【小説】夜のサーカスと淡黄色のパスタ
今日の小説は『12か月の店』の8月分です。このシリーズでは、このブログで登場するさまざまな飲食店を舞台に小さなストーリーを散りばめています。
今回の舞台は少しイレギュラーで、定番の店ではありません。北イタリアの実際に私が行ったトラットリアをモデルに書いた話です。案内人は「夜のサーカス」のステラ&ヨナタンのコンビです。

【参考】
![]() | 「夜のサーカス」をはじめから読む あらすじと登場人物 |
夜のサーカス 外伝
夜のサーカスと淡黄色のパスタ
その村は、アペニン山あいのよくある佇まいで、特徴的な建造物もないため観光客も来ない。村はずれに小さなトラットリアがぽつりと建っているのだが、夕方ともなるとかなり遠くの村やあたりで一番大きい街の住民も含めてたくさんの客で賑わっている。
ゴー&ミヨの星があるわけでもなければ、格別しゃれた料理がでてくるわけでもない。外観はどちらかというとくたびれており、テラスのテーブルや椅子は味氣ない樹脂製だ。客たちの服装も仕事着のまま出かけてきた風情、多くが知りあいらしくテーブルを跨いで挨拶が飛び交っていた。
夕方の一刻、奥から腰の曲がった女性が出てきて、戸口の小さな丸椅子に座ることがある。実は、この女性の存在こそがこのトラットリアにこれほど客を集めているのだ。彼女は、店主の母親で今年で93歳になる。そしてかつてはこの地域の多くの女性が作っていた手打ちパスタを昔ながらの製法で作ることのできる唯一の存在なのだ。
「こんばんは、ノンナ・チェチーリア。私を覚えている?」
ポニーテールに結った金髪を揺らして語る少女をじっと見つめて、彼女は首を傾げた。
「あんたのことは覚えていないけれど、マリ・モンタネッリにそっくりだね。もしかして、あの小さかった娘かい?」
少女は金色の瞳を輝かせて答えた。
「はい! 娘のステラです。前にここに来たの10年以上前でしたよね。お久しぶりです」
「そうかい。ずいぶんと大きくなったね。そんなに経ったのかねぇ。マリはどうしている? いまでもバルディにいるのかい?」
「はい。ずっとバルを続けています。今週からボッビオで興行だって言ったら、絶対にここに行けって。私、ノンナ・チェチーリアのトラットリアがこんなにボッビオに近いって知りませんでした。ママがノンナにぜひよろしくって」
老女は「そうかい」と皺の深い顔をほころばせて、少女の横に立っている青年をチラッと見た。ステラは、急いで紹介した。
「あ、彼は一緒に興業で回っている仲間で、ヨナタンです」
「そうかい。どうぞよろしく」
チェチーリアは、礼儀正しく頭を下げた青年に会釈を返した。
「ところで、ステラ。興業って、何をしているんだい?」
「サーカスです。私、ブランコに乗っています」
「ああ。チルクス・ノッテとやらが来ていたね。お前さんがブランコ乗りになったとは驚いたね。こちらのお兄さんもブランコ乗りかい?」
「いいえ。僕は、道化師兼ジャグラーです。小さなボールを投げる芸をします」
「そうかい。あんた、イタリア人じゃないね。パスタは好きかい?」
「はい。イタリア料理はとてもおいしいと思います」
「ヨナタン。ここのパスタは、他で食べるパスタよりも何倍も美味しいの。びっくりすると思う」
そうステラが告げると、チェチーリアは楽しそうに笑った。
「おやおや。買いかぶってくれてありがとう。昔はこのあたりでも、家庭ですらどこでもあたしみたいにパスタを作っていたものだが、作るよりも買ってきた方が早いと、1人また1人と作る人は減り、ついにあたし1人になってしまってね」
そう言っている横を、ウエーターや店主が次々とパスタの皿を持って厨房から出てきた。先客たちは湯氣を立てる淡黄色のパスタに早速取りかかっている。
ステラとヨナタンも案内された席に座り、小さなメニューカードを見た。手打ちパスタのプリモ・ピアットはこの日は3種類だけで、平たいタリアテッレ、両方の端が細くなっているショートパスタのトロフィエ、そして小さな貝のようなオレキエッテだ。
悩んだあげく、タリアテッレを魚介のトマトソースで、トロフィエをハーブのソースで頼み、前菜にはコッパやプロシュット、パンチェッタなどをチーズと共に盛り合わせてもらうことにした。こうした地方特産の薄切り燻製肉は、やはり食べずには帰れない。
セコンド・ピアットも同時に頼むか悩んだが、おそらくパスタでお腹がいっぱいになってしまうと思うので、まずはそれだけにした。ワインはアルダの白、それにストッパの赤があったので、瓶では頼まず、それぞれグラスで頼んだ。ステラが公式にワインを飲めるようになってからまだ1年経っていないのだ。
「みんながさっさと外出してしまったのは残念だったな。美味しいトラットリアはないかとマルコたちは昨夜馬の世話もそこそこに街の探索をしていたよ」
ヨナタンは、静かに辺りを見回した。
次から次へと車がやって来て、駐車場になっている空き地に入っていく。テーブルの違う客同士の親しい会話から、地元の常連客でいっぱいなのがわかる。それは、格別に美味しい店のサインだ。
ステラはヨナタンの言葉に大きく頷くと、グリッシーニの袋を開いて、ポキッと折りながら口に運んだ。
「そうよね。ボッビオの興業で、ダリオがお休みでまかないのない日って、今夜と千秋楽だけだものね。でも、舞台の点検をしているヨナタンを待たないみんなが悪いのよ。私がママにこのお店の場所を訊いている間にいなくなっちゃったんだもの」
でも、もしかしたら……。ステラは、ロウソクの灯にオレンジに照らされたヨナタンの端正な顔を見ながら思った。みんなは氣を利かせてくれたのかもしれない。だって、ヨナタンと2人っきりで食事をすることなんてほとんどないもの。みんなとの楽しい食事も好きだけれど、こんな風に2人でいるのって、ロマンティックだし、ドキドキする。
「おまたせ。魚介のタリアテッレと、ハーブのトロフィエだよ」
店主自らが湯氣を立てている大きなパスタの皿を2つ持ってテーブルに近づいてきた。パスタはテーブルの中央に置かれて、取り皿をトンとそれぞれの前に置く。
「お嬢ちゃん、どっちを頼むか悩んでいただろう? こうすれば両方楽しめるしな」
店主は、ステラにウインクした。
あーあ。また子供扱いされてしまった。私、そんなに子供っぽいかなあ。ヨナタンの隣に立つにふさわしい、大人の女性を目指しているつもりなんだけれど。
「ステラ、取り皿を」
ヨナタンが微笑んだ。ステラが取り皿を持ち上げると、彼はタリアテッレをフォークに上手に巻き付けて彼女の取り皿に置いてくれた。大好きな海老がいくつもさせに載っていく。
「そんなに、いいよ。ヨナタンの海老がなくなっちゃう」
「大丈夫。まだあるから」
白ワインはあたりが軽くフルーティーな味わいだ。のどを過ぎたあたりにほんの少し甘みを感じる。冷たくて爽やかな飲み口が、一瞬だけ甘く情熱的な香りを放つ。水やジュースを飲むときのような安定した味に慣れているステラは、ある種のワインが持つこうした蜃気楼のような揺らぎを驚きと共に堪能した。
グラスの向こうには、ロウソクの灯に照らされてヨナタンだけが見えた。すっかり暮れた夏の宵にグラスを傾けて座っている彼は、いつもよりわずかに謎めいて見えた。
かつての大きな謎に包まれた道化師、何かから逃れ隠れ、いつか目の前から消えてしまうんじゃないかと心配されたパスポートを持たない青年のことをステラは思い出した。ここにいるのは、いまは正式に彼の名前の一部となったけれど、かつては一時的にそう呼ばせていた「ヨナタン」という仮面を被ったかの異国人と同じ人だ。
ロウソクの灯と涼しい夏の宵の風は、こんな風にステラを不安にする。彼女はグラスを置くと、俯いてパスタに取りかかった。
「あ」
10年以上食べていなかったノンナ・チェチーリアの手打ちパスタの味わいが、彼女の余計な思考をいとも簡単に押しやった。滑らかな表面からは想像もつかないほどの弾力。抵抗を押し切って噛むと、閉じ込められていた水分と小麦の香りがじゅわっと解き放たれる。
「すごいな」
ヨナタンも一口食べてから驚いたように手元のパスタを眺めた。
「やっぱり、普通のパスタと全然違うって記憶は間違いじゃなかった! よかった。ヨナタンに氣に入ってもらえて」
ステラは満面の笑顔で言った。
「これまで美味しいパスタかどうかを判断したのは、ソースの味を基準にしていたんだな。でも、これは、もしかするとソースがなくても美味しいのかもしれない」
ヨナタンは、考え深く答えた。
「こういうパスタをこねたり打ったりするのはずいぶん力がいるんじゃないか?」
ヨナタンは、先ほどまでチェチーリアが座っていた小さな椅子を見やった。ステラは、頷く。
「うん。とても大変な作業だと思う」
「そうなんですよ。マンマも歳で疲れやすくなっていてね。提供できる量も減ってきているんですよ」
ワインを注いだり、空いた皿を下げたりしながら客席を回っている店主が、2人の会話を聞きつけて相づちを打った。
「じゃあ、食べられるうちに急いでまた来なくちゃ」
ステラがそう言うと、店主は笑った。
「みなそう思うらしくてね。提供量を少なくした途端、ますます繁盛するようになってしまったよ。マンマのやり方を継承させろってせっつく客も多いんだけれどねぇ……」
機械化と効率の時代に、報酬も大したことのない重労働を習いたがる者は少ない。ステラやヨナタンも、サーカス芸人の生活をしているからよくわかる。努力と報酬が釣り合わない仕事は、後継者を見つけることが難しい。マンマ・チェチーリアは、報酬や社会的地位の代わりに客たちの笑顔を支えにこれまでパスタを打ってきたのだろう。おそらく70年以上も。
その70年間に、イタリアはずいぶんと変わった。戦争は終わり、経済も成長した。スーパーマーケットに行き、わずかな金額を出せば、いくらでも大量生産のパスタが入手できるようになり、妻たちは専業主婦であることよりも外に出て働くことを選ぶようになった。子供たちはスマートフォーンやコンピュータを自在に操り、大人になったらミラノの中心で事務職に就き、わずかなリース価格で憧れの車を乗り回す未来を夢見ている。
そして、見回せば、手打ちパスタで粉まみれになることを望む人びとはほとんどいなくなり、マンマ・チェチーリアの伝える、地域の女たちの継承してきた素朴で絶妙な味わいは消え去ろうとしている。
「私、チルクス・ノッテに入っていなかったら、パスタの修行をしたかも。そして、ママのバルで美味しいパスタを作る看板娘になっていたかも」
ステラはぽつりと言った。
ヨナタンは、わずかに笑った。
「バレリーナや体操選手になる夢も持っていたんだろう?」
確かに。それに、学校では高等学校に進学して、法学を学んだらどうかと先生に奨められた。ヨナタンに逢っていなかったら、何も考えずにその道を選んでいたかもしれない。
思えば、ノンナ・チェチーリアのパスタを初めて食べて夢中になったのも、ヨナタンに出会って赤い花をもらうブランコ乗りになろうと思いついたのも、ほぼ同じ6歳ぐらいだった。1つの夢は10年のたゆまぬ努力の果てに実を結んだが、ノンナ・チェチーリアのパスタは、つい最近まで記憶の彼方にしまい込まれていた。
きっと「パスタの達人をめざすもう1人のステラ」は、全く存在しなかったのだ。ステラは「その通りね」と項垂れた。
「大丈夫。僕がきっと」
隣からの声に振り向くと、そこにはオレキエッテをフォークに突き刺して掲げている中学生くらいの少年がウィンクしていた。
「その子は、うちの遠縁の子でね。学校帰りによく厨房でマンマの手伝いをしてくれているんですよ」
店主が相好を崩した。
「僕、このパスタ以外食べたくないもん。絶対に味を受け継いでみせるよ」
少年は目を閉じて、オレキエッテを幸せそうに食べた。
ステラは、ヨナタンと顔を見合わせて笑った。大丈夫。きっとこの味は続いていく。
「この地域で興業するときは、必ず来なくちゃね」
「そうだな。僕たちの方も、店じまいされないように頑張らないと」
ヨナタンは赤ワインを飲みながら、真剣な眼差しを向けた。
ステラは、頷いた。巡業サーカスもまた、昔ほどエンターテーメントの花形ではない。テレビやゲームなど、たくさんの楽しみのある人たちに、「またチルクス・ノッテに行ってみたい」と思ってもらえるクオリティーを保つのは容易ではない。でも、だからこそ大きなやり甲斐もあるのだ。
自分の選んだ道をまっすぐ進もう。その横には、ヨナタンがいてくれるのだ。消えたり、いなくなったりしないで、一緒にこの道を行ってくれる。彼の言葉は、ステラを強くする。
そして、舞台がはねたら、またヨナタンと一緒にここを訪れよう。
「まずは、このシーズンを成功させようね。千秋楽までうまくいったら、みんなで食べに来たいな」
(初出:2021年8月 書き下ろし)
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