【小説】願い
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「scriviamo! 2015」の第五弾です。limeさんは、「Infante 323 黄金の枷」のヒロイン、マイアを描いてくださいました。
limeさんの書いてくださった『(イラスト)黄昏の窓辺…黄金の枷のマイア』
limeさんは、登場人物たちの心の機微を繊細かつ鮮やかに描くミステリーで人氣のブロガーさん。昨年はアルファポリスで大賞も受賞されたすごいもの書きさんです。穏やかで優しいお人柄も魅力ですが、さらになぜこんなに絵も上手い、という天も二物も三物も与えちゃうんだな〜、というお方です。
昨年の蝶子に続き、今年描いてくださったのは、初マイア! いやあ、嬉しいですね。この世界はじめてのイラストですから。で、もともとこの企画用に描いてくださったこのイラスト、トリミングして本編でも使わせていただきました。マイアが夕陽を見ているシーンだったので。limeさん、本当にありがとうございました。
そして、お返しは、このイラストのシーンを丸々使わせていただいて、外伝を書きました。イラストのマイアが夕陽を見ているというのが、私には何よりもツボでして、こうなったら隠れ設定をあれこれ出して、この話を書くしかない! と、思ってしまいました。つい先日発表した外伝「再会」の数日後という設定なので、やはり現在発表している本編の時系列では四ヶ月後くらい先の話です。マイアはまだ休暇中で館の外にいます。
なお、この作品に関しては、本編を読まないと意味の分からないことが多いかもしれません。下のリンクはカテゴリー表示ですが、一番上は「あらすじと登場人物」ならびに用語の紹介になっていますので、手っ取り早く知りたい方はそちらへどうぞ。
【参考】
![]() | Infante 323 黄金の枷 |
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願い
——Special thanks to lime san
その部屋は柔らかい光に包まれていた。ボルサ宮殿からほど遠くない、街の中心と言ってもいい立地にあるのに、居間に通されて扉が閉められると、今通ってきた喧噪が嘘のように静かになった。
「今、奥様がお見えになります。少々お待ちください」
マイアよりももっと若く見える使用人の女性が言った。
ドン・アルフォンソの主治医であるジョアキン・サントス医師の自宅にはこれまでなんどか来たことがあった。マイアが子供の頃からの家庭医で、マイアの母親の病にあたっても彼が力を尽くしてくれた。
母親が亡くなって以来、身内に《星のある子供たち》が一人もいなくなったマイアには、サントス医師は問題が起こった時に頼ることの出来る唯一の存在だった。
二度目の休暇が終わりに近づいた九月。マイアはサントス夫人から自宅に来ないかと誘いを受けた。ドラガォンの館に勤めるにあたって、マイアの推薦状を書いてくれたのは他ならぬサントス医師だったし、ドラガォンの館に出入りしているサントス夫妻の前では、沈黙の誓約に縛られて何も言えないということはなかったので、マイアは夕食の誘いを受けることにした。
マイアは心地のいいソファに緊張して座っていた。丁寧に使い込まれた、品のいい木製のテーブル、明るく夕方の光に溢れた室内。ドラガォンの館の重厚な家具は、時に重苦しさを感じることがあるが、この部屋の家具は優しく女性的だった。サントス夫人の穏やかで優しい笑顔を思いだして、マイアは微笑んだ。
部屋の奥に、黒い大理石の大きな板がかかっていた。同じようなものをどこかで見たと思った。ああ、ドラガォンの館の食堂に掲げられている系図と同じ色だ。代々の当主の名前が刻まれ、金色に彩色されたその大理石板にはマイアはあまり興味を持てなかったが、この部屋にかかっている大理石には、文字ではなくレトロな世界地図が彫られていた。この国、この街が中心となっていた。大航海時代、この国にとって世界が征服すべき驚異で満ちていた頃。マイアは、同じように船に乗って海の向こうへと行ってみたいと思っていた子供の頃を思いだした。
今のマイアにとっては、その世界地図よりもずっと心惹かれるものがあった。ソファに立てかけられたギターラ。彼の奏でる音色が、彼女の中に響いた。明後日にはまた逢える。一日でも早く休暇が終わればいいと思っていた。今、何をしているのだろう。私がこんなに逢いたがっているなんて、きっとあなたは思いもしないんだろうな。
彼女は、立ち上がってギターラのそばへ行くと、そっと弦に触れた。澄んだ音がした。震える弦は空氣を研ぎすましていく。ギターラはどこにでもあった。子供の頃からたくさんこの音を聞いてきた。けれど一度だってこれほど特別な楽器ではなかった。あなたがこれを特別にしちゃったんだね。マイアは心の中で23に話しかけた。
手首の腕輪に光が反射して、マイアは窓を見た。太陽が西に傾き、D河にゆっくりと降りて行こうとしていた。彼女は、窓辺に立った。いつも惹き付けられた夕陽。彼との出会いの記憶。きっと私は生きている限り、こんな風に夕陽を見続けるんだろうな。
静かにドアが開いて、イザベル・サントス夫人が入ってきた。彼女は窓辺ですっかり夕陽に魅せられているマイアの姿を認めて、立ちすくんだ。マイアの髪は赤銅色に輝いていた。瞳は輝き、わずかに微笑んでいた。イザベルは感慨にひたって、しばらくマイアと夕陽に染まっていくギターラを見つめていた。
マイアがそれに氣がついて、振り向き頭を下げた。
「すみません、つい見とれてしまって」
イザベルは笑った。
「いいのよ。私の方こそ、つい想いに浸ってしまって」
マイアはわからないというように首を傾げた。イザベルはメガネの奥の目を細めて微笑んだ。
「ドン・カルルシュが、今のあなたを見たら、どんなに喜んだことでしょう」
「ドン・カルルシュ……?」
マイアもその名前は知っていた。23の亡くなった父親、ドラガォンの前当主のことに違いない。だが、マイアは当然のことながら、全く面識がなかった。
「今日は、よく来てくださったわね。どうぞ座って。以前、ドンナ・マヌエラのお手紙を届けてくださったときは、すぐに帰ってしまったから、いつかはゆっくり話をしたいと思っていたのよ」
ドンナ・マヌエラの使いで久しぶりに逢った時、夫人の髪が銀色に変わっていることや、ずいぶんふくよかになったことで時間の流れを感じたが、その穏やかで優しい人柄には前と同じようにほっとさせられた。
「本日は、お招きいただきましてありがとうございます」
マイアははにかみながら言った。
「ジョアキンはいま診療所を出た所ですって。もうしばらくしたら戻るでしょう。今日はゆっくりしていってね。今、軽い飲み物を持たせるわ。ジンジャは好きかしら?」
スパイスの利いたさくらんぼリキュールのジンジャはアルコール度数が高いので、マイアがあまり強くないことを知っているイザベルは氷を入れて出してくれた。
「あの……」
イザベルは、マイアの戸惑いを感じ取ったようだった。
「ジョアキンが帰ってくる前に言った方がいいかしらね。今日はね、実はあなたのお父様に頼まれたの」
「父が……?」
「ええ。フェレイラさんは、あなたのことを心配していらっしゃるの。何か悩みがあるみたいだけれど、誓約があるから聞いてやることが出来ない、代わりに力になってくれないかって」
マイアは、うつむいた。
「父が、そんなことを。ダメですね、いくつになっても心配ばかりかけて……」
「ドラガォンの館はどう? 困っていることはない?」
マイアは顔を上げてはっきりと言った。
「とてもよくしていただいています。ご主人様たちはみな親切で、メネゼスさんや、ジョアナには、失敗をたくさん許してもらっているし、それから他の人たちにも、親切にしてもらっています」
「そう。フェレイラさんの思い過ごしかしら」
「いいえ。でも、それは個人的なことなんです。誰にもどうすることもできない……私が、見ちゃいけない夢を見ているだけなんです」
マイアがそう言うと、何か思い当たることがあるのか、イザベルは控えめに微笑んだ。
「そう。あなたが想うのを、禁じることが出来る人はどこにもいないわね。あなたの夢と願いを大切にしなさい。きっとそれがあなたの人生を実りあるものにしてくれるでしょうから」
「……はい」
イザベルは、手を伸ばしてマイアの視線の先にあるギターラを手にとり、そっと弦に触れた。明るく澄んだ音がした。マイアは、また心が23に向かうのを感じた。
「先ほど、ドン・カルルシュの話をしたでしょう」
その言葉に、マイアははっとして想いを夫人に戻した。
「セニョール323が、十四歳くらいの時だったかしら。ドン・カルルシュがここでこのギターラをご覧になってね。だれかギターラのレッスンをつけられる《監視人たち》か《星のある子供たち》を知らないかっておっしゃったの。それで、私の長くついている先生をご紹介して……。もともと才能がおありになったのでしょうね。あっという間に私を追い越して……。もう長く拝聴していないけれど、とてもお上手でしょう?」
「はい。上手い下手という枠組みをはるかに超えて、素晴らしい音楽です。聴く度に心が締め付けられるようになります」
イザベルは、マイアの想いに沈んだ様子を、優しく眺めて続けた。
「たった二つ、それしか望んでくれなかった……。ドン・カルルシュはそうおっしゃったわ」
「?」
「ずいぶん昔の話よ。まだ、セニョール323が子供の頃、ドン・カルルシュは意図せずに取り返しがつかないほど深くその心を傷つけてしまったんですって。彼が閉じこめられてすぐにそのことがわかって、心から後悔して、許しを請いにいかれたそうなの。その時のことを、氣づくのが遅かった、遅すぎたと泣きながらジョアキンに打ち明けられたの」
「23は、いえ、セニョール323は、お父上を許さなかったのですか?」
マイアが意外そうに訊くと、イザベルは首を振った。
「怒った様子も、批難する様子もお見せにならなかった。でも、それと心を開くということは違うわよね。あの方がほとんど誰とも関わろうとしなくなってしまったのは、ご自分のせいだとドン・カルルシュは生涯悔やまれていらしたわ」
「それで……?」
「ドン・カルルシュは、ご自分に可能なことなら、どんな願いでも叶える、わがままを言ってほしいとセニョール323におっしゃったそうよ。もし、彼が望むなら《監視人たち》の中枢と戦ってでも、格子から出してもいいとまで思っていらした」
「彼は、それを望まなかったんですか」
「望んでいらしたでしょうね。でも、おっしゃらなかったそうよ。館の外に出てみたいとも、学校に行ってみたいとも、その他のありとあらゆる望みがあったでしょうに、ドラガォンにとって難しいことは何一つおっしゃらなかったそうよ。たった二つの小さい望みを叶えてもらうために、我慢したのだと思うわ」
マイアは、ジンジャの中の氷が全て溶けてしまっていることに氣がついた。グラスが汗をかいている。
「彼の望みって……」
「一つは、ギターラを習いたいということ。そんな時に言うまでもない望みよね。そんな小さなことまで、自分からは言えないでいたなんてと、ドン・カルルシュはショックだったみたい。そして、もう一つが、あなたのことだったのよ」
「私のこと?」
「セニョール323は、自分が話しかけたために、あなたとあなたの家族がナウ・ヴィトーリア通りに強制的に引っ越しさせられてしまったことをずっと氣になさっていらしてね。あの子が前のように河で夕焼けを見られるように、どうかあの一家を元通りにしてほしいと、そうおっしゃったんですって」
マイアは大きく目を見開いて、イザベルの言葉を聞いていた。
「すぐに元に戻してあげたくても、フェレイラさんはもう新しい職場で働いていた。あなたたちはもう新しい学校に通っていた。フェレイラさんのもとの職場には新しい人が働いていて、その人にも家族がいて生活があった。だから、ドン・カルルシュにもすぐに彼の望みを叶えてあげることは出来なかったの。セニョール323は二度と、その願いを口になさらなかったし、あれからどうなったかとお訊きにもならなかった。だからこそ、ドン・カルルシュはなんとしてでもあなたたちを元に戻して、セニョール323の願いを叶えてさしあげたかったのでしょうね。それから、何年間も働きかけ続けたのよ」
「知りませんでした……」
「大きな書店を買い取って、その店長の職をさりげなくオファーしたり、元の店の同僚をもっといいポジションに引き抜いて場所を作ったり……。でも、フェレイラさんは、長いことチャンスをことごとく断り続けたの」
「父が?」
「ええ。フェレイラさんは、何度もドラガォンに抵抗して、大切なものを失い続けてきたから、これ以上大切なものを失いたくなかったんだと思うの」
「抵抗?」
「あなたのお母様と結婚したくて、映画みたいな逃避行を繰り返して。その度に《監視人たち》に止められて。仕事を失ったり、財産を失ったり、家族に縁を切られたりと散々な目に遭ったのよ。最終的にあなたのお母様はこれ以上フェレイラさんを苦しめたくないからと、人工授精であなたを産むことで、《監視人たち》とフェレイラさんの闘いに終止符を打ったの」
「まさか」
「そうなの。だから、あなたのお母様が亡くなられた時に、《監視人たち》の中枢部は、虐待される可能性があると、あなたを引き取ろうとしたの。そうしたらフェレイラさんは、もう一度大騒ぎを起こしたのよ。世界中を敵に回しても、絶対にマイアは渡さないって」
イザベルは、面白おかしい話のように語ったが、マイアには全てはじめて聞くことだった。
「そう言う事情があったので、どんなにうまい話が来ても、不安だったんじゃないかしら。うかつに戻ったりしたら、今度こそあなたを取り上げられるんじゃないかって。ドン・カルルシュの意向だと始めから言えばよかったのかもしれないけれど、それを言ったらドラガォン嫌いのフェレイラさんに断られるかもしれないので、中枢部はあくまで偶然を装ったの。だからいつまで経ってもフェレイラさんは不安を拭えなかったのよ。あなたが十分に大きくなるまで」
「知りませんでした。父は、何も言ってくれなかったから……」
「そう、言ったらあなたが《星のある子供たち》としての存在に苦しむと思ったんでしょうね。血は繋がっていなくても、フェレイラさんはあなたのことを娘として深く愛しているから。お母様とのなれ初めも、それに伴うドラガォンとの確執も、それから、お母様との短かったけれど幸福だった結婚生活についても口に出来ないのよ」
マイアの瞳に涙が溢れ出した。一人だけ腕輪を嵌められて、つらいことばかりだと思い続けてきた自分はなんて勝手だったのだろう。
「フェレイラさんが、ようやくセウタ通りの書店に勤められることが決まって、レプーブリカ通りにまた住むことが決まったのは、四年前だったわよね。ドン・カルルシュが亡くなる少し前のことで、もう大層お悪かったんだけれど、ジョアキンがそのことをお知らせしたら泣いて喜んでいらっしゃったんですって。セニョール323とその話をなさったかまではわからないけれど」
窓辺はすっかり暗くなっていた。河に沈む夕陽を眺めれば、悲しいことを忘れられる。それは自分しか知らない小さな楽しみのつもりだった。マイアはずっと知らなかった。23は自分の自由を犠牲にしてマイアの小さな幸せを願い、ドン・カルルシュが生涯にわたって氣にかけ、サントス医師夫妻や、多くの《監視人たち》がその願いを実現しようと骨を折り続けていた。そして、父親は血のつながっていない自分のために苦労して心を砕きつづけてきた。
いまマイアは、ドラガォンの館の夕陽のもっとも美しく見える部屋から、河と、それから鉄格子の向こうの優しい人の影を見ることができる。私は不幸でもなければ、一人ぼっちでもなかったんだ。ずっと、十二年も、いえ、生まれたときから。関わった全ての人たちの、優しさと、願いと、想いの助けを得て、大人になり、一番いたい場所にきて、いつまでも存在を感じ続けていたい人の近くで、夕陽をみていられる。
サントス医師が帰って来た。イザベルは食堂へ行くようにと誘った。マイアは、涙を拭いて頷いた。話を聴けてよかったと思った。休暇が終わる前にお父さんとワインを飲んで話をしよう、それに、明後日、館に戻ったら、23に今日の話をしてみよう。お互いの父親の子供を思う愛について、彼はなんて言うんだろう。
(初出:2015年1月 書き下ろし)
追記
Gounod: Concerto for piano-pédalier and orchestra (1889), III: Adagio ma non troppo
この小説が感傷的なのは、この曲をBGMにしていたからです。あ、試し聴きをなさる場合、最初だけ聴いてやめちゃうと「暗い曲」って印象しか残りません。2:00以降もぜひ聴いてみてくださいね。
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