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Posted by 八少女 夕

【小説】熊のネギ

今日の小説は、植物をテーマに小さなストーリーを散りばめていく『12か月の植物』の4月分です。『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』を再開する前に、とりあえず。

4月のテーマは『ベオラウフ』です。

日本では馴染みのない植物だと思いますが、スイスやドイツなどでは春を告げる旬の食材なのです。

今回出てくる真菜というキャラクターは、おそらく初出だと思います。じつは、影でコソコソ書いている(でも、今のところ公開するか微妙な感じの)小説の主人公だったりします。


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熊のネギ

 知らない食材に手を出すのにはすこし勇氣がいる。とくに真菜にとっては、日本語で書かれたレシピが見つからないことが、最初のハードルになった。

 日常的にドイツ語を使っているとはいうものの、料理をするときにはどうしても日本から持ってきたレシピ本から選んでしまう。日本語の本は材料から手順までひと目でわかる。ドイツ語だとどうしても慣れない単語が出てきてしまい、それが面倒なのだ。

 でも、今日はしかたなくドイツ語のレシピを使うことにした。日本では馴染みのない食材を使うからだ。

 ベアラウフ(Bärlauch)、つまり「熊のネギ」と呼ばれる野菜は、英語からラムソンとも呼ばれている。スズランの葉っぱによく似た葉からネギとニンニクの中間のような香りがする。スイスやドイツ語圏の国々では春の旬の野菜として食べられている。スーパーマーケットでも、この時期には売り場に並ぶ。

 真菜は、これまで買ってみようと思ったことがなかった。そもそもスイスで春を迎えるのはまだ4回目だ。最初の春は、そんな野菜があることにすら氣がつかなかった。

 マルクスとの結婚生活に終止符を打ち、真菜は生まれて初めての1人暮らしをスイスの小さな村ですることになった。カンポ・ルドゥンツ村は便利とはいえないけれど、職場に近くて家賃が安い。

 3年間の結婚生活のうち、2年は週に4日しか同居していなかった。スイス連邦工科大学に通いキャリアアップをはかる彼を応援し、残りの3日間は1人で過ごすことに慣れていたので、離婚後に1人になっても寂しくてたまらないと感じることはなかった。

 家計を助けるために、仕事もしていたしドイツ語もそこそこ話せるようになっていた。だから、離婚後にまっすぐ日本に帰るのではなくて、そのままスイスに残るという選択ができた。

 1人になって、食事は自分のために作るようになった。マルクスの好みに合わせて考える必要はなくなり、彼がチューリヒいく3日間の大半を残り物を片付けることに割くルーティンも消えた。自分の健康と、財布と、興味だけを基準に献立をたてることができるようになった。

 和食を作る頻度は、むしろ減った。マルクスが和食を食べたがるときは、日本人としての見栄も会ったのか一汁三菜に近いものを作っていた。もちろん、今と違って週に3日しか働いていなかったので余裕もあったのだが、それでも便利な和食用の食材がほとんどない海外できちんとした和食を作るのは思いのほか大変だった。

 週5日勤めるようになって料理に割く時間が減っただけでなく、1人の収入だけで衣食住のすべてを賄うことになり経済的にも厳しくなったので、もっと安価で簡単にできる調理をするようになった。それと同時に、これまで素通りしていた食材にも目が留まるようになった。

「これって、どうやって食べるものなんだろう」
真菜は、ベアラウフの前でつぶやいた。そして、その時は買わずに帰ってフラットで食べ方を検索した。

 調べてみたら、あまり難しそうではなかった。例えば、ベアラウフ・ペストロは、バジルで作るペストロ・ジェノベーゼのバジルをベアラウフに変えただけのようだったし、スープなどもピューレ状にして混ぜるだけのようだ。

 ニョッキやクヌーデルの生地に練り込む使い方もあるようだったが、そこまでするのは大変そうだったので、一番簡単そうなベアラウフ・ペストロを作ってみることにして、ひと束買ってきた。

 真菜は、毎年夏の終わりにバジルでペストロ・ジェノベーゼを作る。それを薄く伸ばして冷凍しておくと香りも飛ばず、1人分でも割って簡単にスパゲッティソースにできる。ベアラウフ・ペストロも、手順はほとんど同じだった。

 まず松の実を煎る。ある程度刻んだベアラウフ、松の実、オリーブオイル、パルメザンチーズ、塩胡椒をブレンダーに入れてペースト状にする。それだけだ。

 氣をつけなくてはいけないのは、ベアラウフは、長く加熱するとせっかくの香りが消えてしまうことだ。

 だからパスタとして食べるときも、さきにパスタとパルメザンチーズを用意しておき最後にペストロを絡めるようにして食べるらしい。

 パスタはごく普通のスパゲティーにしてみた。アルデンテに茹でる。パルミジアーノ・レッジャーノは高すぎて手が出ないので、もう少し廉価なグラーナ・パダーノをたっぷりめに使う。そしてペストロをからめて急いでテーブルに座る。

 真菜は、はじめてのベアラウフをそっと噛みしめた。

 美味しい……。とはいえ、いままで食べなかったことを後悔するような味ではない。というか、馴染みのある味だ。つまり、ニンニクほど匂いの主張がなく、ネギほど味の主張がない。その両方を上品にしたような味。なるほど。ニンニクペーストやネギペーストだと強烈だけれど、これなら春の味として楽しむという意味がわかる。

 これ、なんで「熊のネギ」って呼ばれるんだろう? 真菜は不思議に思った。熊といえば鮭を捕獲したり蜂蜜をなめているイメージが強い。スイスには基本的に熊が生息していないので、東京で育ったときについたイメージを上書きする要素がない。

 少なくともかつてはスイスにも熊が生息していたことは知っている。

 ローマ帝国の初期にスイスにはケルト系の民族が住んでいたが、彼らが崇めていた豊穣の女神アルティオは熊の化身だった。スイスがローマ帝国に組み込まれてから、男性神アルタイオスに変化したが、これがアーサーという名前の語源になった主張する学者もいるらしい。真偽のほどはともかく、昔のスイス人たちにとって熊が身近で畏敬の対象だったことは間違いないだろう。

 スイス連邦の首都であるベルンは、名前も州旗も熊由来だ。街の開拓者が「ここではじめて狩った動物の名前をつけよう」と決めたと伝わっているというから、当然その頃にはいまのベルン州にも当たり前に熊がいたのだろう。

 調べてみたら、スイスで最後の熊が撃ち殺されてしまったのは1904年のことだそうだ。といっても、それ以後スイスで野生の熊が出没していないわけではない。

 周りを海に囲まれている日本とは違い、隣国の野生動物が移動してくることは普通にある。イタリアのトレント州には現在100頭以上の熊が生息している。そのうちの何頭かは、国境を越えて真菜の住むグラウビュンデン州にも足を伸ばすことがある。

 そうするとしばらくは大騒ぎになり、場合によっては射殺されてしまう。

「熊を撃つ機会なんてめったにないからね。そのお役目を申しつかった狩人は大喜びだろうね」
かつてマルクスがそう言っていたことを思いだした。

 前夫もまた狩猟免許を持ち、秋になると何日も泊まりがけで狩りに行っていた。真菜は動物を殺したいという趣味がまったく理解できなかったが、強硬に反対しようとは思わなかった。それでも、イタリアにいれば死なずに済むのに、スイスに来てしまったがために撃たれてしまった熊には同情したものだ。

 そんな熊にはあまり優しくないスイスだが、ベアラウフは非常に好まれている。調べてみたところ、由来そのものははっきりしていないらしい。通説の1つに「熊が冬眠から目覚めて最初に食べるのがこの球根だから」というものがある。熊が冬眠から目覚めるのも、ベアラウフが森の中で生えてきて人びとが採集するのも春なので、この2つが結びつけられたのかもしれない。

 真菜は、綺麗な緑のベアラウフ・ペストロの残りも、ペストロ・ジェノベーゼ同様に冷凍することにした。すぐに食べないと香りが飛んでしまうし、冷蔵庫でどのくらい持つものなのかもわからなかったからだ。

 この味と香りは、癖がなくていろいろな料理とも合いそうだ。春の旬の野菜として、これからはときどき買おう。

 そう思ってから、「これからって……」と笑った。いつまでスイスにいるつもりか、決めていなかった。マルクスと別れたので、スイスに住む必要性はなくなったのだ。

 日本に帰る決心がついていなかったし、仕事もあって1人で暮らしていけるので、今のところはまだスイスに住んでいる。いま日本に帰ったら住むところも仕事もないから。

 これからのすべての春をスイスで迎えるかどうかの覚悟はまだできていなかった。何回迎えるかどうかはわからない。でも、この春はこうして1人で無事に迎えられた。

 熊が狩人たちの猟銃から逃れてなんとかスイス・アルプスを歩いていくように、厳しい冬を眠って過ごした後にふたたび目覚めるように、真菜もまたその日々をなんとか生きていくしかないのだ。

 真菜は、改めて思った。

 未来のことは、わからない。でも、来年の春もここにいたら、またベオラウフを買ってみよう。

(初出:2024年4月 書き下ろし)
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Category : 短編小説集・12か月の植物
Tag : 小説 連載小説

Comment

says...
執筆、お疲れさまでした。

え、スイスに熊っていないの? ベルンの語源や市旗は熊でしたよね……って思ったら、そういうことでしたか。害獣扱い? それともたんなる狩猟のため? どちらともしれませんが、野生動物に国境という概念はないですからねぇ。イタリアにいればなんともなかったのに、スイスに来たばかりに、と熊に同情する真菜の気持ちもわかります。

ベアラウフなんて野菜は聞いたことがなかったのでググってみたら、行者ニンニク的なものだったんですね。調理方法からみれば、野菜というよりはハーブに近いものでしょうか。ニンニクやニラ系の味なら、パスタにはよく合いそうです。また今回もご飯テロ的なお話でしたねぇ。

さて。真菜はカンポ・ルドゥンツ村の新たな住人なんですね(たぶんそうなると想像)。
パートナーと別れちゃったからスイスで暮らす理由はないけれど、市場に並ぶ野菜を見て春を感じ、それを調理して味わって、スイスの春がより身近に感じられたんじゃないでしょうか。
これ、発表されたら「スイスで暮らす意味探し」のようなお話になるのでしょうか。またいずれ拝読できれば嬉しいです。
2024.04.17 08:37 | URL | #V5TnqLKM [edit]
says...
こんばんは。

意外に思うでしょうが、そうなんです。
乱獲で絶滅させちゃったんですね。

狼はかなり戻ってきていますし、シュタインボック(アイベックス)も十分回復してきましたが、熊はダメですね。
たまーにやって来ては駆除されちゃっています。

実は日本で行者ニンニクを食べたことがなかったのですけれど、おそらくベアラウフは同じ系統の植物だと思います。
ま、タンポポも、ヨモギの仲間も、こっちだとちょっと違うので、全く同じではないかもしれませんが。
いずれにしても、この小説を書くにあたって買って食べてみましたが、普通に美味しかったです。
わたしはネギの独特の歯触りが苦手なのですが、こうしてペーストにしてしまうと美味しく食べられるのです。香りも上品で美味しいですよ。

そして、真菜。またしてもカンポ・ルドゥンツ村関係のキャラです。
このエピソードは、本編が始まる少し前くらいで、真菜はこの村に居着く予定。

読みたいとおっしゃっていただけて嬉しいです。「書く書く詐欺」が半分以上畳めてきたので、そろそろ新しい話を書いていることをチラ見せしてもいいかな、などと思っているのですが、公開するかはちょっと微妙な感じですかねぇ。過激になりそうな描写の変更を考えないと……。

ま、その前に『森の詩 Cantum Silvae - トリネアの真珠』とその続編かなあ。
自転車操業の身で、大きな口を叩いています。

コメントありがとうございました。
2024.04.17 22:02 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
完全なるお料理小説で共感できる部分が多くあった(笑)。

いやあ、けど、海外でご飯作るって大変だろうな、
ってところが日本人感覚で描かれているから、
夕さんもそちらで料理し始めの頃は大変だったんだろうな、
って思って読ませて頂きました。


食材に関しては、今までも言っている通りなんですけど。
とりあえず、安いものを買おうってスタンスに変わりましたね。
運送費の問題もあってか、最近は地産の野菜や魚の方が
相対的にお買い得になっているんですよね。
なので、今まで手を出してなかった
地産の野菜や魚もチャレンジしてます。

レシピ見ながらでも恐る恐るやっているのに、
海外だったら本当に怖くて作れるかどうか(笑)。
2024.04.29 03:47 | URL | #7focrGmg [edit]
says...
「熊のネギ」という名前からサキは「行者ニンニク」を連想していました。
山野にこれを採りに行ってクマに襲われるというニュースを何度も耳にしていたからなのですが、どうやら近い品種のようですね。
山菜としてはなかなか有用なもので、採取に行く人は多いようなんですが、昔に比べてクマと人の境界があいまいになっているので、こういう歓迎されない遭遇も多くなっているようです。
スイスに熊がいないというのは驚きでしたが、こういう遭遇が多くなってくると人間と熊の関係もなかなか難しい問題だなぁと思いました。熊にだって熊の言い分があるでしょうし、人間の方も亡くなる方まで出ていますしね。

さて、登場人物の真菜なんですが、まるで夕さんの分身を見ているような感覚で読ませていただきました。食材「熊のネギ」への接し方なんて夕さんの日常のようだなぁ・・・なんて・・・。あくまでサキの勝手な思い込みなのでお許しください。
カンポ・ルドゥンツ村の新たな住人として新たな出発をした真菜。
どんな新生活が待っているんでしょう。
また続きを読ませていただけたら嬉しいです。
2024.04.29 10:45 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
こんばんは。

そうなんですよ。実はご飯作っているだけ(笑)

海外で暮らす日本人(に限らず異国人)には、もとの国のご飯を作り続ける人と、あきらめてその国に同化していくタイプがあると思います。
ま、食材や調味料が手に入りにくいとか、高くつきすぎるというような問題で作り続けられない地域もありますしね。
で、わたしも、この作品の真菜もさっさと投げ出してその国にあるもので生きていくタイプかな。

日本の食材、一時はなにもかもが安く手に入る状態だったので、年間通して同じものが作れましたが、物価高騰によって地産地消や旬の概念が戻ってきたなら、それはそれでいいことなのかなとも思います。かつての日本の食の楽しみ方に学ぶことはたくさんあるかもしれませんね。

でも、日本語のレシピ、海外でもけっこう使えるんですよ。
もちろん調味料や食材を読み替えたり、代用したりする必要はありますが、たいていのものは何とか作れてしまいます。
特に洋食のレシピはたいていなんでも作れますし。

ドイツ語のレシピもいくつかありますが、やっぱり後回しかなあ。
ウサギの煮込みとか日本語レシピのないものは使いますけれど。

コメントありがとうございました。
2024.04.29 21:59 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こちらにもありがとうございました。

ほぼ同じような食材だと思います。正確には少し違うらしいのですが。
ただ、わたしは日本で行者ニンニクを食べたことがないので日本での食べ方を知らないんですよね。

スイスではもう熊がいないので、採取の際に熊に襲われるという話は聞いたことがないのですが、間違えて毒のあるスズランを採ってしまったという話は時おり耳にするので、わたしはお店で買うだけにしています。

日本の熊は出没頻度も多いですし、亡くなる方もけっこういるということで問題としては少し深刻なのかもしれません。
野生動物との共生はどこでも難しい問題です。ただ、どちらが悪いかと言ったら、いろいろな意味で悪いのは人間の方なので、変えていくのは人間の務めのように思います。簡単ではありませんが。

真菜は、私小説的な存在ではありませんが、この辺の描写には自分の体験をいろいろと織り込んでいます。
というか、この作品のための取材としてベアラウフをわざわざ調理して食べました。

この小説、ちょっとネットで公表するには難があるのでどうしようか迷っているのですが、外伝的なものはまた近いうちに書くかもしれません。
その時はまた読んでいただけるとありがたいです。

コメントありがとうございました。
2024.04.29 22:17 | URL | #9yMhI49k [edit]

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