【小説】大道芸人たち (3)フィレンツェ、椅子の聖母
大道芸人たち Artistas callejeros
(3)フィレンツェ、椅子の聖母
その日は定休日だった。三人がチームを組んで稼ぎだしてから、そろそろ二週間になる。定休日を設けようと言い出したのはレネだった。稔はずっと一人で稼いでいたので、定休日のことなど考えたこともなかった。蝶子は大道芸そのものが目新しかった。キリスト教徒のレネにとっては日曜日が定休日だったのだが、一番人通りの多い曜日に休む馬鹿がいるかと稔に指摘されてその案はひっこめた。基本的に雨が降れば、その日を定休日にする。でも、晴れている日が一週間続いたら、月曜日が定休日になった。そういうわけで、この月曜日に三人はゆっくりとフィレンツェを楽しんでいた。
蝶子はポンテ・ベッキオで銀の指輪を買った。唐草模様の細工がきれいなもので、人差し指につけて太陽にかざして楽しんでいた。
レネはウフィツィ美術館でボッティチェリの金箔押しのタロットカードを買った。そして嬉しそうにカードを切っていた。その鮮やかな手さばきに、稔と蝶子の目は惹き付けられた。隣のテーブルの人まで、身を乗り出して見ている。
レネはカードを扱うときだけは、青二才ではなく大人の顔つきになる。謎めいてもののわかった様相だ。手品は職業だが、カード占いは趣味だった。自分でも当たるとは思っていない。しかし、不思議なことに、迷う人間はいつもレネの差し出すカードの中から的確なカードを一枚引いてしまうのだった。
レネは黙ってカードを広げて、稔に差し出した。稔はおそるおそる一枚引いた。なんだかわからないままそれを表に返す。
「愚者。逆位置。何か軽率なことをしたか、どこかに心残りがある」
稔は少しだけ顔色を変えた。蝶子はちらりとその顔を見て、当たっているのね、と思った。
「私も引く」
レネはもう一度カードを切り直して、今度は蝶子に差し出した。蝶子はそっと一枚引いて表に返した。
「また逆位置だな。塔か。全てを一からやり直す。必要な破壊」
「ふ~ん」
蝶子は口の端で笑った。いいカードを引いたじゃない、私。
「見直したわ。大したものね」
「僕に能力があるんじゃありませんよ。あなた方が選んで引いたんです。僕は、一般に言われている解釈を口にしただけ。でも、誰でも心残りややり直しの希望があるもんじゃありませんか?」
レネはそう言った。
「俺たちのカードが入れ替わっていても、大したものだと思うか?お蝶よ」
「ううん。私はドンピシャなのを引いたと思うわ」
「俺もだ」
稔はその後しばらく口数が少なかった。
稔は二人と違って、余分なものを何も買わなかった。レストランで食べるときも、カフェでも最小限の値段のものばかり頼んだ。一緒に稼ぎ、収入を折半し、同じ所に寝泊まりしているので、蝶子には稔の収支のことがだいたいわかった。蝶子には新しいワンピースを買ったり、比較的高い料理を頼んだりしても問題ない金額が手元にあった。もちろん高級ホテルに泊まったり、最高級レストランに行くような余裕はない。けれど、ここまで稔が切り詰めている理由が今ひとつわからなかった。
稔は金の亡者といってもよかった。レストランで食べた分はきっちりしか払わない。レネがワインやチップや蝶子の分を進んで負担したがるのと対照的だった。仕事のときも、儲かる時間帯や場所にこだわった。
だが、チームを組んでから三人には暗黙の了解ができていた。お互いのことは詮索しない。蝶子がフェリーで泣いていた理由を稔が訊かない以上、蝶子も稔の事情に踏み込む氣にならなかった。レネの方は問題なかった。誰も訊いていないのに、勝手にぺらぺらしゃべるのだ。
「パリで、僕はムーラン・ルージュの近くのナイトクラブで手品のショーをして生計を立てていたんです。アシスタントのジョセフィーヌは、こぎれいなパリジェンヌで、長いことアタックしてようやく同棲にこぎ着けたんですよ。でも、ある日買い物から帰ってくると、同じクラブで働いていたラウールがジョセフィーヌとベッドの上にいましてね。仕事もアシスタントもいつの間にかラウールだけのものになってしまっていて。それで何もかもイヤになってコルシカの叔母の所に行こうと思ったんです」
レネがメガネをずり上げながら、淡々とそんな話をするので、蝶子と稔は顔を見合わせた。
「じゃあ、なんでコルシカでのんびりしなかったんだ?」
「叔母のところにラウールそっくりのいけ好かない男がいました。叔母に邪険にされたんですよ」
蝶子はクスッと笑った。
「うちの家系なんですよ。手に負えない相手に惚れちゃうんです」
そして、切なそうに蝶子を見つめた。
「俺は手に負えない女なんかごめんだ」
蝶子は面白そうに先を促した。
「どんな女性が好みなの?」
「可憐で優しくてかわいい子」
「ふ~ん。そういうのは見た目よりしたたかなのよ」
「それでも、そういう子じゃないとその氣にならないんだよっ」
三人は爆笑した。
蝶子はその後ひとりでパラティーナ美術館に行った。ラファエロのコレクションが充実しているので、一度足を運んでみたかったのだ。二人は「絵はもういい」と言ってボーボリ庭園に行った。蝶子は他の絵には目もくれず、サトゥルヌスの間に直行した。『大公の聖母』『椅子の聖母』『フェドラ』『マッダレーナ・ドーニの肖像』などのラファエロの名作が並んでいるのだ。
その部屋に佇んだ時、蝶子はようやく「ああ、これでよかったんだ」と思った。七年間もヨーロッパにいて、一度もここに来ていなかった。蝶子の七年間はすべてミュンヘンにあった。ゼロから積み立てた巨大なバベルの塔。それが崩壊した。必要な破壊。どうしてもあそこから逃れなくてはならなかった。それはわかっている。けれど、ここまで社会から離脱した逃避行が必要だったのだろうか、それが蝶子の疑問だった。日本に帰ってもよかった。親のもとに、私が間違っていましたと言って。
けれど蝶子が選んだのは、稔とレネとの奇妙な旅だった。愚者の旅立ちだ。
『椅子の聖母』は横目でこちらを見ながら、微笑んでいる。聖母というよりは悪戯をしたがる若い女性。宗教画ではなくて人生の楽しみを奨めるしなやかな表情。それが蝶子の心を肯定した。私は自由になっていいのだ。苦しむのはもう終わりにしよう。
蝶子は『椅子の聖母』の絵はがきを買った。
待ち合わせのカフェに行くと、ちょうど稔も着いた所だった。
「レネはもう中にいるはずだ。俺は、まず郵便局に寄ってくる」
「近くなら、私も行こうかしら」
「そこだよ」
それで蝶子は稔に付いて郵便局に入っていった。
もともと誰かにハガキを書こうと思っていたわけではない。けれど、郵便局で不意に誰かに送ってみたくなった。実家に書く。すぐに却下した。ミュンヘン。論外。日本の数の少ない友人の住所はどこにもない。その時ふいに思い出した。千代田区に住む園城真耶。お嬢様ぶりが住所にも現れていた。一丁目一番地一号。その住所はクラスで一時話題になったものだ。蝶子は真耶の住所を『椅子の聖母』のハガキに書いた。「元氣?蝶子」それだけ書いた。
「おい。お蝶、助けてくれよ」
稔の声で我に返った。稔は窓口で蝶子を呼んでいた。
「英語が通じないんだ」
蝶子は、窓口に行って稔の手元にある札束を見て片眉を上げた。
「この金を日本に送りたいんだ」
それは結構な金額だった。一ヶ月分の稼ぎに当たるくらいの金額だった。送金先は安田家ではなく女性の名前だった。エンドウヨウコ、ふ~ん?
送金を無事終えた時に、蝶子がついでに差し出したハガキを見て稔も「おや」という顔をした。園城真耶に?仲悪かったんじゃないのか?
「お前が園城真耶と仲良しだったとは意外だな」
「仲良くないわ。なぜか急に思い出して送ってみたくなったのよ。住所も知っていたし」
「それだけ?」
「ええ。もっとも、実は一ヶ月くらい前にたまたま遇ったのよ」
「どこで?」
「ザルツブルグ音楽祭」
「へえ?」
「短い間だったけれど話をしたの。あの時はまだ同業者だったからね」
今は、ずいぶん違う世界にいるけれど…。
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Comment
こんばんは!
今回は、レネさんの失恋の詳細がやっと一話と繋がり過去の一部が明らかになって、思わず
クスッと笑ってしまいました。
また、タロットとリンクしたかのような蝶子さんの心の行方がとても興味深かったです。
八少女 夕さんは、「さりげなさ」がとても上手ですよね・・・今回は、それをすごく思いました。
映画のようなおしゃれでスパイスの効いた会話に、軽快なテンポの展開、登場人物の心情や
過去も、さらって風や空気のように織り込んでいらっしゃるのに、ちゃんと意味として伝わってきます。
これって、すごい事だなあと思います。
ドロドロより、さらっとした心情表現の方が実は難しいんじゃないかと思うのです。
また続き読みにきます!
引き続き執筆頑張って下さいね^^
今回は、レネさんの失恋の詳細がやっと一話と繋がり過去の一部が明らかになって、思わず
クスッと笑ってしまいました。
また、タロットとリンクしたかのような蝶子さんの心の行方がとても興味深かったです。
八少女 夕さんは、「さりげなさ」がとても上手ですよね・・・今回は、それをすごく思いました。
映画のようなおしゃれでスパイスの効いた会話に、軽快なテンポの展開、登場人物の心情や
過去も、さらって風や空気のように織り込んでいらっしゃるのに、ちゃんと意味として伝わってきます。
これって、すごい事だなあと思います。
ドロドロより、さらっとした心情表現の方が実は難しいんじゃないかと思うのです。
また続き読みにきます!
引き続き執筆頑張って下さいね^^
こんにちは!
嬉しいなあ。滅多にないお褒め言葉がじ〜ん。
ありがとうございます。
目下の課題は説明臭さをとることなんですが、まだまだなんです。
基本的に私が小説を書く前は、自分の目の前に映画を放映している状態にして
それを映し出すように書くんですが、上手く映像にならなかったり、超クサくなったり。
難しいものです。
今後とも修行を続けていきますので、どうかお見捨てなきよう。
頑張ります。
またどうぞよろしくお願いします。
嬉しいなあ。滅多にないお褒め言葉がじ〜ん。
ありがとうございます。
目下の課題は説明臭さをとることなんですが、まだまだなんです。
基本的に私が小説を書く前は、自分の目の前に映画を放映している状態にして
それを映し出すように書くんですが、上手く映像にならなかったり、超クサくなったり。
難しいものです。
今後とも修行を続けていきますので、どうかお見捨てなきよう。
頑張ります。
またどうぞよろしくお願いします。
春です〜こんばんは☆
稔さんの様子も気になりますし、
パピヨンさんらぶですが、
今回はレネさんが可愛かった&カッコ良かったですね!
> レネの方は問題なかった。誰も訊いていないのに、勝手にぺらぺらしゃべるのだ。
てところの、可愛いさと平和さにほっとしました。
また続きを読むのが楽しみです〜*^^*
稔さんの様子も気になりますし、
パピヨンさんらぶですが、
今回はレネさんが可愛かった&カッコ良かったですね!
> レネの方は問題なかった。誰も訊いていないのに、勝手にぺらぺらしゃべるのだ。
てところの、可愛いさと平和さにほっとしました。
また続きを読むのが楽しみです〜*^^*
こんばんは〜。
いつもありがとうございます。
この辺が、一番思わせぶりに謎があるんですが、そのうちに、謎もへったくれもなくなります。読者には。
レネのヘタレぶりは、深刻になりがちな話を軽くしてくれる役目を負わされていますね。次回は、出し惜しんでいた重要メンバーがすべて出てきますので、お楽しみに〜。
コメントありがとうございました。
いつもありがとうございます。
この辺が、一番思わせぶりに謎があるんですが、そのうちに、謎もへったくれもなくなります。読者には。
レネのヘタレぶりは、深刻になりがちな話を軽くしてくれる役目を負わされていますね。次回は、出し惜しんでいた重要メンバーがすべて出てきますので、お楽しみに〜。
コメントありがとうございました。
蝶子さん、ミュンヘンで何があったんでしょう。涙の訳は?
稔が送金したエンドウヨウコさんって誰なんでしょうね?
少しずつ明らかになっていくんでしょうね。楽しみです。
私も以前、某サイトで「いちいち説明臭い」と言われたことがあります。
加減が難しいですね。言葉が少なすぎて伝わらなければ意味がないし。
稔が送金したエンドウヨウコさんって誰なんでしょうね?
少しずつ明らかになっていくんでしょうね。楽しみです。
私も以前、某サイトで「いちいち説明臭い」と言われたことがあります。
加減が難しいですね。言葉が少なすぎて伝わらなければ意味がないし。
こんばんは。
私あまり秘密をおいておけない質らしく、最初の数話でほとんどの秘密開示してしまいます。
イタリアの旅の終わる頃には何の秘密もなくなっておりますのでご安心ください。
説明をさりげなくするのって確かに難しいです。
ヒロハルさんの小説は、今読ませていただいている最新作で三つ目ですが、全然説明臭くないですよ。
とても読みやすいなと感心しています。
読んでいただけて嬉しいです。
コメントありがとうございました。
私あまり秘密をおいておけない質らしく、最初の数話でほとんどの秘密開示してしまいます。
イタリアの旅の終わる頃には何の秘密もなくなっておりますのでご安心ください。
説明をさりげなくするのって確かに難しいです。
ヒロハルさんの小説は、今読ませていただいている最新作で三つ目ですが、全然説明臭くないですよ。
とても読みやすいなと感心しています。
読んでいただけて嬉しいです。
コメントありがとうございました。