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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】鱒

この記事は、カテゴリー表示のためのコピーです。

今日の小説は『12か月の楽器』の3月分です。このシリーズでは、楽器をテーマに小さなストーリーを散りばめています。

今回の主題に選んだのは、ヴァイオリンです。っていうか、ヴァイオリンを弾くあの人の登場っていうだけですけれど。

さて、シューベルトの『ます』こと『ピアノ五重奏曲 イ長調』には、個人的に強い思い入れがあります。父と共演することになったチェコのスメタナ弦楽四重奏団が、我が家に来てリハーサル演奏をしたんですよね。もう○十年前のことですけれど。自宅に飛び交うチェコ語のやり取りと、プロ中のプロの演奏。その時の印象がものすごく強く残っていて、聴く度にあの日のことを思い出すのです。


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あらすじと登場人物






 ドロレス・トラードは、丁寧に鱒をさばいた。彼女は『ボアヴィスタ通りの館』の料理をほぼひとりで引き受けている。17歳の時に『ドラガォンの館』で見習いをはじめたが、すぐにセンスを認められて20歳の時にはもう1人でメニューを決めることを許された。『ボアヴィスタ通りの館』の料理人が退職するにあたり、24歳という若さで異動して以来、ずっと『ボアヴィスタ通りの館』の料理人として働いている。

 この館を含むドラガォンが所有する3つの屋敷でご主人様メウ・セニョール として仕える相手は、みな特殊な背景を持つ。かつては鉄格子の向こうに閉じこめられていたが、世代交代に伴いそれぞれの屋敷に遷された存在なのだ。

 彼ら『インファンテ』と呼ばれる男性は、個人名を持たず番号で呼ばれている。彼らは、法律上は生まれることも亡くなることもない、書類上は幽霊も同然な存在だが、毎日普通に食事をする生身の人間だ。ドロレスをはじめとする使用人たちは、すべてこの男性たちがどのような存在であるかを承知している。インファンテ自身も、ドロレスたち使用人のほとんども《星のある子供たち》と呼ばれる特殊な血筋の出身で特殊事情を理解しており、しかもこの勤めを始める前に沈黙の誓約を交わしている。

 料理人として、ドロレスは幸運だった。ご主人様セニョール は、理不尽なわがままを言うタイプではなかったからだ。

 彼が、この屋敷に遷されたのは、ドロレスの異動から1年も経たない頃だった。おそらく、彼をここに遷すことを見越してドロレスを異動させたのだ。覚悟はしていたものの、はじめはとても緊張した。というのは22と呼ばれるインファンテ322は『ドラガォンの館』時代に、ドロレスが勤め始めてからただの1度すら正餐に顔を出さぬ頑なな人物として知れ渡っていたからだ。給仕や清掃で顔を合わせる使用人も必要なこと以外で言葉を交わしたことがないと言っていたし、ドラガォンを憎んでいると囁かれていた。

 彼が、屋敷そのものには軟禁状態とはいえ、鉄格子の外に出て普通の生活を始めることになり、どんな暴君になるかわからなかった。『ボアヴィスタ通りの館』で使用人たちは戦々恐々として待った。だが、彼は『ガレリア・ド・パリ通りの館』で暮らすもう1人のインファンテと違い、全く手のかからぬご主人様セニョール だった。礼儀正しく毎回礼を口にし、食事に文句をつけることも一切なく、残すことすらなかった。むしろ、氣に入ったのかどうかすらもわからなくて困惑する日々だった。

 だが、その問題も3年で解決した。やはりこの館に暮らすことになったインファンタ・アントニアが、彼の感情と好みを読み取ることができるようになり、彼の好みに合わせた食事を提案したり、2人がどの食事を格別氣に入ったかなどを告げてくれるようになったのだ、

 今日のメニューを提案してくれたのも、アントニアだった。
「叔父様は、いまシューベルトの『ます』を好んで弾いていらっしゃるでしょう? だから、鱒はどうかしら? 叔父様、バター焼きをお好みだし」

 ドロレスは、手を休めて2階から聞こえてくるヴァイオリンの音色に耳を傾けた。そういえば、この曲はずいぶん前にたくさん聴いたなと思う。ピアノのパートや、ヴァイオリンのパート、毎日変えてずいぶん長いこと練習していた記憶があるが、いつの間にか聞かなくなった。ここのところ、メウ・セニョールのご機嫌はかなりいい。機嫌がいいといっても、ドロレス自身に対する態度が変わるわけではない。だが、アントニアがリラックスして嬉しそうな表情を見せることが多いのだ。それは、ドロレスをはじめとする使用人たちには心地のいい状態だった。

 彼女は、鼻歌を歌いながら、鱒に小麦粉をはたいた。

* * *


 彼は、スピーカーから流れる曲に合わせてヴァイオリンを奏でていた。ベルリンフィルのソリストたちが、ピアノ、ヴィオラ、チェロおよびコントラバスのパートを演奏したフランツ・シューベルトの『ピアノ五重奏曲 イ長調』のCDは、数日前にアントニアが持ってきた。

 第4楽章に歌曲『ます』の旋律を変奏曲として使っているため、『ます五重奏曲』としても知られているこの曲を、彼が練習し始めたのは、この屋敷に遷されてから2年ほど経った頃だった。その頃の彼は、発売されているCDや楽譜の購入を依頼することはあっても、それ以外の特殊な願いを頼むことはなかった。

 彼は、存在しないことになっていた上、ドラガォンの中枢組織に必要以上の頼み事をしたくなかったので、常に1人で演奏をしていた。子供の頃から習ってある程度自由に弾くことのできるピアノとヴァイオリンの独奏曲を中心に弾いていたが、自ら録音することによりピアノ伴奏付きのヴァイオリン曲を練習することもあった。そして、やがて欲が出て、『ます』に挑戦しようとしたのだ。

 彼はヴィオラとチェロの練習も始めた。だが、そこまでだった。パートごとに録音して合わせてみても、上手く合わなかった。テンポを合わせるだけでは、生きた曲にはならない。誰かとアイコンタクトをし息を合わせながら共に奏でることでしか、合奏はできない。それに氣がつくと、録音で作ったそれまでの2重奏すらも、まがい物にしか感じられなくなり全て処分してしまった。

 今にして思えば、あれほど苛立ったのは、決してパートごとの録音が合わなかったからだけではない。彼が、独りであることを思い知らされることに耐えられなかったのだろう。

 いま彼がヴァイオリンを奏でたいと思うとき、ピアノの伴奏者に困ることはない。彼が望むように弾いてくれる存在がいつも側にいる。アントニアは、意固地になった彼が邪険にし、頑なに拒否したにもかかわらず、10年以上の時間をかけて彼を心の牢獄から解放してくれた。共に奏で、食の好みを伝え、皮肉な冗談を口にすることもできるかけがえのない存在として、彼に寄り添い続けてくれている。

 彼のかつての『ます』に関する挫折の話を知ったとき、アントニアは同情に満ちて受け答えをするような中途半端な態度は取らなかった。彼女は、伝手を使って彼の望む曲の『カラオケ』を準備するといいだしたのだ。

 彼は、冗談なのだろうと思っていたので、忌憚なく希望を口にした。それが、バルセロナ管弦楽団のチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』とスイスロマンド管弦楽団によるメンデルスゾーンの『バイオリン協奏曲』のCDを手にしてかなり驚いた。彼は、世界最高の演奏をバックに、ソリストとして弾く新しい歓びを知った。

 そして、数日前にアントニアは『ます』のCDも持ってきた。ピアノパートのない演奏とヴァイオリンパートのない演奏の他に、そして、両方とも入っていないバージョンもがおさめられている。アントニアめ、自分も一緒に演るつもり満々だな。彼は密かに笑った。

 だが、彼はいずれその願いを叶えてやろうと思っていることを早々に知らせてやるつもりは皆目無かった。いまは専らピアノパートの入っている演奏を使ってヴァイオリンパートを弾いている。

 1819年、22歳だったフランツ・シューベルトは、支援者であり親しい友人でもあった歌手ヨハン・ミヒャエル・フォーグルの故郷であるオーストリア、シュタイアーを旅した。そこで知り合った裕福な鉱山長官パウムガルトナーは、アマチュアながら自らチェロを奏でるたいそうな音楽好きであった。彼は、シューベルトに氣に入っていた歌曲『ます』の旋律を使ったピアノ五重奏の作曲を依頼した。

 パウムガルトナーが、自ら主催するコンサートで演奏するつもりだったので、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという通常と異なる編成になっており、加えて初演でパウムガルトナーが弾いたであろうチェロの見せ場がしっかりとある作品になっている。

 通常のピアノ5重奏のごとくヴァイオリン2台の編成であれば、彼も2つのヴァイオリンパートを練習する必要があっただろうが、この曲では1つで済んでいる。ピアノパートは高音域での両手ユニゾンが多く、難易度が高いが、彼はすでに10年前に自在に弾けるようになっていた。アントニアも十分な時間をとって練習すれば問題なく弾けるようになるだろう、彼は考えた。

 内氣で世渡りの上手くなかったシューベルトは、自ら作品を売り込んで歩くようなことが苦手だった。公演などで稼ぐこともあまりなかった彼は貧しく、フォーグルなどの支援者や友人たちが援助や作曲の斡旋をしてくれたことで、彼の名声は高まった。彼は、慕い、仕事を依頼してくれる人びとの願いに発奮して次々と名曲を書き上げた。アマチュア音楽家とはいえ、彼の歌曲を絶賛してくれたパウムガルトナーの依頼にも熱心に応え、素晴らしい作品を書き上げたのに、それで儲けようとは全く考えなかったのか、生前には出版もされなかった。

 パウムガルトナーの願い通りに歌曲『ます』の旋律を用いた第4楽章は、この作品の中でもっとも有名だ。4つの変奏が、川を自由に泳ぐ鱒と、それを追い詰める釣り人との駆け引きを躍動的に表現している。歌曲は言葉による表現があるが、五重奏曲ではそれぞれの楽器が掛け合い、逃げては追い越すことで表現する。

 彼は、録音されたピアノや他の弦楽器の音色を追いかけた。決して現実に顔を合わせて演奏をすることは叶わない合奏相手たちだが、顔も名前も知らされてはいないがだれかが空白のヴァイオリンパートを奏でることを期待して演奏した。独りで合わない合奏を繰り返していた頃とは、まるで違った演奏になる。

 階下の音がして、アントニアが帰ってきたのがわかった。そろそろ昼食の時間か。彼は、先ほどから漂っている香りに意識を移した。

 復活祭前の40日間は、肉断ちの習慣があるので、昼食は魚が中心だ。鱈や鮭が多いが、どうやら今日は焼き魚のようだ。バターが焦げる香ばしい薫りがする。

 彼は、鱒のバター焼きのことを考えた。はたいた小麦粉がバターでカリッと焼かれ、ジャガイモやほうれん草が添えられる。『ドラガォンの館』でも何度か食べた記憶があるが、いまドロレスが作ってくれるものよりも焦げ目が少なくよくいうと上品な味付けだった。当時から彼は出されたものを残さずに食べていた。だが格別に鱒が好きだと思ったことはなかった。

 この館で最初に鱒がでたときも、おそらく同じような焼き方だったと思う。だが、アントニアが共に暮らすようになってから、彼女がどのような焼き方を好むのかを察してドロレスと話し合い、いつの間にか今のような焼き方に変わった。

 海辺の人びとが炭火でよく焼いてカリッとさせた鰯を好んで食べるように、ドロレス自身もほんのりとした焼き色の上品な1皿よりも小麦粉とバターでしっかりと焼き色をつけた鱒が好きだったそうだ。それが主人の好物であるとわかり、彼女は俄然やる氣になったらしい。
 
 かつて、彼はたった独りだった。彼が拒否した世界に、彼を喜ばせる曲を奏でるものも、彼の好む料理に心を砕く人もいなかった。彼を取り巻く状況は、決して大きくは変化してはいない。彼はいまだに名前を持たぬインファンテで、どれだけ望もうと弦楽5重奏をすることはできない。

 だが、彼は今、そのことに苦しみ絶望することはない。彼は、『ます』の第5楽章フィナーレの掛け合いを楽しんだ。彼は独りではなかった。この録音を用意してくれたアントニアをはじめとする人たちが、彼のためにこの曲を弾いてくれた人たちが、階下で彼の生活を支えてくれる人たちがいる。

 最後の和音を勢いよく奏でると、彼は躊躇せずに階下に向かう。温かい食事を提供するタイミングを、ドロレスがやきもきしながら待っているだろうから。階下では、いつものメンバーが穏やかに彼を待ち受けていた。

(初出:2022年3月 書き下ろし)



追記



Franz Schubert - "Trout" Quintet - Berliner Philharmoniker Soloists/Yannick Rafalimanana
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