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scribo ergo sum もの書き・八少女 夕のブログ Since March 2012


Posted by 八少女 夕

【小説】夜のエッダ

実は、私は古代神話の類いがとても好きです。このお話の元になったのは「バルドルの死」という北欧神話です。もともとの神話とはかなりバルドルの印象が変えてしまってあります。私はみんなに愛される王子様のようなうさんくさいキャラに多少の反感があるのです。



ヴァルハラは光に覆われ、若草の匂いがあたりを満たしていた。いつもは宴にわく宮も今日はひっそりと静まり返っている。時折、フリッグ女神のすすり泣きやオーディン主神の漏らす溜め息、そして多くの神々や戦士が声をひそめて悲しげに語り合うのが聞こえた。ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み河の流れをうつろに眺めていた。光輝く神バルドルが死んでから一日が経った。バルドルはもう眼を開けない。ヤドリ木の小さな枝に貫かれて、珠の肌から真紅の血筋を滴らせ…。

ナンナは、バルドルの妃のナンナ女神は悲しみと、そして渦巻くほかの複雑な思いの中でヴァドゲルミルの流れに視線を任せていた。つと、魚の影が黒く走った。ナンナは怯えた。そして若草が力強く萌える岸辺の上に倒れ伏した。




オーディンの最愛の息子は光輝く清浄の神バルドルであり、彼はいつもヴァルハラにいて平和で満ち足りた日々を過ごしていたものだったが、最愛の娘はヴァドゲルミルの下流、人間界との接点、つまり戦場に身をおいていた。その名をブリュンヒルドといい、彼女がヴァルハラへ行くのは戦死した勇者をその宮へ送る時、つまりヴァルキューレとしてのつとめを果たす時だけであった。

ヴァルキューレたちはブリュンヒルドを女王と戴き、そして戦場に座る一人の神のもとに集まっていた。その神はオーディンとフリッグの間よりバルドルの双子の片割れとして生まれ出た。名をホズという。世界樹ユグドラシルが根付いてより倒れるまでこれほど似ぬ双子はなかったし、ないであろう。バルドルは光輝く金髪を柔らかに靡かせ、大空のような明るいブルーの瞳と薔薇色の唇を持ち、若い娘たちは彼の永遠の若さと美しさを讚え、恋し止まなかった。

一方、ホズは漆黒のまっすぐで細い髪を持ち、痩せて背は高く、瞼は開じられていた。ホズは生れながらにして物を見る能力を奪われた存在であった。彼は眼で物を見ることがない。だからこそ、運命を司る彼の役目は全うされていた。彼は常に戦場に座り、ヴァルキューレたちを遣わしては、死を迎えた勇士たちを舟に乗せヴァルハラへ送り込ませていた。彼自身は決して自らヴァルハラへ赴くことはなかった。彼はある意味で招かれざる客であったからだ。

ホズは口数の少ない内省的な性格だった。ヴァルキューレ達はほとんど彼と言葉を交わしたことがなかった。が、ブリュンヒルドだけは別だった。この勝ち気で美しいヴァルキューレの女王は沢山いる兄弟の中でもっともこの孤独な兄に親しみをもっていた。生まれたばかりの時からブリュンヒルドはこの兄の側にいたがった。ヴァルハラの神々に敬遠されてここで育つホズのもとに連れられて来た日、彼女はヴァルハラに帰るのを拒否し、それ以来二人でここで成長したのだった。これが、ブリュンヒルドがヴァルキューレとなったきっかけである。

ここには沢山のヴァルキューレ達がいたが、ヴァルキューレとなったきっかけは様々だった。女だてらに武装し戦って死んだためになった者、軍神の娘として生まれた者、それからナンナのように戦場に捨てられていたのを拾われてなった者もいた。ナンナを拾ったのは、ほかならぬブリュンヒルドだった。ナンナにとってブリュンヒルドは文字通り母親がわりだった。そのせいかナンナは他のヴァルキューレ達にくらべてホズのことも親しみをもっていた。

「まあ、雲雀が飛んでいきますわ」
ナンナは無邪気にホズの足許に座り込んで大空を見上げた。一年の半分以上が夜のこの国でやっと訪れる遅い春がナンナの最も好きな季節だった。ホズはかすかに微笑んで耳を澄ました。戦の合間のわずかなひとときだった。

「眩しいわ。フィヨルドに春の陽がキラキラ反射して…。何もかも新しくなる感じですわ」
「冬の間のおまえとは別人のようだな、ナンナ」
「ええ、だってあたし、冬は嫌いですの。寒くて、暗いんですもの」
ホズは雲雀の飛び去った方向へ顔を向けた。ナンナの明るい笑い声が空気に満ち、あたりが柔らかい光に埋まり、ホズの表情も和らいだ。

ブリュンヒルドはそんな二人を見て微笑んだ。ナンナは日に日に美しくなっていった。盲いたホズには、そのことはわからなかったが、ブリュンヒルドはいつの頃からか孤独なホズを慰められる唯一の希望としてナンナを見るようになっていった。

ブリュンヒルドがナンナにそうした期待を持つようになったのにはひとつの理由があった。ブリュンヒルドはヴァルキューレの女王にもはや自らがふさわしくないこと、近くここを追われて去るだろうことを予感していたのだった。

すべてはこのあいだの戦の時に変わってしまったのだった。あの時に会った一人の勇者とブリュンヒルドは一目で恋に落ちた。ブリュンヒルドは初めてホズの紡いだ運命に逆らった。ホズは勇者シグルドをオーディンのもとへ送るつもりだったのだ。だが、ブリュンヒルドはこの美しく逞しく勇敢な青年をすぐに死なせてしまうことが出来なかった。今まで一度だってそんなことはなかったのに。ヴァドゲルミルの舟に乗せる時にすばやくシグルドを列からはずし助けてしまったことは、どう考えてもヴァルキューレの女王の行為としてはふさわしくなかった。たとえまだ誰も気付いていないにしても。

「ナンナ」
ひとり舟に乗り、ブリュンヒルドはナンナを呼んだ。ナンナは無邪気に育て親の言葉に耳を傾けた。ブリュンヒルドは意を決して一気に話した。

「私はこれからヴァルハラヘ行きます。もう帰ってこれないと思うからあなたにお願いするわ。ホズのことを。あの人は私がいなくなったらあなたしか心を開ける人がいないの。私はそのことだけが心残りなの」

ナンナはあまりの驚きに一瞬言葉を失ったが、すぐに我にかえると説明を求めた。
「何故もう帰れないんですか。何があったのですか。ホズ様は知ってるんですか」
「誰もまだ知らないわ。何があったかはすぐにわかるわ。私はもうここにはいられないの。だから、お願いよ、ホズのこと。あなたにしか頼めないんだから」

その間に舟は静かにヴァドゲルミル河を滑りだす。ナンナは必死で追い掛けたが、それがブリュンヒルドの姿を見た最後になってしまった。


オーディンは最愛の娘の行状を烈火の如く怒った。フリッグ女神をはじめ皆が慌ててその怒りを沈めようとしたが、すべて徒労に終わった。オーディンはブリュンヒルドをスカティの森の城に閉じ込めて眠らせた。周りに火を廻らせ本当の勇者でなければそこへ辿り着けないようにしてしまった。

オーディンは、しかし、その勇者こそシグルドであることを知っていた。そのため、シグルドは名馬のグラニや名刀のグラムを手に入れることが出来たのだった。そのままうまくいけぱ、ブリュンヒルドは限りある命の間ではあるが、人間の娘としてあれほど望んだシグルドの妻となることが出来るはずだったのだ。


ヴァルハラでオーディンの意志にすら反して起こる不吉な運命にはいつも一人の神が関係していた。戯れから産まれし者…。巨人と神の血をひく大いなるはみ出し者と人は言う。なぜ神々を憎み禍いを呼ぶのかわからない。だが彼が来ると小さなヴァルハラの住人たちは蜘蛛の子のように散って行く。
「ロキが来た…!」

ロキは不可解だ。神々に禍をなすかと思えば、巨人達に立ち向かう神々の大いなる助け手となる。奸計に長け腰軽く、柔軟にして反逆者。醜い言葉はその口から泉のように湧き出る。

「ロキが来た…!」
バルドルは少し身を固くしながらこの招かれざる客を見た。ロキはバルドルを見ると、その整ってはいるが狡猾そうな顔を歪めて近付いて来た。
「これはこれは美しくも幸運に満ちたバルドル殿!今日は更にご機嫌麗しく!」

バルドルはこの厄介者の傍を早く離れたほうが得策だと知りつつも、尻尾をまいて逃げ出したなどと後で吹聴されるのだけはご免だと考えていた。

「君も元気みたいだね」
「こりや驚いた。世界の中心にいるバルドル殿がこのロキの健康を気遣うとはね。明日はこのヴァルハラに槍の雨が降りまさあ」

「相変らず口が悪いね。少しまともに人づきあいが出来ないのかな」
「人づきあいをおまえさんに指導されたくないね。なんせおまえさんは、あの誰とでも寝る売女のフレイヤに付き纏っていい返事を貰えないそうじやないか」
「驚いたな。何故おまえがそんなことを知っている。それにフレイヤを売女よぱわりするのは聞き捨てならないな。おまえと同じ巨人族出身じゃないか。もっとも比べ物にならないぐらい美しいがな。あれだけの女が人妻なのは惜しいものだ」

「人妻だろうと今までバルドル殿が気にしたことがありましたかね。バルドルに愛されれば女は尻尾を振る。フリッグのお気に入りの息子の行状に口を挟む命知らずはいない。バルドル殿はやりたい放題。まあ、あの唐変木の巨人にはそこらへんの予備知識はないから決闘ぐらいは覚悟するんですな。トールあたりに大袈裟な武器でも借りとくといいんじゃないですかね」
「物騒なことを言うなよ。そんなことを勧めるぐらいなら、もう少しましな提案をしてみろ。うまくあの別嬪との逢引を取りもってくれよ」

「さあねえ。夫もスカタンなら妻の方も顔ほど洗練されてないからね。それよりももっと耳寄りな情報があるんだがね。おまえさんが飛びつきそうなね」
「フレイヤより耳寄りな話があるもんか」

ロキは含み笑いをした。バルドルは背中に魚が走ったようにゾッとした。誰もがこんなロキの顔を見たことがある訳ではなかった。その時バルドルは、ロキの奸計にのせられて自滅した多くのヴァルハラの住人のことを思い出した。だが、バルドルは自分は他の誰とも違うと思い直した。天下のバルドルともあろう者が、チャンスを前にロキ如きを恐れて思うがままにならないなんて、どうして我慢ができよう!

「聞こうじやないか。それでおまえの条件は何なんだ」
「そうして俺の条件を訊いてしまったからには、もう後戻りはできないんだよ、バルドル」
「ああ、いいとも。何でも言ってみろ。そのかわりフレイヤとの逢引よりもつまらないことだったらおまえの首をへし折ってやる」

ロキはゆっくりと息を吸ってから左手をさしだした。バルドルは不審げに覗き込みおもわず息を飲んだ。ロキの左手の中には割れた鏡の破片があり、そこにはフレイヤに瓜二つの美女がほほえんでいた。バルドルにもそれがフレイヤではないことはすぐにわかった。フレイヤならば、そんなはにかんだ微笑みを見せるはずはなかったからだ。

「これは誰だ…」
「お気に召したかね」
「誰かと聞いてるんだ」
「これこそ真の美の女神、フレイヤ、あの売女のいかにも無垢な双子の妹だ」
「まさか。フレイヤに双子の妹が?」

「双子は不吉。その昔このロキ様に双子の片割れを戦場に捨ててくるように命じた神がいた。歴史は廻るもの、再び同じことを命じたのは今度はこのロキ様の親族の巨人様だった。だからこのロキ様はただ捨てるのではなく、不幸の種になるように同じ場所に捨ててきたのさ。そして乙女は知られる事なく美しく育ち、時は満ちた。さてロキがこんな情報を流すのを、まさか好意だとは思うまいね」
「もちろんだとも。何が目的だ」

「ひとつは、これからもちだす交換条件。もうひとつはあの売女が地団駄ふむ顔が見たいから」
「いいだろう。条件を言え。女の居所を教えてくれたら適えてやる」
「おまえの捕われの妹のブリュンヒルドをある王子が欲しがっている。運命をまげてその望みを適えてやるのだ」
「なっ…!」

バルドルの想像していた条件よりはるかに重大な交換条件だった。確かにオーディンの怒りを受けてヴァルハラからの永久追放を受けるこんな裏切りをやり果せるのは溺愛されているバルドルをおいて他にはいなかった。それを思った時、バルドルは優位に立ったと感じ、ロキヘの警戒をといた。このロキにだってバルドル様のご機嫌を取りながらお願いしなくてはいけないことがあるのか!

「ふん。なんとかしてやろう。じやあ女の居所を教えてもらおうか」
「名前はナンナ。おまえが大っ嫌いな兄の所にいるよ」

ロキは残念ながら、バルドルが思っているよりもすっと邪悪な計画を練っていたのだった。だが、幸運といえるのか、バルドルは最後までそのことに気付くことはなかった。ただ、ロキが思いも寄らず彼の兄ホズのことを口にした時、ふと、恐怖が彼の心に溢れた。バルドルはそれを幼少時の恐ろしい体験、思い出したくもない悪夢のせいだと思った。

たった一回、バルドルはホズに会った事がある。母の反対を恐れこっそりと戦場に来てみた幼い神はそこではじめて皆に打ち捨てられた兄に会った。双子だということが信じられない程自分とは異なった外見をしていたが、ブリュンヒルドが傍に座っていたためにすぐにわかった。ブリュンヒルドが惹かれた訳も同時にわかった。孤独な少年神は、バルドルがまだ子供時代の幸せを満喫していたのと同じ年月しか生きていなかったにも関らず、既に老人の心をもっていた。しかも、それでいながら体のまわりにみなぎる緊張とエネルギー、深い思慮、諦めとそれに対抗する竜のような黒い想いを絡ませ、それを沈黙というもっとも難しい表現方法で表すことのできる不思議な子供だった。

バルドルは子供らしい残酷さで彼に近付き、しなくてもいい事をいくつも彼の兄にした。ホズよりもブリュンヒルドがバルドルにくってかかり、ホズはむしろ憤る小さな妹を止めるのに必死にならなくてはならなかった。バルドルはついに真剣に腹をたて言ってはならない兄の肉体的欠陥に触れた。
「おまえのその見えない目が腐っているか見てやらあ。澄ました瞼を開けてみろ!」

そして、その日以来、バルドルは少しは用心深くなり、その証拠に念願の乙女の居場所を聞いて身震いした。七十匹の龍に守られた城に居ると言われてもこれほどの警戒はしなかったであろう。だが、結局はバルドルは生来の無鉄砲さを矯正する事などできない性質だった。そしてそれが愛すべきバルドルの魅力を更に増していたこともまた事実だった!


スカティの城で炎の林の中に眠っているブリュンヒルドは夢を見ていた。ブリュンヒルドは暗闇の中を走っていた。松明を掲げまっすぐに。だれも走り続けるブリュンヒルドを止めることができない。愛しいシグルドの手が触れ、見知らぬ男の手も触れたが、彼女は止まらなかった。それからニヤニヤと笑うロキの前を通り過ぎ、父のオーディンの見つめる前も彼女は行き過ぎた。そして静かなさざ波の音が聞こえてきた時、ふいにブリュンヒルドはこれが夢で、かつて自分が実際に見た事の再現だと気がついた。
(いったいどこで…?)

だが、それはちょうど目が覚める一時の鮮明な夢の記憶。ブリュンヒルドは、急に展開していく「人間の姫」としての短くも忙しい人生の幕開けに忙殺され、記憶を辿る暇をもたなかった。

開いた瞼の向こうにいたのは、誰でもないシグルドだった。シグルドの頬は紅潮し、ブリュンヒルドをみつめる眸には熱い想いがたぎっていた。それは燃えさかるまわりの炎だけのせいではなかった。ブリュンヒルドは、自分の恋の勝利に酔いしれた。自分もまた同じ眸を恋人に向けて。

ブリュンヒルドは熱いシグルドの腕にしっかりと包まれて城を出た。微かな記憶の中で知っている美しい馬が、城の外で待っていた。シグルドは、この天からの授かりもののグラニが自分以外の人間にこんなに親しげに近付くのを初めて見たので、驚くと同時に、自分が得た姫の尊さを更に強く実感した。それゆえ、名刀のグラムや名馬グラニと同じぐらい神聖で大切なこの姫を、その場で抱き締めて壊してしまいそうなほどの激情で想っていながらも、正式な婚礼を前に自分のものにすることを戒めた。

シグルドの国に着くまでには半月以上の旅が必要だった。毎晩、同じ天幕の同じ褥に横たわるブリュンヒルドの臈長けてしなやかな姿に、そしてシグルドを想うブリュンビルドの激しく本能的な苦しみに、シグルドは気も狂わんばかりの誘惑を感じたが、辛うじて、鞘から抜いて眩いばかりの光を放つグラムを二人の間に置くことによって耐え続けた。


「あれを見るがよい。あれがシグルドだ。ブリュンヒルドと生きるためには命すら惜しまぬ勇士。我々が手を貸そうとしているグンナルなど足許にも及ばぬ。さて、バルドル殿はどうやってあの二人を引き離し、約束を果たしてくれるのかな」

ロキは冷たく笑った。バルドルは、ただグンナルを美しく見せるといった簡単なことで事が運ぶはずもないのを見て取った。まもなく二人はグンナルの城へ到達する。なんとしてもここで二人を別れさせ、グンナルに約束の妻を与えねばならなかった。
「シグルドを殺してしまったらどうだろう」

バルドルの提案をロキははなから馬鹿にした。
「おまえさんは妹が人間になったからといって性格が変わるとでも言うのかね。厄介なのはあの女の誇り高くも強い性格なんだという事がどうして分からないのかねえ。ブリュンヒルドはシグルドが死んだらただ自害するだけさ」
「おまえの言う通りだな。さて、どうするか」

「もっと残酷な手を考えないとだめだ。ブリュンヒルドがグンナルと結婚するとしたら、彼女の強い意志で、そうさな、復響に燃えてでもしてもらうのだな」
「なんだって」
「シグルドヘの復讐ならぱするだろう?」
「シグルドの裏切りか。おまえらしい卑怯な手口だな、ロキ」
「手を下すのはおまえさんだよ、バルドル殿」

「いいだろう。シグルドが妹を裏切るようにしてみよう。どちらにしても今のあの男はブリュンヒルドを裏切るぐらいならオーディンにすら立ち向かいそうなほどに妹にいかれている。ちょうど私がナンナに夢中なように(だから、このバルドルの想いの方を私が優先しても悪いことはあるまい)。てっとり早いのは、妹の存在を一瞬でもこの男が忘れてしまえばいいのだ。そして、その前に美しい姫を差し出す。シグルドは、その姫と結婚してしまう」
「おあつらえ向きにだね、バルドル殿。ちょうどいい姫がいる。グンナルの妹で噂に高く誇り高い美女だ。名前は、グドルーン」
「では、この作戦はきっとうまくいく。なんせ忘却はこの私の得意技だ」


シグルドはグンナルの城につき、城主に一夜の宿を求めた。グンナルは、夢にまで見た美女がシグルドの後ろから顔を出したのを見て、何が何でも策略を成功させたいと願った。いささか身分にふさわしくない陰謀ではあったがそんな事はもはや少しも気にならなかった。シグルドとブリュンヒルドは何も知らすに運命の城に入った。
ロキはグンナルの母親に姿を変えて、バルドルの作った忘却の薬のたっぷり入った酒を寛ぐシグルドのもとに運んでいった。

「わざわざ恐れ入ります」
「お疲れが十分に癒えるよう、薬草を処方しております。どうぞ苦くとも一気にお飲み干しくださいませ」
そして、ロキはシグルドが薬を飲みほすのを確認すると満足して出て行った。

それから不思議なことがおこった。どういう訳かシグルドはブリュンヒルドに恋したこと、彼女を手に入れ自らの妻にしようとしたことをすっかりと忘れてしまった。シグルドはグンナルのためにかわりにブリュンヒルドを火の中から救い出し、そしてグンナルに渡したと思うようになってしまったのであった。そして、グドルーンと恋に落ち、あっという間に婚約をしてしまった。

ブリュンヒルドの方はなぜこの城に来てから、シグルドが一度も自分に会いに来てくれないのか、そして一夜の宿のはずがいつまでここに足止めされるのだろうと訝っていた。すると信じられないことにグンナルの妹グドルーンとシグルドが婚礼をあげるという話が聞こえてきた。

「そんな馬鹿なことがあるものか。あの人が一生を誓ったのはこの私。私は信じないわ。これは何かの誑かしに違いないもの」
ブリュンヒルドは部屋の扉を閉ざし、毎日求婚に来るグンナルに会おうともしなかった。

そうこうするうちに、シグルドとグドルーンの婚礼の夜になった。ブリュンヒルドは客人として上座に座らされ、朝からの盛大な祝いを青ざめて見ていた。花婿と何度か顔をあわせたが、あれほど自分を愛しているという確信のあった以前のシグルドとはうってかわり、ブリュンヒルドに対して挨拶する彼の表情からは、敬意以上の何かを感じることはできなかった。
(そんなはずはないわ。これは何かの間違いよ)

婚礼の宴がお開きになり、花嫁と花婿が新床をともにする時間になっても、ブリュンヒルドはひとりつぶやき統けた。涙を飲み込みながら、自室の冷たい褥で幾度も寝返りをうつうちに、ふいに部屋の外に誰かいることに気付いた。ブリュンヒルドはシグルドだと思った。あの婚礼はまやかしだったのだ。そして、彼はやはり私のものだったのだと。扉を開けるとそこには、シグルドの姿をした者が立っていた。ブリュンビルドはすぐに彼を部屋へ招き入れ、一夜を共にした。


朝になれば、術が解けてグンナルは元の姿に戻るだろう。すべてが首尾よくいったのを見届けて、バルドルは安心してナンナを口説くため戦場へ行った。灰色の戦場が薔薇色になるとはこの事だ。

はじめてナンナを見た時のバルドルもそうだったが、ナンナも、バルドルの様に美しい姿を見た事がなく、しかも、その神々しい人が自分に微笑みながら話しかけてきたので驚きたじろいで、どうしていいのかわからず、それでも今までの世界とすべてが変わってしまった。
(あんな方がこの世界にいらしたなんて…!)

バルドルの名を開いた時、ナンナは更に驚いた。
(あの方がバルドルさま!ヴァルハラで一番尊くて皆に愛されているという、あのバルドルさま。ああそうよ。どうしてすぐにわからなかったのかしら。私がこんなにもあの方の事ばかり考えるようになってしまう前にどうして身分違いを諦められる様に、バルドルさまと気付けなかったのかしら)

「ナンナ。このごろ何かを想い悩んでいるね」
はっとして意識を戻すと、ナンナはいつものようにホズの足許に座っていたのだった。ホズの言葉は優しく暖かかったが、いくら無邪気なナンナでもこれぱかりはホズに相談するという訳にはいかなかった。

バルドルは何度もナンナの元にやって来た。そのたびにナンナはこの戦場に春が訪れ始めるあの心地良さを味わった。バルドルなしで今まで生きてこられたことが不思議でならなかった。そして、その想いが強ければ強いほど、ホズに対する後ろめたさも色濃くなっていくのであった。

「僕には妃がいない。今までそんな事を考えたこともなかった」
バルドルはナンナに話しかけた。ナンナは不安げにバルドルをみつめた。なんて美しいのだろう。なんとしてでも妻として貰いたい。

「君しか考えられないんだ。ヴァルハラに来て僕と暮らしてほしい」
ナンナの頬は紅潮し、幸せとそれからその後に押し寄せてきた複雑な想いが交錯し、しばらくは何も言えなかった。半時ほど経ってやっと言った。

「わたし、あなた様の妻になれるほどの者でもないし、それにここを離れるわけにも…」
「何を言っているんだ、僕と結婚するのがいやなのか?」
ナンナは激しく頭を振った。大粒の涙が白い頬を伝わった。

「ヴァルキューレの代わりなんていくらでもいる。僕の妻になってほしいのは君だけだ。問題があるなら教えてくれ。僕がなんとかする」
「ブリュンヒルド様に頼まれたんです。ホズ様の傍にいるようにって」
「ブリュンヒルド…!ホズ!」

バルドルは慄然とした。バルドルはホズを恐れていた。徹底的にホズの側に立つブリュンヒルドに忌々しさを感じていた。だからといって仮にも妹をあんな風に苦しめていいはずがないことも心の隅で知っていた。いま図らずもナンナの口から出た二人の名前にバルドルは逆上した。

「ホズの傍になんかいてはいけない!あいつの恐ろしさを君は知らないんだ!」
「恐ろしくなんかないですわ。人づきあいは苦手ですけれど、優しくていい方ですわ」
「君はわかっていない。どうしてもわかりたければ教えてやる。あいつに頼んでみろ。目を見せてくれってね。そうすれば君は二度とあいつのもとで暮らす気になんかならないだろうから」
ナンナはバルドルが何を言っているのかわからなかった。


「いやああああ!!!!」
錯乱したナンナをホズはなんとか宥めようとした。

ホズは瞼を開けて目を見せてくれと言うナンナの申し出に乗り気でなかった。子供の頃バルドルを激しく恐れさせた何かをナンナもまた見るのではないかと思ったからだった。

ホズにはわからなかった。母親に自分を捨てさせ、皆に疎まれる何が自分の目にあるのか。だが、ナンナはきかなかった。ナンナがここのところ変わってしまった事をホズは寂しく感じていた。だが、ナンナは生き生きとし、幸せそうで、ホズはナンナの願いを適えてやりたかった。できる事なら何であれ。

しかし、ナンナもまた、バルドルと同じ反応を見せ、ふらつき、怯え、激しく身を捩るとホズの腕から逃げ出した。

「いやああああ。助けて!いや!近よらないで!」
ホズはもうナンナに触れる事ができなかった。こんな風に拒絶されて、他に何ができるだろうか。ナンナは駆け出し、その先に待つバルドルの胸に駆け込んだ。


ヴァルハラで空前の婚礼の宴が催されている間、ヴァドゲルミルの下流に一人座っているホズの前を小さな舟が通った。その舟にのっていたのは、死出の装束に胸を血に染めたブリュンヒルドだった。

「ホズ…。黄泉へ行く前に一度あなたに会いたかった」
「何故おまえが死出の旅に…?」
「私は、裏切られ謀られたの。愛する人の腕で死んでもいいとまで思ったのに、目が覚めた時にいたのはあの人ではなかった。わたしはグンナルの妻にならなくてはならなかった。それでも心の隅にシグルドを持つ事に苦しんでいたある日、グドルーンからグンナルとシグルドの二人にだまされていたことを知らされた。だから私は復響のために夫を峻してシグルドを殺させたけれど、私にも恥はあるし、シグルドのいない世界に生き延びるほど未練もない。自ら命を断ちました。

でも死んでから私が誰だったのか思い出したの。わたしはオーディンの娘、あなたの妹ブリュンヒルド。それで気がついたの。父は私を罰するためにこんな苛酷な運命を用意するような人ではないわ。何かの悪意を持つ誰かが運命をねじ曲げたのよ。

私はあなたが心配だった。無事なあなたを見る事が出来てうれしいけれど、あなたは寂しそうだわ。ヴァルハラは随分と騒がしいみたいだし、何かあったの?」

ホズはブリュンヒルドのいない間に起こった事を簡単に話した。
「ナンナは、それきり戻らなかった。ナンナに何かをして欲しかったわけではない。ただ、傍にいてくれる事が慰めだった。息づかいを感じ、あの笑い声を聞き、静かに話をして一日が過ぎていく、当り前の日々がただ続いて欲しかっただけだ。ナンナは一体何を見たのだろう。あんなに頑固なまでに望んだ私の瞼の奥に何を見て恐れたのだろうか」

ホズはブリュンヒルドに向けて瞼を開いた。彼の妹がその深淵を見たのは二度目だった。ブリュンヒルドは、はじめから恐れたりはしなかった。ホズは他の人々のように瞼の向こうに眼を持っていなかった。ただ、深く深い暗闇が、永遠ともいえる深淵がその窓の向こうに続いているのだった。

「あの子には耐えられなかったのよ。この深い闇の中で孤独に向き合う事に。バルドルもそうだった。誰ひとりこの世でこの闇から逃れることはできないのに」

「おまえには何が見える、ブリュンヒルド」
「わたしは私自身を見たわ」

スカティの森の城で見た最後の夢を思い出しながらブリュンヒルドは言った。
「暗闇の中を自分の松明だけを掲げて一人で走っていく自分の姿を見たわ。シグルドもグンナルも父もロキでさえも影響することはできても私を止めることはできなかった。私自身を動かしていたのは私ひとりだった。そして、これから私は黄泉の国でシグルドをつかまえる。もう二度と離れないつもり。それでよかったのだと思っているわ。あなたの事は心残りだけれど、でも、あなたがいなくなったら、運命がきちんと紡ぎだされなくなってしまうもの。あなたを連れては行けないわ」

「自分自身を知ることもできない私の紡きだす運命など、むしろなくなっていってしまえばいい。規則や決まり事に縛られることなく、大きな混沌の中の複雑な絡み合いの中で導き出される自然の成り行きこそが、本当の運命というものなのではないのか」

「それでも、混沌があなたを飲み込むまでは、あなたは仕事を続けなくてはならないのだわ。私はシグルドを救うことで運命の流れを変えたつもりだったけれど、結局シグルドをこの手に掛けた。これもすべて紡がれた運命の流れに沿った事なのかもしれないわ」

ゆっくりとブリュンヒルドの舟は岸を離れていった。声は小さくなり、さざ波の音だけしか聞えなくなり、ホズはまた自分の持つ暗闇と同じ孤独の中に一人残された。誰もいなかった。


バルドルは幸せになったつもりでも、そうではなかった。ナンナはいつも怯えていた。ブリュンヒルドの死が伝えられた。ロキは姿を見せなかった。これほどまでにヴァルハラは平和で皆がバルドルとナンナの結婚を祝ったが、バルドルの気分は沈んでいた。母のフリッグ女神が、沈んでいるバルドルの様子を見兼ねて訊いても、バルドルは本当の悩みを口にすることはできなかった。

(俺には妹を永遠の黄泉の国に送り込む気持ちなんか、本当にこれっぽっちもなかったのに!)
「どう考えてもおかしいですよ。バルドル。悩みがあるならば、どうかこの母に教えておくれ」
「それは…」

バルドルは、嫌々ながら作り話をした。自分が殺されて死んでしまう夢を見て心が晴れないのだと。夢なんか気にするなどいう軽い返事を期待して。しかし、フリッグはこの夢を重大な示唆だと考えて早速このことはヴァルハラ中の一大事件となってしまった。

「全ての火、水、鉄及びあらゆる金属、石、大地、樹、病気、獣、鳥、毒、蛇にバルドルには指一本触れない事を誓わせよう」

フリッグの言葉の通り、万物は誓い、バルドルに対し決して害を加える事ができなくなった。それでもまだ沈んでいるバルドルを慰めるため、ヴァルハラの住人は誰からともなく、何にも傷付かないバルドルに対して切りつけたり、射かけたり、石を投げたりする遊びが行なわれた。バルドルは怪我ひとつ負うことはなかった。

「ほら、ご覧。推もおまえを殺したりはできないんだよ。みんなから誓いを取り付けたんだからね」
フリッグがさも嬉しそうに言った時、それを間いていた見慣れぬ女がそっと言った。

「本当に全てのものから誓いを取り付ける事なんてできたのですか」
「ああ、そうだよ。そういえば、ヴァルハラの西に生えてたヤドリ木だけはあまりに若くてその必要もなかったから誓いはとってないけどね」

そういってフリッグもまたバルドルの的あてゲームに興じだした。女は、素早くその場を離れるとロキの姿に戻り、早速そのヤドリ木を引っこ抜きに行った。それからその若木を丁寧に削って小さな小さな矢を作った。


「何故おまえさんは、ヴァルハラの楽しい遊びに加わらないのかい」
ロキはヴァドゲルミルの岸辺にひとり座るホズに近付いた。ホズはロキの方に顔を向けたが、黙っていた。
「ヴァルハラでは、バルドル殿の不死を祝って大騒ぎだ。誰もその妹が人間として不運の死を遂げたことに気もとめずにね」

「バルドルがブリュンヒルドの死に関ったわけではあるまい」
「おやおや。運命を司るホズ殿のご意見とも思えないね。バルドル殿は関係してるとも。花嫁を手に入れる為に妹をグンナル如きに売ってしまったんだから。だけど、そんな事はもはや何の助けにもなるまいね。万物はバルドルを傷付けない。もうあの神を裁く事はできないんだから」

「おまえの言う通りだ、ロキ。バルドルは幸せに生きていけぱいい」
「だからおまえさんもこんなところで想いにふけっていないで、遊びに加わったらどうかね」
「私は、ヴァルハラでは歓迎されないし、投げるものも何もない。第一、何かを投げようにもバルドルが見えないよ」

「このロキですら加われる遊びなのに、兄のおまえが加わらないなんて!バルドルへの敬意を示したまえよ、ホズ。投げるものなんか何でもいいんだ」

ロキはホズをヴァルハラへ案内すると、先程の矢を持たせて言った。
「いいか、こっちの方向だ。そうそう、いいぞ」

ヴァルハラは神々の笑い声に満ちていた。冗談を言いつつ遊びを楽しむバルドルの若く張りのある声。フリッグの弾んだ喜びの声。ホズは、ブリュンヒルドの事を思った。ナンナの笑い声の事を思い出した。そして、一瞬だけ、はじめてバルドルの事を憎いと思った。そして、小さなヤドリ木の矢がバルドルの心臓めがけてホズの手を離れた時、暗闇の中を混沌が自分めがけて覆いかぶさって来るのを感じた。




ナンナはヴァドゲルミル河の岸辺に座り込み、河の流れをうつろに眺めていた。バルドルがホズの投げた矢に一瞬にして命を奪われ、ロキが高笑いして逃げ去り、そしてホズも又、バルドル殺しの犯人として生を奪われてしまった今、ナンナの世界は何ひとつなくなってしまった。つと、魚の影が黒く走った。ナンナはその黒さにホズの目の奥にあった独りぼっちの自分を思い出した。あの時、崩れそうな自分を抱き締めて支えてくれたバルドルは、もはやいなかった。ブリュンヒルドもホズも。そして自分で産み出してしまった孤独に耐えられずに、ナンナは倒れ伏して二度と起きる事はなかった。ナンナもまた混沌に食われてしまったのだった。

(初出 :1996年8月 書き下ろし)
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