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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】南風の幻想曲(ファンタジア)

読み切り小説です。「十二ヶ月の組曲」の六月分。このシリーズにはいろいろな年齢の人々が出てきますが、このカップルは比較的私の実年齢に近い設定です。

ギリシャに行ったのは、以前ちょっと書いた55日間のヨーロッパ貧乏旅行の時でした。食事がおいしかったですね。二月だというのに太陽がいっぱいでした。




南風の幻想曲(ファンタジア)

 一人で来たら、もっと楽しかっただろうな。荷物を置いたら、シャワーを浴びてアテネの街にくり出す。バーかクラブで若い女と知り合い、短いアバンチュールでも…。彼はちらりと観光案内を眺めている妻の方を見た。こいつがいたらそんなこともできないか。今年も「一人で行きたい」と言えなかった。

 妻が嫌いな訳ではない。問題は起こさないし、子供たちの面倒もよく見てくれた。彼らはそれなりに大きくなり、家族の休暇よりは友達とキャンプで過ごす方がいいというようになった。久しぶりに二人だけで夏の休暇に行くことになったのは昨年からで、妻はそれを楽しみにしているようだ。だが、彼は妻と二人だけの時間を持て余していた。静かで穏やかな彼女は空氣のようだった。

 十八年前、官能的だがエキセントリックなミランダとの関係にほとほと疲れた彼は、ふとした拍子で学生時代の友人の妹と知り合い、よく考えずにプロポーズした。考えなしだった割に、この関係は上手くいった。もちろん、日常の小さな諍いはある。だが、周りで半分以上のカップルが破局しても、二人と子供たちは幸福な生活を送ることができた。

 単に、彼は退屈していた。家庭の平和をありがたいと思うと同時に、彼は単調な生活がモノトーンに思われてしかたなかったのだ。興奮と冒険に満ちていたような二十五歳までの人生を、彼は懐かしく思うようになっていた。それを打破したくて、心躍る南国にせっかく来たというのに、きちんと整理された家の中にいるのとほとんど変わらない。


 バスはアテネ市内のホテルに向かって走っている。湿った生暖かい風を吸い込んで、窓の外を見た。
「お、テレース、見てみろよ。あれがパルテノン神殿じゃないか?」
「きっとそうね、明日にでも行ってみる?」

 彼は頷いたが、本当は若き日のミランダとあの上に行ったらどうだろうと考えていたのだ。

「パトリック、あなたお腹空いている?」
妻が案内書のレストランのページを繰りながら訊いた。

「少しな。立派なレストランでなくていいから、地中海らしいものを食べたいな」
「じゃあ、ここはどう?ホテルからもそんなに遠くないし、美味しいと地元民も通うんですって」

 それは海の幸をメインとした料理店だった。
「だけど、お前、魚介類は食べられるのか?」
パトリックは少し驚いた。テレースは普段ほとんど魚介類を口にしなかった。

「もちろん食べられるわよ。スイスでは新鮮でおいしい魚介は高くてとても手が出ないから料理もしないし、レストランでも頼まないけれど。昔、シチリアに旅行に行った時に食べて大ファンになったの」
「そうか。じゃあ、そこにしよう」


 そのレストランは、半地下の細長い作りで、洞窟の中にいるような心地がした。観光客だけでなく地元の人間も押し掛けて大変な熱氣だった。太った年配のウェイトレスがやってくると、パトリックは言った。
「ドイツ語か、英語のメニューをくれないか」

 女は頷くと、別のウェイトレスに声を掛けた。その若いウェイトレスがメニューを持って二人のテーブルにやって来た。

 ミランダ! 一瞬、彼は疑った。もちろん、それはミランダのはずはなかった。顔も似ているのは目と鼻ぐらいで、歳もまだ若い。美しい長い黒髪を後ろで無造作に束ね、きりりとした眉を片方上げて英語で注文を取った。

 テレースは、慣れない英語を読んでいる。
「フライの盛り合わせ、タコとフェタチーズのサラダ……」

 が、パトリックの方はウェイトレスを見ながら、上の空になっていた。ベルギーナ・ビールを飲みながら忙しく働く若い女の様子を目で追う。女はそのパトリックに氣がついて、時折ウィンクを返した。

「美味しいわね」
テレースが焼きエビと格闘しながら言った。しまった、この女がここに居たんだった。彼は慌てて妻の方に意識を戻した。テレースは茶色い瞳を柔らかく輝かせていた。

「私、ずっとギリシャに来てみたかったの。エーゲ海のクルーズに参加したり、エキゾチックな音楽を聴きながらこうやって魚介類を食べたり」
「ずいぶんプロトタイプな夢だな。ツアー会社の宣伝みたいだよ」
パトリックは意外に思って言った。テレースはそんな事を言ったことはほとんどなかったのだ。

「だからよ。ずっと子供たちのためにキャンプに行ったり、湖の周りを自転車でまわったり、健康的で家庭的な休暇ばかり過ごしてきたでしょう。たまには、旅行会社のパンフレットみたいなロマンティックで足が地に着いていない時間を過ごしてみたいの」

 僕も家庭的でない情熱的な休暇を過ごしてみたいよ。彼は言葉を飲み込んだ。袖無しのカットソーにカーディガンを羽織り、いつものシニヨンの髪を肩まで垂らしたテレースは、ロウソクの灯に照らされて、普段の賢く大人しい妻というよりは若い娘のようにはにかんで見えた。もしかしたら、テレースも良妻賢母の生活に飽きているのかもしれないなと思った。

 食事が終わると、テレースは化粧室に行った。それを待っていたかのようにミランダに似たウェイトレスはパトリックに近づいてきた。

「勘定を頼む」
彼が言うと、女は勘定書を置くと、英語で言った。
「ねえ。私、今日は十時までの勤務なの。あなた、私に興味があるなら、忘れ物をしたと言って戻って来るといいわ。ホテルはどこなの?」

 パトリックはドギマキしてアフロディテ・ホテルと答えた。
「あそこね。じゃあ、部屋に行けるように、奥さんにはバーに行っててもらわなきゃね。まずバーに連れて行ってから、忘れ物をしたと言ってちょうだい」

 その女にとっては、妻のある男との逢い引きは日常茶飯事らしかった。やけに段取りが手慣れている。パトリックは少し興ざめした。しかし、テレースが戻って来ると何事もなかったのように勘定を済ませ、店を出る時に再び振り返って女を見た。女は魅力的な微笑みを見せた。

 パトリックは、ホテルに着くと妻にバーで少し飲まないかと訊いた。
「いいわね。ぜひ行きましょう」
テレースは心なしか浮き浮きして言った。パトリックはこれから起こる事を考えて後ろめたさを感じたが、滅多にない冒険に対する期待が勝っていた。

 テレースがロングドリンクを頼んだ途端、パトリックは言った。
「あ、手帳がない。あのレストランで取り出したんだけどな」
そして、テレースにここで待っているようにと言うと、そそくさとレストランに向かって走り出した。


「来たわね」
ミランダに似た女は下唇をなめた。
「さあ、あなたのホテルに行きましょう」
「あの……本当にあのホテルでするつもりか? もし、妻が偶然僕たちを見かけたら?」
「心配ないわ。ペリスが奥さんを連れ出してくれる算段なの。奥さんが帰っていたら探していたとかいいながらバーに戻ればいいのよ」

「なんだって?」
「いいじゃない。まさか、あなただけ浮氣をして奥さんには許さない、なんて言うんじゃないでしょうね。大丈夫よ、ペリスは手慣れているもの。ヘマはしないわ。もちろん、奥さんからも手数料をいただくけど」

 パトリックは躊躇した。テレースに浮氣がばれない事よりも、ギリシャ人と共謀して自分の妻を騙すのが引っかかった。それに、そのペリスとやらは彼女に何をするつもりなんだ。

 テレースは従順でしっかりした女だった。簡単にギリシャ人と浮氣をしようとしたりはしないだろう。でも、ロマンティックな事に憧れるなんて女学生みたいな事を言っていたから、絶対に大丈夫とは言えない。ハイエナみたいな連中に彼女が騙されるのをみすみす許してしまっていいものか。

 パトリックはきっぱりと言った。
「悪いが、僕は帰る。なかったことにしてくれたまえ」

 女は肩をすくめた。何なのよ、馬鹿みたい。目がそう言っていた。


 アフロディテ・ホテルのバーに着くと、テレースを探した。彼女は同じ所にいた。黒髪のギリシャ人が必死で話しかけている。彼女は迷惑そうに断っていた。

「ですから、私は夫をここで待っているんです。すぐに帰ってきますので……」
「あなたは、私の運命の女性なんです。十七歳で死んだ最初の恋人に、本当に生き写しで。ご主人が帰ってくるまででいいから、私と一緒にいて話を聴いてほしいんです」

 よく言うよ、この嘘つきギリシャ人め。パトリックは妻とギリシャ男の間に割って入った。
「悪いが、その夫はもう帰ってきたんだ。死んだ恋人の思い出は、どっかでよそで暖めてくれたまえ」

 ギリシャ人はびっくりしていたが、肩をすくめると素直に去っていった。今日のカモは上手く引っかからなかったらしい。


「ああ、パトリック、よかったわ。あの人、急に話しかけてきて困っていたの」
「何が死んだ恋人だ。典型的なギリシャ人の詐欺師だよ」
「うふふ。わかっているわ。あの人、あのレストランにいたもの」

「なんだって?」
「キッチンの外でエビを焼いていたじゃない、あなた、見なかった?」
いや、全然。ウェイトレスしか見ていなかったからな。

「そう、私はどこかの歌手に似ているなと思って見ていたのよ。あの時には何も言ってこなかったのに、急に運命の人とか言って近づいてきたから、変だと思ったわ」
パトリックは笑った。妻は思ったよりも世間知らずではないらしい。

「手帳はみつかったの?」
「ああ。レストランにじゃなくて、ポケットに入っていたんだ。またあそこに行く必要なんかなかったんだ」
「そう」
テレースは控えめに微笑んだ。

「あなた、何を飲む?」
「そうだな。カクテルもいいけれど、まだレチーナワインを飲んでいなかったな」
「じゃあ、私もそうしたいわ」
妻とバーで傾けるレチーナワインの味はそんなに悪くなかった。


 翌朝、パトリックはゆっくりと朝寝をしていた。部屋のテラスにはテレースが座って、パルテノン神殿を眺めていた。海からの風がアテネを通って内陸へと渡っていく。テーブルに置かれた旅行案内書に目を走らせる。ピレウス港から、明日はエーゲ海のクルーズへと行けたらいいと思う。

 パトリックが昨夜、とても優しかったことを彼女は悲しく思っていた。レストランで彼がウェイトレスばかり見ていた事も、その女が例の色男にこちらのテーブルを見ながら何かをささやいていたのも全て目にしていた。化粧室から戻ってきた時に、パトリックの態度がぎこちない事にも氣がついていた。忘れ物をしたと言った彼の口調も、子供が小学校の文化祭で演じた子供劇の台詞みたいだった。

 だが、パトリックは十分もかからずに戻ってきた。それからの彼の態度はもっと自然だった。不穏な企みは終わったのだ。パトリックがそれに関わっていた、もしくは関わろうとしていた事が悲しかったが、テレースは何も言うまいと思っていた。少なくとも彼は翻意したのだろうから。

 彼女が十代の時には、毎年海外旅行に行くことなど考えられなかった。パトリックと結婚して子供ができてからは、子供たちが中心の生活をしてきた。だから、子供たちが手を離れたいまこそ、ロマンティックな夫と二人の旅をしたいと心ときめかせていた。けれど、それにはもう遅すぎるのかもしれない。彼女はもう若くはなかった。

 テレースは頭を振った。他の道などなかった。諦める事もない。まだ旅は始まったばかりだ。明日は絶対に船旅に連れて行ってもらおう。青い海。白い壁。咲き乱れる花。たくさんの写真を一緒に撮ろう。そうそう。それにふさわしい夏の装いも手に入れなくちゃ。今日は、アテネ市内で前から欲しかった黄色いワンピースと白い帽子を買ってもらおう。昨夜のあの調子なら、いつものようにブティックに行くのを渋ったりはしないだろう。テレースは、夫を優しく起こすために部屋の中にそっと入っていった。

(初出:2012年6月 書き下ろし)
関連記事 (Category: 短編小説集・十二ヶ月の組曲)
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Category : 短編小説集・十二ヶ月の組曲
Tag : 小説 読み切り小説

Comment

says...
休暇は如何お過ごしでしょか^^
いつも素敵な写真とおいしそうな食べ物の写真ありがとうございます!

題名がすごく好きです。
響きも、漢字が並んだその姿も綺麗です。

最初に思ったのは、「切ない・・・」というものでした。
視点が最初と最後でパトリックとテレースで切り替えがあって、二人の気持ち共に伝わってくるので、余計に切なかったです。

>テレースは頭を振った。他の道などなかった。諦める事もない。まだ旅は始まったばかりだ。

他の道などなかった・・・しなやかなんだけれど、悲しい、悲しいのに、潔い、でも・・・長年連れ添った女性の強さとしなやかさと、胸の裡の様々な思いが凝縮したようなラストだなと思いました。
パトリックがミランダの事を思い出すのも、テレースという、空気のように近しい存在がいるからですよね。空気のような存在になれるって、実は一番難しいことなんじゃないかなあ・・・
それでもテレースは、夫を優しく起こしに行くんですね、たくさん、いい服買って貰って下さいね^^
2012.09.06 13:16 | URL | #- [edit]
says...
こんばんは。
明日はもう帰りのフェリーに乗るのです。二週間ってあっと言う間です。

読んでいただいて嬉しいです。
問題を起こさずに家庭を守る女性って、意外と男性の評価が低いんです。
で、崩壊してはじめてその空氣のような心地良さが認められる。
今回の作品のきっかけは男性陣の心ない語りにありました。
テレースは騒がず、飲み込む大人の対応を選びましたが、そうならずに崩壊している夫婦がたくさんあります。
まあ、いろいろありますよね。

コメントありがとうございました。
2012.09.06 17:20 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
こんばんは。ひんぬー党員のHIZAKIです。
良い旅を続けてらっしゃいますか?

若さに満ち溢れたロマンスという内容ではないのに、全体が優しく温い風に包まれていて、日常の一コマが本当に幻想曲(ファンタジア)になったように感じます。土地や空気、雰囲気や人が主人公たちの日常を非日常に変えてしまうのですね^^ よくある映画の1シーンで、レコード盤に針を置いた瞬間音楽が流れて場面が変わるような…

ではでは。今回のTOMO'sキッチンはチーズが主役です^^

HIZAKI


2012.09.06 17:29 | URL | #- [edit]
says...
序幕と終幕のモノローグいいですね。
こういう構成は考え付かないです。
パトリックとテレースはまさに剛柔夫婦といった処ですか。テレースの柔にある淑やかな強さがパトリックのおかげで引き立っている……ただそれを引き出したのは他ならないパトリックの情熱なんでしょうが(笑)
2012.09.07 04:02 | URL | #- [edit]
says...
おはようございます。
ひんぬ~者にもっと権利と愛を。
全国ひんぬ~愛好家普及協会推進部会次長の八少女です(^-^)/
部長大募集中。

旅っていいですよね。
日常から離れて五感を愉しむ事だけに向けられる、貴重な時間です。
私もあと二日、楽しみます。

チーズですか! じゃあ、私も出来ますね。
帰るの楽しみになってきました。
コメントありがとうございました。
2012.09.07 08:03 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
おはようございます。
同じ旅、同じレストランでも、見ているものや感じていることは違う、それを表してみました。
この二人、それなりにお似合いです。
夫婦って、こういうものなんじゃないかと思っています。
コメントありがとうございました。
2012.09.07 08:32 | URL | #9yMhI49k [edit]
says...
テレースがいいですね。
理想的な妻を演じていますが、実質はもっと好奇心旺盛で、
冒険好きで、挑戦的な女性なのではないかと感じてしまいます。
自分が今どのように振舞うのが一番いいのかを良く分かっていて、
自分でコントロールできてしまうんでしょうね。
こういう風に書かれると男ってとっても単純に見えてしまいます。
パトリック?全部ばれてるよ!
とても面白いです。
ウェイトレスにしても、彼女から見ると、
ペリスの方がやはり単純だなと思ってしまいます。
“ミランダに似た女は下唇をなめた”とか、いいですね。
こういう風なキャラは山西にはたぶん書けません。
でもなんていうんだろう。
そう、うらやましいです。書いてみたいです。
そう思いました。
テレースは、今日からの自分がどのように振舞うのが一番いいのか
を理解して、そう振舞うのでしょう。
おぉ!パトリック。幸せな男…!
2012.09.08 15:26 | URL | #0t8Ai07g [edit]
says...
うわお。

この話に、皆さんが反応してくださるとは、実は予想外でした。
賢い男性とそうでない男性がいるように、女性にも賢くない人ばかりではないと、そう思う氣持ちがあって。
いや、男性みんなが「女って馬鹿だし」と思っている訳ではないでしょうが、それでも「自分の、この件は、バレていない」と思い込んでいる人はよく見かけます。
男性がする事でも、女性がする事でも、何十年も連れ添った相手にはたいていバレますよね? ま、それをお互いにどこまで許せるかが長続きするかしないかの分かれ目なんでしょうね。

ミランダもどきみたいな女性、こっちにはよくいます。いろいろな人を観察して、小説に使うの、楽しいです。とくに完全な他人ほど、ガンガン使えます。知り合いだと、良心がとがめたりしますが。

コメント、ありがとうございました。
2012.09.08 21:07 | URL | #9yMhI49k [edit]

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