く度に自分の前世と出会ってしまうという、実にしょうもない作品である。しかし、十代のはじめの子供がショウワノートに描いていた作品だ。稚拙なのはしかたない。
その作品に出てきた主人公の前世は、顔が同じでなぜか名前の読みもことごとく同じという設定だったのだが、それ以外は何のつながりもなかった。つまり、その前世が何かをしでかした因果応報により現代の主人公が何らかの制約を受けているわけでもなければ、過去から何かを学んで魂が成長することもなかった。要するに、名前と顔だけが偶然同じ他人と言ってもいいキャラクターがたくさん出てくるだけの話だった。
今、私がその作品をリライトするとしたら、どのような『転生思想』を採用するだろうか。おそらくインドの思想は選ばないだろう。そもそも古代インドでは女性は転生せず、解脱するために『ヴェーダ』を学ぶことすら許されていなかった存在らしい。たとえ主人公を男性に変えても、六道を彷徨い苦しむ苦行としての輪廻を題材に書きたいかと問われると「それでなくてもいいかな」と思ってしまう。
ニューエイジ系の「リインカーネーション」ものなら、意味があるかもしれないと思う。ただし、本人の魂の修行を描くことに抵抗はないものの、何も前世と現世と両方を書くこともないかなと思ってしまうのだ。1度の生のみを描く物語よりも多くのことを語れるかというと、自信がない。
大人になってから転生を題材として書いた物語は1つだけで、それが『樋水龍神縁起』だ。かつての漫画作品とは異なり、こちらには過去と現在には大きな関わりがある設定だ。ただし、「リインカーネーション」ものとして書いたわけではない。つまり、前世と現世において魂が成長したかというと、ヒロインに限定すれば皆無で、主人公の方は若干の氣づきはあったかもしれないが、大して意味はない。(そもそも魂の成長の話ではなく縁と愛の物語として書いたものだ)
むしろ、この小説に関しては、同じ転生でも「サンサーラ(輪廻)」の方に近い書き方をしたと、分析している。少なくとも結末に関していえば、『バガヴァッド・ギーター』8章の教えに近いものになった。
何度か書いているように、『樋水龍神縁起』は私の『般若心経』の解釈を世界観に使った作品だ。仏教には古代インドの思想の影響があるから、概念に親和性があるのも当然だ。とはいえ、意図して寄せたわけではないので、9年も経ってから古代インドの思想との近さを発見し、感慨深い。
さて、小説のことはともかく、私の人生における『今生』はどんな意味を持っているだろうか。私自身には『前世の記憶』とやらは皆無なのでそもそも魂が存在して転生していくものなのかどうかを判断することはできない。もちろん、ラノベやマンガでよくある「過去に転生して、現代の知識をもとに大出世する」都合のいい「転生」はありえないとわかっている。さらにいうと、特定の性別や民族・階級に属する者だけが転生するというような社会的な意図を感じる思想を100%信じることもできない。
とはいえ、インドに限らず、世界の多くで個別に伝わる「生まれる前の記憶」の話を総合すると、「絶対にあり得ない」と断言することも難しいのではないかと思っている。だから、「(ないかもしれないけれど)あるかもしれない」という考え方をとって、とりあえず『今生』を生きている。
それは、「死んだらどうせおしまいなんだから、好き勝手しておこう」というような刹那的な生き方にブレーキをかけるけれど、一方で、『次の人生』のために『今生』を犠牲にする類いのものである必要もない。
私の『今生』は、『流転』に近い。それも過酷な運命に弄ばれてしかたなくこうなったわけではなく、自分の意思で浮き草のような人生を選び、ここにいる。名誉も実績も手にすることはできず、明日の身が保証されているわけでもないが、過去を悔やんでいるわけでもない。あちこちで見たこと、経験したこと、そして現在の自分に至るまで学んできたことは、どれも印象深く必要だったと感じている。「転生は流転であり苦行である」とする「サンサーラ(輪廻)」の概念がピンとこないのは、そのせいかもしれない。
永遠の光、全能の存在と一体化して肉体や時間に縛られなくなる解放は、おそらく素晴らしいのだろう。その時が来たら、私の魂もそれを実感するのかもしれない。(まずあり得ないと思うが)その歓喜の瞬間はすぐそこまで来ているかもしれない。だが、それまでは、私は「リインカーネーション」説の方をとり、流転が苦しいか楽しいかにこだわらず、魂をわずかでも成長させることができれば、それでいいのではないかと思っている。
(初出:2020年11月 書き下ろし)
追記
【歌詞はこんな意味です】
sukla-krsne gati hy ete
jagatah sasvate mate
ekaya yaty anavrttim
anyayavartate punah
ヴェーダによれば、この世界を去るにあたり二つの道――明るい道と暗い道がある。明るい道を行く人は二度と戻らず、暗い道を行く人は、また戻ってくる。 8.26
yatra kale tv anavrttim
avrttim caiva yoginah
prayata yanti tam kalam
vaksyami bharatarsabha
バーラタ族で最も優れた者よ、ヨーギーがこの世を去ったのちに、再生する時期と再生しない時期について、私はここで説明しよう。 8.23
agnir jyotir ahah suklah
san-masa uttarayanam
tatra prayata gacchanti
brahma brahma-vido janah
火神の支配下にある時、日光が輝く時、一日のうちの吉祥な時間帯、月が満ちていく二週間、太陽が北を行く六ヶ月――至上ブラフマンを知る者がこの時期にこの世を去れば至上主のもとに到る。
dhumo ratris tatha krishnah
san-masa daksinayanam
tatra candramasam jyotir
yogi prapya nivartate
煙っている時、夜、月が欠けていく二週間、太陽が南を行く六ヶ月――この時期に肉体を離れた神秘家は月の惑星に行くが、再び地球に戻ってくる。 8.25
naite srti partha janan
yogi muhyati kascana
tasmat sarveshu kaleshu
yoga-yukto bhavarjuna
アルジュナよ、たとえこの二つの道を知っていても献身者は決してうろたえない。故にたゆまず献身奉仕にはげめ。 8.27
訳文は下記の本より転用しています。
『バガヴァッド・ギーター : あるがままの詩』
A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ/著
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Comment
そんな昔に偶然に手にした経典に、まったく違うところからまた関与するなんて、偶然でしょうけど驚きますね。
輪廻転生については、私もぼやっとした理解しかなくて、輪廻は同一性のある魂が同じ運命を繰り返すこと、転生は同一性のある魂がまったく違う人生を送ること、くらいな認識でした。
転生を「苦役」や「罰」のように言う『バガヴァッド・ギーター』の内容は、ちょっと驚きですね。死で無になることが怖くて、人は輪廻や転生にすがっているのだと思っていたので、死が至高の存在との結合であり帰らないのが良い、というのは斬新でした。
「リインカネーション」は、輪廻と転生を繰り返しながら魂が成長していくお話だとすると、わりとよくあるモチーフですね。もっとも、ラノベやマンガやアニメでもてはやされている転生は、ほとんどがご都合主義全開な代物ですが、あれらはあくまでもエンターテイメントですので、面白ければそれでいいのだと思います。
御作『樋水龍神縁起』では、転生は縁と同義でしたね。かつて犯した罪を、何代もあとの転生者が清算するという話は多いですが、ああいうお話はあまりないように思います。
とまれ、生きている間は、『魂をわずかでも成長させることができれば、それでいいのではないかと思っている』というのは、いいですね。多くの人が、意識するとしないとに関わらず、そういうことを思っているのはないかと思います。ほんと、そういう意識をもって、毎日を生きていきたいものですね。
ところで、「十代のはじめの子供がショウワノートに描いていた作品」については、いずれ拝見できるものと期待しているので、近々の公開をお願いしておきます(厚かましいってw)
まあ、本当にただの偶然なんでしょう。
インドの聖典といったら、『ヴェーダ』が王道ですから、クリストファー・ティンが『バガヴァッド・ギーター』を選んだこと自体は不思議でも何でもないですしね。
さて、そもそも「輪廻」と「リインカーネーション」が同じではなかったことに、めちゃくちゃ驚きましたよ。音も似ているから翻訳だと思っていました。どちらも転生だけれど、「輪廻=サンサーラ」と「リインカーネーション」と全く別の概念だったとは。ちなみに女性が転生する場合は「リインカーネーション」一択のようです。どの男も女から生まれてくるのに、昔の宗教って女を無視し過ぎです(笑)
最初の「転生もの」が駄作過ぎたせいで、それから転生ものはずっと書いていなかった私なのですけれど、『樋水龍神縁起』で書いた時には「あまり成長していないな、私」ってちょっと思いましたよ。どうも「ご都合主義」の薫りがプンプンしてくるので、「転生もの」は今後はあまり扱わないと思います。むしろTOM−Fさんのところみたいに、ずーっといる、みたいな方がいいなあ。って、書きませんよ、もちろん!
「十代のはじめの子供がショウワノートに描いていた作品」は、あれこそ救済のしようもない黒歴史なので登場予定はないですが、中国の仙人ものなら、まあ、ときどきお遊び系ででてくるかも。そういうどうでもいいキャラや設定は、まだあちこちにゴロゴロしているなあ。
次回、このエッセイもついに最終回です。最後まで読んでいただけると嬉しいです。
コメントありがとうございました。
私は解脱しなきゃいけない悪いものぐらいしか知りませんでした
でもそうなるとどっちも物語でしかないということを受け入れないと
お互いの信者は永久に分かり合えないような…
信者はそんなことは受け入れないんでしょうけど…
ネットの怪しげな陰謀論ですら信者が生まれるぐらいですし…
ま、そもそも証明されていない事象(?)なので、誰かが「転生ってこということなの」と定義したってことでしょうかね。
「六道を彷徨い、人間様になれるかどうかはわからない」という設定そのものが「人間最高」と思っているということですから、ちょっと失礼かな、と思ったりもしますね。
転生の定義については、私の理解だけではちょっと心許ないですから、お姉さまのお友達キョウカさんあたりに、詳しく教えていただくといいかもしれませんね!
きっと蕩々と語ってくださるかと……。
コメントありがとうございました。
うんうん、生を終える瞬間には、次の生のことはどちらにしても分かりませんし、たとえ転生したとしても私みたいに憶えていない(確率でいったらそうなる方がずっと多いはず)場合は、前世について後悔することは全くないのだから、とりあえず現在の日々を後悔なく生きればそれでいいってことなのかもしれませんね。っていうか、来世に対して備えるにしても、どっちにしても同じ(現在の日々を後悔なく生きる)しかできないのだから、同じこと?
ところで今の人生と比較しても、私はたとえばお猫様の日々の方がずっと素敵に見えて、「サンサーラもわるくないかも」と思ってしまうんですが……。
コメントありがとうございました。
そのころは???って感じになって、すぐに捨てた記憶がある。
今考えてみれば、普通の聖書なので、読んでから捨てれば良かったな。。。
って思ったりします。
学生の頃は日本の古典もよく読んでいたのですが、
今は読んでないな~~。
日本に住むので、日本の神話とか古典もまた読んでみたいな、
・・・と思いますね。
あ、多分、ご存知でしょうけど、グッゲンハイム小説終わりました。
暫く(多分2年ぐらい)、普通の小説を掲載するので、
よろしくお願いします。
12月になると、また「クリスマスのバカヤロー!!」を掲載します。
今年一年も早いモノで終わりますね~~。
ま、聖書は読みたければいまは簡単にネットやアプリで読めますしね。
また、海外のホテルでは、枕元に置いてあったりしますよね。
日本の古典も原典で読むのは大変なのですけれど、たとえば古今物語や源氏物語などはとてもいい訳がたくさん出ていますから
「読書の秋」と決め込むのもいいかもしれませんね。
ああ、もう「クリスマスのバカヤロー!!」の時期なんですか。
一年早すぎますね。
コメントありがとうございました。